« 昭和二十年八月六日の日記 | トップページ | 昭和二十年八月八日の長野と東京 »

2008年11月27日 (木)

昭和二十年八月七日 「黙殺」から「しょうがない」へ

 

 今日は8月7日。
 62年前の広島市の光景を想像出来るだろうか?
 原爆投下から一夜明け、あらためて惨状に直面した日だ。

 しかし、昨日の日記でご紹介したように、その日、多くの日本国民は、原爆投下という事実さえ知らなかったのである。

 大本営発表があったのは、昭和20年8月7日15時30分になってからのことだ。

 
大本営発表
一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の損害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

 
 8月8日の高見順の日記に、新橋で買った東京新聞の記事が紹介され、そこに上記の大本営発表も載せられている。

 8月7日の日記では、新橋駅で会った義兄から、噂の形で聞いているだけである。

 
「大変な話――聞いた?」
 と義兄はいう。
「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っぱって行って、
「原子爆弾の話――」
「……!」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし……」
「畑閣下――支那にいた……」
「ふっ飛んじまったらしい」
 大塚総監も知事も――広島の全人口の三分の一がやられたという。
「もう戦争はおしまいだ」
 原子爆弾をいちはやく発明した国が勝利を占める。原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。――衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。
「黙殺というのは全く手のない話で、黙殺するくらいなら、一国の首相ともあろうものが何も黙殺というようなことをわざわざいう必要はない。それこそほんとうに黙っていればいいのだ。まるで子供が政治をしているみたいだ。――実際、子供の喧嘩だな」
 と私は言った。

 
 そして、62年後の政治家の発言がある。

 
 日本が戦後、ドイツのように東西で仕切られなくて済んだのはソ連が(日本に)侵略しなかった点がある。当時、ソ連は参戦の準備をしていた。米国はソ連に参戦してほしくなかった。日本との戦争に勝つのは分かっているのに日本はしぶとい。しぶといとソ連が出てくる可能性がある。日本が負けると分かっているのにあえて原爆を広島と長崎に落とし、終戦になった。長崎に落とすことによって、ここまでやったら日本も降参するだろうと。そうすればソ連の参戦を止めることができると(原爆投下を)やった。幸いに北海道が占領されずに済んだが、間違うと北海道がソ連に取られてしまった。その当時の日本なら取られて何もする方法がない。長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るのかなということも頭に入れながら考えなければいけない。

  久間防衛相の発言要旨 「原爆投下しょうがない」

             2007/06/30 13:55 「徳島新聞」

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/07 23:57 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/37526/user_id/316274

 

 

|

« 昭和二十年八月六日の日記 | トップページ | 昭和二十年八月八日の長野と東京 »

昭和二十年の記録」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/25688825

この記事へのトラックバック一覧です: 昭和二十年八月七日 「黙殺」から「しょうがない」へ:

« 昭和二十年八月六日の日記 | トップページ | 昭和二十年八月八日の長野と東京 »