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2008年12月 7日 (日)

不都合な戦争の都合という問題 1

 

 それが不都合であるかどうかはわからないが、

   戦争とは、集団的に人が人を殺すことであり、

   戦争とは、集団的に人が人に殺されることである。

という言明は、「真実」を含むものだろう。

 私たちの前にあるのは、近代における戦争であり、現代の戦争であろう。

 20世紀の戦争と21世紀の戦争。

 では、近代以前の戦争と、近代の戦争、そして現代の戦争は、何を指標に対比されるのだろうか?

…と、大上段に始めてしまったけれど、当たり前の話だが、論点は様々に考えられる。

 その前に「戦争」という語について、もう少し考えておこう。

 集団的な殺人行為は、確かに戦争を特徴付けるものだ。

 しかし、大量虐殺と戦争は、それが同時に起きることもあるが、大量虐殺は戦場(つまり戦争の場)を離れても生じる、人間の人間に対する行為である。

 「集団的な殺人行為」という表現は、「大量虐殺」に比べれば、穏やかな表現でもあろう。

 まず、ここでは、「集団」という語と「戦争」という語の関係が問われねばならない。

 そこでの(つまり「戦争」という語使用における)「集団」としての人間は、「国家」により規定付けられていなければならない。

 「戦争」とは、国家間の出来事であり、国家が「集団」の枠組みとして作用する中での、殺人を伴う勝負事(!?)として考える必要がある。

 もちろん人類史的には、人間の集団は必ずしも国家という結合形態を形成しないという指摘は正しい。

 それは、国家内部の下位集団、あるいは国家が存在する一方での非国家的な人間の結合形態という問題ではなく、国家システムを採用しなかった人間集団の存在をも視野に入れておくという意味においてだ。

…と、話を進めることにより、「近代以前の戦争」というイメージの輪郭が、若干ではあるが、明らかになるはずだ。

 「近代」とは、その定義に、「国民国家」という国家形態の採用という事態をも含むものだ。歴史的に「近代」と呼び習わされる時期に登場するのが、「国民国家」という国家形態だということになる。人間の集団のあり方としての「民族」がクローズアップされる中で、その民族=国民とすることにより定義される国家形態だ。

 「近代以前」においては、民族=国民というイメージの結合は顕著なものではなかった。

 まずは、国家内での支配者と被支配者の関係性という問題を考えなくてはならない。

 後には民族的には同一と考えられようになるケースでも、近代以前の国家においては、支配階層と被支配階層のアイデンティティーの同一性は想定されてはいない。そこでは、身分差別が民族的アイデンティティーの想定より優先されていたわけだ。

 後には別民族と考えられるようになる人間同士が、支配階層を共にして、一つの国家領域に共存していたのも「近代以前」に特徴的なあり方である。

 また支配階層における民族的同一性が、必ずしも問題とはされてはいないのも「近代以前」の世界では通常のことであった。ロシア帝国を支えたのは、ドイツ人でありフランス人であり…(と民族的には定義される)貴族や将校達であった。

 インターナショナルな支配階層が存在し、ナショナリティーに糾合されない被支配階層が存在していた、というわけだ。

 民族=国民が、国家の主体としてイメージされない世界。そこに「近代以前」の世界の姿を見る、というところから考えを始めたい。

 そこでの「戦争」とは、つまるところ、支配階層間における争いである。

 もちろん、その地に住む被支配階層も戦場の犠牲者となってしまうわけだが、戦争を実行する軍隊を形成するのは、つまり戦闘行為の実行に当たるのは、支配階層の人間及び傭兵集団なのである。

 つまり、そこでは、被支配階層は、戦争の当事者ではない。自分達の身に降りかかることではあれ、戦争とは頭の上の出来事に過ぎず、結果には左右されるにしても結果を左右するわけではない、ということになる。

 具体例を示すとすれば、身分としての農・工・商に軍事的貢献が求められることがなかった、江戸時代のこの国の現実で十分であろう。

 明治における近代化とは、それまでの士・農・工・商が一様に「国民」として編成し直され、国家による軍事的行動の主体となっていくこと、つまり国民が戦争の主体となる時代の到来も意味するものであった。

 国民であれば、人を殺すことが義務とされうる時代の到来、と言うことも出来るだろう。

 それが、この国の上だけのことではなく、地球上の国家・国民にとっての課題と化したのが、「近代」という世界史上での出来事であった。

 それが不都合であるかどうかはわからないが、そのような認識に「真実」を見出してしまうところから、問題を考えて行きたい。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/22 21:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/76600/user_id/316274

 

 

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