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2008年12月 7日 (日)

続々々・首相辞任(昭和十九年七月十八日)

 

 昭和19年7月18日、首相東條英機は辞表を捧呈、内閣総辞職となった。

 『入江相政日記』の「注解」には、

[7・18]

 内閣総辞職 7月7日のサイパン玉砕など選挙区の破局化に伴い重臣の間にも反東条の機運が強まり、元首相岡田啓介らは積極的に倒閣工作を進めていた。東条首相は、統帥と国務を分離し、嶋田海相を更迭、米内光政、安部信行、広田弘毅らの重臣を閣内にとり込み内閣を改造して存続をはかろうとしたが、重臣はいずれも入閣を拒否し総辞職となった。東条構想を受け入れたのは嶋田海相のみだった。

とある。

 また、清沢洌の『暗黒日記 2』の「注」では、7月14日の条に、

 

 この時の「内閣改造」はここ(7月14日の日記-引用者)に清沢が」書いたような形では行われず、結局七月十八日の東条内閣総辞職となった。インパール作戦の失敗、サイパンの失陥で自信を失った東条首相は、内閣改造によって事態乗り切りを考え、七月十三日、内大臣木戸幸一に会見してその方針を述べたが、木戸の態度はさすがの東条も会見後軍務局長佐藤賢了に辞意をもらさずにはいられなかったほど冷たかった。すでにこの頃、重臣のうち近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎、若槻礼次郎らを中心とする東条内閣打倒の動きが重臣層、宮中、政府、海軍の内部にかなり浸透しており、木戸またそれを知っていた。東条が当時内外に評判の悪かった嶋田海相を辞めさせ(後任野村直邦大将、ただしこれは三日だけの海相となった)改めて内閣改造を計ろうとしたのに対し、改造内閣に予定された米内光政はこれを拒み、また閣内の岸信介もこれら重臣の動きに対応したため、ついに内閣の総辞職に追い込まれたわけである(『木戸幸一日記』、『岡田啓介』、佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』等、参照)。

 

という、実際の顛末が記されている。

 東條英機自身には、まったく辞任の意思はなかった、のである。

 前回(「続々・首相辞任(昭和十九年七月十八日)」http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/77831)の引用部分に続いて、清沢は、

 

 負けたのは「兵器不足に起因」(『東京新聞』七月二十日)といった論調が、軍部の態度を示す。

 

と書いている。

 山田風太郎の日記中のエピソードを思い出す。

 7月18日の条、再び引用してみよう。

 

 〇正木さん強制残業のため九時過ぎて帰って来る。沖電気では、今年中に命ぜられた生産量を二ヶ月以内に仕上げろとの軍命令があった由。

 

 「強制残業」となって、「軍部の態度」は民間人に降りかかる。

 不利となり続ける戦局も、まるで「他人事(ひとごと)」のようなのだ。戦術上、戦略上の反省はどこにも存在しない。

 そのような「軍部」の頂点にいたのが東條英機その人であったわけだ。

 不敗の皇軍というタテマエへのこだわりが、自らの弱点を直視することへの障害となってしまう。

 問題は軍組織内部には存在せず、「負けたのは兵器不足に起因」するのであり、つまり国民のせいなのである。

 さて、清沢の7月20日の日記は、

 

 今夜七時のラジオによって始めて大命が、小磯と米内に下った旨を知った。陸海の感情衝突は、最早国民の常識だ。この協力を要請する最後の試みが、ここでなされたのである。一方の代表者では他方が聞かぬのを示すものだ。

 

という言葉で終えられている。

 山田風太郎は、

 

「陸海軍が全然背中合わせなんですって!ケンカばかりしているんですって!」

と下宿のおばさんが腹の底から怒りにたえぬかのごとく叫ぶ。

 

と、下宿のおばさんの怒りの言葉を伝えていた。

 まさに、「陸海の感情衝突は、最早国民の常識」だったのである。

 「陸海軍が背中合わせ」のまま、大東亜戦争は、まだ一年以上も続くのである。新内閣誕生後も、軌道修正の出来ぬまま、さらに戦局の悪化を重ねていくのである。

 開戦時の首相東條英機によれば、大東亜戦争とは帝國の自存自衛の確保のための戦争であった。しかし、実際にもたらされたのは、他国を戦場に巻き込んだ上での帝國の自己崩壊であった。

 開戦の決断自体に問題があったと考えるべき理由はあると思うが、開戦の決断に問題はなかったと考えるべき理由は、私には見つけることは出来ない。

 確かなことは、東條英機の首相辞任は、何かに責任を取ってのことではなかったということだ。

 しかし、考えておかなければならないのは、現在の靖国の英霊の大多数に対し、東條英機はその責任を負っているということだ。東條英機自身が責任を感じていようがいまいが、彼らの死へ対しての責任はあると考えなければならない、はずだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/09 21:53 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/78282/user_id/316274

 

 

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