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2008年11月26日 (水)

法と道徳の間 (現代史のトラウマ 32)

 

 中教審会長の山崎正和さんの発言が、最近では面白いニュースだったと思う。



  山崎中教審会長「道徳・歴史教育は不要」

中央教育審議会の山崎正和会長は26日の日本記者クラブ主催の会見で、個人的な意見と断った上で「価値観が多様化する中、倫理的問題は学校になじまない。道徳を学校で教える必要はないと思う」と述べ、道徳教育は不要との考えを示した。歴史教育についても「我が国の歴史はこうだったと国家が決めるのは間違い」と強調した。

政府の教育再生会議は小中学校で道徳を「徳育」として正式教科にすることを検討している。中教審の審議は学校教育のあり方に深くかかわるだけに、発言が波紋を投ずる可能性もある。

山崎会長は「社会の価値観が多様化する中、決着のつかないことが多い倫理的問題は学校になじまない」と指摘。妊娠中絶や、勝者と敗者を生む競争社会など是非をめぐって意見が割れる問題を例に挙げ「点数を付けられるものでもなく、学校で簡単に教えられない。代わりに民法や刑法などの順法精神を教えればいい」と持論を述べた。(23:00)

(NIKKEI NET 4月26日)


というものだ。

 興味を引かれたのは、道徳教育は不要という論と共に、「代わりに民法や刑法などの順応精神を教えればいい」という発言だ。

 「道徳」の教科としての適切性への疑問と共に、「順法精神」教育の必要性が語られている。
 ここでは、「法」が「道徳」に対比されている。

 法とは成文化されたものだ。明文化されたと表現すべきかもしれない。
 誰に対しても、誰の行為に対しても、一義的に(なることを目指して)明文化された法の条文が適用される。
 また、法は、立法府(議会)によって制定・承認されるものであり、少なくとも手続き上は、国民多数の合意に基づくものである。
 また、法は罰則を伴うこともあるが、それも明文化されており、その執行は行政機関にゆだねられる。
 法の執行が個人の恣意によることはあってはならない。

 道徳は、内面的倫理を中心とする、共同体により形成・共有された、行為への価値基準であり、成文化されたものではない。
 たとえ同じ集団に属していても、価値判断の基準は異なり、一義的なものとは言えない。


 中教審の山崎会長の発言は、このような両者の性格を十分に理解した上での見識あるものと、私は思う。特に価値観の多様化した現代において、教科として一義的に道徳教育をすることの問題を見据えての発言と考える。


 政府主導の教育再生会議での、「道徳」の教科化への提言に比べた時に、山崎発言は光る。

 現政府は道徳教育推進には熱心である。その意を受けての教育再生会議での提言であろう。
 しかし、皮肉なことに、私たちはここで、あの「なんとか還元水」をめぐる大臣の発言を思い浮かべざるをえないだろう。
 何より倫理的問題(=道徳的問題である)を問われているにもかかわらず、「法的に問題ない」という弁明で、問題追及をかわしたのである。
 道徳など問題ではない、それが安倍内閣閣僚自らの発言の意味するところなのだ。

 山崎正和氏の道徳教育をめぐる見解は、現内閣に対する皮肉として発せられたものではないと思うが、そのような文脈において眺めてみると、実に味わい深いものだと思う。


 読売新聞によれば、山崎発言には、
 
道徳は教科で教えるべきではなく、教師や親も含めた大人が身をもって教えるべきだ。科目として点数をつけ、教科書を使う教科とすることは無理があると思う。
 
というくだりもある。松岡大臣、身をもって子供たちに何を教えたいのか?

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/04/29 23:46 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/29719/user_id/316274

 

 

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