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2008年11月27日 (木)

昭和二十年八月十四日 市ヶ谷と小田原の火の手

 

 まず、大本営の『機密戦争日誌』から、陸軍内のクーデター計画のその後、8月14日の展開を追う。

 
 一、 七時、大臣、総長前後シテ登庁、大臣ハ荒尾大佐ト共ニ総長室ニ至リ、決行同意ヲ求ム。然ルニ総長ハ、先ヅ宮城内ニ兵ヲ動カスコトヲ難ジ(計画ハ本日十時ヨリノ御前会議ノ際、隣室迄押シカケ、オ上ヲ侍従武官ヲシテ御居間ニ案内セシメ、他ヲ監禁セントスル案ナリ)、次デ全面的ニ同意ヲ表セズ。茲ニ於テ計画崩レ万事去ル。

 
 御前会議参加者を監禁し、天皇を手中に収めるという計画が、参謀総長の不同意により「崩レ万事去」ったのである。陸軍一体となってのクーデター計画は阻止されたのであった。

 

 
 八月十四日(火)          薄曇 稍涼 五、一〇 十五日三、〇〇
 今日は艦上機も来ないので九時に出る。警報は三回程出るが大した事はない。その後は全く平穏無事に東京に帰る。すぐ出勤。帰って見て驚いた。聖断は已に下り、事は意外に早く進んでゐた。僅か一週間の不在にまるで浦島太郎のやうな気持である。拝謁は終始引切りなしに行はせられ、午后十一時二十五分、明日渙発の詔書御放送の為ニ期庁舎に成らせられる、二回試みさせられ、零時五分に御文庫に還御。この頃敵の多数機各地に相当入ってゐる。而も焼夷攻撃も試みてゐる由、これが其後長々と続いて三時十分に終る。今日は塩原から帰って来てまるで狐につままれたやうである。永積さんと二人御文庫に当直、どうもまるで気持が違って了ってまるで落着かない。
  帰京 当直

     入江相政 『入江相政日記』


 その「聖断は已に下り」という、御前会議は、午前11時、宮中の防空壕内で開催された。
 天皇の発言を、大本営の『機密戦争日記』の記述によって紹介する。

 
 自分ノ此ノ非常ノ決意ハ変リハナイ。
 内外ノ動静国内ノ状況、彼我戦力ノ問題等、此等ノ比較ニ附テモ軽々ニ判断シタモノデハナイ。
 此ノ度ノ処置ハ、国体ノ破壊トナルカ、否ラズ、敵ハ国体ヲ認メルト思フ。之ニ附テハ不安ハ毛頭ナイ。唯反対ノ意見〈陸相、両総長ノ意見ヲ指ス)ニ附テハ、字句ノ問題ト思フ。一部反対ノ者ノ意見ノ様ニ、敵ニ我国土ヲ保障占領セラレタ後ニドウナルカ、之ニ附キテ不安ハアル。然シ戦争ヲ継続スレバ、国体モ何モ皆ナクナッテシマヒ、玉砕ノミダ。今、此ノ処置ヲスレバ多少ナリトモ力ハ残ル。コレガ将来発展ノ種ニナルモノト思フ。
――以下御涙ト共ニ――
 忠勇ナル日本ノ軍隊ヲ、武装解除スルコトハ堪エラレヌコトダ。然シ国家ノ為ニハ、之モ実行セネバナラヌ。明治天皇ノ、三国干渉ノ時ノ御心境ヲ心トシテヤルノダ。
 ドウカ賛成ヲシテ呉レ。
 之ガ為ニハ、国民ニ詔書ヲ出シテ呉レ。陸海軍ノ統制ノ困難ナコトモ知ッテ居ル。之ニモヨク気持ヲ伝ヘル為、詔書ヲ出シテ呉レ。ラヂオ放送モシテヨイ。如何ナル方法モ採ルカラ。

 
 これが出席者への昭和天皇の言葉だった。

 「午后十一時二十五分、明日渙発の詔書御放送の為ニ期庁舎に成らせられる、二回試みさせられ」たのが、「ラヂオ放送モシテヨイ」という天皇の言葉にあるラジオの為の録音(いわゆる「玉音放送」の)である。




 内田百閒の日記には、

 
 夕晴れる。新月土手の松に懸かりて夏の宵らしき涼風わたる。土手の兵隊は今日何処かへ引き上げて居なくなってしまったそうである。午後八時過ぎ、表に消防自動車の警笛の音がしていると思ったが、その内屏の外にて火事だと云う声あり。家内が出て見て市ヶ谷本村町のもとの大本営のうしろの方に火の手が上がっていると云った。薬王寺の辺りは焼けていないそうだから、そこいらに火事が起こったのかも知れない。普通の火事はこの頃珍しく、太平の趣がある。門まで出て見たら大分大きな火の手である。土手のお婆さんの悴さんは火事を見に行ったとの事であったが間も無く帰って来て大本営の中だと云った。左内坂から登って大本営の屏のまわりを廻って来たのだから間違いないが、中に火の手が見えているのに裏側の門は閉まっていて駆けつけて来た消防自動車が門の前でぷうぷう鳴らしても開けないし、門番もいるのだが案外平気な顔をしていたと云った。その話を聞いて何か焼き捨てているのではないかとも思われた。

 
とある。
 『機密戦争日誌』は、陸軍省軍務課員であった中根吾一少尉の尽力により、その夜の焼却を免れた資料である。

 

 
 十四日の午後、千葉から兄上がいらっしゃった。無条件降伏のことはご存じなく、火事見舞いと、本土決戦をひかえて、最後のお別れのつもりでいらっしゃったのだった。その夜はまだ空襲があって、小田原が燃えた。森の向こうに赤い火の手があがり、それは、絵のように美しかった。

     大田静子 『斜陽日記』

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/14 22:54 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38123/user_id/316274

 

 

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