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2008年12月 3日 (水)

「無差別爆撃の源流」をめぐって

 

 これ等の空爆を通して、一つの顕著な事実は、日本人が都市爆撃につき、決して米国の無差別爆撃を恨んでも、憤っても居らぬことである。僕が「実に怪しからん」というと、「戦争ですから」というのだ。戦争だから老幼男女を爆撃しても仕方がないと考えている。「戦争だから」という言葉を、僕は電車の中でも聞き、街頭でも聞いた。昨夜も、焼き出されたという男二人が、僕の家に一、二時間も来ていたが、「しもた家が焼かれるのは仕方がないが、戦争なんだから。工場が惜しい」と話していた。日本人の戦争観は、人道的な憤怒が起きないようになっている。

    清沢洌 『暗黒日記』  昭和二十年四月十六日

 

 本日は、「無差別爆撃の源流 ― ゲルニカ・中国都市爆撃を検証する」と題された、「東京大空襲・戦災資料センター 戦争災害研究室」主催のシンポジウムに参加して来た。

 冒頭に紹介した清沢の日記の一節は、会の冒頭で、司会役の吉田裕さんによる問題提起の中で触れられていたものだ。

 当時の日本には、市民に対する攻撃も、「戦争だから」という形で容認する風潮が存在していたことがわかる。

 清沢の日記は、昭和20年になって、日本が受けることになったB29による都市無差別爆撃の経験の最中で書かれている。

 支那事変から大東亜戦争へと続けられた大日本帝國の戦争は、その終末期である昭和20年には、本土の各都市が米軍による無差別爆撃の対象とされる事態を経験していた。

 そして、老幼男女が爆撃の犠牲となることに対して、多くの日本人が「戦争だから仕方がない」という受け止め方をしていたということが、清沢の記述から理解されるのである。

 昭和12年に始まる、いわゆる支那事変の進展と共に、大日本帝國陸海軍航空隊による、中国の都市への無差別爆撃が敢行されていた。陸上戦闘に伴う空軍力の対地支援としての爆撃ではなく、戦闘地域を離れた都市(の民間人)を目標とした爆撃としての「無差別爆撃」は、既に大日本帝國の軍事行動において採用されていたのである。

 昭和20年になって、本土の日本人が味わうことになった無差別爆撃は、それまでの大日本帝國の軍事行動から見る限り、非難の対象とされるべき行為であるとは思われていなかったのだろう。であるからこその「戦争だから仕方がない」という認識であるはずだ。

 問題の、大日本帝國陸海軍航空隊による無差別爆撃として、昭和13年2月に開始される重慶への都市爆撃の研究報告が、シンポジウム後半の二つの報告のテーマだったのだが、前半の報告ではヨーロッパも視野に入れた中で、「無差別爆撃」の問題が取り上げられていた。

 ひとつが、シンポジウムの表題にもあるゲルニカ爆撃であり、「ゲルニカ―無差別爆撃のルーツ」と題した荒井信一さんの報告があった。

 1937年4月26日、フランコによるスペイン共和政府への反乱へ協力するドイツ・イタリアの航空機部隊が、バスクの町ゲルニカを爆撃したのである。

 当時の記録資料から、その日の軍事行動が偶発的なものではなく、事前に無差別爆撃として計画されたものである可能性を立証出来ることが報告されていた。

 木造建築に対する焼夷弾攻撃として、作戦が当初から立案されていたことが窺われるのである。

 私としては、焼夷弾の開発に当たっていたのが、I ・G ファルベン社であるという説明に興味を覚えた。同社工場に労働力を供給するために作られたのがアウシュヴィッツの第三収容所であるからだ。本題からは離れた感想であるが、書きとめておきたい。

 もう一つの報告が、「リーフ戦争からスペイン内戦へ―生存破壊のための空爆とその衝撃・記憶・謝罪―」と題された、深澤安博さんによるものだ。この報告によれば、無差別爆撃は1920年代にスペイン領モロッコで既に行われていたというのである。

 そこでは、スペイン軍航空機により毒ガスも頻繁に使用されていたというのだ。

 そこで出てくる視点が、無差別爆撃という手法と、それに結びついた毒ガス使用のはらむ問題ということになる。

 ここでは、植民地における軍事行動での、非軍事目標に対する躊躇のない毒ガス使用という問題(30年代にエチオピアではイタリアも使用)から、「帝国主義的な人種殺害の所産」としての東京大空襲をはじめとした日本本土の都市への無差別爆撃、という観点が導き出されることになる。この観点は、日本に対する躊躇のない原爆使用の説明として説得力があるだろう。

 もちろん、都市無差別爆撃という問題を、人種差別からのみ説明することは出来ないだろう。

 都市無差別爆撃の無慈悲な実行者は英国空軍であり、対象となったのはドイツだからだ。

 そのために、爆弾搭載量の大きい四発の重爆撃機を開発し、実際に都市無差別爆撃の手段として広範囲に使用したのが英国空軍なのである。

 ただし、記憶によれば、英国空軍爆撃機部隊の司令官として都市無差別爆撃を推進したアーサー・ハリスの経歴には、植民地での勤務があったように思う。その意味では、ハリスの手法の背後には植民地勤務の経験があり(すなわち人種主義的な発想があり)、その経験がドイツに対する都市無差別爆撃という選択に結びついていた可能性を考えることは出来そうである。

 もちろん、都市無差別爆撃には別の重要な側面もあるだろう。近代的総力戦の中での出来事であるという理解である。

 総力戦においては、戦争は前線の戦闘部隊のみの問題ではなくなる。前線の軍隊間の戦争ではなくなり、実際問題として国民同士の戦争になってしまうのである。

 たとえば、昭和19年8月4日、小磯内閣は、

軍官民を問はず一億国民が真に一丸となつて戦闘配置につき、本格的戦争態勢を確立することにこそ現下の急務

との認識の下に、「一億国民総武装」を閣議決定している。「閣議決定」は法的拘束力は持たないにしても、「軍官民を問はず一億国民が真に一丸となつて戦闘配置につき、本格的戦争態勢を確立すること」という文言には、総力戦という近代戦の現実が反映されている。

 支那事変以来の「国家総動員体制」そして「高度国防国家」の形成という国家目標を考えた時に、そこに軍官民の別は消滅してしまう。

 都市無差別爆撃は、国家総動員体制そして高度国防国家という理念に既に含まれていたものではないのか。

 清沢の紹介する空襲犠牲者達の言葉は、そのことを物語っているようにも思えるのである。

(本日の日記、シンポジウム内容の紹介というよりは、私の感想に傾いていることをお断りしておきます←特に後半)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/10/20 22:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/45744/user_id/316274

 

 

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