亡国の正月 昭和二十年一月一日 (現代史のトラウマ 20)
― 遠くに真白き富士の嶺、箱根の連山、朝日かがやく海の光り、折柄庭の梅の古木に、鳩よりずっと大きく、濃き納戸色の羽根したる鳥、東天に向いて、じっと置物の如くとまりて、瑞気溢れ、わけもなく東の空を伏し拝みぬ。
お膳を片付けたる頃、鳥はいずこへか飛び去り行きぬ。
やがて子供達、にこにこして、おめでとうございます、とあそびに来る。羽根をついたり、お手玉をしたり、子供たちと、ひねもす子どものような気持ちにて、あそびくらす。何事も忘れて…………。実に容易ならざる昭和二十年の元日を、かくものどかに過ごさせて頂きし有難さ。
これは、元日の、お母さまの日記である。静子と二人で迎えた元日。このお母さま最後のお正月は、お母さまにとって、満足そのもののようなお正月であった。何事も忘れてとあるように、お母さまは、しょっちゅう、戦地にある二人の子どものことを思っていらっしゃった。殊に別れて四年にもなる遠い南の島にいる通(とおる)のことは、夜、昼、瞬時もお母さまの胸から消えることはなかったのである。その子どものことも忘れて、お母さまは、幸福な元日を、全く無邪気な子どもにかえってお過ごしになったのである。
お縁側で、二人で向かい合って、おとそと、お雑煮を頂いた時の、お母さまのかがやいた幸福そうなお顔。極楽浄土というものが、もしもこの世にあるとしたならば、お母さまはあのまさしく極楽浄土にいらっしゃったのである。
私はお母さまのように、幸福ではなかったけれど、お正月らしい楽しい一日を、お母さまとともに過ごした。
太田静子 『斜陽日記』 (小学館文庫)
太田静子は、太宰治の『斜陽』のモデル。下曽我に滞在時の日記(を後にまとめたもの)。母は、その年の暮れに死去。
鹿が食う様な物でお正月
昭和二十年
一月一日月曜日旧暦十六夜。一時過ぎに眠りに就く。夜通し表に人声や足音が聞こえた様だが、矢張り初詣りなのか知ら。午前五時警戒警報にて起きる。五時三十分解除。また焼夷弾の落ちるのが見えた。今度はさっきの二度より右手の方なり。幸い消し止めたらしく火事にはならなかった様である。温かいおじやを食べて寝たら七時過ぎになった。よく眠れなかった。十時過ぎ起きる。さて更めてこれから目出度く昭和二十年なりと思う。御歳五十七也。しかし些ともお正月らしきところなし。昨日古日のくれたお酒を少し残しておいたのを家内と祝う。今日のお雑煮は家例の味噌汁也。今年は千江も居らず、唐助も在らず。家内と差し向かいにて物騒な妙なお正月を味わう。昼中は静かであったが今夜にもまたやって来る事なる可し。
内田百閒 『東京焼盡』 (ちくま文庫)
当時、東京は麹町五番町に在住。この後、5月26日の空襲で住まいを焼かれる。
「序二代ヘル心覚」の中に
○サウシテ五月二十四日カラ二十五日二十六日ニ及ブ仕上ゲノ大空襲トナリ
○二十五日夜半家ヲ焼カレタ
○焼カレタ後ノ焼ケ出サレノ明ケ暮レニ忘レラレナイ数数ガ残ッタ
○ナゼ疎開シナカッタト云フニ行ク所モ無カッタシ、又逃ゲ出スト云フ気持ガイヤダッタカラ動カナカッタ
○何ヲスルカ見テヰテ見届ケテヤラウト云フ気持モアッタ
○ソノ晩ハもろとふノ麺麭籠カラ焼夷弾ガ足許ニ落チテ来タ
○アノ時ヨク死ナナカッタト思フ
という文がある。
1月2日の日記中には
…。それにつけても麦酒かお酒があれば血のめぐりを調える事が出来るのに、うらめしやそれが無い。止んぬる哉。全くの所こんなお正月は初めてであり今回限りに願いたい。昨夜以来夕方迄敵の飛行機も来らず、お正月でも人は来ない。朝も晩も動物園の鹿の食う様な物ばかり家内と二人で食べている。…
という記述がある。
昭和二十年の正月を、まずは2人の日記から振り返ってみた。
何人かの日記を読み返しながら気付いたのだが、今年と曜日が同じである。
1月13日は土曜日となっていた(それで気付いた)。
亡国の年の正月、である。
続く
(オリジナルは、投稿日時:2007/01/13 21:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/18467/user_id/316274)
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