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2008年12月 3日 (水)

オランダ人にとってのナチスの強制収容所と日本軍の収容所という問題への入り口日記

 

 10月も一週間経過。

 大金欠終了以来、買い物づいている。

 パソコンディスプレイ兼用の26インチテレビ。

 収納用ワゴン。

 デジカメ。

 そして、本日はパソコン本体。

 デジカメ購入に新宿まで出かけた際に、オーディオ関係のカタログを持ち帰ってしまった。危ない。

 まぁ、残りの金の使い道は限定されている状況なので、これ以上、むやみに買い物する状況にはないのだが、二階のオーディオセット①のアンプとCDプレイヤーの不具合を考えると色気が出てしまう。

 今後は衝動に注意、だ。

 6月以来、仕事の異動(?)で、帰りが遅くなったが、読書時間は確保出来てしまった(なんてステキな仕事でしょう!!)。

 ので、これまで読めなかった、あるいは読み返しておきたい、厚めのハードカバーを読むということをしている。

 結果として、このところ、ナチズムと強制収容所をめぐる本を読み続けている。

 今週は、お酒パーティーの余波で、眠くて眠くてなかなか読み進められなかったが、エミリ・コーエンの『強制収容所における人間行動』を読んでいた(今、手の届くところにないので、出版年等は記せないが、岩波書店の刊行で、清水幾太郎が翻訳者の一人だったはずだ)。

 著者はオランダ系ユダヤ人で、自らもアウシュヴィッツを体験している。

 1950年代の初めに書かれた本だ。

 以前に一度読んでいたのだが、あらためて再読しているわけである。

 強制収容所体験をフロイト理論を軸に読み解いている部分は、さすがに時代を感じさせるが、オランダ系ユダヤ人ならではの視点が、私達日本人には興味深いと思われる。

 つまり、ユダヤ人としてのナチスの強制収容所体験に対比されているのが、オランダ人の日本軍の収容所体験なのである(〔追記〕として、同書本文からの引用と、若干のコメントを書き加えておいたので、参考にしていただきたい)。

 飢餓状況や、虐待の実態、収容者のおかれた心理的状況などが、ナチスの強制収容所体験と日本軍の収容所体験者の報告により、描かれている。

 比較すれば、ナチスの強制収容所の過酷さは言を俟たない。

 ナチスの強制収容所がユダヤ人に果たした役割とは「絶滅」なのであるから。

 到着直後の「選別」により、労働不能者とみなされればガス室行きであり、労働適格者も「労働による絶滅」の対象とされるのである。

 終日の直接的な暴力と虐待に加えて、長時間労働と、栄養の決定的な不足、そして極度に低劣な居住条件。到着後の数ヶ月で、ほとんどの収容者は死を迎える。

 そのような意味では、日本軍の収容所は、収容者の「絶滅」を目的としたものではなかった。

 しかし、良い待遇が与えられなかったことも確かである。大日本帝国の軍隊自身が、補給面で過酷な状態に置かれていたのである。

 捕虜に対する国際法に関する無理解と相俟って、収容者の待遇への配慮は期待出来ないものであった。

 コーエンの本を読むことによって、普段、思い浮かべる機会のない、日本軍によるオランダ人の収容という事実が、問題として浮上するのである。

 オランダ人の収容というのは、軍人だけが対象となったのではなく、一般市民も収容所に収容されたのだ。そこから、オランダ人の少女が従軍慰安婦として、日本軍人の性欲処理の犠牲となったのである。

 コーエンの本には、もちろんそのようなことが書かれているわけではない。

 しかし、記述を追うことにより、ナチスの強制収容所体験が、オランダ人にとっては日本軍の収容所体験と共に語られていることに気付かされるのである。第二次世界大戦の被害体験として、ナチスの強制収容所と日本軍の収容所が、いわば、同列に位置していることに、気付かされてしまうというわけだ。

 普段、意識に上ることが少ないことであるので、ここで読み返したことを幸運に思う。

 「飢餓」をめぐる記述では、ナチスの強制収容所、日本軍の収容所と共に、ドイツ占領下のオランダで発生した飢饉も事例として論じられている。占領下のオランダもまた、過酷な状態にあったのだ。

 今回は、深く論じるところまでは取り上げられないが、最近の読書報告である。

 

 

 

〔追記〕
 E.A.コーエン 『強制収容所における人間行動』 (岩波書店 1957) 
 原著書は1953年のものであり、訳者は当時の学習院大学社会学研究室の、清水幾太郎、高根正昭、田中靖政、本間康平であった。

 実際に書中の当該箇所にある記述は、

 
 又、ドイツの強制収容所における抑留者の死亡率が高かったことは、いくつかの日本の抑留所における死亡率と比較してみても明らかである。クーヴェナールとその同僚は、北部及び中部スマトラにあった幾つかの収容所に関する、次のような数字を示している。

 収容所名 収容者総数 死亡者 期間
 パダン-バンキナン(男子) ±850名 124名 1942-1945年7月
 パダン-バンキナン(女子) 2200名 165名 1942-1945年7月
 ソエンゲイ・セングコール 675名 7名 1943年3月-1944年9月
 ベラウァン・エステート 675名 20名 1943年7月-1944年9月
 スィ・レンゴー・レンゴー 1850名 115名 1944年10月-1945年8月
 パカン・バローエ 4800名(重労働に使役されていた捕虜の数) 696名 14ヵ月間
 (スィ・レンゴー・レンゴーはソエンゲィ・セングコール収容所とベラウァン・エステート収容所とを合体したもので、ほかに他の収容所から送られてきた数百名の抑留者が加えられた)

 ドイツの強制収容所と上述の日本の抑留所との間には、明らかに著しい相違があった。クーヴェナールたちが述べているように、「はじめの二年間、抑留者の死亡率は通常の死亡率と比べて、目にみえて高いものではなかった」。これに反して、ドイツの収容所では、収容後のこの僅かな期間内に、少数の抑留者が生き残ったにすぎない。
 この死亡率の相違には、さまざまな原因が考えられる。日本の抑留者の死亡率は、日本軍当局が、保存食糧を含めて、抑留者に私物の所有を許可したという事実によって大きく影響されていた。又、永い間、抑留者が自分の食糧を買うことができたという事実や、若干の収容所では、抑留者に自分たちの消費のために食糧を耕作することが許されていたという事実も見逃せない。
 これに反して、ドイツの強制収容所の抑留者は、恐るべき条件の下で生活していた。この恐るべき生活条件が死亡率の高かった第一の原因に違いないと、私は信じている。食糧は悪く、衣服は不充分であった。また、気候変動は厳しく、労働は極めて過酷であった。その上、抑留者はひどい虐待を受けていた。
 もちろんこのような死亡率の相違は、すべての日本の収容所に当てはまるものではないであろう。ビルマで鉄道の敷設に使役された労働者の収容所における死亡率が、ドイツの強制収容所の死亡率に近いものであったことは、各種の報告からみて充分ありうることであった。
     (第二章 「強制収容所の医学的側面 死亡率」 53~54頁)

 

 ファン・ヴルフテン・パルテは、日本の敵国人収容所で次のように観察している。「最悪の状態、すなわち、真の飢餓状態になると、精神的な動揺の激しさや頻度は、きわめて著しく亢進した。精神病者はまったく統制不能になり、多くの精神分裂病の患者は死亡し、残りの患者も一層深い昏迷(なんらの意志的表現も見られず、外部の刺激に対してよく反応しない状態)に陥った。新患が『精神病科』へきたが、ひどい錯乱状態を示していて、たとえば、ブロム剤の中毒にみられる中毒性精神病と似て、ひどい昂奮状態と劇場幻覚とを伴っていた」。
     (第二章 「強制収容所の医学的側面 疾病 全身衰弱・慢性の栄養失調症」 84頁)

 

…というものである。

 戦後に撮影された、解放直後の連合軍捕虜収容所収容者のやせ衰えた姿の写真が示すのは、事実として存在した収容所における慢性的飢餓状況(それがファン・ヴルフテン・パルテにより、「敵国人収容所」での「最悪の状態、すなわち、真の飢餓状態」と表現されていたわけだ)なのである。

 その「戦後」とは日本の敗戦後を意味するものであり、両者の立場は逆転し、日本軍関係者は報復的な取り扱いを受けることとなった。
 手元にある『秘録大東亜戦史 蘭印篇』(富士書苑 昭和二十八年)には、戦後のオランダ側による報復的な日本軍人虐待事例が掲載されている。そのような事例を読むに際し、戦中の日本軍人によるオランダ人への「虐待」は、「報復」として行なわれたものではなく、あくまでも日本軍内の日常の延長(たとえば下級者への殴打は、皇軍内では日常的行為であった)としての出来事であったことには気付いておくべきだと思われる。それに対し、戦後のオランダ側の行為は「復讐」として位置付けられるものだ(復讐行為自体の正当性の問題とは別に、それぞれによる「虐待」がどのような構図の下に発生したのかという問題として、ここでは考えているわけである)。
 会田雄次の『アーロン収容所』に、戦後に戦犯容疑者としてイラワジ河の中洲に収容され、飢餓の中で毛ガニを生食し、赤痢で全滅した(させられた)日本軍の鉄道隊関係者の姿の記述があるのは有名な話であろう。
 まさにそこにあるのは、「ビルマで鉄道の敷設に使役された労働者」として英軍人が経験した日本軍による捕虜虐待への、英国人による報復的な対応なのである(もっとも、会田雄次の記述は「伝聞」によるものなのであり、しかも会田自身が「戦犯部隊とかいう鉄道隊」のエピソード紹介の直後に、自身の捕虜経験に基づき、「とにかく英軍は、なぐったり蹴ったりはあまりしないし、殺すにも滅多切りというような、いわゆる「残虐行為」はほとんどしなかったようだ」と書いていることにも留意しておきたい)。
 日本軍による捕虜「虐待」の問題の多くが、日本軍内の日常の延長としての出来事であったことを再認識しておく必要を感じる。下級者への殴打が皇軍内の日常的な行為である以上、捕虜への殴打(そして日本人には十分な食事も、捕虜となった欧米人には不十分なものであったし、戦局の悪化と共に食糧事情も大幅に低下することになる)を意図的な虐待として当事者としての日本軍人が意識する可能性に期待は出来ないのである。両者の間のギャップの悲劇的な帰結が、戦後に行なわれた「B級戦犯」裁判なのであった。
               (2011年2月4日記)

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/10/07 22:09 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/44352/user_id/316274

 

 

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