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2008年11月27日 (木)

昭和二十年八月十二日 「制限下」か「隷属下」か

 

 十二日の夕方、加来氏がいらっしゃって、「無条件降伏」に決まったことを教えて下さった。加来氏は支那間のテエブルを叩いて、
「喜劇です。私の人生の終りは喜劇です。」
 と、仰っしゃった。そうして、叔父さまからの火事見舞いの封筒を、机の上に置いて、急いでお帰りになった。
 封筒の中には、千円入っていた。千円。これは、お母様が、ここしばらく手にされたことのない大金だった。お母様の喜びが、涙ぐましく、私の胸にひびいた。
 無条件降伏のことを伺って、その夜は、興奮して眠れなかった。それは信じられないことだった。何んと考えてよいか分からないことだった。お国が滅びるのだと思うと悲しかった。……

     太田静子 『斜陽日記』

 
 加来氏は、太田静子が母との疎開先として滞在していた山荘の所有者。戦争に伴う会社合同により、自ら育て上げた美術印刷会社の経営を人手に渡した果ての、「無条件降伏」ということである。
 その山荘が、やがて、太宰治の『斜陽』の舞台となるのであった。

 

 

 八月十二日日曜日四夜。朝ぐもりもなく朝から快晴なり。暑いけれども風あり温度はやっとF九十度に達するか達しないかの程度なり。朝から昨日の唐助の話にて気を遣ったが先ず無事にて午後を過ぎ、又午後も無事にすんだ。夕五時前後ブザーの音にて茨城栃木埼玉には警戒警報が出ている事を知ったけれど間もなく解除になった。B29一機が宇都宮の辺りから南の方へ出て行ったしまったようである。結局朝から十時頃就眠する迄一度も警報鳴らず。

     内田百閒 『東京焼盡』

 
 「昨日の唐助の話」とは、「明十二日東京に原子爆弾を落とすと言っている。この頃は敵の予告がその通り実現するのだから用心しなければならない」というもの。
高見順の日記では、11日の条に、「街では、十三日に原子爆弾が東京を襲うという噂が立っていた」とある。
 東京への原子爆弾攻撃が噂に上っていたことは確かのようである。



 8月10日の午前7時に、日本政府から発せられた「国体護持」の条件付ポツダム宣言受諾案に対し、12日午前3時に同盟通信社は連合国側からの回答を受信した。
 「バーンズ回答」と呼ばれる。

 
降伏ノ時ヨリ天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ降伏条項ノ実施ノ為其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カレルルモノトス

 これは、その外務省訳である。
 「制限ノ下ニ」の原文は「subject to」であった。
 陸軍は「隷属下ニ」と訳している。
 「制限ノ下ニ」は、もちろん受諾を前提とした訳(国体は護持されるのだから)であり、「隷属下ニ」は受諾拒否、つまり徹底抗戦を前提にした訳(国体は護持されないことになるから)である。

 

 

 
 私が彼を見直したのは、和平交渉に入ってからの彼の閣議における態度である。私は閣議では議事進行のためできるだけ口をつつしみ控える方針をとって来たが、外相に至りては所管外には一切口をかんして語らない。所管事項でも簡に失しても繁にはわたらない。和平条項なども口先でなるべく問題にならぬよう片付けてしまう。彼は一切刷り物をくばらない。見せてくれというと、今翻訳させているという。長くもない条項の訳文をいくら催促しても一日また一日、今持って来させますと口先ばかりではぐらかしてゆく。中にはサブゼクト・ツーの文句を援用して原文を見せよという。彼はすぐ取りよせるというだけで一向とりよせない、原文なり訳文なりを見せたら、サブゼクト・ツーを訳して制限の下にありなどとは、けだしおかしいくらいのものである。とうとう彼はポツダム宣言以後相互に取り交わした文書は、訳文はおろか原文も一切閣議の卓上へ見せずじまいにずるずるとパッスしてしまった。私は心ひそかに味をやるワイと感心したのである。

     下村宏 『終戦秘史』

 
 閣議の席での東郷外務大臣の姿である。

 

 
 昨日ニ予定セシ大臣ノ上奏ハ、手続ノ為本日トナリ、人事上奏後、九日ノ件に附軍ノ実情等ニ附、委細上奏セリ 此ノ時陛下ハ、「阿南心配スルナ、朕ニハ確証ガアル」旨、却テ御慰藉的ノ御言葉アリシ由(通常ハ陸軍大臣ト御呼ビ遊ハサレ、阿南ノ姓ヲ呼バルルハ、侍従武官時代ノ御親シキ心持ノ表現ナル由)。

     『機密戦争日誌』

 
 ポツダム宣言受諾をめぐり、「国体護持の保障」への疑問を理由に、徹底抗戦に傾く陸軍大臣に対し、昭和天皇は大臣の姓を呼び、「心配スルナ」と語りかけたのであった。


 広島の逓信病院では、外傷なく健康に見える人々が倒れ、看護に当たっていた人間が患者より先に死者となるという情景が報告され始めている。

 被爆から6日目となる、夏の一日の出来事。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/12 21:56 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/37920/user_id/316274

 

 

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