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2008年12月 4日 (木)

多重虚偽の魅力?

 

 R.H.ロービア 『マッカーシズム』 (岩波文庫 1984)を、久しぶりに読み返した。いつぞやの日記で、古本屋で見つけた話を書いた記憶がある。

 書庫のどこかに、かつて読んだ時の購入本が眠っているはずなんだが、「片付けの神」の降臨のない限り、手に取ることは出来ない。

 で、古本屋で見つけて即購入、だったわけだ。リリアン・ヘルマンの『眠れない時代』と一緒に見つけたような気もするが、よくは覚えていない。

 ヘルマンの本も、二冊目だ(書庫のどこかに一冊目は隠れているはず)。

 で、たまたま、知り合いの関係しているコミュニティの「騒動」を身近から観察する機会にめぐりあい、以下に紹介する文章が身にしみた。

  
 マッカーシーが国務省への攻撃を始めて間もない頃、私は『ニューヨーカー』誌の「ワシントン便り」の中で、マッカーシーを取り上げた際、そのもっとも注目すべき新手法の一つを「多重虚偽」と呼び、多くの点でヒトラーの大うそに比すべき技術だと書いた。私は次のように書いた。「「多重虚偽」は特に大きな虚偽である必要はなく、一連の相互に余り関係のない虚偽、あるいは多くの側面を持つ一個の虚偽であったりする。いずれの場合にも、全体が多くの部分で構成されているために、真実を明らかにしたいと思う人は虚偽の全要素を頭の中に入れて置くことが全く不可能ということになってしまう。真実を明らかにしようとしても、人はその中の二、三の言明を取り出して、それがうそだということを証明するかもしれないが、こういうやり方は、取り出された声明だけがうそであって、残りは本当なのだという印象を残すだろう。「多重虚偽」の更に大きな利点は、うそと証明された声明をその後も平然と何べんでもくり返しうるということである。というのは、どの声明が否定され、どれが否定されていないかを誰も覚えていないからである。」……
(145~146頁)

 

 

 私自身が、そういう友人のためにここでコミュニティを作ることに参加し、多重虚偽と闘い、コミュニティを解散したという経験者だ。

 ネット上のコミュニケーションだと、日常の対面的人間関係の中でよりは、「多重虚偽」との闘いは、若干、こちらに有利に働くことになる。

 すべての発言がそこに残されているからだ。口頭でのやり取りでは、「私はそんなこと言っていない」、「私の言ったのは…」と、いくらでも誤魔化しがきく。が、ネット上の発言は、記録として残ってしまう。「消去・削除」という手段もあるが、実際その輩はすぐに行使するのではあるが、こちらで記録・保存してしまえば、都合が悪くなって削除された発言も手元に残すことが出来てしまう。

 ただ、まぁ、巻き込まれれば、時間を取られることは確実だ。検索機能や、コピー機能など、様々な機能が助けになるとしても、巻き込まれないに越したことはない。

 巻き込まれてしまった知り合いは、今、奮闘中である。

 問題の中心にいるのは、「論旨ずらし」という手法に長けた人物のようだ。そして、他人への非難の量はすごいのだが、他人からの問いかけに答えることはない。自分からは質問攻めにしているというのに。まぁ、ヤッカイな相手のようだ。

 この「論旨ずらし」というのは、私のかつての友人の得意技でもあった。論点がどんどん横へ横へとずらされていく。気付くと、当初の問題が何だったのか、もうわからなくなっていたりする。

 議論に費やされるエネルギーが大きい割りに、何も解決されていない。

 対面的コミュニケーションでのお付き合いの間は、これで、相当に消耗させられたものだ。

 ネット上に問題が移行したお陰で、本人以外の関係者の間に連帯感が生まれ、連係プレーさえ可能になる。面白い経験ではあった。

 もっとも、私の場合は、リアルコミュニケーションをそのままネットに持ち込み、結果として、当人が逃げ場を失ったというケースになる。リアルコミュニケーションも同時に存在していたわけだ。

 今、知り合いが奮闘している相手は、ただのネット上でのお相手なので、別に相手を続ける義理はない、はずだ。

 それでも、相手をしているのは、どこか面白がっている要素があるのだろう。実際、「多重虚偽」系人間の共通点は、すべてが思いつき・言い逃れとして始まるというところなので、実は自縄自縛の太いロープを首に自ら巻き続けているという結果をもたらしてしまう。自ら墓穴を掘る状態だ。

 そのお手伝いをするのも、楽しいと感じてしまえば、楽しいのだろう。

 まぁ、あまりに深く墓穴を掘るので、彼は王家の谷のファラオにひっかっけて、ラムセス氏と呼ばれつつある(仲間内でのハナシだが)。

 そろそろ、墓穴の用意も完了したように見えるのだが、どうなるのか、展開を見物中だ。

 で、マッカーシーだ。結局、蒔いた種が芽を出して、年貢を納めることになる。

 しかし、その間、アメリカの外交政策は大きく停滞することになる。マッカーシーのターゲットとされたのが国務省だったからだ。

 冷戦初期のアメリカ外交は、マッカーシズムという大きな障害のために、理性的な判断から遠ざけられてしまっていたのである。

 朝鮮戦争の最中にもかかわらず、マッカーシーの関心は、戦争の行方に、ではなく、国務省内にいるとマッカーシーの主張する共産主義者の排除にのみ向けられていた。マッカーシーは証拠を握っていると主張していたが、その証拠が提出されることはなかった。

 そして、国務省内の人間は、その間、外交の行方を論じることよりは自分が共産主義者ではないことを証明することに没頭させられたのであった。

 ヴェトナム戦争へと帰結する冷戦時のアメリカ外交を考える上で、マッカーシズムによる損失の大きさを無視することは出来ない、なんてことまで考えさせられる。

 多重虚偽の恐ろしい帰結である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/16 00:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/55007

 

 

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