« 無差別爆撃の論理 2 | トップページ | 国体の精華としての特殊慰安施設協会 »

2008年12月 7日 (日)

情けない日本の私(特殊慰安施設協会史ノート)

 

 高見順の『敗戦日記』、昭和二十年十一月十四日の条に、

 松坂屋の横に Oasis of Ginza と書いた派手な大看板が出ている。下にR.A.Aとある。Recreation & Amusement Association の略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。「のぞいて見たいが、入れないんでね」というと、伊東君が、「地下二階までは行けるんですよ」
 地下二階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の三階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、三階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼紙があった。「支那人と犬、入るべからず」という上海の公園の文字に憤慨した日本人が、今や銀座の真ん中で、日本人入るべからずの貼紙を見ねばならぬことになった。しかし占領下の日本であってみれば、致し方ないことである。ただ、この禁札が日本人の手によって出されたものであるということ、日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたものであるということは、特記に値する。さらにその企画経営者が終戦前は「尊皇攘夷」を唱えていた右翼結社であるということも特記に値する。
 世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が――。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。
 日本人は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと「慰安所」の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。
 戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。

という記述がある。

 以前から気になっていたのだが、今回、参加しているMLで、「パンパンガール」や「従軍慰安婦」が話題となっているのを読み、あらためて周辺を調べてみた。

 そのMLへの私の投稿内容、参加者のレス等が、本日のネタ元である。

 ネット検索の結果、佐藤正晴氏の論文、「占領期 GHQ の対日政策と日本の娯楽」(http://www.meijigakuin.ac.jp/~soc/fuzoku/nen/nen35ronbun/35sato.pdf)を発見。

 その「第2章 占領期の文化政策と RAA  第2節 RAA の実態」に、問題のRAA(特殊慰安施設協会)設立の経緯として、

 

 1945年8月18日、 RAA は、 東久邇稔彦首相と近衛文麿副総理、 外務大臣重光葵、 内務大臣山崎巌、 大蔵大臣津島寿一らが、 「日本婦女子の純潔が性に飢えた進駐軍兵士らに損なわれる」と心配し、 内務省による占領軍向け性的慰安施設の設置を指令、 この 「進駐軍のための特殊慰安施設を可及的すみやかに整備せよ」 という無電指令が、 内務省警保局長から全国の警察網に伝えられた。 これをうけて同年8月23日、警視庁の高乗保安課長が東京都の料理飲食業組合長宮沢浜次郎と総務部長渡辺政治を招き、「防波堤を作って婦女子を守りたい」 と協力を訴えたことに端を発する。
 この日、 発表された警視庁の方針と計画の中に、 「できれば、 公娼・私娼・芸妓・酌婦、 料亭・旅館・ホテル・ダンスホールなどを一ヵ所にあつめて、 総合的な大歓楽街をつくってもらいたい」 とあり、 この時点でダンスホールのような娯楽施設と公娼や私娼といった売春施設の差異が明確に考えられておらず、 これらの存在を別個に切り離そうという警視庁の意向が弱いものであったことが窺える。
 こうして同年8月26日に政府出資の事業資金3300万円で進駐軍特殊慰安施設の運営団体として RAA が警視庁に設立認可の申請をし、 2日後の8月28日、 22名の理事全員が皇居前広場で宣誓式を行った。 RAA に対する接客とダンスホールの許可は第八軍軍用娯楽施設課長ウイルソン大佐が与えている。

 
という時系列での、日本側の対応が示されている。

 確かに、事態は、高見順が、

 世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が――。

 戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。

と書いた通りなのであった。

 佐藤正晴の記述を用いれば、

 同年8月26日に政府出資の事業資金3300万円で進駐軍特殊慰安施設の運営団体として RAA が警視庁に設立認可の申請をし、 2日後の8月28日、 22名の理事全員が皇居前広場で宣誓式を行った。

とある通り、日本政府主導の下に、政府資金により設立されていたのである。

 また、民間での対応として、

 また RAA 以外でも、 アメリカ軍向けのクラブを作ろうという動きはあり、 代表的なものとして、 1945年10月に安藤明によって作られた「大安クラブ」 がある。 ここではアメリカ側との公式交渉にワン・クッションを置く民間外交の役割が期待された。 また長屋式の鳩の街や焼けビルの吉原とちがって、 大きなダンスホールを持ち、 ジャズのすきなアメリカ兵に快適な満足をあたえたと思われるのは、 小岩のインターナショナル・パレス (後の東京パレス)であり、 ここにも寄宿舎の食堂を改造したダンスホールが設営された。

 
という動きも紹介されている。

 ダンスホールには、娯楽施設という側面もあるが、一方で RAA の提供するサーヴィスの性的側面については、

 だが現に東京の33ヶ所の施設はどこもアメリカ兵が殺到し、 性風俗の紊乱と性病の蔓延に手をやいた。 RAA 協会以外のダンスホールにも、いろいろと風紀上の問題点があり、 ダンサーにも週1回の性病検診が強いられた。 これはアメリカの一方的強制というよりも、 治安面からオフ・リミット (立ち入り禁止) を恐れる日本の当局の指導と、 業者の自発的協力もあったようである。 なにより基本として GHQ は、 公娼がデモクラシーの理念に反すると考えていた。
 1946年1月21日 「日本における公娼廃止に関する覚書」 がマッカーサー元帥代理アレン中佐から出され、 内務省では同年2月2日内務省令第3号を公布、 即日これを施行して同日各庁府県に対し警保局長をもって警保局公安発第9号「公娼制度廃止に関する件」 の通達が発せられた。 この公娼制度廃止は GHQ へのアメリカ本国の世論の圧力と民主主義的政策のたまものであった。
 これらを理由に、 同年3月10日、 占領軍当局の命令によって、 RAA 所属のすべての慰安所に進駐軍将兵が立ち入ることを禁じられた。

と書かれてる通りであろう。

 巷間では、「米軍が占領下の日本で米軍専用売春施設を作らせて大々的に活用したことなど余りにもよく知られた事実」というような俗説も流通しているらしいのだが、現実の歴史的事実関係は、日本政府が主体的に「米軍専用売春施設を作らせ」たのであるし、その「米軍専用売春施設」を閉鎖させたのは占領軍当局の方であった、ということなのだ。

 そして、

 RAA 自体は1949年4月22日、 RAA は上野の観光閣で臨時総会を開き、 正式に幕を閉じたのである。

という結末を迎えることになる。「慰安所」閉鎖後も占領軍向け娯楽施設運営主体として、1949年までは存続していた、ということのようである。

 以上が、「特殊慰安施設協会」 (RAA) をめぐる、歴史的事実関係として基本的に押さえておくべき事項、ということになるのだと思う。

 高見順ならずとも、どうも情けない気持ちにさせられる、この国の歴史の断面である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/26 20:13 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/83143/user_id/316274

 

 

|

« 無差別爆撃の論理 2 | トップページ | 国体の精華としての特殊慰安施設協会 »

特殊慰安施設協会史ノート」カテゴリの記事

コメント


櫻井よしこ
「もう1人の韓国の教授は今度は、サンフランシスコ州立大学の、人類学の教授で、サラ・ソーさんという方なんですが、大半の慰安婦の女性たちはみんな、あの、騙されて連れて行かれて、強制連行されたという風に言われてるけども、それは事実ではないと。彼女たちは自分の運命がどういうものかということを知っていましたと書いてあるんですよ。で、何でそういったその、苛酷なね、身を売らなきゃいけないっていう運命の所に行ったかというと、当時のその、父親とか、夫によって売春宿に売られたり、もしくは一家を貧困から救うために、もう否応なくそのような選択をしたんだと。そしてその当時の朝鮮社会というのは、儒教的父権社会であって、ここで女性は使い捨て可能な人的資源として使われてた。これ私が言うんじゃないんですよ。サンフランシスコ州立大学の、サラ・ソーさんという韓国系の学者が書いてることなんです」

投稿: Radorotle | 2015年2月18日 (水) 10時18分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/25988079

この記事へのトラックバック一覧です: 情けない日本の私(特殊慰安施設協会史ノート):

« 無差別爆撃の論理 2 | トップページ | 国体の精華としての特殊慰安施設協会 »