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2008年12月 7日 (日)

不都合な戦争の都合という問題 6

 

 戦争責任とは何のことなのか、という話題に、久しぶりに戻る。

 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 (岩波現代文庫 2008)には、占領下日本における、昭和天皇の様々な発言が収録されている。

 1946年1月29日付の、昭和天皇から英国国王へ宛てられた「親書」には、

 

私は戦争を回避するために最善を尽しました。しかしながら国内の諸事情により、まことに不本意ながら貴国に対して戦端を開く事態に立ち至りました。

 

という文言があるという。

 昭和20年9月29日の『木戸幸一日記』にも、昭和天皇の、

 

自分が恰もファシズムを信奉するが如く思はるることが、最も堪へ難きところなり、実際余りに立憲的に処置し来りし為に如斯事態となりたりとも云ふべく、戦争の途中に於て今少し陛下は進んで御命令ありたしとの希望を聞かざるには非ざりしも、務めて立憲的に運用したる積りなり、戦争についても極力避くることに努力し、前の上海事変の時、白川大将は実に余の命令を守りよくやつて呉し故、大将の薨去の際には和歌を詠みて未亡人に与へたることもあり、又支那事変の当初、天津に事変の起りたるときは、参謀総長と陸軍大臣を呼び、何とか蒋と妥協せしむることにつき下問せむとせしが、頭から一挙に解決し得との奉答なりし故、手の下し様なかりしこともあり、今日から思へば実に残念なり

 

という言葉が記録されている。

 戦争回避こそが、昭和天皇の真意であったというのである。

 しかし、「立憲的」な振る舞いを優先したために、その真意は実現されなかったのだと説明しているわけだ。

 昭和37年刊の『天皇様の還暦』で、入江相政は、

 

二・二六の時と、終戦の時と、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた。二・二六の時は総理大臣が生きているか、死んでいるか分らないので、自分か進んで態度を決めるように指導した。終戦の時は、総理大臣が「どうしようか」と聞くから「早くやめろ」といった

 

との昭和天皇の言葉を伝えている。

 立憲政治の下では、君主は政治的決定に関与しないのが原則である。

 昭和天皇自身は、その原則に忠実であろうとしたが、2・26事件の時と、終戦時においては、例外的に政治的決断を自ら下したと言うのだ。入江に対しては、「自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた」という言葉まで用いて、その例外性を強調しているわけである。

 支那事変の拡大、そして対米英開戦に至る歴史の中で、立憲的であろうとした昭和天皇には、(まさに立憲的であろうとしたが故に)その流れを止めることは出来なかったという主張も、その陰にあることにある。

 もちろん、戦争の犠牲者からすれば、開戦の時点で「立憲君主としての道を踏みまちがえ」ることがなぜ出来なかったのか?なぜしなかったのか?という問いが投げかけられるのは当然であろう。

 「立憲君主」とは、憲法の制約に従う君主を意味する。昭和天皇も、大日本帝國憲法に従属する君主であらんと努力したのであり、だからこそ、

私は戦争を回避するために最善を尽しました。しかしながら国内の諸事情により、まことに不本意ながら貴国に対して戦端を開く事態に立ち至りました。

という歴史の進行を避けることが出来なかった、というわけだ。

 ここでは、開戦時において、昭和天皇が立憲君主として振舞うべきではなかったかどうかについては論じない。少なくとも、開戦時においては、昭和天皇が立憲君主として振舞っていた。そのように考えておくことにしよう。

 立憲君主である以上、開戦決定に、昭和天皇は関与出来ないわけだから、開戦についての責任もないということになる。もちろん、ここで論じているのは憲法との関係における「責任」の問題であり、戦争の犠牲者には、当然のことながら、別の視点が存在するだろう。

 それを分けて考えることが、私自身のスタンスである。

 さて、英国国王への「親書」には、

私は当時の首相東条大将に対し、英国での楽しかった日々を思い起こしつつ、強い遺憾と不本意の気持をもって余儀なくするのだと繰り返し述べながら、断腸の思いで宣戦の詔書に署名したのであります。

という昭和天皇の言葉が書かれている。

 「立憲君主としての道を踏みまちがえ」ないための昭和天皇の努力は、「強い遺憾と不本意の気持をもって余儀なくするのだと繰り返し述べながら、断腸の思いで宣戦の詔書に署名」することによって果たされたのである。

 少なくとも、昭和天皇は、英国国王に対し、そのように説明していたわけだ。

 その「当時の首相東条大将」は、極東軍事裁判(東京裁判)の法廷において、A級戦犯として裁かれ、絞首刑に処せられた。

 サンフランシスコ講和条約第11条(戦争犯罪)には、

日本国は、極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする

との文言がある。

 豊下によれば、講和条約調印10日後の1951年9月18日に行われたリッジウェイ(占領軍最高司令官)との会見の席で、昭和天皇は、

有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約

とのサンフランシスコ講和条約への賞賛の言葉を述べている。

 英国国王宛の「親書」にも、

私はポツダム宣言の条項を忠実に履行し、平和と民主主義に貢献する、よりよい国家の再建のために出来る限りの努力を払いたいと切に望んでおります

という昭和天皇の言葉がある。言うまでもなく、ポツダム宣言は、その条項の中で、戦争犯罪人の処罰を戦争終結条件として明示していた。

 いずれにせよ、昭和天皇自身は、極東軍事裁判(東京裁判)の判決とその刑の執行に対し、積極的に肯定的な評価を与えているのである。

 しかし、東京裁判で裁かれたのは、被告達の連合国に対する罪であったに過ぎない。

 大日本帝國に対する責任、昭和天皇に対する責任、そして国民に対する責任が裁かれたわけではない。

 昭和天皇による極東軍事裁判(東京裁判)への積極的な肯定的評価の底にあるのは、どのような論理あるいは心理なのであろうか?

 いささか気にかかるところである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/18 22:19 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/79137/user_id/316274

 

 

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