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2008年12月 7日 (日)

相互理解への航海(あるいは漂流)

 

 気付いた時には、日曜の夜も終わりだ。

 たぬき男いたち男氏は、有意義な暇潰しの一日を過ごすことが出来たのだろうか?

 こちらは少しだけ、写真の整理をしたのだが、残量の方が遥かに大きい。

 「遥かに大きい」という表記はどうなんだろうか、「遥かに多い」と書くべきなんでは、と思い悩みながらの進行である。

 結論を出さないままに、先へ進む。

 たぬき男いたち男氏のコミュニティ、「希望同盟」のアシスタントを務めるようになって以来、月日も過ぎた。

 いつからだったかは記憶にないくらいだ。

 たぬき男いたち男氏は、当人も公言しているように、統合失調症で通院中の身の上である。

 日常のコミュニケーションでも苦労しているに違いない、という推測は、ネット上のお付き合いをしている私からも、容易に出来る。

 ネット上のコミュニケーションのお相手をしている身である私にとっても、互いの意思の疎通に、思いもかけぬ苦労を感じることも多い。

 もちろん、これは相互的な問題なのであって、たぬき男いたち男氏にとっても、当人にとって当然のことが、相手からはまったく理解されないという状況であることは確かだろう。

 人間同士のコミュニケーションの多くは、言葉に依存している。

 そのように言い切ることは、必ずしも適切ではない、と言うべき側面ももちろん存在する。

 対面的なコミュニケーションの場では、言葉の意味そのもの以上に、口調や、身振りや視線のあり方等の様々な身体表現が、多くの意味を相手に伝えることになる。

 相手との関係の親密さが増すほどに、言語外の表現は、コミュニケーション上の比重を増すものだ。

 逆に言えば、相手との距離が増すほどに、言葉そのものの意味に依存したコミュニケーション能力が必要となる。

 そこでは、自身の表現力と、相手の理解力の相互関係に、コミュニケーションの成否がかかることになる。

 相手の理解力を無視した表現は無効となるのだ。

 相手の未熟な表現力を無視した、表面的、あるいは一面的な理解もまた、コミュニケーションの成立を阻むことになる。

 自分の意図を相手が理解出来ないのは、相手の理解力の問題なのか、自分自身の表現力の未熟さの問題なのか、そこから考えておく必要がある。

 日常のコミュニケーションであれ、ネット上のコミュニケーションであれ、基本的な構図に変わりはない。

…という話は、あまりに当たり前なことに過ぎないと思うのだが、現実の人間関係でのトラブル、ネット上のコミュニケーション上での多くのトラブルを振り返ってみれば、あまり当たり前のこととして理解されているようにも見えない。

 通常の社会生活能力のある人間同士のコミュニケーション上でのトラブルの多くが、実際には、相互の表現力と理解力の非対称性への想像力を欠いたところから生じているように思えるのである。

 同じテーマ、同じ対象を論じているように思えても、相互の興味関心の焦点にはズレがあって当然である。

 まず、そのことへの想像力が必要だろう。

 その上で、常に自らの表現力及び理解力の限界に自覚的になりながら、対話なり論争なりを進めることが大事なのだと思う。

 ネット上におけるコミュニケーション・トラブルの問題を主題としながらでも、人は時として、そのことへの自覚を欠いたり、配慮を失っている自分に気付くことなくエキサイトすることが出来てしまうのだ。道は遠いのである。

…と、普段の実生活であれ、ネット上生活であれ、人と人とが出会い、互いに理解し合うことは、思うほど簡単なことではない。

 現実には、相互理解への努力よりは、細かいことは気にしないという態度により、トラブルは未然に防がれているようにさえ見える。

 少なくとも、自分自身がどれだけ他者の思いを理解出来ているのかを問うてみれば、他人に対して、自分への十二分な理解を求めることの不当さには気付くことが出来るはずだ。

 自分への十分な理解を他者に要求することは、相当に自己本位な、他者という存在のあり方への想像力を欠いた態度であるという側面に気付くことが出来るかどうか?

 ここで私の言っているのは、相互理解への努力の放棄ということではない。

 相互理解への努力へのスタート地点がどのような場であるのか、その点についての現実的認識に関してなのだ。

…というのは、少なくとも通常の社会生活の上で支障のないということになっている人間同士の関係、精神科の診断名とは無縁であると当人同士が考えている中でのコミュニケーション上のトラブルについての一考察であった。

 先に書いたように、たぬき男いたち男氏は、精神科の診断名と共に生きて来た存在である。

 実際問題として、コミュニケーション上の障害はより大きいような気がしてしまうことも確かである。「実際問題として」、それは何より経験上の出来事でもあった。

 しかし、相互に他者である存在という意味では、精神科の診断名は、それほどに大きなものなのだろうか?

 正直なところ、そこはよくわからない。

 精神科の診断名とは無縁であるはずの人間同士の間に生じるコミュニケーション・ギャップの大きさも、時として、越え難く感じられるものだ。

 まぁ、いずれにせよ、相互理解への努力を放棄することは、当面はないだろう。

 「希望同盟」という泥舟の航海(漂流)は、まだしばらくは続きそうである。

     「希望同盟」 → (http://www.freeml.com/epsilon_delta_25

(「希望同盟」は、その後、オーナーであるたぬき男いたち男によって、突然、ネット上から削除された → 現在は存在しない 2008年12月7日記)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/07/14 01:08 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/72763/user_id/316274

 

 

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