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2008年12月 4日 (木)

フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (9)

 

 フィンランドの戦後について書き出してみたが、まだやっと1960年代に差しかかったところだ。にわか勉強の割りに話題が尽きない。

 1930年代から1940年代にかけての「世界大戦」の時代の経験が、まず私たち日本人の想像力を超えていた。そして「戦後」の国際政治の中での生き残り方もまた、私たちの想像力の及ばないあり方を示すものだった。

 そもそも日本人には、強大な軍隊による侵略を受けるという体験はない。

 それ以前に、異民族の統治する「帝国」から、民族国家としての「独立」を達成するという体験自体が存在しない。

 フィンランドにおける「世界大戦」の時代とは、ロシア「帝国」の継承国家であるソ連からの侵略と、それに対する軍事力を用いての阻止、そして独立の維持の成功体験として記述される。

 軍事力は、国家としての独立の維持に不可欠なものとして理解されることになる。そこにあるのは、あくまでも「防衛」のための軍事力である。

 国家領域の拡大のための、国境線の外で行使される軍事力ではなく、国境防衛のために発動される軍事力ということだ。

 大日本帝國の行使した軍事力とは全く性格の異なる軍事力のあり方である。戦後の日本を占領統治し、現在に至るまで外交的に(軍事的にも)依存関係にある米国の保有する軍事力の性格とも異なるものだ。

 日本にもそのような軍事力が必要である、という主張をしようというわけではない。けれど、そのような軍事力のあり方への想像力を持つことは必要だ、と思うわけである。

 さて、1961年に戻る。

 米国ではケネディが大統領に就任し、キューバが社会主義国宣言をし、ベルリンの壁が建設されたのも、この年の出来事である。

 フィンランドでは「ノート危機」と呼ばれる、対ソ関係での問題に直面することになった。

 東西冷戦の緊張状況の中で、ソ連はフィンランドに対し、フィン・ソ友好協力相互援助条約第2条に基づく軍事的協議の開催を求めた。フィンランドは、ソ連との公式の軍事的協議の開催に応じることは、社会主義圏のソ連の同盟国として国際的に認知されてしまうと判断する。結果として、条約上の公式協議としてではない形式の首脳会談(ケッコネンとフルシチョフによる)の設定で、問題を回避することに成功した。

 その首脳会談の際に、フルシチョフにより、フィンランドの空軍力の脆弱性についての不安が伝えられた。

 冷戦が激化する中で、ソ連はフィンランド経由の攻撃を受ける可能性を考慮しなければならない。相互援助条約では、フィンランドに攻撃撃退義務が課せられているのだが、当時のフィンランドの空軍力では攻撃撃退能力に不安を持たざるを得ないというのが、ソ連側の提示した問題のひとつであった。

 つまり、フィンランドは、ソ連から空軍力の充実を求められたのである。

 パリ条約締結時には、ソ連が求めたのは、フィンランドの軽武装化であった。

 それが1961年には、フィンランドの軍事的充実が、ソ連の利益として考えられるようになっていたのである。

 ソ連の軍事戦略上、フィンランドの空軍力の充実が求められたということだ。

 フィンランド側から見れば、フィンランドの独立にとっての脅威は、ソ連の軍事力である。フィンランドの軍事戦略上も、空軍力の充実は、ソ連の軍事的脅威への対抗上、必要なものであった。

 結果として、フィンランドは、ソ連からミグ21超音速ジェット戦闘機を購入することになる。

 ソ連にとり、フィンランド経由のソ連への攻撃に対応するに有効なフィンランドの戦力であり、フィンランドにとっては、軍事大国ソ連の脅威に対応するに有効なフィンランド自身の戦力となるものであった。

 こうしてフィンランドは、空軍力の近代化に成功したのである。

 その後の1960年代は、防衛力強化計画は策定されたものの、政治的支持が弱く、予算不足のままに経過することになる。

 状況が変化するのは、1970年代に入ってからだ。

 1970年に議会国防委員会が設置され、中立監視能力には問題はないが、戦闘用軍事力は不十分とのレポートを提出する。

 70年代前半に、スウェーデンからドラケン戦闘機、ソ連からの沿岸防衛用ミサイル艇の購入に加え、地上軍の各種武器の充実が図られた。

 1976年には、第二次議会国防委員会のレポートが再び防衛力の不足を指摘し、ミグ、ドラケン各ジェット戦闘機の追加購入に加え、各軍の戦力充実が達成される。

 1970年代前半にヴェトナムから米軍は撤退し、1970年代の終わりにソ連はアフガニスタンに侵攻した。1975年7月にはヘルシンキで全欧安全保障会議が開催されている。

 フィンランドは、軍事力の充実と同時に、非軍事的安全保障の追及もしていたということになるだろう。アフガニスタン侵攻という形で、ソ連の軍事的脅威が現実化する時代の出来事として考える必要がある。

 70年代を通して達成された軍備の近代化により、地域防衛システムも完成する。横のラインでの前線で防御するのでなく、あの縦深防御である。

 今や、全国土を防衛縦深として想定し、小部隊によるゲリラ戦と遅滞戦により侵入軍を消耗させ、最終的に撃滅することが可能になったと考えられた。

 「冬戦争」における戦闘スタイルであると同時に、あくまでも防御のための戦略である。

 そこでは、国家としての独立の維持が賭けられているのである。異民族の支配を拒否し、国民の生命と安全を確保することが軍事力保持の最終目標だ。

 一方で、1960年代から1970年代にかけてのフィンランドは、経済発展を重ねると同時に、福祉国家としての国家基盤の整備にも成功していた。

 1960年代には被雇用者年金制度、1970年代には無料医療制度、自営業者・農業者の年金制度、そして労働時間の短縮が実現されているという。

 福祉国家は守られねばならない。

 1980年代を通じて防衛力整備は継続された。

 ソ連がアフガニスタンで軍事力の行使を続けていた時代の出来事である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/10 21:16 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60630/user_id/316274

 

 

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