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2008年12月 7日 (日)

トラバント(マルクスのハンドル?)

 

 時代遅れな感じ、というものはある。

 まぁ、「感じ」の話だ。

 要するに「今」はこれじゃないよ、という「感じ」。

 しかし、時代に関係なく、時代を超越したナニカ、というイメージもある。

 昔も今もなく、これだよな、って感じか?

 「感じ」が問題である以上、それを感じられるかどうか、という問題も、そこにあるわけだ。

 当人が「時代遅れ」と感じるセンスを持ち合わせていなければ、今でもこれでいい、ってことになるだろう。

 いや、センスというものを持ち合わせていないということは、そもそも今でもこれでいいのかどうかという、問い自体が生み出されない状態だろう。

 そんなことは気にしない、というより気にすることを思いつかない、ということであるに違いない。

 とは言いつつも、流行に気を捉われ続ける状態がいいかどうか、ということもある。

 当人のセンスの問題というよりは、情報処理能力の問題に過ぎなくなってしまうような気がしてしまうわけだ。そこでの課題は、最新流行が何であるかについての情報を常時確保するだけの話になってしまう。

 つまり、流通する情報に従属するだけのことなのだ。当人にとっての「今」が問題にされることはなく、流通する情報により評価される「今」だけが、当人の判断基準となっている状態。

 まぁ、ショーバイ上は、理想的な顧客にはなってくれることだろう。シナモノの中身に関係なく、それが最新流行であるという情報さえ流せば、それが購買に直結するという消費者の存在。もっとも、当人達に、購買力を支える収入があっての話ではあるけれど…

 最新流行が何であるかという問題とは別に、当人にとっての「今」の問題は存在しうるのかどうか?

 どっちかといえば、そっちが気になる。

 自分の中で終わってしまったこと、という感覚はあるだろう。

 周りがそれで盛り上がっていようと、最早それは、自分にとっての「今」の問題ではなくなってしまっている状態。

…というのは、しかし、「時代遅れな感じ」とは別の感覚であるなぁ…、と、この文章のスタート地点を読み返して思う。

 要するに「時代遅れな感じ」っていうのは、「自分にとっての今の問題」ではなく、「時代にとっての今の問題」なんだなぁ、と、あらためて考え直すわけだ。

 個人としての「私」にとっての「今」が問題となるのではなく、ひとつの「時代」として、社会的に共有された、歴史的な「今」が問題化されている、というわけだろう。

 私の「こだわり」の問題ではなく、社会的に共有されたセンスの問題とでも言うべきだろうか?

 まぁ、社会的にそのようなセンスが共有されているだろうという想像の共有により成立する社会とセンスを共有しているだろうと想像する私の問題、というのが正確な表現であるのかも知れないが…

 時代がどうであれ、流行がどうであれ、私にとっての「今の」問題があり、私にとっての「今な」センスがある。

…と言い切ってしまってはどうだろう?

 トラバントのデザインは古い。時代遅れなものだ。

 しかし、今では、そのレトロさが魅力でもある。

 決して時代を超えたグッドデザインであるとも思わないが、「時代遅れ」状態を脱し、レトロな「いい形」が、今ではその魅力になってしまった。

 しかし、その性能は、文字通り「時代遅れ」なものであり、誰の「こだわり」の対象にもならないだろう。

 つまるところ、ベルリンの壁崩壊に伴い、壁の向こうからあふれ出したトラバントの姿は、時代遅れのものでありながら「新しいこと」としてのある種の経験を、私達にもたらしたのだ。

 現役で生きていた、つまりいまだ最新型であり続けていた、しかし「時代遅れな」トラバントという存在。

 デザイン的な「時代遅れ」状態はともかくも、テクノロジー面でのあまりな「時代遅れ」ぶり。

 それを生み出した東独という国家のあり方。

 共産主義者に率いられた国家のあり方が、トラバントというクルマに集約的に現れていた、ということであろうか?

 これは理想として語られる「共産主義」の問題では、もちろん、ない。

 「共産主義」の実践者、共産主義の前衛であると自己規定した党に指導された国家が、現実に生み出した生産物の問題なのである。

 イデオロギーの問題ではなく、生産物の問題。観念の問題ではなく、排ガスとして大量の汚染物質を撒き散らし続けたクルマの存在が明らかにしてしまう問題なのである。

 反共主義者の熱狂的な叫びよりも、トラバントの排ガス。

 リクツの問題ではなく、モノが示す問題なのであった。

 そして古いモノが、新しいコトを照らし出した、ということであろうか?

 しかし、また一方で、共産主義の描き出した理想が、再び「新しいこと」として見出される可能性も否定出来ないのもまた、ベルリンの壁崩壊から20年近い資本制社会の「今」、歴史の「今」の現実であろう。

 懐古趣味としてではなく、「今」の問題として考えることが出来れば、人類の未来に少しは希望の光を感じることは可能になる(と思いたい)。

 それは、マルクスの文言を正しく読むことへのこだわりからは決して生まれないだろう。

 「今」を感じるセンスこそが問われるに違いない。

 

 

 

追記 : ドイツ民主共和国国歌「廃墟からの復活」を動画でご紹介。

Auferstanden aus Ruinen ( Die DDR National Hymne)
  (→http://jp.youtube.com/watch?v=UDDpV50-lZA&feature=related)

作曲は、ハンス・アイスラー。

廃墟となったベルリンから始まり、東独を脱出するトラバントの車列で終わるという、洒落た構成(?)の画像である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/13 18:06 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/78634/user_id/316274

 

 

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