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2008年12月 3日 (水)

生き残るということの意味

 

 生き残ることについて考えてみたい。


 自分が生き残ることが、誰かの命と引き換えになってしまうような状況について。


 昨日、「東京大空襲・戦災資料センター」を再訪し、展示品を見ながら、あらためて考えさせられたことだ。

 実はこのところ、過去に録画したドキュメンタリー映像を見直していた。東京大空襲をはじめ、ヨーロッパの無差別爆撃の歴史や、爆撃機のエピソードといった映像である。

 焼夷弾による都市無差別爆撃がもたらす被害には想像を超えているところがある。
 火の勢いは、あまりに強く、1000度を超える熱さとなる。ガラスも融け、人間が燃える。熱風が生じ、嵐のように吹き荒れる。世界が燃える。燃焼により酸素が奪われ無傷のままに窒息死する。

 安全な場所は誰にもわからない。

 熱風は、人が逃げる速度を超えて吹き荒れ、火に追われてきたはずが、火に逃げ道を閉ざされる。
 避難者の列が火の壁となる。燃える人間が道を塞ぐ。


 必死で猛火の下を逃げまどい、結果として生き残っていたことに気付くのである。


 かろうじての安全地帯も収容人数は限られている。入れた者は助かるかも知れないが、すべての者が逃げ込むわけにはいかないのだ。入り口は閉ざされなければならない。入れた者達が生き残るためには。
 生き残った者は、翌朝には、逃げ込むことの叶わなかった者達のおびただしい無残な死体に出会う。
 自分が生き残るために、彼らの死があった。

 安全な防空壕に家族を残し、自分にはもう入る余地がないので炎の中を逃げ、翌朝、防空壕に戻ってみれば、全員が蒸し焼きになっていたという体験者もいる。
 家族の安全を確保し、危険に身を投じたはずの自分が生き残り、家族は炎の犠牲となっていた。結果として、守ろうとした家族を殺したのは自分である。

 安全な場所は誰にもわからない、とはそのような状況なのである。

 プールに逃げた者もいる。後から後から逃げ込む人をかき分け押し戻しながら自分の場所を確保しないと、深みに追いやられ溺死することになる。朝を迎え、溺死した者達の積み重なった死体の上に立っていたことに気付く。死体の中に自分の家族の姿を見つける。自分の家族を踏み台にすることによって生き残ったということになる。


 生きている自分、生き残っている自分について考えざるを得ない。他の者の死が、現在生きている自分を支えているのである。他の者の死と引き換えに、現在、生きている自分が存在するのである。
 他の者が家族であり、愛する者であるという体験を想像出来るだろうか。

 生き残ることが出来た喜びは、同時に愛する者を喪った悲しみであり、しかも愛する者の死に、自分が責任を負っているという感情に伴われるものとなる。


 自分が生きるためには、人を押しのけることを当然と考える者も確かにいるだろう、この世の中には。
 しかし、多くの人間にとって、自分が生き残ったことが、他者を死に追いやったことと引き換えに得られたものだという事実は、簡単には受け入れ難いものとなるだろう。もちろん、その状況に責任があるわけではない。しかし、引き換えとなって死んでいった者達への責任を感じることなく、その後の人生を生きることもまた難しいものとなるのである。


 東京大空襲、あるいは都市無差別爆撃の犠牲者だけの問題ではない。戦争が究極的に個人にもたらすのは、そのような状況なのである。
 中国残留孤児は、家族の犠牲となったのでもあるし、残留孤児となったために他の家族と共に死ぬことを免れていたかも知れないのである。残留させられることも、引き揚げることも、どちらも確実な生きる保障につながるものではなかったということだ。
 最前線の兵士にとっても、強制収容所の被収容者にとっても、生き残るということは、誰かの死と引き換えにもたらされるものとなるのである。


 都市無差別爆撃は、そのような状況を市民に強いるものとなった。

 昭和20年3月10日、2時間の空襲で、被災者100万人、死者10万人だ。夜明けとともに、自分が生き残ったことは理解出来た。しかし、やがてそれは10万人の死と引き換えの生存でもあることに気付かされることになる。
 一晩の空襲の結果、100万人もの市民が、そのような経験に巻き込まれたのだ。10人に一人の死者ということは、誰か遠くの知らない人間の死と引き換えに生き残ったのではなく、自分の命は親しい誰かの命と引き換えに得られたものだという経験として意味付けられることになるのである。

 近代的戦争、総力戦が市民にもたらしたのは、そのような経験であったのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/27 22:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/39175/user_id/316274

 

 

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