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2008年11月27日 (木)

昭和二十年八月 「科学無き者の最後」

 

 昭和20年の大日本帝國の日常を、この二週間ほど、当時の日記・記録類から、日を追って再現してみた。



 本日は、日常生活というキーワードでこの2週間の日記を書いてきた仕上げとして、永野護『敗戦真相記』の記述をご紹介してみたい。

 「まえがき」は、

 
 この小著は去る九月、広島で行なった私の講演の速記録を基礎に「自由国民」朱筆、長谷川国男氏に全文にわたって修正の労を煩わせたものであります。

 
と始まり、

 
 私が、この書において言うを苦痛とするような点まで敢えて触れて敗戦の真相を明らかにしたのは、日本が敗れたのは単に武力ばかりではなかったことを反省したいがためであり、この小書が多少ともそれらの点についての我が国民の参考になれば望外の幸せと存じます。
 昭和二十年十一月二十三日
                  渋谷僑居にて 永野 護

 
と結ばれている。永野護は、戦前から戦後日本の、政治経済界で活躍した人物である(岸内閣の運輸大臣でもあった)。
 その永野が、原爆投下の翌月に広島で講演した速記録が11月には出版されていたということになる。


 さて、「科学無き者の最後」と題された章の中から、記述をご紹介したい。

 

 
 ところで、このような科学兵器の差という物は目に見えるから皆納得するが、目に見えないで、もっと戦局に影響を及ぼしたのはマネージメントの差です。残念ながら我が方は、いわゆるサイエンティフィックマネージメントというものが、ほとんどゼロに等しかった。例えば日本の鉄の生産量というものは全部有効に使っても、アメリカの五パーセントしかないのに、この五パーセントの鉄量すら有効に使えなかったので、実際は、二パーセントの生産量ぐらいにしか当たらない。
 ちょうど、隅田川に橋を架けるのに十本架けなければ交通量がさばけないという場合、日本のやり方は漫然と十本の橋を架けるが、みな資材が足りなくて途中で切れていて、結局、向こうに渡れる橋は一本も出来なかったという状態です。マネージメントがうまくいけば、十本架ける量がないとなれば、では、五本だけ架けよう。あるいは一本だけでもいい、早く架ければ人が通れて大変重宝する。これはマネージメントの差で、科学力や生産量の差ではありません。
 ところが、この経営能力が、また科学兵器の差よりもひどい立ち遅れであって、この代表的なものが日本の官僚のやり方でしょう。日本の官僚の著しい特性は一見非常に忙しく働いているように見えて、実は何もしていないことで、チューインガムをかんだり、ポケットに手を入れたりして、いかにも遊んでいるように見えて、実際は非常に仕事の速いアメリカ式と好対照を見せています。
 今度、進駐軍が来ていろいろなものの引渡しをやるのを見ると、日本のほうは引継式をやろうというので、証書に目録をつけて、当日はフロックに身を正して、テーブルにはちゃんと白い布を張って、花ぐらい生けて待っている。そうすると何時間経っても進駐軍は来やしない。一同、待ちくたびれた頃に倉庫からアメリカの兵隊が出てきて、もう調べたから日本人は出て行ってくれという。打ち合わせて物品を受け取るというような形式的なことはない。挨拶の英語を暗記してきたフロックコートの先生は大いに面食らってしまったという実例を聞いたけれども、このマネージメントの差がこの戦争の遂行上実に大きな影響を与えたことは、むしろ目に見えるサイエンスの差より大きい。
 例えば軍の動員計画なんかも実に非科学的なもので、その技術者がいなければ工場が一遍に止まるというような重要な者を引っ張っていて、馬を洗わせたり、壕を掘らせたりする。もっとひどいのは工場から熟練工を召集したために、その工場の能率が落ちると応援の兵隊さんを今度は軍から寄越してくることです。工場から応召した熟練工は新兵になって壕堀りをしているのに、壕堀りのうまい古参兵が、ズブの素人になって工場に応援に来る。そうして最近どうも工場の能率が落ちたと騒いでいる。こういう例を挙げれば、数限りありません。これが、日本が敗けた、見えざる大きな原因です。

 聞くところによると、アメリカのニュース映画で東京空襲の映画を上映するとき、日本なら「日本空襲何々隊」とつけるべきところを、そんな題はつけないで「科学無き者の最後」という標題を付しているということです。ああ、科学無き者の最後!!アメリカは最初から日本のことをそう見ており、まさにその通りの結果になったと言い得ましょう。

 

 

 官僚主義の蔓延による能率の悪さについては、清沢冽の日記に詳しい。しかし、清沢は昭和20年5月に死去。戦後日本を見ることは出来なかった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/18 22:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38427/user_id/316274

 

 

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