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2008年12月 7日 (日)

自己栄光化の自由…?

 

 過去の行状、というのは、普通、恥ずかしい記憶ではないだろうか?

 栄光の過去、それも結構なことだが、過去の記憶は捏造可能なものでもある。

 自身を栄光化する衝動もまた、普通のことなのかも知れない。

 たいしたことのない自分よりも、誇りうる自分を求める。

 自分がたいしたものではないことを受け入れることが出来てしまえば、たいしたことのない自分で十分なものなのだが、なかなかに難しいものではあるらしい。

 そこに、現実にはたいしたことのない存在である自分をたいした存在である自分へと仕立て上げるという課題が生まれる。

 どうも、このような欲求は、人類普遍の衝動であるようにも思う一方で、近代特有の感情ではないかとも思わせられる。

 たいした存在である自分の誇示は、確かに、神話的な起源を持つものではあるだろう。

 しかし、一方で、近代以前の人間関係、共同体的世界における人間関係を考えてしまうわけだ。

 そこでは、互いに、生まれた時から死ぬ時まで、同じ顔ぶれの人間関係が続くことになる。

 互いに、それぞれの、過去の行状は、誤魔化しが効かないものとして、共同体的に共有されてしまっているのだ。

 自分が何者であるか、それは既に世間が十分にご存知なことなのである。

 そこで、自身の栄光化物語を語ろうとも、お里は知れてしまっているわけだ。まさに「お里」の只中での話なのである。

 まぁ、「ほら吹き」として認定され、それなりに愛されて生涯を送ることになるだろう。当人の現実は、共同体の全員が、既にご存知の事柄なのだから、騙されるという事態が起きる心配さえない。

 「ほら話」は「ほら話」として楽しまれることになるだろう。

 近代化とは、人口の流動化、都市化、産業構造の変化、工業化、民族国家としての国民国家の成立…、といった様々な側面から語られるものだ。

 すべての前提として(あるいは結果として)、それまでの人間関係の基底に存在した共同体の解体の進行を考えなければならない。

 共同体の一員から都市住民へと、自分自身の位置付けは変貌を遂げることになる。

 その意味するところは大きい。

 都市へ出た人間は、自身が何者であるのか、そこでは誰も知らないという現実に直面するのである。

 共同体的世界とは、自身が何者であるのかについて、説明不要の世界であった。そこでは、生まれてからの履歴が、既に知られてしまっているのである。

 「郷土」とは、そのような世界として考えておく必要がある。

 「郷土」を後にして「都市」へと向かうことは、常に自身が何者であるかを説明し続ける必要に迫られる世界への移動であった。

 少なくとも「郷土」においては、履歴ある既知の存在として取り扱われて来た一人の人間が、「都市」では履歴不明の「大勢」に括り入れられてしまう。

 誰であるかが知られていた世界から、誰も誰であるかを知る者のいない世界への編入である。

 自分が何者であるかを説明し、自身の有用性を認めさせること、それが都市生活スタートにおける課題となる。

 たいしたことのない自分であることは難しいのである。

 近代化過程で顕著になる民族主義は、まさに、自分が何者であり、民族の一員として有用な存在であるのかを説明する、便利な論理を提供するものとなった。

 一方に帰属地としての「郷土」の喪失があり、その一方で、帰属出来る場としての「民族」のイメージが提供される。

 自身がたいした存在ではなかろうとも、自身の属する民族はたいした存在なのである。

 自身の属する民族がたいした存在であることは、自身もたいした存在の一員であることを保証することになる。そして、そこから、たいした存在としての自身を見出すことが果たされる。

 もちろん、そこでは、たいした存在ではない他の民族が必要とされる。

 自身の栄光化に必要なのは、見下すべき他者の発見である。この場合の「発見」とは、既に存在するものを見つけ出すこととしてではなく、創り出すこととして考えられるべき事態である。

 他者を貶めることによって果たされる自己の栄光化という事態が、そこに現出するのである。

 ネット上もまた、そういう意味で、近代化の現在形そのものであろう。

 そこでは、互いに誰も知らない、互いに誰であるかを知らない、という事実が出発点である。

 説明しない限り、誰であるかは誰の知るところにもならないのである。

 そして、当面は、説明した内容が、自身が誰であるかの内容となるのである。

 しかし、一方で、説明自体は記録として残されてしまう。削除も可能だが、コピーによる保存も容易なのだ。

 自身の「過去の行状」が、世界的に共有されているわけだ。

 ネットに接続しさえすれば、どこでも読めてしまうのである。

 過去の栄光化も簡単に出来るが、メッキも瞬時に剥がされてしまうということになる。

 もちろん、ネット上で、沈黙は金であるかも知れないが、黙っている者は存在しないのと同義となってしまうのも、ネットという世界の現実である。

 しかし、他人を貶めることによって、自己の存在をアピールすることに積極的な意味はあるのだろうか?

 恥ずかしい過去の行状が蓄積されるだけ、のような気がしてしまうのである。

 もちろん、恥をさらす自由もまた尊重されるべきではあろうけれど。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/06/29 15:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/71377/user_id/316274

 

 

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