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2008年11月26日 (水)

歴史についての「正しい理解」という問題

 

 現在、参院に提出審議中の「改正」学校教育法の条文について考えてみたい。

 取り上げるのは、

  第二章 義務教育

 第二十一条

義務教育として行なわれる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するように行なわれるものとする。

 一、二は略

 三 わが国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土の歴史を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 四~九は略


という条文。この三の内容についてである。

 別にこの条文自体に大きな文句は無い。そのように教育がなされることを願うのみだ。
 しかし、問題を感じないわけでもない。歴史における「正しい理解」とはどのようなことであるのか、という点についてである。

 歴史を構成するのは、過去の出来事についての残された記録と記憶である。
 個人の記憶と記録があり、共同体としての記憶と記録があり、国家レベルでの記憶と記録があり、人類規模での記憶と記録も存在する。
 個人史があり、共同体の歴史があり、国家の歴史があり、人類の歴史もある。

 個人レベルで考えてみよう。それは、その個人の視点、個人の経験により形作られた、個人の歴史である。
 他者との関係において、ある部分は共有され、ある部分は相容れないものとなるであろう。個人間の関係は、共同性と共に対立性という相反する性格を持つものであるからだ。
 自分に好意を持っている人間と、自分に敵意を抱いている人間は、同時に存在するが、両者が意見を分かち合う可能性は少ない。対立的な関係にある人間同士の間では、記憶も記録も共有されることは無い。
 被害の記憶は共有されないだろう。被害者に対立するのは加害者であって、加害感情は自覚化されにくく、自覚されたにせよ、被害体験と加害体験はまったく別の記憶を形成し、記録として残されるだろう。
 両者にとって共通の歴史認識は存在し得ないのである。

 同じ時空を共有した、しかし対立する二人の人間には、共通の歴史認識は生じ得ないのである。
 交通事故被害者の家族と加害者の家族にとって、事故の過程は同一であっても、そこで形成される記憶がどれだけ隔たったものとなるか、一度は考えておくべきだろう。
 ここで、警察調書という記録に真実が宿るという観点もありうるだろう。しかし、それすら、その場に立ち会った警察官の視点による記録であるという限界を抱えているのである。

 実際、歴史認識というものが問題化されるのは、警察調書の内容としてではない。そこでの被害者としての記憶なのか、加害者としての(意識化されにくい)記憶であるのか、その両者の溝の間に、歴史認識をめぐる問題は発生するのである。
 そのことに関しては、共同体間のレベルにおいても、国家間の問題としても、構図は同じだ。


 つまり「歴史における正しい理解」とは、歴史を対象化して考える時に、唯一の正当な歴史記述として「正しい理解」が存在するのではないということを「理解」することでなくてはならないだろう。
 国家が歴史記述に介入し、「唯一の正当な歴史記述」を強制しないことこそが、「歴史について、正しい理解に導」く内実とならなければならないのである。

 そのことの実現だけが、「進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の発展と平和に寄与する態度を養うこと」に帰結するのである。



(この文章は、問題意識としては、4月29日に書いた「法と道徳の間(現代史のトラウマ32)」へのコメントのやりとりから発展したものであると共に、昨日の橋爪さんを招いた会での打ち上げで交わされた会話の内容が反映されたものです。日記にコメントいただいた皆さんと、昨日の話し相手となって下さった皆さんに感謝申し上げます)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/20 21:56 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31510/user_id/316274

 

 

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