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2008年12月 7日 (日)

日常化した死の前にダミニストが考えること

 

     長期的に考えれば、人は皆死んでしまう。

のは真実ではあるが、普通、人は、次の瞬間も、次の次の瞬間も、5分後も、一時間後にも、明日も明後日も、とにかく当面は生きているであろうことを前提として、現在を生きているものだ。

 惰眠をむさぼっている間に、次の目覚めは訪れず、永遠の眠りについてしまうことになってしまうかも知れないのだが、だからと言って、死ぬまで目覚めていようとは、ダミニストならずとも思わないものだろう。

 恋愛の高揚の中で迎える死と、惰眠最中の死。

 ドラマ化を考えるなら、当然、前者だろう。

 惰眠最中の死。どうにもしまりのない話である。

 いずれにしても、この世に生まれた瞬間から、人間は死というゴールに向かうべく運命付けられてしまう。

 死ぬのがいやなら生まれるな、ということだ。

 実際問題としては、自分の意思で生まれることは出来ないし、やがて必ず訪れる死を拒絶することも出来ない。

 「死にかけている」状態こそが、人間にとって基本的な生のありようなのだ。

 けれど、普段、そんなことを考えて生きていることは、普通は、ないだろう。

 少なくとも、私の知りうる限りの周囲の人間は、そんなことを意識の中心に据えて生きているようには見えない。

 だからこそ、冒頭のケインズの言葉には効き目があるわけだ。

 そこに、あまりに当たり前な事実が提示されているということが、「効き目」の核心にある。

 あまりに当たり前なことを、普段まったく考えることなく生きているという、自分自身の事実に直面させられるわけである。

 もっとも、「大東亜戦争」と呼ばれた戦争の時代、多くの日本人からは、当面の間は自分が生きているという保証の感覚は失われていたような印象を受ける。

 少なくとも、若者から、自分の人生の未来への展望を持つという感覚が失われてしまっていた。

 若さの中での戦死。自分の人生の展望は、そこまでである。

 やがて、若者だけの問題ではなくなる。本土空襲が日常化してしまえば、都市住民にとっては、もう、明日の人生の保証も失われていくばかりだ。

 前線での戦死は、兵士として動員される若者の身の上に起きることだが、空襲下での死には、年齢・性別による制限はない。

 長期的に考えずとも人が死んでしまう時代があった、ということだ。

 いや、昔の話ではない。バグダッドの街角では、そんな感覚の中で生きることを強いられている人々が、今も、この瞬間をとりあえずは生き抜いているのである。


 ケインズの言葉が意味を持つのは、死が日常化している世界においてではない。

 人の死が日常化し、愛する者の死が日常化し、自分自身の死の可能性が必然性をもって日常的に意識されざるをえない世界。長期的に考えずとも、人が死んでいく世界。

 人間の行為の一つとしての戦争がもたらすのは、そのような世界である。

 私としては、うれしい世界のあり方ではない。

 そういう意味では、ケインズの言葉が意味を持ってしまう世界は、望ましい世界のあり方である、と考えることも可能である。

 しかし、その中で感覚が鈍磨し、人が死すべき存在であることを忘れ去ってしまうとすれば、この瞬間に自分が生きているという奇跡的な事実に無感覚になってしまうに違いない。

 まぁ、それは、幸せな話であることは確かだ。鈍さのもたらす幸せ。

 どちらかを選べと言われれば、もちろん、愛する者の死が日常化していない世界を選ぶ。

 その上で、ケインズの発した言葉を日常的に自らの想像力の内に保つこと。

 その時初めて、愛する者の死の日常化していない世界の価値の大きさを、深さをもって理解出来ることになる、はずだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/06 22:39 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/75058/user_id/316274

 

 

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