« 『藝州かやぶき紀行』への旅 2 | トップページ | トラバント、ハイウェイスター…? »

2008年12月 7日 (日)

『藝州かやぶき紀行』からドイツの炭鉱住宅への旅

 

 『藝州かやぶき紀行』をめぐって、日本の近代化過程の、さりげないが見事な記述というようなことを書いた。

 屋根職人の技術の映像記録の背後に広がる、広島の近代、日本列島の近代の姿。

 昨日は、広島の屋根職人の九州への出稼ぎの実際と出会う映画上のエピソードから、日本の近代化に伴う農村の生活の変化について書いてみたわけだ。

 土地への定住という農業生活の基本が、出稼ぎという形での、他の土地への移動を余儀なくされる過程。

 近代化=工業化という側面を支える炭鉱労働者、そして工場労働者の供給源としての農村。

 九州の炭鉱へ、働き口を求めて移住する広島の農村出身者。その住宅の屋根を葺きに、九州を出稼ぎ先とする、広島の屋根職人の姿については、昨日、触れておいた。

 先週の日曜日に、古書店で、相馬保夫 『ドイツの労働者住宅』 (山川出版社 2006)を購入した話を書いた。

 書中に、19世紀ドイツにおける、炭鉱労働者用住宅をめぐる記述がある。

 関連する話題を抜書きしてみよう。

 著者は、

 

 (1)19世紀のドイツでは、農村から職を求めて大量の人たちが都市や工業地帯に流入し、いわゆる社会問題が発生した。そのなかで焦点にのぼった労働者の住宅問題を工業化・都市化との関連で、さらに国民国家、ナショナリズムと戦争・ジェノサイドの世紀における住宅問題の諸相を振り返ることによって、ドイツの近代化の一側面を照らし出すこと。

 

と、著書のモチーフのひとつを説明している。
 その上で、本文中には、

 

 1871年にドイツ帝国を構成することになる諸地域において、「大衆的貧困(パウペリスムス)」が深刻な社会問題・住宅問題と認識され、社会主義と関連づけて論じられるようになるのは、三月前期から48年革命にかけての時期である。しかし、ベルリンでは、すでに19世紀前半、対ナポレオン解放戦争後の時期に、急激な人口の増加にともない貧困な下層民衆の集中の問題があらわれていた。とりわけ、その北部、市壁の外側にある郊外フォークトラントには、この時期、日雇い、工場労働者、困窮した手工業者などの無産者(プロレタリアート)が大量に流れ込んできた。

 なぜなら、第一に、プロイセンのシュタイン・ハルテンベルクの改革によって、世襲隷農制が廃止され、農民に移住と職業選択の自由が与えられた結果、彼らは日雇い、奉公人、織工として都市に殺到した。

 

という記述がある。

 明治維新の結果、封建的身分制度は廃止され、廃藩置県により、移動の自由も農民のものとなった。

 農村を離れた人々は、あるいは都市住民となり、あるいは炭鉱労働者となり、あるいは新たに興された様々な産業の工場労働者となって雇われることになったわけである。

 そして、その住居の確保という課題も生まれる。

 

 …、ルール地方では、とりわけ1830~40年代からドイツ関税同盟の成立、鉄道建設の本格化を契機にして、鉄と石炭を主軸とする工業地帯が形成されていく。19世紀中葉から泥炭岩層を突き抜ける深部採掘が可能になるとともに、炭鉱地帯はルール川一帯から北上し、都市の基盤整備や住宅建設が人口の増加に追いつかない状態になった。遠方から労働者を募集し、企業に確保しておくために、大規模な社宅団地の建設が推し進められるようになった。ルール地帯でもっとも早いその例として、オースタフェルトに建設されたのがアイゼンハイムである。

 それまで街道沿いの町を除けば、ほとんど荒野と農村だった地域は、炭鉱や工場の設立、その周辺の労働者住宅の建設によってみるみるうちに巨大な工業地帯に変貌していった。

 ルール北部に進出したルールの炭鉱は、近隣出身者だけでは労働力が不足したことから、ドイツ東部に募集人を派遣して炭鉱に労働者を勧誘した。社宅団地の建設は、石炭・鉄鋼の大企業では、年金や疾病金庫などと並ぶ企業内福利政策の重要な一環として位置づけられ、企業に必要な労働力を確保し、鉱夫の頻繁な職場移動を防ぐとともに、会社に忠実な基幹労働者を育成するため、大規模に進められていた。なかでもエッセンのクルップ社は、「一家の主(ヘル・イム・ハウゼ)」として専制的な経営をおこなう一方で、従業員の利益と福利のために、市内に低廉で広い社宅団地の建設を1860年代から推し進めたことでよく知られる。

 

…という記述は、まさに北九州の工業地帯の成立にも当てはまるだろう。

 その上で、戦後の日本の企業について言われた「日本的経営」の姿を、クルップ社による1860年代の社宅団地建設の推進は先取りしていた、と言うことも出来そうである。

 同時代の九州の炭鉱で、広島の屋根職人たちは、炭鉱労働者住宅の屋根葺きに忙しかった、というわけだ。

 農村での生活も、農村を離れての炭鉱や都市の労働者としての生活も、どちらも大変に苦しいものであった。

 しかし、同時に彼らは、士農工商という身分制度からは解放された「国民」として、軍隊での暮らしを経験することになる。

 徴兵による軍隊での生活は、高学歴者には理不尽極まる世界であったにせよ、ぎりぎりの暮らしを余儀なくさせられていた農村出身者たちにとっては、衣食住にわたる保障の用意された場であったことも忘れてはならないだろう。

 明治期には、屋根職人たちの故郷は、中心に「軍都・広島」を抱くことになる。

 近代国家となった日本の軍事的中心のひとつとなるのである。

 昭和20年8月6日の広島の受難もそこに起因するわけだ。

 『藝州かやぶき紀行』には、家族を原爆で失ったことを語る、屋根職人の言葉も収録されていた。

 

 

 工業化・都市化との関連で、さらに国民国家、ナショナリズムと戦争・ジェノサイドの世紀における住宅問題の諸相を振り返ること

という『ドイツの労働者住宅』の著者の問題意識は、『藝州かやぶき紀行』の底流にも、さりげなく、共有されている。

 そのように言うことも出来るだろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/06/01 22:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/68662

 

 

|

« 『藝州かやぶき紀行』への旅 2 | トップページ | トラバント、ハイウェイスター…? »

『藝州かやぶき紀行』」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/25976685

この記事へのトラックバック一覧です: 『藝州かやぶき紀行』からドイツの炭鉱住宅への旅:

» 住まいを語る―体験記述による日本住居現代史 [ロドリゲスインテリーン]
住まいを語る―体験記述による日本住居現代史 [続きを読む]

受信: 2009年12月19日 (土) 15時36分

« 『藝州かやぶき紀行』への旅 2 | トップページ | トラバント、ハイウェイスター…? »