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2008年11月25日 (火)

現代史のトラウマ、その8 ありふれた大量虐殺.

 

 さて、大量虐殺、について。

 大量虐殺は、歴史的には古くから存在し、地球上のあらゆる地域で引き起こされている出来事である。人間の歴史において、どこにでもある、ありふれた、あくびの出るくらい退屈な事態である。

 もちろん、それは、大量虐殺をデータとして処理する限りにおいてのことである。現実には、それぞれの時代、それぞれの場所において、異なった人間が、別の異なった数多い人間を、殺害してきたのであった。すべて、個別の出来事なのである。個別の悲劇がそこにある。個別の被害者がそこにおり、個別の加害者がそこにいるのである。

 20世紀は、大量虐殺の歴史において画期であったと言えよう。
 アウシュヴィッツとポルポトの時代。
 暴動、内乱、革命、戦争に伴う大量虐殺、人類史にありふれた大量虐殺とは、そのようなものであった。
 ナチスによる絶滅収容所の運営、クメールルージュによる田園風景の中での大量殺人。どちらも日常的出来事であった。
 ありふれた大量虐殺とは、特別な日の特別な出来事なのである。非常時の中で起きること、起きてしまうこと、起きてしまったことなのである。
 日常的に、平和な(あえて言えば、ではあるが)生活の中で、日常の業務として、毎日の繰り返しとして、粛々と進められていく殺人、それこそが20世紀において起きた画期的な殺人形態、大量虐殺のスタイルなのである。

 そこにいるのは、内乱や戦闘の渦中といった非日常的状況の中で、興奮し、理性を失った人の群れではない。
 いつも通りに、朝食を食べ、仕事場へ向かい、殺人業務に就き、昼食を食べ、再び殺人を続け、一日のノルマを果たし、家路につき、家族と楽しく夕食を食べ、夜のくつろいだひとときを過ごし、有意義な一日に満足しながら眠りにつく。
 そのような、ありふれた日常生活の光景の一部として、大量の人間の殺害が遂行されていったのである。

 ナチスドイツでは、発達した工業社会に見合った、工場システムの中でそれが行われ、カンボジアでは、田園風景の中でいささか手工業的に行われたという違いはある。しかし、いずれもが、日常生活の中で行われたことなのである。日常生活とともに進行していた事態だったのである。

 そして、どちらにおいても、日常生活はいわばユートピア的状況にあると考えられていた。あるいは、日常をユートピア化するためにこそ、大量虐殺が必要だと考えられていたのである。ユートピアに害毒となるものを排除すること。害毒となると判定された者が収容所に集められ、日々の業務として、殺されていった。
 ドイツにおいては、ユダヤ人、共産主義者、同性愛者達がターゲットとなった。絶滅収容所においては即日の死があり、強制収容所においては緩慢な死が待っていた(労働による絶滅!)という違いはあるにせよ、死体の山は毎日積み上がり、その処理もまた毎日の業務であった(殺して終わりではないのである-死体の処理という次の仕事も待っていたのだ)。
 カンボジアでは、農民とクメールルージュ構成員以外は有害な存在と見なされた。拘束され、家族はバラバラにされ、田園風景の下でやがて白骨となった。

 有害者を排除した清潔なユートピア。死体の山の上に築かれたユートピアだった。

 20世紀に人類の経験した新たな段階、それがユートピアの現実化と死体の山。
 1995年、オウムのユートピアが築いた死体の山をみたのは10年ほど前のことだ。

 21世紀に入っても死体の山を見せ続けられている。相変わらず、殺す者があり、殺される者がいる。

 大量虐殺を引き起こすことから人類は自由にはなっていない。
 しかし、私たちには、大量虐殺の行為そのものに目を向けておくことは出来る。見ないフリをするよりは、自由へ少しだけ近付く道とはなるだろう。

 今回の日記は、大量虐殺という、人間にとっていまだにありふれた事態を考える上で、論点を明確化させる必要を感じ、書いてみたものである。
 もちろん、論じるべきこと、考えるべきことはこれだけではない。しかし、どのような条件(非常時なのか、日常風景なのか)の下で大量虐殺が遂行されたのか、そこが整理出来ていないと、議論が無駄に拡散するおそれを感じたので、まず、ここから書いてみた次第である。

 今回の日記の動機付けとなったのは、果林さんの11月13日の日記、「ラジオで聞いたイスラムの話」である。
 果林さんと、そこへのコメントで、この問題へ眼を向けるきっかけを与えてくれた元祖さんに感謝いたします。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/11/18 23:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/10951/user_id/316274

 

 

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