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2008年12月

2008年12月26日 (金)

無差別爆撃の論理 3

 

 「無差別爆撃」という問題には、当然のことながら、様々な切り口が存在するだろう。

…という書き出しで、2回ほど、「無差別爆撃の論理」のタイトルで「問題」を考えて来た。

「無差別爆撃の論理 1」 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-d699.html

「無差別爆撃の論理 2」 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-ca7d.html

 今回は、その3回目として、アニメを切り口に「無差別爆撃の論理」へと迫ってみたい。

 取り上げるのは、ウォルト・ディズニーの1943年の作品、「 Victory Through Airpower (空軍力の勝利)」である。

 Alexander Procofieff de Seversky 少佐(「セバスキー」と読むらしい)の、1942年の同名の著作(ベスト・セラーとなったという)のアニメ化ということだ。商業的な成功を狙ったものではなく、戦争の展開の中で、啓蒙的な意図の下にアメリカ国民へ向けて制作された、ディズニー自身の企画による自主企画作品である。

 まずは、予告編の画像をご紹介しよう。

Victory Through Airpower Trailer (1943)
 → http://jp.youtube.com/watch?v=PFvc46nMNcw

 アニメ中にも、原作となった著書が登場している。

 セバスキー少佐は、1894年のロシア生まれ、第一次世界大戦中はロシア海軍のパイロットとして従軍。戦闘による負傷で片足(膝下)を失うが、義足で戦線に復帰し、6機(日本版ウィキペディアによれば13機)撃墜の「功績」を上げている。革命後にアメリカに亡命。

 陸軍航空隊のウィリアム(ビリー)・ミッチェルの下で、テスト・パイロットそして技術的アドヴァイザーを務める。

 1931年に、航空機メーカー、「セバスキー社」を設立。社は、1936年に「リパブリック社」へと改名。第二次世界大戦中の米軍の主力戦闘機となる、P-47サンダーボルトの開発・生産に当たることになる。

 「無差別爆撃の論理」という観点から興味深いのが、セバスキーとビリー・ミッチェルとの関係だろう。ミッチェルは、第一次世界大戦後に、独立した空軍の設立を主張したことで有名となった人物である。

 第一次世界大戦後の軍事的世界における空軍力の優位を主張しながら、当時の軍から排除されたことでも有名であろう。現実には、陸軍では戦場における大部隊同士の決戦、海軍においては戦艦同士による艦隊決戦こそが戦争の帰趨を決めるという観念が、当時の軍事理論を支配していたわけである。

 ミッチェルは、自身の主張の証明のために、捕獲したドイツの「不沈戦艦」オストフリーラントを、航空機から投下した爆弾6発で沈めてみせるというパフォーマンスまでしてみせたのだが、1921年7月のその「実験」を背後で支えていたのがセバスキーなのである。

 つまり、第一次世界大戦後のアメリカで、空軍力の優位を主張した将官に仕えていたのが、このセバスキーということなのだ。

…と原作者セバスキーを理解した上で、「予告編」をもう一度見て欲しい。

 セバスキーが、そしてディズニーがアニメ上で、アメリカ国民に対して主張しているのは、長距離爆撃機による都市無差別爆撃(citys and homes to be bombed)の実行による、戦争の「早期終結」である。

 アメリカ本土から発進し、無着陸で日本を攻撃可能な長距離爆撃機の開発が主張されている点に注目したい。アニメでも描かれているように、既に、ドイツ本土は米英空軍保有爆撃機の爆撃対象であったが、日本本土を爆撃対象としうる長距離爆撃機は、量産機としては存在していなかったのである。

 アニメ上で構想されたような長距離爆撃機の保有は、第二次世界大戦中には実現することはなかったが、冷戦期に「活躍」するB-52の空中給油システムに支えられた長航続距離は、まさにその構想の現実化したものと考えられるだろう。そのB-52が、やがて、北ベトナムへの無差別爆撃の実行者となっていくわけだ。その意味で、アニメに描かれた構想は第二次世界大戦を飛び越え現在へと直結している。1999年、コソヴォ紛争に際し、米空軍のステルス爆撃機B-2は、米国本土の基地から発進し、目標爆撃後は、そのまま(無着陸で)米国本土基地へ帰還しているわけである。

 もう一つの注目点は、これまでの「無差別爆撃の論理 1~2」でも述べた通り、都市への無差別爆撃の実行が、人命の損失の減少(saving human-life)をもたらすものとして位置付けられているところだろう。第一次世界大戦で経験されたような、前線兵士の膨大な犠牲に比べ、より少ない民間人の犠牲が国民の間に厭戦気分を生み出し、早期の戦争終結に結びつくだろうという期待に支えられている「論理」である。

 主張されてるのは、軍事的報復としての、無慈悲な市民への攻撃の必要性ではない。最小限の犠牲者の上に成り立つ(はずの)戦争終結の可能性であり、その手段としての都市無差別爆撃なのである。

 「 Victory Through Airpower (空軍力の勝利)」は、まさにその「論理」で展開されているアニメなのだ。

 当時の文脈の中での「無差別爆撃の論理」を理解する上で、このアニメは、歴史的に重要な資料の一つとして考えられるべきものであると思う。

セバスキー

 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

Alexander Procofieff de Seversky

 → http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Procofieff_de_Seversky

 → http://www.theaerodrome.com/aces/russia/deseversky.php

Victory Through Airpower (ウォルト・ディズニーの項目中に記述がある)

 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC

ウィリアム・ミッチェル

 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/12/26 17:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/89746

 

 

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2008年12月14日 (日)

続・ルーズベルトの真珠湾 対日先制攻撃の可能性

 

 アメリカ大統領ルーズベルトは、実は、大日本帝國海軍による真珠湾攻撃に先立ち、日本への先制攻撃計画を立てていたのだ、というウワサがあるらしい。

 

 実際に、日本各地への都市爆撃による攻撃プランの文書の存在と、ルーズベルト自身の署名が確認されている、という話である(ネットの知識 : その趣旨のテレビ番組の放送もあったらしい)。

 1941年当時、中国大陸では、アメリカ陸軍航空隊出身のクレア・L・シェンノート により、中華民国政府を支援する米国民の義勇航空部隊(フライング・タイガースとして知られることになる)の設立が進行中であり、その過程での文書ということになるのだろう。

 ネット上の情報を総合すれば、アメリカ政府の提供する爆撃機により、シェンノート率いる義勇航空部隊が、日本の都市を爆撃するというプランだったという。

 このプランを提示した文書へのルーズベルトの署名をもって、ルーズベルトによる対日先制攻撃計画の存在が論じられている(論じられようとしている)ということであるらしい。

 

 

 十分な情報のない中での見解であるが、問題点を指摘しておきたい。

 

 

 まず、文書自体の性格と署名の位置付けである。

 アメリカ政府レベルでの正式な文書であったのかどうか、それを確認する必要がある。

 対日先制攻撃計画、そしてそれに伴う中華民国への爆撃機供給の可否。それは、政治的にも軍事的にも、高度の判断の要求される問題である。政府内部での意思一致、軍との十分な協議、そして議会承認の可能性の判断なしに、計画の推進は出来ない。

 問題の文書はどのレベルのものであったのか、という疑問を持たざるを得ない。

 同時に、検討の必要があるのは、ルーズベルトの署名の性格である。先制攻撃計画のゴー・サインなのか、単なる読了を示すものなのか?

 上記の二項の検証抜きに、ルーズベルトによる対日先制攻撃計画を云々するようでは、拙速の謗りを免れないだろう。

 

 これまで伝えられている、フライング・タイガースに関するシェンノート自身の構想は、戦闘機部隊としての拡充であって、爆撃機部隊設立構想ではなかった。むしろ、爆撃部隊の方を求める、軍事顧問トップのスティルウェルとの対立の存在が伝えられている。

 そのような文脈を考慮すると、文書自体が、どこまで現地レベルの広範な合意に基づくものであったのかにも検証の余地がある。

 

 それに実際問題として、つまり歴史的時系列上の問題として、フライング・タイガース自体の部隊発足・実戦参加の時期をも見ておく必要があるだろう。

 米国内での義勇兵募集を完了し、部隊(戦闘機部隊である)がビルマに到着するのは1941年11月の話だ。ビルマ上空での(中国上空ではない)日本軍との空戦は同年12月20日になってのことなのである。

 

 その上で、たとえ爆撃機の供給が承認されたとしても、その爆撃機での対日本本土爆撃の実現の可能性があったとは思えないのである。

 当時の米国の保有する爆撃機の航続距離という問題を考えねばならない。利用可能な中国国内の航空基地からは、対日爆撃の実行の可能性はなかったのではないだろうか?

 航続距離の問題は、後に登場するB-29に至っても、ついてまわったことを思い起こす必要がある。B-29でさえ、成都の基地からの北九州爆撃が限度であり、サイパン陥落までは、東京を中心とした本土の都市爆撃の実行は不可能であったのである。

 1942年のドゥリットルによる東京初空襲は、太平洋上の空母から発進させた双発爆撃機B-25によるものであったことの意味を理解しておく必要があるだろう。

 1941年時点での、中国内航空基地からの日本本土爆撃計画など、空論の謗りを免れないのではないだろうか?

 

 もちろん、対日戦闘の前線の指揮官にとっては、何であれ武器の入手は最大の課題であったはずだ。爆撃機供給の要求自体は、その意味で、自然な話なのである。

 

 

 とりあえず、空論としての議論のエスカレートの前に、考えておくべきことを示してみた。

 もちろん、文書の存在自体は興味深いものである。

 

 

〔追記〕

 その後、アラン・アームストロングの『「幻」の日本爆撃計画 「真珠湾」に隠された真実』(日本経済新聞出版社 2008)に目を通す機会を得た。
 確かに、大統領を含む米国政府及び軍の高官により、中国国民政府への爆撃機供与による対日先制爆撃計画が検討されたことは自体は事実のようである。しかし、当時の米国の置かれていた状況とその中での外交的課題及び軍事的戦略を理解する者ならば、あくまでも多くの選択肢の一つとしてそのような提案があったということに過ぎず、(外交的にも軍事的にも)戦略的には現実化の可能性の低いプランであったと考えるであろう。
 1941年当時のルーズベルトの最大の課題は、1939年以来のナチスドイツによる戦争で危機に陥っていた英国の救援であり、即ちヨーロッパにおける戦争への参戦であった。その最大の障害となっていたのは、孤立主義的伝統を持つ米国内世論だったのである。
 対日先制攻撃の実行が戦争を望まない米国内世論の支持を得るものとならないことは、大統領自身もスタッフも熟知していたはずだ。ハル・ノートの持つ意味の一つは、それがもたらす、日本による対米先制攻撃の可能性の増大にある。ハル・ノートを日本が受け入れれば中国国民政府と米国の利益に合致し、それ自体が有益であるし、ハル・ノートへの日本の反発と対米先制攻撃の現実化は、日本の同盟国としてのドイツへの宣戦布告=ヨーロッパの戦争への参戦を、米国内世論の支持の下に実現させることになる(どちらに転んでも米国の―そしてルーズベルトの―利益となるのである)。ルーズベルトが中国大陸での蒋介石の敗北を望むことはなかったが、より重要なのはチャーチルの英国がナチス・ドイツに屈服しないことであった。中国大陸における日本の軍隊の軍事力行使を支えていたのは、実は、米国の石油だったのであり、日本の蒋介石に対する勝利は米国の態度に依存していたのである(つまり、既に日本の命運は米国の手の内にあったのだ)。一方、英国への有効な支援と考えられていたのは米国自身の対独参戦であり、ルーズベルトの目標はそこに定められていた。米国からの石油確保の困難に直面しつつあった大日本帝國は、中国大陸での戦闘終結の選択ではなく、南方資源の獲得による打開策を選択し、ついに対米開戦に至る。結果としてルーズベルトは対独参戦への説得力ある理由(国内世論への「説得力」である)を得ることが出来たのであった。
 日本による真珠湾攻撃の成功は、米国太平洋艦隊への手痛いダメージとなった(それを許してしまったことは、国内的にも大統領の威信の低下をもたらした―その点を議会でも追求されている)と同時に、孤立主義的国内世論の大転換(これこそが大統領の求めていたものであった)にもつながるものとなった。
 そのような大局的視野の下での米国の戦略的構図を理解する者ならば、「ルーズベルトによる対日先制攻撃計画」の存在に関し、あの戦争に至る時期の一エピソード以上の評価を与えることはないように思われる。
                    (2010年11月20日)

 

 

  

クレア・リー・シェンノート
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88

フライング・タイガース

 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9

ドーリットル空襲(東京初空襲)

 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%88%9D%E7%A9%BA%E8%A5%B2

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/12/14 14:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/88438

 

 

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2008年12月 9日 (火)

ルーズベルトの真珠湾

 

帝國・米英に宣戰を布告す

 西太平洋に戰闘開始

  布哇米艦隊航空兵力を痛爆

【大本營陸海軍部発表】(12月8日午前6時)帝國陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戰闘状態に入れリ

【大本營海軍部発表=八日午後一時】

一、帝國海軍は本八日未明ハワイ方面の米國艦隊並に航空兵力に對し決死的大空襲を敢行せり

     (朝日新聞 東京版 昭和16年12月8日 夕刊)

…と、1941年12月8日の朝日新聞・夕刊の第一面トップに書かれている(「帝國・米英に宣戰を布告す」は右から左への大活字の横書き)。

 真珠湾に対する攻撃の報の横に並んで、「宣戰の大詔」が掲載され、更に「大本営海軍部発表」の続き、そして「社説」が並ぶ。

 その下段に「我海鷲、ハワイ爆撃」の見出しと共に、戦果が紹介されている(ただし詳細なものではない)。

 実際の戦果はというと、

日本軍の戦果 : 真珠湾在泊の戦艦8隻のうち撃沈4隻(アリゾナ・オクラホマ・ウェストバージニア・カリフォルニア)、大破3隻(ネバダ・メリーランド・テネシー)、小破1隻(ペンシルバニア)。地上基地飛行機の破壊は陸軍機231機・海軍機80。アメリカ軍に与えた人的損害は戦死・行方不明2402人(市民68人を含む)、戦傷1382人(市民35人を含む)。

日本軍の損害 : 喪失29機。戦死55人。

     (『太平洋戦争・主要戦闘辞典』 PHP文庫 2005)

となっている。

 パーフェクトゲームという気がしてしまったのも無理はないだろう。

 しかし、この戦果には空母が含まれていない。米太平洋艦隊所属の空母3隻は、在泊しておらず無傷のままであった。

 また、日本海軍による攻撃も徹底さを欠き、第3次攻撃は見送られてしまう。

 結果として、破壊を免れた乾ドックなどの米海軍施設は、被害を受けた艦船の補修に活躍することになる。戦艦8隻のうち6隻は引き上げられ、補修の上、戦列に復帰してしまうのである。

 結局、現実の戦果(つまり米海軍へのダメージ)は戦艦2隻の撃沈にとどまってしまうことになる。

 また、ワシントンで続けられて来た日米交渉打ち切りの通告も、在米日本大使館の不手際により、真珠湾攻撃の事後のものとなってしまう。

 その結果として、米国民からは「奇襲・騙まし討ち」という評価を与えられ、彼らの復讐感情を大きく刺激することになる。米国民の戦意高揚に貢献してしまったのである。

 ルーズベルトは、ハル・ノートの提示の結果、大日本帝國政府による日米交渉の打ち切りに至るであろうことは予測していたであろうし、暗号文解読の結果として、大日本帝國による先制攻撃のあることも予測していたようである。それを根拠にしての、ルーズベルトの仕掛けた罠だったという、一種の陰謀説も流布しているようだが、私は採用する気にはなれない。

 ルーズベルトあるいは米国政府及び軍当局者が、連合艦隊によるハワイへの攻撃、それも空母からの航空機による攻撃という事態まで予測していたと考えるには無理があるだろう。しかも第3次攻撃が実行され、あるいは別の海域で空母が発見・攻撃されていれば、米海軍は太平洋から姿を消していたのである。

 それが実現しなかったのは、ルーズベルトの陰謀あるいは戦略の結果ではなく、帝國海軍の不徹底さの結果と言うべきだろう。

 米海軍力の壊滅の可能性さえあったのが、帝國海軍による真珠湾攻撃なのであり、そんなチャンスを誰が自ら与えようとすると言うのだろうか? 

 そして、在米日本大使館の不手際まで予測出来なければ、日本軍による卑劣な奇襲という評価の獲得も出来ない。

 私は、陰謀説の採用には批判的にならざるを得ないのである。

 いずれにしても、温存された米空母と修復された艦船、そして新造される艦船と量産される航空機。アメリカの巨大な物量が、「リメンバー・パールハーバー!」の合言葉と共に大日本帝國へと向けられ、昭和20年8月15日の玉音放送という結末に至るのである。

 大本営および帝國政府には、どこまで問題を把握出来ていただろうか?

 赫々たる戦果の陰に生まれていた米国民の戦意の恐ろしさを。その生産力の巨大さを。

 真珠湾攻撃の成功が、その成功こそが、米国の国力のスイッチをオンにしてしまったのである。

 しかし、昭和16年12月8日の夕刊紙面から、誰が玉音放送という帰結を予測出来たであろうか? 

 結果を知っている現在から見れば、敗戦は当然の帰結に過ぎないと思われるが、後知恵による批判もまた空しい。

 昭和16年の今夜、国民の多くは、戦果を歓迎して眠りに就いたはずである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/12/08 22:34 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/87878

 

 

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2008年12月 7日 (日)

田母神氏にとってのプライドという問題

 

 自分の失敗を、誰かのせいにする。

 誉められた話ではないと思う。プライドがあるなら、してはいけないことだろう。

 今回も、

 我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

 (http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

という、田母神氏の文章への感想だ。

 別のところでは、田母神氏は、対米開戦の決定を、ルーズベルトのせいにしている。

 プライドがあるなら、他人のせいにするな。

 政治的過程において、様々な駆け引きをし、深慮遠謀をめぐらすことは当然なのであって、その能力に欠けることは、政治家としての力量不足を示すに過ぎない。

 蒋介石のせいで日中戦争に引きずり込まれ、ルーズベルトのせいで対米開戦をさせられた、あるいはコミンテルンのせいで戦争をすることになった、などという主張は、単に主張している当人の政治的想像力の未熟さと、擁護されている大日本帝國の政治指導者の政治的力量不足を露呈してしまうものとなるだけに過ぎない。

 プライドあるナショナリストなら、恥ずかしくて出来ない類の話である。

 しかし、その田母神氏は、そんな内容の「論文」で賞金300万円をゲットしてしまったわけだ。要するに、審査委員も、賞の主催者も、田母神氏の礼賛者達も、プライドあるナショナリストではなかった、と考えておくべきなのだろうか?

 存在するのは、大日本帝國の政治的・軍事的指導者に比しての、蒋介石の政治的・軍事的力量及びルーズベルトの政治的構想力の卓越さなのである。

 実際の政治的・軍事的決定過程を支配していた大日本帝國の軍人達には、戦術的にも戦略的にも、低い評価しか出来ないということだ。

 肝心の点から目をそらし続ける限り、歴史から何かを学ぶということは出来ない。

 負けた戦争の反省という点において、自らの側の力量不足を問うことなく、相手が強過ぎたから負けたのだ、強過ぎた相手がズルイ、なんて言ってしまっては、あまりにみっともないのではないか、と私は思うのだが、田母神氏や田母神氏の礼賛者達には、そのような発想はないのであろうか?

…というか、負けた戦争をもたらした大日本帝國の指導的軍人達に特徴的であったのが、すべてにおいて自分に都合よく考えるという精神であった、ようにも思えるわけだ。

 事実関係を冷徹に分析することが出来ず、希望的観測にすべてをゆだね、論理的整合性や合理的判断を軽視した精神主義に陥った果てに、歴史的に未曾有の敗戦という結末を迎えてしまったのだと考えることこそが重要であろう。

 そのように考えた時に、田母神氏とその礼賛者達の発想が、実に、かつての大日本帝國の軍事指導者達の似姿であることに気付かされる。

 すべてに自分にのみ都合よく考えるという精神のあり方。

 亡国に至る精神である、と私は思う。

 少しはプライドを持ってくれ、それが彼らへの私の願いである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/11/15 21:51 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/85459/user_id/316274

 

 

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田母神氏は『軍人勅諭』もご存じない?

 

抑(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆゐぢ)するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ

 → http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/gunnjinntyokuyu.htm

…と、『軍人勅諭』には書かれている。

 もちろん、注目点は、

   世論に惑はす政治に拘らす

という一節であろう。

 大日本帝國は、大東亜戦争の結果、滅び去ったわけであるが、昭和期の大日本帝國における特徴的事態として、軍人の政治への積極的関与が指摘出来るだろう。

 端的に言って、まさに、軍人の政治への直接的関与、政治過程における軍人の直接的権力行使こそが、大日本帝國の滅亡をもたらしたのだということは、日本の近代史を語る上で、銘記されるべき事項であることは否定し難い。

 昭和期の軍人が、『軍人勅諭』の精神を踏みにじり、政治に介入し、政治を軍事に従属させた果てに、ポツダム宣言の受諾という実質的無条件降伏にまで、国家を至らしめたということは、この国の歴史的経験として深く認識されるべき事柄であろう。

 自国民と他国民の身の上に、膨大な犠牲を強いた果てに、大日本帝國は滅びたのである。

 軍人勅諭の精神を踏みにじり、人々の命を踏みにじり、大日本帝國の存在を踏みにじった者こそが、昭和期の指導的軍人であったことを、決して忘れるべきではないのである。もし、自分を愛国者であると考えようとするならば。

 自らの所属する国家を滅ぼし、多数の国民を死に至らしめたことの責任は大きいだろう。かつての大日本帝國における、政治を軍事に従属せしめるような事態を作り出してしまった高級軍人達の責任の大きさから目をそらさず、その責を追求し続けることこそ、愛国者であることを目指す者の義務ではないだろうか?

 昨日、引用した猪木正道氏の言葉を、ここで再び読み返すことも、問題の理解の上で必要なことと思える。

 猪木氏が、

 軍国日本が自爆したのは、軍に立憲国家を超えた特権的地位を与えた結果である。日露戦争に勝ってから、日本の軍人におごりが生じたのは、無理もない。しかし満洲を中国から切り離して日本の支配下に置こうとする野望に対しては、1906年5月の”満洲問題に関する協議会”で、元老伊藤博文がきびしく児玉源太郎参謀総長を叱ったように、文民統制を貫徹するべきであった。

 国際協調主義を堅持していたかぎり、日本の軍事力は国民からも外国からも信頼されて、わが国の興隆の原動力となった。軍事力が暴走しはじめた時、わが国は国際社会に孤立して、自爆ないし自殺に追いこまれたのである。
 (猪木正道 『軍国日本の興亡』 中公新書 1995)

と書いていた、その意味を、深く認識しなければならない。

 まさに戦後日本は、その反省から、シビリアン・コントロール(文民統制)を、政治過程の基本原則としたのである。

 その上に、自衛隊法も存在するわけだ。自衛隊法では、

(政治的行為の制限)
第六十一条  隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。
2  隊員は、公選による公職の候補者となることができない。
3  隊員は、政党その他の政治的団体の役員、政治的顧問その他これらと同様な役割をもつ構成員となることができない。

と定めている。

 『軍人勅諭』においてと同様に(と言ってよいのかどうかはわからないが)、「自衛隊法」においても、軍人としての自衛官には、政治的行為からの距離が求められているのである。

 航空幕僚長であった田母神俊雄氏の、「日本は侵略国家であったのか」というタイトルの「論文」(http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)の内容は、集団的自衛権をめぐる主張はもちろんのこと、歴史解釈への言及自体が、非常に政治性を帯びたものとなっている。

 「論文」の発表にとどまらず、防衛相による処分への反発まで公言するようでは、田母神氏の行為は、文民統制の精神をはなはだしく逸脱しているものと言わざるを得ない。

 『軍人勅諭』の文言を用いれば、田母神氏の、「世論を惑はし政治に拘り」という姿勢こそが問題、ということになるわけだ。

 かつての大日本帝國の高級軍人達の、『軍人勅諭』の精神からの逸脱は、亡国の事態を招いた。

 今回の、航空幕僚長であった田母神俊雄氏の「文民統制」の精神からの逸脱、「自衛隊法」の精神からの逸脱も、その放置は、やがての新たな亡国にまで発展しうる、大きな危険性を秘めたものであると考えておくべきであろう。

 もし、自分を愛国者であると考えるならば。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/11/13 22:01 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/85241/user_id/316274

 

 

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田母神氏の「論文」のホントのお値打ちは…??

 

 航空幕僚長であった田母神俊雄氏の、「日本は侵略国家であったのか」というタイトルの「論文」(http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)の評価に関する私の考えを、

 「創氏改名」と賞金300万円の駄文
  → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/84585

 実は蒋介石を賞賛している(!?)賞金300万円獲得「論文」の不思議
  → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/84908

 実は「東京裁判史観」を披瀝している田母神氏の謎
  → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/85012

と、これまで3回に渡って書いて来た。

 「論文」と呼ぶに値する文章に必要なのは、何らかの新しい知見の存在ということになるだろうか?

 少なくとも事実関係の確定への努力と、記述に際しての論理的整合性の保持を抜きに、提示された文章が「論文」として評価されることは、通常なら、あり得ないことだろうう。

 大量の事実関係についての認識の誤り、そして論理的整合性のまったくの欠如。それが、田母神俊雄氏の「論文」を特徴付けていることは、これまでの3回の私の論考をお読みになれば、ご理解いただけるものと思う。

 少なくとも、「論文」として考える限り、田母神氏の「日本は侵略国家であったのか」という文章には、一文の価値もないと評価せざるを得ないのではないだろうか?

 300万円もの金銭を、あの「論文」の賞金として提供するというのは、実に異常な事態であると言わねばなるまい。一般的な意味での「論文」としての評価からは、300万円という金額は、(繰り返すが)、実に異常である。

…というようなことを考えながら、猪木正道氏の『軍国日本の興亡 - 日清戦争から日中戦争へ』(中公新書 1995)を読み返していた。

 大正三(1914)年生まれの猪木正道氏は、言うまでもないだろうが、防衛大学校の校長という経歴の持ち主である。

 かつての防衛大学校の校長は、その著書の「まえがき」を、

 戦前・戦中の軍国主義は、戦後の空想的平和主義とみごとな対照をなしている。敗戦で軍国主義から解放されたわれわれ日本国民は、戦後空想的平和主義にとりつかれた。たとえば社会党が野党の時代の村山富市氏の言動は、空想的平和主義そのものだといっても過言ではあるまい。

という言葉から始め、そのしばらく後で、

 広く深く根を張った空想的平和主義が一体何に起因するのかを考察して、私は戦前・戦中の軍国主義を裏返しにしたものだと気付いた。戦前・戦中の軍国主義と戦後の空想的平和主義とは、まるで双生児のようによく似ている。考え方が独善的であり、国際的視野を欠いて一国主義的であること等そっくりである。

 空想的平和主義を克服するためには、戦前・戦中の軍国主義を振り返ることが必要だと、私は痛感し、日清戦争からはじめて、日中戦争にいたる歴史を書くことにした。

と、『軍国日本の興亡』の執筆の動機を語っている。

 実際に戦争を体験した世代の、「空想的平和主義」を批判する側の陣営に属する人物によって書かれた『軍国日本の興亡』の最終章は、

 軍国日本が自爆したのは、軍に立憲国家を超えた特権的地位を与えた結果である。日露戦争に勝ってから、日本の軍人におごりが生じたのは、無理もない。しかし満洲を中国から切り離して日本の支配下に置こうとする野望に対しては、1906年5月の”満洲問題に関する協議会”で、元老伊藤博文がきびしく児玉源太郎参謀総長を叱ったように、文民統制を貫徹するべきであった。

 軍人の野望を制御できないと、日本は二つの強敵によって、はさみ討ちにあうことになる。一つは中国の”門戸開放”という原則から、日本の中国への侵略を絶対に認めないアメリカ合衆国の圧倒的な力である。いま一つは、半植民地化の危機に直面して、ようやくめざめた中国民族主義の巨大なエネルギーにほかならない。

 1922年2月6日、ワシントンで、「中国に関する九ヶ国条約」に調印し、1929年7月に発動した不戦条約に前年調印して参加しながら、軍国日本は、1931年から中国への露骨な侵略を開始した。中国に対する日本の侵略を、18、19世紀に英国が行った侵略と単純に比較して日英同罪を説くものがある。英国がインドや中国を侵略したころ、不戦条約はもちろんのこと、中国の主権と独立を約した九ヶ国条約も存在しなかった。侵略は美徳ではないまでも、悪徳とは考えられていない。侵略をはっきりと非難し、戦争を排撃するようになったのは、第一次世界大戦の惨禍を経験した後である。

 中国への日本の侵略行為が交際社会のきびしい非難にさらされた背景には、戦争、平和、侵略などに関する人類の価値観がはっきり転換したという重大な変化があった。

 軍国日本の自爆はもちろん、一部軍人だけの暴走ではない。広田内閣も、近衛内閣も、国際社会で日本を孤立化させるのにすこぶる寄与したし、浜口、若槻内閣は、間違った財政・金融政策に固執して、日本国民を未曾有の不況に追い込み、一部軍人の暴挙を支持する狂気を生んだ。

 国際協調主義を堅持していたかぎり、日本の軍事力は国民からも外国からも信頼されて、わが国の興隆の原動力となった。軍事力が暴走しはじめた時、わが国は国際社会に孤立して、自爆ないし自殺に追いこまれたのである。

という言葉で終えられている。

 リアリズムに裏付けられた、かつての防衛大学校校長の歴史認識がここにある、ということが出来るだろう。

 田母神氏やその称賛者達が、「東京裁判史観」を批判することに、わざわざ文句を言おうとは思わない。

 しかし、大日本帝國の歴史が、亡国に至る歴史であったことからは、目をそらさずにいて欲しいと思う。

 そして、その亡国に至る歴史の責任者の多くは、「東京裁判」の被告と重なるのだ、ということからも目をそらさないでいて欲しいと思う。

 田母神氏の称賛者達には、「日本は侵略国家であったのか」のような文章を読んで、身内の盛り上がりに終始するのではなく、せめて猪木正道氏の『軍国日本の興亡』に目を通し、歴史的事実関係をきちんと押さえたリアルな認識を獲得していただきたいと思うのだが…

…もちろん無理を承知での「願い」である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/11/12 23:45 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/85125/user_id/316274

 

 

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実は「東京裁判史観」を披瀝している田母神氏の謎

 

 今日も、300万円の稼ぎ方のお勉強を続けようと思う。

 

 田母神氏の例の「論文」(http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)中には、

 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

という言葉がある。

 ここには、大変に由々しき主張が隠されているのであるが、その問題性を指摘する前に、まず、数字のレトリックから検討の対象としよう。

 

満州帝國は、成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。

と、田母神氏は主張するのだが、田母神氏による人口統計の引用には仕掛けがある。

 満洲の人口増加について考えるのであれば、1932年~1945年のデータのみをもって、何かの結論を出すべきではないだろう。

 1908年~1931年のデータと比較してみよう。

 『ウィキペディア』によれば、

1908年の時点で、満洲の人口は1583万人だったが、満洲国建国前の1931年には3000万人近く増加して4300万人になっていた。

  (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD

ということである。つまり、「農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野に」、1908年から1931年までの23年間で、3000万人の人口増加がみられたということなのである。満洲国成立以前の満洲では、既に毎年130万人以上の人口が増え続けていたのである。

 であるとすれば、

満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。

という田母神氏の主張は、実際には、成立しない。

 もっとも、満洲の人口をめぐる私の知識は、『ウィキペディア』の記述以上のものではない。上記の指摘の妥当性は、現在の私には、本当のところ、わからないと言わざるを得ない。

 しかし、当の田母神氏ご自身も、満洲の人口問題について、私以上の知識の持ち合わせがあるとは思えない(「論文」と称するにもかかわらず、典拠も示されていないくらいだから)。

 

 満洲に関しての記述に続く、

朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。

という主張に関しても、水野直樹氏によれば、朝鮮半島の人口データに関しては、「1925年に簡易国勢調査が朝鮮でも行われたため、それ以降は正確度の高い数字を得ることができることになった」ということになる。つまり1925年以前の人口データの信頼性には、研究者により、疑問が付されているのである。

 もちろん、朝鮮半島の人口動態に関しては、私はまったくの門外漢であり、水野氏の主張の当否は判断出来ない。
 しかし、田母神氏ご自身が、私以上に、その問題に関し知識をお持ちとも思えない。

朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている

という田母神氏の記述の信頼性は、相当に低いと言わざるを得ないのである。

 つまるところ、都合よく解釈した人口データを根拠とした田母神氏の、

戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

という主張からは、説得力は失われてしまうわけだ。

 

 

 さて、ここからが本論である。

 田母神氏の「論文」のモチーフは何かと問われれば、一言で言えば、「東京裁判史観」からの、「大日本帝國の擁護」ということだろう。

 しかし、田母神氏の主張である、

我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。

我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。

という記述は、まさに「東京裁判史観」に立脚したものと言わざるを得ないのである。

 満洲事変後の満洲の取り扱いにおいて、大日本帝國政府は、満洲国の「建国」という道を選択している。田母神氏には、その意味がまったく理解出来ていないらしい。

 あくまでも、満洲国は独立国家なのである。まぁ、確かに、満洲国の「独立」など名目上のものに過ぎない。実態としては、確かに大日本帝國の「植民地」であったと言えるだろう。

 しかし、それを言っちゃぁ、大日本帝國政府の立つ瀬がないのである。

 手元にある、靖国神社・遊就館の図録(わが愛読書である)の[満洲事変]のページの「国際連盟脱退」の項には、

国際世論には、民族自決の精神に基づく満洲民族の国家承認という観点はなかった。

という説明文がある。

 大日本帝國政府の公式見解を尊重するなら、満洲国とは、あくまでも「民族自決の精神に基づく満洲民族の国家」でなくてはならないのである。

当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。

我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。

というような田母神氏の記述は言語道断と言わねばなるまい。

 満洲をめぐって「植民地」などと記述することは、まさに「東京裁判史観」そのものではないか。

 とんでもない話なのである。

…という、実に何とも重要な問題に、当の田母神氏はおろか、審査委員の皆さんも、賞のスポンサーも、田母神氏を称揚する「東京裁判史観」批判者の皆さんも、一向に気付いていらっしゃらないらしいのである。

 「天下の奇観」というのは、このような光景のための言葉ではないだろうか?

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/11/11 21:52 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/85012/user_id/316274

 

 

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実は蒋介石を賞賛している(!?)賞金300万円獲得「論文」の不思議

 

 今日も、300万円の稼ぎ方のお勉強をしておきたい。

 田母神氏は、例の「論文」(http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)中で、

 アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。
 この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

 我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

という「論理」で、蒋介石を非難している。

 しかし、そもそも、大日本帝國と清国、そして中華民国政府との間で締結された条約と、日米安全保障条約の性格は異なるものだ。

 日米安全保障条約により日本国内に駐留する米軍は、日本国の安全保障に不可欠の存在として、少なくとも歴代日本国政府からは考えられて来た。

 それに対し、かつて、中国大陸に駐留していた大日本帝国の軍隊が守ろうとしていたのは、大陸における大日本帝國の権益である。そこに存在していたのは、中国国民及び中国国民政府の利益を脅かす存在なのである。

 そこにあるのは、まったく異なる性格の条約であり、まったく異なる性格の駐留軍なのである。

 田母神氏は、その相違を無視するところで、身勝手な論理を展開しているに過ぎない、という点をまず指摘しておこう。

 その上で、田母神氏による蒋介石非難の「論理」を検討してみたい。

 田母神氏は、要するに、

1) 多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない

2) 我が国は国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置した

3) この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返した

4) 我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである

という「論理」で、大日本帝國を「被害者」として位置付け、蒋介石を非難しているわけだ。

 しかしその一方で、田母神氏は、かつての大日本帝國の行動の正当化の為に、

現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

と書いてもいるのである。

 そこにある「論理」は、

1) 人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた

2) 強者が自ら譲歩することなどあり得ない

3) 戦わない者は支配されることに甘んじなければならない

ということになるだろう。

 この「論理」を肯定することにより、蒋介石の行為は、実に正当な行為としてしか評価出来なくなってしまうことになる。

 田母神氏は、その「論文」の結語部分で、

 

 私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。

 

と書いているのだが、蒋介石は、まさに「自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛する」が故に、「強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない」と田母神氏により表現された当時の国際情勢の中で、大日本帝國による支配と戦った隣国の愛国者として、高く評価されざるを得なくなってしまうのである。

 少なくとも、田母神氏の論理展開には、そのような反論に対し、再反論をするための論理が用意されていない。

 つまるところ、この「論文」で田母神氏は、蒋介石を批判しているつもりで蒋介石の行為の正当化の根拠を提供しているのである。

 賞金300万円の提供者は、気付いているのだろうか?

 実は自分たちは、(それに気付くことなく)、蒋介石の愛国者ぶりを称揚してしまうような「論理」の隠された「論文」に、300万円を授けていたのだということに。

 論文を書いた当人、選考に当たった審査委員、そして賞金を提供した社長だか会長だかは気付いているのだろうか?

…って、そりゃぁ、気付いていたら、こんなことになってはいないだろうなぁ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/11/10 22:11 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/84908/user_id/316274

 

 

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「創氏改名」と賞金300万円の駄文

 

 今日は、参加しているMLに、話題の「論文」が紹介されていた。読んでみて、あまりに問題外な内容に驚かされたわけである。

 例の(?)、田母神俊雄元航空幕僚長の「論文」(http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)について、

 ↓ ↓ ↓

 多くの情報の中で、誤った事実については、
 注意深く検証する必要があると思います。

 関東軍の爆破事件
 こんな説もあるとは驚きでした。

 創始改名や人口の増加など、
 事実を積み上げていくと、ちょっと違った見方ができるように思います。

 たしかに、今の感覚で考えても、人口が増えるのは、
 暮らしやすかったとか、仕事があったのかと想像してしまいます。

 ↑ ↑ ↑

というご意見を、紹介者が表明しているのを目にしてしまったわけだ。

 関東軍の爆破事件
 こんな説もあるとは驚きでした。

なんて言われても、そんなことで驚くようじゃダメじゃん、としか言いようがないですよ。

 田母神氏のお説の通りに、張作霖爆殺の背後に関東軍が存在していないなら、田中義一が首相を辞める理由はなかったわけだし、柳条湖での満鉄線路爆破については、戦後に当事者の元関東軍将校が告白本を出版しているわけだし、その辺の検証を全く欠いたところで議論をすることには、意味はないと言うしかない。

 あの文章を「論文」と称するなら、最低限必要な作業でなくてはならないだろう。

 感心するような内容ではないのである。

 まぁ、私はそのお粗末さには、確かに「感心」してしまったのだけれど。

 で、MLコミュニティには、投稿者に対して、

 話題の田母神氏の「論文」をご紹介いただきました。
 私も、今回の「論文」がどんなものなのかわかり、
 大変に勉強になりました。
 お手数ありがとうございました。

と礼を述べた上で、

 その「論文」にどのような問題点があるのかについても、
 様々に論じられているようですが、
 私自身が勉強になったと感じたものをご紹介しておきます。
  ↓ ↓

 伊東乾 「KY空幕長の国益空爆」 (日経ビジネス オンライン)
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081104/176177/

 櫻田淳 「【正論】東洋学園大学准教授 櫻田淳 空幕長論文の正しさ・つたなさ」 (産経新聞)
 http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081107/acd0811070337000-n1.htm

 ご参考にしていただければと思います。

 その上で、私の感想を一点だけ述べておきましょう。

 田母神氏は、
 「創氏改名」についても触れているようですが、
 何が問題なのがが理解出来ていないことだけは確かのようです。

 「創氏改名」というのは、
 多くの方に誤解されているようですが、
 朝鮮名を日本風の名前に変更することのみを、
 言うのではありません。
 朝鮮名を日本風に変更しなかった事例は、
 別に珍しいものではないのです。

 ご存知のように、
 韓国・朝鮮では、
 結婚後も、妻は夫の姓を名乗ることはありません。
 ここに、朝鮮半島の家族制度の根幹のひとつがあります。
 これは、家族制度という文化の問題であり、
 日本の戸籍システムと朝鮮半島のシステムの、
 優劣の問題ではありません。
 現代日本で考えてみれば、
 夫婦別姓に多くの人が抵抗感を持つようですが、
 夫婦であること(夫婦の絆)と、
 姓の問題は、本質的には関係ありません。
 夫婦同姓は、決して、
 離婚を防ぐ手段にはならないわけですから。
 要するに、
 それぞれの文化の中での、
 親族体系の捉え方、命名法のバリエーションとして、
 考えるべき問題であるということです。

 ですから、
 法的に「創氏改名」の何が問題なのかと言えば、
 姓名を日本風にすることの強制の有無ももちろん問題ですが、
 問題の焦点はそこではなく、
 家族制度という文化のあり方の、
 強制的な改変であったという点にあるのです。

 当事者が伝統的なものとして考えている家族制度の改変が、
 いかに困難であるのか、
 そこからいかに大きな抵抗感が生じるものであるのかについては、
 「夫婦別姓」をめぐる議論を振り返ってみれば、
 容易に理解出来ることでしょう。
 要するに、
 朝鮮半島で大日本帝國がしたことは、
 現代の日本で、
 外国から「夫婦別姓」を強要されるようなものであった、
 と理解しなければならないということになります。

 以下は知人から伺った話です。

 田母神氏は、
 日本が朝鮮で大学を作るなど教育の向上に力を入れ、
 また朝鮮人を日本の士官学校や学習院に入学させたことを、
 高く評価しているようですが、
 当時の京城(現・ソウル)帝国大学は、
 主に日本人用の大学であり、
 たとえば、医学部の定員200名のうち、
 朝鮮人枠はわずか4人だったということです。
 また、京城市の周辺には、
 12の旧制中学校が設けられましたが、
 朝鮮人用の中学は3校だけであり、
 日本の士官学校や学習院へ入学出来たのも、
 旧王族や一部の特権階級だけだったそうです。

 多くの情報の中で、誤った事実については、
 注意深く検証する必要があると、私も思いました。

というお返事をしておいた。

 伊東乾氏が、「KY空幕長の国益空爆」でも書いている通り、論文としては、あまりに「ツッコミどころ満載」状態で話にならないことに(ウワサでは聞いていたものの)、まさに「こんな説もあるとは驚きでした」という気分を味わされたものだ。

 まぁ、これも紹介者のお陰である。

 しかし、こんな内容の「論文」で賞金が300万円!

 ダブニストもこれには実際驚いた。

 世の中にはウマイ話が転がっているものである。

 

 

〔付記〕

MLへの投稿を読み返し、肝心の点について不明瞭な書き方をしていたことに気付き、以下の投稿を追加した。

 ↓ ↓ ↓

 読み返してみたら、肝心の点を書き落としてしまっていました。

 要するに、「創氏改名」とは、
 朝鮮名を日本名へ改変することが強制されたかどうか、
 という問題にとどまることではなく、
 日本の戸籍制度の強制による、
 朝鮮半島の伝統的家族システムの破壊という問題をはらむ、
 大日本帝國による施策であったということを、
 きちんと理解しておく必要がある、ということですね。

 朝鮮名の継続的使用の事例が、
 「創氏改名」が存在しなかったとか、
 それが強制的なものではなかったという結論に結びつくとすれば、
 その認識自体が誤りだ、ということです。

 田母神氏ご自身は、
 その「論文」の結語部分で、
  ↓ ↓

 私たちは日本人として我が国の歴史について
 誇りを持たなければならない。
 人は特別な思想を注入されない限りは
 自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を
 自然に愛するものである。

 私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。
 歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。

  ↑ ↑

 と書いているわけです。

 田母神氏に何より必要なのは、
 この文の主体を、朝鮮人あるいは韓国人として、
 置き換えて考えてみることの出来る想像力でしょう。

 「創氏改名」という大日本帝國の施策は、
 自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を
 自然に愛することの出来た朝鮮半島の人々にとって、
 歓迎すべきものではなかったことを理解しなければなりません。

 輝かしい韓国・朝鮮の歴史を取り戻さなければならない、
 歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである、
 と考えた朝鮮半島の人々により、
 大日本帝國の敗戦と共に、
 「創氏改名」という施策が葬り去られたことの意味を、
 きちんと理解しないと、
 歴史から何かを学んだということにはならないでしょう。

               (投稿日時:2008/11/08 08:38

 ↑ ↑ ↑

という一文をMLに送信。

 田母神氏自身が、

 私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。
 歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。

と主張しているわけだけど、ご自身が歴史的事実の改変・抹殺を実行しているわけで、まことに困った事態。これじゃ、ホントに、日本も「衰退の一途を辿るのみ」ってことになっちゃうよ。

               (11月8日朝に記す)

 

 

〔追記〕

 要するに、文中でも書いたが、「創始改名」の問題の焦点は、姓名を日本風に変更することの強制の有無にあるのではなく、それぞれの民族の文化的固有性に基づく家族制度そのものを強制的に改変したところにあるのだ。

 占領軍(GHQ)による夫婦別姓の強制を仮定してみれば、多くの日本人にとって、それが簡単には受け入れ難い事態であったことが理解出来るであろう。

          (2010年2月24日)

 それとも、日本人には、「夫婦別姓」は、さして抵抗なく受け入れられるものだったであろうか? 聞くところによれば、「日本でも、明治年間に夫婦同姓が定められるまでは結婚しても女性は改姓しなかった」ということであるらしい。

          (2010年4月12日)          

〈参考〉

 金英達 『創氏改名の法制度と歴史』 (金英達著作集 1 明石書店 2002)

 「創氏改名」
  → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E6%B0%8F%E6%94%B9%E5%90%8D 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/11/07 22:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/84585/user_id/316274

 

 

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国体の精華としての特殊慰安施設協会

 

 何とか風邪からも脱出し、長い文章もO.K.になった。

 昨日は、歴史に名高い(?)特殊慰安施設協会を取り上げることまでしてしまった。

 要するに、戦中の日本人にとって、敗戦とは「戦時強姦」を意味していた、ということなのであろう。

 ここにあるのは、戦勝とは「戦時強姦」をする側にいることを意味し、敗戦が「戦時強姦」をされる側となることとして認識されていたという、戦中の日本人の意識のあり方である。

 前提にあるのは、「戦時強姦」を組織的に遂行した皇軍の存在であろう。

 昭和12年の支那事変段階での、南京攻略戦における戦時強姦の多発と、その問題性は、陸軍自身によっても認識され、その解決策として採用されたのが、いわゆる「従軍慰安婦」であるというのが通説である。

 その後に展開する大東亜戦争の全戦域を通じて、大日本帝國軍隊=皇軍と共に、従軍慰安婦の姿を見ることが出来るはずだ。

 昨日は、ML内でのやり取りから、ドイツ軍の慰安所が話題となり、かつて観たドイツ映画のワンシーンを思い出すこととなった。ヘルマ・サンダーズ・ブラームス監督 『ドイツ・青ざめた母』(1980)の中に、ドイツ軍の慰安所のシーンがあったのである。

 ただし、ML内のやり取りによれば、ドイツ軍の場合は、「従軍」慰安婦ではなく、現地の女性の採用によるものだったということだ。そこに「強制」があったのかどうかという点には、微妙なところが残りそうな気もするが(そこに、占領-被占領という、非対称な関係性があることは確かだし)、一般的な娼婦と客の関係としても理解可能にも見える。

…と書いていて、テオ・アンゲロプロスの作品『旅芸人の記録』(1975)にも、娼婦を前にしたドイツ軍人の姿があったことを思い出した。ここでの娼婦も、現地のギリシア人であり、「従軍」慰安婦は登場しない。

 いずれにしても、戦時強姦発生予防策としての「従軍慰安婦」の制度的な採用は、皇軍の特徴であるということであろう。ここにも、我が国体の精華を見出すべきであろうか?

 MLでのやり取りからは、特に従軍慰安婦としての朝鮮人の存在がクローズアップされている。植民地の女性を、従軍慰安婦として「活用」していたことは事実であるし、その採用手続きのすべてが公正なものであったとは思われない。…というのは穏やかな言い方であって、意に反して慰安婦とされた女性は多かっただろう。

 巷では、かつてのこの国での公娼制度の存在から、当時の法的システムの中での従軍慰安婦の存在を正当化しようという試みもあるようである。しかし、当時の実際状況を考えれば、公娼制度を支えていたのも、自由意志で娼婦となることを選択した女性ではないだろう。経済的困窮が、女性を売買の対象とさせ、売られた女性が陥るのが娼婦という境遇であったのも歴史的事実である。そのような農村の状況があればこそ、その解決を目指しての、昭和11年2月26日の青年将校の決起もあったのだということは忘れられるべきではない。

 かつての日本人は、日本人の女性を売買の対象とし、その売買の結果として女性を娼婦として取り扱うことを否定していなかったのである。従軍慰安婦の背景として、当時の日本における公娼制度の存在を取り上げるとすれば、その実態自体が問題なのであり、従軍慰安婦の存在の正当化になりえるはずがない、と私は思う。

 実際には、多くの植民地女性の意思を問うことなく、大量の兵士の性的充足の相手をさせたわけであるのだから、彼女らが性的奴隷であったという評価を否定し去ることは難しいだろう。

…と、我が国体の精華としての従軍慰安婦を位置付けたわけだが、MLのやり取りの中で思い出したのは、かつての日本映画の中にしっかり登場していた従軍慰安婦の姿であった。

 検索の結果、動画を発見する。

 タイトルは、

48年前(1959年)の日本映画における慰安婦の描写
          (監督・脚本:岡本喜八 )
 → http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=191511
 

となっているのだが、岡本喜八監督の『独立愚連隊』シリーズの一作である。

 朝鮮人慰安婦の存在、皇軍と共に移動する従軍慰安婦の姿も、しっかり描かれている。

 実際の戦場体験者が、まだ30代という時代の映画である。観客にとっても、映画製作陣にとっても、ここに描かれているのは自らの経験世界なのである。

 日常的な記憶の中に、従軍慰安婦の存在もあった時代の映画作品ということになる。

 皇軍の存在と不可分な従軍慰安婦という存在。それが戦後日本の娯楽映画の中に、しっかり記録されていたというわけだ。

 その背後にあるのが、戦時強姦とも不可分な存在であった皇軍の姿、ということになる。そして、特殊慰安施設協会の背後には皇軍の存在があり、つまるところ、特殊慰安施設協会もまた、我が誇るべき国体の精華ということになるのだろう。

 

  

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/27 23:34 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/83269/user_id/316274

 

 

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情けない日本の私(特殊慰安施設協会史ノート)

 

 高見順の『敗戦日記』、昭和二十年十一月十四日の条に、

 松坂屋の横に Oasis of Ginza と書いた派手な大看板が出ている。下にR.A.Aとある。Recreation & Amusement Association の略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。「のぞいて見たいが、入れないんでね」というと、伊東君が、「地下二階までは行けるんですよ」
 地下二階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の三階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、三階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼紙があった。「支那人と犬、入るべからず」という上海の公園の文字に憤慨した日本人が、今や銀座の真ん中で、日本人入るべからずの貼紙を見ねばならぬことになった。しかし占領下の日本であってみれば、致し方ないことである。ただ、この禁札が日本人の手によって出されたものであるということ、日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたものであるということは、特記に値する。さらにその企画経営者が終戦前は「尊皇攘夷」を唱えていた右翼結社であるということも特記に値する。
 世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が――。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。
 日本人は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと「慰安所」の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。
 戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。

という記述がある。

 以前から気になっていたのだが、今回、参加しているMLで、「パンパンガール」や「従軍慰安婦」が話題となっているのを読み、あらためて周辺を調べてみた。

 そのMLへの私の投稿内容、参加者のレス等が、本日のネタ元である。

 ネット検索の結果、佐藤正晴氏の論文、「占領期 GHQ の対日政策と日本の娯楽」(http://www.meijigakuin.ac.jp/~soc/fuzoku/nen/nen35ronbun/35sato.pdf)を発見。

 その「第2章 占領期の文化政策と RAA  第2節 RAA の実態」に、問題のRAA(特殊慰安施設協会)設立の経緯として、

 

 1945年8月18日、 RAA は、 東久邇稔彦首相と近衛文麿副総理、 外務大臣重光葵、 内務大臣山崎巌、 大蔵大臣津島寿一らが、 「日本婦女子の純潔が性に飢えた進駐軍兵士らに損なわれる」と心配し、 内務省による占領軍向け性的慰安施設の設置を指令、 この 「進駐軍のための特殊慰安施設を可及的すみやかに整備せよ」 という無電指令が、 内務省警保局長から全国の警察網に伝えられた。 これをうけて同年8月23日、警視庁の高乗保安課長が東京都の料理飲食業組合長宮沢浜次郎と総務部長渡辺政治を招き、「防波堤を作って婦女子を守りたい」 と協力を訴えたことに端を発する。
 この日、 発表された警視庁の方針と計画の中に、 「できれば、 公娼・私娼・芸妓・酌婦、 料亭・旅館・ホテル・ダンスホールなどを一ヵ所にあつめて、 総合的な大歓楽街をつくってもらいたい」 とあり、 この時点でダンスホールのような娯楽施設と公娼や私娼といった売春施設の差異が明確に考えられておらず、 これらの存在を別個に切り離そうという警視庁の意向が弱いものであったことが窺える。
 こうして同年8月26日に政府出資の事業資金3300万円で進駐軍特殊慰安施設の運営団体として RAA が警視庁に設立認可の申請をし、 2日後の8月28日、 22名の理事全員が皇居前広場で宣誓式を行った。 RAA に対する接客とダンスホールの許可は第八軍軍用娯楽施設課長ウイルソン大佐が与えている。

 
という時系列での、日本側の対応が示されている。

 確かに、事態は、高見順が、

 世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が――。

 戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。

と書いた通りなのであった。

 佐藤正晴の記述を用いれば、

 同年8月26日に政府出資の事業資金3300万円で進駐軍特殊慰安施設の運営団体として RAA が警視庁に設立認可の申請をし、 2日後の8月28日、 22名の理事全員が皇居前広場で宣誓式を行った。

とある通り、日本政府主導の下に、政府資金により設立されていたのである。

 また、民間での対応として、

 また RAA 以外でも、 アメリカ軍向けのクラブを作ろうという動きはあり、 代表的なものとして、 1945年10月に安藤明によって作られた「大安クラブ」 がある。 ここではアメリカ側との公式交渉にワン・クッションを置く民間外交の役割が期待された。 また長屋式の鳩の街や焼けビルの吉原とちがって、 大きなダンスホールを持ち、 ジャズのすきなアメリカ兵に快適な満足をあたえたと思われるのは、 小岩のインターナショナル・パレス (後の東京パレス)であり、 ここにも寄宿舎の食堂を改造したダンスホールが設営された。

 
という動きも紹介されている。

 ダンスホールには、娯楽施設という側面もあるが、一方で RAA の提供するサーヴィスの性的側面については、

 だが現に東京の33ヶ所の施設はどこもアメリカ兵が殺到し、 性風俗の紊乱と性病の蔓延に手をやいた。 RAA 協会以外のダンスホールにも、いろいろと風紀上の問題点があり、 ダンサーにも週1回の性病検診が強いられた。 これはアメリカの一方的強制というよりも、 治安面からオフ・リミット (立ち入り禁止) を恐れる日本の当局の指導と、 業者の自発的協力もあったようである。 なにより基本として GHQ は、 公娼がデモクラシーの理念に反すると考えていた。
 1946年1月21日 「日本における公娼廃止に関する覚書」 がマッカーサー元帥代理アレン中佐から出され、 内務省では同年2月2日内務省令第3号を公布、 即日これを施行して同日各庁府県に対し警保局長をもって警保局公安発第9号「公娼制度廃止に関する件」 の通達が発せられた。 この公娼制度廃止は GHQ へのアメリカ本国の世論の圧力と民主主義的政策のたまものであった。
 これらを理由に、 同年3月10日、 占領軍当局の命令によって、 RAA 所属のすべての慰安所に進駐軍将兵が立ち入ることを禁じられた。

と書かれてる通りであろう。

 巷間では、「米軍が占領下の日本で米軍専用売春施設を作らせて大々的に活用したことなど余りにもよく知られた事実」というような俗説も流通しているらしいのだが、現実の歴史的事実関係は、日本政府が主体的に「米軍専用売春施設を作らせ」たのであるし、その「米軍専用売春施設」を閉鎖させたのは占領軍当局の方であった、ということなのだ。

 そして、

 RAA 自体は1949年4月22日、 RAA は上野の観光閣で臨時総会を開き、 正式に幕を閉じたのである。

という結末を迎えることになる。「慰安所」閉鎖後も占領軍向け娯楽施設運営主体として、1949年までは存続していた、ということのようである。

 以上が、「特殊慰安施設協会」 (RAA) をめぐる、歴史的事実関係として基本的に押さえておくべき事項、ということになるのだと思う。

 高見順ならずとも、どうも情けない気持ちにさせられる、この国の歴史の断面である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/26 20:13 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/83143/user_id/316274

 

 

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無差別爆撃の論理 2

 

 「無差別爆撃」という問題には、当然のことながら、様々な切り口が存在するだろう。

 

 
 

…という言葉から、昨日はスタートしたわけだが、今日は、戦争における民間人への攻撃という側面から問題を見ていこう。

 
 

 荒井信一 『空爆の歴史』(岩波新書 2008) には、

 20世紀の戦争は、国のすべてをあげた総力戦であった。戦争の死者のうち民間人の割合は第一次世界大戦では6%であったが、第二次大戦までに60%に達した。飛行機と空爆テクノロジーの発達により、戦線から遠く離れた後方でも国民の生活は安全ではなくなった。

という記述がある。

 

 総力戦としての近代戦争が、その姿を現したのは第一次世界大戦であったが、それでも民間人の死者が戦争の死者の6%にとどまっていた、というその背景は、昨日も書いたように、航空機そのものの誕生から間もない時期であったことに求められるだろう。航空機は、大量の爆弾を運ぶにはまだ小さく、戦線から遠く離れた後方を攻撃するに足る航続距離も持ち合わせていなかった。

 航空機用の爆弾の開発も、これからの話であるし、もちろん精度の高い爆撃用の照準装置の開発は、もっと後の話である。

 しかし、同時に、対空兵器の開発も、これからの話であるわけで、地上の人間にとって、航空機の存在が脅威であったことも確かなのである。

 

 6%という、民間人の死者をめぐる数値が、60%へと大幅な上昇を遂げる背景には、大型航空機の開発(爆弾搭載量の増大と共に、遠方の都市への爆撃に充分な航続距離も確保される)と、都市攻撃に効果的な爆弾(焼夷弾)の開発があった、ということになる。

 
 
 

 ところで、昨年の、「東京大空襲・戦災資料センター 戦争被害研究室」主催のシンポジウム、「無差別爆撃の源流 ― ゲルニカ・中国都市爆撃を検証する」では、非武装の民間人への航空機による攻撃のルーツは、スペイン軍による1920年代の植民地モロッコでの軍事行動であったとする、深澤安博(以下、文中敬称略)による報告があった。
 (→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-156e.html

 

 今回の、荒井の著書では、より詳細に、

 トルコ領リビア(トリポリ、キレナイカ)の植民地化をめざしたイタリア・トルコ戦争(1911-12年)では開戦(9月23日)とともにイタリア軍が、リビアに9機の飛行機と2機の飛行船を派遣した。イタリア機は10月26日には敵陣に手榴弾を投下した。飛行機による最初の空爆である。その後イタリア機はトルコ・アラブの拠点を空から攻撃し、総計330発の爆弾を投下した。空履きの成果についてイタリア軍参謀本部は「爆撃はアラブに対して驚異的な心理的効果をあげた」(11月6日)と報告している。

 オスマン帝国の旧領の争奪からはじまったバルカン戦争(一次・1912年、二次・1913年)ではブルガリアが22ポンド(約10キロ)爆弾を開発し、本格的な都市爆撃を行った。飛行機の軍事使用が成果をあげたことに各国が注目した。フランスとスペインは1913年から北アフリカの植民地戦争に飛行機を導入した。

 ヨーロッパの帝国が植民地戦争や原住民の反乱を鎮圧するために飛行機を使ったのは偶然ではなかった。帝国主義の時代には、19世紀からの第二次産業革命の結果、重工業(特に機械・化学・電気工業)が発達し、武器に応用され、軍事技術の面で非ヨーロッパ世界との格差が決定的に拡大した。ヨーロッパ中心的な人種主義的世界観が普及したのもこの時代であった。

 その結果生まれた軍事テクノロジーの格差を前提にすれば、植民地での使用がもっとも有効とされ、空爆の軍事的価値が大きく評価された。「未開」側の対空戦力がゼロに近いことを考えれば、攻撃側の人命節約効果も無視できない要素であった。1919年、イギリス空軍参謀長ヒュー・トレンチャードは「植民地の法と秩序は、在来の守備隊よりも機動力の優れた空軍によるほうが安上がりで効果的に維持できる」(大意)と述べて、植民地での使用の経済的効果にも注目した。

という歴史的経緯が説明されていた。

 

 その上に、第一次世界大戦後のスペイン軍による、植民地モロッコでの航空機を活用した軍事行動(リーフ戦争)が存在するのである。

 そこでは非武装の民間人に対する爆撃が恒常化する。しかも毒ガスの躊躇なき使用が特徴的であることは、既に深澤の報告にあった通りである。

  

 荒井の著書からの引用を続けよう。

 「組織的な空爆の成果」としてもっとも深刻なのが、1925年の無防備都市シェシャウェン(シャウエン)空襲である。武器をもつ男子が戦場に出撃していた、この町の空爆では、まったく無防備の女性と子どもが大量に死傷した。モロッコの歴史家ケンビブは、リーフ戦争中の毒ガス弾投下はリーフ人に対する「ゲルニカ」だったと述べたが、そのうえで「実際にはリーフ戦争中の生存破壊戦略の結果は量的にも質的にもゲルニカ爆撃のそれをはるかに凌ぐものだった」と指摘している。モロッコの毒ガス戦でのドイツとスペインの協力(毒ガスを提供したのはドイツであった-引用者)は、やがてスペイン内戦のときのフランコ将軍と、ドイツのコンドル軍団の協力に発展し、ゲルニカでシェシャウェンの悲劇が再現される。

 「まったく無防備の女性と子ども」の大量殺害が、航空機と毒ガスというテクノロジーにより、現実化したのである。

 ヨーロッパ人による、躊躇なき、毒ガスを使用した無差別爆撃は、その植民地において実行されたのである。

 
 

 しかし、リーフ戦争をめぐりドイツ軍将校は、「スペインは主として組織的な空爆の成果と毒ガスの破壊的な効果を頼りにしている」と報告する一方で、(荒井によれば)「しかし、彼らの結論は、住民に対する爆撃は戦争の終結には決定的な役割を果たさなかった」というものでもあった。

  
  

 住民に対する爆撃が戦争の終結に決定的な役割を果たすものなのかどうか?

 

 20世紀の歴史を通しての、非武装の民間人の大量の死をもたらした「無差別爆撃」という手法の起源のひとつは植民地戦争という戦争形態であり、「攻撃側の人命節約効果」への配慮と、植民地住民の人命への無配慮の組み合わせで成り立っているものだったのである。
 
 
 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/17 22:27 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/82242/user_id/316274

 

 

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無差別爆撃の論理 1

 

 「無差別爆撃」という問題には、当然のことながら、様々な切り口が存在するだろう。

 昨日書きかけたところから、スタートしよう。

 まぁ、戦争における「無差別爆撃」という手法は、20世紀以前にはあり得なかったものだ。

 航空機の存在なしに、前線のはるか後方の都市の民間人を、爆撃の対象とすることなど不可能なのだ。「爆撃の対象」と書いてしまったが、「爆撃」という語自体が、それまでに存在し得なかったわけである。「砲撃」は出来ても、「爆撃」という攻撃法自体が、航空機の存在に(つまり発明に)依存しているのである。

…と、昨日は書いていたわけだが、英語だと「爆撃」も「砲撃」も「bomb」ということになるようだ。日本限定の話題ではないので、用語の問題にも留意しておく必要がありそうである。

 いずれにしても、空からの攻撃というのは、20世紀(そして21世紀へと継続する)特有の戦争の局面である。

 陸上における戦争とは、陸軍同士の決戦により、勝敗が決まるものであったし、海上における戦争は、艦隊同士の決戦により、その勝敗が決まるものであった。

 航空機の登場は、戦争のあり方を変化させる。

 強大な陸軍も、空からの攻撃には弱点をさらさざるを得ないし、巨大戦艦も航空機による攻撃で沈められてしまう。

 それが20世紀の出来事であった。

 しかし、それはまだ、前線における出来事であった。

 航空機の登場は、前線に展開する陸軍を飛び越え、直接、銃後の市民への攻撃を可能にしたのである。

 第一次世界大戦において、人類は、「総力戦」としての、新たな段階の戦争を経験することになった。戦争が、前線で対峙する軍隊同士の力で決まるものではなくなり、国家が動員可能な生産力の総量が、戦争の帰趨を決定する時代へと変化してしまったのである。

 兵器の近代化は、兵士への殺傷能力を高め、前線における犠牲者数を飛躍的に増大させた。しかも、第一次世界大戦は、長期にわたる塹壕戦という形態に陥り、「決戦」による決着という戦争イメージを変容させたのである。

 ただし、第一次世界大戦段階における航空機は、まだ誕生から間もなく、その大型化及び航続距離において未発達なものであった。

 結果として、各国が大型爆撃機を保有するという状況は訪れることはなく、銃後の市民が恒常的に、爆撃の犠牲となるような事態が生じることはなかった。

 とはいえ、ドイツのツェッペリン(飛行船)によるロンドン空襲は、戦争の新しい時代を示すものではあった。

 戦争における「都市無差別爆撃」というアイディアは、しかし、そのような第一次世界大戦の経験が生み出したものである。

 航空機の大型化と航続距離の増大という条件が一方にあり、他方には、陸軍兵力の多大な犠牲という第一次世界大戦の経験が存在した。

 しかも、それは、戦争がもはや前線の軍隊の問題ではないという、「総力戦」と化した歴史の局面での話なのである。

 前線の軍隊への攻撃ではなく、直接に総力戦を支える銃後を攻撃の対象とする。つまり、民間人への直接攻撃というアイディアなのである。

 戦場の兵士とは異なる民間人への攻撃というアイディアのポイントは、市民への直接攻撃により、銃後の国民の戦意喪失が期待され、戦争の継続という選択肢が支持を失うであろうという予測にあった。

 第一次世界大戦で経験されたような、前線兵士の膨大な犠牲に比べ、より少ない民間人の犠牲が国民の間に厭戦気分を生み出し、早期の戦争終結に結びつくだろうという期待である。

 それが非武装の市民への攻撃を正当化する論理であった、ということのようである。

 もちろん、現実の世界は理論通りには動かないのであるが…

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/16 23:11 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/82116/user_id/316274

 

 

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ゲルニカ・重慶・東京  世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか

 

 昨日は、「東京大空襲・戦災資料センター 戦争災害研究室」主催の「無差別爆撃国際シンポジウム」に参加して来た。

 そのタイトルが、「世界の被災都市は空襲をどう伝えてきたのか - ゲルニカ・重慶・東京の博物館における展示/記憶継承活動の現在」であった。

 前回のシンポジウムは、「無差別爆撃の源流 ― ゲルニカ・中国都市爆撃を検証する」というタイトルで開催されたが(→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/45744/user_id/316274)、その延長として考えられるだろう。

 前回のシンポジウムでは、国内の研究者により、ファシスト空軍によるゲルニカ爆撃、日本軍航空隊による重慶爆撃に関して、現地踏査にも基づく発表がされていた。

 同時に、「無差別爆撃」という軍事行動のルーツを、ゲルニカ・重慶に先立つ、スペイン軍による植民地での作戦行動に求めるという視点が示され、無差別爆撃と植民地主義の関係性が、論点としてクローズアップされる機会でもあった。

 今回のシンポジウムは、ゲルニカ平和博物館館長のイラッチェ・モモイショ(以下、敬称略)、重慶市三峡博物館副研究員の李金栄、そして東京大空種・戦災資料センター主任研究員の山辺昌彦による報告と、沖縄大学客員教授(というより、日本における無差別爆撃研究のパイオニア)の前田哲男のコメント、そして質疑応答という構成で展開された。

 東京大空襲・戦災資料センター館長の早乙女勝元による開会の挨拶で始まり、一橋大学教授であり戦災資料研究室室長でもある吉田裕による司会により、長時間のシンポジウムが進行さるという、10月の午後となった。

 今回は、ゲルニカ、重慶、それぞれ現地の戦争災害展示博物館関係者の参加を得、その報告を直接聞くという、またとない機会となったわけだ。

 ただ、一方で、英語(モモイショ報告)、中国語(李金栄報告)という、「言葉の壁」という障害の存在もあったことは確かである。報告内容は、配布された翻訳に沿ったものであったにしても、同時通訳のない状態での報告には、若干のまだるっこしさを感じさせられてしまったことも、正直なところだ(しかし、同時通訳の予算を考えれば、理解出来るし、内容自体は事前配布された翻訳文によって把握可能である)。

 あらためて、感じさせられたのは、ゲルニカ及び重慶の、それぞれの国内における認知の問題である。

 フランコ体制下では、ゲルニカに対する無差別爆撃は存在しないものであったし、共産党支配の中国においても、国民党の戦時首都であった重慶における戦争被害は研究の対象ではなかったのである。

 手元のメモによれば、ゲルニカでの無差別爆撃被害の検証が開始されたのが1980年代、重慶でのそれは1985年ということだ。爆撃被害から40~50年以上経過してからの出来事なのである。

 どちらも難民の流入した中での、そもそもがその時点での都市人口自体が確定困難な状況での出来事であった。

 ゲルニカは数時間の出来事、重慶は数年に渡る爆撃被害という違いもあるが、ゲルニカは空襲直後にフランコ軍の占領下となり都市閉鎖、重慶は国民政府の戦時首都として、その被害の過小発表という取り扱いを受けたことによる、被害者数確定の困難状況が被害の実相を覆い隠して来たことも報告されていた。

 ここには、都市市民の被害という現実と、国家レベルの政治の乖離という問題も見えるだろう。そして、その点においては、東京大空襲被害者もまた、同様な状況にあると考えられる。

 また、共通の課題として大きく浮上したのが、若い世代への体験の継承の問題であった。

 「無差別爆撃」という軍事行動のあり方は、決して過去の話なのではない。

 精密誘導兵器の導入が喧伝される中で、たとえばクラスター爆弾の使用は、明らかに非武装の非戦闘員たる都市住民の被害を生み出しているのである。

 そのような世界の現状と歴史的経験を、想像力をもって結びつける能力の必要性は明らかだろう。

 質疑応答の中で浮上した問題として、ゲルニカにも重慶にも、東京大空襲の展示、あるいは相互の空襲被害の展示がないという現状があった。

 無差別爆撃という軍事行動を、そしてそれによる被害を、個々に独立したものとして捉えるのではなく、国際的な視野と歴史の枠組みの中で把握し直すこともまた、現在の課題として考えられるべきだろう(もちろん展示スペースの都合という制約もあるわけだが)。

 「無差別爆撃」という軍事行動自体が、ニュルンベルク裁判及び東京裁判の過程で裁かれることはなかった。戦勝国もまた「無差別爆撃」の実行者であったからだ。

 しかし、それは、「無差別爆撃」という軍事行動を、「戦争犯罪」から除外出来るという意味で考えられるべき問題ではないだろう。

 20世紀は、そしてどうやら21世紀も、「無差別爆撃」という発想から逃れることが出来なかったように見える。

 そのような意味で、日本は、無差別爆撃の歴史の初期における組織的実行者であると同時に、徹底的な無差別爆撃の被害者であった歴史を持つ。その二つの経験・視点に加え、国際的な視野・歴史的展望の下で「無差別爆撃」を考えること。

 今回のシンポジウムが残した課題、と言うことが出来るだろうか?

  (本来なら昨日に書くべき内容だったのだが、さすがに疲れ果てていた)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/12 15:16 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/81603/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 12

 

 

軍隊では上官の命令は(そこで彼は不動の姿勢をとる。背丈が二割は伸びたことを我々は心の底で感じる。軍隊が彼をバックアップして彼はキゼンたる表情になる。その一瞬よ!)気を付けッ! おそれ多くも天皇陛下のご命令である。休めッ! ことになっております。ですから、ただ今より教練する間は、自分の命令をそのようにお考え下さい。

          富士正晴 「帝国軍隊に於ける学習・序」

というような言葉が蔓延する世界。

 支那事変以来の大日本帝國は、「暴支膺懲」をスローガンとしながら、その支那の国境を越えて軍隊を送り込み、暴威を振るったにもかかわらず、「支那」の国民政府を「懲らしめる」ことは出来ず、「事変」という名の戦争に終わりは来なかった。4年が過ぎても終結の緒は見出せず、国民政府との戦闘状態の終了どころか、逆に大日本帝國は対米英開戦という選択をしてしまう。

 より大きな戦争を始めてしまうのである。

 支那事変は、あの広大な中国大陸を舞台としての、実質的な戦争であった。大日本帝國にはその自覚はなかったが、対する国民政府を率いる蒋介石も、中国共産党を指導する毛沢東も、その戦略を大日本帝國に対する一大消耗戦として構想していた。

 本来、対米戦争における資源供給地として構想されていた中国大陸において、大日本帝國は消耗戦に陥ることを余儀なくされ、実際に、資源も兵隊も消耗の一途をたどってしまったわけである。しかも、大陸における戦火の拡大は、米国による経済制裁へと発展し、資源の枯渇はますます現実問題として帝國を追い詰めていくことになる。

 ここで大日本帝國は、大陸での戦闘の終結のかわりに、真珠湾攻撃を選択してしまうのである。

 当初の戦果として獲得した占領地を、大日本帝國への資源供給地として組み込むより早く、米軍の反抗は開始されてしまう。

 支那事変段階では、敵は広大な大陸であり、豊富な人的資源であった。

 対米戦争では、敵は巨大な生産力に支えられた国家なのである。大日本帝國においては、米国民は享楽的な個人主義者であり、そこに戦争における弱点を抱えているのだされていた。しかし、実際の米国民は、清教徒の末裔であり、フロンティアスピリットに支えられた精神力ある個人主義者であったのである。

 もちろん、滅私奉公の「国体の精華」が、米英の個人主義などに負けるはずなどないのであったが…

…しかし、滅私奉公の内実が、何かというと、

   上官の命令は、 気を付けッ! 

  おそれ多くも天皇陛下のご命令である。

   休めッ! ことになっております。

と叫ぶ上官への滅私奉公となり、

  とにかく長とつく奴の命令は朕の命令にほぼちかくなってきていた

世界では、すべてが「朕の命令」への「滅私奉公」として表現されるということになっていくのが、大日本帝國臣民にとっての現実であった。

   

 現実の大元帥陛下の意思とは全く関わりのない場所で、「朕の命令」が暴威を振るい始めるのである。

 上位者の単なる私的欲求の充足も、下級者には「朕の命令」として伝えられ、その実現に努力することが、臣民の義務として強要されることになる。

 米英の個人主義においては、個人は同時に公的世界の主人公でもある。個人と公的世界は相補的なものなのだ。個人が個人として生きる場を確保するためにも、公的世界は、その個人によって守り抜かれねばならないのである。

 まぁ、いわば、「奉私奉公」というイメージだろうか。

 大日本帝國における「滅私奉公」の実態は、上級者の恣意への服従であった。

 戦争は続き、あらゆる物資は不足し、兵隊が戦死していく中で、「朕の命令」に名を借りた、「滅私奉私」とでも言うべき状況が進行していくのである。

 一大消耗戦の果ての、そんな世界のあり方が、富士正晴によって、見事に描き出されているのであった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/08 22:58 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/81205/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 11

 

だが我々はその容易ならぬものが国法を背後に背負っていることをちゃんと感じている。国法はこわいのである。国法は守ってくれる気がしない。国法は罰を加えにくる。

…と、「帝国軍隊に於ける学習・序」の主人公は感じていた。

 

 昨日に続き、富士正晴の「帝国軍隊に於ける学習・序」を読み返す。

 

 註 成年に達し徴兵検査というので男根から尻の穴まで調べられた結果、合格不合格が決定される。合格に甲種、第一乙種、第二乙種、丙種がある。体の良い順であり、大体丙種などは数の内に入らぬものだった。従って在郷軍人会の受ける点呼などというものには関係なく、主観的には不合格のつもりでおれたのである。ところが……

…というところで「1」が終わり、小説は「2」へと進む。

 

 皆様お疲れのところをまことにごくろうさまでございます。ごぞんじのように今年から丙種も点呼を受けるようになりまして、今後から点呼のために、準備教育をいたすことになりました。不肖わたくし(このころから妙に不肖というのが流行しはじめ、もっと後になると東条英機の気障ったらしい演説口調とナマリが世間一杯になった。その憂鬱さ!)が皆様を訓練することになりました。よろしくお願いいたします。軍隊は地方とは異なっていますから、教練が始まりますと地方での地位も名誉も忘れて、単なる一兵卒という気持ちになっていただきます。軍隊では上官の命令は(そこで彼は不動の姿勢をとる。背丈が二割は伸びたことを我々は心の底で感じる。軍隊が彼をバックアップして彼はキゼンたる表情になる。その一瞬よ!)気を付けッ! おそれ多くも天皇陛下のご命令である。休めッ! ことになっております。ですから、ただ今より教練する間は、自分の命令をそのようにお考え下さい。終り。
 終の頃には彼はすでに「自分」となっていて断じて「わたし」や「わて」ではない。軍人としての彼である。例え上等兵位であっても(と、何にも知らぬ地方人は気楽に考えて、実際に軍隊に入るまでそれがとんでもない誤解であったことが判らぬ)その命令は三等兵の前では朕の命令である。教練が始まって十五分もたたぬうちに朕の命令がいかに垂直に人間関係を貫き通すものかを手痛く我々は知らされる。それは役所の昼休みの教練どころではない。

…と続くが、日常風景なのである、これが。というか、戦局の進展と共に日常風景化していくのである。続く文から、少し抜書きをしておこう。

 

 自分は、自分は……でありますと大声で喋ることで、かんじんの自分が口から抜けていくような心細さ。

 われわれは煙草屋で煙草を買うのにも最敬礼をしそうにさえなってくる。なぜなら煙草屋のチョビひげのおやじは在郷軍人会何々分会の副会長の准尉であり、町会長であり、警防団長ですらあるからだ。煙草屋のおかみさんまで少し威張り気味でかげで評判がわるいが、そこはサワラヌカミニタタリナシだ。とにかく長とつく奴の命令は朕の命令にほぼちかくなってきていた。下手にさからうと防空演習の時に、焼夷弾が二階に落下と想定され、バケツリレーの対象になって、二階の畳はびしょ濡れとなるのである。

 

 富士正晴の文章を通して、「朕の命令」に覆われた、当時の生活風景がよみがえるだろう。

 この背後にあるのが、

 第1章 天 皇 
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス 
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ 
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ 
第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス 
第7条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス 
第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス  2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ 
第9条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス 
第10条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル 
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム 
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス 
第14条 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス  2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム 
第15条 天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス 
第16条 天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス 
第17条 摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル  2 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ

…という「大日本帝國憲法」の条文である。

 煙草屋のチョビひげおやじの発する「朕の命令」を支えているのが、

  第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 

という大元帥陛下としての天皇の姿、昭和天皇の存在なのである。

 「立憲的に」振舞おうとする天皇とは別の天皇の姿がここにあるわけだ。

 大元帥陛下は陸海軍を統帥するのみでなく、

  とにかく長とつく奴の命令は朕の命令にほぼちかくなってきていた

時代の日常風景の中で、国民生活が命令と服従の連鎖として組上げられていく過程の中心に位置することになってしまうのである。

 多分、昭和天皇の意思とは全く関係のない話としてではあろうが。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/07 22:29 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/81104/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 10

 

 高田里恵子 『男の子のための軍隊学習のススメ』 (ちくまプリマー新書 2008)のご紹介をした際に、富士正晴の作品である「帝国軍隊にお於ける学習・序」に言及した。
(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-65a8.html

 先日、久しぶりに読み直してみた(『ちくま日本文学全集 富士正晴』 筑摩書房 1993)。

 やはり傑作であった。

 前回、高田里恵子の本を紹介する際に、

 高田里恵子は、時代的変遷も見逃さない。
 要するに、日中戦争から米英との戦争へと進行し、軍隊が恒常的に人員不足へと陥る中で、徴兵対象が拡大される。つまりそれまでは兵役不適格者と評価されていた人間達をも兵士として取り扱わざるを得ない状況に追い込まれるわけだ。
 結果として、日本社会の元来持っていた可能性が、凝縮された姿で、兵営の中に現実化することになる。
 多くの軍隊小説の背景にはそのような状況があること、つまり、そこに見出されるのは日本の軍隊の、必ずしも恒常的な姿なのではなく、ある追い詰められた状況下に現実化してしまった姿なのであるということ。
 それを指摘した上で論を進める高田里恵子の姿に、私は大きな信頼感を感じる。

と書いたわけだが、今回あらためて富士の作品を読み直してみて、その「帝国軍隊に於ける学習・序」に、戦争の進展と共に追い詰められていく「帝国」の姿が、そして追い詰められていく「帝国」により追い込まれていく主人公の運命が、見事に重ね合わせて描かれていることに気付かされ、感心した次第である。

 当初、徴兵検査で、丙種合格であった主人公は兵役の対象とならず、役所勤めの身であったのだが、時代の進展(好転しない戦局)は、丙種合格者も軍事教練の対象として取り込んでいくようになる。それが嫌な主人公は、役所勤めを辞めて、解放された気分となる。

 しかし、それもつかの間、ますます好転しない戦局の中で、丙種も簡閲点呼の対象となり訓練に組み込まれてしまう。防空演習が日常的になる。

 防空演習の日常にウンザリした主人公は、徴用対象になり、防空演習の日常からは逃れる。しかし徴用工の生活もあまりにひどい。

 そこへついに教育召集令状がやって来る。いよいよ新兵さんである(しかし30過ぎの)。

 兵営の日々が始まり、最後には、一番成績の悪かったはずの主人公達が、前線部隊へと送られることになる。

という流れの中に、様々なエピソードと主人公の感想が積み重ねられ、小説は進行していくのであった。

 

 番号ッ! 一、二、三、四、五、六……。たちまち一箇の数に抽象され、人間の安物に具体化される。体がもとであるからだ。そして教練を受ける方は乙種にしろ丙種にしろ、三等兵に外ならない。軍隊にひっぱられてやっと二等兵になる代物である。つまり安物だ。軍隊教育がないのだ。号令一下、あっちへ動かしこっちへ動かししているうちに在郷軍人諸君の下士官気質、古兵気質がむくむくと頭をもちあげてくる。被教育者の方は何やら容易ならぬものが頭にかぶさってくるような不快さと恐怖を感じる。畜生! 秘書課の若造め(この人物が在郷軍人として主人公達の教練にあたっているわけだ-引用者)、ここをいいしおに、いばりやがって! だが我々はその容易ならぬものが国法を背後に背負っていることをちゃんと感じている。国法はこわいのである。国法は守ってくれる気がしない。国法は罰を加えにくる。――何とかこの時間をはぐらかす方法はないか。昼間から出張することなど計画するより外はない。そうはうまく行かぬ。この世に憲兵がおるということが、見たこともない癖にいやに気になりはじめる。命じられること、強いられること、恐れること。全く厭になって役所を止してしまった。しばらくは軍事教練は姿を消す。丙種はやっぱりしゃれておるよ。

 

 これが、小説冒頭の後半部分である。

 「命じられること、強いられること、恐れること。全く厭になって」役所勤めを辞める主人公。

だが我々はその容易ならぬものが国法を背後に背負っていることをちゃんと感じている。国法はこわいのである。国法は守ってくれる気がしない。国法は罰を加えにくる。

この世に憲兵がおるということが、見たこともない癖にいやに気になりはじめる。

という世界の中での出来事なのである。

 ある時期の、大日本帝國の日常風景、ということになる。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/10/06 22:54 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/80991/user_id/316274

 

 

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高田里恵子 『男の子のための軍隊学習のススメ』 のススメ (不都合な戦争の都合という問題 9)

 

 

 意図的であるかどうかは知りません。内容が題名を裏切っている、とまではいかないにしろ、内容と題名がズレている本があります。料理の本だと思っていたら人として生きる道を説く本だったり。(老)人として生きる道を説く本だと思っていたら。料理の本だったり、品格を教えてくれるはずの本が実は……と、まあ、例は尽きません。

…と、こんな書き出しで始まるのだった。

 高田里恵子 『男の子のための軍隊学習のススメ』 (ちくまプリマー新書 2008)の話だ。

 著者、高田里恵子のファンである。

 頭がよくていぢわる。

 目配りがよくていぢわる。

 人の感情のひだまで見通しながらいぢわる。

 人間の弱さをあくまでも容認しながらいぢわる。

…と、まぁ、「いぢわる」という言葉を連ねてしまったが、やはり、その「いぢわる」さが魅力なのだ。

 『グロテスクな教養』(ちくま新書)、『文学部をめぐる病 教養主義・ナチス・旧制高校』(ちくま文庫)、『学歴・階級・軍隊 高学歴兵士たちの憂鬱な日常』(中公新書)と、冴え渡る著者のいぢわる振りを読みついで、今回は「ちくまプリマー新書」でも期待に違わず「いぢわる」炸裂である。

 「品格を教えてくれるはずの本が実は……」というあたり、もうそれだけで、うれしくなってしまう。まぁ、この一節を呼んで、筆者の「いぢわる」に思い至らない人には、全編「いぢわる」でもなんでもないものに過ぎないのかもしれない。

 
 

 で、本書においても題名と内容はズレています。実は料理の本なのです。などというのは冗談ですが、ズレていない書名をつけるとしたら「軍隊小説を百倍楽しむ法」とでもなるでしょうか。わたしは日本の軍隊や兵士をテーマにした小説や体験記を読むのが好きです。それどころか最近は、若い人たちにもこの軍隊小説の魅力をぜひ伝えたいと、文字通りの老婆心をもってしまったというわけです。

…と、著者は続く文章で、執筆の動機を説明している。

 そして、しばらく続く文章を、

 戦後小説史のなかで、帝国軍隊やあの戦争を描いた作品群が占める場所は小さくありません。大袈裟に言えば、日本や日本人というものを考えさせてくれるのが軍隊小説です。先ほどから「楽しむ」という言葉を気楽に使っていますが、むしろ楽しめないところにこそ、この読書の妙味があると言えるでしょう。
 優れた軍隊小説を読んでみませんか。その読書の方法を伝授します、などと言っている本書をまず読んでみませんか。それは、ひいては人間がどう生きていくかの話につながるかも知れません。あっ、これはやっぱり料理の本か……。

…という言葉で終えている。

 軍隊というものは、戦争を前提とした存在だろう。

 しかし、平時にも軍隊は存在するし、戦争中であれども、戦場を離れた兵営での生活というものがある。

 基本的に、高田里恵子により選ばれているのは、そんな、兵営における軍隊(あるいは捕虜収容所における軍隊)の姿を描いた作品である。

 軍体内における人間関係が主題となる作品群であるわけだが、いわば究極の日本的組織としての軍隊における人間関係に、まさに「大袈裟に言えば、日本や日本人というものを考えさせてくれる」素材が詰め込まれているということになるわけだ。

 高田里恵子は、時代的変遷も見逃さない。

 要するに、日中戦争から米英との戦争へと進行し、軍隊が恒常的に人員不足へと陥る中で、徴兵対象が拡大される。つまりそれまでは兵役不適格者と評価されていた人間達をも兵士として取り扱わざるを得ない状況に追い込まれるわけだ。

 結果として、日本社会の元来持っていた可能性が、凝縮された姿で、兵営の中に現実化することになる。

 多くの軍隊小説の背景にはそのような状況があること、つまり、そこに見出されるのは日本の軍隊の、必ずしも恒常的な姿なのではなく、ある追い詰められた状況下に現実化してしまった姿なのであるということ。

 それを指摘した上で論を進める高田里恵子の姿に、私は大きな信頼感を感じる。

 何人もの作家の作品が取り上げられているわけだが、富士正晴の『帝国軍隊における学習・序』が、その中心の一つとして位置していることは、私にはとりわけうれしいことだった。

 私は富士正晴のファンであり、『帝国軍隊における学習・序』は名作であると信じているからだ。

 本文中の引用から引けば、

 

 おれのようなものを引っ張り出さんならんようでは、日本もよっぽど兵隊が品がすれになったらしい。わたしは招集される自分を気の毒とさらさら思わず、大日本帝国が気の毒であった、ほんの少しだけ。

 

…ということになるが、富士正晴のような自覚的兵役不適格者(それも当時31歳!)を召集せねばならぬほど追い詰められた「帝国軍隊」の世界が、高田里恵子により、見事に描き出されているのである。

 冒頭に引用した「はじめに」の続きには、

 日本の軍隊には特殊な用語があって、物干し場のことを「ブッカンバ」、発熱のことを逆さにして「ネッパツ」、洗面のことを「メンセン」と言ったりしたそうですが、そうした「軍隊オモシロ豆知識」的な話はしません。「戦争は二度と起こしてはいけないと思いマース」といった内容を直接的に主張することもしません。この件については、「ちくまプリマー新書」のライバルである(らしい)ジュニア向けの新書にお任せいたします。
 じゃあ、この本を読んで何を考えたら(読後感想文でどういうもっともらしい発言をしたら)いいかって、お訊きですか? まずは、いろいろな経験、いろいろな見解、いろいろな悲惨があるものだなあ、と思って下さればいいです。

…とある。

 この、

「戦争は二度と起こしてはいけないと思いマース」といった内容を直接的に主張することもしません。この件については…

…という記述にまさに著者の「いぢわる」が宿っているわけだが、それを「いぢわる」と呼ばずに、センチメンタルなアジテーションの排除と評価しておきたい。

 筆者は「想像の中の男の子」に向けて書いている、と書いているのだが、その上で、

 みなさんも、たとえロマンスグレーのおじさまや妙齢のお嬢様であっても、どうか、わたしの想像のなかの男の子になりきって読んでください。

…とも書いている。

 「ロマンスグレーのおじさま」というよりは白髪混じりのオッサンが、高田里恵子の「想像の中の男の子」になりきれていたという自信はない。

 けど、この読者、十分に楽しんだことは確かだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/24 23:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/79799/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 8

 

 「戦争責任」について考える、という夜が2日ほど続いた。

 もちろん、終わったわけではない。

 総力戦時代の戦争であるからこそ、「戦争責任」という発想も生まれるのだろうか?

…というか、「戦争責任」の語義は、そもそもが曖昧なものだ。

 そのことについては既に何度か論じているが、「誰の誰に対する何をした責任なのか?」という肝心の点が曖昧なのである。

 大東亜戦争が、大日本帝國の勝利に帰していれば、そもそも東條英機に対しても昭和天皇に対しても、「戦争責任」の問題を云々するようなことにはならなかっただろう。

 そのような意味で、対外的にも対内的にも、大日本帝國の敗北という事実の結果として問われているのが、開戦時の首相と開戦時の天皇の「戦争責任」なのである。

 日本国憲法第9条が国民に受け入れられたのも、負けた戦争の経験の結果である。戦争が、国家にとっても国民にとっても、大きな損失をもたらしうるものであるという経験は、それまでには存在しなかったのだということは、忘れられるべきではない。

 戦争は、勝っている限り、国家の利益であり国民の利益であった。

 もちろん、戦死者当人及び家族にとっては、個人的には、何より大きな損失として経験されるだろう。しかし、戦死は、そこでは究極の国家への貢献として評価されることになる。私人としては悲しい死も、公的には輝かしい死として評価されてしまうのだ。

 そこからは、「無駄死に」という感覚は生まれにくい。

 負けた戦争での戦死とは、その意味で救いを見出し難い事態だ。

 「無駄死に」という感覚がまとわりついてしまうのである。

 そのような意味で、勝った戦争での戦死者に対する社会の処遇と、負けた戦争における戦死者に対する社会の処遇では、明らかに後者により大きな困難が生じてしまうことは理解出来るだろう。

 それは戦死者だけの問題ではなく、戦傷者の処遇の問題、復員して来る軍人・兵士すべての問題として生じるのである。

 ヴェトナム戦争でのアメリカは、まさにその問題で失敗したわけである。

 アメリカが勝てなかった戦争での戦死者、戦傷者、復員者は、故国の社会から、無意味な戦死、無意味な戦傷、無意味な従軍をした者として取り扱われることになってしまったのである。

 ヴェトナムでもアメリカが成功していれば、あの戦争を「大義なき戦争」と、アメリカの社会が評価することはなかっただろう。ヴェトナムの「共産主義者」への勝利は、十分に戦争の「大義」たりうるものであったはずだ。

 アメリカの若者の失われた命が、勝利に結びつかぬまま続いていく戦争という経験は、戦争遂行自体への疑問を社会に呼び起こし、戦争への米軍の関与は打ち切られることとなった。

 「負けた戦争」と呼ぶことは慎重に避けられ続けたにしろ、「大義なき無意味な戦争」として、アメリカ社会はヴェトナム戦争を評価してしまうことになる。

 結果として、ヴェトナムにおける戦死者、戦傷者、そして従軍者達は、社会が感謝を捧げるべき存在としてではなく、無意味な戦争に無批判に参加した愚か者としての評価を受ける破目に陥ったのである。彼らの犠牲はアメリカ社会から評価されなかったのだ。

 もちろん、アメリカ社会の視野に、戦場となったヴェトナムの人々の上に降りかかった災厄についての想像力など期待出来ない。

 ヴェトナムにおける米軍は、ヴェトナム人にとっては惨禍をもたらす存在であったことを否定するのは難しい。米軍人・兵士は、対外的には確かに加害者であった。

 しかし、米国が国家として戦争介入を選択し、少なくとも当初はそれが国民の支持を受けていたことを考えれば、対内的には、米軍人・兵士は生命の危険の中で国家への貢献を果たした人々である。

 にもかかわらず、戦争の無意味さという社会的に共有されてしまった感情は、米軍人・兵士の犠牲をも無意味なものとして評価してしまうという方向に進んでしまったのであった。

 彼らは戦場における自らの犠牲が、社会的に評価されないという現実の中で生きることを強いられることになるのである。

 戦場を体験するということ自体、精神的外傷を生み出すものだ。その精神的外傷は理解されるどころか、社会から彼らが受けたのは冷たい視線だけであった。つまり、彼らはそこで二重の精神的外傷の中に生きることになるのである。

 いや、現実には、生きることを断念し、自殺に至ることにさえなったのである。

 忘れられるべきではない、ヴェトナム戦争後の現実だ。

 戦争を絶対悪として考えること自体は、誤りではないと思う。

 しかし、実際問題としては、人間が戦争を絶対悪として考えることは、必ずしも一般的なことではないことも、(うれしいことではないが)事実であろう。

 勝った戦争は、普通、悪ではないのである。

 さて、ところで、戦後の日本社会は、戦死者達、戦傷者達、復員兵達に対し、適切に接することをして来たのだろうか?

 これは、「戦後日本社会の戦争責任」とでも言うべき問題だろう。

 これは、現在の、いわゆる「靖国問題」にまで連なる、かなり重要な問題である、と私は考えるのだが…

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/20 21:41 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/79356/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 7

 

 「戦争責任」について考えている。

 昨日は、昭和天皇の言葉として、

自分が恰もファシズムを信奉するが如く思はるることが、最も堪へ難きところなり、実際余りに立憲的に処置し来りし為に如斯事態となりたりとも云ふべく、戦争の途中に於て今少し陛下は進んで御命令ありたしとの希望を聞かざるには非ざりしも、務めて立憲的に運用したる積りなり、戦争についても極力避くることに努力し、前の上海事変の時、白川大将は実に余の命令を守りよくやつて呉し故、大将の薨去の際には和歌を詠みて未亡人に与へたることもあり、又支那事変の当初、天津に事変の起りたるときは、参謀総長と陸軍大臣を呼び、何とか蒋と妥協せしむることにつき下問せむとせしが、頭から一挙に解決し得との奉答なりし故、手の下し様なかりしこともあり、今日から思へば実に残念なり

という、『木戸幸一日記』(昭和20年9月29日)の記述をご紹介しておいた。

 「実際余りに立憲的に処置し来りし為に如斯事態となりたりとも云ふべく」と、自らの「立憲的」な振る舞いについて、昭和天皇は語っていた。

 木戸の伝える天皇の言葉を、その論理に従って並べ替えれば、「戦争についても極力避くることに努力し」たものの、「務めて立憲的に運用したる」結果、「手の下し様なかりしこともあり、今日から思へば実に残念なり」ということになる。

 昭和天皇が「立憲的」に「運用し」・「処置し来り」と言う時、天皇の前にあったのは、大日本帝國憲法であった。

 「立憲的」な昭和天皇を拘束していた大日本帝國憲法の条文では、

 第1章 天 皇 

第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス 

第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 

第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ 

第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ 

第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス 

第7条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス 

第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス  2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ 

第9条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス 

第10条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル 

第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス 

第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム 

第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス 

第14条 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス  2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム 

第15条 天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス 

第16条 天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス 

第17条 摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル  2 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ

と、天皇の地位・権能について規定している。

 政府との関係については、

 第4章 国務大臣及枢密顧問 

第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス  2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス 

第56条 枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス

と規定されている。

 大日本帝國憲法の条文として記されているのは、国務上の天皇の限定された地位・権能というよりは、、限定された議会の地位・権能であり、国務大臣に輔弼され、枢密顧問に諮詢を命ずることの出来る天皇の姿である。そして陸海軍を「統帥」する天皇の姿だ。

 大日本帝國憲法の文言の上に(つまり言葉通りに)、天皇がその地位・権能を「立憲的」に「運用」・「処置」したとすれば、「戦争についても極力避くることに努力し」ようと思えば、必ずしも「手の下し様なかりしこともあり」ということにはならないのではないか?という疑問を提示することは出来るだろう。

 もちろん、それは論理的には可能であるという話であって、当時の現実の政治機構の中で生きていた(昭和天皇を含む)人間にとっては、非現実的な論に感じられてしまうだろうことではある。

 しかし、大日本帝國の戦争の過程で犠牲者となった側の人々からすれば、「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」という以上、「戦ヲ宣」することをせず、あるいは早期に「和ヲ講シ」ることによって、戦禍は昭和天皇の決断しだいで避けられるものではなかったのか?との思いが生じるのもまた、論理の上では当然のことであろう。

 少なくとも、ポツダム宣言受諾に際して、昭和天皇の意思表示は決定的に作用したのである。それは確かに「思い」の源泉、「思いが生じる」十分な根拠として機能する出来事であった。

 しかし、「論理的には正しいだろうが、それは現実的ではない」との思いは、どちらの側のものでもあるだろう。

 現実に何が可能であり、何が不可能事であったのか?

 事実関係の検証の問題であると同時に、私達自身の想像力が問われる問題でもある。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/19 23:15 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/79231/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 6

 

 戦争責任とは何のことなのか、という話題に、久しぶりに戻る。

 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 (岩波現代文庫 2008)には、占領下日本における、昭和天皇の様々な発言が収録されている。

 1946年1月29日付の、昭和天皇から英国国王へ宛てられた「親書」には、

 

私は戦争を回避するために最善を尽しました。しかしながら国内の諸事情により、まことに不本意ながら貴国に対して戦端を開く事態に立ち至りました。

 

という文言があるという。

 昭和20年9月29日の『木戸幸一日記』にも、昭和天皇の、

 

自分が恰もファシズムを信奉するが如く思はるることが、最も堪へ難きところなり、実際余りに立憲的に処置し来りし為に如斯事態となりたりとも云ふべく、戦争の途中に於て今少し陛下は進んで御命令ありたしとの希望を聞かざるには非ざりしも、務めて立憲的に運用したる積りなり、戦争についても極力避くることに努力し、前の上海事変の時、白川大将は実に余の命令を守りよくやつて呉し故、大将の薨去の際には和歌を詠みて未亡人に与へたることもあり、又支那事変の当初、天津に事変の起りたるときは、参謀総長と陸軍大臣を呼び、何とか蒋と妥協せしむることにつき下問せむとせしが、頭から一挙に解決し得との奉答なりし故、手の下し様なかりしこともあり、今日から思へば実に残念なり

 

という言葉が記録されている。

 戦争回避こそが、昭和天皇の真意であったというのである。

 しかし、「立憲的」な振る舞いを優先したために、その真意は実現されなかったのだと説明しているわけだ。

 昭和37年刊の『天皇様の還暦』で、入江相政は、

 

二・二六の時と、終戦の時と、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた。二・二六の時は総理大臣が生きているか、死んでいるか分らないので、自分か進んで態度を決めるように指導した。終戦の時は、総理大臣が「どうしようか」と聞くから「早くやめろ」といった

 

との昭和天皇の言葉を伝えている。

 立憲政治の下では、君主は政治的決定に関与しないのが原則である。

 昭和天皇自身は、その原則に忠実であろうとしたが、2・26事件の時と、終戦時においては、例外的に政治的決断を自ら下したと言うのだ。入江に対しては、「自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた」という言葉まで用いて、その例外性を強調しているわけである。

 支那事変の拡大、そして対米英開戦に至る歴史の中で、立憲的であろうとした昭和天皇には、(まさに立憲的であろうとしたが故に)その流れを止めることは出来なかったという主張も、その陰にあることにある。

 もちろん、戦争の犠牲者からすれば、開戦の時点で「立憲君主としての道を踏みまちがえ」ることがなぜ出来なかったのか?なぜしなかったのか?という問いが投げかけられるのは当然であろう。

 「立憲君主」とは、憲法の制約に従う君主を意味する。昭和天皇も、大日本帝國憲法に従属する君主であらんと努力したのであり、だからこそ、

私は戦争を回避するために最善を尽しました。しかしながら国内の諸事情により、まことに不本意ながら貴国に対して戦端を開く事態に立ち至りました。

という歴史の進行を避けることが出来なかった、というわけだ。

 ここでは、開戦時において、昭和天皇が立憲君主として振舞うべきではなかったかどうかについては論じない。少なくとも、開戦時においては、昭和天皇が立憲君主として振舞っていた。そのように考えておくことにしよう。

 立憲君主である以上、開戦決定に、昭和天皇は関与出来ないわけだから、開戦についての責任もないということになる。もちろん、ここで論じているのは憲法との関係における「責任」の問題であり、戦争の犠牲者には、当然のことながら、別の視点が存在するだろう。

 それを分けて考えることが、私自身のスタンスである。

 さて、英国国王への「親書」には、

私は当時の首相東条大将に対し、英国での楽しかった日々を思い起こしつつ、強い遺憾と不本意の気持をもって余儀なくするのだと繰り返し述べながら、断腸の思いで宣戦の詔書に署名したのであります。

という昭和天皇の言葉が書かれている。

 「立憲君主としての道を踏みまちがえ」ないための昭和天皇の努力は、「強い遺憾と不本意の気持をもって余儀なくするのだと繰り返し述べながら、断腸の思いで宣戦の詔書に署名」することによって果たされたのである。

 少なくとも、昭和天皇は、英国国王に対し、そのように説明していたわけだ。

 その「当時の首相東条大将」は、極東軍事裁判(東京裁判)の法廷において、A級戦犯として裁かれ、絞首刑に処せられた。

 サンフランシスコ講和条約第11条(戦争犯罪)には、

日本国は、極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする

との文言がある。

 豊下によれば、講和条約調印10日後の1951年9月18日に行われたリッジウェイ(占領軍最高司令官)との会見の席で、昭和天皇は、

有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約

とのサンフランシスコ講和条約への賞賛の言葉を述べている。

 英国国王宛の「親書」にも、

私はポツダム宣言の条項を忠実に履行し、平和と民主主義に貢献する、よりよい国家の再建のために出来る限りの努力を払いたいと切に望んでおります

という昭和天皇の言葉がある。言うまでもなく、ポツダム宣言は、その条項の中で、戦争犯罪人の処罰を戦争終結条件として明示していた。

 いずれにせよ、昭和天皇自身は、極東軍事裁判(東京裁判)の判決とその刑の執行に対し、積極的に肯定的な評価を与えているのである。

 しかし、東京裁判で裁かれたのは、被告達の連合国に対する罪であったに過ぎない。

 大日本帝國に対する責任、昭和天皇に対する責任、そして国民に対する責任が裁かれたわけではない。

 昭和天皇による極東軍事裁判(東京裁判)への積極的な肯定的評価の底にあるのは、どのような論理あるいは心理なのであろうか?

 いささか気にかかるところである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/18 22:19 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/79137/user_id/316274

 

 

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ホーネッカーの特別列車

 

 このところ、何度かドイツ民主共和国(東ドイツ)のプロダクトとして、トラバントのことを取り上げて来た。

(→http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/65815/user_id/316274

(→http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/69248/user_id/316274

(→http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/78634/user_id/316274

 4分の1世紀以上もモデルチェンジなし、技術革新なしに生産され続けた、排ガスでも悪名高い小型車だ。

 まぁ、そのデザインは好きなわけではあるが。

 そんな中で、動画サイト中の東独関連画像も、随分と楽しんだ。

 いくつかご紹介したい。

 まずは、東独国歌のロックヴァージョンから、

MIA. - Auferstanden aus Ruinen

(→http://jp.youtube.com/watch?v=KA6ow_PUNQg&feature=related

東独国歌の作曲者は、ハンス・アイスラーだ。

 機会があれば、アイスラーについて、クルト・ワイルやブレヒトについて、エルンスト・ブッシュについて書いてみたいと思っているところだ。

 最後の東独指導者となった、エーリッヒ・ホーネッカーの肖像集、

Erich Honecker Tribute

(→http://jp.youtube.com/watch?v=Ng6Jrx0-pMs&feature=related

バックに流れているのが、アイスラー作曲の東ドイツ国歌「廃墟からの復活」。

 そのウォーホールナイズ(?)として、

Honecker in Pop-Art Warhol Styl

(→http://jp.youtube.com/watch?v=aPCGKVH7Vfw&feature=related

 そして極め付けがこれだ。

Honecker's special train

というタイトルの画像。つまりホーネッカーの特別列車である。

 日本にも、天皇専用の「お召し列車」というものがあった時代があるわけだが、東独の共産主義者のトップもまた専用列車を所有していたということらしい。

というわけで、その画像はというと、

(→http://jp.youtube.com/watch?v=4xpYsZWQJI4

 いやぁ、これには驚かされました、です。

 日本のテツの実力を思い知らされた一瞬でありましたねぇ…

 まさか、いきなり日本語が!?!驚愕の瞬間でありました。

 車両番号を冷静に読み上げる、テツの声!

 鉄のカーテンをものともせぬテツの勇姿!!

 テツの前に、既に壁は崩壊していた…のだろうか?

 以上、ダブニスト、休日の夜のお遊び(?)でございました。

 

(追記 : 残念ながら、「MIA. - Auferstanden aus Ruinen」は削除され、「Honecker's special train」の画像の後ろに流れていた、冷静に車両番号を読み上げるテツの日本語は、音楽へと変えられてしまった)

(追記の追記 : 検索の結果、「MIA. - Auferstanden aus Ruinen」 http://jp.youtube.com/watch?v=soYqf82UGKs 発見)

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/15 20:42 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/78841/user_id/316274

 

 

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トラバント(マルクスのハンドル?)

 

 時代遅れな感じ、というものはある。

 まぁ、「感じ」の話だ。

 要するに「今」はこれじゃないよ、という「感じ」。

 しかし、時代に関係なく、時代を超越したナニカ、というイメージもある。

 昔も今もなく、これだよな、って感じか?

 「感じ」が問題である以上、それを感じられるかどうか、という問題も、そこにあるわけだ。

 当人が「時代遅れ」と感じるセンスを持ち合わせていなければ、今でもこれでいい、ってことになるだろう。

 いや、センスというものを持ち合わせていないということは、そもそも今でもこれでいいのかどうかという、問い自体が生み出されない状態だろう。

 そんなことは気にしない、というより気にすることを思いつかない、ということであるに違いない。

 とは言いつつも、流行に気を捉われ続ける状態がいいかどうか、ということもある。

 当人のセンスの問題というよりは、情報処理能力の問題に過ぎなくなってしまうような気がしてしまうわけだ。そこでの課題は、最新流行が何であるかについての情報を常時確保するだけの話になってしまう。

 つまり、流通する情報に従属するだけのことなのだ。当人にとっての「今」が問題にされることはなく、流通する情報により評価される「今」だけが、当人の判断基準となっている状態。

 まぁ、ショーバイ上は、理想的な顧客にはなってくれることだろう。シナモノの中身に関係なく、それが最新流行であるという情報さえ流せば、それが購買に直結するという消費者の存在。もっとも、当人達に、購買力を支える収入があっての話ではあるけれど…

 最新流行が何であるかという問題とは別に、当人にとっての「今」の問題は存在しうるのかどうか?

 どっちかといえば、そっちが気になる。

 自分の中で終わってしまったこと、という感覚はあるだろう。

 周りがそれで盛り上がっていようと、最早それは、自分にとっての「今」の問題ではなくなってしまっている状態。

…というのは、しかし、「時代遅れな感じ」とは別の感覚であるなぁ…、と、この文章のスタート地点を読み返して思う。

 要するに「時代遅れな感じ」っていうのは、「自分にとっての今の問題」ではなく、「時代にとっての今の問題」なんだなぁ、と、あらためて考え直すわけだ。

 個人としての「私」にとっての「今」が問題となるのではなく、ひとつの「時代」として、社会的に共有された、歴史的な「今」が問題化されている、というわけだろう。

 私の「こだわり」の問題ではなく、社会的に共有されたセンスの問題とでも言うべきだろうか?

 まぁ、社会的にそのようなセンスが共有されているだろうという想像の共有により成立する社会とセンスを共有しているだろうと想像する私の問題、というのが正確な表現であるのかも知れないが…

 時代がどうであれ、流行がどうであれ、私にとっての「今の」問題があり、私にとっての「今な」センスがある。

…と言い切ってしまってはどうだろう?

 トラバントのデザインは古い。時代遅れなものだ。

 しかし、今では、そのレトロさが魅力でもある。

 決して時代を超えたグッドデザインであるとも思わないが、「時代遅れ」状態を脱し、レトロな「いい形」が、今ではその魅力になってしまった。

 しかし、その性能は、文字通り「時代遅れ」なものであり、誰の「こだわり」の対象にもならないだろう。

 つまるところ、ベルリンの壁崩壊に伴い、壁の向こうからあふれ出したトラバントの姿は、時代遅れのものでありながら「新しいこと」としてのある種の経験を、私達にもたらしたのだ。

 現役で生きていた、つまりいまだ最新型であり続けていた、しかし「時代遅れな」トラバントという存在。

 デザイン的な「時代遅れ」状態はともかくも、テクノロジー面でのあまりな「時代遅れ」ぶり。

 それを生み出した東独という国家のあり方。

 共産主義者に率いられた国家のあり方が、トラバントというクルマに集約的に現れていた、ということであろうか?

 これは理想として語られる「共産主義」の問題では、もちろん、ない。

 「共産主義」の実践者、共産主義の前衛であると自己規定した党に指導された国家が、現実に生み出した生産物の問題なのである。

 イデオロギーの問題ではなく、生産物の問題。観念の問題ではなく、排ガスとして大量の汚染物質を撒き散らし続けたクルマの存在が明らかにしてしまう問題なのである。

 反共主義者の熱狂的な叫びよりも、トラバントの排ガス。

 リクツの問題ではなく、モノが示す問題なのであった。

 そして古いモノが、新しいコトを照らし出した、ということであろうか?

 しかし、また一方で、共産主義の描き出した理想が、再び「新しいこと」として見出される可能性も否定出来ないのもまた、ベルリンの壁崩壊から20年近い資本制社会の「今」、歴史の「今」の現実であろう。

 懐古趣味としてではなく、「今」の問題として考えることが出来れば、人類の未来に少しは希望の光を感じることは可能になる(と思いたい)。

 それは、マルクスの文言を正しく読むことへのこだわりからは決して生まれないだろう。

 「今」を感じるセンスこそが問われるに違いない。

 

 

 

追記 : ドイツ民主共和国国歌「廃墟からの復活」を動画でご紹介。

Auferstanden aus Ruinen ( Die DDR National Hymne)
  (→http://jp.youtube.com/watch?v=UDDpV50-lZA&feature=related)

作曲は、ハンス・アイスラー。

廃墟となったベルリンから始まり、東独を脱出するトラバントの車列で終わるという、洒落た構成(?)の画像である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/13 18:06 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/78634/user_id/316274

 

 

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21世紀の最初の9月11日

 

 2001年の9月11日は、東京人にとっては、日中の台風の通過が、せいぜい共通の記憶として残るだろうにしても、7年も過ぎれば台風のことなど忘れ去られ、特に記憶すべきこともない、ありふれた9月の一日として思い出すことすらされない日付となっていただろう。

 台風のニュースも見終え、久しぶりに早寝をしようと思っていたところへ、階下から声がかかった。

 呼ばれて階段を降り、指差された先のテレビを見る。

 ニューヨークの高層ビルの中ほどから大量の煙が上がっていた。

 飛行機が衝突したのだと、私を呼んだ、娘の母が言う。

 なんてことだと思いながら画面に見入っていると、何と2機目が隣に並んだビルに激突した。「激突」というか、吸い込まれ、激しい炎と煙へと変った。

 事故ではないぞ、ということは、その時点で推測出来た。

 やがて、他にもハイジャックされた旅客機の存在が明らかとなり、ペンタゴンも標的とされ、別の一機の墜落も確認されていく。

 もっとも、7年前の記憶となってしまった出来事の順番は定かではないが、とにかく、深夜まで、テレビの前から離れられなくなってしまったことを覚えている。

 当時、私は休職し、寝たきり状態となった母の介護を続けていた。一日中、家で過ごしていたのである。

 台風も、家の中で、外を過ぎていく出来事として経験したに過ぎない。

 その日の台風を覚えているのは、母の介護の日々、母の最後の日々を、その日の母の姿を撮影することで、家にこもり続けた一日のアクセントとしていたからだ。同じカメラで、台風の過ぎ行く窓の外を撮影し、そして炎上するツインタワーのテレビ画面も私は撮影していた。

 母の死後、残された写真を整理している中で、同時多発テロの日、東京は台風に襲われていたことは再発見されたのである。

 時期的には介護保険制度の発足と重なり、身体の介護に関しては、訪問看護師と、ヘルパーさんの力を十分に借りることが出来た。

 しかし、衰えゆく家族の傍で過ごす毎日は、思うほど気楽なものではなかった。

 まぁ、そんな一日の重苦しさもある時間の流れの中で、死にゆく老人と介護する家族という関係を、写真家(?)とモデル(…?)の関係へと変換させる時間を持てたのは幸せなことだったと思う。

 煮詰まった日常の時間が、その時だけ別の時空へと変化する。母に寄り添う猫の姿。母の横で漫画を読みふける、まだ小学生の娘の姿。カメラのファインダー越しにそこへ向けられる私の視線も、日常のものではなくなるのだ。

 そんな日々の中に、同時多発テロが飛び込んで来たのだった。

 一日中、家にいるわけだ。衛星放送で、CNN、BBC、ABC、CBS等の映像が視聴出来るようになった時代の話だ。

 母の介護をしながら、毎日、テレビ画面に見入っていたのを思い出す。

 ブッシュ政権は、「テロとの闘い」を名目として、アフガニスタンへの攻撃を選択する。戦争では、テロリストではない多くのアフガニスタン国民が犠牲となった。

 現代の軍隊の装備としては、実に不十分なものしか持たなかったタリバンの兵士に対し、最先端兵器を駆使した米軍の攻撃は、確かに効果を挙げた。

 アフガニスタン内のタリバンへの対抗勢力の軍事力が、地上戦を制した。

 そして、アフガニスタンは、タリバンの支配から「解放」されることになった。

 アフガニスタンに対する攻撃の名目は、同時多発テロの実行グループとしてのアルカイダの存在だった。しかし、対アフガン戦争は、アルカイダを消滅させるような成果には結びつかず、攻撃の目的が達成されたわけではなかった。

 ブッシュ政権は、アフガニスタンの復興という課題には興味を示さず、新たなる敵としてイラクを指名した。

 国内にアルカイダは存在せず、大量破壊兵器も保有していないイラクが、アルカイダの存在と大量破壊兵器の保有を理由に、米軍の攻撃の対象となったのである。

 最先端兵器を装備した米軍は、イラク軍との戦闘でも、圧倒的に優位に立ち、イラク正規軍を崩壊させ、イラク政府を消滅させた。

 しかし、最先端兵器を装備した少数兵力の使用による戦闘の勝利には成功したが、大量の兵力を必要とする軍事的占領と治安の維持への想像力を欠いたために、戦後イラク統治には失敗してしまった。

 第二次世界大戦後の日本占領が、戦後イラク統治のモデルとなるはずだった。しかし、戦後日本には、戦前から継承された正統性に基づく政権が存在し、行政機構が存在し、警察組織が存在し、指揮系統に基づき武装解除する軍隊が存在した。イラクにはそのすべてがなかった。

 大日本帝國政府はポツダム宣言を受諾し、大日本帝国の軍隊は連合軍に対し降伏したのである。しかし、イラクでは、公式には、誰も降伏していないのだ。

 そのイラクの地に、小兵力の米軍は、治安維持能力を欠いた存在でしかなかった。

 宗派や民族を異にする人間によって構成されていた国家であったイラクには、国民の統合の基盤となるはずのイラク人としての共通したアイデンティティーが存在していたわけではない。

 国家による権力的な統治があって初めて、イラク国民の存在があったわけだ。

 そのイラクから、統一的な権力を消失させてしまったのが、ブッシュ政権による戦争の「成果」であった。

 国民としての統合の枠組みは失われ、それぞれの宗派的・民族的アイデンティティーと様々な利害関係の上に国内対立は激化し、同時に占領軍としての米軍へのゲリラ攻撃も恒常化してしまった。

 最新鋭を誇る米軍の装備は、ゲリラ戦には無力である。

 軍需産業は確かに潤いはしただろうが、一方で最新鋭兵器の無力振りをもさらけ出してしまった。

 誰が、利益を得たのだろうか?

 利益を得た者など存在するのだろうか?

 アメリカの威信など、消えてしまった。

 何も達成されず、イラク国民は死の恐怖にさらされ続け、米軍兵士は市民による攻撃の恐怖にさらされ続けている。そして、殺し殺され続けているのである。

 アフガニスタンでは、タリバンは勢力を盛り返し、あの戦争の成果など、誰にとっても存在しないだろう。

 アフガン攻撃に至る日々(母は存命であった)、イラク攻撃に至る日々(これは母の死後の出来事だ)、このような現状は、既に多くの人々によって予測されていたことだ。

 私ですら予測出来たのだから、決して難しい話ではなかったはずだ。

 普通なら、予測が当たることは「うれしい」出来事の一つだろう。しかし、この「予測通り」に実現されてしまった現状を見るのは、実につらいことである。

 21世紀の最初の7年の人類の経験がこんなものとなってしまったことは残念な話だ。別に多くを期待していたわけではないが、ここまで愚かさの中に埋もれた7年となることを望んだこともない。

 そんなことを思う、2008年9月11日の夜である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/11 21:51 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/78458/user_id/316274

 

 

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続々々・首相辞任(昭和十九年七月十八日)

 

 昭和19年7月18日、首相東條英機は辞表を捧呈、内閣総辞職となった。

 『入江相政日記』の「注解」には、

[7・18]

 内閣総辞職 7月7日のサイパン玉砕など選挙区の破局化に伴い重臣の間にも反東条の機運が強まり、元首相岡田啓介らは積極的に倒閣工作を進めていた。東条首相は、統帥と国務を分離し、嶋田海相を更迭、米内光政、安部信行、広田弘毅らの重臣を閣内にとり込み内閣を改造して存続をはかろうとしたが、重臣はいずれも入閣を拒否し総辞職となった。東条構想を受け入れたのは嶋田海相のみだった。

とある。

 また、清沢洌の『暗黒日記 2』の「注」では、7月14日の条に、

 

 この時の「内閣改造」はここ(7月14日の日記-引用者)に清沢が」書いたような形では行われず、結局七月十八日の東条内閣総辞職となった。インパール作戦の失敗、サイパンの失陥で自信を失った東条首相は、内閣改造によって事態乗り切りを考え、七月十三日、内大臣木戸幸一に会見してその方針を述べたが、木戸の態度はさすがの東条も会見後軍務局長佐藤賢了に辞意をもらさずにはいられなかったほど冷たかった。すでにこの頃、重臣のうち近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎、若槻礼次郎らを中心とする東条内閣打倒の動きが重臣層、宮中、政府、海軍の内部にかなり浸透しており、木戸またそれを知っていた。東条が当時内外に評判の悪かった嶋田海相を辞めさせ(後任野村直邦大将、ただしこれは三日だけの海相となった)改めて内閣改造を計ろうとしたのに対し、改造内閣に予定された米内光政はこれを拒み、また閣内の岸信介もこれら重臣の動きに対応したため、ついに内閣の総辞職に追い込まれたわけである(『木戸幸一日記』、『岡田啓介』、佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』等、参照)。

 

という、実際の顛末が記されている。

 東條英機自身には、まったく辞任の意思はなかった、のである。

 前回(「続々・首相辞任(昭和十九年七月十八日)」http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/77831)の引用部分に続いて、清沢は、

 

 負けたのは「兵器不足に起因」(『東京新聞』七月二十日)といった論調が、軍部の態度を示す。

 

と書いている。

 山田風太郎の日記中のエピソードを思い出す。

 7月18日の条、再び引用してみよう。

 

 〇正木さん強制残業のため九時過ぎて帰って来る。沖電気では、今年中に命ぜられた生産量を二ヶ月以内に仕上げろとの軍命令があった由。

 

 「強制残業」となって、「軍部の態度」は民間人に降りかかる。

 不利となり続ける戦局も、まるで「他人事(ひとごと)」のようなのだ。戦術上、戦略上の反省はどこにも存在しない。

 そのような「軍部」の頂点にいたのが東條英機その人であったわけだ。

 不敗の皇軍というタテマエへのこだわりが、自らの弱点を直視することへの障害となってしまう。

 問題は軍組織内部には存在せず、「負けたのは兵器不足に起因」するのであり、つまり国民のせいなのである。

 さて、清沢の7月20日の日記は、

 

 今夜七時のラジオによって始めて大命が、小磯と米内に下った旨を知った。陸海の感情衝突は、最早国民の常識だ。この協力を要請する最後の試みが、ここでなされたのである。一方の代表者では他方が聞かぬのを示すものだ。

 

という言葉で終えられている。

 山田風太郎は、

 

「陸海軍が全然背中合わせなんですって!ケンカばかりしているんですって!」

と下宿のおばさんが腹の底から怒りにたえぬかのごとく叫ぶ。

 

と、下宿のおばさんの怒りの言葉を伝えていた。

 まさに、「陸海の感情衝突は、最早国民の常識」だったのである。

 「陸海軍が背中合わせ」のまま、大東亜戦争は、まだ一年以上も続くのである。新内閣誕生後も、軌道修正の出来ぬまま、さらに戦局の悪化を重ねていくのである。

 開戦時の首相東條英機によれば、大東亜戦争とは帝國の自存自衛の確保のための戦争であった。しかし、実際にもたらされたのは、他国を戦場に巻き込んだ上での帝國の自己崩壊であった。

 開戦の決断自体に問題があったと考えるべき理由はあると思うが、開戦の決断に問題はなかったと考えるべき理由は、私には見つけることは出来ない。

 確かなことは、東條英機の首相辞任は、何かに責任を取ってのことではなかったということだ。

 しかし、考えておかなければならないのは、現在の靖国の英霊の大多数に対し、東條英機はその責任を負っているということだ。東條英機自身が責任を感じていようがいまいが、彼らの死へ対しての責任はあると考えなければならない、はずだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/09 21:53 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/78282/user_id/316274

 

 

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続々・首相辞任(昭和十九年七月十八日)

 

 首相の辞任が新聞に掲載されたのは、3日後、ということになる。

 東條内閣総辞職の日付は、昭和19年7月18日。7月21日の紙面で始めて、新聞の記事となった。

 私的に辞意を漏らした、という話ではない。参内し、天皇に拝謁した上での内閣総辞職である。ニュースバリューは大きい、はずだが、新聞紙面を飾るのは3日後、なのである。

 戦時下の新聞、情報統制下の新聞とはそのようなものであった。そこでは、新聞報道に、新しいことが求められるわけではない。あるいは3日前の話も「新しいこと」なのである。

 もっとも、ラジオを通じて、東條内閣総辞職は、7月20日に発表されていた。

 まぁ、2日後になっての発表、ということではあるが。

 

 七月二十日 (水) (十八日午前十一時半に辞表捧呈、本朝発表)

 東条内閣総辞職す。この日本を不幸に陥らせた責任内閣は、かくて内輪割れの結果崩壊す。笠原清明の話しでは、投書なども沢山あり、刑事すらも、腹でも切れば許されるだろうが、オメオメ生きていれば殺されるかも知れないといったと。

 サイパン――東条内閣崩壊――当局者に対する反感――一緒に騒いで置きながら、、戦争が不利となれば国民は必ず不平をいおう。ここに大東亜戦争は一転機を画す。七月二十日は記憶されるべき日になろう。

 さるにても、これくらい乱暴、無知をしつくした内閣は日本にはなかった。結局は、彼を引き廻した勢力の責任だけども、その勢力の上に乗って戦争をしていた間は、どんな無理でも通った。然るに参謀総長をかねて、掣肘をこの勢力の上に加えるに至って、一たまりもなく振り落とされたのである。

 かつて参謀総長兼任をもって、政戦一致といって太鼓を叩いた新聞は、また「絶対信頼の梅津大将」とか「ひたすら作戦一途征戦完遂」などと、お世辞をいっている。

 昨日も、今日の新聞も悲憤慷慨の文字で全面を盛っている。もっとも現在は一週間の内三日は、ただの二頁であるが、その二頁が、「一億試練の時」「南溟の仇を報ぜん」「急げ輸送隘路の打開」「怒りの汗に滲み職場離れぬ学徒」「津々浦々に滅敵の誓」(以上『朝日』)といた記事で、他には何もない。『朝日』がそうだから、他の新聞は想像しうべし。

 負けたのは「兵器不足に起因」(『東京新聞』七月二十日)といった論調が、軍部の態度を示す。

          清沢洌 『暗黒日記 2』 (ちくま学芸文庫)

 

 清沢のこの日の日記は、まだ続く。

 ここでは、

 刑事すらも、腹でも切れば許されるだろうが、オメオメ生きていれば殺されるかも知れないといったと。

という記述に注目しておきたい。

 昨日紹介した、山田風太郎の周囲の「街の声」とはニュアンスの異なる感情である。

 川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』(講談社学術文庫2004)には、

 

 内閣総辞職とは何たる無責任ぞや。何たる弱腰であろう。戦局が不利なるが故に辞めたとあっては一億の風上にも置けぬ奴等だ。信頼出来ぬ指導者である。

 出来なければ辞表一本出せば責任は逃れる。こんなぐうたらな指導者だから戦局は益々不利だ。第一祖国永遠の栄を祈り確信して散って行った勇士達に何と言い訳が立つであろう。 (七月二十日)

 

という小長谷三郎の日記の紹介がある一方で、

 

 こら英機の馬鹿野郎五十万の兵隊さんを殺しておきながら其の結末をつけずに大臣をやめておめおめ生きているのか、何故軍人らしく腹を切らぬか中野正剛氏を切腹しせしめやがっておのれ生きる法があるか 馬鹿野郎死ね。 (『特高月報』昭和十九年八月分)

 

という、「米喰糞太郎」を名乗る人物の「反戦不穏投書」が紹介されている。

 山田風太郎の拾った「街の声」、清沢洌の聞いた噂。

 それぞれに、国民の感情が反映されたものと考えるべきだろう。

 「戦局不利なる」時点で辞めることが、「責任逃れ」と捉えられているという点では、どちらも共通していると言うことも出来そうだ。

 「戦局不利なる」現状を、自分の責任であると考えているようには見えないところが問題なのかも知れない。

 東條英機にとっては、サイパンの玉砕も「他人事(ひとごと)」であるようにしか見えないのである。

 東條英機が、其の自己評価において、「自分を客観的に見ることが出来る」と考えていたかどうかまではわからないが…

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/04 21:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/77831/user_id/316274

 

 

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続・首相辞任(昭十九年七月十八日)

 

 昭和20年7月18日、サイパン陥落の大本営発表の日に、東條内閣は総辞職していた。

 ラジオを通して発表されたのが、7月20日。新聞に報道されたのは、7月21日になってのことだ。

 記者会見場での、「あなたとは違うんです」という発言がリアルタイムで中継され、ネット上の動画サイトで繰り返し見ることが出来てしまう、この現代の情報のスピードからは想像し難いような思いさえする話である。

 それでも、情報を完全に管理することは難しいのだろう。

 街のウワサの情報伝達力を侮ることは出来ない。

十九日 晴 

 〇東条内閣瓦解の噂あり。

 〇夕、下目黒の高須さんの家にゆく。浅草に住む高須さんの知人のラッカー屋加藤さん来り。三人でウイスキーをのむ。サントリー・ウイスキーいま一瓶二百円の由。

 東条内閣瓦解の噂につき、加藤さん、酩酊して、

「誰がやったって同じだ。東条が今やめるなんて、そんな無責任なことをさせてたまるか」

と、絶叫する。十一時過ぎ下宿に帰る。戸をあける下宿のおばさん甚だごきげんななめ。

          山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 (ちくま文庫)

 

 「誰がやったって同じ」という言葉は、現在のニュース報道中の「街の声」からもよく聞かれるものだ。政治に対するこのような感覚は、決して、新しいことではない、ということだろう。

 東條英機の首相辞任に際しても、この言葉が、国民の口に上っていたわけだ。

 「東条が今やめるなんて、そんな無責任なことをさせてたまるか」という言葉を生み出す心理も興味深い。

 「責任」の取り方についても、人の感じ方考え方は一様ではない、ということだろう。

 翌日の日記には、

 

二十日 晴

 〇今朝東条内閣総辞職発表さる。日本の苦悶――われわれはいかにすべきか。いかに祖国の難に応ずべきか?――一日中、このことが頭にこびりつく。

 疎開の運搬作業中も「無責任な奴だなあ!」とみな東条さんを罵る。東条さんの苦しみはしかし一個人の責任ではあるまい。ともあれ、緒戦当時会議で獅子吼したの力強い声はもうきかれない。

 小磯国昭大将に大命降下の噂あり。けさ朝鮮から飛行機で帰来したそうだ、と朝から噂をきいていたら、夕刻、小磯米内両氏に大命降下の発表、民衆のささやきの恐るべき早さよ!

 二人の人物に大命降下とは稀有のことだ。国難の容易ならざるを見る。しかし――しかし――ああ、天才出でよ、超人出でよ。

 今日もはや努力型の人間ではそのなすことは知れたものである。ヒトラー、スターリン、、チャーチル、ルーズベルト、蒋介石、これらは敵味方を問わずことごとく一種の超人たちである。日本にはいないのか?

 〇本日を以て勤労動員終わる。明日一日は慰労休暇とのこと。夏休みは時局の逼迫により短縮されるであろうとのこと。

 上野公園を歩いていたら、茶店に蚊取線香を売っているというので、二束買う。自分の下宿には蚊はいないが、高須さんの家には蚊が多いので持っていってやろうと思う。軍隊用のものとか干うどんのひからびたような奇態な香取線香で一束二十本あまり二束で三円。

 

と、小磯国昭の首相就任が、朝には噂として、夕方には公式発表として記録されている。

 山田風太郎自身が、「噂」の情報伝達力に感心しているところも面白い。

 ここにも、辞任する東條首相への「無責任」という感想が、周りの人間達に共有されていたものであることが記されている。

 東條首相は、その座を去ることで職責から解放されるが、勝つアテの見えなくなった戦争は続き、国民は戦時下に負わされる様々な義務から解放されることはない。「非常時」の日常は続くのである。

 そのような気分からの言葉であろうか?

 今日もはや努力型の人間ではそのなすことは知れたものである。ヒトラー、スターリン、、チャーチル、ルーズベルト、蒋介石、これらは敵味方を問わずことごとく一種の超人たちである。日本にはいないのか?

という言葉の中に、若き山田風太郎の東條英機評価を見出すことが出来るだろう。

 努力型の人間!

 東條英機自身には、辞任の意思などまったくなかったのだが、その意思に反する「内閣総辞職」という事態は、国民からは「無責任」という評価を受けていた。

 実に皮肉な話ではある。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/03 22:14 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/77729/user_id/316274

 

 

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首相辞任(昭和十九年七月十八日)

 

 責任を取り、辞任をするということ。

 何らかの地位に就いていた人物が、その職責を全うすることにおいて、自らの失敗を認め、あるいは能力の不足を自覚したが故に、その職を去る。

 時を誤ることなく辞任することが出来れば、職務遂行上の問題への評価とは別に、出処進退における潔さに関しては、周囲の記憶に残る人物となる可能性があるだろう。

 昭和19年7月の話である。

 

 

 七月十八日(火)          晴 頗暑 五,三〇 一一,〇〇

 いい気持ちで起きる。御代拝。九時二十分内大臣、九時四十分東条首相拝謁。いよいよ国内の事態も接迫して来たらしい。首相の表情も硬直している。午后また拝謁。いよいよ内閣総辞職だ。かかる事態を招来した国内情勢が困つたものである。夕方大夫の車で下る。入浴。ニュースではサイパン島の玉砕を報じてゐる。予等は已に聞いてゐたことであるからであるが家中悲嘆に暮れてゐる。孝ちゃんは今夜立つて南方へ行くとの事。堀次郎さんも同様。

          入江相政 『入江相政日記』 (朝日文庫)

 

 昭和天皇の侍従であった、入江相政の日記である。

 内閣総辞職は、まだ、国民には発表されていない。

 文中にもある、サイパンの玉砕が、東条内閣崩壊の引き金となった。

 それは、米英軍の反攻が、昭和18年に策定された「絶対国防圏」を越えたことを意味する事態であった。

 

【大本営発表】  (昭和十九年七月十八日十七時)

一、『サイパン』島の我が部隊は七月七日早暁より全力を挙げて最後の攻撃を敢行所在の敵を蹂躙し其の一部は『タポーチョ』山付近迄突進し勇戦力闘敵に多大の損害を与え十六日迄に全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む

同島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将斎藤義次、海軍部隊指揮官は海軍少将辻村武久にして同方面の最高指揮官海軍中将南雲忠一同島に於て戦死せり

二、『サイパン』島の在留邦人は終始軍に協力し凡そ戦い得るものは敢然戦闘に参加し概ね将兵と運命を共にせるものの如し

          朝日新聞 昭和19年7月19日

 

 民間人と軍の境界が、既に曖昧にされていることにも注目したい。総力戦体制、高度国防国家の論理的帰結である。

 サイパン島では、それが、民間人の集団自決という悲劇として結実してしまう。

 沖縄における集団自決もまた、そのような国家体制が生み出してしまったものだ。軍の直接命令の有無にこだわることは、当時の国民意識への無理解と同義である。

 同日の朝日新聞には、まだ首相の肩書での東條英機の談話も載せられている。

 その最後は、

真の戦争はこれからである、一億決死の覚悟を新たにし、光輝ある三千年来伝統の闘魂を凝集して、究極の勝利を獲得し、もつて聖慮を安んじ奉らんことを、ここに更めて固く誓ふ次第である

という言葉で結ばれている。

 「真の戦争はこれから」という言葉が吐かれてしまう現実の中で、入江の周囲の人物も、南方の戦場へと送られて行くのである。

 

十八日 晴

 〇南千住から帰ると下宿のおばさんが「どうやらサイパンが玉砕したらしいですわ。女子供は豪州に送られたっていいますよ」という。頭に一撃を受けた思いである。

「へへえ、発表がありましたか」ときくと「まだないようだけど……」

 デマだろうと思ったが、一ト月になる、あり得ることである。

 正木さんの家にゆこうと大久保の通りを歩いていたら、どこかのラジオが大本営発表を伝えていた。

「およそ戦い得る同胞は敢然戦闘に参加し、おおむね皇軍将兵と運命を共にせるがごとし」

といっている。

「戦い得ざる」ものはどうしたのだ?豪州へ送られたって?日本人として実に冷酷無残な要求であるが、しかし一人残らず死んで欲しかった!

 しかし、考えてみると、われわれにそれを要求する権利はない。一ト月余も死闘を継続して、しかもわれわれは何ら救援の手をのべることなく、ついに見殺しにしてしまったのだ。

「陸海軍が全然背中合わせなんですって!ケンカばかりしているんですって!」

と下宿のおばさんが腹の底から怒りにたえぬかのごとく叫ぶ。

 それが蜚語であることを信じたい。しかし自分は、敵に対してのみならず悲憤の念を禁じ得ない。

 サイパン戦ついに終焉を告ぐ。空襲はやがて来るだろう。

 〇正木さん強制残業のため九時過ぎて帰って来る。沖電気では、今年中に命ぜられた生産量を二ヶ月以内に仕上げろとの軍命令があった由。

          山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 (ちくま文庫)

 

 この年、22歳の山田風太郎の日記である。

 医学生であったために徴兵は猶予されていた。

 文中の、

 

「戦い得ざる」ものはどうしたのだ?豪州へ送られたって?日本人として実に冷酷無残な要求であるが、しかし一人残らず死んで欲しかった!

 しかし、考えてみると、われわれにそれを要求する権利はない。一ト月余も死闘を継続して、しかもわれわれは何ら救援の手をのべることなく、ついに見殺しにしてしまったのだ。

 

として書かれた認識に、当時の日本人としての常識的な意識(日本人として実に冷酷無残な要求であるが、しかし一人残らず死んで欲しかった!)と、その中での彼の冷静さ(一ト月余も死闘を継続して、しかもわれわれは何ら救援の手をのべることなく、ついに見殺しにしてしまったのだ)を見ることが出来る。

 しかし、サイパン陥落という事態に至りながら、実は、東條英機自身には、辞任の意思はなかったのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/09/02 21:52 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/77632/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 5

 

 「負けた戦争」は、何をもたらすものだろうか?

 この問いもまた、何が問われているのかが曖昧である。

 誰に対して、という視点が曖昧なのである。

 「負けた戦争を始めた責任」という問題の立て方があるだろう。

 この場合も、誰に対しての責任なのかで、答え方も異なったものとなる。

 あの戦争について考えてみよう。

 大東亜戦争開戦時の、大日本帝國の最高責任者は誰であろうか?

 天皇であろうか、それとも内閣総理大臣であろうか?

…と、問いを立ててみると、天皇は確かに大日本帝國における最高の地位に就いていたにしても、何かの責任を負うべき立場にいたのだろうか、という問題の存在が見えて来る。

 ここでも、天皇が誰に対して責任を負うべきなのか、それが問題となるだろう。

 皇祖皇宗、天皇家の祖先神に対しての責任、という答え方は「あり」かも知れない。

 しかし、少なくとも大日本帝國憲法上は、天皇は、「臣民」としての国民に対し責任を負うべき存在ではなかった、はずだ。

 天皇の、大日本帝國における地位の基礎は、大日本帝國憲法にあるわけだから、天皇自身が責任を負うべき誰かは存在しない、ということになる。

 だとすれば、大日本帝國の最高責任者は、内閣総理大臣ということになるだろう。

 開戦当時の内閣総理大臣は、言うまでもなく、東條英機である。

 総力戦としての近代戦争という認識が、開戦決定の前提としてなければならない。

 もちろん、東條英機にその認識がなかったわけではない。

 しかし、リアルさが欠けていた、と言うことは出来るだろう。

 当時の大日本帝國が、総力戦としての近代戦争に耐えうる国家であったかと言えば、否定せざるを得ない。少なくとも、アメリカ合衆国を相手としての「総力戦」に耐えうるだけの国力は存在していなかった。

 そもそも戦争の目標自体が曖昧だった、とも言えるだろう。つまり、当初の目標が達成された時点で、戦争終結への努力が開始されなければならない。

 当初の戦闘における勝利に幻惑され、ただただ戦域の拡大が続けられた。結果として、大日本帝國が動員しうる軍事力で維持可能なラインを越えて戦線は拡大してしまう。

 開戦当初の戦略構想の曖昧さと、開戦後の作戦指導における長期戦略の欠如の相互作用により、当初の戦果の維持は不可能となり、「負けた戦争」としての終結に至ることとなる。

 その間、内閣総理大臣、陸軍大臣、参謀総長の任にあった者として、東條英機には、開戦の責任と共に、その後の戦争指導の責任も問わなければならないのである。

 ここで、東條英機の責任が誰に対してのものであるのかが問われることになる。

 交戦国に対しての責任、それが裁かれたのが「東京裁判」であった。

 戦勝国によって行われた、事後法による裁判の適切性には、問われるべき余地はあるだろう。ここでの問題は、そこで何が裁かれたかである。

 東條英機が「戦争犯罪人」であるのは、交戦国に対して、連合国に対してである。裁かれたのは、そのような責任のあり方であった。

 大日本帝國に対する責任(大東亜戦争における敗北を招いた)。

 大日本帝國の天皇に対する責任(輔弼の責を全うし得なかった)。

 大日本帝國の国民に対する責任(徴兵・動員の負担に対し無補償)。

 軍事的最高指導者としての軍事指導上の責任(靖国の英霊への責任)。

…は、いまだ、公的には問われてはいない。

 日本の戦後は、東條英機の責任追及をパスした上に成り立っていたのである。

 東條英機の責任の放置、いわば東條英機の無責任の上に、戦後日本は築かれたようなものだ。

 「負けた戦争」がもたらしたもの。

 「無責任な責任者」という人間存在のあり方。

 いや、「負けた戦争」を用意したのも、「無責任な責任者」という人間存在のあり方であった、わけだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/28 21:50 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/77183/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 4

 

 あの戦争の責任とは何のことだろうか?

 まず、これは、あの戦争に対する責任、と言い直すべきだろう。

 その上で、誰の誰に対する責任なのか、誰の誰に対する責任を問おうとしているのか、あるいは誰の誰に対する責任が問われるべきなのか、そして誰が誰に責任を問うのか…、問題は見かけほど単純ではない。

 そもそも、なぜ、あの戦争の責任が問われてしまうのか?

 問いはそこから始められるべきかも知れない。

 端的に言って、あの戦争が「負けた」戦争だったからだ。

…という答えは誤りだろうか?

 考えてみて欲しい。あの戦争に、この国が勝っていたら、あの戦争の責任を問うような事態、あの戦争の責任が問われるような事態は存在しただろうか?

 少なくとも、大日本帝國(勝っていたら、いまだに存在していたはずの国だ)の側が、責任を問われるようなことにはなっていなかっただろう。

 大日本帝國の勝利とは、何を意味する事態だっただろうか?

 大東亜戦争の始まりにおいて、天皇の名の下に発せられたのは、

東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆二瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ

という言葉であった。

 帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ、という理由で、対米英戦争は開始されたのである。

 大日本帝國の大東亜戦争における勝利(があったとすれば)の意味するところは、少なくとも理屈上は、「帝國の自存自衛の成功」ということになるだろう。

 しかし、以前にも書いたことであるが、開戦前の状況として、米英による、大日本帝國の国境線への侵犯行為が存在していたわけではなかった。

 軍事的侵略に対する「自衛戦争」ということではないのである。

 現実に存在していたのは、中華民国の国境を越えて展開されていた、大日本帝國軍隊の軍事行動であった。

 その淵源を考えてみよう。

戦時帝國の絶対不足資源は支那より之を求めざるべからず

という文言が、1922年5月の参謀本部第二部第六課作成の、「支那資源利用に関する観察」にある。

 また、1923年の「帝國國防方針」では、

禍機醞釀の起因は主として経済問題に在り、惟ふに大戦の創痍癒ゆると共に、列強経済戦の焦点たるべきは東亜大陸なるべし。蓋し東亜大陸は地域広大資源豊富にして他国の開発に俟つべきもの多きのみならず、巨億の人口を擁する世界の一大市場なればなり。是に於て帝國と他国の間に利害の背馳を来し、勢いの趨くところ遂に干戈相見ゆるに至るの虞なしとせず。而して帝國と衝突の機会最も多きを米國とす。

とある通り、陸海軍共通の仮想敵国として米国が想定されていた。
(「観察」及び「方針」の文言は、加藤陽子 『戦争の日本近現代史』 講談社現代新書 2002 による)

 中国大陸を舞台として、「列強」による経済的利益獲得競争が展開されていた中で、大日本帝國もまたプレイヤーとしてそこに参加していた上での認識である。

 大日本帝國にとって、少なくとも大日本帝國の軍事戦略策定の上で、中国大陸は(そして中華民国は)経済的利害関心の要であり、戦時における資源供給地として想定されていた。

 大日本帝國の中国大陸への進出は、米国の利害との衝突に至るという予測があった。その上で、仮想敵国としての地位を米国は獲得していたわけだ。

 その一方で、対米戦争の可能性からは、資源供給地としての中国大陸の確保が要請される。そして、中国大陸の大日本帝國への資源供給地化は、対米戦争へと至る可能性を増大させてしまうだろう。

 「帝國國防方針」に見られる大日本帝國自身の認識は、論理的に、

  不可避な中国大陸への進出→不可避な対米戦争

  不可避な対米戦争→不可避な中国大陸への進出

という事態を、相互に促進し合う展開を招かざるを得ない。そしてそれは現実化したのである。

 満洲事変、そして支那事変という形で、経済的進出からあからさまな軍事的進出へと展開された、中国大陸における大日本帝國の振る舞いは、米国からの経済制裁を招くに至る。

 ここで、最終的には、大日本帝國は外交による問題解決(つまり政治的解決)の道を捨て、「帝國の自存自衛」のための戦争を選択してしまったわけだ。

 1928年締結の「パリ不戦条約」には、

第一条
 締約国は、国際紛争解決の為戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。

第二条
 締約国は相互間に起こる事あるべき一切の紛争あるいは紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段に拠るの外これが処理または解決を求めざることを約す。

という文言がある。「人民の名において」という文言には留保を付けたものの、大日本帝國は、この「パリ不戦条約」の締約国に名を連ねていた。

 大東亜戦争とは、対米外交上の問題の解決(決着)を、戦争という手段により求めたものである。

 確かに「パリ不戦条約」では、侵略に対する自衛戦争は禁止されていない。しかし、米国による国境侵犯があったわけではなく、存在したのは外交上の問題のみであった。

 あの戦争、あの大東亜戦争における大日本帝國の勝利とは、「パリ不戦条約」の精神を否定を意味し、その戦後世界において、外交上の紛争解決手段としての戦争を是認することを意味することになったであろう。

 そこには、大日本帝國に対し責任を問う者はいない、はずだ。

 暴力的な勝利者の責任を問うことは困難である。

 大日本帝國においては、政治的反対者は暴力的に排除されてしまっていたのである。

 しかし、戦争には加害者と被害者が存在する。

 大日本帝國が大東亜戦争に勝利しようが敗北しようが、そこに戦争による被害者は存在するのだ。B-29との関係において、確かに、日本人は戦争の被害者であったと米国に対し主張出来る。同様な関係性の下に、戦争の様々な局面において、日本人は加害者の位置についてもいるのである。

 大日本帝國の勝利とは、被害者への沈黙の強制を意味するだろう。

 しかし、大日本帝國の敗北がもたらしたのは、帝国政府を継承した日本国政府による戦争被害者の存在の無視であったというのもまた、深く噛み締めるべきこの国の現実の歴史である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/27 21:08 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/77090/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 3

 

 久しぶりの日曜の夜、というのも変な言い方だが、実感ではある。

 やたら暑い(「熱い」と書きたいくらいに暑い)夏だったが、涼しい日が続いている。

 一週間前と比べれば、10度以上、気温が低いわけだ。暑さに弱い人間としては、歓迎ではある。

 ただしこれが続いてしまうと、農産物には悪い影響が出そうだ。暑さに弱い人間の都合ばかり優先するわけにもいかない。まぁ、天候を思い通りにすることは出来ないので、私の責任の問題ではないけれど。

 せっかくの涼しい日曜の夜には、戦争の話題は離れたい。

 と、思うそばから、戦争は個人の都合には関係なく起きるし、涼しい夜にも爆弾は落ちて来るんだぜ、という声が聞こえて来る。

 それは正しいが、戦時下ではない夏の夜に、久しぶりの涼しさをゆっくり味わっておくのも大事なことではないか、という声もまた私のものだ。

 もっとも、戦時下であることと、空襲の脅威に曝されることは、イコールではない。

 二つの世界大戦を通じて、ニューヨークにもワシントンにも、敵国の爆撃機は飛んでは来なかった。

 大東亜戦争(「支那事変」を含む)を振り返っても、最初から東京が空襲下にあったわけでもない。

 昭和12年に始まる、「支那事変」と呼ばれた中国大陸における中華民国の正規軍との戦闘に際しては、爆撃機を使用し中国の都市無差別爆撃を行っていたのは、大日本帝國の側であった。

 大日本帝国の都合により継続されてしまった軍事行動の結果としての、都市無差別爆撃の犠牲となったのは、中国の一般市民であった。犠牲者の都合など、まったく顧慮されることはないのが、戦争(それを事変と呼ぼうが)という出来事における犠牲者にとっての不都合なのである。

 ゆっくり食事をすることすら不可能になるし、運が悪ければ死ぬしかない。

 しかし、その時点で、戦争の犠牲者としての自らの姿を、どれだけの大日本帝國臣民(あるいは国民)が想像していただろうか? 焼夷弾で焼き尽くされる、大日本帝國の都市の姿を。燃え尽きる自らの身体を。

 その時点で、既に、中国の都市には、大日本帝國の陸海軍航空隊所属の爆撃機による無差別爆撃が展開されていたのである。

 そこには、都市無差別爆撃の犠牲者としての、中国の市民が多数存在していたのだ。都市無差別爆撃の被害者として死に、都市無差別爆撃の被害者として家族を失い、都市無差別爆撃の被害者として住む家を失い、都市無差別爆撃の犠牲者としてくつろぎのひと時を奪われる。

 大日本帝國では、既に総力戦が叫ばれ、「国家総動員法」が策定されていったわけだ。つまり、ここでは、大日本帝國は総動員体制にあるのであり、構図としては、国民すべてが中華民国の都市住民に敵対していたことになる。

 個人の思いがどうであろうと、ここでは日本国民は、中華民国国民への都市無差別爆撃に関して、加害者の立場に置かれてしまうのだ。

 空襲の被害に遭うことの悲惨さは、戦後日本社会において、いわば常識であるが如く語られて来た。

 しかし、対米英開戦以前、中国での都市無差別爆撃を続けていた時点に、どれだけの日本人が、空襲の被害に遭うことの悲惨さを常識として考えていただろうか。

 B-29による都市無差別爆撃による被害体験を抜きに、日本社会において、空襲の被害に遭うことの悲惨さが常識となることはなかっただろう。

 もちろん、都市無差別爆撃の実施は、敵国に対して与えるダメージの大きさの想定に基づくものではある。爆撃の結果が悲惨であると想定されるからこそ、都市無差別爆撃が作戦計画に取り入れられるわけでもある。

 しかし、つまるところ、そこにあるのは参謀本部や軍令部の視点、爆撃機基地の作戦司令室の視点、爆撃機搭乗員の視点に過ぎないのである。

 あくまでも爆撃の惨禍は他人事なのだ。

 爆弾の下を逃げまわる、いや爆弾の下を逃げまわることも出来なくなった時に、やっと爆撃の惨禍を自分のこととして、人は理解するようになるのである。

 そして被害の体験を人は忘れないものだ。

 個人的に、それまで日本人と何の関係もなく生きて来た人間が、中華民国国民であるという理由で殺されなければならない。これは、中華民国国民として、被害者となるという体験なのだ。

 殺す側からも、殺される側からも、個人の都合が奪われる。それが戦争という事態である。

 私とあなたの関係は蒸発し、我々と奴等の関係だけが残される。

 戦後生まれの日本人が、あの戦争の責任を問われることは、確かに理不尽である。

 そこに、個人としての責任など存在しようがない、だろう。

 しかし、戦争とは、個人であることを奪われる事態として経験されるものでもある。

 我々と奴等。その関係性の中での被害体験への想像力は、持っているに越したことはない、と思う。個人として殺されたわけではない、個人として被害に遭ったわけではない人々への想像力。戦時下での被害体験のあり方に対する想像力は、努力しても持つに値すると思う(もちろん、殺す側も個人の資格で殺すわけではないが、殺される側からは加害者として位置付けられてしまうのである)。

 そのような想像力を抜きに「平和を祈念する」ことには、私は虚しさを感じてしまうわけだ。

 そして、そのような想像力を持ってしまえば、戦後生まれの日本人からも、あの戦争への責任の感覚が生まれるようにも思う。

 しかし責任をどのように取れるのか?

 想像力を保ち続けること、という責任の取り方を考えてしまうことに問題はあるだろうか?

 日曜の夜、都合のよい結論が出るわけでもない。

 考え続けることしか出来ない。しかし考え続けることだけは出来る。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/24 21:47 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/76809/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 2

 

 昨日はいきなり、

戦争とは、集団的に人が人を殺すことであり、

戦争とは、集団的に人が人に殺されることである。

という言葉を提示することから始めた。

 戦争における殺人は、個人的な行為ではなく、社会により軍人・兵士と認定された人間による殺人であり、国家の要請に根拠を持つ合法的な行為である。

 軍人・兵士の地位は、世襲身分であることもあれば、当人の志願に依存する場合もあるし、国民としての義務として課されるものであることもある。時代により地域により、その様態は異なるだろう。

 いずれにせよ、国家の組織の一つである軍隊に対し、国家は軍事力の行使を要請することが出来る。敵対する国家の軍隊と闘い、勝利を獲得することが、軍隊の課題となる。そこでは、敵対する国家の軍人・兵士に対する殺害が、当然のこととして必要とされる。

 一般的に国家は、私的な殺人を禁止する。私的な殺人は、刑法上の犯罪とされ、処罰の対象とされるし、「死刑制度」が存在すれば、「死刑」の対象とされる可能性も大きい。

 それに対し、戦場の兵士による、正当な戦闘行為の遂行上生じてしまう殺人を、犯罪として国家が処罰することはない。

 死刑の執行と、戦争における敵軍兵員の殺害は、どちらも殺人という行為そのものではあるが、国家という観点からは犯罪ではないのである。

 ただし、ここで見落としてはならないのは、軍隊とは厳格な命令系統に基づく組織だということだ。交戦による殺害も、命令に基づくものでなければならない。

 指揮命令系統からの逸脱行為は、軍事裁判の対象となり、処罰される。

 もちろん、国際的に共有された交戦規則に反する行為、戦争犯罪として規定されている行為も、当然、処罰の対象となる(歴史的に新しい現象と言えるだろうし、見て見ぬ振りをされることが多いのも事実であるが)。

 あくまでも、そこにあるのは公的な行為なのであり、私的な逸脱は(本来的には)認められないのであるという発想が存在するのだ。

 さて、身分制が支えていた軍隊、傭兵による軍隊、志願兵によりのみ成り立つ軍隊とは、プロフェッショナルによる組織であることを意味する。

 職業としての軍人による軍隊だ。かつては身分=職業であったわけだし、傭兵はまさに金のために軍人となった人々だ。

 昨日は、考察の焦点を、「近代における戦争」に置いていたはずだ。

 近代における戦争とは、国民国家による戦争であり、そこでは国民=兵士とされていたのであった。

 軍隊における兵員の補充を支えるのは徴兵制度であり、成人男子には兵役が義務として課せられる。徴兵制度下における兵役は職業ではないのだ。

 近代以前における戦争においては、戦闘行為のプロが、敵軍兵員の殺害までをも含む軍事行動を遂行していたわけだ。

 付け加えておけば、近代以前における戦争を支えていたのは、近代的兵器ではない。存在したのは、(比較すれば)殺傷能力の低い兵器群である。

 現在に比べれば、比較の対象とすることすら適わぬような、殺傷能力であったことを思い起こす必要がある。

 そして、職業としての軍人にとって、互いに重要なことは、自分が生き残り・戦闘にも勝利を得ること、であった。そこでは、本来的に、殲滅戦は目指されないのである。

 戦争が殺し合いを含む闘争行為であることは、いつの時代でも免れ得ない。

 しかし、戦争が殲滅戦の様相を見せるのは、近代の特徴でもある。いや、皆殺し行為自体は、古くから存在した。

 近代における殲滅戦は、国民国家による殲滅戦なのである。かつてのような、プロの戦士の手作業による「皆殺し」ではなく、兵役の義務を果たす国民による殲滅戦であり、近代的兵器による工業的な「皆殺し」なのである。

 国民国家とは、国民を主体として考えられた国家である。

 国民に対し、兵役の義務を果たし、他国の軍人兵士の殺害を求める国家の主体は、その国民自身なのだ。

 戦争は国民の都合によって開始される。

 不都合なことかも知れないが、近代における戦争、国民国家による戦争を支えている理念はそのようなものであった、はずだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/23 19:23 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/76676/user_id/316274

 

 

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不都合な戦争の都合という問題 1

 

 それが不都合であるかどうかはわからないが、

   戦争とは、集団的に人が人を殺すことであり、

   戦争とは、集団的に人が人に殺されることである。

という言明は、「真実」を含むものだろう。

 私たちの前にあるのは、近代における戦争であり、現代の戦争であろう。

 20世紀の戦争と21世紀の戦争。

 では、近代以前の戦争と、近代の戦争、そして現代の戦争は、何を指標に対比されるのだろうか?

…と、大上段に始めてしまったけれど、当たり前の話だが、論点は様々に考えられる。

 その前に「戦争」という語について、もう少し考えておこう。

 集団的な殺人行為は、確かに戦争を特徴付けるものだ。

 しかし、大量虐殺と戦争は、それが同時に起きることもあるが、大量虐殺は戦場(つまり戦争の場)を離れても生じる、人間の人間に対する行為である。

 「集団的な殺人行為」という表現は、「大量虐殺」に比べれば、穏やかな表現でもあろう。

 まず、ここでは、「集団」という語と「戦争」という語の関係が問われねばならない。

 そこでの(つまり「戦争」という語使用における)「集団」としての人間は、「国家」により規定付けられていなければならない。

 「戦争」とは、国家間の出来事であり、国家が「集団」の枠組みとして作用する中での、殺人を伴う勝負事(!?)として考える必要がある。

 もちろん人類史的には、人間の集団は必ずしも国家という結合形態を形成しないという指摘は正しい。

 それは、国家内部の下位集団、あるいは国家が存在する一方での非国家的な人間の結合形態という問題ではなく、国家システムを採用しなかった人間集団の存在をも視野に入れておくという意味においてだ。

…と、話を進めることにより、「近代以前の戦争」というイメージの輪郭が、若干ではあるが、明らかになるはずだ。

 「近代」とは、その定義に、「国民国家」という国家形態の採用という事態をも含むものだ。歴史的に「近代」と呼び習わされる時期に登場するのが、「国民国家」という国家形態だということになる。人間の集団のあり方としての「民族」がクローズアップされる中で、その民族=国民とすることにより定義される国家形態だ。

 「近代以前」においては、民族=国民というイメージの結合は顕著なものではなかった。

 まずは、国家内での支配者と被支配者の関係性という問題を考えなくてはならない。

 後には民族的には同一と考えられようになるケースでも、近代以前の国家においては、支配階層と被支配階層のアイデンティティーの同一性は想定されてはいない。そこでは、身分差別が民族的アイデンティティーの想定より優先されていたわけだ。

 後には別民族と考えられるようになる人間同士が、支配階層を共にして、一つの国家領域に共存していたのも「近代以前」に特徴的なあり方である。

 また支配階層における民族的同一性が、必ずしも問題とはされてはいないのも「近代以前」の世界では通常のことであった。ロシア帝国を支えたのは、ドイツ人でありフランス人であり…(と民族的には定義される)貴族や将校達であった。

 インターナショナルな支配階層が存在し、ナショナリティーに糾合されない被支配階層が存在していた、というわけだ。

 民族=国民が、国家の主体としてイメージされない世界。そこに「近代以前」の世界の姿を見る、というところから考えを始めたい。

 そこでの「戦争」とは、つまるところ、支配階層間における争いである。

 もちろん、その地に住む被支配階層も戦場の犠牲者となってしまうわけだが、戦争を実行する軍隊を形成するのは、つまり戦闘行為の実行に当たるのは、支配階層の人間及び傭兵集団なのである。

 つまり、そこでは、被支配階層は、戦争の当事者ではない。自分達の身に降りかかることではあれ、戦争とは頭の上の出来事に過ぎず、結果には左右されるにしても結果を左右するわけではない、ということになる。

 具体例を示すとすれば、身分としての農・工・商に軍事的貢献が求められることがなかった、江戸時代のこの国の現実で十分であろう。

 明治における近代化とは、それまでの士・農・工・商が一様に「国民」として編成し直され、国家による軍事的行動の主体となっていくこと、つまり国民が戦争の主体となる時代の到来も意味するものであった。

 国民であれば、人を殺すことが義務とされうる時代の到来、と言うことも出来るだろう。

 それが、この国の上だけのことではなく、地球上の国家・国民にとっての課題と化したのが、「近代」という世界史上での出来事であった。

 それが不都合であるかどうかはわからないが、そのような認識に「真実」を見出してしまうところから、問題を考えて行きたい。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/22 21:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/76600/user_id/316274

 

 

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英霊への責任と無責任

 

東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆二瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ

 昭和十六年十二月八日、「宣戦の大詔」では、対米英開戦の理由はこのように説明されていた。「今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」ということである。

 とは言うものの、米英により、大日本帝國の国境線が侵されていたわけではない。つまり大日本帝國に対する侵略行為への「自存自衛」、という主張がされているわけではない、ということである。

 「自存自衛」の名目で、外交上の問題を、国境線の外部での軍事力行使により解決するという選択に、説得力はあるものだろうか?

 国際連盟が誕生し、不戦条約が国際法の中に位置を占めるという、第一次世界大戦後の世界の中では、いささか時代遅れな発想であったと言えるだろう。

…と言いつつも、まさに第一次世界大戦後の世界秩序の中に登場した、ファシスト・イタリア、ナチス・ドイツ、そして大日本帝國は、軍事力の行使による国境線の拡大を、「世界新秩序」構築の原理として位置付けてもいたわけだ。

 外交上の問題の解決に、軍事的手段を用いることを禁止しようという流れの一方で、軍事的解決を当然視する国家群が存在したのが、第一次世界大戦後の世界であり、後者により次なる世界大戦が開始されることになった。

 しかし、ファシスト・イタリアもナチス・ドイツも、そして大日本帝國も、第二次世界大戦と包括的に呼ばれる戦争の勝者となることはなく、戦後世界の秩序設計においては、国境線の侵犯=侵略行為として、国際法上での禁止が再確認された。

 少なくとも、20世紀後半の世界においては、「自存自衛」を名目とした軍事力による国境線侵犯行為は、容認されるものではなくなっていたわけである。

 そのような意味で、戦後世界の常識という観点からすれば、「宣戦の大詔」の文言に説得力はないと言えるだろう。

 しかし、21世紀を迎え、米国によるアフガニスタン侵攻、そしてイラク戦争という、国境線外における、「自衛」を名目とした軍事力の行使が現実の出来事となってしまった。米国の国境線が、アフガニスタンあるいはイラクの軍隊によって侵されたわけではない。その可能性すら存在しなかった。

 しかし、「自衛」を名目とした「先制攻撃」が、ブッシュ政権の論理として採用されてしまったわけである。かつての大日本帝國の対米英「宣戦の大詔」の論理と異なるところのないもの、と言うことも出来るだろう。

 少なくとも20世紀後半の戦後世界(もちろん、その起源は第一次世界大戦後の世界秩序構築の試みに発するわけだが)において、ナンセンスな文言と化していた「宣戦の大詔」の論理は、皮肉にも21世紀のアメリカ合衆国により再発見されることとなったわけだ。

 もちろん現在では周知のことであるが、東條内閣による対米英開戦という選択は、その「帝國の自存自衛」という名目とはまったく逆の、ポツダム宣言受諾による大日本帝國の敗北という帰結をもたらすこととなった。

 結果論から言えば、そして政治的決定の評価には結果論しかないわけだが、東條内閣による対米英開戦の決定はまったくの誤りであったという以外の判断は、不可能である。

 帝國の「自衛」はおろか、「自存」すら侵される結果となったわけである。

 しかもそこには、250万の新たな英霊の犠牲が伴われていたのである。そして交戦国の軍人兵士、数多くの現地住民、そして大日本帝國の多くの民間人の犠牲も顧慮されなければならない。

 帝國の自存自衛の失敗と共に、実に多くの戦争による犠牲者の存在に、東條内閣は責任を負わなければならない。もちろん、誰よりも東條英機その人の責任は大きい。

 戦後の「東京裁判」において、東條英機はA級戦犯として裁かれ、絞首刑となった。しかし、そこで裁かれたのは、交戦国であり戦争の勝者である連合国の視点による、東條英機の責任であったに過ぎない。

 大日本帝國に対する、大日本帝國の天皇に対する、大日本帝國の国民に対する、大日本帝國の兵士として死んでいかざるを得なかった者達の無念に対する責任が問われたわけではないのである。

 大日本帝國の兵士として、戦争の犠牲となった人々を追悼することは当然のことである。

 しかし、同時に、「自存自衛」すら叶わず、国内国外に多くの犠牲者を出してしまった戦争への反省の機会と場を設けることも大事なことだ。後に続く者として当然果たすべき行為であるはずではないか。

 あの戦争を批判することと、戦没兵士への追悼の必要性は分けて考えなければならない。

 大日本帝國の軍事行動の犠牲者となった他国の人々の存在を忘れてはならないことは確かであるが、犠牲となった日本人への追悼も必要なことなのである。

 そして、英霊として靖国神社に祀られることとなった兵士達のことを考えれば、開戦の責任(そして必然としての敗戦をもたらした責任)は問い続けられなければならない、はずだ。

 誰よりもその責任を負わねばならぬのは、東條英機その人である。

 政治家であり、軍人であった人物、首相にして陸軍大臣であり参謀総長であった人物が、その責任を負わねばならぬのは当然のことだ。

 その責任が、追求し続けられなければならぬのもまた当然なことであろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/17 20:27 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/76095/user_id/316274

  

 

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8月15日、天皇はラジオから語りかけた

 

 昭和二十年八月十五日には、前日付けのポツダム宣言の受諾を伝える天皇の言葉が、天皇自身の肉声の録音放送という前代未聞の方法により、ラジオを通じて、日本国民(大日本帝國臣民)のもとへと届けられた。

 その出来事が、後に8月15日が「終戦記念日」として、日本人にとっての特別な日となる基となった。

…ということが確かなことである一方で、しかし、各戦域における実質的な戦闘行為の終了や、国家間における戦争状態の終結が、その日付をもって果たされたわけでもない。

 昨日の日記ではそのことを取り上げたわけだ。

 いわゆる「玉音放送」の日付をもって、「終戦記念日」とすることは、天皇という存在とあの戦争の関係性、大日本帝國という国家と天皇の関係性、天皇という存在の国民(臣民)との関係性等々、かつての「国体」観念を無言の前提として、この国における歴史的出来事を考えることを意味するものだ。

 念のために申し添えておくが、ここにあるのは、いわゆる「天皇の戦争責任」というフレーズとは別の問題である。

 戦後の日々の中で、回顧的に戦争とその終結を語る時、日本人の中で8月15日の「玉音放送」体験がクローズアップされていった事実の中に、国民(旧・臣民)にとっての天皇の位置が見えて来るだろう、ということだ。

 昨日ご紹介した『東アジアの終戦記念日』の中に、作家の正宗白鳥の次の言葉がある。

 

 数ヶ月を隔てた過去の日に於ける感想の記録は、八月十五日当日の実感とはおのづから異なつてゐるであらう。この頃頻繁にあらはれる知名人の回想録、過去の感想談も、眉に唾をつけて見るべきであり聞くべきである。

          (昭和二十年十二月二十三日)

 

 正宗白鳥の指摘には耳を傾けておくべきだろう。現在の、大きく隔てられた歴史の時間の中にいる私達としては、あの戦争をめぐる過去の記録を読み解くに当たって、特に留意すべき点の一つだと思われる。

 つまり、昭和20年8月15日のそれぞれの経験とは別に、戦後の日々の中で、8月15日が日本人の共有する記憶を刻印された特別の日付となっていったということだ。

 歴史とは、出来事の事実関係の問題であると同時に、選択的に共有される記憶により形成されるものでもある。

 「玉音放送」という事実としての出来事が、戦後の日本人の中で、あの戦争の終わり=「終戦」そのものを体現する出来事として再解釈され流通していった。

 そのこと自体の背後に、あの戦争と天皇の存在の不可分な関係が、そのようには意識されることなく示されているのではないだろうか。

 これは現実の政治的軍事的過程における天皇の果たした役割とは、まったく別の問題だ。

 そこに、国民自身にとっての天皇の意味付けを読み取ることが出来るだろう、ということなのだ。

 昨日の日記で取り上げた問題を思い起こしてみよう。

 あの戦争の交戦国では、8月15日という日付は、意味ある特別な日付として取り扱われてはいない。

 あの戦争を語る上で、8月15日という日付が特別に意味を持つのは、この日本(あるいは大日本帝國)での話だからこそなのである。

 朝鮮半島においての8月15日の意味合いは、大日本帝國による植民地であった歴史と不可分ではないだろう。

 同じ大日本帝國の植民地であった台湾における取り扱いが異なるのは、植民地化当時の台湾は独立国家ではなく、多様な民族の居住地であり、しかも居住民の大陸国家への帰属意識も大きなものではなかったという歴史的経緯の違いに起因するものだろう。

 朝鮮半島においては、大日本帝國は、民族意識に支えられた独立国家を植民地化したのである。

 植民地からの解放の第一日としての8月15日という記憶の仕方を選択したのが、朝鮮半島の人々であったとすれば、天皇の「玉音放送」による戦争の終結という記憶のあり方を選択したのが日本の国民であった、ということになるだろう。

 天皇と日本国民を不可分の関係において見るという、日本国民の考え方をそこに見出すことが出来る、というわけだ。

 そういう意味で、「玉音放送」というもの自体が画期的な意味を持つものでもあった。

 それまでの日本人にとっての天皇の存在は、支配の重層的で間接的な関係の究極の向こうの遠くの頂上に位置付けられるものであった。

 それが、ラジオを通しての直接的な関係として経験されたのが、「玉音放送」であったわけだ。

 そう考えてみれば、「玉音放送」とは、日本国民の天皇体験の画期であったと言うことも出来るだろう。

 昨日の日記に頂いたコメントへのお答えにも書いた話ではあるが、昭和14年以来、8月15日は「戦没英霊盂蘭盆会法要」が全国にラジオ中継される日とされていた。

 8月15日は、「お盆」という、日本文化の中での死者追憶の時期と重なる日付でもある。

 様々な角度から論じることが出来る問題として8月15日という日付を取り上げてみること。

 私達の共有物としての歴史理解に必要なのは、排他的な正しさの追及ではなく、他者の経験への想像力ではないかと考えるところに、本日の日記の出発点もある。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/16 21:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/76010/user_id/316274) 

 

 

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8月15日、何を記念し何を祈念する?

 

 昭和二十年八月十五日という日付を、現在、私たちは、あの戦争(大東亜戦争、あるいは太平洋戦争、第二次世界大戦等々、どのように呼ぶべきかという問題は別に論じるとして)の「終了」と結びつけて考えてしまうようになっている。

 実際、一般には「終戦記念日」と呼ばれているし、リアルな認識を尊ぶ人々からは、「敗戦記念日」という言い方もされている。

 「終戦記念日」にしても、「敗戦記念日」と呼ぶにしても、その日をもって戦争が終結した、あるいは戦争に負けたという認識を持つことにおいては共通している。

 しかし、ポツダム宣言の受諾の日付は8月14日であるし、降伏文書への調印は9月2日のことだ。敗戦による占領状態の終結を、戦争状態の終了と考えるなら、昭和26年9月8日の「サンフランシスコ平和条約」締結の日付となる。

 「戦争」は国家間における出来事であり、戦争の終結が軍事的・外交的に語られるべきであるとすれば、あの戦争の終結の日付は、8月14日あるいは9月2日または9月8日とされるべきであろう。

 つまり、戦争とは対外的な出来事である以上、交戦国との関係を抜きに、その開始も終了も考えることは出来ないはずなのである。

 そのような意味で、昭和20年8月15日という日付は、対外的には何かがあった日付ではない。

 それは、前日付けのポツダム宣言の受諾を、国民(あるいは臣民)に対し、昭和天皇が自らの声(録音)で告げるラジオ放送があった日付であった。つまり、対内的には意味を持つ日付ということは出来る。

 しかし、軍事的に考えれば、大本営から帝國陸海軍へ向けての停戦命令が出されたのは、8月16日のことであり、そのような意味では8月15日に戦争が終了していたわけでもない。

…というような話は、別に私の創見ではなく、佐藤卓巳/孫安石編『東アジアの終戦記念日』(ちくま新書2007)に書いてあることを紹介したまでのことだ。

 同書によれば、事態は更に複雑である。

 国家間の出来事として「戦争」を考えれば、日本ではない他国では、あの戦争の終結の日付をどのように理解しているのかという問題が浮上して来る。

 ミズーリ号上での降伏文書調印の相手としての交戦国においては、その日付である9月2日が対日戦勝記念日として、戦争の勝利による終結を記憶に刻み込むべき日となっている(ソ連、中国、モンゴルでは9月3日付だということだが)。

 大日本帝國の植民地支配下にあった、朝鮮半島の南北の国では、どちらも8月15日を、戦争終結と植民地からの解放の記念すべき日付として意味付けている。

 しかし、同様に大日本帝國の植民地であった台湾では、台湾総督府から中華民国へと統治権の移管がされた日付である10月25日を、「光復節」として祝日としている。

 東南アジアに眼を向ければ、現地日本軍の降伏あるいは武装解除の日付である9月3日(フィリピン)、9月12日(シンガポール、マレーシア)、9月13日(タイ、ビルマ)が、それぞれの戦争終結の日付であると言う。

 国内的にも、6月23日の現地司令官の自決の日付をもって「沖縄慰霊の日」としている一方で、現実の戦闘終了の日付である9月7日も「沖縄降伏の日」として、沖縄の人々には意味ある日付として認識されている。

 これには説明が必要であろう。

 軍司令官は自決に際し停戦命令を発することなく、兵士への戦闘の継続を指示しているのである。その結果、8月15日を過ぎても軍司令部不在のまま、統制を失った軍により戦闘は継続されてしまったのであった。

 沖縄の住民にとっては、8月15日以前に、米軍に制圧された地域では戦争は終結し、未制圧地域では8月15日を過ぎても日本軍による戦闘行動は継続していた。つまり戦争は終わっていなかったのである。

 実際問題としても、8月15日が法的に「終戦記念日」とされるのは、1963年5月14日の第二次池田隼人内閣の閣議決定「全国戦没者追悼式実施要綱」を待っての話であり、その名称が正式に「戦没者を追悼し平和を祈念する日」となったのは、1982年4月13日の鈴木善幸内閣の閣議決定においての話なのだと言う。

 別に、ここで、8月15日を「記憶すべき日」と考えるべきではないと主張するつもりはない。

 しかし、その日付が特別に意味を持つようになる歴史的経緯への想像力は持っているべきだとは思う。

 それは、あの戦争自体の多面性を見失わないことにつながるはずだ。

 『東アジアの終戦記念日』はその意味で、実に示唆的な一書である。

 歴史とは様々な当事者により形作られるものだ。それぞれの当事者により語られる歴史は、当然のことながら一面の真実に止まるだろう。

 自身にとっての歴史の語りに決定的に欠けてしまうものが、他者による歴史の語りの中には見出せるはずである。

 本気で「平和を祈念」するのなら、他者の語りに耳を傾けなければならない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/15 21:23 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/75922/user_id/316274

 

 

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日常化した死の前にダミニストが考えること

 

     長期的に考えれば、人は皆死んでしまう。

のは真実ではあるが、普通、人は、次の瞬間も、次の次の瞬間も、5分後も、一時間後にも、明日も明後日も、とにかく当面は生きているであろうことを前提として、現在を生きているものだ。

 惰眠をむさぼっている間に、次の目覚めは訪れず、永遠の眠りについてしまうことになってしまうかも知れないのだが、だからと言って、死ぬまで目覚めていようとは、ダミニストならずとも思わないものだろう。

 恋愛の高揚の中で迎える死と、惰眠最中の死。

 ドラマ化を考えるなら、当然、前者だろう。

 惰眠最中の死。どうにもしまりのない話である。

 いずれにしても、この世に生まれた瞬間から、人間は死というゴールに向かうべく運命付けられてしまう。

 死ぬのがいやなら生まれるな、ということだ。

 実際問題としては、自分の意思で生まれることは出来ないし、やがて必ず訪れる死を拒絶することも出来ない。

 「死にかけている」状態こそが、人間にとって基本的な生のありようなのだ。

 けれど、普段、そんなことを考えて生きていることは、普通は、ないだろう。

 少なくとも、私の知りうる限りの周囲の人間は、そんなことを意識の中心に据えて生きているようには見えない。

 だからこそ、冒頭のケインズの言葉には効き目があるわけだ。

 そこに、あまりに当たり前な事実が提示されているということが、「効き目」の核心にある。

 あまりに当たり前なことを、普段まったく考えることなく生きているという、自分自身の事実に直面させられるわけである。

 もっとも、「大東亜戦争」と呼ばれた戦争の時代、多くの日本人からは、当面の間は自分が生きているという保証の感覚は失われていたような印象を受ける。

 少なくとも、若者から、自分の人生の未来への展望を持つという感覚が失われてしまっていた。

 若さの中での戦死。自分の人生の展望は、そこまでである。

 やがて、若者だけの問題ではなくなる。本土空襲が日常化してしまえば、都市住民にとっては、もう、明日の人生の保証も失われていくばかりだ。

 前線での戦死は、兵士として動員される若者の身の上に起きることだが、空襲下での死には、年齢・性別による制限はない。

 長期的に考えずとも人が死んでしまう時代があった、ということだ。

 いや、昔の話ではない。バグダッドの街角では、そんな感覚の中で生きることを強いられている人々が、今も、この瞬間をとりあえずは生き抜いているのである。


 ケインズの言葉が意味を持つのは、死が日常化している世界においてではない。

 人の死が日常化し、愛する者の死が日常化し、自分自身の死の可能性が必然性をもって日常的に意識されざるをえない世界。長期的に考えずとも、人が死んでいく世界。

 人間の行為の一つとしての戦争がもたらすのは、そのような世界である。

 私としては、うれしい世界のあり方ではない。

 そういう意味では、ケインズの言葉が意味を持ってしまう世界は、望ましい世界のあり方である、と考えることも可能である。

 しかし、その中で感覚が鈍磨し、人が死すべき存在であることを忘れ去ってしまうとすれば、この瞬間に自分が生きているという奇跡的な事実に無感覚になってしまうに違いない。

 まぁ、それは、幸せな話であることは確かだ。鈍さのもたらす幸せ。

 どちらかを選べと言われれば、もちろん、愛する者の死が日常化していない世界を選ぶ。

 その上で、ケインズの発した言葉を日常的に自らの想像力の内に保つこと。

 その時初めて、愛する者の死の日常化していない世界の価値の大きさを、深さをもって理解出来ることになる、はずだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/08/06 22:39 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/75058/user_id/316274

 

 

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カラシニコフ!

 

 暑い日が続く。

 夏は苦手の季節だ。

 つまり暑さに弱い。

 コンピュータ・システムのような人間だ。

 精密なモノは、乱暴な取り扱いや、温度の急激な変化はもちろんのこと、高温も低温も苦手、高湿度にも極めて弱いという性質を持つ。

 そのような意味で、私もまた「精密なモノ」であるに違いない。

AK-47 II型

 カラシニコフは、そのような意味で、対極的な存在だろう。

 設計がいい加減なわけではない。

 部品の組み合わせの精度を高くすることが、乱暴な取り扱いや、温度の急激な変化等の、実際の戦場での使用条件ではむしろ逆効果となることに、設計段階で配慮しているのだ。

 カラシニコフは、部品同士の組み合わせの精度を低めることにより、故障の発生を抑えることに成功した。

 また、部品数を少なくし、部品のサイズを一定の大きさ以上にすることにより、部品の紛失による使用不能状態に直面する可能性を低減させることも出来ている。

 結果として、社会主義プロダクトとしては、異例の大成功を収めた存在となることが出来た。

 トラバントとは大違いなのである。

 しかし、まぁ、殺傷のための武器である。

 信頼度の高い、殺傷のための武器なのである。

 戦場において信頼度が高いということは、対峙する「敵」への殺傷能力への信頼であると同時に、対峙する「敵」に対する自己防衛能力への信頼を意味するのだという点には、留意されるべきだろう。

 そのような意味で、カラシニコフへの信頼性は高く、社会主義プロダクトとしての異例の成功ぶりをを、いまだに立証し続けているのだ。

 もちろん、それは、人間同士の組織的な殺戮が、この地球上では絶えることがなかったことを意味する。

 特にカラシニコフの普及の背後にあるのは、人間同士の組織的な殺戮としての戦争のあり方の変化でもある。

 正規軍同士の戦闘として現実化する、国家間の戦争の主力は空軍力であり、陸上兵器の主力は戦車であろう。

 しかし、歴史的に、国家間の戦争は過去のものとなってしまった観がある。

 内戦という形態が、現代における戦争形態の基本であり、陸上での戦闘の主力は、そこでは戦車ではなくカラシニコフを手にした戦闘員なのである。

 戦車は高価な兵器であり、カラシニコフは安価な武器だ。

 国家の正規軍ではない、資金力の低い武装集団にも調達可能な武器なのである。

 アフガニスタンやイラクでの米軍のハイテク兵器使用による局地的な大量殺戮の一方で、カラシニコフによる殺し合いが地球上を覆っているのだ。

 社会主義プロダクトとしてのカラシニコフの成功を支えているのは、地上からなくならぬ戦争状態であり、戦争状態をなくすことの出来ぬ人間である。

 戦争状態をなくすことに成功しない限り、カラシニコフの信頼感は、戦場で闘わざるを得ない兵士達の支持を受け続けることになるだろう。

…と、思わぬ方向へと話は進んでしまった。

 暑さのせいで、我がノーミソ・システムも暴走気味のようだ。

 コンピュータ・システムに代表される、精密なモノの暴走もまた、歓迎されざる事態を引き起こす可能性を秘めている。

 いずれにしても、人間の設計したシステム上の出来事である。

と言いつつも、我がノーミソ・システムの設計者は誰なんだ?と呟きながら、本日の日記は閉じられる。

     カラシニコフ → (http://ja.wikipedia.org/wiki/AK-47)参照

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/07/20 22:42 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/73434/user_id/316274

 

 

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相互理解への航海(あるいは漂流)

 

 気付いた時には、日曜の夜も終わりだ。

 たぬき男いたち男氏は、有意義な暇潰しの一日を過ごすことが出来たのだろうか?

 こちらは少しだけ、写真の整理をしたのだが、残量の方が遥かに大きい。

 「遥かに大きい」という表記はどうなんだろうか、「遥かに多い」と書くべきなんでは、と思い悩みながらの進行である。

 結論を出さないままに、先へ進む。

 たぬき男いたち男氏のコミュニティ、「希望同盟」のアシスタントを務めるようになって以来、月日も過ぎた。

 いつからだったかは記憶にないくらいだ。

 たぬき男いたち男氏は、当人も公言しているように、統合失調症で通院中の身の上である。

 日常のコミュニケーションでも苦労しているに違いない、という推測は、ネット上のお付き合いをしている私からも、容易に出来る。

 ネット上のコミュニケーションのお相手をしている身である私にとっても、互いの意思の疎通に、思いもかけぬ苦労を感じることも多い。

 もちろん、これは相互的な問題なのであって、たぬき男いたち男氏にとっても、当人にとって当然のことが、相手からはまったく理解されないという状況であることは確かだろう。

 人間同士のコミュニケーションの多くは、言葉に依存している。

 そのように言い切ることは、必ずしも適切ではない、と言うべき側面ももちろん存在する。

 対面的なコミュニケーションの場では、言葉の意味そのもの以上に、口調や、身振りや視線のあり方等の様々な身体表現が、多くの意味を相手に伝えることになる。

 相手との関係の親密さが増すほどに、言語外の表現は、コミュニケーション上の比重を増すものだ。

 逆に言えば、相手との距離が増すほどに、言葉そのものの意味に依存したコミュニケーション能力が必要となる。

 そこでは、自身の表現力と、相手の理解力の相互関係に、コミュニケーションの成否がかかることになる。

 相手の理解力を無視した表現は無効となるのだ。

 相手の未熟な表現力を無視した、表面的、あるいは一面的な理解もまた、コミュニケーションの成立を阻むことになる。

 自分の意図を相手が理解出来ないのは、相手の理解力の問題なのか、自分自身の表現力の未熟さの問題なのか、そこから考えておく必要がある。

 日常のコミュニケーションであれ、ネット上のコミュニケーションであれ、基本的な構図に変わりはない。

…という話は、あまりに当たり前なことに過ぎないと思うのだが、現実の人間関係でのトラブル、ネット上のコミュニケーション上での多くのトラブルを振り返ってみれば、あまり当たり前のこととして理解されているようにも見えない。

 通常の社会生活能力のある人間同士のコミュニケーション上でのトラブルの多くが、実際には、相互の表現力と理解力の非対称性への想像力を欠いたところから生じているように思えるのである。

 同じテーマ、同じ対象を論じているように思えても、相互の興味関心の焦点にはズレがあって当然である。

 まず、そのことへの想像力が必要だろう。

 その上で、常に自らの表現力及び理解力の限界に自覚的になりながら、対話なり論争なりを進めることが大事なのだと思う。

 ネット上におけるコミュニケーション・トラブルの問題を主題としながらでも、人は時として、そのことへの自覚を欠いたり、配慮を失っている自分に気付くことなくエキサイトすることが出来てしまうのだ。道は遠いのである。

…と、普段の実生活であれ、ネット上生活であれ、人と人とが出会い、互いに理解し合うことは、思うほど簡単なことではない。

 現実には、相互理解への努力よりは、細かいことは気にしないという態度により、トラブルは未然に防がれているようにさえ見える。

 少なくとも、自分自身がどれだけ他者の思いを理解出来ているのかを問うてみれば、他人に対して、自分への十二分な理解を求めることの不当さには気付くことが出来るはずだ。

 自分への十分な理解を他者に要求することは、相当に自己本位な、他者という存在のあり方への想像力を欠いた態度であるという側面に気付くことが出来るかどうか?

 ここで私の言っているのは、相互理解への努力の放棄ということではない。

 相互理解への努力へのスタート地点がどのような場であるのか、その点についての現実的認識に関してなのだ。

…というのは、少なくとも通常の社会生活の上で支障のないということになっている人間同士の関係、精神科の診断名とは無縁であると当人同士が考えている中でのコミュニケーション上のトラブルについての一考察であった。

 先に書いたように、たぬき男いたち男氏は、精神科の診断名と共に生きて来た存在である。

 実際問題として、コミュニケーション上の障害はより大きいような気がしてしまうことも確かである。「実際問題として」、それは何より経験上の出来事でもあった。

 しかし、相互に他者である存在という意味では、精神科の診断名は、それほどに大きなものなのだろうか?

 正直なところ、そこはよくわからない。

 精神科の診断名とは無縁であるはずの人間同士の間に生じるコミュニケーション・ギャップの大きさも、時として、越え難く感じられるものだ。

 まぁ、いずれにせよ、相互理解への努力を放棄することは、当面はないだろう。

 「希望同盟」という泥舟の航海(漂流)は、まだしばらくは続きそうである。

     「希望同盟」 → (http://www.freeml.com/epsilon_delta_25

(「希望同盟」は、その後、オーナーであるたぬき男いたち男によって、突然、ネット上から削除された → 現在は存在しない 2008年12月7日記)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/07/14 01:08 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/72763/user_id/316274

 

 

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自己栄光化の自由…?

 

 過去の行状、というのは、普通、恥ずかしい記憶ではないだろうか?

 栄光の過去、それも結構なことだが、過去の記憶は捏造可能なものでもある。

 自身を栄光化する衝動もまた、普通のことなのかも知れない。

 たいしたことのない自分よりも、誇りうる自分を求める。

 自分がたいしたものではないことを受け入れることが出来てしまえば、たいしたことのない自分で十分なものなのだが、なかなかに難しいものではあるらしい。

 そこに、現実にはたいしたことのない存在である自分をたいした存在である自分へと仕立て上げるという課題が生まれる。

 どうも、このような欲求は、人類普遍の衝動であるようにも思う一方で、近代特有の感情ではないかとも思わせられる。

 たいした存在である自分の誇示は、確かに、神話的な起源を持つものではあるだろう。

 しかし、一方で、近代以前の人間関係、共同体的世界における人間関係を考えてしまうわけだ。

 そこでは、互いに、生まれた時から死ぬ時まで、同じ顔ぶれの人間関係が続くことになる。

 互いに、それぞれの、過去の行状は、誤魔化しが効かないものとして、共同体的に共有されてしまっているのだ。

 自分が何者であるか、それは既に世間が十分にご存知なことなのである。

 そこで、自身の栄光化物語を語ろうとも、お里は知れてしまっているわけだ。まさに「お里」の只中での話なのである。

 まぁ、「ほら吹き」として認定され、それなりに愛されて生涯を送ることになるだろう。当人の現実は、共同体の全員が、既にご存知の事柄なのだから、騙されるという事態が起きる心配さえない。

 「ほら話」は「ほら話」として楽しまれることになるだろう。

 近代化とは、人口の流動化、都市化、産業構造の変化、工業化、民族国家としての国民国家の成立…、といった様々な側面から語られるものだ。

 すべての前提として(あるいは結果として)、それまでの人間関係の基底に存在した共同体の解体の進行を考えなければならない。

 共同体の一員から都市住民へと、自分自身の位置付けは変貌を遂げることになる。

 その意味するところは大きい。

 都市へ出た人間は、自身が何者であるのか、そこでは誰も知らないという現実に直面するのである。

 共同体的世界とは、自身が何者であるのかについて、説明不要の世界であった。そこでは、生まれてからの履歴が、既に知られてしまっているのである。

 「郷土」とは、そのような世界として考えておく必要がある。

 「郷土」を後にして「都市」へと向かうことは、常に自身が何者であるかを説明し続ける必要に迫られる世界への移動であった。

 少なくとも「郷土」においては、履歴ある既知の存在として取り扱われて来た一人の人間が、「都市」では履歴不明の「大勢」に括り入れられてしまう。

 誰であるかが知られていた世界から、誰も誰であるかを知る者のいない世界への編入である。

 自分が何者であるかを説明し、自身の有用性を認めさせること、それが都市生活スタートにおける課題となる。

 たいしたことのない自分であることは難しいのである。

 近代化過程で顕著になる民族主義は、まさに、自分が何者であり、民族の一員として有用な存在であるのかを説明する、便利な論理を提供するものとなった。

 一方に帰属地としての「郷土」の喪失があり、その一方で、帰属出来る場としての「民族」のイメージが提供される。

 自身がたいした存在ではなかろうとも、自身の属する民族はたいした存在なのである。

 自身の属する民族がたいした存在であることは、自身もたいした存在の一員であることを保証することになる。そして、そこから、たいした存在としての自身を見出すことが果たされる。

 もちろん、そこでは、たいした存在ではない他の民族が必要とされる。

 自身の栄光化に必要なのは、見下すべき他者の発見である。この場合の「発見」とは、既に存在するものを見つけ出すこととしてではなく、創り出すこととして考えられるべき事態である。

 他者を貶めることによって果たされる自己の栄光化という事態が、そこに現出するのである。

 ネット上もまた、そういう意味で、近代化の現在形そのものであろう。

 そこでは、互いに誰も知らない、互いに誰であるかを知らない、という事実が出発点である。

 説明しない限り、誰であるかは誰の知るところにもならないのである。

 そして、当面は、説明した内容が、自身が誰であるかの内容となるのである。

 しかし、一方で、説明自体は記録として残されてしまう。削除も可能だが、コピーによる保存も容易なのだ。

 自身の「過去の行状」が、世界的に共有されているわけだ。

 ネットに接続しさえすれば、どこでも読めてしまうのである。

 過去の栄光化も簡単に出来るが、メッキも瞬時に剥がされてしまうということになる。

 もちろん、ネット上で、沈黙は金であるかも知れないが、黙っている者は存在しないのと同義となってしまうのも、ネットという世界の現実である。

 しかし、他人を貶めることによって、自己の存在をアピールすることに積極的な意味はあるのだろうか?

 恥ずかしい過去の行状が蓄積されるだけ、のような気がしてしまうのである。

 もちろん、恥をさらす自由もまた尊重されるべきではあろうけれど。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/06/29 15:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/71377/user_id/316274

 

 

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ヒトラーのタバコ

   

  命は大切だから、命を大切にしない人間は死刑にすべきだ

という話。

 このような世界では、

命を大切にすることが義務とされ、

つまり、命を粗末にすることは禁止され、

義務に反し、禁止された行為に至れば処罰(最高刑は死刑?)される、

ということになる。

 実際問題として、禁煙の義務化、喫煙の不法化の背後にあるのは、そのような世界である。あるいはそのような世界を求める行為である。あるいはそのような世界が帰結することに無自覚でありながら、結果としてそのような世界を招いてしまう行為である。

…というようなことを、考えたりするわけだ。

 私自身は、タバコを吸わない。最初から吸わない。

 酒は飲んだが、タバコを吸うことなく生きて来た人間だ。体質の問題ではない。

 両親がタバコを吸っていたので、切れると買いに行かされる。それがいやだった。で、自分は吸わない人間になった、というだけの話だ。

 健康のためでは、まったくない。

 で、禁煙の促進の背後にある、健康の義務化とでも言うべき思想とは無縁である。

 世の中には、タバコの煙が苦手な人間も存在するし、路上喫煙も危険である。

 そのことへの配慮がなされるべきことは当然であろう。

 世のヘビー・スモーカーには、確かにそのような配慮が欠けていた(今や昔話と化しつつあるが)。

 しかし、喫煙の自由、喫煙の権利は、たとえ本人の健康状態の悪化として帰結しようが保障されるべきだ、というのが私の考えだ。

 健康は権利ではあっても義務ではない。

 もちろん、他者の健康維持の権利への配慮を欠いた喫煙には問題がある。

 しかし、他者の喫煙の権利を尊重しない禁煙の強制にも問題がある、だろう。

 健康を義務にしてはいけないと思う。

 あくまでも健康は権利だ。

 ここで、気付くことが出来るのは、義務とは他者との関係の中で、他者との関係の維持のために課せられるものであり、権利とは他者との関係の中で、自身の自由の維持のために主張されるものである、ということだ。

 もちろん、他者との関係の維持は、(多くの場合)自身の長期的利益に結びつくものであり、必ずしも自身の利益に反するものではない。つまり、義務(と呼ばれるもの)の遂行もまた、権利の主張とは別の形で、自身の利益に結びついているのである。

…という事情に思いを馳せた上で、あらためて、

健康を義務にしてはいけないと思う。

 あくまでも健康は権利だ、と言ってみたい。

 健康の義務化の終着点は、不健康者の排除される社会だ。

 障害者、病人、老人の排除として帰結してしまうのである。

 禁煙推進のメリットとして、社会的コストとしての医療費の削減への期待が語られる。もちろん、それは無視されるべき問題ではない。

 しかし、社会的コストとしての医療費の削減への要求は、不健康者の社会からの排除へ結びつく可能性もはらむのである。

 ワイマール時代のドイツでは、障害者の安楽死が、福祉・医療コストの削減と関連させて論じられていたことを忘れることは出来ない。

 その後のナチス政権下のドイツは、まさに健康が義務化された社会であった。

 ヒトラー政権の下で、障害者の安楽死は実行されることになる。

 健康の義務化と、その帰結としての不健康者の社会からの排除の問題は、単なる論理上のものではないのである。歴史的経験から導き出された観点なのだ、ということに留意して欲しい。

 もちろん、歴史的経験は教訓として機能しうるものだ。

 しかし、人類が歴史的経験を教訓として学ぶことは非常に稀なことである、というのもまた歴史的経験が教えるところであろう。

 アドルフ・ヒトラー氏は、タバコを吸わず、酒も飲まぬ菜食主義者であった。

 そして国民に、健康であることを義務として課した人物であった。

 もちろん、酒タバコに肉食が、世界を平和にするわけでもない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/06/22 21:08 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/70748/user_id/316274

 

 

 

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トラバント、ハイウェイスター…?

 

 1989年の今頃。

 秋には、東ドイツ(ドイツ民主共和国)建国40周年式典が控えていた。

 社会主義ドイツの栄光が謳われるはずだった。

 10月の式典そのものは、滞りなく、予定通りに進行した。

 ベルリンの壁崩壊は、それから1ヵ月後のことである。

 しかし、1989年の6月に、そんな未来を誰が予想していただろうか?

 夏に向かい、東ドイツ市民は、ハンガリーの保養地で、夏休みを過ごす。夏休みの予定を、今頃は、考えていたことだろう。

 夏になると、ハンガリーは西側諸国への国境の解放に踏み切る。夏休みを過ごしていた東ドイツ市民には、東独からの脱出の可能性がプレゼントされたことになる。

 あのトラバントに乗った、東ドイツの人々の車列の誕生である。まずはハンガリーへ向かい、帰国の機会を遅らせ、夏休みの滞在を続ける。

 やがて、ハンガリー政府の処置により、東独政府の証明は不要となり、国境は完全に自由化され、西独への東独市民の脱出が本格化する。

 私たちの前に、ニュース画像を通じて、トラバントの姿が届くことになる。

 あれには驚いたものだ。

 当時、日本では、日産がレトロデザインのクルマを売り出し始めたところだった。

 パオとかフィガロといった車名とそのデザインを覚えておいでだろうか?

 バブル真っ盛りの日本で、そんなデザインが、古臭さとしてではなく、懐かしさと新鮮さの同居したイメージとして受け入れられていったものだ。

 要するに、当時のマーチのシャーシーに、レトロデザインのボディーを載せましたというのが、パイクカーと呼ばれたその手の車種の基本コンセプトだ。つまるところ、見かけはレトロ、中身は新車。

 で、トラバントだ。

 パイクカー、ってわけではない。

 25年前のデザイン、25年前に設計されたシャーシーが現役だったということなのだ。25年前と同じボディー(実際には、素材は粗悪になっていたという説もある)に、25年前と同じエンジン(排ガスで名高い)である。

 これには驚いたものだ。

 社会主義の基本的発想のひとつに、技術的進歩が労働者にももたらす明るい未来世界というイメージがある。技術革新が、未来の明るい生活を保障するはずなのである。

 驚いたことに、資本主義世界では、その排ガスの環境への影響から淘汰されてしまった2ストロ-クエンジンが、社会主義の世界には生き残っていた、というわけだ。

 社会主義社会の工業化は、資本主義社会における工業化に比して、環境破壊を大きく推進するものだった。様々な説明が可能であろう。

 政治的には、いわゆる西側先進国における、複数政党制に支えられた議会制民主主義に対し、社会主義体制とは一党独裁と民主集中制と呼ばれる支配システムに支えられるものであった。

 民主集中制は、統治システムとしては強力なものである。一党独裁システムと組み合わされることにより、統治権力への批判者の排除を容易にする。

 しかし、批判者を欠いた社会は停滞するのである。

 環境問題に関心を持つことさえ、社会主義圏では、体制批判として取り扱われてしまったのが現実である。

 体制批判者として当局から認定されてしまえば、つまり、模範的市民あるいは模範的労働者としての資格に欠ける人物として認定されてしまえば、トラバントを手に入れることすら不可能になってしまう。

 それが、東独社会の現実であったわけだ。

 その現実からの脱出の可能性をトラバントに賭けた。そんな東ドイツ国民の姿を、私たちはテレビニュースを通して、1989年の夏から秋にかけて目撃することになったのである。

 ドイツ統一が、かつての東ドイツ国民にもたらしたもの。

 それが期待通りのものであったかどうか、その問いに答えることは難しいだろう。

 ただし、排ガスをそのまま撒き散らすクルマが新車として売られ続ける社会ではなくなった。それだけは確かなことだろう。

 しかし、そのデザインに(?)ファンも多いらしい。

 画像サイトを見ていると、そんなファン心が伝わって来る映像に出会うことが出来る。

…で、あらためて、トラバント画像の紹介を(前回のコメント欄で紹介したものではありますが)。

 ↓ ↓ ↓

 ↑ ↑ ↑
チェコにはトラバントファンが多いということなのか?
 
 同じトラバントの車列でも、1989年の東独市民は、亡命=国外追放(運が悪ければ、国境からの強制送還)の覚悟と共に、大きな緊張感の中でハンドルを握っていたわけだ。
 
 それに引きかえ、2007年のチェコのトラバントファンの楽しげなこと。
 これも、1989年の変革のもたらしたものだろう。
 ディープ・パープルのハイウェイスターをバックに疾走するトラバント。
 1989年の今頃、誰がそんな姿を想像出来ただろうか?
 
 
オマケ
 ↓ 
Deep Purple - Highway Star[Original Live] (http://jp.youtube.com/watch?v=KgZSnAkQc4c
Deep Purple - Highway Star (http://jp.youtube.com/watch?v=-VGKlc6N_Ss

 

なお、トラバントについては、5月4日の日記 「トラバント」 (http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/65815) もご参照下さい。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/06/07 20:25 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/69248/user_id/316274

 

 

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『藝州かやぶき紀行』からドイツの炭鉱住宅への旅

 

 『藝州かやぶき紀行』をめぐって、日本の近代化過程の、さりげないが見事な記述というようなことを書いた。

 屋根職人の技術の映像記録の背後に広がる、広島の近代、日本列島の近代の姿。

 昨日は、広島の屋根職人の九州への出稼ぎの実際と出会う映画上のエピソードから、日本の近代化に伴う農村の生活の変化について書いてみたわけだ。

 土地への定住という農業生活の基本が、出稼ぎという形での、他の土地への移動を余儀なくされる過程。

 近代化=工業化という側面を支える炭鉱労働者、そして工場労働者の供給源としての農村。

 九州の炭鉱へ、働き口を求めて移住する広島の農村出身者。その住宅の屋根を葺きに、九州を出稼ぎ先とする、広島の屋根職人の姿については、昨日、触れておいた。

 先週の日曜日に、古書店で、相馬保夫 『ドイツの労働者住宅』 (山川出版社 2006)を購入した話を書いた。

 書中に、19世紀ドイツにおける、炭鉱労働者用住宅をめぐる記述がある。

 関連する話題を抜書きしてみよう。

 著者は、

 

 (1)19世紀のドイツでは、農村から職を求めて大量の人たちが都市や工業地帯に流入し、いわゆる社会問題が発生した。そのなかで焦点にのぼった労働者の住宅問題を工業化・都市化との関連で、さらに国民国家、ナショナリズムと戦争・ジェノサイドの世紀における住宅問題の諸相を振り返ることによって、ドイツの近代化の一側面を照らし出すこと。

 

と、著書のモチーフのひとつを説明している。
 その上で、本文中には、

 

 1871年にドイツ帝国を構成することになる諸地域において、「大衆的貧困(パウペリスムス)」が深刻な社会問題・住宅問題と認識され、社会主義と関連づけて論じられるようになるのは、三月前期から48年革命にかけての時期である。しかし、ベルリンでは、すでに19世紀前半、対ナポレオン解放戦争後の時期に、急激な人口の増加にともない貧困な下層民衆の集中の問題があらわれていた。とりわけ、その北部、市壁の外側にある郊外フォークトラントには、この時期、日雇い、工場労働者、困窮した手工業者などの無産者(プロレタリアート)が大量に流れ込んできた。

 なぜなら、第一に、プロイセンのシュタイン・ハルテンベルクの改革によって、世襲隷農制が廃止され、農民に移住と職業選択の自由が与えられた結果、彼らは日雇い、奉公人、織工として都市に殺到した。

 

という記述がある。

 明治維新の結果、封建的身分制度は廃止され、廃藩置県により、移動の自由も農民のものとなった。

 農村を離れた人々は、あるいは都市住民となり、あるいは炭鉱労働者となり、あるいは新たに興された様々な産業の工場労働者となって雇われることになったわけである。

 そして、その住居の確保という課題も生まれる。

 

 …、ルール地方では、とりわけ1830~40年代からドイツ関税同盟の成立、鉄道建設の本格化を契機にして、鉄と石炭を主軸とする工業地帯が形成されていく。19世紀中葉から泥炭岩層を突き抜ける深部採掘が可能になるとともに、炭鉱地帯はルール川一帯から北上し、都市の基盤整備や住宅建設が人口の増加に追いつかない状態になった。遠方から労働者を募集し、企業に確保しておくために、大規模な社宅団地の建設が推し進められるようになった。ルール地帯でもっとも早いその例として、オースタフェルトに建設されたのがアイゼンハイムである。

 それまで街道沿いの町を除けば、ほとんど荒野と農村だった地域は、炭鉱や工場の設立、その周辺の労働者住宅の建設によってみるみるうちに巨大な工業地帯に変貌していった。

 ルール北部に進出したルールの炭鉱は、近隣出身者だけでは労働力が不足したことから、ドイツ東部に募集人を派遣して炭鉱に労働者を勧誘した。社宅団地の建設は、石炭・鉄鋼の大企業では、年金や疾病金庫などと並ぶ企業内福利政策の重要な一環として位置づけられ、企業に必要な労働力を確保し、鉱夫の頻繁な職場移動を防ぐとともに、会社に忠実な基幹労働者を育成するため、大規模に進められていた。なかでもエッセンのクルップ社は、「一家の主(ヘル・イム・ハウゼ)」として専制的な経営をおこなう一方で、従業員の利益と福利のために、市内に低廉で広い社宅団地の建設を1860年代から推し進めたことでよく知られる。

 

…という記述は、まさに北九州の工業地帯の成立にも当てはまるだろう。

 その上で、戦後の日本の企業について言われた「日本的経営」の姿を、クルップ社による1860年代の社宅団地建設の推進は先取りしていた、と言うことも出来そうである。

 同時代の九州の炭鉱で、広島の屋根職人たちは、炭鉱労働者住宅の屋根葺きに忙しかった、というわけだ。

 農村での生活も、農村を離れての炭鉱や都市の労働者としての生活も、どちらも大変に苦しいものであった。

 しかし、同時に彼らは、士農工商という身分制度からは解放された「国民」として、軍隊での暮らしを経験することになる。

 徴兵による軍隊での生活は、高学歴者には理不尽極まる世界であったにせよ、ぎりぎりの暮らしを余儀なくさせられていた農村出身者たちにとっては、衣食住にわたる保障の用意された場であったことも忘れてはならないだろう。

 明治期には、屋根職人たちの故郷は、中心に「軍都・広島」を抱くことになる。

 近代国家となった日本の軍事的中心のひとつとなるのである。

 昭和20年8月6日の広島の受難もそこに起因するわけだ。

 『藝州かやぶき紀行』には、家族を原爆で失ったことを語る、屋根職人の言葉も収録されていた。

 

 

 工業化・都市化との関連で、さらに国民国家、ナショナリズムと戦争・ジェノサイドの世紀における住宅問題の諸相を振り返ること

という『ドイツの労働者住宅』の著者の問題意識は、『藝州かやぶき紀行』の底流にも、さりげなく、共有されている。

 そのように言うことも出来るだろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/06/01 22:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/68662

 

 

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『藝州かやぶき紀行』への旅 2

 

 青原さとしの新作、『藝州かやぶき紀行』の東京での映画館上映初日に行って来た。

 東中野にあるポレポレ座。

 「出稼ぎモーニングショー」ということで、午前中、10時20分からの上映のみである(残念なことに)。

 作品自体は、5月3日に既に観ている(「『藝州かやぶき紀行』への旅」 http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/65725 参照)。

 再見して来たというわけだ。

 今日は初日ということで、上映後に、短い時間ではあったが、監督と武蔵野美術大学教授の相沢韶男教授のトークというオマケもついていた。なかなか傑作なひとときだった。相沢さんは、会津の茅葺き屋根に詳しい。

 会津の茅葺き屋根の研究者(…というような狭い専門領域に閉じこもるようなお方ではないので、人物紹介としては不十分な思いもあるけれど…)である相沢さんの視点と、広島の屋根職人のドキュメントの出会いからは、ますますの関心の広がりという形で、映画自体に映しこまれている様々な要素が引き出されていたという印象だ。

 一日かけて話を続けても尽きないだろうなぁ、という感じ。

 それも、狭い専門性の上に成り立つ大変に細かいお話、ではなく、日本の近代史への視点に始まり、縄文時代へと遡りうる程の射程を備えた日本列島の歴史と文化、それを形成した様々な人間集団への想像力をかきたてられる、実にエキサイティングな、視界の拡がりと射程の深さを同時に備えた話となっていた。

 それが実に短い時間の中での出来事。

 そもそも映画自体が、題材からは思いもよらないほどの、視野の広さと射程の深さを(さりげなく)備えているのである。何食わぬ顔をして、90分の映像中によくも詰め込んであるというくらい、様々な話題につながる要素が用意されているのだ。

 それも知識・データ・教養として提供されているのではないから、こちらに発見の楽しみがあるのである。観客は、知識を授けられるのを受身で待つのではなく、画面に映しこまれている様々な事物や語られる言葉の間から、埋め込まれているものを見つけ出すという、ワクワク感に満たされた時を過ごすことが出来る。

 広島の屋根職人は、出稼ぎをする人々でもあった。

 出稼ぎの背景には、出身地自体の問題、つまり狭い耕地という条件が存在していた。その土地で、農業に携わるという形での生計の維持の困難という背景である。海外移住者を多く生み出した土地でもある、ということだ。

 しかも、そこには、勤勉で創意工夫を楽しむという、職人としての信頼につながる気質を育むような風土もあったようだ。当然、出稼ぎ先の土地では歓迎されることになる。

 明治期に発展した出稼ぎ地のひとつに九州がある。

 炭鉱の労働者住宅の屋根葺きの需要であった。石炭産業こそは、日本の近代化を支えた基幹産業だ。

 炭鉱労働者としても、多くの広島人が九州に移り住んだというエピソードも紹介されている。

 近代化に伴う産業構造の変化と人間の移動の問題が、そこには埋め込まれているわけだ。

 そのように、炭鉱労働者の集団が定住すれば、周辺の農業産品の需要のあり方にも影響を与えることになる。様々な商品作物への需要が生まれることになうわけだ。いわゆる「近郊農業」の成立である。

 それは、農業による収入の増加として帰結する。豊かになった農家は、広島からやって来る屋根職人にとっては、新たな注文主として見出されることになる。

 そもそも屋根葺き自体は、それぞれの地元の共同体による、互助的な協同作業であったものだ。

 それが近代化の進展と共に、外部からやって来る職人の仕事へと変化する。

 外部からの出稼ぎ者を受け入れるのも、近代化にさらされた農村の選択であるし、外部への出稼ぎによる収入の維持も、近代化にさらされた農村では避けることの出来ないことであった。

 本来は土地と不離な関係にあるはずの、農業の場に、外部からの出稼ぎ者と、外部への出稼ぎ者という、二つの流れが生まれてしまう。土地の外からやって来る者と、土地の外へ出て行く者が農業の場に生じるのが、近代化の過程での農村の変化の一端ということになる。

 その上で、近代化の進展は、茅葺き屋根の存在自体に引導を渡すことになる。

 茅葺き職人への需要は、高度成長と共に、消えていくのである。

…というようなことが、データとして教科書的に提供されるわけではないのだが、広島の茅葺き屋根の職人の技術の記録映像に、しっかり埋め込まれているのだ。

 さりげないが、見事な近代史の記述だと思う。

 視野の拡がりと射程の深さの一例である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/05/31 23:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/68565

 

 

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武蔵野かやぶき紀行

 

 3時まで飲み続けてしまったおじさん二人が、朝からお出かけ。

 「江戸東京博物館たてもの園」を目指してサイクリング。

 青原監督には、申し訳ないが、娘の24インチマウンテンバイクにまたがってもらう。

 晴れた空の下、玉川上水沿いを、一路、小金井公園へと向かう。「一路」のつもりが、名刺を切らしたことを思い出した監督の要望で、コピー機のあるコンビニに寄り道。

 「たてもの園」到着。

 受付で、映画のチラシとポスターの掲示をお願いする。

 企画展を観てから、「たてもの園」内部へ。

 三井家の邸宅内の意匠に脱帽。

 目的の、かやぶき屋根エリアへと向かう。つい、屋根組みへと目が行ってしまう。三軒のお宅に次々と上がりこみ、畳の上で足をのばし、吹き抜ける風を味わう。

 ボランティアのガイドさんとの会話。

 その一人、父上が屋根職人だったという話。担当のかやぶき屋根の造りの悪さを力説。確かに、言われてみれば、よい出来とは言えない。言われてみなければ気付かなかっただろう。

 どこにどんな人がいるかわからないことを実感。

 そういえば、三井邸で出会ったガイドさんは、広島の生まれ。監督と話がはずんでいた。

 出会いの面白さ。

 モダンな写真館を見てから、高橋是清邸に上がり、うどんで一服。

 もう一軒の立派なかやぶき住宅を拝見し、看板建築エリアを一周。

 2時近くなってしまったので、切り上げて、一度自宅へと帰る。

 監督はパソコンで何やら検索。

 監督は、打ち合わせのため、バスで武蔵野美術大学へ。

 私は自転車で、仕事のため、ムサビへ。

 合流し、監督の忘れ物のケータイ充電器を無事届ける。

 後は、それぞれの時間となり、おじさん二人の旅(?)は終了。

 5月の空の下、贅沢な一日となった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/05/08 21:57 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/66253

 

 

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『藝州かやぶき紀行』への旅

 

 小岩まで行って来た。

 メイシネマ映画祭、初日に、友人の青原さとしの新作、『藝州かやぶき紀行』が上映される。

というので、片道2時間。

 2時間の甲斐ある作品だった。

 広島の「かやぶき屋根」の話だ。実に地味な題材だ。

 それが実に面白い。

 かやぶき屋根職人の証言と作業風景、各地に残るかやぶき屋根の映像。それだけだ。

 それだけで1時間半。

 淡々とつないであるだけ、でもあるが、やはり抜群の編集感覚の賜物だろう。「広島のかやぶき屋根」というテーマから、実に様々な話題が引き出されているのである。

 この100年の日本の近代史が詰まっている。広島のかやぶき屋根というローカルな題材から、近代日本の歴史的経験が、見事に俯瞰出来てしまうのだ。

 職人さんたちへの取材から、広島県内のかやぶき屋根の葺き方にも、系統の異なる道具・方法があることがわかってくる。

 つまり、「日本文化」どころか、広島県内のかやぶき屋根をめぐる技術文化でさえも一様なものではないことが理解出来るのだ。

 一様なのっぺりしたものとしての日本文化理解への反証として見事なものだと思う。映像だから、それが「一目瞭然」なのである。

 また、広島県出身の屋根職人の仕事は県内にとどまらない。山口県を越えて九州は福岡まで。北は京都まで広がるという。それぞれの地で信頼され、それぞれの地に技術の伝播(後継職人の現地での養成)までしているのだ。

 山口県内の屋根職人(広島の職人の弟子)が、道具として使う刃物も広島のものがよいという話をしていたのも印象的だった。つまり、屋根葺きとは、屋根職人のみで出来ることではないのだ。

 材料となる良質なかや(ススキ)の入手も、屋根の出来に関わる。細い材がよいのだそうだが、毎年刈られていないと、細い材は得られない。

 それにしても、仕上げ段階での美しさへのこだわり。日本の職人の技術を支える精神を感じてしまう。

 そんなことを、山間の集落の四季折々の美しい映像と共に見、考えることが出来る。

 最初にデータがあって、それをまとめたような教科書的なつくりではない。

 取材を続け、様々な土地に出向き、人と出会い、話を聞く。聞いた話から、次の土地へと向かい、人と出会い、話を聞き…

 どこへ連れてかれて行くのか、映像を見る者に、終着点は予めわからないのだ。まるで取材に同行しているように、新たな出会いから新たな視野が開ける瞬間に、映像を見る私たちも立ち会わされてしまうのである。

 そして、文化とは、出来上がったものなのではなく、まさに生きている人間が作り上げていくものなのだということが実感されるのだ。

 かやぶき屋根の存在そのものが、そのように成り立っており、この『藝州かやぶき紀行』という作品そのものに、その精神が宿っているのである。

 守旧的な記録映像ではなく、説教くさい教育映像でもなく、拡がる世界にワクワクさせられる映像。青原マジックだ。

(『藝州かやぶき紀行』は、東京では5月31日より、「ポレポレ東中野」で上映される)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/05/03 21:08 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/65725

 

 

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ヤング!アグレッシヴ!!

 

 ヤングでアグレッシヴ、であること。

 人生の中での基本、とでも言うべき出来事ではある。

 世界は、気付いてみれば、実に愚かしさに満ちている。怒りをもって対峙すべき相手だ。

 先行する世代(つまり年上の連中だ!)は、平気な顔をして、その中で生きていやがる。しかし、オレは…、オレ達は…

 怒りが表現となり、作品として結晶する。

 基本中の基本、みたいなものだ。

 ヤングであること、つまり歳若いということは、まだ社会の中に占めるべき場所を持たぬ未経験な存在であることをも意味する。

 つまり、いわゆる社会的力を持っていない、ということだ。けれど、何をするにも十分な体力を持っている、ということでもある。

 オジサンになってしまえば、愚かな世界には慣れてしまい、既に体力は失われている。

…というような状況下で、ある種の芸術表現は生まれるものだ。

 さて、「ヤング、アグレッシヴ  ロシア現代芸術における挑発的なスピリット」と題された展覧会の話だった。

 集められているのは、1980年代から、90年代、そして21世紀を迎えて現在に至る、ロシアの「ヤングでアグレッシヴ」な表現の世界だ。

 30年に満たない時間の流れの中での作品群である。

 しかし、そこに、ロシアが経験した歴史の反映を見出すことが出来るものであった。

 ソ連邦の、社会主義の、ひたすら行き止まり(行き詰まり、と言うべきか)へと向かう、不毛の80年代。

 その中で制作され続けた、イェヴゲニ・ユフィット(1961年レニングラード生まれ)の映像作品群。モノクロフィルムによる、かつてのサイレント映画を連想させる映像だ。

 主人公が誰であり、登場人物群が何者であるかは説明されない。何事なのか、連続した暴力的な行為が、サイレント時代のスラップスティック風の音楽を背景に、映されているだけだ。

 ソ連社会における情報統制の徹底の進行の一方で、アグレッシヴなヤングが、非公式ではあれ、映画という表現手段を手にしていたこと自体が驚きであった。

 サイレント映画をホーフツとさせる映像として仕上げられていることからも、かつての革命期ソ連の、それ自体が革命的であった映画の数々を連想させられてしまう。かつての映画における暴力は、ツァーリの圧制の表現であり、それに対抗する革命そのものの暴力であった。

 ユフィットの映像にあるのは、革命という希望を失った鬱屈の姿、1980年代における暴力的衝動の姿のようにも思える。

 私にとって同世代(5歳も違わない)のロシア人のレニングラードでの日々は、意外に、遠いものではないという印象だ。まぁ、こちらはバブル経済の進行する中で、別の何事かに腹を立てていたわけであるが。

 90年代の作家、作品群を挟んで、21世紀になってからのロシア人の姿。

 そこに、歴史の進行を感じずにはいられない。

 ユフィットの作品は、ソ連邦という国家の、レニングラードという都市の、二重にローカルな性格を刻み込まれていたものでもあった。

 21世紀の作家たち、つまり、現在「ヤングでアグレッシヴ」な連中の作品には、ユフィットの作品に刻印されていたような地方性を見出すことは、既に難しい。

 アレクセイ・ブルダコフ(1980年生まれ!だ)の、「トーキングヘッド・ストライキ」と題されたヴィデオ作品。

 画面には、CNN、BBC、スカイテレビ等々の、スタジオや現場を背景にしたキャスターやレポーターが映し出されている。それぞれに1分近い時間が割り当てられているのだが、彼らは押し黙っているのだ。正確には、作者によって黙らされている、というわけだ。

 事件を報道するのが彼らの役割だ。事件の経過を説明し、事件に意味を与える、それが彼らの役割である。つまり、喋ることに、彼らの存在意義がある。

 その彼らが沈黙を強いられている画像(喋りたそうにこちらを見つめる彼らの姿が実におかしいのだが)。

 つまり、映像そのものは事件などではなく、彼らによる説明が事件を構成するのだという事実、それがそこに描かれている、というか見透かすことが出来てしまうのである。ブルダコフの映像により。

 CNNに始まる(アル・ジャジーラによって複線化された)グローバルな報道システムが世界に与えた影響は大きい。一極(一局)による情報の支配の時代は終わった。

 しかし、報道そのものは事件そのものではなく、事件を作り出すものこそが報道であるという構図が、ブルダコフの作品によってあぶりだされてしまうのだ。

 ここに、世界に対する怒りは健在なのだ。

 ところで、このブルダコフの作品が示すこと、つまり映像そのものは事件を指示しないということは、あのユフィット作品が説明を欠いたサイレント映像であったということの意味を明らかにもするだろう。

 サイレント映像であるがために、そこにあるのが特定のストーリーに支えられた特定の事件なのではなく、普遍性を帯びた「ヤングでアグレッシヴ」な表現となりえてしまっているということなのだ。ユフィットがそれを意図していたのかどうか、それはまた別の話なのだが。

(「ヤング・アグレッシヴ  ロシア現代芸術における挑発的なスピリット」展は、5月24日まで、武蔵野美術大学美術資料図書館展示室にて開催)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/05/11 20:16 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/66503

 

 

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2008年12月 6日 (土)

ヤング?アグレッシヴ??

 

 雨の中の外出。

 しかも気温が低い。一昨日は、Tシャツに、夏用のジャケットだけ。今日は長袖のシャツを着て(もちろんその下にはTシャツ)、セーター、そして軍用のジャケットといういでたち。それで汗もかかない。

 ちょっとお疲れだ。

 展覧会を楽しんできたのだが、書きたいことはいろいろあるのだが、気力体力が追いつかない。

 「ヤング、アグレッシヴ」というタイトル。

 こちらは、もはや「ヤング」ではないオジサンだ。…ということを、悔しいながらも痛感させられてしまったわけだ。

 いや、展覧会は楽しんだし、ウケまくりなところもあったくらいだ。要するに、「芸術」というか「表現」に至る衝動の根底には「怒り」というものがある。

 その「怒り」と「若さ(つまりヤング、だ)」が結合すれば、そこには「アグレッシヴ」な表現が生まれる。

 世界のどうしようもなさ、については、年齢に従って軽減されるものではない。「慣れ」てしまうだけであって、世界が怒りに値することに変わりはないのだ。

 年齢的には「ヤング」から「オジサン」へと変化しようが、「怒り」は共有され続けている。だから、共感出来てしまうのだ。

 ただ、まぁ、それについて書くには、それ相応の体力も必要となる。そして、今日は寒かったし、とにかく展示の中心が映像作品なので、作品ひとつをクリアするのにも時間と体力が消えていくのである。

…というわけで、内容については、よく眠ってからとしたい。

 場所は、武蔵野美術大学美術資料図書館展示室。サブ・タイトルは「ロシア現代美術における挑発的なスピリット」である。

 80年代以降のロシア人が何を表現したのか、それだけで気になるでしょ?

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/05/10 20:56 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/66422

 

 

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2008年12月 4日 (木)

トラバント

 

 国が消える、ということがある。

 1990年前後の東欧圏では、確かに、国が消えた。

 かつてのソ連邦は、存在しない。東ドイツ、正確に言えば、かつてのドイツ民主共和国も消えてしまった。

 独立国家としてのチベットは、現在では存在しないし、大日本帝國もない。

 国家ほど確固とした存在はない、ように思えるが、そうでもない、らしい。

 まぁ、消滅の理由は様々だ。

 チベットは、隣の強国による侵略併合の結果、国家としての独立を失ってしまった。

 大韓帝国もまた、かつての大日本帝國により、その独立を失った国家だ。

 その大日本帝國は、「自存自衛」のための戦争の結果、滅亡した。これは自滅と考えられるべきだろうか。

 ドイツ民主共和国も、ソ連邦も、「自滅」仲間と言えるかも知れない。

 自滅国家の共通項は何だろうか?

 共通して起きた事態は、強権的な政府による支配であり、その下での言論表現への抑圧だろう。

 政治的権力の掌握者に対する、国民の批判は封じられていた。

 そこには秘密警察が存在し、密告が奨励されていた。

 言論表現の世界からは、批判精神が排除され、現状への礼賛だけが繰り返された。

 批判にさらされることのない権力は腐敗する。

 政治権力者の恣意が、まかり通ることになる。

 国民にとっての現実の問題は、時には存在しないことにされてしまう。

 国民の利益、国民の生活や財産が、国家によって侵される事態さえ生じてしまう。

 しかし、言論表現の自由が抑圧された体制の下では、そのことを指摘すること自体が、同僚からの密告の対象となり、秘密警察に逮捕され、市民生活を奪われ、強制収容所送りとなり、あるいは公開裁判の果ての処刑さえ覚悟しなければならないことを意味する。

 結果として、国民の利益を増進するはずの国家により、国民の利益が損なわれ続けることになる。

 現実には、書類上でのみ、国家の躍進が存在するような事態に立ち至る。

 その果てに、ドイツ民主共和国は、地図の上から消えてしまった。建国40周年式典から間もない話だ。

 40年式典の壇上の誰が、そのような事態を想像していたのだろうか?

 式典では、国家の輝かしい未来が約束されていたはずだ。

 ところで…

1983年型600ccトラバントP601L

…トラバントをご存知だろうか?

 東独、ドイツ民主共和国を代表する小型車だ。

 1989年の夏、亡命希望者を乗せた、ハンガリー経由で西独へと向かう大量のトラバントの映像は、記憶から消えない。

 1950年代の末に生産が始まり、ドイツ民主共和国が地上から消えるまで、大きなモデルチェンジもなく、その生産は続けられた。

 現実には、東独時代の末期の車体のボディーの素材は、むしろ粗悪になったと言われているくらいだ。

 エンジンもまた、排ガスで悪名高いものとなって久しかったが、何の改善策もないままに、その生産の終了を迎えることになる。

…なんて書いてしまうと、トラバントへの悪口で終わってしまう。

 実は、トラバントのデザインは好きなのである。

 かわいいクルマだ。

 実は、連休ではあるけれど、娘の体調悪く、家で過ごすことになった。

 動画サイトを覗いていたら、トラバントの映像が多くあることを発見した。お仲間はいるものだ。

 トラバントの話を書くつもりが、長い前置きとなってしまった、というわけだ。

参考までに 

→ Vintage 1960's East German Trabant Car Commercial (http://jp.youtube.com/watch?v=MQwj0EqOQJw

→ Trabant 50 years tribute video (http://jp.youtube.com/watch?v=8sGgzUUGaaQ

→ The opening of the Wall at Berlin Bornholmer Strasse 1989 (http://jp.youtube.com/watch?v=1_eCVhCGYwE

→ ウィキペディア(Wikipedia) : トラバント (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%88

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/05/04 21:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/65815/user_id/316274

 

 

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日曜の夜の地球人

 

 今日も、少なくとも今のところは、火星人の襲来もなく、地球規模では平和であった。

 もちろん、それぞれの地域で考えれば、地球人同士の殺し合いは続いている。

 平和なんか、ありはしない。

 人間は、常に自分の都合に合わせてものを考え、世界を解釈する存在である。

 チベットの人間からすれば「侵略」である出来事も、中国共産党の見解では「解放」である、なんてのはその一例。

 中国大陸の住人からすれば「侵略」である出来事も、アジア解放のための行動の一環と説明して恥じることはない例には、わが国では事欠かない。

 アジア解放のために、中国で人を殺し続けたのが大日本帝國だったわけだが、それを「アジア解放」のための正当な行為であったと主張する同じ人物が、なぜか中国共産党によるチベット解放の説明を受け入れようとはしないのも不思議な話だ。

 私から言わせればどっちもどっちな話だ。

 軍事力による国境線変更の試みであったことに違いはない。

 軍事力による国境線変更の試みへの否認が、第一次世界大戦後の国際法上の努力であったことは常識であろう。

 そのような努力への、軍事的強者による挑戦であったことにおいて、両者に違いはない。

 違いがあるとすれば、大日本帝國はその試みに失敗し、中国共産党は成功した。それだけの話だ。

 国境線変更の試みであることを顕在化させないために、傀儡政権を用意するのもまた、第一次世界大戦後の、軍事力による国境線変更の試みにおける常套手段であった。

 そのすべてにおいて大日本帝國は成功しなかった。

 それだけの話だ。

 それを事実として見つめうるかどうか、それが問われる。

 大日本帝國の失敗を事実として認めないこと、それを「愛国的行為」と勘違いしている人々が存在する。

 「愛国者」とは、自国のよりよい状態での存続を望む者のことであろう。

 自国の歴史上における失敗の事実から目をそらし、都合のよい歴史解釈を採るための努力は、決して、結果として、自国のよりよい状態での存続には結びつかない。

 私はそのような人々を愛国者とは考えない。

 「愛国」という語を、自らに都合よく用いる人々であるに過ぎない。

 大東亜戦争を、アジア解放のための闘いとして理解しようという努力が存在することは知っている。

 しかし、大東亜戦争とは、まず第一に、大日本帝國の滅亡をもたらした戦争であった。

 国家の滅亡こそは、愛国者の名に値する人間であれば、何より避けなければならない事態ではなかろうか?

 その責任の所在を問うことこそ、愛国者の名に値する人間であろうとするならば、まず考えなくてはならないことであるはずだ。

 実に不思議な事態である。

 国家滅亡の責任の所在を問うことに全く関心を寄せないところから、この現代日本では、自称「愛国者」は出発するのである。

 それは、実に不思議なことではなかろうか?

 しかも、ルーズベルトや蒋介石の策略に乗せられたのが戦争の原因で、大日本帝國はその被害者だ、なんてことを恥ずかしげもなく主張したりするらしい。

 恥ずかしいったらない話だ。

 単に軍事的にも外交的にも、つまり政治的に、大日本帝國の指導者が、ルーズベルトや蒋介石に劣る実力の持ち主であったと主張していることと同じだからだ。それに気付いていないことが二重に恥ずかしい。

 珍しく、「日曜の夜の地球人」というタイトルを先に考えて書いた。

 もちろん昨日の「土曜の午後の、やってこなかった火星人」が元ネタだ。

 書いてみれば、出来上がった文章は「日曜の夜の日本人」ではないか。

 まぁ、火星人の襲来がないからこそ書けた文章ではある。ものは都合よく考えるものなのだった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/04/13 20:12 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/63813/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (10)

 

 フィンランドの歴史的経験を、国家の独立の維持という側面から見て来た。

 かつてフィンランドを侵略の対象とした、軍事大国としてのソ連という隣国との関係が話題の中心となっている。

 軍事力の整備状況の進展と、その際の軍事戦略のあり方に焦点を当てながら論じて来たが、外交のあり方にも言及して来たつもりだ。

 ソ連の軍事戦略に組み込まれながら、ソ連軍に対抗しうる軍事力を育成すること。それが戦後フィンランドの課題であった。

 1980年代を通じて、フィンランドは、当初からの目標であった軍事力レベルの確保を達成する。

 一方で、フィンランドが組み込まれていた(フィンランドに限ったことではなかったが)東西冷戦状況もまた、1980年代の終わりには変化しつつあった。

 1989年に至り、ついにベルリンの壁は崩壊する。

 1991年にはワルシャワ条約機構は完全に解体され、同年12月には国家としてのソヴィエト連邦自体が消滅してしまった。世界を覆っていた、冷戦という状況は終焉を迎えたのである。

 東西対立の終焉は、国際的に平和と軍縮の可能性の到来を期待させるものであったが、フィンランドの軍備に関する基本政策変更はなかった。

 ロシア帝国の支配から独立し、ロシア帝国の継承国家としてのソ連の侵略と戦い、戦後はソ連の軍事的外交的戦略に組み込まれながらも、ソ連に対抗しうる軍事力の育成を続けてきたのがフィンランドという国家であった。冷戦は終結しても、ソ連の継承国家としてのロシア連邦共和国は依然として強大な軍事力に支えられた隣国であり続けているのである。

 冷戦終結にもかかわらず、強大な軍事力を保有した自国の独立を侵害する可能性ある国家と、長い国境線を共有しているという状況には変化は無いと判断する理由はあると思えるだろう。1990年代に入っても、フィンランドが軍縮という選択をすることはなかった。

 かつてのソ連との友好協力相互援助条約は1992年に破棄されている。

 フィンランド空軍は、米国製F-18戦闘機の購入配備に着手する。

 1992年1月20日に、フィンランドがロシア連邦共和国との間に結んだ新たな条約には、2国間の軍事的協議義務の記述はない。米国製戦闘機購入の障害になるものはないのである。

 冷戦終了は、かつて「フィンランド化」と揶揄されたような状況からフィンランドを救い出した。独立の維持は守り続けられたにせよ、外交的軍事的に、ソ連の意向への配慮の下に政策決定を余儀なくさせられていた時代は過ぎたということだ。

 対等な二国間関係が獲得されたことになる。

 しかし、一方で、ソ連との緊密な関係の終焉が与えるフィンランド経済への影響も無視出来ぬものであった。

 1980年代の高成長経済は、バブル状況を生み出し、1990年代の初めには、銀行の破綻に至る事態になっていたが、ソ連との関係の終焉もまた、ソ連との貿易に依存していたフィンランド経済に打撃を与えるものとなったのである。

 フィンランドは産業構造の改革と、福祉支出の削減を含む政府対応により、21世紀には危機的状況の脱出に成功する。

 ちなみに、現在、評価を高めつつあるフィンランドの教育改革もまたこの時期に起源を持つものだ。1992年に既に教科書検定制度が廃止となっており、教育改革の中心人物として語られることになるヘイノネン教育相の就任は1994年のことである。

 重要なのは、福祉予算の削減も、脱福祉国家を目指すものとしてではなく、福祉国家としての持続のためと理解されているように見える点であろう。

 フィンランドの経験から何を学ぶべきかについて議論する際に見落としたくない側面である。

 また、これまでも繰り返し述べてきた、国際紛争発生に際しての、フィンランドの国連によるPKOへの一貫した協力姿勢と共に、仲介外交に代表される非軍事的努力もまた、一貫して続けられて来たものだ。

 冷戦終了後の特徴は、チェチェン問題へのロシア非難を伴う介入など、これまでのソ連時代では不可能であった対応が出現したことであろう。

 紛争処理に当たってのフィンランドによる非軍事的努力は、冷戦終了後、これまで以上に国際間の信頼を得るものとなっている。

 さて、では、21世紀もなおフィンランドは軍事力の増強を目指しているのだろうか?

 答えはNOである。

 正確には、軍事的脅威への評価の変化に基づく、軍事戦略の変化ということになるだろう。

 それは、在来型の戦争、国家の正規軍同士の戦闘による戦争の可能性の低下という、1990年代以降の紛争のあり方の変化がもたらす、認識の枠組みの変化によるものだ。

 アフリカの内戦状況、そしてテロという非国家的な、しかし国家を対象とした暴力手段の登場は、低強度の不正規戦こそが新たなリアルな脅威であるとの認識をもたらした。

 防衛体制構築の前提も大規模攻撃への対処から、限定的攻撃への対処の比重を大きくしたものへの変更され、動員力より緊急の即応性が重要視されるようになる。

 もちろん、徴兵制度に支えられた防衛縦深が存在意義を失ったわけではない。しかし、紛争形態の変化に対応し、国防力の重点が変更されたことも確かなことなのである。

 具体的には、陸軍兵力の削減として現実化するものだ。それは、兵器の近代化は続けつつも、兵員の削減を進めるという形をとる。

 一方で、海・空軍力規模については現状維持である。

 あくまでも防衛のための軍事力という選択からの帰結であろう。存在するのは、あくまでもリアリズムなのである。

 フィンランドはフィランドであり、日本は日本である。そこにあるのは異なった歴史的経験であり、異なった歴史認識であり、異なった現状認識である。

 しかし、フィンランドの持つリアリズムに学ぶべき点はあると、私は思う。

 日本人の想像力を鍛える上で、日本人のリアリズムを鍛える上で、フィンランドの経験から学べることは多い、と思う。

 フィンランドは日本から何を学ぶのであろうか?

 フィンランドは日本から何を学べるのであろうか?

 いささか気になる点である。まぁ、私にとっての話だが。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/11 20:48 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60702/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (9)

 

 フィンランドの戦後について書き出してみたが、まだやっと1960年代に差しかかったところだ。にわか勉強の割りに話題が尽きない。

 1930年代から1940年代にかけての「世界大戦」の時代の経験が、まず私たち日本人の想像力を超えていた。そして「戦後」の国際政治の中での生き残り方もまた、私たちの想像力の及ばないあり方を示すものだった。

 そもそも日本人には、強大な軍隊による侵略を受けるという体験はない。

 それ以前に、異民族の統治する「帝国」から、民族国家としての「独立」を達成するという体験自体が存在しない。

 フィンランドにおける「世界大戦」の時代とは、ロシア「帝国」の継承国家であるソ連からの侵略と、それに対する軍事力を用いての阻止、そして独立の維持の成功体験として記述される。

 軍事力は、国家としての独立の維持に不可欠なものとして理解されることになる。そこにあるのは、あくまでも「防衛」のための軍事力である。

 国家領域の拡大のための、国境線の外で行使される軍事力ではなく、国境防衛のために発動される軍事力ということだ。

 大日本帝國の行使した軍事力とは全く性格の異なる軍事力のあり方である。戦後の日本を占領統治し、現在に至るまで外交的に(軍事的にも)依存関係にある米国の保有する軍事力の性格とも異なるものだ。

 日本にもそのような軍事力が必要である、という主張をしようというわけではない。けれど、そのような軍事力のあり方への想像力を持つことは必要だ、と思うわけである。

 さて、1961年に戻る。

 米国ではケネディが大統領に就任し、キューバが社会主義国宣言をし、ベルリンの壁が建設されたのも、この年の出来事である。

 フィンランドでは「ノート危機」と呼ばれる、対ソ関係での問題に直面することになった。

 東西冷戦の緊張状況の中で、ソ連はフィンランドに対し、フィン・ソ友好協力相互援助条約第2条に基づく軍事的協議の開催を求めた。フィンランドは、ソ連との公式の軍事的協議の開催に応じることは、社会主義圏のソ連の同盟国として国際的に認知されてしまうと判断する。結果として、条約上の公式協議としてではない形式の首脳会談(ケッコネンとフルシチョフによる)の設定で、問題を回避することに成功した。

 その首脳会談の際に、フルシチョフにより、フィンランドの空軍力の脆弱性についての不安が伝えられた。

 冷戦が激化する中で、ソ連はフィンランド経由の攻撃を受ける可能性を考慮しなければならない。相互援助条約では、フィンランドに攻撃撃退義務が課せられているのだが、当時のフィンランドの空軍力では攻撃撃退能力に不安を持たざるを得ないというのが、ソ連側の提示した問題のひとつであった。

 つまり、フィンランドは、ソ連から空軍力の充実を求められたのである。

 パリ条約締結時には、ソ連が求めたのは、フィンランドの軽武装化であった。

 それが1961年には、フィンランドの軍事的充実が、ソ連の利益として考えられるようになっていたのである。

 ソ連の軍事戦略上、フィンランドの空軍力の充実が求められたということだ。

 フィンランド側から見れば、フィンランドの独立にとっての脅威は、ソ連の軍事力である。フィンランドの軍事戦略上も、空軍力の充実は、ソ連の軍事的脅威への対抗上、必要なものであった。

 結果として、フィンランドは、ソ連からミグ21超音速ジェット戦闘機を購入することになる。

 ソ連にとり、フィンランド経由のソ連への攻撃に対応するに有効なフィンランドの戦力であり、フィンランドにとっては、軍事大国ソ連の脅威に対応するに有効なフィンランド自身の戦力となるものであった。

 こうしてフィンランドは、空軍力の近代化に成功したのである。

 その後の1960年代は、防衛力強化計画は策定されたものの、政治的支持が弱く、予算不足のままに経過することになる。

 状況が変化するのは、1970年代に入ってからだ。

 1970年に議会国防委員会が設置され、中立監視能力には問題はないが、戦闘用軍事力は不十分とのレポートを提出する。

 70年代前半に、スウェーデンからドラケン戦闘機、ソ連からの沿岸防衛用ミサイル艇の購入に加え、地上軍の各種武器の充実が図られた。

 1976年には、第二次議会国防委員会のレポートが再び防衛力の不足を指摘し、ミグ、ドラケン各ジェット戦闘機の追加購入に加え、各軍の戦力充実が達成される。

 1970年代前半にヴェトナムから米軍は撤退し、1970年代の終わりにソ連はアフガニスタンに侵攻した。1975年7月にはヘルシンキで全欧安全保障会議が開催されている。

 フィンランドは、軍事力の充実と同時に、非軍事的安全保障の追及もしていたということになるだろう。アフガニスタン侵攻という形で、ソ連の軍事的脅威が現実化する時代の出来事として考える必要がある。

 70年代を通して達成された軍備の近代化により、地域防衛システムも完成する。横のラインでの前線で防御するのでなく、あの縦深防御である。

 今や、全国土を防衛縦深として想定し、小部隊によるゲリラ戦と遅滞戦により侵入軍を消耗させ、最終的に撃滅することが可能になったと考えられた。

 「冬戦争」における戦闘スタイルであると同時に、あくまでも防御のための戦略である。

 そこでは、国家としての独立の維持が賭けられているのである。異民族の支配を拒否し、国民の生命と安全を確保することが軍事力保持の最終目標だ。

 一方で、1960年代から1970年代にかけてのフィンランドは、経済発展を重ねると同時に、福祉国家としての国家基盤の整備にも成功していた。

 1960年代には被雇用者年金制度、1970年代には無料医療制度、自営業者・農業者の年金制度、そして労働時間の短縮が実現されているという。

 福祉国家は守られねばならない。

 1980年代を通じて防衛力整備は継続された。

 ソ連がアフガニスタンで軍事力の行使を続けていた時代の出来事である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/10 21:16 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60630/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (8)

 

 1952年、フィンランドはソ連への賠償支払いを完了した。1952年は、ヘルシンキ・オリンピック開催年でもある。

 ヨーロッパ諸国が、マーシャル・プランによる復興を戦後のスタートと出来たのに対し、冷戦へ向かう国際関係の下で、フィンランドはソ連との関係を重視せざるを得ず、マーシャル・プランへの参加は見送られた。つまり、マーシャル・プランによる、米国の資金に基づいたヨーロッパの戦後経済復興の枠外で、フィンランドはソ連への賠償支払いを完了させ、オリンピックを成功させることが出来たのである。

 1952年は、「敗戦国」としてスタートせざるを得なかったフィンランドの「戦後」にも一区切りがついた年、と言えるかもしれない。

 1950年代のフィンランドは、オリンピック開催に続き、1955年に国連と北欧協議会への加盟を果たし、国際社会への復帰に成功した。

 1955年には、ソ連との関係にも大きな変化があった。

 ソ連に提供させられていた、ヘルシンキ郊外ポルッカラのソ連軍基地が、フィンランドの中立政策へのソ連高官の賛辞の下に返還された。外国の軍事基地が国内に存在する状態が解消されたことになる。フィンランドの「独立」が実のあるものとなっていくための大きな一歩であった。

 1955年は、西独が、米国を中心とした軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)へ加入した年でもあった。ソ連は、NATOへの対抗策として、東欧諸国による軍事同盟である、ワルシャワ条約機構を設立する。

 フィンランドは、その中立政策により、NATOへの参加はしていなかったが、ワルシャワ条約機構へも参加することなく、冷戦期を生き抜くことになる。両軍事同盟への不参加は、中立政策の帰結であると同時に、国際社会における中立国家としてのフィンランドの認知の基盤ともなるものであっただろう。

 ポルッカラ基地の返還について言えば、フィンランド国内からのソ連軍の撤退であると同時に、ソ連軍がそれまで果たして来たフィンランド湾の防衛義務をフィンランド軍が求められることを意味した。結果として、沿岸防衛用の艦艇の充実が図られることになるなど、フィンランド軍の軍事力の再構築が、ソ連の要求の下に具体化していくことになる。

 1950年代前半の、対空レーダー、英国製バンパイア・ジェット戦闘機の導入(6機)に続き、新たな国産の対戦車火器の採用や、英国製ナット・ジェット戦闘機(12機)が空軍力として加わるのがこの時期である。

 ワルシャワ条約機構諸国におけるソ連に依存した軍事力整備と異なる、英国製ジェット戦闘機の採用もまた、中立政策の反映として理解出来るだろう。もちろん、ソ連の容認獲得を抜きに、英国製戦闘機採用は考えられないことから、ここにもフィンランド外交の成功を推測出来る。

 フィンランド経由でのソ連攻撃の撃退義務に加え、フィンランド湾の防衛というソ連の要求に沿う形での軍事力の充実への流れの一方で、国連加盟後のフィンランドは、国連の平和維持活動(PKO)への積極的参加を開始する。

 1956年の「スエズ危機」に伴う、国連緊急軍(UNEF)への参加(UNEF自体が国連による平和維持活動の最初の試みでもあった))以来、現在に至るまで、フィンランドは国連の平和維持活動の重要なメンバーであり続けている。

 国連の平和維持活動への積極的参加の継続は、フィンランドの中立政策の具体化した姿として、国際社会におけるフィンランドの信頼性の向上に結びつくものとなっている。

 非攻撃的、あるいは非侵略的な軍事力というあり方を、ここに見出すことが出来るように思う。

 日本人の想像力が及んでいない軍事力のあり方ではないだろうか。

 軍事力が支配している現実世界で、軍事力の行使による紛争の抑止のために、対抗しうる軍事力の存在が依然として有効に働き得るという認識は誤りではないだろう。

 もちろん、その認識は、非軍事的介入の意義を否定するものではない。

 そして非軍事的介入もまた、フィンランドが実際に試み続けて来たことでもある。

 日本は、日本人は、その間、何を議論し続けていたのだろうか?

 さて、フィンランドは、パーシキヴィ大統領の時代からケッコネン大統領の時代を迎える。

 パーシキヴィ・ケッコネン路線と、後に呼ばれることになるフィンランド外交の基本は、戦争の経験を反映した徹底した対ソ友好政策であった。ソ連が現実的に友好的な隣人であるかどうかは問題ではない。フィンランド自身が、ソ連にとっての友好的な隣人として振舞い続けることの重要性を認識した結果の政策である。

 パーシキヴィ自身は反共主義者であったし、ケッコネンも「冬戦争」後のモスクワ平和条約締結に反対し、対ソ戦争としての「継続戦争」の支持者でもあった。

 パーシキヴィは、1944年10月にマンネルへイムの下で首相となり、1946年3月には大統領に就任したのだが、その現実主義はソ連との友好を基調とした中立主義を選択する。

 ケッコネンが、当初の対ソ戦争の支持者から、対ソ和解の推進者となるのは1943年のことであったという。1956年の大統領就任後も、その姿勢に変化は無かった。

 ソ連という軍事大国を、長い国境線を共有する隣国として持たざるを得ない小国の、それ以外にはあり得ない選択ではある。しかし、その際に課題とされているのは、あくまでも国家としての独立の維持であったし、その課題は達成されたと、現在の視点から判断出来るだろう。

 1957年には6人の閣僚で構成される国防委員会が設置され、国防計画の作成と助言に携わるようになる。1958年には、市民防衛法の制定、経済防衛準備の開始、防衛調整計画委員会の設置が決定され、1961年には国民に対する防衛計画が開始されることになった。

 この時期のフィンランドにおける軍事力整備の一環としての、空軍における練習機の大量購入は、フィンランドにおける軍事的リアリズムを理解する上で見落とすべきではないだろう。

 既にパリ条約で、実戦機60機という空軍の航空機保有制限が定められていた。それに対し、フィンランド空軍はこの時期、練習機の大量購入を行うのである。スウェーデンからサーブ・サファイア初等練習機30機に加え、フランスからマジステール80機という練習機の購入を果たす。フィンランド空軍の保有するジェット戦闘機が、バンパイア6機ナット12機という時点、実戦ジェット戦闘機わずか18機という時点での話だ。

 対ソ戦争の経験は、パイロットの消耗という実戦の現実と、その後の補充の必要性を強く認識させるものとなった。小規模な空軍であっても(であるからこそ?)、潜在的なパイロット養成が必要とされるということであろう。

 同時に、戦時の空軍力の拡大の必要を見越した、余裕ある空軍基地施設の整備と、戦時に十分に対応しうる装備の用意が進められた。

 その他にも、空軍学校の設立に加え、長距離レーダーシステムが英国から導入されている。

 しかし、実戦機の不足もまた依然として事実であった。

 陸軍戦力としては、野砲、歩兵用携行火器の開発、英国からの戦車購入に加え、ソ連からも戦車、対空戦車等の購入が進められた。

 その結果として、常備軍の装備は国際的水準のものとなったが、予備役50万人分の装備は旧式なままにとどまった。

 そして1961年に至り、空軍力の充実、十分な実戦機の確保に成功するが、これもまたソ連の意向による形を取るものであった。

 そのいきさつもまた、実に興味深いものである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/09 14:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60494/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (7)

 

 大國ソヴエトの周辺にある、人口四百万の小國フィンランドは、みずからの独立をどのように保つかについての、最後の結論をはっきりとつかんだようだ。みずからの独立と、平和とを、誰の手にもよらずみずから守る精神、フィンランドがこの精神を捨てない限り、「カレワラの平和境」は、長く独立を楽しむことができるであろう。

 

 斎藤正躬『独立への苦悶-フィンランドの歴史-』(岩波新書 昭和26年)は、このような言葉で結ばれていた。

 では、実際のところは、どのような歴史的経過を示しているのだろうか? 57年後の視点から振り返ってみよう。

 

 ソ・フィン戦争の折には、モスクワはフィンランドの戦力を、誤算したようだ。だがこんどは、誤算しようにもフィンランドは武力を持っていないのだ。

 

と、斎藤は書いている。

 実際、1947年のパリ条約では、あらためて戦後フィンランドの軍事力に対する制限が明確化されていたが、それは、

第13条 陸海空軍及び要塞の保持は、国内的性格の地域的国境の防衛のための戦闘任務に限定される。前掲に従いフィンランドは以下を越えない範囲で国軍を構成する。

 (a) 陸軍は国境警備隊と対空砲兵も含めて3万4400名とする。

 (b) 海軍は人員4500名、総トン数1万トンとする。

 (c) 空軍はあらゆる航空機及び保管航空機を含めて60機とする。フィンランドは爆弾倉を装備する爆撃機を保有しない。

 

という条文に示された通りの、保有する軍事力の大幅な削減要求であった。そこでは、53万名に及ぶ動員体制から、3万人規模の常備兵力への削減が求められていた。

 しかし、その上で、戦後のフィンランドの選択は、「非武装化」ではなく、制限された軍事力を基礎とした国防戦略の再構築に向けられたのであった。

 手がかりは、パリ条約の文言にあった。条約に規定されているのは、常備軍としての軍の規模であり、動員の禁止は明記されていない。国防軍司令官はその点をパーシキヴィ大統領に指摘し、予備役を基礎とした野戦軍の動員システムの構築を提案したのが、1948年3月であった。提案は採用され、その後の2年間で、小さな常備軍と大きな動員軍という、戦後のフィンランドの国防体制の基礎が確立されることになる。

 その間、1948年2月には、フィン・ソ友好協力相互援助条約が締結されている。あの、「大国間の紛争の局外に立つと共に国連の原則に従って平和を維持したい」というフィンランドの中立政策への希望が条約前文に明記されたものだ。

 そして条文によれば、フィンランドが負うのはフィンランド経由でのソ連への攻撃の撃退義務であって、他の地域におけるソ連への攻撃への共同防衛義務は課せられていない。東欧諸国が、ソ連と一体の軍事行動を義務として課せられたのに比して、独立性の高い内容となっている。

 しかも、自国経由でのソ連への攻撃の撃退義務を負う以上、それを可能にする軍事力の整備は、条約上の義務履行の前提条件となるのである。

 フィンランドにとっての、現実的な国防上の脅威は、2度の戦争の侵略者であった隣の軍事大国、ソ連の存在である。フィンランドの軍事戦略の基本は、ソ連による侵略の可能性への対応に置かれている。端的に言ってしまえば、フィンランド軍の敵はソ連軍なのである。

 しかし、そのフィンランド軍の軍事力の充実を支えたのは、ソ・フィン友好協力援助条約に基づく、ソ連への攻撃に対する撃退の義務であった。

 フィンランドの、ソ連からの攻撃を想定とした防衛戦略を支えたのは、ソ連への攻撃に対する防衛協力義務の存在であった、ということになるわけだ。

 パーシキヴィ大統領時代、1949年3月の防衛研究委員会レポートの内容が興味深い。

 パリ条約とソ・フィン友好協力相互援助条約の制限と義務を基盤とし、自身の戦略的作戦的戦術的経験と経済資源への目配りの必要が指摘される。その上で、防衛力保持の必要性と、徴兵システムの必要性が原則として明示された。

 「大国間の紛争の局外に立つ」ためには、自身が攻撃からの防衛能力を保持しておく必要があるということだ。「中立政策」は、他国からの攻撃に対する防衛力の保有によって支えられるという思想である。フィンランドは、そのことを1930年代から1940年代にかけての戦争の経験から身をもって学んだのである。

 徴兵システムに関しては、1950年9月15日、国家徴兵法が制定され、徴兵期間と予備役の補充訓練日数が明確化された。ただし、実施は資金難により1960年代になってからの事であったという。

 同時期に、国防軍司令部では、防衛戦略の再検討が行われているのだが、その内容も興味深いものだ。

 第二次世界大戦型の、防衛ラインによる戦闘が放棄されることになる。横のラインによる防衛から、縦深の「地域防衛システム」が戦後フィンランドの防衛戦略の基本とされるのである。正規軍同士の正面攻撃による決戦ではなく、深く侵入した敵の軍隊をゲリラ的に漸次撃滅していくという戦略であり、「冬戦争」と「継続戦争」時の実際の戦闘経験からもたらされたものだ。

 あらたな徴兵と予備役訓練のシステムが、「大きな動員軍」の存在を保証することになる。縦深の「地域防衛システム」を支えるのは、軍事的訓練を受けた市民の存在なのである。

 ただし、これもまた資金不足により、現実化していくのは後年のこととなる。

 二度の戦争において、ソ連からの国土の防衛には成功したものの、休戦条約による賠償金の支払い義務と、割譲させられたフィンランド領からの40万人の難民の受け入れが、フィンランド経済を圧迫していたのである。

 もっとも、賠償協定による工業製品の現物による支払い要求は、結果として、フィンランドの工業化をもたらすものとなった。農林業と農産加工品製造に依存していた産業構造からの転換が、1940年代後半から賠償完済の1952年に向けてのフィンランド経済を特徴付けるものとなった。

 復興していく経済と、戦後の国際関係の中で、フィンランドの軍事力も少しずつ充実していくことになる。それが、あくまでも国土防衛のための軍事力であることは、防衛研究委員会レポートや国防軍司令部の防衛戦略に明らかであろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/08 20:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60412/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (6)

 

 斎藤正躬『独立への苦悶-フィンランドの歴史-』(岩波新書 昭和26年)の「まえがき」には、

 

 またこの國が、位置からいっても、大きさからいっても、ほとんど世界の関心をひいていないために、手に入る資料は極めて少ない。このことも私の仕事をむずかしくした。

と書かれていた。

 その50年後に執筆された寺岡寛論文(「フィンランド-経済再生をめぐって-」)にも、

 

 ルイスはフィンランドがスカンジナビアの隣人とは異なると述べたが、この典型はフィンランド語であろう。他の諸国の言語、とりわけヨーロッパ言語とは隔絶したフィン・ウゴル語族を形成する。フィンランドの元国連大使のヤコブソンは、この少数言語に言及して、フィンランドと世界との関係を外交官の感覚からつぎのように述べる。

「フィンランドの場合、他国の政策の一機能とならず、自主的な演技者としての独自の条件での容認と理解をうるための難しさは、フィンランド人の生活の最深部を外部の人間に隠している言語の壁で高められている。・・・・フィンランド人の過去と現在をおおざっぱに理解することが必要な場合でも、教科書の片隅で、他国語により紹介されているにすぎない。フィンランドについての外国人向けの情報の大半は古いもので、内容も二級品である。(1998)

 事実、フィンランド語という言語障壁もあり、従来はフィンランドについての知識は孫引き、あるいは古い情報に基づいたものであったことは否定できない。ただし、EUに加盟した1990年半ば以降については、以前はフィンランド語だけで発表されてきた政府文書や資料が英語など翻訳発表されるようになり、現時点での法律、政策、制度についての情報も入手しやすくなった。また、インターネット技術と普及で大きな進展をみせたフィンランドらしく、ウェブサイト上の情報も充実してきた。

 

という記述がある。

 同じ50年の間、日本人の過去と現在をおおざっぱに理解することが必要な場合でも、教科書の片隅で、他国語により紹介されているにすぎないし、日本についての外国人向けの情報の大半は古いもので、内容も二級品であった時代も長かったわけでもある。

 今では、アキバ系文化は世界を席巻し、日本のヲタクの日常が世界標準となってしまっているわけだ。

 『独立への苦悶』を読み進めると、この50年という歳月を実感させられる。

 私たちはソ連邦の崩壊を目にし、「冷戦」終結後の世界に住んでいるのである。著者の斎藤正躬が目撃していたのは、「冷戦」の開始であり、朝鮮戦争であった。

 人権抑圧機構としての社会主義国家の実態は明らかではなかった。いや、むしろ、「冷戦」の進行過程で、社会主義国の人権抑圧体制は整備されていくのである。「人権抑圧機構としての社会主義国家」とは現在からの視点からの言葉でもあることには留意しておくべきだろう。

 著者は、フィンランド独立時の内戦を描くに当たっても、勝者としてその後のフィンランドの政治体制の基礎となった白軍よりも赤軍に共感を寄せている。

 冬戦争を描くに際しても、フィンランド政府よりもソ連の境遇に同情的である。

 時代を感じざるを得ない。

 独ソ不可侵条約の秘密議定書では、当初から、ポーランドの分割と共に、戦後のバルト3国とフィンランドの地位が、ソ連の領域として取り扱われていたことは、現在では周知のことだ。2つの軍事大国間でのヨーロッパ分割の取り決めの一環としての、フィンランドに対するソ連の侵略戦争であったことは、今日では明白である。

 著者は、

 

 第一次ソ・フィン戦争は終わった。それはフィンランドにとっては、全く迷惑なものだったし、恐ろしい悲劇でもあった。だがその悲劇の原因が、この小さなソ連周辺國の中に、独立以来親独、反共の性格が流れていたこと、いいかえれば完全な中立的態度を持っていなかったことにあった点を、見逃すわけにはいかない。しかもこの性格は、独ソ開戦後の第二次ソ・フィン戦争に至って、フィンランドを身動きの取れない立場に追い込むのである。

 

と書いてしまっているが、時代の制約を感じる。

 しかし57年前の話なのである。現在の私たち自身が、現在という時点での「時代の制約」の囚われ人であることもまた忘れられてはならないだろう。

 

 もし一部の人人の判断のように、ソ連の衛星國の政治が、すべてクレムリンの発する指令によっておこなわれるものとするなら、フィンランドは正しくその例外であり、政権の性格からいえば、これは「衛星國」とさえ呼べない國である。

 何がこのソ連周辺の小國、しかもソ連と戦って敗れた國を、このような状態に置いているのだろう? ふたつのソ・フィン戦争に示された、驚異的な戦争能力であろうか? そうではない。パリ条約以後のフィンランド軍は、もはや外國と戦うような力を持たず、その軍事的な要点を、すべてソ連ににぎられている。もしソヴエトが、軍隊を動かしてこの國を占領しようと思うなら、それは一週間もかからない仕事だろう。ソ・フィン戦争の折には、モスクワはフィンランドの戦力を、誤算したようだ。だがこんどは、誤算しようにもフィンランドは武力を持っていないのだ。

 理由は簡単、それはフィンランドが、ソ連のよい隣國として、生きてゆこうとしているからだ。フィンランドの経済は、その大部分をソ連との貿易に依存している。主な産品のパルプ、紙、ニッケルなどをソ連に送り、不足な食糧をソ連に仰いでいる。正直なフィンランドは、賠償を一日も遅らせず、きちんきちんと支拂っている。その上、過去の苦い経験にこりたこの國の指導者たちは、他國の力に頼って、自分の國の安全をかち得ようとはしない。フィンランドは北大西洋条約には加盟せず、北欧諸國とも同盟しようとはしない。これがソ連を刺激せず、その干渉を防いでいる最大の原因ではなかろうか?

 大國ソヴエトの周辺にある、人口四百万の小國フィンランドは、みずからの独立をどのように保つかについての、最後の結論をはっきりとつかんだようだ。みずからの独立と、平和とを、誰の手にもよらずみずから守る精神、フィンランドがこの精神を捨てない限り、「カレワラの平和境」は、長く独立を楽しむことができるであろう。

 

という記述で、斎藤はその著書を結んでいる。

 どこに「時代の制約」を感じ、どこに現在なお生きた言葉を発見するであろうか?

 現在の私たちの視点もまた問われるのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/07 21:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60324/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (5)

 

 フィンランドの「戦後」と日本の「戦後」を、少しだけ、考えたいと思う。

 テキストは、斎藤正躬『独立への苦悶-フィンランドの歴史-』(岩波新書 昭和26年)。当時の定価が100円、古書店での値段が300円だった。

 昭和26年刊行ということは、つまり「戦後」6年という時点での出版物ということになる。1951年ということだ。

 1945年10月に国際連合が発足し、戦後の平和で安定した国際関係の枠組みを規定することになった、と思われた。

 「と思われた」が、それは1946年3月の、チャーチルによる「鉄のカーテン」演説で明らかになったように、米ソ対立に発する「冷戦」時代の幕開けでもあった。

 この間、大日本帝國はポツダム宣言の規定により完全に武装解除され、その上で新生国家としての日本国は、自身の「日本国憲法」を通して非武装国家としての立国を宣言している。それは、大日本帝國の交戦国としての米国、戦後の占領国としての米国の意向であったと共に、戦争の惨禍にうんざりした日本国民自身の希望するところでもあった。

 しかし、「冷戦」の進展は、1950年6月に至り、「朝鮮戦争」という名の「熱い」戦争と化してしまった。

 その結果、米国の意向は、非武装国家としての日本の維持から、再武装要求へと変化していく。

 1950年8月には、日本は「警察予備隊」という名の下に、再軍備を開始する。

 そして、1956年(昭和26年)とは、サンフランシスコ講和条約による日本の独立の回復の時点であると同時に、「日米安全保障条約」調印に始まる、戦後の米国の国益に従属する国家としての日本の出発点でもあった。

 そのような年に書かれたのが、『独立への苦悶』ということになる。

 さて、まず「まえがき」をご紹介しておきたい。

 

 戦後のアジアには、「独立」を旗印にした、民族主義の嵐が、際限もなく吹き荒れている。それは、インドを、パキスタンを、フィリピンを独立させ、中國の革命を呼び、イランに、インドシナに、マライに、熾烈な旧支配者への反抗を生んでいる。長らく眠っていたアジアは、いまこの夜明けを迎えて、ようやく目をさましたのだ。

 十九世紀のなかばから、今世紀のはじめにかけて、ヨーロッパは、ちょうどこれと同じような、ひとつの嵐の時代を持った。嵐はいくつかの「独立」を生み、「革命」を生みながら、大陸を縦横に吹き荒れた。二十世紀のヨーロッパは、この嵐の中から生まれた新しい社会である。

 ふたつの嵐の性格には、西と東の差があろうし、また五十年という時のずれが、つくりだす違いもあるにちがいない。だが、嵐は嵐であり、その内容は決してふたつのものではない。

 嵐は、雪と氷に閉ざされた極北の一小國、フィンランドにも烈しく吹き荒れた。いや、われわれ東の國の人間には、平素はほとんど知られていないこの國の、静かな森と湖のほとりに描かれた「独立の歴史」は、ヨーロッパ史の中でも、もっとも典型的な「民族独立史」の一巻である。

 「独立」はどのようにして芽生えたか? どのように闘われたか? そしてどんな方向に進んだか? 混迷するアジアにとって、フィンランドの歴史は、一本のたいまつとなり、暗くきびしいその行手を、明るくてらしてくれる。

 この本は、そうした考えの故に書かれた。期間にしたらわずか一ヵ月、たった二回しかフィンランドを訪れなかった私が、この國の歴史をあやまりなく傅えることは、もちろん不可能なことだ。またこの國が、位置からいっても、大きさからいっても、ほとんど世界の関心をひいていないために、手に入る資料は極めて少ない。このことも私の仕事をむずかしくした。だから私は、はじめからこの本が完全なものとは思わない。

 にもかかわらず、私がこの本を書いた理由は、今日のアジアにたいして、フィンランドは、かならず何かを教えてくれると思うからだ。

 フィンランドの中で、いちばんわれわれの心をひく部分は、この國がロシア帝國の治下に入ってから、独立を完成するまでの、烈しい「抵抗の時代」であろう。この本は、もちろんその時代を中心にしているのだが、読者の理解を深めるため、その前後の時代にも触れて、一應通史の形をとった。もし退屈したら、その前後、特に第二章の「スエーデン時代」は、飛ばしてもらっても結構だと思う。

     一九五一年六月

                                   斎藤正躬

 

 斎藤正躬(さいとう まさみ)は、1911年生まれのジャーナリスト。1941年から46年まで、同盟通信社欧州特派員として、ストックホルムに駐在し、その間二回フィンランドを旅行。北欧文化協会会員。著書として『北欧通信』『北ヨーロッパの國民』があるという(奥付による)。

 1951年という時代は、まだ多くの地域が西欧諸国の植民地であったことが、斎藤の記述から、あらためて理解出来る。アフリカの諸国家の「独立」は、そのほとんどが1960年代以降のことである。

 そしてその50年前には、ヨーロッパにおいて、新たな国家の独立が目指されていたのだという歴史的事実も、よく理解出来るだろう。

 1930年代の終わりから1945年に至るヨーロッパでの戦争は、そのような新たな独立国家を含む主権国家に対する軍事大国の侵略として開始されたということになる。

 1930年代の初めから1945年に至る、大日本帝國を中心としたアジアの戦争は、別の相を持っている。大日本帝國の戦争は、近代国家としての統一過程にある中国、国際連盟に加盟した主権国家としての中国の国土に対する侵略であったと同時に、東南アジアを植民地化した宗主国への戦争、植民地再分割のための戦争でもあった。

 ヨーロッパにおける軍事大国が、ナチスドイツとソ連であり、極東にける軍事大国は大日本帝國であった。

 アジアにおける植民地の独立をもたらしたのは、大日本帝國の勝利と同時に敗北であったことには留意しておきたい。大日本帝國の敗北により、アジア諸国は、大日本帝國の利害を離れた独立国として存在することが可能になったのである。大日本帝國の勝利がもたらしたものは、「大東亜共栄圏」という名の、大日本帝國のための利益共同体に過ぎなかったと、私は理解している。

 そのような意味で、あの時代の戦争の被侵略国としてのフィンランドの経験は、戦後の日本国民の想像力の外部にあったであろうことは確かなことだろう。

 同時に、アジアの経験もまた、日本人の想像力の外部にあったのではないか、ということも考える。

 57年後の今日にも、その指摘が当てはまりそうなところは、日本国民の一人として、いささか残念な思いを抱かざるを得ない感がある。

 民族の独立とは、国家の独立とはどのような事態であるのか、ということが日本人の想像力の外部にあるのではないか、そのように思わざるを得ない。

 古い岩波新書の「まえがき」を読み、そのようなことを思う。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/06 20:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/60246/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 番外編

 

 フィンランドについての話題が続いてしまったのは、当人にとっても驚きだった。

 フィンランドといえば、カウリスマキの映画に、ユリア・ヴォリの絵本『ぶた』くらいしか思い浮かばない。かつての「モンティ・パイソン」の番組中で、フィンランドをバカにするネタがあったことは覚えているが、詳しくは覚えていない。

…実は、この日記、2度目の挑戦である。

 ほとんど書き上がっていたものを、ミスって消してしまった。

 昭和26年の岩波新書『独立への苦悶-フィンランドの歴史-』を本棚から引っ張り出して来て、本文からの引用紹介などして、旧字体への変換作業中にまさかのミス。

 力が抜けてしまったので、昭和26年のフィンランド観紹介は、残念ながら後日といたします。

 ちなみに、昭和26年の岩波新書の定価は100円。古書店での値段は300円でありました(今確認)。

 今日はその代わりに、画像の紹介をしておきませう。

「冬戦争」時のニュースフィルム。ソ連空軍爆撃機による都市無差別爆撃の状況と、空襲に対応するフィンランド市民の姿が映し出されている。
唄はモンティ・パイソンだけど、画像は勝手につけたヤツ。だけど、この画像がなかなかなので…
…ということで、本日はオシマイ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/03/01 00:13 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/59674/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (4)

 

 フィンランドの戦後。

 それは敗戦国としての出発でもあった。

 1939年から1940年にかけての「冬戦争」では、フィンランドを攻撃したソ連は、侵略者として国際連盟からの除名処分を受けていた。

 1941年から1944年にかけての「継続戦争」においても、攻撃を仕掛けてきたのはソ連であったが、フィンランドはドイツの同盟国として取り扱われ、枢軸側国家であるとの認識の下に、戦後の新たな国際連合では「旧敵国条項」の対象とされてしまった。

 1944年9月のソ連との休戦協定に続き、1947年締結のパリ条約で、敗戦国としてのフィンランドの取り扱いが確定した。

 休戦協定では、フィンランド領土の割譲に加え、フィンランド軍の動員解除が定められ、53万人体制から一挙に3万7千名への縮小が要求された。常備軍を支えていた民兵組織(常備軍の徴兵・動員や日常の軍事訓練を行う)の解体と共に、ロッタ・スヴァルドと呼ばれた女性による軍事支援組織も、ファシスト組織とされ廃止を求められた。戦犯の処罰も要求され、継続戦時の大統領であったリュティもその対象とされてしまった。

 パリ条約では、あらためて戦後フィンランドの軍事力に対する制限が明確化されている。

第13条 陸海空軍及び要塞の保持は、国内的性格の地域的国境の防衛のための戦闘任務に限定される。前掲に従いフィンランドは以下を越えない範囲で国軍を構成する。

 (a) 陸軍は国境警備隊と対空砲兵も含めて3万4400名とする。

 (b) 海軍は人員4500名、総トン数1万トンとする。

 (c) 空軍はあらゆる航空機及び保管航空機を含めて60機とする。フィンランドは爆弾倉を装備する爆撃機を保有しない。

 これは、保有する軍事力の大幅な削減となる。

 戦後の歴史は、しかし、「冷戦」と呼ばれる新たな時代の開始とも重なっていた。

 米ソの対立による新たな時代の中で、フィンランドは国家の再建に取り組むことになる。

 1300キロに渡って国境を接する、かつての侵略国であるソ連の存在を無視して、フィンランドの国家としての存続はあり得ない。それも、軍事力を削減された中で、巨大軍事国家としてのソ連との関係を構築して行かなければならないというのが戦後フィンランドの課題であった。

 結論から言えば、資本主義的経済体制を基盤とし、多党制に基づく民主主義的政治体制を維持することに、戦後フィンランドは成功したのである。

 1948年の、ソ連との間での友好協力相互援助条約調印により、戦後フィンランドとソ連の関係はスタートする。

 東欧各国も、同様の条約により、ソ連との関係を規定されることになるのだが、フィンランドとソ連の間に結ばれた条約の内容は、東欧各国が受け入れざるを得なかったものとは異なる側面がある。

 条約前文にはフィンランドの「大国間の紛争の局外に立つと共に国連の原則に従って平和を維持したい」という希望が文言として明記された。

 その上で、他の東欧諸国が求められたソ連との一般的な軍事同盟の構築は回避されているのである。ドイツとその同盟国によるソ連への攻撃の際に限り、防衛義務を負うものとされ、軍事的協議も事後的なものとして(つまり有事においても交渉の余地を残すものとして)設定されたのである。しかも、ソ連が他の場所で攻撃を受けた場合には支援の義務はないとされていたことも注目点であろう。

 それでも、ソ連にとっては、フィンランドが他国との軍事同盟を結ぶことを制限出来、フィンランド経由の攻撃をフィンランドの存在により回避出来るという防衛上の利点も確保されているものでもあった。

 戦後のフィンランドの軍事力の充実は、ソ連からの武器購入と英国からの武器購入により開始された。

 フィンランドの「大国間の紛争の局外に立つ」という中立主義の帰結であると共に、防衛力整備における一国への依存度を低下させておくことは、中立の維持の出発点ともなりうる政策であろう。

 一方で、国連加盟と共に、PKO活動への積極的参加を通して、「平和維持」へのフィンランド国家としての姿勢を常に明確に示して来た。

 また、様々な紛争に際して、中立国として積極的な仲介外交を展開して来ている。

 軍事面においても外交面においても、「平和維持」への貢献を国際的に認知されるべく努力を重ねて来ているということである。

 もちろん、その外交政策(現実には内政までもが)は、ソ連の意向を無視しては成立しないものである。国境線を接する軍事大国の意向を無視しては、という意味だ。

 その状態が、西独の政治家の間で「フィンランド化」として揶揄的に用いられることにもなった。我が日本の中曽根首相も、「日本が防衛努力を怠るとフィンランドのようなソ連の属国状態になる」という文脈で「フィンランド化」という語を用いたことがあるが、フィンランドの置かれた歴史的状況と実際の防衛・外交上での努力を考え合わせれば、的外れでありかつ失礼極まりない表現であろう。

 戦後フィンランドの国家としての独立の維持に賭けた外交的軍事的努力の大きさは、戦後日本の米国依存状態とは比べようがないものなのである。

 実際、「フィンランド化」という語は、東欧諸国では憧憬の表現であったという。つまり、そこには、国家的自立の維持の成功が見出されていたのだ。

 日本の戦後は、軍事力の否定という建前の上に築かれたものだ。

 国境線を軍事大国と接する国(それもその大国からの被侵略体験のある国)としてのフィンランドの歴史的経験と、近代における被侵略体験はないが侵略体験を有する海洋に囲まれた国家が歴史的経験として受け取ったものは異なって当然である。

 戦後日本の平和主義には理由があり、その平和主義の成功は確かなことだろう。

 昨今の防衛力増強をめぐる議論の問題点は、つまるところそのリアリティーの欠如ではないかと思う。

 フィンランドの防衛努力は、隣国による被侵略体験に根ざす現実的なものであった。そして国家の独立の維持が常に意識されて来た。あくまでも、国家としての独立の維持を保証するものとしての軍事力なのである。

 外交的軍事的な米国一国依存状態の果てに、米国の軍事戦略に組み込まれるための軍事力増強策でしかないような議論は、フィンランドの戦後史から見ればナンセンスそのものではないだろうか。

 フィンランドの教育システム礼賛の文脈で、フィンランドの徴兵制度がフィンランド人の自立心を生み出しているかの主張が存在する。日本人の自立心も徴兵制度の導入により養成可能であるような議論まで見かけるが、これまたナンセンスの極みと言うべきだろう。

 徴兵された兵士が米国に従属した軍隊の一員となることによって、日本人の自立心が涵養されるわけはないのである。

 20世紀のフィンランドの歴史から学べることは多い。

 しかし、良くも悪くも、日本は日本なのでありフィンランドはフィンランドなのだ、という側面もある。それぞれの歴史的経験を無媒介に結び付けて論じることもまたナンセンスへの道であろう。

(「フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛」シリーズを書くに当たっては、

斎木伸生 『フィンランド軍入門』 イカロス出版 2007

石垣泰司 「戦後欧州情勢の変化とフィンランドの中立政策の変貌」 外務省調査月報 2000/No.2

を、特に参考にしたことを申し添えておきたい)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/02/28 20:09 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/59539/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史、あるいは軍事力による防衛 (3)

 

 1930年代から1940年代にかけて、フィンランドは3つの戦争を闘った。

 1939年11月30日、国境を越えフィンランドを侵略したのはソ連の軍隊だった。1940年3月12日、両国間の平和条約が調印され、翌3月13日に戦闘は終結した(後に「冬戦争」と呼ばれることになる戦争だ)。

 開戦に先立ち、両国間では領土をめぐり外交的交渉が行われていた。ソ連の要求は、フィンランドにとり不利な内容を含むものであり、フィンランドの政治家は拒絶した。その際、フィンランドの軍事面の指導者であったマンネルへイムは、ソ連の要求に従うことを主張していた。彼の軍人としてのリアリズムは、戦争になればフィンランドに勝ち目のないことを理解していたのである。

 それでも、実際に開戦となった後は、マンネルへイムは軍事指導者としての力量を発揮し、ソ連軍を撃破することは叶わないまでも、フィンランドの防衛力をソ連に認識させた上で休戦に持ち込むことに成功した。

 フィンランドの独立は維持されたのである。

 1941年までに、ソ連はポーランドの東半分とバルト3国を手中に収め、ドイツはポーランドの東半分に加えノルウェーからフランスに至るヨーロッパの占領者となっていた。

 しかし、不可侵条約によって結ばれていた独ソは、1941年6月22日、ドイツの攻撃によって戦争状態に入った。

 かつての侵略国であるソ連に対抗する後ろ盾として、相対的にドイツとの友好関係を選択していたフィンランドは、ドイツの同盟国としてソ連軍の攻撃の対象とされることになる。1941年6月25日、ソ連軍による爆撃により、フィンランド人により「継続戦争」と呼ばれることになる戦争が始まった。

 フィンランド軍は当初、ドイツ軍との共同的作戦行動を取り、ソ連軍を領内から撃退し、冬戦争で失われた国土を回復すると共に、国境線の東側へも軍を進めた。しかし、その後はドイツ軍との共同作戦行動を拒絶し、戦線を膠着状態としたまま1944年を迎えることになる。

 マンネルへイムは1941年12月の時点で、既にソ連との講和を考慮するように政治家に主張していたという。

 1944年6月9日、ソ連軍の攻勢が始まり、フィンランド軍は「冬戦争」後の国境線まで押し戻されることになる。しかし、西部戦線での米英軍のノルマンディー上陸作戦(1944年6月6日)後の進撃は、スターリンに対独戦争での主導権の確保の重要性を思い出させ、対フィンランド戦の外交的解決による終結を選択させることになる。スターリンはフィンランドの占領よりも、ベルリンの占領を選択したわけだ。

 そのような戦後の国際政治までも視野に入れた国際情勢の中で、フィンランドは、1944年9月19日、ソ連との休戦条約に調印した。

 ソ連との休戦条件により、1944年9月2日、フィンランドはドイツと断交し、ドイツを敵とした新たな戦争、ラップランド戦争に突入する。既にフィンランド軍はソ連との戦争で消耗しており、ドイツ軍のフィンランド国境からの駆逐が完了するのは1945年4月25日のことになった。

 これで、フィンランドの戦争は終わった。

 独立は維持された。

 フィンランドの戦後の地位を決定したもののひとつは、1946年7月から開始され、1947年2月10日に調印されたパリ講和条約の条文であろう。イタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの旧枢軸国と連合国間に結ばれたものだ(サンフランシスコ講和条約が、連合国と日本の間で果たしたのと同様の役割を担うものと考えればよいかも知れない)。

 パリ講和条約の対象となった旧枢軸国に日本とドイツを加えた国々が、国際連合成立時の「旧敵国条項」の対象国と解釈されている(条文には明文的規定はない)。

 ちなみに、ソ連は「冬戦争」時に、フィンランドへの侵略国家として認定され、国際連盟を除名されていた。そのソ連が最終的には連合国側の一員として第二次世界大戦の勝利者となり、国際連合の常任理事国になった結果として、戦後政治の主導的地位に着いたという事実を再確認しておくことは、国際政治の現実への視点を鍛える上で大事なことであろう。

 パリ講和条約の結果、フィンランドは、保有可能な軍事力への大幅な制限を課せられることになる。

 フィンランドの戦後史は、軍事力への制限を受け入れつつも、軍事力の保持を国家的独立の根幹として位置付け、実質的な軍備の拡充を目指すものともなっていった。

 強大な軍事大国であるソ連を隣国とし、その隣国による侵略と撃退の経験は、フィンランド国民に、国家の独立の維持(それはつまり国土の平和と国民の安全の確保を意味するだろう)における軍事的手段の重要性を認識させるものとなったと考えることが出来る。

 1930年代から1940年代の3つの戦争に先立つ経験として、フィンランドは独立の主導権をめぐる内戦も経験していた。その内戦時の一方の後ろ盾となっていたのが、ロシアのボルシェビキ政権であったことも、フィンランド人の歴史意識に大きな影を落としているはずである。

 そのようなロシア=ソ連との歴史的経験が、戦後のフィンランド人の外交や防衛問題への対処の仕方に反映されて来るのは当然のことだろう。

 もちろん、その一方で、ボルシェビキ政権成立後に、いわゆる列強諸国による干渉戦争の対象とされ多大な犠牲者を出すことを強いられた、ソ連という国家の経験についての想像力を忘れてしまっては片手落ちであろう。軍事大国としての国家形成は、自明の必要時であったはずだ。

 その上に独ソ戦による犠牲者の数を考えるならば、戦後ソ連の軍事大国化も理解出来ないものではないだろうう。軍事的侵略を受けることへの強迫観念は大きなものであって当然なのである。その恐怖が軍事大国化として帰結してしまったということだ。

 フィンランドの戦後史は、その強迫観念的な軍事的大国化志向を持った隣国の存在を念頭において自国の外交を構築する以外の選択肢を持ちようがなかった国民が、いかにして独立国家として自国を維持しえたかの記録となっている。戦後の日本人の想像力からは、すっぽり抜け落ちてしまっている思考の経験がそこにあるだろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/02/27 20:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/59431/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史、あるいは軍事力による防衛 (2)

 

 1941年6月25日、ソ連空軍の爆撃機は、フィンランドの首都ヘルシンキを始めとする都市への無差別爆撃を開始した。

 「ソ連軍の爆撃により、今やフィンランドはソ連と戦争状態に入った」と、大統領リュティはその夜のラジオで、国民に向け演説した。

 1939年11月30日のソ連軍の侵攻により始まり、1940年3月12日の平和条約調印で終わった「冬戦争」に続き、再びフィンランドは戦争の渦中に置かれることになったのである。この新たな戦争は、フィンランドでは「継続戦争」と呼ばれることになるが、この間に、フィンランドを取り巻く国際情勢は一変していた。

 「冬戦争」時には、ドイツとソ連は共通の利害の下に動いていた。両国は不可侵条約を結び、その取り決めによりポーランドを分割した。

 「冬戦争」終結時のヨーロッパ地図は、ポーランドが地図から消え、フィンランドとソ連の国境線に変更があったものの、それ以外の国境線には、まだ変化はなかった。

 しかし、1940年4月にはナチスドイツはデンマークとノルウェーに侵攻し、5月にはオランダ、ベルギー、そしてフランスが戦場となっていた。

 1940年の夏には、ドイツの課題は英国侵攻となり、ソ連はバルト3国の併合を終了していた。

 フィンランドは孤立したのである。軍事援助を受けていたフランスはドイツに降伏し、英国はドーバー海峡の向こうに追い詰められてしまった。

 ドイツは、ノルウェー侵攻軍の帰国のためのフィンランド領内通過を求め、ソ連は、平和条約により獲得したフィンランド南部の島とソ連領内との通行権を要求した。フィンランドはどちらの要求も拒否することは出来なかった。

 独立は保っていたものの、外国の軍隊が国境内を通過するという事態を認めざるを得なかったのである。

 一方で、ドイツの態度は変化しつつあった。1940年夏の終わりには、英国との戦争からソ連との開戦へと、ドイツの軍事的関心は移りつつあったのである。

 それまでのドイツにとっては、フィンランドは「同盟国」ソ連の利害の対象であっても、自国の利害関心の対象ではなかった。しかし、対ソ戦計画の文脈から、フィンランドとの友好関係はドイツの関心の対象となり始める。

 フィンランドにとっては、ソ連を相手にしながらの孤立状態からの脱出手段として、ドイツとの友好関係の確保は評価されることになる。

 フィンランドは、ドイツ軍の領内通過と引き換えに、ドイツからの軍事援助を引き出すことに成功するのである。フィンランドの国境を脅かしているのは、相変わらず、ソ連であるという認識があったということだろう。

 ナチスドイツが不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻したのは1941年6月22日のことだ。

 その時点でフィンランドは参戦してはいない。直接参戦してはいないが、ドイツ軍の領内通過は既定の事実ではあった。ソ連のフィンランド攻撃の理由とされることになる。

 ソ連の攻撃が、都市無差別爆撃によって開始された点には留意しておくべきかも知れない。都市の非武装の一般市民を対象とした無差別爆撃は、この年代の戦争を特徴付けるものだ。ソ連もまた、フィンランド攻撃に際し、無差別爆撃を採用したのである。

 地上戦は、7月10日、フィンランド軍の反撃によって開始された。

 ドイツとノルウェー、そしてフィンランド軍が、国境をはさんでソ連軍との戦闘に入った。

 ナチスドイツによる対ソ戦争の一翼を担うものではなく、あくまでも「冬戦争」に続くソ連の攻撃への防衛戦争というのが、国家としてのフィンランドの立場である。「継続戦争」という名称に、フィンランドとしての戦争の位置付けが反映されている(「冬戦争」の続きなのであって、独ソ戦への便乗戦争ではないという)。

 フィンランドは、ドイツの求めるレニングラード攻撃を拒否し、「冬戦争」以前の国境線の回復を第一の目標とした。国境線回復後も、ソ連領内への南下作戦を拒否し、東部国境の拡大を目指すが、皮肉にも地勢という自然条件に阻まれ、冬の到来と共に戦線は膠着状態となる。

 ソ連軍の作戦行動自体も、より南方でのドイツとの戦いが中心となり、1944年6月までは、膠着状態のまま過ぎることになる。

 その間、フィンランドの政治・軍事指導者は、ソ連との休戦を決意していた。

 既に1941年12月の時点で、課題は、戦争の終結策となっていたのである。

 1941年12月とは、ドイツ軍がモスクワを目前にして敗退し、大日本帝國が対米英戦争に入った時である。戦線の「膠着」は、フィンランドの兵力温存策という現実主義の結果でもあった(ドイツからの共同作戦の要請は拒否し続けることになる)。

 1944年6月9日、ソ連軍は大兵力を持ってのフィンランドに対する攻撃を再開し、フィンランドは守勢に立たされることになる。

 ドイツへの軍事援助が要請される。しかし、ソ連との講和への動きを知っているドイツは、援助要請に条件を付ける。ソ連との単独講和の拒否の保証をフィンランドに求めたのである。6月26日、大統領リュティは(個人として)書類にサインする。

 一方でソ連も、フィンランドとの戦争よりもドイツとの戦争への決着を重視せざるを得ず、軍を南方に再移動し、外交交渉によるフィンランドとの戦争の決着を求めるようになり、7月26日にはソ連からの回答が寄せられる。

 7月27日、大統領リュティは辞任し、8月5日にフィンランド軍総司令官であったマンネルへイムが大統領に就任する。そしてマンネルへイムは、単独講和をめぐるリュティとドイツの書状を議会の承認のないものとして否定するのである。

 フィンランドの政治家と軍人のリアリズムには驚くほかない。

 1944年9月2日、フィンランドはドイツと断交し、9月19日、ソ連との休戦条約が調印された。

 1944年9月3日、新たな戦争が始まっていた。「ラップランド戦争」と呼ばれる戦争は、フィンランド軍とドイツ軍との間で闘われることになる。

 初期には、いわば馴れ合いで、退却するドイツ軍をフィンランド軍が後から追うだけのものだったのだが、ソ連の要求により、本格的戦闘も行われるようになった。

 最後のドイツ軍が国境を越えるのは、1945年4月25日のことになる。

 フィンランドは、1939年から1940年にかけて、ソ連による侵略と単独で戦った。1941年から1944年にかけては、ドイツ軍と共にソ連軍と戦った。1944年から1945年にかけては、ドイツ軍と戦うことになった。

 1930年代から1940年代へと続く戦争の時代での、フィンランドの経験はこのようなものだった。戦争に勝利することはなかったが、負けることもなかった。

 強大な軍事力をもって小国の独立を脅かす国家が存在していた時代。フィンランドは独立の維持に成功したのである。

 その成功の要因としては様々なファクターを考えることが出来る。

 軍事大国と戦いうる正規軍の保持、というのは一面である。ポーランドの軍隊や、フランスの軍隊と比較した時に、フィンランドの軍事力は大きなものではなかった。実際、戦闘においてのフィンランドの主力兵器の中での、敵であるソ連軍からの捕獲兵器の比率の高さを指摘出来るだろう。各国からの寄せ集めの兵器に加え、敵軍の兵器を主力兵器として戦った正規軍であったという点を見落としてはならないと思う。

 自然条件は常に有利に働いた。地勢と気候は、近代的装備の正規軍の戦場としてはよい条件とは言えない。ヴェトナムのジャングルで苦しんだ米軍、アフガニスタンの山岳地帯で苦戦したソ連軍と同様の立場に、フィンランドへの侵略者は立たされることになる。

 そして、政治指導者と軍事指導者のリアリズムである。大日本帝國には存在しなかったし、現在の日本に存在しているかどうかも疑わしいものだ。戦後フィンランドの軌跡を追うことにより、政治指導者と軍事指導者のリアリズムの質の違い(その日本との違い)を痛感することになるだろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/02/25 21:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/59225/user_id/316274

 

 

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フィンランドの歴史、あるいは軍事力による防衛 (1)

 

 1930年代から1940年代にかけての世界を振り返れば、地上は(そして海上も空中も)戦争に覆われていた、という言い方が出来るだろう。

 アジアも、ヨーロッパも、戦場であった。

 しかし、戦争状態には地域差がある。いつまでを平和(少なくとも戦場ではない状態)な日々と考え、いつから戦争に突入したのかについては、世界に同時性があるというわけでもない。

 スペインでは、1936年に内戦状態に突入し、1939年に内戦は終了していた。1940年代を、スペインは戦争状態として経験したわけではない。中立を保ち、第二次世界大戦と呼ばれる戦争の枠外にいた(フランコによる過酷な独裁体制の下ではあったが)。

 世界を覆った戦争は、フィンランドでは、1939年11月30日、国境内へのソ連軍の侵入により、後に「冬戦争」と呼ばれることになる戦争として、経験されることになった。

 ソ連軍の侵略に対する、国土防衛としての戦争である。

 戦争は1940年3月12日、両国間の平和条約の調印によって終了した。

 1939年のフィンランドをめぐる状況として考慮しなければならないのは、ドイツとソ連が不可侵条約により、その時点では敵対関係になく、両者共にポーランドへの侵略国として第二次世界大戦が開始されていたという点であろう。

 ソ連は最終的には、独ソ戦に勝利し、第二次世界大戦における連合国の一員として、戦後世界のプレイヤーとなった。しかし、第二次世界大戦の開始時においては、ナチスドイツとスターリンのソ連は、ヨーロッパの既定の国境線への侵略者として、同盟関係にあったのである。

 ちなみに、スペイン内乱時には、スターリンは共和国側の支持者であり、ヒトラーはフランコの支持者として敵対関係にあった。

 しかし、第二次世界大戦開始時には、両者は利益を共に分かち合う存在として、それぞれの軍隊に国境線を超えさせていたのである。

 「冬戦争」をフィンランドは戦い抜いた。最終的に勝利することは出来なかったが、ソ連軍の撃退には成功したのである。平和条約の結果、国境線は、フィンランドに不利に変更されてしまいはしたが、占領は免れた。つまり、国家としての独立は維持されたのであった。

 「冬戦争」のエピソードを語る上で有名なのは、フィンランド空軍の活躍であり、フィンランド空軍の航空戦力の中身である。

 圧倒的なソ連空軍戦力を撃退し、地上軍の撃退にも成功したフィンランド空軍が保有していたのは、各国製の寄せ集めの機体による空軍戦力だったのである。

 主力戦闘機は、オランダ製のフォッカー、イタリア製のフィアット、アメリカ製のブリュ―スター、フランス製のモランソルニエ、イギリス製のグロースター等であった。戦前からの保有計画に加え、ソ連の侵略に伴う軍事援助として入手出来たものもある。

 当時は、独ソは同盟関係にあったために、イタリアからのフィアットの輸入は、ドイツの妨害に遭いスムーズなものではなかった。複雑な国際関係が窺われるエピソードであろう。

 しかし、そのような機体を活用し、パイロットの技量にも支えられて、数量的に圧倒的であったソ連空軍の攻撃の撃退に成功したのであった。

 フィンランド空軍の戦列には、撃墜したソ連軍機の修理再生品も加わっていたことも、有名な話だ。

 「冬戦争」における、各戦闘局面でのフィンランドの「勝利」を支えていた要因としては、フィンランド軍自身の能力に加えて、ソ連軍自体の抱えていた問題(スターリンによる粛清の結果による軍の弱体化)、フィンランドの地勢(深い森と沼)と季節(フィンランドの冬である)等が、挙げられるであろう。

 民族自決を達成したばかりの、若い民族国家における国家防衛意識の高さと、その目的達成を可能にした軍事指導者のリアリズムに支えられた力量。

 そして弱体化したソ連軍の現実的力量と、地勢という自然的要因。

 ポーランド人の民族意識や愛国心や勇気が決して低かったわけではないが、その地勢は侵略者にあまりにも有利であった。地勢という自然的要因は、時として、近代的軍隊の装備を無効化してしまうのである。日本という島国の防衛問題を考える上で、その点を見逃してはならないだろう。海上の島国への侵略攻撃には大きなリスクが伴うという点を、ということだ。

 歴史をさかのぼれば、といっても20年に過ぎないのだが、フィンランドが国家としての独立を達成したのは、1917年12月6日のことであった。1809年以来、フィンランドはロシア帝国の一部であったし、それ以前はスウェーデン領内の一地方であった。フィン人が民族国家を形成した歴史は存在しないのである。

 19世紀以来の民族意識の成長(日本でも「国学」が成立した時代であり、ドイツのグリムの活動等、各民族における固有の歴史や言語に支えられた民族意識の成立した時代である)と、ロシア革命によるロシア帝国の崩壊が、フィンランド国家の独立を可能にした。

 しかし、ロシア帝国の後継国家としてのボルシェビキ政権もまたロシア同様に、フィンランドを自国の利害の反映する領域として理解し、共産主義者による政権樹立を画策したのである。結果としてフィンランドにおいても、赤軍と白軍に分かれての内戦が闘われることになった。

 内戦は白軍の勝利に終わり、以後のフィンランドは、非共産主義政権の下に建設されていくことになる。

 新興国家の大きな課題の一つは、国境線の防衛であり、国軍の創設が必要となるだろう。創設された国軍を支えたのは、ロシア帝国時代にロシア軍に参加していた軍人達と、ドイツで軍事的教練を受けていた人間達であった。第一次世界大戦の戦線の両側にフィンランド人の姿があった、ということになる。

 その両者により、フィンランドの新しい軍隊は創設され、徴兵システムも整備されていくことになる。

 それは、世界史的に見れば、第一次世界大戦後の出来事であり、民族自決の時代と、軍縮の時代における出来事であった。

 第一次世界大戦の惨禍の経験による軍縮ムードは、新興国としてのそもそもの予算不足とあいまって、フィンランド軍に十分な軍備を用意しないまま、1920年代が過ぎていくことになる。

 しかし、アジアにおける大日本帝國の存在と、ヨーロッパにおけるムソリーニのイタリアとヒトラー・ドイツの登場は、軍縮の時代の終焉を告げるものとなった。それが1930年代の世界であった。

 フィンランドでもまた、軍事力の整備が課題となる時代であったが、一方で軍縮ムードの延長、第一次世界大戦の惨禍の経験がもたらす平和主義も人々の支持を集めていたのであり、大日本帝國やナチスドイツへ軍事的に対抗するという発想(フィンランドの場合は何よりもソ連の軍事力が考慮の対象であったろう)への共感を得ることは簡単なことではなかったのも事実のようである。1938年に、ミュンヘン協定はヨーロッパの人々に歓迎されたのである(政治におけるリアリズムと理想主義を考える上で、このミュンヘン協定の評価をめぐる問題は、実に教訓的なエピソードであろう)。

 そのような歴史の一つの帰結として、フィンランドは「冬戦争」を経験することになったのであった。

 そして1941年6月25日、ソ連空軍機によるフィンランドの諸都市への無差別爆撃により、後に「継続戦争」と呼ばれることになる新たな戦争が始まるのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/02/24 20:22 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/59128/user_id/316274

 

 

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不機嫌さの生む世界

 

 日曜の夜。

 寒い。ひざの上には猫。猫も寒いらしい。

 つまり、ヒーターの前の床の上より、少しヒーターから離れていても、人間のひざの上の方が暖かいということなのだろう。

 どうも、寒くて、何かを考えるという風に頭が向かない。もちろんヒーターのお世話にはなっている。イワン・デニソビッチのシベリアからは別世界である。

 まぁ、寒さもあるけれど、頭の方も日曜夜ののんびりムードにもなっているのだろう。何か、緊急に、集中力をもって考えるべきことがあるわけではない。

 のんびりしてればいいだけの話だし、アルコール燃料の注入に躊躇すべき理由もない。ただ、まぁ、ひざの上には気持ちよさそうな猫がいることだし、立ち上がるのも悪いような…とキーを叩いていたら、いきなり猫が飛び上がって床に下りてしまった。何か夢を見ていたらしい。何に驚いたのかは知らないが、これでウィスキーに手を伸ばすことが出来る。

 出来たので、体内にアルコール注入を開始する。

 寒さの中での読書の思い出がある。

 冬の最中。外で仕事をしなければならなかった時のことだ。仕事と言っても、ただじっとしていればよいだけ。読書も出来るのだった。

 しかし、寒い中で読書というのも、考えるほど楽なことではない。

 で、考えたのが、寒い話を読もう、という方法。

 『イワン・デニソビッチの一日』をそのようにして読んだ。身に沁みた。身体が凍みた中で読んだのだ。

 もちろん東京の冬の寒さだ。シベリアの収容所の一日とは比較にならない。

 しかし、まぁ、ただ寒さで震えているよりは、雪の中でブロックを積むイワン・デニソビッチに思いをはせながら寒さに震えるというのは悪い考えではなかったと思える。

 ソ連の強制収容所のシステムはよく知らないのだが、ナチスの強制収容所では収容者への虐待がシステム化されていた感がある。

 寒さはシベリアにひけを取らなかったりするような地の強制収容所で、雪の降る中、一日中、延々と続く点呼。そのまま凍死者が出るような状況が伝えられている。

 監視の親衛隊員にとっても過酷な仕事である。もちろん、親衛隊員は十分な装備に包まれ、収容者の待遇とは全く異なるのではあるが。

 しかし、寒さの中で一日中、ただ点呼で倒れていく収容者の監視を続けなければならない。人間、不機嫌になって当然だろう。収容者への同情よりは憎しみが生まれるに違いない。

 躊躇なく他者を虐待することが出来る人間はいる。しかし、そうではない人間も存在する。

 虐待の対象は、政治犯であれユダヤ人であれ、ナチスの体制への敵対的存在である。ナチスのイデオロギーから、虐待は正当化される。

 正義感を持って虐待をする。他者に対する無神経ゆえに、平気で、虐待をする。サディスティックなお楽しみとして虐待に精を出す。

 もちろん、そのような多くの親衛隊員の存在も否定出来ない。

 一方で、特に、隊員に対する「非情教育」も行われていた。非情であることが求められていることが、教育によって強調されるのである。

 その事実は、教育なしには虐待に加担しようとしない人間の存在を暗示する。

 必ずしも虐待が人間の本性に基づくものではないという希望に結びつく点で救いであると共に、教育によって虐待者へと「成長」してしまう人間性のあり方に直面させられてしまうという意味において、救いのない話でもある。

 業務としての虐待ということでもある。その延長に、業務としての虐殺もあった。

 もちろん、親衛隊員は、よい食事によい居住環境の下で業務を遂行していた。

 しかし、寒さの中で、体制への敵対的存在の監視を続ける必要がある。

 とにかく寒さの中での仕事は楽ではないのだ。

 強制収容所の環境は、親衛隊員をより暴力的にしたに違いない。

 なんてことを考えたりする。

 親衛隊員への同情があるわけではない。

 不機嫌な人間をつくりだし、不機嫌に他者を支配させるシステム。恐ろしい話だと思うのだ。

 そして、どうも、現代日本社会の構図にも、同様のイメージが付きまとうのだ。

 格差を拡大再生産させてしまうことをよしとするシステムは、人間から協調性を奪い、相互的な敵対意識を醸成するだろう。そこで人間は不機嫌になっていくのである。

 弱者は不機嫌のはけ口として、より弱い状態へと追いやられてしまうのである。

 今、日本人は、そのような社会を構築しつつあるように感じられる。

 巨大な強制収容所としての日本。考えたくないイメージである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/02/17 21:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/58392/user_id/316274

 

 

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鯨の肉、食べるべきか食べざるべきか…

 

 かつて、「鯨を食べる会」というのを主宰していたことがある。

 十数年前まで、毎年、ウチに仲間で集まっては、鯨を食べていた。

 まぁ、そもそも鯨の肉はとても美味しく好物だったし、国際的な反捕鯨の流れの中で鯨肉を手に入れることが難しくなっていたという、当時の現状への個人的な抗議の実践という意味合いも込めたものだった。

 しかし、今はやっていない。

 「鯨食は日本の伝統文化である」という言い方があり、当初はその文脈も考えての開催だったのだが、どうも「伝統」としての「鯨食文化」という前提にアヤシサを感じ始めてしまったというのが理由の一つである。

 もう一つの理由として、とにかく世界中の食材を食べつくしつつある日本人というイメージを抱き始めたという当時の実感があげられるだろう。あえて鯨まで食べる理由はない、という気分が芽生えてしまったわけだ。

 前者は歴史理解の問題であり、後者は歴史理解も含む日本人の行動様式への疑問につながる問題である。

 つまり、日本列島全域を対象として考えれば、鯨食の伝統は一部地域の問題にとどまるということであるし、資源保護への配慮を欠いた乱獲という事態もまた、日本人の行動様式に付きまとう現実として見逃すわけにもいかない、ということを考えざるを得なくなっていったというわけなのだ。

 船の舳先に積んだ大砲により、撃ち出される銛で鯨をしとめるスタイルの、近代捕鯨(ノルウェー式という呼称もある)がもたらされるまでの、「古式捕鯨」と総称される伝統的な捕鯨は地域限定の沿岸捕鯨であった。

 鯨肉の消費も、地域に限定されたものであり、日本全国に鯨肉が流通するということはなかったのである。

 そのような意味で、鯨食を「日本の伝統文化」として語ることには問題があると考えなければならない。

 しかし、一方で、では「日本の伝統とは何か?」という問いを発した時に、実はその問い自体があいまいなものであることにも気付かされるであろう。

 一般的に「日本の伝統文化」として総称されるものには、日本列島全域に基盤を持たないもの、あるいは身分・階級的伝統以上のものではないものが多く含まれることは、注意深い人間にとっては自明の事実である。

 一部地域の伝統や、一部階級の生活文化に過ぎないものを、そのような細部に顧慮することなく、つまみ食い的に寄せ集めたものが、通常、私たちの「日本の伝統文化」として呼ばれているものの内実ということなのだ。

 そのように考えた時に、「日本の伝統」と呼ばれていたものが、各地方限定の「伝統」であったり、各身分の生活文化としての「伝統」に過ぎないものであったことが実感されるはずだ。

 ここで、「日本」という括りは解体されるだろう。

 国民国家としての近代日本の形成と共に、その国家を構成する等質な日本人という存在を想定する必要が生じる。「日本」という括り方、「日本人」という括り方は近代という歴史的時間を離れては存在しないのである。

 その近代が生み出した「日本の伝統」という括り方の内実を注視すれば、先に書いたように、実体のないものとしてその正体が見えてくるのだ。

 そこにあるのは、「日本の伝統」という言説の虚構性の発見であると共に、かつての日本列島に存在していた文化の多様性への視点の発見でもあり得るだろう。

 「鯨食」に話を戻せば、日本列島全域を対象として、伝統文化としての「鯨食の習慣」を主張することは虚偽であるが、地域文化としての「鯨食の習慣」は否定される必要はない、ということになる。

 そこからは、一様で一元的な「日本の伝統文化」というイメージとは異なる、地方性に彩られた、かつてこの日本列島に花咲いていた各地の「伝統文化」のあり様が見えても来るだろう。「日本列島」という地理的領域が本来持っている豊かさへの想像力も生み出されるはずだ。

 ところで、ほぼ日本列島全域を対象とした「鯨食の習慣」が全く虚構というわけでもない。

 ある年齢以上の方なら、小学校の給食に登場する鯨は、あの脱脂粉乳と共に、ノスタルジーの対象であり続けていることだろう。

 戦後の日本人にとって、南氷洋捕鯨の収穫物である鯨肉は貴重な蛋白質であったのだ。

 日本による南氷洋捕鯨は、昭和15年に始まる。しかし、あの戦争により中断されるのである。

 この戦前の南氷洋捕鯨の特徴は、鯨肉の確保が目的ではなかったという点であろう。鯨油の獲得と、その消費者であるヨーロッパ諸国での売却による利益を目的としていたということなのだ。

 そもそも欧米の捕鯨業は、鯨油の確保と、ヒゲ鯨のヒゲ(あのふくらんだスカートの中身)が目的であった。鯨油は石油に代替され、ふくらんだスカートはファッショナブルではなくなる。欧米では捕鯨は必要な産業ではなくなるのである。

 一方で戦後に再開された、日本の南氷洋捕鯨は、日本人にとっての蛋白資源の確保という「鯨肉」を対象としたものとして再編されていくのである。

 欧米の捕鯨業者には廃棄すべきゴミでしかなかった鯨肉をも活用し、棄てるところのない生物資源としての鯨の活用が開始されたということになる。

 美味しいと感じたか、不味い給食イメージの代表メニューとして記憶されているかはさておき、戦後の一定の時期においては、ほぼ日本列島全域を覆って、鯨肉食が一般的な食卓風景となっていたこともまた事実なのである。

 それを「伝統文化」と呼ぶことには躊躇せざるを得ないものの、歴史的事実として無視することも出来ないと思うのだ。

 付け加えておけば、南氷洋捕鯨はGHQの許可なしには行われ得なかったのである。捕鯨業自体は忌避、ましてや禁止の対象ではなかったことに注意しておきたい。

 歴史的には戦後の出来事として、日本の南氷洋捕鯨の隆盛がある、ということになる。

 そしてその衰退も、突然の環境変化によってもたらされることになる。

 1972年の国連環境会議のテーマは、それまで予定されていたアメリカ合衆国によるヴェトナムでの枯葉剤使用問題から、捕鯨問題へと変更されてしまう。

 「反捕鯨」の大きな潮流は、この歴史的時点に起源を持つと言うことが出来るだろう。

 「枯葉剤使用問題」から「反捕鯨問題」へのシフトは、もちろん米国政府の利益に合致するし、実際にそのシフトを主導したのは米国であった。

 「反捕鯨」という主張の登場の政治的背景の理解には欠かせない事実であろう。

 「反捕鯨論」には、様々な背景を考えることが出来るわけだが、畜産業者の利害も忘れてはならないだろう。日本人が鯨肉を食べ続ければ、牛肉の消費量は伸びないのである。実際問題として、「反捕鯨国」においては畜産業の比重が高いことが指摘されている。

 様々な政治的経済的利害と、捕鯨(そして鯨食)が残酷であるという文化的イメージの合流点に、その後の反捕鯨運動の出発点があるという理解は、決して荒唐無稽なものではないと考えられる。

 生物資源管理という観点からしても、南氷洋におけるミンククジラの生息数は「絶滅の危機」からは遠いものであり、資源としての利用自体に問題はないはずである。

 「反捕鯨」の主張は、政治的経済的、あるいは文化的(もう一歩踏み込んだ表現をすれば、文化的偏見と言うことも出来る)なものとして批判の対象と成り得るものだろう。

 野生生物を捕食対象から除外すべきという主張もあるが、これでは漁業自体が成立しなくなるだろう。

 再生可能な資源量の確保という課題さえクリア出来れば、野生生物資源の利用自体に問題を、少なくとも私は、感じない。

 人類全体における食料問題を考える時に、鯨肉を食料資源としての可能性から除外することが妥当なことであるのかどうか、その点への考慮も必要に思う。

 ただ、まぁ、無理して鯨まで食べなくても、という気分が生じていることも確かなことだ。

 積極的に主張しようという気持ちは消えてしまった。

 しかし、積極的に食べたいという気持ちが消えたわけではない。

 店頭に鯨肉を見つければ、積極的に買ってしまうのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/02/11 20:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/57804/user_id/316274

 

 

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「大東亜共栄圏」あるいは善意ある加害者という問題

 

 つまるところ、「善意」と「はた迷惑」の親近性とでもいう話となってしまった(昨日の日記の話)。

 相手への想像力、他者という存在がはらむ異質性への想像力を欠いてしまう時、「善意」は「はた迷惑」として実を結ぶことになる。

 たとえばの話、アメリカ合衆国の政策を考えれば、そこに「悪意」を発見することは難しいのではないか。

 独りよがりな善意が、結果として、イラク国民の悲惨な現状を生み出したのだ。

 これはヴェトナムでも、既に経験済みのことであったはずだ。

 アメリカ人を思考パターンを、ヴェトナム人にも当てはめ、心理を予想し、圧力をかけたつもりになっていても、当のヴェトナム人はアメリカ人の期待するようには物事を考え感じたりはしないのである。注意深いシミュレーションをしたつもりになっていても、それはヴェトナム人の思考や感情のシミュレーションではなく、単に自分たちアメリカ人の思考と感情のシミュレーションにとどまっていたということだ。

 ヴェトナム人の戦意を失わせ、成果を生み出すはずの様々な政策及び作戦行動は、逆の結果をしか生まず、失われたのはアメリカ国民の戦意となったのである。

 ヴェトナム人も民主主義を求めていたであろうし、イラク国民もフセイン抜きの民主的な国家運営を求めていただろう。

 しかし、それは、アメリカ軍の銃撃によってもたらされるものではない。民主的な政権は、民主的であればあるほど、アメリカ合衆国政府の期待とは異なる方向の政策を採用する可能性すらあるのである。

 ところが、合衆国政府の想像力は、「民主的」であることの実現を、合衆国の短期的利益に合致する政策の採用としてしか理解出来なかったということだ。

 他者を自らの延長としてしか想像出来なかったことの帰結として、合衆国政府の外交的失敗がもたらされることになる。

 しかも、そこには自国の兵士の犠牲が伴い、それを上回る悲惨さを、ヴェトナム人やイラク人にもたらすものとなったことは忘れるべきではない。

 ヴェトナム人やイラク国民は、本来なら、「善意」の受け取り手であり、「善意」への感謝に満ち溢れているはずであった。

 しかし、現実には、アメリカはそこでは加害者なのであり、ヴェトナム人もイラク国民も、あくまでも被害者であるという関係性が成立してしまっているのである。

 更に悲劇的なのは、ブッシュ政権には、いまだに、加害者という自らの位置付けへの自覚が存在しないというところであろう。

 「被害」と「加害」の非対称性のもたらす問題については、これまでも度々取り上げて来た。

 「加害」というのは、必ずしも当事者の「意思」の問題ではないのである。「悪意」の結果の「加害」とは限らないということだ。

 「善意」は、「加害」への意思とは正反対の方向へのベクトル上の存在であろう。しかし、相手への想像力を欠いた「善意」は、時として、相手にとっては利益ではなく被害をもたらす結果を生み出しかねないのである。

 その時に、相手にとっては、「善意」の持ち主は「加害者」以外の何者でもない。

 かつてのこの国の行為を考える時にも、その問題から目をそらすべきではないだろう。

 「大東亜戦争」と名付けられた戦争のことだ。

 西欧諸国の植民地と化したアジアの解放、そして「大東亜共栄圏」の確立という戦争の名目がある。

 もちろん、そもそもが中国大陸における大日本帝國の、中華民国政府と国民の主権を無視した軍事行動の拡大こそが、大東亜戦争の起源である以上、「アジアの解放」という名目自体がナンセンスであることは、これまでも繰り返し論じて来たことだ。

 付け加えれば、「大東亜戦争」という名称は、対米英戦の開始に伴う閣議決定による大日本帝國政府による正式呼称である。その閣議決定において、対米英戦に先立つ「支那事変」をも「大東亜戦争」の呼称に含めることも明言されている。

 つまり、宣戦布告なしの、他国領域における主権を無視した軍事行動の拡大としての「支那事変」をも「大東亜戦争」の名で呼ぶ以上、そこにあるのは明白な侵略行為に他ならず、「アジア解放」という名目は既に意味を失っているのである。

 しかし、一方で、「アジア解放」や「大東亜共栄圏の確立」というスローガンは、当時の大日本帝國の国民にとっては、戦争の意義付けとしての機能を果たしていたという側面も見落としてはならないだろう。

 皇軍兵士は、「大東亜共栄圏の確立」のために、「アジア解放」のために、中国の国民を殺し、アジア各地で日本軍の占領に同意しない人々を殺し続けることが出来たのである。必ずしも、占領地の人々への悪意が、軍事行動による殺人の動機であるわけではない。「加害者」であることを望んだわけではない兵士の行為が、しかし、被害者を生み出し続けたという点に留意するべきであろう。

 この問題は、単純に考えては、歴史理解として不足を生じるだろう。

 つまり、「大東亜共栄圏」という発想自体に、戦争の正当化イデオロギーのみを見てしまっては、理解としては十分なものとなりえない。

 心情的には、明治期以来の、(白人諸国の植民地と化したアジアの状況の打破を願うイデオロギーとしての側面をも持つ)「アジア主義」の延長線上に生み出されたものであることに注意を払っておく必要がある。そこに、戦争の正当化イデオロギーとしてにとどまらない、受容の基盤があったと考えておくべきだろう。

 国家の支配領域の拡大のみに関心がある層にとっては、ただの名目に過ぎない。しかし、西欧植民地となってしまったアジアへの共感を持つ人間にとっては、自己の善意の現実化への道として理解されてしまうものでもあった。

 結局のところ、「大東亜共栄圏」の現実、大日本帝國による「アジア解放」の現実とは、諸民族・諸国民の対等な関係の実現などではなく、大日本帝國の指導による(大日本帝國の利益が優先された)政治経済的ブロックの実現でしかなかった。

 「アジア解放」というイデオロギーを信じ、前線で戦闘に従事した兵士たちの「善意」が実を結ぶ場所はなかったのである。

 大日本帝國という国家は、前線兵士の善意、銃後の国民の善意とは別の場所に、政治的経済的軍事的利益のありかを見出していた、と考えなければならない。

 そして、国家とは、現実の制度であると同時に、虚像でもあるような存在だ。国家自体に意思があるのではなく、制度としての国家の運営者の意思が、国家の行為に反映されていると考えるべきなのである。

 この場合の国家の運営者とは、一人の人間に集約されるような存在ではない。政治家であり官僚であり軍人であり経済人であり…、つまり、一枚岩の存在などではなく、錯綜した利害関係の結節点での、その都度の意思決定に関与し得た者という程度での理解が妥当に思う。

 「善意」もあれば「打算」もあり、強い意思もあれば妥協もある中での「開戦」であったと考えておくべきであろう。しかし、関与した者は責任を問われなければならない。戦争を推進した者は、そのこと自体によって。開戦に反対であっても阻止出来なかった者は、阻止出来なかったことによって。

 再び、銃後の国民や前線兵士の「善意」の問題に立ち戻ろう。

 いずれにせよ、かつて現実に存在した「善意」を、あの戦争の正当化に結びつけることはナンセンスなのである。

 そこに「被害者」が存在する以上、「善意」の持ち主であれ、そこでは「加害者」として見られてしまうことを受け入れなければならない。

 それは、確かに、当人にとってはつらいことであろう。

 しかし、後続世代が、先行世代の加害者性に目を閉ざしてしまってはならないだろう。それは日本人として、実に、恥ずかしいことだと思うのだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/02/05 20:25 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/57214/user_id/316274

 

 

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多重虚偽の魅力?

 

 R.H.ロービア 『マッカーシズム』 (岩波文庫 1984)を、久しぶりに読み返した。いつぞやの日記で、古本屋で見つけた話を書いた記憶がある。

 書庫のどこかに、かつて読んだ時の購入本が眠っているはずなんだが、「片付けの神」の降臨のない限り、手に取ることは出来ない。

 で、古本屋で見つけて即購入、だったわけだ。リリアン・ヘルマンの『眠れない時代』と一緒に見つけたような気もするが、よくは覚えていない。

 ヘルマンの本も、二冊目だ(書庫のどこかに一冊目は隠れているはず)。

 で、たまたま、知り合いの関係しているコミュニティの「騒動」を身近から観察する機会にめぐりあい、以下に紹介する文章が身にしみた。

  
 マッカーシーが国務省への攻撃を始めて間もない頃、私は『ニューヨーカー』誌の「ワシントン便り」の中で、マッカーシーを取り上げた際、そのもっとも注目すべき新手法の一つを「多重虚偽」と呼び、多くの点でヒトラーの大うそに比すべき技術だと書いた。私は次のように書いた。「「多重虚偽」は特に大きな虚偽である必要はなく、一連の相互に余り関係のない虚偽、あるいは多くの側面を持つ一個の虚偽であったりする。いずれの場合にも、全体が多くの部分で構成されているために、真実を明らかにしたいと思う人は虚偽の全要素を頭の中に入れて置くことが全く不可能ということになってしまう。真実を明らかにしようとしても、人はその中の二、三の言明を取り出して、それがうそだということを証明するかもしれないが、こういうやり方は、取り出された声明だけがうそであって、残りは本当なのだという印象を残すだろう。「多重虚偽」の更に大きな利点は、うそと証明された声明をその後も平然と何べんでもくり返しうるということである。というのは、どの声明が否定され、どれが否定されていないかを誰も覚えていないからである。」……
(145~146頁)

 

 

 私自身が、そういう友人のためにここでコミュニティを作ることに参加し、多重虚偽と闘い、コミュニティを解散したという経験者だ。

 ネット上のコミュニケーションだと、日常の対面的人間関係の中でよりは、「多重虚偽」との闘いは、若干、こちらに有利に働くことになる。

 すべての発言がそこに残されているからだ。口頭でのやり取りでは、「私はそんなこと言っていない」、「私の言ったのは…」と、いくらでも誤魔化しがきく。が、ネット上の発言は、記録として残ってしまう。「消去・削除」という手段もあるが、実際その輩はすぐに行使するのではあるが、こちらで記録・保存してしまえば、都合が悪くなって削除された発言も手元に残すことが出来てしまう。

 ただ、まぁ、巻き込まれれば、時間を取られることは確実だ。検索機能や、コピー機能など、様々な機能が助けになるとしても、巻き込まれないに越したことはない。

 巻き込まれてしまった知り合いは、今、奮闘中である。

 問題の中心にいるのは、「論旨ずらし」という手法に長けた人物のようだ。そして、他人への非難の量はすごいのだが、他人からの問いかけに答えることはない。自分からは質問攻めにしているというのに。まぁ、ヤッカイな相手のようだ。

 この「論旨ずらし」というのは、私のかつての友人の得意技でもあった。論点がどんどん横へ横へとずらされていく。気付くと、当初の問題が何だったのか、もうわからなくなっていたりする。

 議論に費やされるエネルギーが大きい割りに、何も解決されていない。

 対面的コミュニケーションでのお付き合いの間は、これで、相当に消耗させられたものだ。

 ネット上に問題が移行したお陰で、本人以外の関係者の間に連帯感が生まれ、連係プレーさえ可能になる。面白い経験ではあった。

 もっとも、私の場合は、リアルコミュニケーションをそのままネットに持ち込み、結果として、当人が逃げ場を失ったというケースになる。リアルコミュニケーションも同時に存在していたわけだ。

 今、知り合いが奮闘している相手は、ただのネット上でのお相手なので、別に相手を続ける義理はない、はずだ。

 それでも、相手をしているのは、どこか面白がっている要素があるのだろう。実際、「多重虚偽」系人間の共通点は、すべてが思いつき・言い逃れとして始まるというところなので、実は自縄自縛の太いロープを首に自ら巻き続けているという結果をもたらしてしまう。自ら墓穴を掘る状態だ。

 そのお手伝いをするのも、楽しいと感じてしまえば、楽しいのだろう。

 まぁ、あまりに深く墓穴を掘るので、彼は王家の谷のファラオにひっかっけて、ラムセス氏と呼ばれつつある(仲間内でのハナシだが)。

 そろそろ、墓穴の用意も完了したように見えるのだが、どうなるのか、展開を見物中だ。

 で、マッカーシーだ。結局、蒔いた種が芽を出して、年貢を納めることになる。

 しかし、その間、アメリカの外交政策は大きく停滞することになる。マッカーシーのターゲットとされたのが国務省だったからだ。

 冷戦初期のアメリカ外交は、マッカーシズムという大きな障害のために、理性的な判断から遠ざけられてしまっていたのである。

 朝鮮戦争の最中にもかかわらず、マッカーシーの関心は、戦争の行方に、ではなく、国務省内にいるとマッカーシーの主張する共産主義者の排除にのみ向けられていた。マッカーシーは証拠を握っていると主張していたが、その証拠が提出されることはなかった。

 そして、国務省内の人間は、その間、外交の行方を論じることよりは自分が共産主義者ではないことを証明することに没頭させられたのであった。

 ヴェトナム戦争へと帰結する冷戦時のアメリカ外交を考える上で、マッカーシズムによる損失の大きさを無視することは出来ない、なんてことまで考えさせられる。

 多重虚偽の恐ろしい帰結である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/16 00:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/55007

 

 

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負けた戦争の記憶 2

 

 生井英考『負けた戦争の記憶』を読み続けている。

  戦争に「負けた」ことを「受け入れる」ことが出来るのかどうか、という問題として、昨日は、アメリカにとってのヴェトナム戦争と、日本(大日本帝國)にとっての第二次世界大戦(大東亜戦争)を対比して提示してみた。

 日本人にとって、「あの戦争」が「負けた戦争」であることは、疑問の余地がない。

 アメリカと戦争をして負けた。マッカーサーの軍隊に占領されたことは、否定出来ない。

 天皇陛下が占領軍司令官のもとへ出向いていった姿を知らぬ日本人はいなかった。

 負けたのである。アメリカに。誰にとっても自明のことだ。

 しかし、「あの戦争」については別の側面もある。

 1941年の真珠湾攻撃は、支那事変の「打開」を目指したものだった。対米戦争の起源は、対中戦争にあったということだ。

 で、大日本帝國は、支那事変を制することは出来たのかどうか、という問題が存在しているのである。

 もちろん、私の認識は、蒋介石と毛沢東に日本人は負けたというものだ。

 しかし、いまだに、この点は自明の歴史ではない。アメリカには負けたけれど、中国には負けていないという主張は、今でも存在するのである。

 蒋介石と毛沢東に対し、日本軍は勝つことは出来なかった。戦闘での勝利はあっても、戦争での勝利は獲得出来なかった。

 対中戦争(支那事変)で、大日本帝國の軍隊は、蒋介石を降伏させることが出来なかった。蒋介石の軍隊を降伏させることは出来なかったし、毛沢東の率いる軍隊とゲリラ組織を屈服させることも出来なかった。

 つまり、日本軍は勝てなかった。日本人は中国人との戦争に勝つことは出来なかったのである。

 逆に言えば、対中戦争に勝利出来ていれば、対米戦争の必要はなかっただろう。

 しかし、アメリカには負けたけれど、中国には負けていない。そう思うことでプライドを保つことが出来ると考える日本人も少なくはないのである。

 結局、戦争が何であるかが理解出来ていないということだと思う。

 政治・外交での合意困難な問題の決着を戦争でつけること。これは、かつての国際社会での問題解決法の一つであった。戦争は合法的であったということになる。

 しかし、一方で、第一次世界大戦の経験から、総力戦としての近代戦争の惨禍もまた認識されるようになっていた。実際、不戦条約として結実している。

 いずれにせよ、古典的なイメージの下での戦争は、政治・外交の手段のひとつであった。政治・外交の延長としての戦争である。

 重要なのは、戦争は自己目的ではなく、政治・外交の手段に過ぎないという認識なのである。

 戦闘には勝利出来ても、戦争に勝利出来ない戦争であった、対中戦争が対米戦争へと発展し、大日本帝國の敗北に至る過程に存在するのは、蒋介石の政治的・外交的な勝利そのものだ。つまり、大日本帝國は、蒋介石の政治・外交に負け、毛沢東の人民戦争に負けたということだ。

 ただし、このことを認めることは、簡単なことではないらしい。

 日本は蒋介石に占領されたわけではない、という論理が構築される。

 アメリカに対する敗北の明白さは、国土の占領という事実によるものだろう。

 その意味で、ヴェトナムにおけるアメリカをアメリカ人自身がどのように評価するのかという問題に、共有された心情のあり方を見出すことが出来るだろう。

 アメリカは、ヴェトナム人に占領されたわけではないのである。つまり、戦争に負けたわけではない。

 しかし、アメリカは、ヴェトナムのジャングルで米軍兵士の大きな犠牲の上に、何も達成出来なかった。

 もたらされたのは、思いもよらぬことであったが、一種の社会的荒廃であった。

 70年代、ヴェトナム戦争は、存在しない歴史として取り扱われた。つまり、歴史として対象化することが避けられ、言及することさえ避けられた。

 そのあたりの事情が、生井の本では取り扱われているわけだ。

 「負けた戦争」という認識の難しさのひとつは、結局、そこでは、戦死者は「犬死」したことになってしまうところにある。

 「負けた」ことは理解出来ても、戦争自体は正当化されなければならないという心情も、そこから生まれるのだろう。「自虐史観批判」はそんな場所に産み落される。

 「犬死」認識を拒否しようとすると、戦争の正当化が必要になり、「負けた戦争をした責任」を問う回路が閉ざされることになる。

 ヴェトナムとアメリカという主題が、思わぬところで、靖国問題とリンクしてしまう。

 様々なことを考えながら読み続けているところだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/09 00:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/54243/user_id/316274

 

 

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負けた戦争の記憶

 

 生井英考『負けた戦争の記憶』(三省堂 2000)を読み始めたところだ。

 この本については、12月27日の日記「ジャングルクルーズにうってつけな?…年末の一日(http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/52906/user_id/316274)』の中で、既に触れている。

 サブタイトルは「歴史の中のヴェトナム戦争」となっている。

 つまり、アメリカ合衆国がヴェトナム戦争をどのように体験したか、どのような体験としてヴェトナム戦争を描き出そうとして来たのか、時間の経過と国内の様々なレヴェルでの意味づけの変化を追ったもの、とでも紹介すればいいだろうか。

 まぁ、まだ読書中であって、読み終えたわけではないので、今回は、私の視点から印象的だと思ったことについて書いておこうと思う。

 「犠牲者の神話」と題された、第三章からの引用から始めたい。

 ジャーナリストであるアーノルド・アイザックスの1997年の本『ヴェトナムの陰』から、次のような文章が引用されている。

 

 ヴェトナム戦争の記憶が参加した当事者にとって泥まみれのものであるとするなら……戦争が終わってから成人になった世代にとって、ヴェトナムの記憶はより混乱したものだった。彼らの多くにとってヴェトナムは、誰も真実を語りたがらない、惨めで途惑いの多い家族のスキャンダルのように思われた、が、同時に、彼らの過去の一部であるがゆえに理解せねばならないものでもあった。……

 戦争が終わって20年以上が経過し、国内での混乱した議論が展開されたあとになっても、なにがどのように起こり、なにを意味するのかという問題は依然として微妙な問題であった。ヴェトナムは悲劇的な過ちだったのか、それとも「気高き大義」によるものだったのか、戦争は果たして倫理的に誤りのないかたちで戦われたものであったのかどうか――といった大局的な問題について、アメリカには依然として一致した見解がないというだけではない。ごく端的な事実の確認をするだけでも見方はさまざまに分かれていたからである。そのうちのほんのいくつかを挙げてみただけでも、ヴェトナムで駆使された空軍力はどれほどのインパクトと効果があったのか、当時のアメリカの世論はどうだったのか、反戦運動や新聞とTVの報道はどのぐらいの影響を世論に与えたのか、メディアの報道はどこまで正確だったのか、そして世論の動きがどの程度政策決定者の意思に関わりを持っていたのか、等々、実に多彩なものになる。さらには、ワシントンの文官による指示が現地の軍部をどこまで阻害したか、そして戦争拡大の時期(1965年から67年にかけて)に合衆国の軍事力は果たして「勝利した」のか「敗北した」のか、つまり軍事的な成功を測る正確な基準とは結局のところ一体なんなのか――というところまで発展するのである。

 

 アイザックは、「戦争について学ぶ」という章の中で、「高等教育におけるヴェトナム戦争の問題」として、このように述べているのである。

 もう一ヶ所、引用をしておく。

 

 ヴェトナムをめぐって続いた議論は、あの時代とあの場所でなにが起こったのかを正しく知りたいと考えている若いアメリカ人たちの眼を開かせるようなことはほとんどなかった。或る学生が私に語った言い方を借りると、彼女が大きくなるまでに聞かされた戦争についてのすべては「情緒(エモーション)と〔党派的な〕意見(オピニオン)だけで、なにも事実はなかった」のである。アメリカ人があの戦争とその意味を論じつづけているあいだ、エモーションとオピニオンは事実と冷静な追求を圧倒し、覆い隠してしまった。多数の主題をめぐって戦わされた論争の波は、時を経ても収まることはおよそなかった。事実、互いに競い合うあまたの神話は現実の出来事の記憶を追い越し、なかでもいくつかの議論――たとえば戦争報道とそのインパクトについての――はますます党派的になり、多極化し、しかもいっこうに収まることなく、むしろ年を重ねるごとにこの傾向を強めるばかりだった。たとえ〔政府の公文書が情報公開されるといったかたちで〕新しい情報が知らされても、たいていは既存のオピニオンのなかにとりこまれるだけで終わった。「概して」と歴史学者のウィリアム・ターリーはコメントしている、「戦時中にAの意見を持っていた者は戦後も同じことを言い続け、Bの立場にあった者はそれを維持した。要するにめざましく考えを変えた者はほとんどいないのである」と。

 

 

 戦後日本を知る者にとって、そして現代の日本社会の一員として、どこかで聞いたような気にさせられる話である。「聞いた」は、必ずしも、正確な言い回しではないかも知れない。

 私たちの実体験は、そして実感しているところは、やはりそのようなものであった。しかし、このように言語化して語られるのを、あまり聞いた気がしないのである。

 現在に至る、戦後日本の「負けた戦争」への言説のあり方は、まさにそのようなものであった。しかし、そのことが自覚的に語られているのを聞く機会は、あまりないように思う。

 いまだにエモーションかオピニオン、現実にはエモーションそのものとしてのオピニオンでしかないことが多いのではないか。

 しかし、当たり前の話であるが、ヴェトナム戦争と大東亜戦争は別のものである。ここで「別」という言葉に込められた意味は、日本人の誰にとっても、大東亜戦争が「負けた戦争」であることは自明の事実として理解されているということだ。アメリカ人にとってのヴェトナム戦争は、必ずしも「負けた戦争」ではないのである。

 勝利は獲得出来ず、戦争目的も達成出来なかった「戦争」、米国民と米国にとっての「悲劇」ではあっても、「負けた」という形容は、長い間、避けられて来たというのである。

 戦後の日本人の課題は、負けた戦争についてどのように説明するのか、であった。負けた戦争をどのように正当化するのか、あるいは批判するのかが問題の焦点であった。いずれにせよ、戦争に負けたという認識が出発点となるものであった。

 「勝てなかったかも知れないが負けもしなかった」という認識から、「負けた戦争」という認識への距離は近いようで遠い。

 「負けた」という認識の受容の過程、あるいは受容拒否の過程が、『負けた戦争の記憶』の中で語られているということになるのだろうか(まだ読了していないので、ここで言い切ることは出来ないのだが)。

 エモーションでもオピニオンでもない歴史認識のあり方。

 63年前の「負けた戦争」について、いつになったらそのように形容出来る歴史認識を獲得出来るのだろうか?

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/07 22:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/54141/user_id/316274

 

 

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2008年12月 3日 (水)

ミュンヘンのネズミ

 

 フォトページの方に、今年の年賀状をアップしておいたが、その裏話めいたことを書いておこうというのが、正月も3日目の日記となるはずだ。

 ↑ こんなデザイン

 どこかで、少し触れたことでもあるけれど、ネズミ年ということで、ドレの版画のことを考えたのが、12月中旬くらいだったと思う。

 ↑ ドレのオリジナル

”Conseil tenu par les rats (La Fontaine)" de Gustave DORE

 ギュスターブ・ドレが、ラ・フォンテーヌによるテクストのために作製したものだ。

 ご存知のシーンだと思う。

 暴虐な猫に対抗するために、指導者の求めによって開催されたネズミの集会。そこで、猫の首に鈴を付けることを提案する老賢者ネズミ。

 一同の賛同は得られるが、実行者として誰も名乗り出ない。

 アイディアと実行の間にある深い溝という教訓だろうか。

 集会に参加しているネズミの姿。その陰には、子供たちの世話をする母ネズミの姿もある。

 背景として描き込まれた小道具がネズミのサイズを説明している。光の取り扱いも巧い。

 ファンタジーであるにもかかわらず、リアルな光景に仕立て上げられている。

 その版画をトリミングして、使うことにしたわけだ。

 暴虐な猫と、それに手を出せない政治指導者というメタファーとして考えた時に、1938年の「ミュンヘン会談」と「ミュンヘン協定」が連想された。

 ヒトラーの領土要求に対し、英仏の首脳が妥協的な態度を取り、チェコスロヴァキアの解体を(チェコスロヴァキア代表の意思-それはチェコスロヴァキア国民の意思でもある-を問うことなく)決定したという、ヨーロッパ史の一齣である。

← ヒトラー(左)

            チェンバレン(中右) ダラディエ(右)

 賀状では、

 1938年 ミュンヘン会談

 アドルフ・ヒトラーの首に鈴を付けるものはいなかった。

 その代わりに、チェコスロヴァキアがプレゼントされた…

という記述になっている。

 この、英首相チェンバレンの「宥和政策」は、当時は、ヨーロッパに平和をもたらすもの、戦争の危機を回避する政策として、英国民の歓迎を受けている。

 ← 「宥和政策」の立役者、

             英首相ネヴィル・チェンバレン 

 しかし、実際の歴史の進展は、「宥和政策」がまったく逆の効果を生み出してしまったことを告げている。

 それは、軍事的恫喝の有効性をヒトラーに確信させるものでしかなかったのである。

 同時に、ナチスドイツに対し英仏が軍事的対抗手段を取る可能性の低いことも、ヒトラーに確信させてしまった。

 そのことが、翌年のナチスドイツによるポーランド侵攻に始まる、第二次世界大戦への道を用意してしまうことに、結果として、つながってしまったわけだ。

 チェンバレンは、短期的には、ヨーロッパに平和にもたらしたかも知れないが、長期的には(といっても一年にも満たない未来の話なのだが)、第二次世界大戦の惨禍を用意した政治家として評価されることを免れないのである。

 チェンバレンの名誉のために、申し添えておけば、現実的な問題として、当時の英仏の軍事力は、ナチスドイツへ対抗するには非力であったという評価はある。

 しかし、外交的には、「恫喝に屈する」国家として、英仏をヒトラーに評価させてしまったことも確かであろう。

 しかも、小国チェコスロヴァキアの犠牲、チェコスロヴァキア国民の犠牲を無視しての「宥和政策」なのである。

1938――――――――――――2008

という、70年間の歴史の中でのエピソードとして、取り上げてみたわけだ。

 実際の賀状では、2008も斜体ではなかったのだが、「謹賀新年」の文字の左上の2008を斜体でデザインしたのに合わせて、ネット用ヴァージョンでは、賀状の最上部の2008も斜体へと変更してある。

 また、実際の賀状では、本名と共に、住所電話番号も記載してある。

 その分、全体のレイアウトも、若干、変更されているのが、このネットヴァージョンだ。

 デザイン的には、イマイチの完成度というのが正直な自己評価である。

 まぁ、70年前と現在とでは、「戦争」自体が変化しており、当時のような形での、領土獲得を目的とした戦争が先進国間で起きるとは考えにくい。

 しかし、「外交」が、言葉による国家間の勝負であることには変化はない。

 70年前のチェンバレンとヒトラーをめぐるエピソードは、依然として、教訓的ではある。

 現実問題として、軍事力行使への躊躇が生んでしまった戦争の惨禍として、ヨーロッパ諸国では理解されていることも確かだろう。日本における第二次世界大戦の経験が、徹底的な軍事力の否定として語られるようになる「戦後」とは別の戦後がそこにあった。そのことはよく理解されておくべきだとも感じている。

 そんな様々な思いが込められた賀状であるということだ。

 しかし、このところ、毎年毎年、賀状が不吉さを帯びているのは何とかならないものかと思うのだが、やはり、現実が不吉さをたたえたものである以上、いたし方のないことなのであろう。

 こんな賀状、受け取る方はたまったものじゃないだろうなぁ、と思いつつも、こうなってしまうのが、私という人間なのである。

 申し訳ない話だ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/03 17:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/53643/user_id/316274

 

 

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正月突入ポケモン日記…?

 

 既に元日の夜だ。

 初詣にも行かずに、力の抜けた一日を過ごしてしまった。

 夕方には、ヒーターの前で、猫をお腹にのせて寝転がっているうちに、本格的に眠ってしまった。

 猫と過ごす寝正月、が本年のスタートである、ということか。

 子年、つまりネズミの年だ。

 友人からの賀状に、

 -子年の出来事-

 1972年 日中国交正常化、沖縄返還、パンダ来日

 1984年 ピッカピカの一年生♪、お札一新、コアラ来日

 1996年 ポケモン、チョベリグ、EQ~心の知能指数

と書かれていた。まぁ、そんなことがあった年らしい。

 パンダ、コアラの次はピカチュウ来日という感じもしないではない。一応「電気ネズミ」である。つまり、希少動物(?)であることに加えて、ネズミの一種でもある、ということだ。

 だからどうだということになるわけでもないが、そんなことをぼんやり考えたりしている年頭の記録にはなるだろう。

 「ポケモン」登場の頃は、娘が3歳。テレビの前の娘に付き合って、番組も見ていた記憶がある。

 コダックというキャラクターが、娘の母にそっくりだったり、ヤドンという名の怠け動物キャラに自分の姿を見出していたのもその頃の話だ。

 ↑ コダック

 ポケモン、つまりポケット・モンスター、つまり想像上の愛玩(?)動物ということだろう。少年少女が飼いならし、闘わせ、勝負を競う。

 実際に存在する、闘犬、闘鶏が同種動物によるものであるのに比べ、異種動物間の格闘が展開される。トレーナーの少年少女と、それぞれのポケモンが心を通わせながら(?)勝負を勝ち抜き(あるいは敗れ)、ストーリーが展開されていく。

 見ながらの私の感想。

 代理戦争アニメではないか、これは。

 だから大批判を展開しようとかいうようなものでは、もちろんない。まぁ、あくまでも感想である。

 日本アニメ、あるいはコミックには、様々な戦闘渦中のエピソード、戦闘シーンの連続で構成されているものがある。だからいけないとは言わない。

 ただ戦闘シーンが、フィクションの上でも、日常的に消費されているということは確かなのである。

 ビジネスものだって、まぁ、戦闘もののヴァージョンのごとき展開を見せることもある。つまり、生きること、生き抜くことは戦いそのものでもありはする。

 まぁそんなことを考え合わせながら、ポケモンを見ると、代理戦争というイメージがそこに立ち現れてしまうのであった。

 実際に闘うのは、ポケモン同士であって、トレーナーはその背後に控えているだけだ。しかし、勝負の結果は、ポケモン自身の力の評価であると同時に、それ以上にポケモン・トレーナーの力量の発露として考えられているように見受けられる。

 それを「代理戦争」と私は読んだ、そして「代理戦争」と呼んだ、というわけだ。

 文化史的出来事として、将来的に、どのように評価されていくのかはわからないが、ポケモン登場は、日本人の中での「闘い」イメージに新たな一章を書き加えてしまっていたのではないか、なんてことまで考えてしまわないでもないのである。

 と、まぁ、正月元日早々、妄想日記である。

 いずれにしても、ポケモンとの遭遇を我が家は楽しんでいたのであり、コダックグッズやヤドングッズ・コレクションは増え続けたものだ。

 陶器製のコダックの貯金箱や風鈴など、見つけたときには大喜びしたものである。

 つまり、ポケモン=代理戦争をめぐる「感想」も、本気のものではなく、一種のジョーダンであるということになる。けれど、ジョーダンの中に一片の真実も宿っている。そう考えているわけだ。

 実際の戦争の現実、21世紀の戦争の現実を考えた時に、案外、本質を突いているような気もしてきてしまうのである。

 先進国間での、新たな領土獲得、国境線の変更を目的とした戦争は、ほぼ起こりえないだろう。

 戦争の利益がそのコストを上回ることはない。これが第一次及び第二次世界大戦での教訓である。近代戦争=国家総力戦とは、そのようなものだったのである。

 そして90年代以降に、戦争をめぐって顕著になってきた問題がある。

 「少子化」が与える戦争への影響である。

 かつての戦争(国家総力戦)では、数万人規模の戦死者の発生も、国家による戦争の継続に影響を与えることはなかった。が、今やそのような時代ではない。戦争で家族が失うのは、たった一人の息子なのである

 イラク派兵国のイラクからの軍の撤退は、戦死者発生の時点での世論の変化に負うところが大きいことは見逃すことの出来ない事実だと感じられる。そもそもが気の進まぬ派兵であったにしても、撤退の口実が、100人にも満たない戦死者数であることには注目しておく必要があるだろう。

 そのような意味で、「少子化」の下にある、先進国間での戦争は、既に時代遅れのイメージなのだと考えるわけだ。

 その上で、現代における「戦争」として「内戦」という形態、特に途上国における「内戦」の恒常化を考えておくべきだろう。「内戦」に先進国は無縁ではないのである。

 資源の確保・獲得は先進諸国にとっても課題である。その中で、内戦の帰趨は、先進諸国の関心事項でもあるのだ。一方の勢力に加担すれば、そこに出現するのは、文字通り「代理戦争」と呼ぶべき事態なのである。

 しかも、現実の戦闘の中心に民間軍事会社の存在があったりするのだ。これまた別の意味での「代理」であろう。

 先進諸国の「代理」であると共に、内戦当事者の「代理」という側面もあるという指摘も出来そうである。

…と、一度は終わりにしたはずのポケモン妄想が新たな展開を見せてしまうという、思いもかけぬ元日の夜。

 こんな話を書く気はまったくなかったのだが…

 本年もこんな調子で「日記」は続くことになるのでしょう。

 あらためて、よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2008/01/01 20:18 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/53467/user_id/316274

 

 

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ジャングルクルーズにうってつけな?…年末の一日

 

 生井英考『ジャングルクルーズにうってつけの日』(三省堂 2000)を、年末の片付かない部屋の中で読み終えた。

 二週間前に、ほとんど読み終えていたのだが、「エピローグ」と初版・新版の「あとがき」が残っていたのだった。

 初版の出版は1987年、筑摩書房から。1993年に、ちくま学芸文庫から増補改訂版が出ている。それは既に読んでいたのだが、これは「新版」ということで、改めて購入し、読んでみたわけだ。

 新版用の「あとがき」によれば、著者は同年に、同じ三省堂から『負けた戦争の記憶』も出している。そこまで読んで、これは買った覚えがあるぞ(読んだ覚えはないが)という記憶が蘇り、しばらく本棚(というか本の積んである場所)を捜索することになった。

 本は、二階の階段室のタンスの上に組上げたラック上にあった。

 で、まだ読み始めてはいないのだが、『負けた戦争の記憶』という書名からは、読む前からさまざまなイメージを呼び起こさせられる。

 サブ・タイトルが「歴史の中のヴェトナム戦争」だ。ちなみに『ジャングルクルーズにうってつけの日』の方のサブ・タイトルは、「ヴェトナム戦争の文化とイメージ」である。

 アメリカが「負けた」戦争、少なくともアメリカが「勝てなかった」戦争であるヴェトナム戦争をめぐる、文化史的論考である(というか、『負けた戦争の記憶』の方はまだ読んでいないわけだから、歴史的論考であろう、と書くべきだろうか)。

 実際のところ、日本人は、いまだに、かつての「負けた戦争の記憶」との対面に終止符を打つことが出来ていないように思える。

 大東亜戦争は、いまだに、冷静な歴史的評価の対象となっていないのではないか、ということだ。

 日清日露の十万の英霊の犠牲を無駄にしないため、という口実の下に、支那事変の撤兵による事態収拾を拒否し、結果として引き起こされた対米英戦争がもたらしたのは、二百万を超える新たな英霊の犠牲であった。しかもそれは「敗戦」による終結であり、日清日露の両戦争での十万の英霊の犠牲の上に獲得された権益もすべて失っての終結である。

 「負けた戦争」と言っても、犠牲者の規模において、ヴェトナム戦争と大東亜戦争では、犠牲者数の桁が違う。ヴェトナムでのアメリカ兵の戦死者数は5万人規模だという。大東亜戦争で失われた日本軍兵士は185万~250万と言われている(行方不明者の取り扱い等で、幅が生じる)。ちなみに第二次世界大戦全体での(つまりヨーロッパ戦域も含む)アメリカの戦死者数は50万人台である。

 大日本帝國の敗戦は、国土(ここでは、植民地も国土と考えているわけだが)の喪失をも伴うものであった。ヴェトナムでアメリカが失ったものは、国土ではない。それはむしろ文化的なものであった。その相違は大きいだろう。

 もっとも、その意味では、大戦前後で、日本人もまた文化的変容に見舞われているわけではあるが。

 生井は、『ジャングルクルーズにうってつけの日』の中で、ヴェトナム戦争がアメリカ文化に与えた変容を、戦争という行為自体への意味付けの変化の検討も含めて、様々な角度から論じている。

 大東亜戦争という「負けた戦争の記憶」との関連で、いくつかの点について取り上げてみたい。

 「戦争の大義」のないところで闘われた戦争であったというところで、両者は共通している。

 大東亜戦争の起源としての支那事変は、その「大義」のなさが、戦争遂行をする軍部に、そして総力戦としての戦争に巻き込まれていく銃後の国民に付きまとい続けた。

 もちろん、その「大義のなさ」から生み出された対米英戦争も、その出生の経緯ゆえに、実のところは大義を欠いたものではあったのだが、アジア人と白人の闘いという構図の下に、道義の欠落は覆い隠されることになったわけだ。

 ヴェトナムでのアメリカと、中国大陸での日本軍に共通していたのは、どちらも宣戦布告のない中での「戦争」であったということだろう。

 大日本帝國は、それを「事変」という名で呼ぶことで糊塗し、アメリカ合衆国は南ヴェトナム政府への「支援」として処理し続けた。

 そしてどちらもゲリラ戦争という泥沼に足を取られていくことになる。

 「あらゆる量的計測は、われわれがこの戦争に勝っていることを示している」というマクナマラ国防長官の言葉は、言うのも野暮なことではあるが言わずにはいられないくらい、ヴェトナムにおけるアメリカの存在を語る上で象徴的であろう。

 統計的データには、砲火にさらされ、爆撃を受け、住まいを焼き払われ、家族を失った者の気持ちはカウントされていないのである。

 ゲリラ戦争を支えるのは、外からやって来て、自分たちだけの勝手な理屈で軍事力を行使し、生活を蹂躙し続ける者への反発である。それも、大きな悲しみと憎しみのこもった反発なのである。

 大日本帝國の軍人にはそのことは理解出来ていなかったし、ヴェトナムへの介入を深める米国政府及び軍関係者の想像力からも欠けていたものだ。

 その中での兵力の逐次投入からは、決して勝利は生み出されず、泥沼は深くなるばかりとなっていった。

 アメリカは、やがてヴェトナムの泥沼から足を引き抜くことをしたが、大日本帝國は、対米英戦へと突き進み、すべてを失うところまで行ってしまったのである。

 大東亜戦争が大日本帝國にもたらしたものは、軍民合わせて325万人を超える死者であり、国土の喪失であった。「国土の喪失」とは、もちろん国家領域の縮小的変更の受け入れのみのことではない。何より、そこには、国家としての独立の喪失という事態が存在していたのである。

 そして、いまだにそのことへ、きちんと向き合うことが出来ていないのが、この国の、この国民の現実なのである。

 「負けた戦争」の意味、戦争に負けることの意味、負ける戦争をしてしまったことの意味、そこで大きな犠牲者を出してしまったことの意味、自国だけではなく様々な民族・国民に犠牲を強いたことの意味に、いまだにきちんと向き合うことが出来ているようには見えないのだ。

 そしてこれらの問題の多くは、ヴェトナム戦後のアメリカにおいても同様であるようにも思える。

 大義なき戦争における米兵の犠牲の大きさ、その不条理な死、あるいは帰還兵に対する米社会の当初の冷たさ、帰還兵を蝕むPTSDの深刻さ、戦争の過程で生じた倫理観の喪失、様々な意味での白人文化の変容…

 アメリカにおけるヴェトナム戦争の意味とは、基本的にそのようなものであり、戦場とされたヴェトナム人の蒙った被害の深刻さについて、想像力の及ぶことは少ない。

 アメリカの軍事行動は、再検討され、やがて湾岸戦争において、大義ある戦争、宣戦布告ある戦争、国際的に理解を得られた戦争、軍の大量投入による圧倒的軍事力の行使により決着の付けられる戦争として、「負けた戦争」は過去のものとなった、ように見えた。

 湾岸戦争に先立って、当時のブッシュ大統領(現ブッシュの父)は、「ヴェトナムの最後の教訓は、偉大な国家とは、いつまでも長々と記憶に引き裂かれつづけはしないということ」と、その就任式で述べていたという。確かに湾岸戦争で、その予言は果たされたように見えた。

 シュワルツコフやパウエルといった湾岸戦争を率いた軍人たちは、かつてヴェトナムで苦汁をなめた職業軍人である。ヴェトナム戦争で大きなダメージを受けた軍の再建に当たってきたのが彼らであった。湾岸戦争の勝利は、その成功を証明していた。

 しかし、就任式で「ヴェトナム戦争の最後の教訓」について語り、湾岸戦争での勝利という新たな戦争のの体験を米国にもたらした大統領の息子の手により、米国は新たな「負けた戦争の記憶」を経験しつつある。

 イラクにおいて、米国は再び、「負けた戦争の記憶」を作り上げつつあるのだ。

 そこにあるのは、ジャングルではなかったが、砂漠の世界でのゲリラ戦争なのであった。

あらゆる量的計測は、われわれがこの戦争に勝っていることを示している

とは、イラクの状況についてのブッシュ政権の説明に関しても、何度も聞いたような気にさせられるセリフである。

 幸いなことに、我々日本人にとっては、大東亜戦争の記憶が「負けた戦争の記憶」の最後のものとなっている。

 しかし、日本政府が、

あらゆる量的計測は、われわれがこの戦争に勝っていることを示している

という類の米国政府のセリフに同意し続けてもいることが、何を意味してしまうかについては、もう少し注意深く考えておくことが、日本人には必要であろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/12/27 23:58 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/52906/user_id/316274

 

 

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「ハイル・テンノーヘイカ!」から「ハイル・ブッシュ!」へ

 

 結局、プレゼントの用意のないままのクリスマス当日となってしまった。

 というのは我が家での話だが、まぁ誰も文句は言わない。これも我が人徳ということだろう(もちろんジョーダンですよ←ネット上には、実際、ジョーダンのわからぬ輩が徘徊していることは確かなので、念のために野暮を承知で書き加えておくことにする)。

 とまぁ、書き出してしまったわけだけど、先ほど、たまたま、にんにんのところにお邪魔して日記を読んだついで(?)に、プレゼントを置いて来たのだ。

 そこで、同じプレゼントを、この日記を読むハメに陥っている皆様にもお届けしようと思う。

 これ→ http://jp.youtube.com/watch?v=luLGWaEVJhs&feature=related だ。

 まぁ、ちっともおめでたくもないものだが、よく出来ていると思う。

 ブッシュ×ヒトラーネタの動画は沢山あるのだが、その中でも時にこれは秀逸だと思っている。それぞれの画像の解像度が統一されていれば、文句の付け所はないだろう。とまぁ、わざわざ文句をつけてみたわけだが、これは野暮と言うものだ。実際、実に簡潔に、ブッシュ一味の現実を印象深く表現している。

 ところで、2週間前の日記「ハイル・テンノーヘイカ!!…??」http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/50979/user_id/316274

を覚えておいでだろうか?

 実はその後も、アニメと戦争プロパガンダについて、同じ動画サイトからいくつかの画像を見つけては楽しんでいた。

 その中から、ポパイを2つ。

Popeye - Seein' Red, White 'n' Blue (1943) http://jp.youtube.com/watch?v=K35hQON3PY8&feature=related 

POPEYE the SAILOR in "Your a Sap Mr. Jap  http://jp.youtube.com/watch?v=wEK45-_5y0s&feature=related

 どちらにも日本人が登場するのだが、出っ歯にメガネに鼻の下のヒゲというステロタイプイメージだ。

 このイメージは、実際、日本人一般であると共に、昭和天皇であり東條英機の実際の姿の反映とも言えるだろう。

 しかし、そこはかとなく、人種差別の匂いも感じてしまうのであったが…

 次の画像をご覧いただきたい。

Our Enemy -- the Japanese (1 of 2)  http://jp.youtube.com/watch?v=JBxYy9rOVEk&feature=related

Our Enemy -- the Japanese (2 of 2)  http://jp.youtube.com/watch?v=t7vz-WDyK3k&feature=related

 アメリカ政府による公式フィルムということになる。米海軍向けの教育フィルムのようだが、冒頭に登場するのが駐日大使であったグルーである。

 グルーの解説により、日本人がどのような存在であるかが紹介されていく。

 皇居前で天皇に拝謁する日本人の姿が、冒頭ほどなく出て来るのだが、そこで私たちは、メガネに出っ歯のヒゲ男の姿に出会ってしまうのである。

 もっとも見続けていくと、そんな男ばかりが日本人ではないことも理解出来るはずだ。

 そして、見続けていて感心させられるのは(我がつたない英語力という留保は必要ではあるが)、グルーのナレーションは日本人、日本社会、日本文化についての事実をたんたんと伝えているだけという印象を与えるということだ。

 見ていて社会学的あるいは民俗学的に貴重なフィルムを見ているのだという気持ちにさせられる。

 同じフィルム素材を用いて、当時の日本人がナレーションを付けたとしたら、もっと勇ましい言葉が同じ画像を背景に並ぶに違いない。そんな印象さえ受けてしまう。

 しかし、実際に、これが米国海軍軍人の教育用フィルムの内容なのである。敵愾心を煽り、戦意高揚を図る前に、敵である日本人をまず理解しておこうという姿勢があることを認めざるを得ない。

 同時に、第二次世界大戦後の米国から失われてしまったのが、そのような情報評価への姿勢なのではないか、ということも感じてしまう。

 そしてその果てにあるのが、この日記の冒頭でご紹介した、「ハイル・ブッシュ!」の画像ということになる。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/12/25 23:38 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/52704/user_id/316274

 

 

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ハイル・テンノーヘイカ!!…??

 

 ドナルド・ダックが、「ハイル・テンノーヘイカ!!」と叫んでいるシーンを見つけてしまった。

 Der Fuehrer's Face というタイトルのアニメに件のシーンがある。(http://jp.youtube.com/watch?v=cdpSU-UWkso&feature=related

Image:Derfuehrersfaceposter.JPG 

 ↑公開時のポスター

 1942制作、1943年公開のディズニーアニメだ。1943年度のアカデミー賞受賞作品でもあるらしい。

 タイトルは、アニメの中で歌われている当時のヒットメロディーから取られている。オリジナルは、スパイク・ジョーンズとシティ・スリッカーズによるものらしい。

 ナチス好みのメロディーラインに、ナチへの皮肉を込めた歌詞が付けられている(通称、ナチ・ソング)。

 スパイク・ジョーンズは、いわゆる「冗談音楽」の元祖として有名な通りで、これも音楽自体がナチへのパロディーになっている。

 そんな、音楽に、ナチ世界の住人となってしまったドナルド・ダックのエピソードがアニメーションとして展開される。

 ナチの格好をした5人組のブラスバンド(軍楽隊)が演奏をしながら行進をしているところから始まる。

 バンドのメンバーには、ゲーリングに加えて、メガネでヒゲに出っ歯の日本人らしき男(どうも、これが昭和天皇らしい)、ムッソリーニも参加している。

 "WHEN THE FUEHRER SAYS, WE ARE THE MASTER RACE!..."

というような歌詞(ナチの信条)に、行進曲風のメロディー。あらゆるものがハーケンクロイツ型にデザインされた町(街路樹までもハーケンクロイツの形に剪定されている)を行進していく。

 やがて、ドナルド・ダックの住む小屋に到着する。

 ハーケンクロイツデザインの目覚まし時計に、ヒトラー顔をしたハト時計。起こされたドナルド・ダックは、壁にかけられた3枚の肖像画に挨拶をする。

 真ん中の上にあるのがヒトラーの肖像。「ハイル・ヒトラー!」とナチ式の敬礼。次いで左下方にある日本人風の肖像画に向かって「ハイル・テンノーヘイカ!」。最後に右下のムッソリーニに向かって「ハイル・ムッソリーニ!」と叫ぶのだ。

 正直なところ、このシーンまでは、日本人風の人物が昭和天皇であるとは気付いていなかった。ステロタイプな日本人イメージ(出っ歯にヒゲにメガネ)、せいぜいのところ東條英機くらいいに解釈していたので、いささか驚かされたものだ。

 しかし、考えてみれば、ヒトラーもムッソリーニも国家のトップであるわけだから、大日本帝國のトップが昭和天皇としてイメージされているのも当然のことなのではあった。

 アニメ自体は、味気ない朝食風景(ベーコンエッグの香りの香水にのこぎりでなくては切れない固いパン)、そして軍需工場で働くドナルドダックのエピソードへと続いていく。事あるごとに、ハイル・ヒトラー!をさせられながら、弾丸の組み立てに従事するドナルド・ダックの姿。

 休み時間にはバケーションタイムと称して、風光明媚な景色の垂れ幕の前でナチ式体操が待っている。

 あまりに過酷な労働に、精神の平衡を失ってしまうドナルド・ダック。

 しかし、悪夢から醒めてみれば…

 最後にはアメリカ礼賛で、アニメは閉じられる。

 同じ動画サイトで発見したワーナーブラザースのアニメも紹介しておこう。

Tokio Jokio http://jp.youtube.com/watch?v=3_km9IFzzHo&feature=related)は1943年作品。。

 日本映画社で製作されていた「日本ニュース」のパロディーとなっている。つまり、大日本帝國のプロパガンダ映像のパロディーなのである。

 こちらには、昭和天皇ではなく、東條英機をモデルとしたらしいプロフェッサー・ト―ジョーが登場する。

 ディズニーの昭和天皇にせよ、ワーナーの東條英機にせよ、顔が似ているとは思えない。どちらもステロタイプな日本人イメージを出ない感じだ。

 ドナルドダックに出てくる、ヒトラー、ムソリーニ、そしてゲーリングも似顔となっているのに比べて、扱いの低さ、あるいは関心の低さを感じる。人種差別意識とまで言えるのかどうかは微妙に思うが、解釈次第というところか?

 動画サイトのアニメ画像には他にも、まだまだ戦中の作品がある。戦争とアニメ、戦争プロパガンダとしてのアニメというのは、興味深いテーマであるように思う。

 ここでは、ドイツの日本の事例をご紹介しておこう。

 ナチスの戦中アニメ(http://jp.youtube.com/watchv=WIlr_rZKR4c&feature=related)「Cartoons from III Reich」紹介画像と、大日本帝國のアニメ(昭和19年制作、昭和20年4月公開)、

 「桃太郎 海の神兵」の冒頭(http://jp.youtube.com/watch?v=jDLHJDaq9bg

とラスト(http://jp.youtube.com/watch?v=dyjPzoEOvdM&feature=related)。

 そして、ワーナー作品とディズニー作品からの借用映像に、スパイク・ジョーンズのオリジナル音楽を付けたもの(つまり、画像サイト用オリジナル?)。

http://jp.youtube.com/watch?v=6J-1p_xX2TU&feature=related)こちらのタイトルは「A film about Hitler's face」となっている。

 あやうく、当時の作品として紹介してしまうところだったが、当時のアニメ画像を編集し、当時の音楽(スパイク・ジョーンズのオリジナル)を付けたものであることにご注意を願いたい。しかし、よく出来ているので、ご参考までに。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/12/09 21:14 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/50979/user_id/316274

 

 

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戦争を語り継ぐ、ということへの入り口

 

 本日は、参加しているMLコミュニティ「戦争を語り継ごうML」のオフ会に行って来た。

 家族全員で、出かける。娘も一緒。最年少参加者となった。

 私も含めての戦後生まれから、疎開体験世代、東京大空襲体験者、ビルマ戦線従軍体験者、戦闘機隼パイロット等々の、戦争との関係の仕方も参加者それぞれという集まり。最高齢者が確か86歳、ということはウチの娘とはなんと72歳の開きがあることになる。

 話の内容は様々だったので、今日の日記でレポートするには、無理がある。

 しかし、当事者の話を直接伺うことの意味の大きさは、よぉく理解出来た。

 書かれ残された記録をきちんと読むことは大切なことだ。しかし、記録として書かれず、たとえ書かれても残っていないということは、ある出来事が歴史的に存在しないということではない。

 生きた当事者が目の前にいるということの大きさは、対話が可能であるという点に尽きるだろう。記録に書かれていないことを記録に対して問うことは出来ない。しかし、目の前の当事者・体験者には、問うということが出来るのである。

 当人にとって当たり前のことは、わざわざ話さないことがあるものだ。しかし、相手にとっては新鮮な話題であり、問うことが始まり、記録上は存在しないことも新たな語りの対象となりうるのである。

 読書の大事さ、資料の読み込みの重要さと同時に、対話を通して、まだまだ隠れたままになっている出来事の多くを、歴史のフィールドに引き出す作業を続けることの価値を、あらためて実感させられた一日となった。

 とにかく、世代間の差の大きさを考えると、先行する世代にとって当たり前過ぎて問題とならないようなことでも、後続世代は何も知らないというようなことが現実なのだということを、互いに自覚しておかなくてはならない。

 人間自体は決して賢くなどならない(生物としてのヒトとしての変化など無いと考えなければならない)のだから、少なくとも、この数十年の日本人の経験くらいは、自覚的に、自らの視野に取り込んでおくための努力はしておきたいものだと思う。愚かさにおいてはそう変化は無いかも知れないが、それでも、愚かさゆえの過ちが少しだけは減少する可能性が生まれる。

 そういえば、本日の会場は本郷の東大赤門近くの「わだつみのこえ記念館」だった。今回は展示をじっくり見るゆとりがなかったので、また、あらためて、ゆっくりと再訪したいと思っている。

 しかし、昨日は駒場、今日は本郷と、なぜか東大に縁のある休日だったなぁ、と最後に私的な感想を付け加えておくことにしよう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/12/02 22:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/50144/user_id/316274

 

 

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「無差別爆撃の源流」をめぐって

 

 これ等の空爆を通して、一つの顕著な事実は、日本人が都市爆撃につき、決して米国の無差別爆撃を恨んでも、憤っても居らぬことである。僕が「実に怪しからん」というと、「戦争ですから」というのだ。戦争だから老幼男女を爆撃しても仕方がないと考えている。「戦争だから」という言葉を、僕は電車の中でも聞き、街頭でも聞いた。昨夜も、焼き出されたという男二人が、僕の家に一、二時間も来ていたが、「しもた家が焼かれるのは仕方がないが、戦争なんだから。工場が惜しい」と話していた。日本人の戦争観は、人道的な憤怒が起きないようになっている。

    清沢洌 『暗黒日記』  昭和二十年四月十六日

 

 本日は、「無差別爆撃の源流 ― ゲルニカ・中国都市爆撃を検証する」と題された、「東京大空襲・戦災資料センター 戦争災害研究室」主催のシンポジウムに参加して来た。

 冒頭に紹介した清沢の日記の一節は、会の冒頭で、司会役の吉田裕さんによる問題提起の中で触れられていたものだ。

 当時の日本には、市民に対する攻撃も、「戦争だから」という形で容認する風潮が存在していたことがわかる。

 清沢の日記は、昭和20年になって、日本が受けることになったB29による都市無差別爆撃の経験の最中で書かれている。

 支那事変から大東亜戦争へと続けられた大日本帝國の戦争は、その終末期である昭和20年には、本土の各都市が米軍による無差別爆撃の対象とされる事態を経験していた。

 そして、老幼男女が爆撃の犠牲となることに対して、多くの日本人が「戦争だから仕方がない」という受け止め方をしていたということが、清沢の記述から理解されるのである。

 昭和12年に始まる、いわゆる支那事変の進展と共に、大日本帝國陸海軍航空隊による、中国の都市への無差別爆撃が敢行されていた。陸上戦闘に伴う空軍力の対地支援としての爆撃ではなく、戦闘地域を離れた都市(の民間人)を目標とした爆撃としての「無差別爆撃」は、既に大日本帝國の軍事行動において採用されていたのである。

 昭和20年になって、本土の日本人が味わうことになった無差別爆撃は、それまでの大日本帝國の軍事行動から見る限り、非難の対象とされるべき行為であるとは思われていなかったのだろう。であるからこその「戦争だから仕方がない」という認識であるはずだ。

 問題の、大日本帝國陸海軍航空隊による無差別爆撃として、昭和13年2月に開始される重慶への都市爆撃の研究報告が、シンポジウム後半の二つの報告のテーマだったのだが、前半の報告ではヨーロッパも視野に入れた中で、「無差別爆撃」の問題が取り上げられていた。

 ひとつが、シンポジウムの表題にもあるゲルニカ爆撃であり、「ゲルニカ―無差別爆撃のルーツ」と題した荒井信一さんの報告があった。

 1937年4月26日、フランコによるスペイン共和政府への反乱へ協力するドイツ・イタリアの航空機部隊が、バスクの町ゲルニカを爆撃したのである。

 当時の記録資料から、その日の軍事行動が偶発的なものではなく、事前に無差別爆撃として計画されたものである可能性を立証出来ることが報告されていた。

 木造建築に対する焼夷弾攻撃として、作戦が当初から立案されていたことが窺われるのである。

 私としては、焼夷弾の開発に当たっていたのが、I ・G ファルベン社であるという説明に興味を覚えた。同社工場に労働力を供給するために作られたのがアウシュヴィッツの第三収容所であるからだ。本題からは離れた感想であるが、書きとめておきたい。

 もう一つの報告が、「リーフ戦争からスペイン内戦へ―生存破壊のための空爆とその衝撃・記憶・謝罪―」と題された、深澤安博さんによるものだ。この報告によれば、無差別爆撃は1920年代にスペイン領モロッコで既に行われていたというのである。

 そこでは、スペイン軍航空機により毒ガスも頻繁に使用されていたというのだ。

 そこで出てくる視点が、無差別爆撃という手法と、それに結びついた毒ガス使用のはらむ問題ということになる。

 ここでは、植民地における軍事行動での、非軍事目標に対する躊躇のない毒ガス使用という問題(30年代にエチオピアではイタリアも使用)から、「帝国主義的な人種殺害の所産」としての東京大空襲をはじめとした日本本土の都市への無差別爆撃、という観点が導き出されることになる。この観点は、日本に対する躊躇のない原爆使用の説明として説得力があるだろう。

 もちろん、都市無差別爆撃という問題を、人種差別からのみ説明することは出来ないだろう。

 都市無差別爆撃の無慈悲な実行者は英国空軍であり、対象となったのはドイツだからだ。

 そのために、爆弾搭載量の大きい四発の重爆撃機を開発し、実際に都市無差別爆撃の手段として広範囲に使用したのが英国空軍なのである。

 ただし、記憶によれば、英国空軍爆撃機部隊の司令官として都市無差別爆撃を推進したアーサー・ハリスの経歴には、植民地での勤務があったように思う。その意味では、ハリスの手法の背後には植民地勤務の経験があり(すなわち人種主義的な発想があり)、その経験がドイツに対する都市無差別爆撃という選択に結びついていた可能性を考えることは出来そうである。

 もちろん、都市無差別爆撃には別の重要な側面もあるだろう。近代的総力戦の中での出来事であるという理解である。

 総力戦においては、戦争は前線の戦闘部隊のみの問題ではなくなる。前線の軍隊間の戦争ではなくなり、実際問題として国民同士の戦争になってしまうのである。

 たとえば、昭和19年8月4日、小磯内閣は、

軍官民を問はず一億国民が真に一丸となつて戦闘配置につき、本格的戦争態勢を確立することにこそ現下の急務

との認識の下に、「一億国民総武装」を閣議決定している。「閣議決定」は法的拘束力は持たないにしても、「軍官民を問はず一億国民が真に一丸となつて戦闘配置につき、本格的戦争態勢を確立すること」という文言には、総力戦という近代戦の現実が反映されている。

 支那事変以来の「国家総動員体制」そして「高度国防国家」の形成という国家目標を考えた時に、そこに軍官民の別は消滅してしまう。

 都市無差別爆撃は、国家総動員体制そして高度国防国家という理念に既に含まれていたものではないのか。

 清沢の紹介する空襲犠牲者達の言葉は、そのことを物語っているようにも思えるのである。

(本日の日記、シンポジウム内容の紹介というよりは、私の感想に傾いていることをお断りしておきます←特に後半)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/10/20 22:02 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/45744/user_id/316274

 

 

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「世界の表象 オットー・ノイラートとその時代」展を観る

 昨日は、武蔵野美術大学の美術資料図書館で開かれている、展覧会「世界の表象 オットー・ノイラートとその時代」に関連して催されたシンポジウムを聴きに行って来た。

 といっても、オットー・ノイラートが何者であるのか、ご存知の方は少ないと思う。実際、私も知らなかったのである。

 しかし、統計データに添えて、例えば全国の都市の人口なら、地図上に人の形の大きさでそれぞれの都市の人口を示す手法には、なじみ深いものがあるだろう。牛乳生産量なら、牛の数、あるいは牛乳瓶の本数により、生産量そのものも各地方の生産量の比率も一目で理解されるような図。

 あの、今では当たり前になっている手法の生みの親が、オットー・ノイラートなのである。

 アイコンのデザインや、ビルの中の様々な絵文字の類(トイレの場所とかエレベーターの場所とかを表示する)もまた、オットー・ノイラートのアイディア抜きには、現在のような形では存在しなかった、というように考えることが出来る人物、なのだ。

 ただし、彼自身はデザイナーではなく、彼のアイディアの実現には、版画家でもあったゲルト・アルンツの存在もまた欠かすことが出来ない。

 アルンツにより、あのミニマムな形象がデザインされ、それが継承されることにより、現在では、まさに比喩以上に「絵文字」として流通している様々なヴァリエーションに出会うことが出来るようになっているのである。

 ノイラート自身は、戦間期に、当初はウィーン、後には亡命先のオランダそしてイギリスで活動した、思想家であり運動家であり…と様々な肩書きで語られる人物である。

 労働者階級に世界を理解させること、それが彼の課題のひとつであった。

 統計データによる世界理解。その手段としての展覧会。

 統計データが視覚的に理解出来ることが、そこでは望まれる。

 数字の羅列、あるいは文章による説明では、労働者階級に様々な統計データを通して世界を理解させるという目標には到達出来ないだろう。

 そこで、統計データの視覚化が課題として浮上する。

 そこに版画家アルンツの手法が生きて来るのである。

 版画家としての作品の特徴は、表情を欠いた人物の姿である。シンプルな白と黒の世界に住むシンプルに表現された人物達。抽象化されていながら(それが表情を欠いた姿に映る)、具体的に(それぞれに服装などを通して)どのような階層や職業の人間であるかが理解出来る表現。

 その版画表現が、ノイラートの目的にマッチしていたということになる。

 その手法を、当初はウィーンメソッドと呼び、亡命後はアイソタイプと名付けた。

 その手法は、現在の私達にもありふれたものとして目に触れるように、戦間期の世界でも既に広がりを見せていた。

 ナチスドイツの経済政策の啓蒙書、ソビエト連邦のプロパガンダ、ニューディールの宣伝出版物にも取り入れられていたのである。

 世界を視覚的に理解させること、それを政治が国民に要求する時、欠かすことの出来ない手法となっていったわけだ。

 私にとって興味深いことは、ノイラート達の焦点の一つは、インターナショナルな表現の可能性の追求にあったように見えることだ。

 つまり、20世紀の人間が見れば、それが男性であるか女性であるか、トラクターの生産量であるのか自家用車の生産量であるのか、一瞥して理解される表現であったということである。国境を越えても流通しうる視覚表現(絵文字)としてのアイソタイプというわけだ。

 まず、近代化された世界、近代化されつつある世界というものを考えた時に、国民の登場という歴史上の出来事を理解しておくべきだろう。

 国家の主権者としての国民の登場である。つまり、エリートのみが国政に参与する体制である限り、世界理解、統計データの理解をも含む世界理解は、エリート集団内での必要事であったに過ぎない。被支配者としてのマジョリティーには縁のない世界であったのである。

 そのマジョリティーが国民として編成し直されるのが、近代化と呼ばれる過程での出来事である。マジョリティー(現実には階級としての労働者達)にも、世界理解、統計データの理解をも含む世界理解が必要事となっていくのである。

 その課題を前にして、生み出されたのが、ノイラート達によるウィーンメソッドでありアイソタイプであった、ということになる。そして、ここでは詳しく触れられないがポール・オトレと共に目指した「世界博物館」への活動の重要性も忘れられてはならないだろう。

 これはノイラート達が、労働者階級の利益の側で活動したということをも意味するものだ。

 先に興味深いと言ったのは、第一次世界大戦後のその時代は、同時にナショナリズムの時代でもあったということである。

 民族自決原則の下に、中部ヨーロッパには多くの国家が誕生している。

 国民の登場、労働者達マジョリティーの国政への関与の開始時期と、民族国家の登場は重なっているのである。

 その時代の渦中で、インターナショナリズムを掲げたノイラート達の姿、その活動は、ナショナリズムとの対決を迫られざるを得ない。

 やがて世界はナショナリズムそのものの表現である第二次世界大戦へと突入し、ウィーンからの亡命先であったオランダもドイツ軍の侵略の対象となり、ノイラートは再び亡命せざるを得なくなるのである。

 ナショナリズムの現実との対決は、インターナショナリズムの必要性という信念をより強くさせたに違いない。

 そのような意味で、まさに時代の生んだ表現、時代の必要とした表現として、「世界の視覚化」が位置付けられるだろう。インターナショナルな表現、規格化された表現の試みとしてのウィーンメソッドでありアイソタイプであった。

 その実物資料の数々に出会うことが出来るのが今回の展覧会である。

 展示の構成自体が、ノイラート達の展示理念の再現ともなっており、見事なものであった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/10/08 22:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/44467) 

 

 

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オランダ人にとってのナチスの強制収容所と日本軍の収容所という問題への入り口日記

 

 10月も一週間経過。

 大金欠終了以来、買い物づいている。

 パソコンディスプレイ兼用の26インチテレビ。

 収納用ワゴン。

 デジカメ。

 そして、本日はパソコン本体。

 デジカメ購入に新宿まで出かけた際に、オーディオ関係のカタログを持ち帰ってしまった。危ない。

 まぁ、残りの金の使い道は限定されている状況なので、これ以上、むやみに買い物する状況にはないのだが、二階のオーディオセット①のアンプとCDプレイヤーの不具合を考えると色気が出てしまう。

 今後は衝動に注意、だ。

 6月以来、仕事の異動(?)で、帰りが遅くなったが、読書時間は確保出来てしまった(なんてステキな仕事でしょう!!)。

 ので、これまで読めなかった、あるいは読み返しておきたい、厚めのハードカバーを読むということをしている。

 結果として、このところ、ナチズムと強制収容所をめぐる本を読み続けている。

 今週は、お酒パーティーの余波で、眠くて眠くてなかなか読み進められなかったが、エミリ・コーエンの『強制収容所における人間行動』を読んでいた(今、手の届くところにないので、出版年等は記せないが、岩波書店の刊行で、清水幾太郎が翻訳者の一人だったはずだ)。

 著者はオランダ系ユダヤ人で、自らもアウシュヴィッツを体験している。

 1950年代の初めに書かれた本だ。

 以前に一度読んでいたのだが、あらためて再読しているわけである。

 強制収容所体験をフロイト理論を軸に読み解いている部分は、さすがに時代を感じさせるが、オランダ系ユダヤ人ならではの視点が、私達日本人には興味深いと思われる。

 つまり、ユダヤ人としてのナチスの強制収容所体験に対比されているのが、オランダ人の日本軍の収容所体験なのである(〔追記〕として、同書本文からの引用と、若干のコメントを書き加えておいたので、参考にしていただきたい)。

 飢餓状況や、虐待の実態、収容者のおかれた心理的状況などが、ナチスの強制収容所体験と日本軍の収容所体験者の報告により、描かれている。

 比較すれば、ナチスの強制収容所の過酷さは言を俟たない。

 ナチスの強制収容所がユダヤ人に果たした役割とは「絶滅」なのであるから。

 到着直後の「選別」により、労働不能者とみなされればガス室行きであり、労働適格者も「労働による絶滅」の対象とされるのである。

 終日の直接的な暴力と虐待に加えて、長時間労働と、栄養の決定的な不足、そして極度に低劣な居住条件。到着後の数ヶ月で、ほとんどの収容者は死を迎える。

 そのような意味では、日本軍の収容所は、収容者の「絶滅」を目的としたものではなかった。

 しかし、良い待遇が与えられなかったことも確かである。大日本帝国の軍隊自身が、補給面で過酷な状態に置かれていたのである。

 捕虜に対する国際法に関する無理解と相俟って、収容者の待遇への配慮は期待出来ないものであった。

 コーエンの本を読むことによって、普段、思い浮かべる機会のない、日本軍によるオランダ人の収容という事実が、問題として浮上するのである。

 オランダ人の収容というのは、軍人だけが対象となったのではなく、一般市民も収容所に収容されたのだ。そこから、オランダ人の少女が従軍慰安婦として、日本軍人の性欲処理の犠牲となったのである。

 コーエンの本には、もちろんそのようなことが書かれているわけではない。

 しかし、記述を追うことにより、ナチスの強制収容所体験が、オランダ人にとっては日本軍の収容所体験と共に語られていることに気付かされるのである。第二次世界大戦の被害体験として、ナチスの強制収容所と日本軍の収容所が、いわば、同列に位置していることに、気付かされてしまうというわけだ。

 普段、意識に上ることが少ないことであるので、ここで読み返したことを幸運に思う。

 「飢餓」をめぐる記述では、ナチスの強制収容所、日本軍の収容所と共に、ドイツ占領下のオランダで発生した飢饉も事例として論じられている。占領下のオランダもまた、過酷な状態にあったのだ。

 今回は、深く論じるところまでは取り上げられないが、最近の読書報告である。

 

 

 

〔追記〕
 E.A.コーエン 『強制収容所における人間行動』 (岩波書店 1957) 
 原著書は1953年のものであり、訳者は当時の学習院大学社会学研究室の、清水幾太郎、高根正昭、田中靖政、本間康平であった。

 実際に書中の当該箇所にある記述は、

 
 又、ドイツの強制収容所における抑留者の死亡率が高かったことは、いくつかの日本の抑留所における死亡率と比較してみても明らかである。クーヴェナールとその同僚は、北部及び中部スマトラにあった幾つかの収容所に関する、次のような数字を示している。

 収容所名 収容者総数 死亡者 期間
 パダン-バンキナン(男子) ±850名 124名 1942-1945年7月
 パダン-バンキナン(女子) 2200名 165名 1942-1945年7月
 ソエンゲイ・セングコール 675名 7名 1943年3月-1944年9月
 ベラウァン・エステート 675名 20名 1943年7月-1944年9月
 スィ・レンゴー・レンゴー 1850名 115名 1944年10月-1945年8月
 パカン・バローエ 4800名(重労働に使役されていた捕虜の数) 696名 14ヵ月間
 (スィ・レンゴー・レンゴーはソエンゲィ・セングコール収容所とベラウァン・エステート収容所とを合体したもので、ほかに他の収容所から送られてきた数百名の抑留者が加えられた)

 ドイツの強制収容所と上述の日本の抑留所との間には、明らかに著しい相違があった。クーヴェナールたちが述べているように、「はじめの二年間、抑留者の死亡率は通常の死亡率と比べて、目にみえて高いものではなかった」。これに反して、ドイツの収容所では、収容後のこの僅かな期間内に、少数の抑留者が生き残ったにすぎない。
 この死亡率の相違には、さまざまな原因が考えられる。日本の抑留者の死亡率は、日本軍当局が、保存食糧を含めて、抑留者に私物の所有を許可したという事実によって大きく影響されていた。又、永い間、抑留者が自分の食糧を買うことができたという事実や、若干の収容所では、抑留者に自分たちの消費のために食糧を耕作することが許されていたという事実も見逃せない。
 これに反して、ドイツの強制収容所の抑留者は、恐るべき条件の下で生活していた。この恐るべき生活条件が死亡率の高かった第一の原因に違いないと、私は信じている。食糧は悪く、衣服は不充分であった。また、気候変動は厳しく、労働は極めて過酷であった。その上、抑留者はひどい虐待を受けていた。
 もちろんこのような死亡率の相違は、すべての日本の収容所に当てはまるものではないであろう。ビルマで鉄道の敷設に使役された労働者の収容所における死亡率が、ドイツの強制収容所の死亡率に近いものであったことは、各種の報告からみて充分ありうることであった。
     (第二章 「強制収容所の医学的側面 死亡率」 53~54頁)

 

 ファン・ヴルフテン・パルテは、日本の敵国人収容所で次のように観察している。「最悪の状態、すなわち、真の飢餓状態になると、精神的な動揺の激しさや頻度は、きわめて著しく亢進した。精神病者はまったく統制不能になり、多くの精神分裂病の患者は死亡し、残りの患者も一層深い昏迷(なんらの意志的表現も見られず、外部の刺激に対してよく反応しない状態)に陥った。新患が『精神病科』へきたが、ひどい錯乱状態を示していて、たとえば、ブロム剤の中毒にみられる中毒性精神病と似て、ひどい昂奮状態と劇場幻覚とを伴っていた」。
     (第二章 「強制収容所の医学的側面 疾病 全身衰弱・慢性の栄養失調症」 84頁)

 

…というものである。

 戦後に撮影された、解放直後の連合軍捕虜収容所収容者のやせ衰えた姿の写真が示すのは、事実として存在した収容所における慢性的飢餓状況(それがファン・ヴルフテン・パルテにより、「敵国人収容所」での「最悪の状態、すなわち、真の飢餓状態」と表現されていたわけだ)なのである。

 その「戦後」とは日本の敗戦後を意味するものであり、両者の立場は逆転し、日本軍関係者は報復的な取り扱いを受けることとなった。
 手元にある『秘録大東亜戦史 蘭印篇』(富士書苑 昭和二十八年)には、戦後のオランダ側による報復的な日本軍人虐待事例が掲載されている。そのような事例を読むに際し、戦中の日本軍人によるオランダ人への「虐待」は、「報復」として行なわれたものではなく、あくまでも日本軍内の日常の延長(たとえば下級者への殴打は、皇軍内では日常的行為であった)としての出来事であったことには気付いておくべきだと思われる。それに対し、戦後のオランダ側の行為は「復讐」として位置付けられるものだ(復讐行為自体の正当性の問題とは別に、それぞれによる「虐待」がどのような構図の下に発生したのかという問題として、ここでは考えているわけである)。
 会田雄次の『アーロン収容所』に、戦後に戦犯容疑者としてイラワジ河の中洲に収容され、飢餓の中で毛ガニを生食し、赤痢で全滅した(させられた)日本軍の鉄道隊関係者の姿の記述があるのは有名な話であろう。
 まさにそこにあるのは、「ビルマで鉄道の敷設に使役された労働者」として英軍人が経験した日本軍による捕虜虐待への、英国人による報復的な対応なのである(もっとも、会田雄次の記述は「伝聞」によるものなのであり、しかも会田自身が「戦犯部隊とかいう鉄道隊」のエピソード紹介の直後に、自身の捕虜経験に基づき、「とにかく英軍は、なぐったり蹴ったりはあまりしないし、殺すにも滅多切りというような、いわゆる「残虐行為」はほとんどしなかったようだ」と書いていることにも留意しておきたい)。
 日本軍による捕虜「虐待」の問題の多くが、日本軍内の日常の延長としての出来事であったことを再認識しておく必要を感じる。下級者への殴打が皇軍内の日常的な行為である以上、捕虜への殴打(そして日本人には十分な食事も、捕虜となった欧米人には不十分なものであったし、戦局の悪化と共に食糧事情も大幅に低下することになる)を意図的な虐待として当事者としての日本軍人が意識する可能性に期待は出来ないのである。両者の間のギャップの悲劇的な帰結が、戦後に行なわれた「B級戦犯」裁判なのであった。
               (2011年2月4日記)

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/10/07 22:09 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/44352/user_id/316274

 

 

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内戦と国家、そして国民という問題

 

 終わらない戦争について考えてみる。

 

 イラクでおこなわれた世論調査によると、イラク国民の約7割は、この6ヶ月間の米軍増派で治安は悪化した、と考えている。 US surge has failed - Iraqipoll
 BBCとABC、日本のNHKによってイラク全土2000人を対象に行った調査によると、60%近い者が米軍への攻撃を正当なことと受け止めている。この割合は、シーア派教徒のなかでは50%だったのに比べ、スンニ派教徒のなかでは93%に昇った。
 この調査はイラク駐留米軍のペトレイアス司令官が米国議会への報告を準備しているなかで発表された。彼とクロッカー米大使は米軍増派の成果と最近のイラク情勢について、議会で証言することになっている。
 BBCが参加したこの種の世論調査は4度目で、過去には2004年2月、2005年11月、2007年2月に実施された。
 今回2007年8月の調査では、政治的対話、再建、経済発展の状態について、悪化したと受け止めるイラク人は、それぞれ回答者の67%から70%を占めた。来年には良くなると考える者は、2年前には64%だったのに、今回はわずか29%しかなかった。
 有志連合軍の即時撤退を求める者も2月の調査より増えたが、上記の回答傾向とも矛盾して、半数以上(53%)が治安が改善されるまで駐留すべきだと回答した。
(以上、MLコミュニティ「イラク戦争に関する世界情勢のニュース」2007/09/11 14:38 より)

 

 ブッシュ米国大統領による、イラク戦争の戦闘終結宣言以降、4年経過しながら、しかし、戦闘は収まらず犠牲者は増えるばかりだ。

 戦闘終結宣言時、曲がりなりにも、イラクは国民に支えられる国家であった。
 サダム・フセインの強権的独裁政治の下ではあるにしても、スンニ派もシーア派もクルド人もイラク国民であった。フセイン流の分割統治の成功はあっても、そこに国民としての統合は存在していたと考えることは出来る。

 近代的国民国家としてのイラクがそこにあったということだ。


 カンボジアの内戦終結の成功は、やはりカンボジアにおける国家と国民の関係についての合意が、内戦中ではあれ諸派に共有されていたゆえのことだと考えられる。
 あくまでもカンボジアという国家の体制選択の問題であって、国家自体の存在、誰が国民であるかは問われる必要はなかったのである。

 旧ユーゴの内戦においては、すでに旧ユーゴという国家に統合された国民という合意が失われていた。
 旧ユーゴは、それぞれの民族集団にとって、もはや帰属すべき国家ではなく、それぞれの民族固有の国家が希求されてしまっていたことが、あの悲劇を生み出したのである。
 旧ユーゴにおいては共存出来ていた人々が、民族主義イデオロギーの論理に飲み込まれる中、お互いを敵として認識するに至ったのであった。あの短い時間の流れの中で。

 20世紀末の、カンボジアと旧ユーゴ、二つの内戦の姿を見つめておきたい。
 20世紀、第一次世界大戦後に謳われた民族自決原則が生み出した民族国家としての近代国民国家が生み出した二つの内戦である。


 21世紀初頭のイラク戦争がもたらしたもの。
 20世紀の後半に、曲がりなりにも、統合された国民に支えられた国民国家として存在して来たイラクに、国民の分裂、国家の分裂の危機を生じさせてしまったのが、あの戦争の現在の帰結である。

 米軍はフセインのイラク軍には確かに勝利した。
 しかし、あまりにずさんな戦後統治プランが、現在のイラクの状況をもたらしてしまったのである。主導したのは、文民としてのラムズフェルドであり、軍人主導の戦争ではなかったことにも留意しておくべきだろう。

 軍事のプロである軍人には、支那事変における日本の教訓、ヴェトナムの米軍の教訓、アフガンのソ連軍の教訓は理解されていた。
 ナショナリズムに反する形での占領統治の困難という問題である。

 ブッシュ政権は、それを無視して、イラク戦争を強行し、戦後統治に失敗し、現在に至っているわけである。
 戦後統治の失敗が、テロリストの活動の場を保障することになり、宗派対立や民族対立を煽り、イラクにおける国民統合の基盤を突き崩しつつあるのが現状である。
 イラク国民は、米軍の存在を憎みながらも、米軍以外に治安維持に期待出来る政治的・軍事的システムを持ちえていないのである。世論調査の結果は、そのようなイラク国民のおかれた状況の反映として考えなければならない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/09/15 22:17 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/41873/user_id/316274

 

 

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難民としての生活を考えたりの9月の日曜日

 

 9月も一週間が過ぎてしまいました。

 気付いてみれば、あと二週間で、ここに日記を書き始めてから一年となります。


 神の姿シリーズも、山田太郎氏登場以来、ますますワケノワカラナイ展開となりつつあり、二週間後にどうなっているのか、まったく予想もつきません。
 まぁ、あくまでも私の、平日の夜のお楽しみでございます。


 このところ、金欠更新中で、出かけることもままならず(まぁ、暑さという大敵もありましたし)、美術館もギャラリーも、展覧会とご無沙汰なのが寂しいところですね。
 涼しくなることと、財布が少しは重くなることを願うとしましょう。


 この5月辺りから、仕事のパターンが変り、帰りが遅くなってしまったもので、なかなか皆さんの日記を読む時間の余裕がなくなってしまい、失礼を重ねております。
 自分の日記を書いて、もう少し余力があればと思うのですが、まだ非力ですね。まぁ、慣れれば、時間の作り方も上達するかも知れません(あまり期待出来そうもありませんが)。

 仕事の合間なんかを利用しての読書時間は、逆に以前より確保出来るようになりましたから、日記の内容もこれまで以上に充実させることが出来るでしょう、理論的には。「理論的には」としか言えないところが悲しいところですが…


 そういえば、先週の台風襲来時には、我が家の生垣のピラカンサが、雨と風で道路側に倒れ掛かり、嵐の中、枝落としに励むハメになりました。
 朝6時過ぎに起きて、外へ様子を見に行ったところ、道路を塞ぐところまではいってませんでしたが、放置することも出来ない状態でした。
 2メートルほどの高さに切りそろえているのですが、この夏、剪定をサボっているうちに、さらに2メートル近く枝が伸びてしまっていて、台風シーズンまでには何とかしなければと思っているうちに、台風直撃となってしまったわけです。

 しかし、普段なら脚立なしには届かない、高く上に伸びた枝が、風雨にあおられたせいで手の届く状態になり、何とか必要な枝を落とすことは出来ました。
 しかし、相手はピラカンサ、トゲで傷だらけとなってしまいました。



 昨日の「難民として生きること」についてですが、私の娘が生まれた時に、私の母は80歳(私は母が40代で生んだ子供でしたので)。
 赤ん坊と老人がいる状況での「難民」の姿。
 想像するだに苦しい状況だと思いました。

 難民となるのは、民間人、市民です。自分達を守るべき軍隊が、自分達市民を守ることが出来なくなったが故に、難民として故郷を離れなければならなくなるわけですね。
 記録映画として保存された過去の戦争における難民の歴史的映像の数々に加えて、現在のニュース映像の背後にも、乳飲み子を抱えた母親や、歩くことも困難な老人を支える家族の姿が、必ず、写っています。
 娘が生まれた90年代には、旧ユーゴスラビアが内戦状態に陥り、独立した各民族国家から排除された、異民族としての避難民の姿を、日常的に見ることになりました。
 そこに映し出されているのは、スペイン戦争や、第二次世界大戦の記録フィルムに見ていたのと変らぬ映像です。
 逃げることしか出来ぬ人々の姿。

 そしてまた、難民生活の終りは誰にも保障されていません。占領が続く限り、難民として暮らさざるを得ないのです。
 実際、パレスチナ難民は、イスラエル建国以来、祖国となるべき土地、故郷の地を奪われたまま、60年近い日々を「難民」として過ごすことを強いられています。

 そのような姿がテレビ画面に映し出される度に、老人と赤ん坊という、我が家族の組み合わせを思わずにはいられませんでした。
 私はこの家族を、どこまで守りきることが出来るだろうか、と。
 もちろん、そんな日々が訪れない方がいいに決まってます。しかし、望んで難民生活をしている家族もどこにもいないでしょう。

 戦争が、私たちに何をもたらすのか。
 様々なことが言えるかと思いますが、「難民」という視点もまた、忘れられてはならないように思っています。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/09/09 23:36 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/41189

 

 

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難民として生きること

 

 難民となることについて考えたことがあるだろうか。

 映画と写真は、20世紀の戦争により、難民として日々をくぐり抜けざるを得なくなった多くの人々の姿を、記録として残した。

 第一次世界大戦、ロシア革命、支那事変、第二次世界大戦…、と戦争は続き、パレスチナ難民を生み出したイスラエル建国、ヴェトナム戦争から旧ユーゴの内戦を経て、現在のイラクを逃れざるを得なくなった人々まで。住み慣れた家を捨て、故郷を後にせざるを得なかった人々の姿。
 それを、まさに20世紀のメディアである映画と写真が記録し続けてきた。私たちは、文書記録と共に、映像という20世紀特有の手段によって定着された、難民という生き方を選択せざるを得なかった人々の姿に常に接してきたのだ。
 かつての歴史的映像としてのみならず、日々のニュースは、私たちの食卓にまで、そのような難民の姿を送り続けているのである。

 少ない荷物で、着の身着のまま、住み慣れた世界から離れ、仕事のあてもない世界へと旅立つことを迫られた人々。それを人々に迫る戦争という名の暴力。
 老人も幼児も病人も、難民生活へと追い込まれるのだ。

 大東亜戦争の経験は、日本国内では幸いなことに本土決戦の回避により、難民という状況を国民に強いるところまでは至らなかった。
 しかし、植民地としての満洲に移住し、そこに生活の基盤を築きつつあった人々は、敗戦と共に、いわゆる「引き揚げ」体験を味わうことになったことは忘れてはならないだろう。

 難民となるということは、生きるための選択でありながらも、そこには安全も生き続けることの保障も存在しない場へと追い詰められていくことを意味するものでもある。

 20世紀が生み出した総力戦という戦争の型式、民族国家=国民国家という国家の形態は、それ以前の世紀の戦争に比しても、「難民」というあり方を、より大規模により深刻なものとして人々へと迫るものになったように思われる。



 

 

2007年9月6日 木曜日

我が家を離れて・・・

 2カ月前、私たちはスーツケースに荷物を詰めた。私の一つきりの大きなスーツケースは6週間近くの間、寝室に置きっぱなしだった。着るものや身の回りのものをぎっしりと詰め込んだので、スーツケースを閉じるのに、お隣りの6歳の子とE.に手伝ってもらわないといけなかった。

 このスーツケースに荷物を詰めるほど難しいことは、これまでほとんどやったことがない。まさに「ミッション インポッシブル」。「R君、さて今回の君の任務だが、30年近くの間に君がため込んだ品々を調べ、必要不可欠なものを決定することにある。この任務の困難な点は、選んだ品々を 1メートル×70センチ×40センチ の空間に収めねばならないところだ。このなかには、もちろん、君が今後数カ月着用することになる衣服や、写真、日記、ぬいぐるみ、CDなど、私的な記念品も含まれる」

 荷物を詰めては中身を出すのを4回やった。中身を出すたびに、どうしても必要というわけじゃないものは排除すると自分に誓った。荷物を詰めなおすたびに、前よりたくさんの「がらくた」を付け加えてしまった。一月半経ったところでE.がたまりかねてやってきて、私がしょっちゅう中身を更新したくならないように、かばんをしっかり閉めてしまおうと主張した。
   (バグダード・バーニング/日本語    http://www.geocities.jp/riverbendblog/ より)


 

 イラクを離れざるを得なくなった女性、リバーベンドの手記の抜粋である。

 21世紀の、この数ヶ月の出来事。
 4月に、イラクを離れることを決意し、2ヶ月前にスーツケースに荷物を詰め終え、やっと2日前にシリア国境を越えられたということだ。
 クルマでの移動の危険さゆえに、この2ヶ月間は動きが取れなかったということである。

 スーツケースに荷物を詰めるという作業に、難民となるということの意味の一端が語られているだろう。すべての思い出からの離別である。
 軽い記述のうちに、私たちはそのことを読み取らなければならないだろう。

 

 

…国境ではまわりの車に不安になった。いつ爆発するかわからない多くの車に囲まれているのが嫌だった。…

 
という文中の一節が、現在のイラクの状況を物語っている。


(上記引用は、MLコミュニティ「イラク戦争に関する世界情勢のニュース」による)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/09/08 22:10 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/41015/user_id/316274

 

 

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国家総動員体制と都市無差別爆撃の論理

 

国家総動員法(昭和13年法律第55号)

第一条 本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ

第二条 本法ニ於テ総動員物資トハ左ニ掲グルモノヲ謂フ
 一 兵器、艦艇、弾薬其ノ他ノ軍用物資
 二 国家総動員上必要ナル被服、食糧、飲料及飼料
 三 国家総動員上必要ナル医薬品、医療機械器具其ノ他ノ衛生用物資及家畜衛生用物資
 四 国家総動員上必要ナル船舶、航空機、車両、馬其ノ他ノ輸送用物資
 五 国家総動員上必要ナル通信用物資
 六 国家総動員上必要ナル土木建築用物資及照明用物資
 七 国家総動員上必要ナル燃料及電力
 八 前各号ニ掲グルモノノ生産、修理、配給又ハ保存ニ要スル原料、材料、機械器具、装置其ノ他ノ物資
 九 前各号ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル国家総動員上必要ナル物資

第三条 本法ニ於テ総動員業務トハ左ニ掲グルモノヲ謂フ
 一 総動員物資ノ生産、修理、配給、輸出、輸入又ハ保管ニ関スル業務
 二 国家総動員上必要ナル運輸又ハ通信ニ関スル業務
 三 国家総動員上必要ナル金融ニ関スル業務
 四 国家総動員上必要ナル衛生、家畜衛生又ハ救護ニ関スル業務
 五 国家総動員上必要ナル教育訓練ニ関スル業務
 六 国家総動員上必要ナル試験研究ニ関スル業務
 七 国家総動員上必要ナル情報又ハ啓発宣伝ニ関スル業務
 八 国家総動員上必要ナル警備ニ関スル業務
 九 前各号ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル国家総動員上必要ナル業務

第四条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

第五条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民及帝国法人其ノ他ノ団体ヲシテ国、地方公共団体又ハ政府ノ指定スル者ノ行フ総動員業務ニ付協力セシムルコトヲ得

第六条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ従業者ノ使用、雇入若ハ解雇、就職、従業若ハ退職又ハ賃金、給料其ノ他ノ従業条件ニ付必要ナル命令ヲ為スコトヲ得

第七条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ労働争議ノ予防若ハ解決ニ関シ必要ナル命令ヲ為シ又ハ作業所ノ閉鎖、作業若ハ労務ノ中止其ノ他ノ労働争議ニ関スル行為ノ制限若ハ禁止ヲ為スコトヲ得

第八条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ物資ノ生産、修理、配給、譲渡其ノ他ノ処分、使用、消費、所持及移動ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得


……以下、第五十条まで「国家総動員法」の条文は続く。

 昭和13年4月1日に公布、5月5日より施行の「国家総動員法」により、大日本帝國は、勅令のみで、つまり議会の同意を必要とすることなく、その国民を総力戦体制に組み込むことが可能となったわけである。

 行き着く先に、昭和20年6月21日に公布され、同23日より施行の、


戦時緊急措置法(昭和20年法律第38号)

第一条 大東亜戦争ニ際シ国家ノ危急ヲ克服スル為緊急ノ必要アルトキハ政府ハ他ノ法令ノ規定ニ拘ラズ左ノ各号ニ掲グル事項ニ関シ応機ノ措置ヲ講ズル為必要ナル命令ヲ発シ又ハ処分ヲ為スコトヲ得
 一 軍需生産ノ維持及増強
 二 食糧其ノ他生活必需物資ノ確保
 三 運輸通信ノ維持及増強
 四 防衛ノ強化及秩序ノ維持
 五 税制ノ適正化
 六 戦災ノ善後措置
 七 其ノ他戦力ノ集中発揮ニ必要ナル事項ニシテ勅令ヲ以テ指定スルモノ

…の条文がある。


 この間に、昭和19年8月4日、小磯内閣は、

軍官民を問はず一億国民が真に一丸となつて戦闘配置につき、本格的戦争態勢を確立することにこそ現下の急務

…との認識の下に、「一億国民総武装」を閣議決定している。


 国家による総力戦としての近代戦争に直面した大日本帝國自身の対応(閣議決定)として、「一億国民総武装」というフレーズが登場しているのである。
 「一億国民が真に一丸となって戦闘配置に」つくということはつまり、一億国民すべてが戦闘員となることを意味する。
 そこには既に、前線と銃後の境界が消滅している。
 無差別都市爆撃の論理も、同じ認識を出発点としているように見えるのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/28 20:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/39281/user_id/316274

 

 

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生き残るということの意味

 

 生き残ることについて考えてみたい。


 自分が生き残ることが、誰かの命と引き換えになってしまうような状況について。


 昨日、「東京大空襲・戦災資料センター」を再訪し、展示品を見ながら、あらためて考えさせられたことだ。

 実はこのところ、過去に録画したドキュメンタリー映像を見直していた。東京大空襲をはじめ、ヨーロッパの無差別爆撃の歴史や、爆撃機のエピソードといった映像である。

 焼夷弾による都市無差別爆撃がもたらす被害には想像を超えているところがある。
 火の勢いは、あまりに強く、1000度を超える熱さとなる。ガラスも融け、人間が燃える。熱風が生じ、嵐のように吹き荒れる。世界が燃える。燃焼により酸素が奪われ無傷のままに窒息死する。

 安全な場所は誰にもわからない。

 熱風は、人が逃げる速度を超えて吹き荒れ、火に追われてきたはずが、火に逃げ道を閉ざされる。
 避難者の列が火の壁となる。燃える人間が道を塞ぐ。


 必死で猛火の下を逃げまどい、結果として生き残っていたことに気付くのである。


 かろうじての安全地帯も収容人数は限られている。入れた者は助かるかも知れないが、すべての者が逃げ込むわけにはいかないのだ。入り口は閉ざされなければならない。入れた者達が生き残るためには。
 生き残った者は、翌朝には、逃げ込むことの叶わなかった者達のおびただしい無残な死体に出会う。
 自分が生き残るために、彼らの死があった。

 安全な防空壕に家族を残し、自分にはもう入る余地がないので炎の中を逃げ、翌朝、防空壕に戻ってみれば、全員が蒸し焼きになっていたという体験者もいる。
 家族の安全を確保し、危険に身を投じたはずの自分が生き残り、家族は炎の犠牲となっていた。結果として、守ろうとした家族を殺したのは自分である。

 安全な場所は誰にもわからない、とはそのような状況なのである。

 プールに逃げた者もいる。後から後から逃げ込む人をかき分け押し戻しながら自分の場所を確保しないと、深みに追いやられ溺死することになる。朝を迎え、溺死した者達の積み重なった死体の上に立っていたことに気付く。死体の中に自分の家族の姿を見つける。自分の家族を踏み台にすることによって生き残ったということになる。


 生きている自分、生き残っている自分について考えざるを得ない。他の者の死が、現在生きている自分を支えているのである。他の者の死と引き換えに、現在、生きている自分が存在するのである。
 他の者が家族であり、愛する者であるという体験を想像出来るだろうか。

 生き残ることが出来た喜びは、同時に愛する者を喪った悲しみであり、しかも愛する者の死に、自分が責任を負っているという感情に伴われるものとなる。


 自分が生きるためには、人を押しのけることを当然と考える者も確かにいるだろう、この世の中には。
 しかし、多くの人間にとって、自分が生き残ったことが、他者を死に追いやったことと引き換えに得られたものだという事実は、簡単には受け入れ難いものとなるだろう。もちろん、その状況に責任があるわけではない。しかし、引き換えとなって死んでいった者達への責任を感じることなく、その後の人生を生きることもまた難しいものとなるのである。


 東京大空襲、あるいは都市無差別爆撃の犠牲者だけの問題ではない。戦争が究極的に個人にもたらすのは、そのような状況なのである。
 中国残留孤児は、家族の犠牲となったのでもあるし、残留孤児となったために他の家族と共に死ぬことを免れていたかも知れないのである。残留させられることも、引き揚げることも、どちらも確実な生きる保障につながるものではなかったということだ。
 最前線の兵士にとっても、強制収容所の被収容者にとっても、生き残るということは、誰かの死と引き換えにもたらされるものとなるのである。


 都市無差別爆撃は、そのような状況を市民に強いるものとなった。

 昭和20年3月10日、2時間の空襲で、被災者100万人、死者10万人だ。夜明けとともに、自分が生き残ったことは理解出来た。しかし、やがてそれは10万人の死と引き換えの生存でもあることに気付かされることになる。
 一晩の空襲の結果、100万人もの市民が、そのような経験に巻き込まれたのだ。10人に一人の死者ということは、誰か遠くの知らない人間の死と引き換えに生き残ったのではなく、自分の命は親しい誰かの命と引き換えに得られたものだという経験として意味付けられることになるのである。

 近代的戦争、総力戦が市民にもたらしたのは、そのような経験であったのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/27 22:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/39175/user_id/316274

 

 

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