自殺に至るいじめ 個人の尊厳が否定される世界 (現代史のトラウマ その12)
自殺に至るイジメについて考えてきた。
教育再生会議による「いじめ問題への緊急提言」とは、教育基本法の理念の実現に消極的であった政権政党による内閣により設置された組織による提言なのである。
特に、現内閣は、「教育基本法改正」を目標として掲げている首相により組織された内閣であることを忘れることは出来ない。
これまでの、教育基本法の理念の実現に消極的な、むしろ現実に、その理念の実現に反する方向で教育政策・行政を推進してきた者達が、より積極的にその方向を目指すための施策として、「教育基本法改正」を目指しているというのが、現状理解として妥当なところであろう。
そこでは、現行教育基本法を支える「個人主義的理念」がターゲットとされているのは確かなことである。
しかし、「見て見ぬふりをする者」から脱すること、傍観者から脱しうる精神を支えるのは、むしろ個人主義、社会に責任ある個人の形成基盤としての個人主義的理念の徹底である、と私は思う。
引用した教育基本法の文言から読み取れるのは、反社会的な個人とその理念としての反社会的な個人主義ではない。より良い社会を形成するための、社会的責任の自覚を前提とした、社会的責任の実現を視野に置いた個人主義なのである。
現状での「教育基本法改正」の議論では、まったく、そのような現行教育基本法の文言とその意味する文脈が理解されるどころか、みごとに捻じ曲げられた上で否定されてしまっていると言わざるをえない。
個人主義的理念の否定の後ろにあるのは、統制感覚である。上から下を見る統治の感覚である。教育現場における、行政的・政治的統制こそが目指されているものである。そのことは、この60年間の、政権政党の政策の反映としての、教育行政の歩みを見れば一目瞭然であろう。
そのような政権政党による現内閣により設置された教育再生会議の提言、として、あの「緊急提言」が読まれるのは当然のこととなる。
私もそのように読まざるをえない。
「個人の尊厳」が尊重された世界(現行教育基本法の理念とする世界)では、そもそも、自殺に至るイジメは、決して、放置されるものではないだろう。すなわち、現状は(既に)そのような世界ではない、ということだ。
その上で、「教育基本法改正」で目指されているのは、「個人の尊厳」を縮小解釈することであることは確かなことである。
究極、目指されているのは、命令と服従を基本とする世界なのである(あくまでも究極の理念としては、だが)。
命令と服従を理念とする世界。それこそは旧軍隊内で最高度に現実化されていたことは言うまでもない。
そして、1989年のベルリンの壁崩壊以前の共産主義国家内で実現していた世界も、まさにそのようなものであった。
そのような世界でも、傍観者であることは、決して、許されることではなかった。
密告の奨励されていた社会がそこにある。無実の隣人を、反国家的人間として、資本主義国家のスパイとして告発することが当たり前となる世界。
個人主義の否定の上での、傍観者であることの否定がはらむ問題がそこにある。イジメの解決がもたらされるのではなく、果てしなく、お互いがお互いを監視し密告する世界が実現するのである。お互いがお互いをイジメ抜く世界、ということだ。
そもそも、現行の近代的教育システムは、単純作業の工場労働者と徴兵制の軍隊の兵員養成のためのシステムであった。産業構造が変わり、戦争のスタイルが変化した現在、システムの前提自体が破綻しているのである。
そのことの認識を抜きになされる、命令と服従システムの再現という最終的イメージの下での「教育再生」から、自殺に至るイジメの問題の解決を望むことは困難であると言うことしか、私には、出来ないのである。
(オリジナルは、投稿日時:2006/12/03 18:52 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/13116/user_id/316274)
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