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2008年11月

2008年11月27日 (木)

「しょうがない」のは誰か? 久間発言再説 後

 

(《「しょうがない」のは誰か? 久間発言再説 前 》の続きです)


 さて、久間氏の発言はどうだろうか?

 まず、「ポツダム宣言黙殺」をめぐる上記のいきさつを考えてみよう。
 久間発言は、歴史的経緯の理解に誤りがある。そもそもソ連参戦は、

 
連合国はソ連政府に対し、同政府が日本の侵略に対する戦争に参加し、以って戦争の終了を促進し、犠牲者の数を減少し、かつ急速に一般的平和の恢復に質すべく提案せり。ソ連政府はその連合国に対する義務に従い、連合国の右提案を受諾し、本年七月二十六日の連合国宣言に参加せり。

 
として正当化されているのである。現実に起きたことは久間発言とは逆なのである。連合国の要請により、ソ連は参戦しているのだ。
 実際、5月のドイツ降伏の時点で、ソ連は聯合国の要請に対し、3ヵ月後の参戦を約していたのである。そして8月9日、5月8日のドイツ降伏から3ヶ月過ぎての参戦となっている。
 しかも、そこでの正当化の理由に、鈴木首相の「ポツダム宣言黙殺」発言が利用されているのだ。
 政治家としての不適切な発言と言わざるを得ない所以である。

 歴史上の事実関係あるいは前後関係の問題、これは歴史観の問題ではなく、単なる歴史上の事実認定の問題だ。久間発言の前提が、既に誤りなのである。
 つまるところ、そこにあるのは、事実に基づかない政治家の発言ということなのである。


 その上での、 

  
 長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。

 
という発言である。被爆者にとって、そのために死んだ者にとって、「しょうがない」事態などないのだと思う。
 少なくとも、他人がそれを「しょうがない」という言葉で言うべきではないと、私は思うのだ。
 当事者が「しょうがない」出来事として自らの気持を整理することと、他人がそれを「しょうがない」と言ってしまうことではまったく話が違ってしまう。

 また、被爆者の死を、本土決戦で生じると予想される莫大な数の犠牲者と取引可能なものと考えるような、原爆使用の正当化にも問題がある(久間氏がそのように主張しているかどうかは微妙であるので、ここでは、一般的な原爆正当化の問題として考えておきたい)。
 一人の人間の命は、交換可能なものではない。
 まずは、そこで死にいかざるを得なかった一人の人間の命の重さを考えなければならない。
 自ら志願して犠牲となった広島市民も長崎市民もいないのである。そこには理不尽な死があるだけだ。
 政治家に限らず、そのことへの想像力を欠いてはならないと思う。



 それに政治家が「しょうがない」なんて言葉を使ってはオシマイではないか。責任感というものからこれだけ距離のある言葉もないだろう。

 鈴木貫太郎首相の、政治家として不適切極まりない発言の上に、原爆使用もソ連参戦も正当化されていた。
 その事実への無理解の上に、久間氏の、これまた不適切な発言が存在している。

 まったくもって、「しょうがない」話なのである。


― ― ―

以下、追記(8月26日)

 本日、「東京大空襲・戦災資料センター」を再訪した際に、一階の資料室で見つけた文書の内容をご紹介いたしましょう。

大屋久壽 『終戦の前夜』 昭和20年12月15日 時事通信社刊

 数ページの薄いパンフレットですが、「御聖断遂に降る」という見出しの後に、

 
 今から思へばソ聯の参戦といふことがなかったならば、原子爆弾のみでは或ひはこのやうに急速な終戦はやって来なかったかも知れない。この意味では、ソ聯の参戦はその宣戦布告にも云ってゐるやうに、確かに「平和の招来を早からしめた。」ソ聯から宣戦されることによって政治的な唯一の活路をもまた閉ざされた日本は、戦力の点ではこれよりずっと以前に完全に参ってゐたのである。いまはもはや無条件降伏以外に潰滅から免れる方法は残されてゐなかったのである。軍部、殊に陸軍の一部に行はれてゐたやうな無謀極まる自滅戦術――皇国を焦土と化して一億玉砕のゲリラ抗戦を継続するといふ狂気沙汰に興せざる限り政府當路としてここでなすべきことは既に決まっていたのである。

 
という記述を見つけました。
 昭和20年当時の、問題への認識の一端を、ここに読むことが出来るでしょう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/25 22:09 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38947/user_id/316274

 

 

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「しょうがない」のは誰か? 久間発言再説 前

 

 日本が戦後、ドイツのように東西で仕切られなくて済んだのはソ連が(日本に)侵略しなかった点がある。当時、ソ連は参戦の準備をしていた。米国はソ連に参戦してほしくなかった。日本との戦争に勝つのは分かっているのに日本はしぶとい。しぶといとソ連が出てくる可能性がある。日本が負けると分かっているのにあえて原爆を広島と長崎に落とし、終戦になった。長崎に落とすことによって、ここまでやったら日本も降参するだろうと。そうすればソ連の参戦を止めることができると(原爆投下を)やった。幸いに北海道が占領されずに済んだが、間違うと北海道がソ連に取られてしまった。その当時の日本なら取られて何もする方法がない。長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るのかなということも頭に入れながら考えなければいけない。

   久間防衛相の発言要旨 「原爆投下しょうがない」    2007/06/30 13:55 「徳島新聞」

 
 この発言の何が問題だったのかを考えてみたい。
 誰がどこでどのように問題としたのかは、私にとっての問題ではない。あくまでも、私が何を問題とするか、それを書いてみたいということだ。

 8月7日の日記で、この発言を取り上げた時、私はかつての鈴木貫太郎首相の「ポツダム宣言黙殺」発言と並べておいた。
 つまり、政治家の発言としての適切さという文脈だった。

 ポツダム宣言黙殺発言は、後に、ソ連参戦の理由としても利用されてしまっている。
 つまり、その意味でも、鈴木首相の「ポツダム宣言黙殺」発言と久間防衛相(当時)の「しょうがない」発言は、同時に論じる価値があるだろう。

 
無条件降伏に関する本年七月二十六日の要求は、日本により拒否せられたり。よって極東戦争に対する日本政府のソ連に対する調停方の斡旋は、全くその基礎を失いたり。日本の降伏拒否にかんがみ、連合国はソ連政府に対し、同政府が日本の侵略に対する戦争に参加し、以って戦争の終了を促進し、犠牲者の数を減少し、かつ急速に一般的平和の恢復に質すべく提案せり。ソ連政府はその連合国に対する義務に従い、連合国の右提案を受諾し、本年七月二十六日の連合国宣言に参加せり。

 
 これが、ソ連の宣戦理由の文言である。黙殺=拒否として解釈され、ソ連参戦の正当化に利用されているわけだ。

 

 
 原子爆弾をいちはやく発明した国が勝利を占める。原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。――衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。
「黙殺というのは全く手のない話で、黙殺するくらいなら、一国の首相ともあろうものが何も黙殺というようなことをわざわざいう必要はない。それこそほんとうに黙っていればいいのだ。まるで子供が政治をしているみたいだ。――実際、子供の喧嘩だな」
 と私は言った。

 

 高見順は8月7日の日記で、このように評している。しかも、広島への原爆投下をめぐっても「対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという」のである。

 原爆投下とソ連参戦の両方の理由付けに「ポツダム宣言黙殺」発言は利用されていたということだ。
 高見順の言う通りで、「黙殺するくらいなら、一国の首相ともあろうものが何も黙殺というようなことをわざわざいう必要はない。それこそほんとうに黙っていればいいのだ。まるで子供が政治をしているみたいだ。――実際、子供の喧嘩だな」と言うべき事態だろう。


 もちろん、鈴木貫太郎内閣の努力、鈴木首相自身の終戦への決意とその努力は認めるべきである。しかし、その上でなお、政治家の発言としては不適切であったと評さざるを得ない。


(字数制限のため、《「しょうがない」のは誰か? 久間発言再説 後 》に続けます)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/25 22:08 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38946/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月二十一日 麦酒と燃料不足

 

 八月二十一日〈火〉           快晴 頗暑 六、〇〇 八、三〇
 昨夜殆んど寝なかったので実によく寝た。侍従長の部屋に寝たのだが蚊もゐず鉄扉も上げられるやうになったので風も吹き込み実にいい気持である。所がすっかり朝まで寝て了って一体緒方国務相の拝謁はどうなったのだろうかと思ふ。

     入江相政 『入江相政日記』

 
 蚊と蚤に悩まされた昨夜と違い、ぐっすりと眠れたらしい。
 空襲から解放され、鉄扉に頼る必要もなくなり、風に吹かれながらの熟睡だったのだろう。クーデターの危機も去ったこともあるのかも知れない。

 緒方国務相の拝謁については、前日の記事に、

 
 その時の話にマニラへ行った全権が帰って来たので明払暁二時に緒方国務相の拝謁があるかも知れぬとの事。

 
とある。
 宮中の拝謁は、夜中にも行われることが、入江の日記を読んでいると、そこここに出てくるので、昭和天皇も大変であったと思う。
 その「マニラへ行った全権」とは、河辺虎四郎参謀次長以下17人がマニラの連合軍司令部まで行き、日本進駐に関する打ち合わせ、ミズーリ号上での調印式用の降伏文書の受け取りをし、二十日夜に帰国の予定であったもの。
 全権団の搭乗機は燃料不足(!)のために20日夜に天竜川河口付近に不時着。浜松から陸軍機で21日の朝8時20分に、調布飛行場へたどり着いたという。
 午前中に拝謁は行なわれた。

 終戦〈敗戦〉処理が始まっているのである。
 しかし、全権の搭乗機が燃料不足で不時着するというエピソードが、大日本帝國が昭和20年8月にどれだけ追い詰められた状況にあったかを物語っているように見える。
 状態によっては、降伏文書も失われかねなかったわけである。

 

 
二十一日〈火〉 晴
 ○昨夜十二時まで、首相宮、ラジオにて反復数回、国民に告げらる。国体維持に政府方策を有す。聖断は絶対なり、国民は静粛に治安を保つべしとの意味なりしが如し。雑音多くて明らかに聴く能わず。
「敵にしてわが国体を根本より破壊せんとの意図を有する時は再び開戦す。最後の一人まで蹶起せよ」とでもいわるるにあらずやとみな胸躍らせて待ちしに、絶望悲嘆甚だしきものあり。
 ○各地の防空陣、敵機来るときはいまだ猛烈に応戦す。東京都内にては各所に貼り出されたる降伏のニュース、一夜のうちに、ことごとくはぎとられたりと。またフィリピンの日本軍は総攻撃を開始せりとの噂あり。
 このありさまにては戦意全国に炎のごとく燃え上がり、不穏の状況いちじるしきものあり、かくて首相宮の悲鳴のごとき放送となりたるものならん。みな、この分にては面白くなるぞとよろこぶ。

     山田風太郎 『戦中派不戦日記』

 
 やはり、学生という若さだろうか。敗戦が現実として、あるいは安堵感として受容されてはいないようだ。
 この日から、授業が再開されている。

 

 
 八月二十一日火曜日十三夜。晴。午後出社す。夕帰る。こないだ内から毎日麦酒が飲みたくて困る。大分間があいたからである。麦酒やお酒が無い為の苦痛を随分嘗めたがこの頃は以前程には思わない。世の中の成り行きで止むを得ないと云う諦めも手伝っているが、一つには焼け出された後はそれ迄とお膳の様子がすっかり変って仕舞ったので以前の様に座のまわりの聯想に苦しめられると云う事が無くなった所為もあるだろう。それでも欲しいと思いつめるのはよくよく欲しいのであって我儘だけではなく身体がほしがるのだと思う。それでも無ければ、無い物は仕様がない。

     内田百閒 『東京消盡』

 
 暑い夏にビールが飲めないのである。これもまた敗戦の現実、ということだろうか。
 5月25日の空襲で焼け出された際には、百閒は避難の道中も一升瓶を抱え、道々飲んでいた。酒をめぐる記述、飲めない苦しみ、飲めた時の喜び、様々に書かれているのが百閒の日記の魅力(?)でもある。

 この8月21日の項で、百閒の日記は終えられている。
 戦争の日々の終りを感じたのだろうか。

 
 この数日の新聞記事を読んで今までの様な抵抗感情を覚えなくなった。何しろ済んだ事は仕方がない。「出なおし遣りなおし新規まきなおし」非常な苦難に遭って新らしい日本の芽が新らしく出て来るに違いない。濡れて行く旅人の後から霽るる野路のむらさめで、もうお天気はよくなるだろう。

 

 
 昭和20年8月の日記紹介シリーズも、今回で終了としたい。

 明日からは、夏休みを終えた山田太郎氏が戻って来る、はずだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/21 23:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38600/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月二十日 蚤と蚊

 

八月二十日〈月〉          晴 頗暑 六、三〇 一〇、四〇
 昨夜は蚊と蚤に攻められて碌に眠られなかったから非常に気持が悪い。朝から相当の暑さである。入浴。

 
と、入江相政の昭和20年8月20日の日記は始まる。
 昨夜は当直である。つまり、皇居内の当直で、蚊と蚤に攻められて碌に眠れなかったというのである。
 8月16日の内田百閒の日記には、

 
 午後出社す。行きがけに神田駅にてこないだの古本屋の蚊遣線香を又二十把買った。後で使って見ると今度のはこの前のとは口が違うらしい。目方が軽く煙を吸うと咽喉が痛い。

 
という記述がある。
 さかのぼって、6月26日に、

 
 今日も脚のむくみ甚しく目蓋もいくらか腫れている様にて頭重し。夕少し早く帰る。夕また曇る。この小屋に初めの内は蚤がいて寝られなかったが、三匹捕ったらもういなくなった。この二三日は蚊に食われて夜中に目をさます。渦巻の蚊遣線香は去年の使い残りがあと三本ある丈なり。持ち出しの荷物の中にありたるなり。それを倹約しいしい使うので夜しょっちゅう痒くなって目をさます。その序に小便に起きる。

 
と、小屋の蚤と蚊のことが出てくる。この小屋は、5月25日の空襲で焼け出された百鬼園が、松木男爵邸内のかつて爺やの使用していた小屋を仮住まいとして提供され住んでいるものだ。

 
 六月三十日土曜日二十夜。毎晩蚊に食われて眠りを絶たれる。昨夜は十一時に寝たがその時は蚊遣りを焚いておいたのだけれども倹約しいしい使うので途切れる。それですぐに蚊が出て来て十一時半にはもう痒くて目がさめた。又蚊遣りをして寝たが午前一時半に又起された。それから二時半過ぎるまで起きていた。夜半にトタン屋根を敲く雨の音を聞きながらウィスキーを飲み刻み煙草を吹かし中中やれた。更めて寝ようと思って外を見ると東北の雨空が火事の火の手で赤く染まっている。普通の火事は珍しき事なり。牛込納戸町の火事なりし由なり。暫らくしてから消防自動車の行くサイレンの音が聞こえたりした。それから寝てもう一度蚊の為に五時に起された。蚊遣りをして又寝なおして七時起床す。

 
と、蚊には悩まされ続ける。この日は午後出社し、「帰りてウィスキー。尤も夜半も朝も嘗めている」というウィスキー漬けの一日でもあった。

 7月3日に再び、

 
 今夜は眠いから起きないつもりであったが、もういないと思った蚤がいるらしく左の足の先が痒くなったので結局起きた。

 
と、蚤に悩まされる。その後も蚊に悩まされながら、7月7日には、

 
 焼ける少し前に郵船の部屋に持って行っておいた昔の岡山以来の麻蚊帳を持ち帰る。蚊帳を釣る事は好かないが毎晩蚊に食われて閉口致したる也。明晩より釣ろうと思う。

 
と、麻蚊帳を蚊対策に持ち帰っている。
 7月8日に、

 
 夜は八時半頃就眠す。今夜から蚊帳を吊った。六畳の部屋に釣って丁度よい蚊帳を二畳に釣るのだから苦心を要す。午後十一時三十五分警戒警報にて起された。

 
ということで、しばらくは蚊の記述はなくなる。
 7月17日になって、

 
 午後十一時四十五分、丁度蚤がいる様で起きていた時警戒警報鳴る。支度だけして外には出ず。

 そして、

 
 七月十八日水曜日九夜。右の警戒警報にて暫らく起きていたが蚊が食うから洋服を着たなりで蚊帳に這入り寝ていようと云う事にした。その儘ぐっすり寝入っている時警戒警報の音がした。

 七月二十一日土曜日十二夜。夜半より降り始めて朝来雨なり。午頃から時化模様となる。昨夜は九時半に寝て十一時警戒警報で起きた。身支度はしたけれど何事もないらしく兵隊の情報放送の声も聞こえないから洋服を着たなりで蚊帳に這入って寝ようかと云っていると、その警報は既に解除になっていた様で十一時四十五分又新しく警戒警報が鳴った。それで寝るのを延ばしたが結局この辺には何事もない様だから支度をした儘で寝ていると三度目の警戒警報で又目がさめた。暗がりにて時計が見られなかったが、午前一時頃か或はそれより少し前かであったと思う。後で蚤に喰われて起き愚図愚図して三時過ぎてから更めて寝た。

 
 空襲と蚤と蚊で、寝不足の日々が続いていたわけである。
 終戦で、空襲はなくなり、蚤と蚊の日々となった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/20 23:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38551/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月十九日 婦女子を大至急避難

 

 八月十九日
 新聞は、今までの新聞の態度に対して、国民にいささかも謝罪するところがない。詫びる一片の記事も掲げない。手の裏を返すような記事をのせながら、態度は依然として訓戒的である。等しく布告的である。政府の御用をつとめている。
 敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥。
 なお「敗戦」の文字が今日はじめて新聞に現れた。今日までは「戦争終結」であった。
 中村光男君の話では今朝、町内会長から呼び出しがあって、婦女子を大至急非難させるようにと言われたという。敵が上陸してきたら、危険だというわけである。
 中央電話交換局などでは、女は危いから故郷のある人はできるだけ早く帰るようにと上司がそう言っている由。
 自分を以て他を推すという奴だ。事実、上陸して来たら危い場合が起るかもしれない。絶対ないとはいえない。しかし、かかることはあり得ないと考える「文明人」的態度を日本人に望みたい。かかることが絶対あり得ると考える日本人の考えを、恥かしいと思う。自らの恥かしい心を暴露しているのだ。あり得ないと考えて万一あった場合非はすべて向うにある。向うが恥かしいのである。
 一部では抗戦を叫び、一部ではひどくおびえている。ともに恥かしい。
 日本はどうなるのか。
 一時はどうなっても、立派になってほしい。立派になる要素は日本民族にあるのだから、立派になってほしい。欠点はいろいろあっても、駄目な民族では決してない。欠点はすべて民族の若さからきている。苦労のたりないところからきているのだ。私は日本人を信ずる。

     高見順 『敗戦日記』

 
 62年過ぎて、日本人は「立派に」なれたのだろうか?

 婦女子を避難させる話。日本軍における婦女暴行の伝統(?)が、国民一般に共有されていたということだろう。
 支那事変当時の、南京攻略戦時の日本陸軍の行動、捕虜殺害とともに、婦女子への暴行殺人は悪名高いものとなっている。
 いわゆる「従軍慰安婦」の存在も、南京攻略戦における日本軍将兵の素行の悪さから、その対策として発案されたことが、陸軍内の文書として残されているくらいだ。
 「自分を以て他を推す」ことからは、米占領軍(進駐軍)兵士による婦女暴行は当然のこととして予測せざるを得ない。
 アジア諸国での、買春行為で日本人が名を揚げたのは戦後のことである。
 日本人男性の性的不品行について、「立派」になったという証拠はまだない。


 8月14日の日記には、

 
「アメリカ軍が入ってきたら、――西洋人というのはジャガイモが好きだから、もこうして食えなくなるんじゃないか」
 米の代用の馬鈴薯だが、その馬鈴薯が取り上げられたら、何を一体食うことになるのだろう。

 
という記述がある。
 これもまた「自分を以て他を推す」一例であろう。
 大日本帝國陸軍の現地調達主義もまた悪名高いものであった。補給を軽視し、物資の現地調達を前提にした作戦行動をとったのである。
 「調達」と「略奪」の間に線は引けない。現地住民からすれば、すべて貴重な食料物資の略奪となる。
 アメリカ占領軍は、基本的に、食料の現地調達は考えなかった。高見順の考えた(心配した)ようには事態は進行しなかったのである。


 ただ、日記を読んでいるとわかるのだが、昭和20年は冷夏であった。農産物の生産量は低く、食糧不足となった。
 その後、米国からの援助物資で、日本人は戦後の食糧難をしのぐことになるのだが、それはまだ先の話である。

 

 
十九日(日) 晴
 ○酷暑つづく。
 爆音聞こえ、日本機一機飛ぶ。どこかへビラでも撒くつもりにや。あの姿、あの日本機の姿。――千機万機仰ぐは未来いつの日ぞ。
 ○夕、徳田氏東京より帰る、都民みな呆然。陸軍機海軍機東京上空を乱舞し、軍は降伏せずと盛んにビラを撒きありとのこと。
 マニラにて休戦協定を結ぶため、山下奉文この役を快諾せりという。山下が普通の意味でこれを「快諾」するはずなし。すべてひっくり返しておじゃんにするつもりなるべし、そうなったら面白くなるぞ、と皆期待す。
 ○夜凄じき雷鳴。青白き閃光きらめきて、轟々たる音につづき、時にどこかに落ちたるがごとき音す。電燈消ゆ。ただし雨一滴もふらず。空鳴りにて秋となるや、こおろぎ鳴く。

     山田風太郎 『戦中派不戦日記』

 
 もう秋も近い。
 しかし、まだ、敗戦にリアリティーがない感じがする長野の飯田の疎開先の一日。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/19 23:35 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38494/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月 「科学無き者の最後」

 

 昭和20年の大日本帝國の日常を、この二週間ほど、当時の日記・記録類から、日を追って再現してみた。



 本日は、日常生活というキーワードでこの2週間の日記を書いてきた仕上げとして、永野護『敗戦真相記』の記述をご紹介してみたい。

 「まえがき」は、

 
 この小著は去る九月、広島で行なった私の講演の速記録を基礎に「自由国民」朱筆、長谷川国男氏に全文にわたって修正の労を煩わせたものであります。

 
と始まり、

 
 私が、この書において言うを苦痛とするような点まで敢えて触れて敗戦の真相を明らかにしたのは、日本が敗れたのは単に武力ばかりではなかったことを反省したいがためであり、この小書が多少ともそれらの点についての我が国民の参考になれば望外の幸せと存じます。
 昭和二十年十一月二十三日
                  渋谷僑居にて 永野 護

 
と結ばれている。永野護は、戦前から戦後日本の、政治経済界で活躍した人物である(岸内閣の運輸大臣でもあった)。
 その永野が、原爆投下の翌月に広島で講演した速記録が11月には出版されていたということになる。


 さて、「科学無き者の最後」と題された章の中から、記述をご紹介したい。

 

 
 ところで、このような科学兵器の差という物は目に見えるから皆納得するが、目に見えないで、もっと戦局に影響を及ぼしたのはマネージメントの差です。残念ながら我が方は、いわゆるサイエンティフィックマネージメントというものが、ほとんどゼロに等しかった。例えば日本の鉄の生産量というものは全部有効に使っても、アメリカの五パーセントしかないのに、この五パーセントの鉄量すら有効に使えなかったので、実際は、二パーセントの生産量ぐらいにしか当たらない。
 ちょうど、隅田川に橋を架けるのに十本架けなければ交通量がさばけないという場合、日本のやり方は漫然と十本の橋を架けるが、みな資材が足りなくて途中で切れていて、結局、向こうに渡れる橋は一本も出来なかったという状態です。マネージメントがうまくいけば、十本架ける量がないとなれば、では、五本だけ架けよう。あるいは一本だけでもいい、早く架ければ人が通れて大変重宝する。これはマネージメントの差で、科学力や生産量の差ではありません。
 ところが、この経営能力が、また科学兵器の差よりもひどい立ち遅れであって、この代表的なものが日本の官僚のやり方でしょう。日本の官僚の著しい特性は一見非常に忙しく働いているように見えて、実は何もしていないことで、チューインガムをかんだり、ポケットに手を入れたりして、いかにも遊んでいるように見えて、実際は非常に仕事の速いアメリカ式と好対照を見せています。
 今度、進駐軍が来ていろいろなものの引渡しをやるのを見ると、日本のほうは引継式をやろうというので、証書に目録をつけて、当日はフロックに身を正して、テーブルにはちゃんと白い布を張って、花ぐらい生けて待っている。そうすると何時間経っても進駐軍は来やしない。一同、待ちくたびれた頃に倉庫からアメリカの兵隊が出てきて、もう調べたから日本人は出て行ってくれという。打ち合わせて物品を受け取るというような形式的なことはない。挨拶の英語を暗記してきたフロックコートの先生は大いに面食らってしまったという実例を聞いたけれども、このマネージメントの差がこの戦争の遂行上実に大きな影響を与えたことは、むしろ目に見えるサイエンスの差より大きい。
 例えば軍の動員計画なんかも実に非科学的なもので、その技術者がいなければ工場が一遍に止まるというような重要な者を引っ張っていて、馬を洗わせたり、壕を掘らせたりする。もっとひどいのは工場から熟練工を召集したために、その工場の能率が落ちると応援の兵隊さんを今度は軍から寄越してくることです。工場から応召した熟練工は新兵になって壕堀りをしているのに、壕堀りのうまい古参兵が、ズブの素人になって工場に応援に来る。そうして最近どうも工場の能率が落ちたと騒いでいる。こういう例を挙げれば、数限りありません。これが、日本が敗けた、見えざる大きな原因です。

 聞くところによると、アメリカのニュース映画で東京空襲の映画を上映するとき、日本なら「日本空襲何々隊」とつけるべきところを、そんな題はつけないで「科学無き者の最後」という標題を付しているということです。ああ、科学無き者の最後!!アメリカは最初から日本のことをそう見ており、まさにその通りの結果になったと言い得ましょう。

 

 

 官僚主義の蔓延による能率の悪さについては、清沢冽の日記に詳しい。しかし、清沢は昭和20年5月に死去。戦後日本を見ることは出来なかった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/18 22:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38427/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月十七日 アメリカ婦人に化粧品

 

 八月十七日(金)          晴 頗暑 六、〇〇 九、三〇
 午前十一時五十分稔彦王総理大臣の親任式。十一時二十五分皇太后御参。二十日軽井沢に行啓に付御暇乞の御参。零時半に御文庫に還御。三陛下御会食お済みの後、稔彦王今日の御礼の為三陛下に御対面。午后二時二十分閣僚親任式、外相兼大東亜相重光、内相山崎、蔵相津島、法相岩田、厚相松村、農相千石、軍需中島、国務省近衛、緒方、緒方は情報局総裁と書記官長を兼任、これで内閣も成立して安心した。四時過ぎ大宮様還御。今日は久々で帰らうとしてゐたら水戸から又三百名東上との事、困った事である。暫らく様子を見てゐたが大した事もないといふので下る。歩いて半蔵門まで出たら今日から出入りを禁じたといふので又坂下門へ廻って七時に帰る。久々の事である。寺本が来て色々土産をくれる。小倉さんと西瓜を食べる。いい気持で寝る。

     入江相政 『入江相政日記』

 
 14日から連続して当直をしていた入江も、やっと帰宅がかなった。

 「水戸から云々」については、木戸幸一の『木戸日記』に、「水戸より二百名程、兵が上京、不穏」という記述がある。水戸教導通信師団将兵392人が上野美術館を占拠した。

 高見順も、

 
 店での話では、横須賀鎮守府、藤沢航空隊等ではあくまで降伏反対で、不穏の空気が漲っているという。親が降参しても子は降参しない。そんなビラを撒いている由。ビラといえば東京の駅にも降伏反対のビラが貼ってあって、はがした者は銃殺すると書いてあるそうだ。

 
と、「不穏」な状況を記録している。

 

 

十七日(金) 晴
 ○眼醒むるもいまだ信ずる能わず。
 正直にいいて学校にゆく気せず。張り合いなし。
 ○宮城前にて将校二人割腹せりと。ああ、昨日、今日、死を選びし日本人幾ばくぞ。
 鈴木、平沼両家に焼打ちをかけし者ありと。馬鹿なり。無念耐えずんば、黙して自分が腹切るべし。いま血を血で洗うの愚を日本に現わすべからず。静々粛々、鎮痛の中にも一致して結束を固めて敵を迎うべし。
 東久邇内閣成る。果然近衛公出ず。
 清水に敵上陸せり。名古屋に支那兵上陸し、食糧徴発を開始せり。東京にすでに米兵四万人入りこみありとの噂ながる。
 いまだ日本人の頭は八月十五日以前と同じなり。しかも敵上陸の第一歩とともにイヤでもこの頭切換えざるべからず。惨苦は来れり。血の涙を流すべき忍苦の日はいよいよ来たれり。
 されど、いかに敏速なる東京人といえども、一昨日までの眼を敵見るやたちまち微笑の眼に変えることは不可能ならん。
 ○今日飯田駅で兵隊がいままでの如く特別に切符を買おうとしたら、少女駅員冷然として「兵隊さんはあとですよ」といった由。この話を聞ける面々、話した男を、なぜその女狐をぶんなぐらざりしと大いに怒る。余りといえば軽薄残忍の女にあらずや。
 一将功成らず万骨枯る。
 松岡なる友あり、大いなる製薬会社の息子なり。戦争以来、つねに白米の弁当に卵焼などを食い、いまだ配給物を食べたることなしと、十五日夜「今後はアメリカ人と手を握りてゆくが懸命なり。わが会社にては早速化粧品でも作りてアメリカ婦人に売りて儲けん」と澄ましていい、そんなことはできずといいたる友に、冷然として「そういう奴は将来乞食になるよりほかなし」と笑いしという。
 ききてみな大いに怒る。冗談にせよ、時と場合による。安西、柳沢、加藤らこれを制裁せんと相談しあり。いまさら殴りても始まらずといいかけたところ、一人「四人のゲンコツで、これが日本のゲンシ爆弾なり」といえるに失笑。

     山田風太郎 『戦中派不戦日記』

 

 
 八月十七日金曜日九夜。昨夜初めてこおろぎを聞いた。二三日前の晩に木鈴虫の声がした様であったが確かでない。方方が焼野原になったので今年は秋の虫も少ないであろう。昨夜就褥して間もなく十一時頃きなくさいにおいがするので心配した。小屋の炊事場に残り火があってもあぶないし、しゃもじの所で火を出されては小屋は大変である。暫らく様子を見たが何でもない、風の具合で大本営の書類を焼いている煙が流れて来たのかもしれない。

 
と、書き出された内田百閒の日記は、

 
 五月二十六日の夕方には自分も思わず乾麺麭を口に入れ歩き歩きいくつか食べたから人の事も云われないが、この頃往来でも電車の中でも何か食べている者が多くなったのは困った事である。若い女に特に多い。人前で若い女が一番不行儀な様である。しかし男も食べている。男でも女でも人の前で何か食べている顔はみんな猿に似ている様に思われる。

 
と、結ばれている。

 戦後の日々は始まっているのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/17 22:48 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38360/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月十六日 「翌る日」

 

 八月十六日木曜日八夜。今日辺りから日本の新しき日が始まると思う。そのつもりにて昨日の欄と今日の欄の間をあけた。朝曇。午まえから晴れた。昨夜八時半就褥。間で目はさめたが今朝は六時半に起床す。起きた後でよく寝たものと感心す。午前十時五分警戒警報、B29一機宛二機なり。初めに三機と放送したが内一つはB24であったと訂正した。東京の空へは来たらず。昨夕の松木男爵の話の様な事は何人も心配する処なれど幸いにそんな事もないとすれば防空警報のサイレンを聞くのも大体これがお仕舞となるのではないかと思う。午前十一時解除となる。午、今は鎌倉に行っているもとの又隣りの岡本のご主人来り自作の胡瓜を三本くれた。この頃の胡瓜は昔に食べた林檎バナナ水蜜桃葡萄等の水菓子から一切の野菜類は更なり清涼飲料の炭酸水ジンジャーエールやアイスクリームシャベェ迄も含めた食べ物になっている。毎日食べているが途切れると困る。

     内田百閒 『東京消盡』

 

 
 この日、入江相政の日記も、

 
 昨夜は実によく寝た。

 
という言葉で始まっている。入江は前日の日記で、「昨夜五十分しか寝ないので七時半頃には入床」と書いていた。
 14日に塩原から帰京し、そのまま「玉音放送」の録音、そして近衛師団の蜂起、正午の玉音放送前後の枢密院本会議…と続く、あわただしい一日を送っていたのである。日記によれば、15日の入眠が8時、16日の起床が7時。11時間は眠っていることになる。


 百閒の日記にある、「昨夕の松木男爵の話の様な事」とは15日の日記の、

 
 古日と話している時小屋の前の薄暗がりにバロン松木起ちポツダム宣言受諾の詔勅は下ったけれど陸軍に盲動の兆ありとの話をきく。こちらの戦闘機が出撃する事になれば向うも又大いにやって来るに違いないから若し警報が鳴ったら間違いと思わずに矢張り防空壕に御這入りになる様にと注意してくれた。

 
という話だ。

 

 
 八月十六日
 朝、警報
 小田の小母さん来たり、その話では世田谷の方に日本の飛行機がビラを撒いた。それには、特攻隊は降伏せぬから国民よ安心せよと書いてあったという。――勃然と怒りを覚えた。
 北鎌倉駅を兵隊が警備している。物々しい空気だ。円覚寺、明月院の前、建長寺にも、これは海軍の兵隊が銃を持って立っている。「文庫」へ行くと、横須賀航空隊の司令官が少壮将校に監禁され、航空隊はあくまで戦うと頑張っているという。
 飛行機がビラを撒いた。東京の話も事実と思われる。
 黒い灰が空に舞っている。紙を焼いているに違いない。――東京から帰って来た永井君の話では、東京でも各所で盛んに紙を焼いていて、空が黒い灰だらけだという。鉄道でも書類を焼いている。戦闘隊組織に関する書類らしいという。
「文庫」で会った人。里見、川端、中山夫妻(今日の当番)、国木田虎雄、岡田、林房雄、小林秀雄(両名酔っている)今、永井等。
 家に帰ると新聞が来ていた。阿南陸相自刃。読売記事中に「支那事変勃発以来八年間に国務大臣として責任を感じて自刃した唯一の人である」と書いてある。背後に皮肉が感じられる。鈴木内閣総辞職。休戦協定の聯合国代表にマッカーサーが指定されたらしいというストックホルム電。毎日、読売両紙とも、二重橋前に人々が額ずいている写真を掲げ、見出しは「地に伏して粛然聖恩に咽ぶ」(読売)「“忠誠足らざる”を詫び奉る」(毎日)
 原子爆弾の恐るべき威力に関する記事。休戦発表前までは曖昧に言葉を濁していたが、あまりどうも露骨すぎる。社説は「気力を新たにせよ」(読売)「強靭な団結力と整然たる秩序、時艱突破の基盤」(毎日)

     高見順 『敗戦日記』

 
 バロン松木の「話の様なこと」の実際の状況が書かれている。

 

 

 翌る日、新聞を手にして、「詔書」を拝読し、御前会議の模様などを知った。お母さまは、長いこと、三畳の間に、ひとりでいらっしゃった。
 それから二、三日何もせず、廊下のベットに寝て、終日横光利一氏の、「春園」を読んでいた。読んでいると、何かを忘れていることが出来た。昔のブルジョア家庭の変屈な老人や男女の雰囲気を書いた小説を読んでいると、不思議な気持になって行った。
 何処へも行きたくなかった。ぼんやり「春園」を読んでいた。お母さまも又、何を思ってか「クレーブの奥方」を読んでいらっしゃった。きっと静子と同じようなお気持であったのだろう。

     太田静子 『斜陽日記』

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/16 23:23 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38289/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月十五日 帝国ツイニ敵ニ屈ス

 

十五日(水) 炎天
 ○帝国ツイニ敵ニ屈ス。

     山田風太郎 『戦中派不戦日記』

 
 この日、若き山田風太郎は、日記にこの一行だけを書いた。

 

 
 八月十五日(水)           晴 暑 四、〇〇 八、〇〇
 徳川、戸田両君に起される。近衛兵の動きが怪しいとの事、すぐ起きて御文庫の各所の鉄扉を厳重にお閉めする。侍従長、大夫、三井さん等も詰められる。御警衛内舎人の武装を解除しろと近衛兵がせまった由。間もなく田中静壱大将が来て総てを取り静めて事は終わる。馬鹿々々しいことだ。久々で二、二六の時の事を思出す。午前十一時二十分枢密院本会議、於附属室。途中正午の御放送を拝聴、涙が出て仕様がない。森近衛師団長は昨夜反乱将校の為に殺され、それを聞いた阿南陸相は責任を感じて自刃した由。なかなか暑い。夕方入浴。夕食は君子がくれた米をたいておいしく食べ、事務官室の畳の上にほろ蚊帳を吊って寝る。昨夜五十分しか寝ないので七時半頃には入床。
  当直

     入江相政 『入江相政日記』

 
 近衛師団司令部に、参謀本部の畑中健二少佐、椎崎二郎少佐等が訪れ、森赳師団長にクーデター断行を要請したが、森師団長は「近衛師団は私兵ではない」と答え、応じなかった。師団長は、現場に居合わせた西部軍の白石参謀と共にクーデター派の将校に殺害される。クーデター派に同調する近衛師団参謀古賀秀正少佐により、近衛連隊の出動命令が発せられた。
 玉音放送の録音を終えて皇居から去ろうとしていた下村情報局総裁や日本放送協会役員は、近衛兵に連行・監禁され、また木戸内大臣、石渡宮相らも別の地下室に監禁された。
 「玉音放送」の録音盤奪取が目的だったようだが、夜明けと共に、司令官田中静壱大将指揮下の東部軍にクーデターの試みは鎮圧された。

 阿南陸相の自決は、入江の推測とは異なり、既に決意されていたものであった。

 

 

 
 一死以て大罪を謝し奉る。

   昭和二十年八月十四日夜
       陸軍大臣阿南惟幾

 神州不滅ヲ確信シツツ

 大君の深き惠に
      浴みし身は
    言い遺すべき
       片言もなし
 
   昭和二十年八月十四日夜
       陸軍大将 惟幾

 
 遺書は14日付けである。しかし、決行は15日の明け方となったのであった。
 東郷外相の記録によれば、14日の閣議後に、

 
 阿南陸相は自分の所に来て姿勢を正した上、先刻保障占領及武装解除に付き聯合国側に申入るる外務省案を見たがあれは洵に感謝に堪へない、ああ云ふ取扱をして貰へるのであったら御前会議でも左程強く言ふ必要もなかったのだと挨拶したから、自分は此二問題に付いては条件として提出するに反対であったが我方の希望として申入るることは度々説明した通りであると答えたが、先方は重ねていろいろお世話になりましたと丁寧に御礼を云ふので、少しく鄭重過ぎる感じを受けたが、兎に角総て終了してよかったと笑って別れた。

 
というやり取りがあった(『時代の一面』)。


 大本営の『機密戦争日誌』の8月15日の条には、

 
 一、 次官閣下以下ニ報告
 二、 十一時二十分、椎崎、畑中両君、宮城前(二重橋ト坂下門トノ中間芝生)ニテ自決。
 午后死体ノ引取リニ行ク。
 三、 大臣、椎崎、畑中三神ノ茶毘、通夜。
     コレヲ以テ愛スル我ガ国ノ降伏経緯ヲ一応擱筆ス。

 
とのみ書かれている。

 

 
 荷風氏は十一時二十六分にて岡山へ帰る。余は駅まで見送りに行き帰宅したるところ十二時天皇陛下御放送あらせらるとの噂をきき、ラジオをきくために向う側の家に走り行く。十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音をきき奉る。然しラジオ不明瞭にてお言葉を聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、ただ米英より無条件降伏の提議ありたることのみはほぼ聞き取り得。予は帰宅し、二階にて荷風氏の『ひとりごと』の原稿を読みいたるに家人来り今の放送は日本が無条件降伏を受諾したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉えるものらし、警察の人々の話なりと云う。皆半信半疑なりしが三時の放送にてそのこと明瞭になる。町の人々は当家の女将を始め皆興奮す。家人も三時のラジオを聞きて涙滂沱たり。

     谷崎潤一郎 『疎開日記』

 

 午後二時過岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道にて顔を洗い汗を拭い、休み休み三門の寓舎にかえる。S君夫婦、今日正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言う。恰もよし日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る。休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。

     永井荷風 『断腸亭日常』

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/15 23:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38237/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月十四日 市ヶ谷と小田原の火の手

 

 まず、大本営の『機密戦争日誌』から、陸軍内のクーデター計画のその後、8月14日の展開を追う。

 
 一、 七時、大臣、総長前後シテ登庁、大臣ハ荒尾大佐ト共ニ総長室ニ至リ、決行同意ヲ求ム。然ルニ総長ハ、先ヅ宮城内ニ兵ヲ動カスコトヲ難ジ(計画ハ本日十時ヨリノ御前会議ノ際、隣室迄押シカケ、オ上ヲ侍従武官ヲシテ御居間ニ案内セシメ、他ヲ監禁セントスル案ナリ)、次デ全面的ニ同意ヲ表セズ。茲ニ於テ計画崩レ万事去ル。

 
 御前会議参加者を監禁し、天皇を手中に収めるという計画が、参謀総長の不同意により「崩レ万事去」ったのである。陸軍一体となってのクーデター計画は阻止されたのであった。

 

 
 八月十四日(火)          薄曇 稍涼 五、一〇 十五日三、〇〇
 今日は艦上機も来ないので九時に出る。警報は三回程出るが大した事はない。その後は全く平穏無事に東京に帰る。すぐ出勤。帰って見て驚いた。聖断は已に下り、事は意外に早く進んでゐた。僅か一週間の不在にまるで浦島太郎のやうな気持である。拝謁は終始引切りなしに行はせられ、午后十一時二十五分、明日渙発の詔書御放送の為ニ期庁舎に成らせられる、二回試みさせられ、零時五分に御文庫に還御。この頃敵の多数機各地に相当入ってゐる。而も焼夷攻撃も試みてゐる由、これが其後長々と続いて三時十分に終る。今日は塩原から帰って来てまるで狐につままれたやうである。永積さんと二人御文庫に当直、どうもまるで気持が違って了ってまるで落着かない。
  帰京 当直

     入江相政 『入江相政日記』


 その「聖断は已に下り」という、御前会議は、午前11時、宮中の防空壕内で開催された。
 天皇の発言を、大本営の『機密戦争日記』の記述によって紹介する。

 
 自分ノ此ノ非常ノ決意ハ変リハナイ。
 内外ノ動静国内ノ状況、彼我戦力ノ問題等、此等ノ比較ニ附テモ軽々ニ判断シタモノデハナイ。
 此ノ度ノ処置ハ、国体ノ破壊トナルカ、否ラズ、敵ハ国体ヲ認メルト思フ。之ニ附テハ不安ハ毛頭ナイ。唯反対ノ意見〈陸相、両総長ノ意見ヲ指ス)ニ附テハ、字句ノ問題ト思フ。一部反対ノ者ノ意見ノ様ニ、敵ニ我国土ヲ保障占領セラレタ後ニドウナルカ、之ニ附キテ不安ハアル。然シ戦争ヲ継続スレバ、国体モ何モ皆ナクナッテシマヒ、玉砕ノミダ。今、此ノ処置ヲスレバ多少ナリトモ力ハ残ル。コレガ将来発展ノ種ニナルモノト思フ。
――以下御涙ト共ニ――
 忠勇ナル日本ノ軍隊ヲ、武装解除スルコトハ堪エラレヌコトダ。然シ国家ノ為ニハ、之モ実行セネバナラヌ。明治天皇ノ、三国干渉ノ時ノ御心境ヲ心トシテヤルノダ。
 ドウカ賛成ヲシテ呉レ。
 之ガ為ニハ、国民ニ詔書ヲ出シテ呉レ。陸海軍ノ統制ノ困難ナコトモ知ッテ居ル。之ニモヨク気持ヲ伝ヘル為、詔書ヲ出シテ呉レ。ラヂオ放送モシテヨイ。如何ナル方法モ採ルカラ。

 
 これが出席者への昭和天皇の言葉だった。

 「午后十一時二十五分、明日渙発の詔書御放送の為ニ期庁舎に成らせられる、二回試みさせられ」たのが、「ラヂオ放送モシテヨイ」という天皇の言葉にあるラジオの為の録音(いわゆる「玉音放送」の)である。




 内田百閒の日記には、

 
 夕晴れる。新月土手の松に懸かりて夏の宵らしき涼風わたる。土手の兵隊は今日何処かへ引き上げて居なくなってしまったそうである。午後八時過ぎ、表に消防自動車の警笛の音がしていると思ったが、その内屏の外にて火事だと云う声あり。家内が出て見て市ヶ谷本村町のもとの大本営のうしろの方に火の手が上がっていると云った。薬王寺の辺りは焼けていないそうだから、そこいらに火事が起こったのかも知れない。普通の火事はこの頃珍しく、太平の趣がある。門まで出て見たら大分大きな火の手である。土手のお婆さんの悴さんは火事を見に行ったとの事であったが間も無く帰って来て大本営の中だと云った。左内坂から登って大本営の屏のまわりを廻って来たのだから間違いないが、中に火の手が見えているのに裏側の門は閉まっていて駆けつけて来た消防自動車が門の前でぷうぷう鳴らしても開けないし、門番もいるのだが案外平気な顔をしていたと云った。その話を聞いて何か焼き捨てているのではないかとも思われた。

 
とある。
 『機密戦争日誌』は、陸軍省軍務課員であった中根吾一少尉の尽力により、その夜の焼却を免れた資料である。

 

 
 十四日の午後、千葉から兄上がいらっしゃった。無条件降伏のことはご存じなく、火事見舞いと、本土決戦をひかえて、最後のお別れのつもりでいらっしゃったのだった。その夜はまだ空襲があって、小田原が燃えた。森の向こうに赤い火の手があがり、それは、絵のように美しかった。

     大田静子 『斜陽日記』

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/14 22:54 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38123/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月十三日 クーデターとラヂオ

 

 8月13日の大本営『機密戦争日誌』には、クーデター計画に関する詳細な記述がある。第二項ではメンバーの詳細と理由を取り上げ、その先には、

 
 六、 夜、竹下ハ稲葉、荒尾大佐ト共ニ、「クーデター」ニ関シ、大臣ニ説明セント企図シアリシ所、二〇〇〇頃閣議ヨリ帰邸セル大臣ヨリ招致セラレ、椎崎、畑中ト同行官邸ヲ訪ヒ、相次デ来リシ荒尾、稲葉、井田ト共ニ、仮令逆臣トナリテモ永遠ノ国体護持ノ為、断乎明日午前(始メノ計画ハ今夜一二時ナリシモ、大臣ノ帰邸遅キ為不可能トナル)、之ヲ決行セムコトヲ具申スル所アリ。大臣ハ容易ニ同ズル色ナカリシモ、「西郷南州ノ心境ガヨク分ル」、「自分ノ命ハ君等ニ差シ上ゲル」等ノ言アリ。時々瞑目之ヲ久シウセラル。十時半頃散会トシ、一時間熟考ノ上、夜一二時登庁、荒尾大佐ニ決心ヲ示シ、所要ノ指示ヲセラレ度述ベ、三々五々帰ヘル。
 予ハ最后ニ残リ、大臣一人ノ時、賛否ヲ尋ネシニ、人ガ大キ故アノ場デハ言フヲ憚リタリト答へ、暗ニ同意ヲ示サル。尚、皆帰ヘル時、今日頃ハ君等ニ手ガ廻リ、逮捕セラルヤモ知レザルヲ以テ、用心シ給へ、トノ注意アリキ。他ヨリ入手セル情報ニ基クモノノ如シ。
 七、 皆、役所ヘ帰ヘリ、夫ヨリ更ニ計画ヲ練ル。予ハ特ニ左ヲ提案シ、全員ノ一致賛同ヲ得タリ。
 明朝ノコトハ、天下ノ一大事ニシテ、且、国軍一致蹶起ヲ必須トス。苟モ友軍相撃ニ陥ラザルコトニ就テハ、特ニ戒ムルノ要アリ。依テ明朝、大臣、総長先ヅ協議シ、意見ノ一致ヲ見タル上、七時ヨリ東部軍管区司令官、近衛師団長ヲ招致シ、ソノ意向ヲ正シ、四者完全ナル意見ノ一致ヲ見タル上立ツベク、若シ一人ナリトモ不同意ナレバ、潔ク決行ヲ中止スルコト。
 決行ノ時ハ十時トスルコト。
 等ナリ。


 一方、その13日、午後4時から7時半まで開かれた閣議での阿南陸軍大臣の動き。
多くの閣僚の意向に反し、ポツダム宣言受諾には賛意を示そうとはしなかったが、

 

 
 この閣議の最中、特筆すべきことが二つあった。
 閣議がはじまると間もなく、阿南陸相は私を促して隣室の電話で陸軍省軍務局長を呼び出して、次のようなことをいわれた。
「閣議は逐次君たちの意見を了解する方向に向かいつつあるから、私が帰るまで動かずにじっとしていて欲しい。ここに書記官長がいるから、望むなら閣議の様子をきいてもらいたい」
 私はびっくりした。閣議の状況は陸軍大臣の孤軍奮闘の形であったからだ。阿南陸相は私に目くばせした。私はその心を知り、しかるべく口裏を合わせようと決心していると、先方はそれには及ばぬといったと見えて、陸相は電話を切られた。

     迫水久常 『機関銃下の首相官邸』

 
 阿南陸軍大臣は、ポツダム宣言受諾をまだ口にはしなかったが、部下のクーデター計画の発動を憂慮し、未然防止への手を講じてもいたわけである。


大本営午後四時発表。皇軍は新たに勅命を拝し、米英ソ支四カ国軍対し、作戦を開始せり

という記事が、報道各社に配布されたのも、ほぼ同時刻のことであった。朝日新聞記者から、その内容の真偽を尋ねられた迫水は、陸相に確認(大本営発表の内容とされるものが事実無根であること、つまり謀略であるということだ)の上、撤回させることに成功する。これが発表されていたら、ポツダム宣言の受諾は不可能となるのである。

 

 
 ……。ただの空襲でなくB29が這入って来るといつ原子爆弾を落とすかも知れないと云う格別の不安あり。そう云う際にラヂオが聞かれないとなお一層の不安を感ずる。
 夕五時頃ラヂヲが駿河湾から侵入して富士川に沿い上ぼって行く不明の爆音ありと云った。そのつもりで用意していると忽ち東京の上空にやって来たかと思う内に何か落とした様である。ビラかも知れない。その前から家内と松木の防空壕に這入っていたので落下音は聞かなかった。そのB29が行ってしまってからも未だ艦上機の攻撃は続いた。加之五時頃には敵の潜水艦が伊豆の下田を攻撃していると放送した。まだ明るい近海の水面に浮かび上がってそんな真似をしてもどうする事も出来ないのであろうか。自烈たき限りなり。

     内田百閒 『東京焼盡』

 
 滞在先の松木男爵宅のラジオの不具合で、状況が把握出来ないまま不安の中で時を過ごした百閒も、バロン松木の帰宅でラジオ情報に接することが出来たのであった。
 謀略が成功していたら、午後5時には、「ラヂオ」からは、米英ソ支4カ国に宣戦を布告した旨の大本営発表が流され、ポツダム宣言受諾など不可能になっていたのである。

 白昼堂々と、伊豆沖に米潜水艦が浮上し、下田を攻撃していると伝えるラジオ。制海権も制空権も完全に失った大日本帝國の姿である。しかし、なお本土決戦が叫ばれているのであった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/13 23:58 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/38034/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月十二日 「制限下」か「隷属下」か

 

 十二日の夕方、加来氏がいらっしゃって、「無条件降伏」に決まったことを教えて下さった。加来氏は支那間のテエブルを叩いて、
「喜劇です。私の人生の終りは喜劇です。」
 と、仰っしゃった。そうして、叔父さまからの火事見舞いの封筒を、机の上に置いて、急いでお帰りになった。
 封筒の中には、千円入っていた。千円。これは、お母様が、ここしばらく手にされたことのない大金だった。お母様の喜びが、涙ぐましく、私の胸にひびいた。
 無条件降伏のことを伺って、その夜は、興奮して眠れなかった。それは信じられないことだった。何んと考えてよいか分からないことだった。お国が滅びるのだと思うと悲しかった。……

     太田静子 『斜陽日記』

 
 加来氏は、太田静子が母との疎開先として滞在していた山荘の所有者。戦争に伴う会社合同により、自ら育て上げた美術印刷会社の経営を人手に渡した果ての、「無条件降伏」ということである。
 その山荘が、やがて、太宰治の『斜陽』の舞台となるのであった。

 

 

 八月十二日日曜日四夜。朝ぐもりもなく朝から快晴なり。暑いけれども風あり温度はやっとF九十度に達するか達しないかの程度なり。朝から昨日の唐助の話にて気を遣ったが先ず無事にて午後を過ぎ、又午後も無事にすんだ。夕五時前後ブザーの音にて茨城栃木埼玉には警戒警報が出ている事を知ったけれど間もなく解除になった。B29一機が宇都宮の辺りから南の方へ出て行ったしまったようである。結局朝から十時頃就眠する迄一度も警報鳴らず。

     内田百閒 『東京焼盡』

 
 「昨日の唐助の話」とは、「明十二日東京に原子爆弾を落とすと言っている。この頃は敵の予告がその通り実現するのだから用心しなければならない」というもの。
高見順の日記では、11日の条に、「街では、十三日に原子爆弾が東京を襲うという噂が立っていた」とある。
 東京への原子爆弾攻撃が噂に上っていたことは確かのようである。



 8月10日の午前7時に、日本政府から発せられた「国体護持」の条件付ポツダム宣言受諾案に対し、12日午前3時に同盟通信社は連合国側からの回答を受信した。
 「バーンズ回答」と呼ばれる。

 
降伏ノ時ヨリ天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ降伏条項ノ実施ノ為其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カレルルモノトス

 これは、その外務省訳である。
 「制限ノ下ニ」の原文は「subject to」であった。
 陸軍は「隷属下ニ」と訳している。
 「制限ノ下ニ」は、もちろん受諾を前提とした訳(国体は護持されるのだから)であり、「隷属下ニ」は受諾拒否、つまり徹底抗戦を前提にした訳(国体は護持されないことになるから)である。

 

 

 
 私が彼を見直したのは、和平交渉に入ってからの彼の閣議における態度である。私は閣議では議事進行のためできるだけ口をつつしみ控える方針をとって来たが、外相に至りては所管外には一切口をかんして語らない。所管事項でも簡に失しても繁にはわたらない。和平条項なども口先でなるべく問題にならぬよう片付けてしまう。彼は一切刷り物をくばらない。見せてくれというと、今翻訳させているという。長くもない条項の訳文をいくら催促しても一日また一日、今持って来させますと口先ばかりではぐらかしてゆく。中にはサブゼクト・ツーの文句を援用して原文を見せよという。彼はすぐ取りよせるというだけで一向とりよせない、原文なり訳文なりを見せたら、サブゼクト・ツーを訳して制限の下にありなどとは、けだしおかしいくらいのものである。とうとう彼はポツダム宣言以後相互に取り交わした文書は、訳文はおろか原文も一切閣議の卓上へ見せずじまいにずるずるとパッスしてしまった。私は心ひそかに味をやるワイと感心したのである。

     下村宏 『終戦秘史』

 
 閣議の席での東郷外務大臣の姿である。

 

 
 昨日ニ予定セシ大臣ノ上奏ハ、手続ノ為本日トナリ、人事上奏後、九日ノ件に附軍ノ実情等ニ附、委細上奏セリ 此ノ時陛下ハ、「阿南心配スルナ、朕ニハ確証ガアル」旨、却テ御慰藉的ノ御言葉アリシ由(通常ハ陸軍大臣ト御呼ビ遊ハサレ、阿南ノ姓ヲ呼バルルハ、侍従武官時代ノ御親シキ心持ノ表現ナル由)。

     『機密戦争日誌』

 
 ポツダム宣言受諾をめぐり、「国体護持の保障」への疑問を理由に、徹底抗戦に傾く陸軍大臣に対し、昭和天皇は大臣の姓を呼び、「心配スルナ」と語りかけたのであった。


 広島の逓信病院では、外傷なく健康に見える人々が倒れ、看護に当たっていた人間が患者より先に死者となるという情景が報告され始めている。

 被爆から6日目となる、夏の一日の出来事。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/12 21:56 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/37920/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月十一日 「何をか言はん」

 

 八月十一日(土)          晴 暑 五、二〇 一一、〇〇
 暁方相当な雨の音を聞いた。一寸で止んだらしい。しかし、御庭はどっぷりぬれている。入浴。今日から体操、駆足は六時十五分になった。今暁の雨の名残か雲が多く朝方は近日よりは大分涼しい。宮様方いつものやうに御学校に御出まし。疎開学園に宮様方の御為に防空壕をお掘りするとすればどこといふ場所検分の為御迎えの車で掛長と一緒に明賀屋へ行く。角倉前警衛局長も大夫も大体学校に不完全な壕を掘ってそれに頼るよりは、早く御用邸に御帰りを願ふべきだといふ意見で藤井掛長にも報告したのだが、掛長が満足しなので又念の為見に来た訳だ。順宮様のお帰りの御供をして帰る。午后裏の畑へ出て皆と一緒に大根の蒔つけをやる。大根はこれで終わる。どうも以前と違って塩原にゐてもちっとも楽しむことはない。さりとて東京に帰っても楽しいことがある訳でもなし、実際淋しい情けない事態になった。
  塩原第五日目

     入江相政 『入江相政日記』

 
 天皇の侍従が、疎開先で大根の種蒔きをしているのである。
 そういえば、8日の日記に「蚊はゐず蚊帳はいらずこんな難有いことはない」という記述がある。塩原では蚊に悩まされることはなかったらしい。

 

 

 八月十一日
 起きると新聞を見た。毎日、読売両紙とも、トップには皇太子殿下の写真を掲げ「皇太子さま御成人・畏し厳格の御日常」(毎日)「畏し皇太子殿下の御日常・撃剣益々御上達・輝く天稟の御麗質拝す」(読売)と見出しを掲ぐ。つぎに情報局総裁の談話。

 
として、高見順の日記では、冒頭に毎日新聞記事が載せられているのだが、談話部分のみ引用する。

 
  情報局総裁談(十日午後4時半)
 敵米英は最近頓に空襲を激化し一方本土上陸の作戦準備を進めつつあり、是に対し我陸海空の精鋭は之が邀撃の戦勢を整へ、今や全軍特攻の旺盛なる闘志を以って一挙驕敵を撃砕すべく満を持しつつある、この間に在って国民挙げてよく暴虐な敵の爆撃に堪へつつ義勇公に奉ずる精神を以って邁進しつつあることは誠に感激に堪へざるところであるが、敵米英は最近新たに発明せる新型爆弾を使用して人類史上嘗て見ざる残虐無道なる惨害を一般無辜の老幼婦女子に与へるに至った、昨九日には中立関係にありしソ聯が敵側の戦列に加はり一方的な宣言の後我に攻撃を加ふるに至ったのである我が軍固より直ちにこれを邀へて容易に敵の侵攻を許さざるも今や真に最悪の状態に立ち至ったことを認めざるを得ない、正しく国体を護持し民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため政府は固より最善の方法を為しつつあるが、一億国民に在りても国体の護持の為に凡ゆる困難を克服して行くことを期待する

 
その後に、阿南陸軍大臣の布告の引用がある。

 
  全軍将兵に告ぐ
 ソ聯遂に鋒を執って皇国に寇す
 名分如何に粉飾すと雖も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり 
 事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ
 仮令草を喰み土をり野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず
 是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て醜
 敵を撃滅せる闘魂なり
 全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし
    昭和二十年八月十日     陸軍大臣

 

「――何をか言はん」とは、全く何をか言わんやだ。国民の方で指導者側に言いたい言葉であって、指導者側でいうべき言葉ではないだろう。かかる状態になったのは、何も敵のせいのみではない。指導側の無為無策からもきているのだ。しかるにその自らの無能無策を棚に挙げて「何をか言はん」とは。嗚呼かかる軍部が国をこの破滅に陥れたのである。
 新聞記事だけでは、動きはさっぱりわからない。取引所の立会停止が小さく出ている。長崎の新爆弾が発表になったが、簡単な扱いだ。

 
というその日の大本営の『機密戦争日誌』には、

 

 省部内、騒然トシテ何等カノ方途ニ依リ、和平ヲ破摧セムトスル空気アリ。
之ガ為、或ハテロニ依リ、平沼、近衛、岡田、鈴木、迫水、米内、東郷等ヲ葬ラムトスル者アリ。又陸軍大臣ノ治安維持ノ為ノ兵力使用権ヲ利用シ、実質的クーデターヲ断行セムトスル案アリ。諸氏横議漸ク盛ナリ。

 
と書かれている。この期に及んで、和平ではなく本土決戦・徹底抗戦を求め、クーデターまでも視野に入れていたのが、昭和陸軍の最終末期の姿であった。

 「統帥権の独立」の名の下に、天皇の統帥を閑却し続けた軍隊の最終末期の姿である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/11 22:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/37862/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月十日の御前会議と蚊遣線香

 

 本日は、8月9日夜の情景から始める。午後10時頃のことだ。

 
 中野駅より朝日新聞特輯号を手にしたる者一々車中に配付して歩く。ソ連対日宣戦布告と大活字にて見出し、モロトフ外相の宣言も掲載しあり。車中乗客一同皆黙してこれを読む。余は事実を已に知る故に、これを前の乗客に渡し読ましむ。一同の表情を注意するに、皆何ら変ることなく、声を発せず唯黙々として紙面に見入るのみ。軍人あり、若者あり、勤務者あり、この現象を如何に解するか、皆呆然として腰を抜かしたるか、或は来るべきことが遂に来たとの諦めか、或は戦争は軍人や何かがやっているので全く無関心なのか判断つかざる状態なり。一人位立ち上がって激励の辞位述べる者あるかと思いたるも、それも聞かず、情けなき次第なり。全く国民は無関心とでもいうべきか。

     大木操 『大木日記』

 
 大木操は、衆議院書記官長。
 山田風太郎は、「こう書いた彼は、しかし自分が立ち上がって激励するわけでもなかった」とコメントしている。
 8月9日の夜の通勤電車、中央線の車中の話である。


 その時間、8月9日の第二回閣議(18時半~22時)が、結論を見出せずに休憩に入る。
 そして、22時50分からその日の第二回最高戦争指導会議が、日付を越えて、8月10日午前2時半まで開催されるのである。いわゆる御前会議である。

 

 天皇陛下は、椅子におかけになったまま少し体を前にお乗り出しになって、まず、「それならばわたしが意見をいおう」とおおせられた。極度の緊張の一瞬である。静かといって、これ以上の静かさはありえない。陛下は、つぎに、「わたしの意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」とおおせられた。私はその瞬間、ひれ伏した。胸がつまって、涙がほとばしりでて机の上の書類に雨のあとのようににじんだ。部屋の中の空気はなんとなく動揺した。なんぴとも声を出す者はない。みなすすり泣いているのであった。私は、陛下のお言葉が、それで終りならば、総理に合図して、会議を次の段階に運ばねばならないと考えたので、涙のうちに陛下を拝すると、天皇陛下はじっとななめ上の方をお見つめになっておられ、白い手袋をおはめになったお手の親指で眼鏡の裏をおぬぐいになっておられる。私は、陛下はお涙で眼鏡が曇るのだなと思うと、さらに一しお涙がでたが、陛下はついに、お手をもって、両方の頬をおぬぐいあそばされた。そして、低い押しつぶしたようなお声で、「念のために理由を申しておく」とおおせられた。

     迫水久常 『機関銃下の首相官邸』


 そこで総理は甚だ恐懼に堪へぬが御聖断を仰ぎ度い事を申し上げた。陛下は静かに発言せられて、外務大臣の意見に賛成である、何となれば従来軍の言へる所は屡々事実に反するものあり、従て必勝の算ありと云ふも信じ難し、現に九十九里浜等の設備も未だ完成せず、仍て難きを忍びて三国共同宣言の条件を容れ、国体の安全を図る必要ありとの趣旨の御沙汰を拝した。三時から閣議が開催せられ、全員挙げて原案に賛成決定した。

     東郷茂徳 『時代の一面』

 

 
 八月十日金曜日二夜。晴。午前六時十五分警戒警報、七時空襲警報。今日も艦上機の攻撃なり。昨日よりは東京に近く千葉方面に来ている様であった。B29も一つ二つ来ていたが、その内九時半頃になると今度はB29百機計りの編隊がやって来て東京の東北方を攻撃した。爆弾の音が盛んに聞こえた。赤羽駅の付近の線路をも狙った様である。十時五十分空襲警報解除、十一時十五分警戒警報解除。更に午前十一時五十分警戒警報にてB29一機の侵入を報ず。午過十二時十五分頃解除。又午後一時十五分警戒警報、今度は艦上機なり。二時四十分解除。午後遅く出社す。途中神田駅にて降りて昨日家内が蚊遣線香を買った古本屋へ行き二十把買った、三十二銭也。古日は今日も来ておらず、間もなく帰る。四谷駅の階段にて家へ野菜や鮒などを持ってきてくれる古日に会う。古日と四谷駅を出かけた時警戒警報の警笛が鳴っていた。午後五時四十分なり。六時十分解除になったがその直前東北の空に爆弾の落下音が聞こえた。その時のラヂオも一部に投弾したと報じた。古日はおなかの工合が悪いと云うのに色色の物を持って来てくれた。今夕も行水を遣う。今日は簡単にすます。

     内田百閒 『東京焼盡』

 
 東京への空襲は続いている。

 9日の日記に、

 古日の机の上に先日中村に頼んでおいた渦巻きの蚊遣線香一函あり。中村の使が届けてくれた由なり。一函五袋十本には三本足りないけれど昔の菊牡丹印の上等品なり。大いに難有い。平安をもたらす魔法の函を持って帰るような気がする。

という記述がある。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/10 23:03 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/37795/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月九日

 

 広島の原子爆弾、ロシヤの参戦など、不気味な空気がのしかかってきた。
 原子爆弾以来、相模湾に一機偵察に来ても、誰もが死の恐怖にふるえた。私は、まさか、この辺りに原子爆弾がおちるとは思わなかったけれど、西久保さんの奥さんは
「もうじき、村中のもん、みんな一ぺんに死ぬんだとよ。」
 と、六月に生まれた百合ちゃんを抱きながら仰っしゃった。
「ああ、何時かは、みんな死ぬのですわ。」
 と、私は小さい声で言った。

     太田静子 『斜陽日記』

 

 

 電話の音に目を覚まして、受話器をとると、同盟通信社の長谷川外信部長が、サンフランシスコ放送によると、どうやらソ連が日本に対して宣戦を布告したらしいという。私はほんとうに驚き、何度も「ほんとか、ほんとか」とたしかめた。立っている大地が崩れるような気がした。長谷川君は、少し待ってくれ、詳しくは間もなく電話するからという。私は全身の血が逆流するような憤怒を覚えた。

     迫水久常 『機関銃下の首相官邸』

 
 迫水久常は鈴木貫太郎内閣の書記官長。

 

 

 山田乙三は背の低い年寄りじみた男で、日ごろは動作は落ち着いていたし、話し方もゆっくりしていたが、この日は様子がすっかり変っていた。彼は日本軍がどれほど早くから充分の準備をしていたか、どのように必勝の信念を持っているか、ということをせかせかと私に説いた。話すにつれてますます早くなる口調が、彼自身も充分の準備と信念を持っていないことを完全に証明していた。
 彼の話が終わらないうちに、突然空襲警報が鳴り出した。私たちはいっせいに同徳殿の外の防空壕に入った。入って間もなく、あまり遠くないところで爆発音が起こったのが聞こえた。私は念仏を唱え、山田乙三は黙り込んでいた。警報が解除になって私たちが分かれるときまで、彼はもう信念の問題などに触れなかった。

     愛新覚羅溥儀 『わが半生』

 
 溥儀は、もちろん満洲國皇帝。山田乙三は関東軍司令官。

 

 

 無条件降伏に関する本年七月二十六日の要求は、日本により拒否せられたり。よって極東戦争に対する日本政府のソ連に対する調停方の斡旋は、全くその基礎を失いたり。日本の降伏拒否にかんがみ、連合国はソ連政府に対し、同政府が日本の侵略に対する戦争に参加し、以って戦争の終了を促進し、犠牲者の数を減少し、かつ急速に一般的平和の恢復に質すべく提案せり。ソ連政府はその連合国に対する義務に従い、連合国の右提案を受諾し、本年七月二十六日の連合国宣言に参加せり。

     ソ連政府の宣戦布告文より

 

 

 
 開戦前より対ソ和平に就ては三国同盟の前より少なからず期する処あり。不可侵迄至らざりしも日ソ和平条約を喜び十六年六月独逸の対ソ開戦に裏切られ爾後独ソ和平を望み又最近に於ては日ソ修交を希念せしが茲に至りて全部水の泡となれり。帝國は之にて全世界を相手として戦ふに至る。運命なる哉、今更泣き事は云はず。敗れても悔いなき一戦に最後のご奉公を期するのみ磋!

     宇垣纏 『戦藻録』

 
 宇垣は、第五航空艦隊司令長官。終戦の日に、自らの操縦で特攻した。

 

 

 交渉決裂の後戦争に勝つ見込みがあるのかと質問したが、陸相は最後の勝利を得る確算は立たないが末だ一戦は交へらるると云った。それで自分は更に日本の本土に敵を上陸させない丈の成算があるかと聞いたが、参謀総長は非常にうまく行けば撃退も可能であるが戦争であるからうまく行くと計りは考へられない。結局幾割かの上陸可能を認めなくてはならぬが上陸に際して敵に大損害を与へ得る自信はあると言ふ訳だ。それで自分は今の陸軍側の説明からすると上陸部隊に大損害を与へても一部は上陸して来る可能性があることであるが、敵は第一次上陸作戦に十分の成果を収めなくても間もなく第二次作戦に出づるは明らかだ、そして我方では第一次上陸を撃退する為に飛行機其他の重要兵器は殆ど全部喪失して其後短期間に補充の見込みは立たないから、原子爆弾の問題は別としても第一次上陸作戦以後の日本の地位は全く弱いものになってしまうではないか、即ち日本は尚一戦を交え得るが其一戦を交へた後の日本の地位を敵国の地位に比較すれば我方は第一次上陸作戦以前よりも甚しく不利な状況に陥るのであるから、成るべく此際直に戦争を終結する以外に方法なしと云ふことになる、従て又日本としては絶対に必要なる条件のみを提出して和平の成立を計ることが絶対に必要だと述べ、随分烈しい議論を交へた。

     東郷茂徳 『時代の一面』


 最高戦争指導会議での、外務大臣としての発言。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/09 23:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/37742

 

 

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昭和二十年八月八日の長野と東京

 

八日(水) 晴
 ○烈日。休みにて午前中図書室目録を作る仕事を続ける。
 ○広島空襲に関する大本営発表。
 来襲せる敵は少数機とあり。百機五百機数千機来襲するも、その発表は各地方軍管区に委せて黙せし大本営が、今次少数機の攻撃を愕然として報ぜしは、敵が新型爆弾を使用せしによる。
「相当の損害あり」といい「威力侮るべからざるものあり」とも伝う。嘗てなき表現なり。いかなるものなりや。

     山田風太郎 『戦中派不戦日記』

 
 在学していた東京医科大は、長野の飯田に疎開していた。のどかな一日だったのだろうか。
 広島の「新型爆弾」被害状況は、まだ伝わらない。

 

 
 八月八日水曜日三十夜。立秋。月夜を数えて三十夜と云う可きか否か解らないが今までの例に従い仮にそうしておくけれど、月齢は零と云う事になっている様である。

 午後三時四十五分警戒警報。同五十五分空襲警報。こんな時間の空襲は初めてではないかと思う。西北の空に爆弾投下の音が続け様に聞こえた。五時十五分空襲警報解除、五時二十五分警戒警報解除となる。田無荻窪の方面の工場地帯の攻撃なりし由にて荻窪の中島飛行機製作所の唐助を案じたり。夕家内湯を沸かしバロン松木の盥を借りて行水を遣わしてくれた。五月二十五日の空襲の晩は家の風呂がたっていて家内は這入ったのだが自分は這入らなかった。それより何日か前に這入ってから以来凡そ二月半の垢を溜めていたわけである。冬と違い特にこの何日か暑くなってからは気持ちが悪くて弱っていた。胸や背に汗が出ても拭く事が出来ない。拭けば大変な垢がよれて方図がつかなくなるのが解っているからその儘そっとして置く。飯田橋駅近くの銭湯まで出かけるのは億劫である。きたない身体をシャツやずぼん下にそっと包んで我慢していた。取っておきの昔の花王石鹸ありて少ない盥の湯でも大体八十日近い間の垢は落ちた様である。夜十一時十五分警戒警報、二目標が侵入したと云った。十一時五十五分解除。

     内田百閒 『東京焼盡』

 
 この日、百閒は、5月25日の空襲で家を焼かれて以来、初めて風呂(といっても行水だが)に「這入った」。
 焼け出され、一升ビンを抱えて都内を歩き回って以来の三ケ月目にしての「風呂」である。
 広島の原爆の記述はまだない。

 

 
八月八日
 今君と二人きりになったとき、
「新聞読んだ?」
 と聞いてみたら、読んだというので、広島の爆弾のことが出ていたかと聞くと、
「出ていた――」
「変な爆弾だったらしいが」
「うん、新型爆弾だと書いてある」
「原子爆弾らしいのだが、そんなこと書いてなかった?」
「ない。――ごくアッサリした記事だった」
「そうかね。原子爆弾らしいんだがね。――で、もし原子爆弾だったとしたら、もう戦争は終結だがね」
 田村町へ歩きながらの会話だ。あたりに人はいないが、私は声を低くしていた。
 ――関薬局は相変わらず押すな押すなの盛況だ。街の様子、人の様子は、いつもと少しも変わってない。恐ろしい原子爆弾が東京の私たちの頭上にもいつ炸裂するかわからないというのに、――それは杞憂というようなものではなく、現実に日本の土地で示されたことなのだが、人々は、のんびりした、ぼんやりした顔をしている。これはどういうことか。

     高見順 『敗戦日記』

 
この記述の後に、「新兵器に防策なき例なし」という見出しの「東京新聞」の記事が紹介されているので、そこから抜粋する。

 
 由来新兵器には対策なきのためしがないのであり、徒らなる焦燥感にかられることなく、文句なし全力をあげて戦争一本に突進すべきの臍の緒をしむべきである、さらにこの種謀略宣伝に対しては巷間デマの一切に耳をかさざることが何より肝要である、もし少しでもこの種デマに迷はされるならばデマはデマを生み、空しく己れをさへ破滅し終わるべきを知るべきである、これは誇大宣伝開始に備ふる吾等の覚悟でなければならぬ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/08 23:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/37690/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月七日 「黙殺」から「しょうがない」へ

 

 今日は8月7日。
 62年前の広島市の光景を想像出来るだろうか?
 原爆投下から一夜明け、あらためて惨状に直面した日だ。

 しかし、昨日の日記でご紹介したように、その日、多くの日本国民は、原爆投下という事実さえ知らなかったのである。

 大本営発表があったのは、昭和20年8月7日15時30分になってからのことだ。

 
大本営発表
一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の損害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

 
 8月8日の高見順の日記に、新橋で買った東京新聞の記事が紹介され、そこに上記の大本営発表も載せられている。

 8月7日の日記では、新橋駅で会った義兄から、噂の形で聞いているだけである。

 
「大変な話――聞いた?」
 と義兄はいう。
「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っぱって行って、
「原子爆弾の話――」
「……!」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし……」
「畑閣下――支那にいた……」
「ふっ飛んじまったらしい」
 大塚総監も知事も――広島の全人口の三分の一がやられたという。
「もう戦争はおしまいだ」
 原子爆弾をいちはやく発明した国が勝利を占める。原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。その原子爆弾が遂に出現したというのだ。――衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。
「黙殺というのは全く手のない話で、黙殺するくらいなら、一国の首相ともあろうものが何も黙殺というようなことをわざわざいう必要はない。それこそほんとうに黙っていればいいのだ。まるで子供が政治をしているみたいだ。――実際、子供の喧嘩だな」
 と私は言った。

 
 そして、62年後の政治家の発言がある。

 
 日本が戦後、ドイツのように東西で仕切られなくて済んだのはソ連が(日本に)侵略しなかった点がある。当時、ソ連は参戦の準備をしていた。米国はソ連に参戦してほしくなかった。日本との戦争に勝つのは分かっているのに日本はしぶとい。しぶといとソ連が出てくる可能性がある。日本が負けると分かっているのにあえて原爆を広島と長崎に落とし、終戦になった。長崎に落とすことによって、ここまでやったら日本も降参するだろうと。そうすればソ連の参戦を止めることができると(原爆投下を)やった。幸いに北海道が占領されずに済んだが、間違うと北海道がソ連に取られてしまった。その当時の日本なら取られて何もする方法がない。長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るのかなということも頭に入れながら考えなければいけない。

  久間防衛相の発言要旨 「原爆投下しょうがない」

             2007/06/30 13:55 「徳島新聞」

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/07 23:57 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/37526/user_id/316274

 

 

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昭和二十年八月六日の日記

 

 八月六日月曜日二十八夜。晴あつし。午前五時五十五分警戒警報。B29一機なり。次いで午前七時三十五分警戒警報、同五十五分空襲警報にて又昨日の如くP51編隊の来襲を報ず。終り頃西北の空に砲声を聞きたり。九時五十五分空襲警報解除、十時十分警戒警報も解除となる。本当の夏らしき暑さになったから今日から夏服に着かえる。きびら色にて真白ではないが小型機の来襲にそなえて白い物は着るなと新聞などで頻りに云っているので小型機は構わぬとしても行人や電車の相客の目が五月蠅いから成る可くよそうと思ったけれど外に無いのだから止むを得ない。構わずに着て歩くことにせり。当の相手のことは構わぬけれど、こちらの側の仲間の目が五月蠅いから、口が八釜敷いから、という気兼ねは満洲事変日支事変以来の普通の感情なり。こんな事がどれ丈日本人を意気地無しにしたか解らない。午後出社す。早めに帰る。夏らしく暑し。電車から降りて四谷の歩廊を渡る風に吹かれて暫らく涼むのはこの頃毎日の仕来りなり。今日もそうしていたら大きな顔の男が階段から下りて来た。普通の顔の何倍もある位大きい。相撲取りだと気がついたが国民服を着てゲートルを巻いている風態は常人と変わらない。ただ顔ばかり大きくその顔が頬骨が飛び出して目がくぼんで厚いきたない唇が突き出ていて、大きいなりに貧弱である。この頃の食べ物で相撲取りがこんな顔になったのだと云うことを考えて見たが可笑しくも面白くもなかった。留守に青木の弟来たりし由。今日は配給のお米あり。但しお米は六㌔にて大豆が十四㌔なる由。しかもそのお米は脱脂豆がうんと這入っていると云いて家内こぼす。

     内田百閒 『東京焼盡』

 

 内田百閒の日記に、広島への原爆投下が記録されるのは、8月9日になってからのことである。
 百閒がこの日記を記している時刻には、広島には惨状が広がっていた。

 

 

六日(月) 晴
 ○丸山国民学校の内部は一部工場化されつつある。機械すえつけ作業にモンペ姿の女学生たちが動員されて、灼けつくような炎天の下を、営々として蟻のごとく石塊を運ばせられている。
 ○ドイツ処分案苛酷を極む。トルーマン、チャーチル、スターリンの三人は、人間の馬鹿の見本である。
 そう思うと実に人類の滑稽を感じるが、しかし現実に第二のドイツと目されている日本を思うとき、決して笑いごとではない。滑稽なる喜劇であればこそ、敗北せる当事国はいっそう悲惨な、戦慄すべき状態となる。
 決して敗けられない。況んや降伏をや。降伏するより全部滅亡した方が、慷慨とか理念とかはさておいて、事実として幸福である。

     山田風太郎 『戦中派不戦日記』

 

 山田風太郎は、当時23歳の医学生として、長野県に疎開していた。8日の日記に「広島空襲に関する大本営発表」が記録されている。

 

 

 八月六日(月)         快晴 頗暑 六、〇〇 一〇、〇〇
 昨夜おそかったので今朝はねむい。山内へ行き、日光署長に会って蔵のことを頼む。十一時帰宅、君子、子供二人と一緒に寂光の滝へ行く。水源地の流れで握り飯を食べ滝で馬鈴薯を食べる。滝は君子、令子始めての事で非常に感心してゐた。全くいつ見てもいい滝である。帰りは薪を一杯拾って帰る。こんなに四人で散歩が出来ようとは夢にも思わなかった。夕食、食事をしてゐると「かつ」から電報で明日待ってゐるとの事、皆明日行くことになる。折角御用の都合をつけて日光まで来て二日間会へるのを何よりの楽しみにしてゐたのに全くがっかりして了つたがどうにも仕様がない。皆宮司の所に風呂をもらひに行く。予は早くから入床、夜君子と少し話をして間もなく寝て了ふ。今日は空襲もない。
  日光滞在

     入江相政 『入江相政日記』

 

 昭和天皇の侍従である。家族での休日。



 昭和20年8月6日の日記から、広島原爆投下当日の、それぞれの日常を拾ってみた。

 この時点では、誰も、広島の惨状を知らないのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/06 22:27 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/37465/user_id/316274

 

 

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バグダッドの夏と昭和20年の東京

 

 暑いのは苦手だ。

 夏は苦手な季節だ。



 幸い人間なので、つまり猫とは違って毛皮に覆われているわけではないので、比較すれば楽なのだろう、とは思う。
 しかし、それで涼しくなるというわけでもない。

 暑いことには変わりないのだ。



 昨日にご紹介した、内田百閒の日記を思い出す。

 パナマ帽に、日よけの蝙蝠傘だ。ダンディーな話だ。
 昭和19年の夏には、日よけの蝙蝠傘もパナマ帽も活躍していたはずなのである。
 まだ、東京にB29が飛んでくる前の話だ。

 そして、昭和20年8月の初め、麦酒にありついて喜ぶ百鬼園先生の姿。
 麦酒三本のもたらす喜び。暑い夏の話である。

 昨日も書いたが、10日もすれば「終戦」である。しかし、それを知るわけではない。日常と化した戦争があり、空襲まで日常化し、いつ果てるともわからない日々。

 その中で、空襲で焼いてしまったパナマ帽を惜しみ、麦酒に喜び、食料品の配給延期に先の暮らしを憂う。

 夏の暑いことは変わらないが、現在とはまったく異なる世界がそこにある。
 日常生活があることには変わりはないが、日常の内容が異なるのである。



 私が、戦中の様々な日記類に興味を覚えたのは、かなり前のことだった。
 空襲下の東京で、会社に出勤するサラリーマンの姿を読んだ時には、驚いたものだった。
 よく考えれば、驚く方がおかしいのである。
 生産であれ、流通であれ、戦争下であっても必要なのだ。
 軍事はもちろんのこと、民生用にも様々な製品は生産され、流通を保障され、販売される必要があるのだ。
 サラリーマンは戦時下であれ、そして空襲下であっても、会社に出勤しないわけにはいかないのである。あまりに当たり前な話なのだが、そこまで想像力が及ばなかったのも正直なところだった。



 イラクの現状レポートを読むと、その日常が奪われている。
 病院から医者がいなくなっているという。出勤途中が危険であり、勤務自体も危険を免れない。
 サラリーマンも同様のようだ。
 戦争の危険ではなく、あの戦争がもたらした、イラク社会の破壊が原因だ。
 米軍は占領軍としての義務である治安維持に無関心だった(これは軍の問題というより、ラムズフェルド率いる国防総省の問題と言うべきではあるが)。テロリストが流入し宗派対立を煽った。
 結果として、市民の外出もままならない世界が、出現してしまったのだ。


 かつての日本に対する占領は、大日本帝國政府の行政機構を温存した中で行なわれたものだ。
 イラク政府は蒸発してしまった。大日本帝國は連合国に降伏したが、フセインのイラク政府は降伏文書に調印してはいない。
 その上での治安維持能力を欠いた占領統治があったのである。
 戦後日本の民主化の成功が、イラクの戦後モデルとして語られていたことを思い出すことが出来るだろうか?
 イラクの戦後統治は破綻し、民主化への道のりどころか、イラク国民としての統合の維持が出来るのかどうかも怪しくなって来ている。


 暑い中で、昭和20年の夏を思い、イラクの現在を考える。涼しい気持ちにはなれない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/05 20:53 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/37373/user_id/316274

 

 

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2008年11月26日 (水)

昭和二十年八月四日の日記

 

 八月になると、年寄りや子供の強制疎開の噂は、ますます大きくなった。もっと山奥へ逃げていく日のために、丈夫な鞋をつくっているひともあった。西久保さんでは主人と、中風のお祖父さんとお祖母さんが残って、子供とお母さんは、牛車で山奥へ逃げて行くと、話していらっしゃった。高木先生は、
「いよいよ危険になったら、お母さんと、ホオキ沢へ行らして下さい。」
 と、言って下さった。
「ホオキ沢までどうして行くのでしょうか。」
 と伺うと、
「馬車で行けるところまで行って、あとは歩いて行くのです。」
 と仰っしゃった。私は、ただ、
「どうぞ、よろしくおねがいいたします。」
 と、おねがいした。

     太田静子 『斜陽日記』
 

 
 『斜陽日記』の、昭和20年8月の記述の冒頭である。『斜陽日記』として発表されているものは、日記そのものではなく、本人による事後の要約なので、引用の記述からは何日のことであるかの特定は出来ない。
 が、その後に「広島の原子爆弾、ロシヤの参戦など…」という文章が続くので、それ以前の8月はじめの日々の雰囲気を伝えるものであろう。
 大雄山荘という知人から提供された山荘での疎開生活からの更なる「強制疎開の噂」であるところも注目点である。

 
 
 八月四日
 読売、毎日両紙とも、爆撃予告の敵のビラに驚くなという記事を出している。当局からの指示によるのであろう。
 夕方店へ。久米、川端両氏に会う。久米さんは運輸省依頼の巡回講演から前日帰ったところ。

     高見順 『敗戦日記』

 
 8月4日の記述はこれだけ。
 翌5日の日記に、
 
 海軍省、司法省の赤煉瓦の建物はあったが、それらは今焼け落ちてしまった。――小型電車はその頃のと同じだったが、車の破損のひどさ、車内の乗客の、半分はまるで乞食のような風態のひどさ、――感慨無量というような生易しいものではない。これらのひどさは、もっともっと増すのであろう。昇るのはむずかしいが、落ちるのは早い。これは日本の文化についてもいえるだろう。一度落ちたら、その向上はなかなか困難だ。しかも戦いに負けたら……。胸に来るのは、いつものことながら、暗い想いだ。私ひとりは、精神的に大変元気だが、ひとりの力など空しいものである。

 
という記述がある。

 
 
 
 八月四日土曜日二十六夜。朝ぐもり、後晴。昨夜は一度も警報を聞かず朝まで続けて寝る事が出来た。一昨夜も然り。大騒ぎの後は敵も矢張り息抜きすると見えたり。今日も暑し。午まえに三十一度なり。しかし風ありて心地よき夏日和なり。焼けた後ですぐ思ったのは近年になって丸善から買ったパナマ帽と何年か前に同じく丸善から買った日よけの青い蝙蝠傘とを郵船の帽子掛けに持っていって掛けておけばよかったと云う事である。

     内田百閒 『東京焼盡』

 

 暑くなって、日よけの日傘と、パナマ帽を空襲で焼いてしまったことを惜しんでいるのである。
 この先に、

 今日は配給の麦酒三本あり。冷蔵庫や氷は叶わぬ事なれども汲み立ての井戸水に冷やして三本続け様に飲み大いにやれたり。それはよけれど半月に及ぶ穀断ちの後漸く今日の配給日まで漕ぎつけたと思ったら午後家内が近所の人人と請取りに行って見ると配給所にお米が無いとかにて六日に延びた由なり。先日来既にお米を食べる食べないの問題ではなく、代りの粉も中川さんから二度目に貰った澱粉粉も大豆さえも無くなっているところだから配給の日取りの狂うのは由由敷大事也。この二日を如何に過ごすか家内苦慮中なり。
 

という記述がある。麦酒にありついて、若干のご機嫌ではあるけれど、食べるものがないのである。


 8月15日には「終戦」となるのだが、それは現代から振り返っての話。
 まだまだいつまで戦争が続くのか、見通しがない中での三人の日記なのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/08/04 23:17 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/37308/user_id/316274

 

 

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東京大空襲・戦災資料センター 鈴木賢士写真展「東京大空襲の生き証人」 (続き)

 さて、画像でご紹介しているのが、会場の模様だ。
 

 
一番上が、スライド上映風景。
二番目が、鈴木賢士さんの会場案内風景。
三番めが、学芸員さんの解説風景。



 スライドの画像に映っているのは、豊村美恵子さんだ。
 豊村さんは、大空襲の日に、右腕を失った。
 その失ったことを強調したいがために、服を脱いで写真を撮らせた(それがスライドの画像)。

傷害を負った右手を見せてもらいました。ブラウスを脱いで義手をはずす作業が大変です。はずすよりもつけるほうが、時間がかかります。恐る恐る「撮ってもいいですか?」と聞きました。あっさり「いいわよ」という声に、こちらが戸惑うほどでした。これは単に豊村さんが70代後半という、年齢だけのこととは思えません。恥ずかしさなど乗り越えて、自分たちが味わった苦しみを、何とかして後世に伝えたいという熱意が伝わってきました。

と、鈴木さんはその間の事情を著書に記している。

 機銃掃射にあう一週間前に撮影された古い写真では、鈴木さんの右腕は、まるで右腕を撮ることを目的としていたかのように、強調されて写っている。
 右腕なしに、この62年、豊村さんは暮らしてきたのだ。
 その豊村さんと鈴木さんが並んで写っているのが、二番めの画像だ(豊村さんの右腕は義手である)。


 三番目の画像は、ちょうど学芸員さんが、焼夷弾の説明をしているところ。
 ベトナムで使われたナパーム弾。イラクで使用されたクラスター爆弾の構造も、東京大空襲当時の焼夷弾の現在形だ。
 焼夷弾による都市無差別爆撃を最初に実行したのは、中国大陸にいた大日本帝國の軍隊である。支那事変当時、重慶への攻撃に、日本の爆撃機は、焼夷弾を使用した都市無差別爆撃を実行していたのである。
 東京大空襲の軍事的起源は、実は、大日本帝国軍隊にあるのだ。
 これは記憶に留めておくべきことだ。



 ところで、先にも書いた通り、この「東京大空襲・戦災資料センター」は、民間の施設であり、公的施設ではない。
 現実には、公的施設としての、東京大空襲に関する資料館は存在しないのである。

 10万人という犠牲者が出たのが、東京大空襲だ。
 その犠牲者の正確な数さえ、実は、いまだに、確定されていないという。行政として、犠牲者数の確定を試みる努力は、いまだになされていないというのである。戦後62年過ぎるというのに、である。

 また、公的な東京大空襲犠牲者のための慰霊施設も存在しない。10万人という犠牲者数にもかかわらず、だ。

 そして、民間被災者への補償は何もされないまま62年が経過してしまったのである。
 政府によれば、軍人は、国家との雇用関係があるので「手厚い援護」の対象となるが、民間人は雇用関係になく、その被災を補償する責任はない、という理屈らしい。

 しかし、近代戦とは「総力戦」であった。前線も銃後もないのが近代の「総力戦」なのである。であるからこそ「国家総動員法」が制定され、銃後の民間人も国家の統制下に置かれていたのではないか、そう思わざるを得ない。
 植民地出身者が戦後補償からはずされたことは知られているが、「内地」の「帝都」の「国民」の被害に対する補償すら、「民間人」であったという理由で拒んできたのがこの国の現実だ。

 もう62年も過ぎるというのに、それが、この国の現実なのである。



 「戦後レジームからの脱却」どころか、いまだに戦後補償すら実行出来ていないのが、この、美しいはずの国の現実ということになる。


  (画像の使用を快諾いただいた、東京大空襲・戦災資料センターの関係者の皆様に、お礼申し上げます)





追記 : 階下に降りて、資料を購入し、トートバックに詰めようとしていたら、トートバックの中から、昨日購入したインゲンが出てきた。受付にいたご婦人から、「インゲンはその日に茹でなきゃダメじゃないの。お嬢ちゃん(娘に)今日の胡麻和えはかたいわよ」と言われてしまった我がパートナー、でありました。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/07/30 01:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/36873/user_id/316274

 

 

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東京大空襲・戦災資料センター 鈴木賢士写真展「東京大空襲の生き証人」

 

 

 「東京大空襲・戦災資料センター」は、台東区北砂1丁目にあった。

 「東京大空襲の生き証人 鈴木賢士写真展」のギャラリートークの日ということで、急遽、出かけることにした。家族全員出動である。


 チラシの地図もよく確認せず(提案者がやわらかああひる―つまり、我がパートナーである―だったので、おまかせ)、錦糸町の駅で降り、タクシーに乗る。
 しかし、運転手さんも場所を知らない。チラシの地図を頼りになんとかたどり着く。ここの前はいつも通っていた、という運転手さん。確かに建物も新しいので、地元知名度もまだなのかも知れない。

 入館し、一服してから、二階でのギャラリートークが始まるまで三階の展示を観る。
 投下された焼夷弾の実物を始めとした62年前を伝える展示物をざっと観る。

 時間になったので、二階へ。今日は、ここの「友の会」の総会も兼ね、満員の会場だった。

 鈴木賢士さんの撮影による、東京大空襲の被災地の現状写真や、被災者の現在の姿を写したモノクロのスライドを、鈴木さんの解説と共に観る。
 続いて、(総会の行事なので)最近の集まりのビデオ上映があり、その後で、鈴木さんの案内で、会場めぐりをする。被写体となった方も会場にいらっしゃり、お話も伺う。

 次に三階の展示を、学芸員さんの案内で観る。今回、新たな展示物が加わったということで、その解説を中心に62年前に残された品々を観た。
 会場の参加者には、実際の体験者が多いので、所々で、学芸員さんに、その表現は足らないとか、そこはこうだとか、注文(?)も付く。しかし、それは、新たな歴史証言でもあり、体験者ならではのものだ。以前の青原さんの広島のドキュメント上映会場と同様だろう。事実はまだまだ眠っているということでもある。

 再び、総会の続きということなので、会員ではない私達は、そこでおいとまをする。
 その時に、この日記用に、撮影した画像の使用許可を願い、快諾をいただいた。ついでに、この「東京大空襲・戦災資料センター」のことを伺い、すべてが民間の志で出来上がったことを聞く。行政はノータッチ。資金のすべてはカンパであり、総会をしていたのは、その資金提供に応じた人々だったのだ。



 ここに集まった人々は、今年3月の「東京大空襲 謝罪及び損害賠償請求裁判」の関係者でもあった。

 会場で伺った話や、購入した資料を読み合わせてみると、「訴訟」は、もう30年以上の様々な活動の末の出来事だということが理解出来る。

 スライドでも紹介されていた清岡美知子さんのエピソードが、問題の所在を物語っている。
 
1965年8月15日。全国戦没者追悼式に招かれ、武道館へ母と出席。軍人遺族代表の「息子は戦死したが、手厚い援護を受けて、この国に生まれた幸福を感じている」との発言を聞いて、煮えくり返る思い、以後出席したくないと慰霊協会に連絡
 
というのが、その日記の一節である。
 「軍人遺族への手厚い援護と比較して、民間被災者には何の補償もないことへの怒りが、ひしひしと伝わります」と、鈴木さんはその著書でコメントしている。

 民間人としての戦災被害に対する補償はないのである、この国では。


 ところで、提訴時に、どこかのブログで、なぜアメリカを訴えずに日本政府を訴えるのかという疑問が書かれているのを読んだことがあった。
 資料として購入した「訴状」にはちゃんとその理由も書かれていた。

 「外交保護義務違反」行為を日本政府がしているからだ、というのがその理由であった。
 つまり、国際法(ハーグ陸戦条約第3条)上は、原告はアメリカ政府に対する請求権を持っている。
 しかし、1951年の「対日平和条約」第19条において、

 
日本国は、戦争から生じ、又は、戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する
日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し…
  
…ているのである。原告は、アメリカ政府に対する請求権を、日本政府がアメリカ政府と結んだ条約により否定されていたのである。よって、訴訟の対象は、日本政府とならざるを得ない、わけだ。


            ― 続く―

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/07/29 23:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/36869/user_id/316274

 

 

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「戦争を知らない子どもたち」を知らない子どもたちの時代に

 

 「戦争を知らない子どもたち」を歌った世代の中心も今や老人である。

 私はポスト団塊エイジで、彼らの後発世代、ということになる。中学生として歌ったことがある世代だ。

 やがて高校生になり、少しはモノを考えるようになってからは、「戦争を知らない子ども」という自己規定の脳天気さを感じるようになった。
 一方で、それを中心になって歌っていた団塊エイジの置かれた状況にも理解は行き届いていったように思う。


 ポスト団塊(昭和30年代前半生まれというあたりだろうか?)エイジから団塊エイジを見て、あれだけ暴れながら、あれだけ世の中を騒がせながら、実現したのは筑波大学と共通一次試験でしかなかったじゃないかという思いが、正直なところ、ある。世の中は変わるどころか悪くなった(筑波大学開設も共通一次試験導入も善なることであったとは思えない)という感覚だ。
 ポスト団塊エイジ=三無主義世代でもある。無気力・無感動・無責任というようなことではなかったか。
 目の前で革命騒ぎが始まり、続き、静まり、世の中は何も良くはならない、のを目の当たりにした世代である。

 私に関して言えば、集団で何かをやろうとすることの限界を見せ付けられたような気分であった。
 自分ひとりでも出来ることはあり、衆をたのむことはしない、ということが自分の原則となった。
 あくまでも、個人主義者である。


 で、「戦争を知らない子どもたち」だ。
 第二次世界大戦後も、戦争はあちこちで続いている。そのことを知っている自分を考えれば、自分を「戦争を知らない子どもたち」として自己規定してしまうことは欺瞞である。
 そう、当時の私は考えた。
 一方で、先行する団塊エイジの置かれた状況も理解出来ていた。

 まだ、敗戦から25年しか経っていない時点での話だ。若い世代に対する「大人」の決まり文句は「戦争も知らないくせに」であった時代ということだ。
 自らの「戦争体験」を特権化し、後発世代からの異論を封じ込める。それが当時の「大人」世代の常套手段だったことは私の世代も知っている。

 敗戦時に25歳だった人物がまだ50歳という時代である。現在の団塊エイジより若かったのだ、当時の(戦争を知っている)「大人」は。

 その時代状況の中での、逆説的な自己主張の表現として、「戦争を知らない子どもたち」を私は理解するようになった。1970年代の後半くらいの話だ。

 しかし、いまだに戦争は地球上ではありふれた事態であった。である以上、「反戦」の言説として「戦争を知らない子どもたち」が持ち出される度に、私は、大いに「しらけた」ものだ。

 若い世代の先行世代に対する反抗の歌、これが「戦争を知らない子どもたち」への正当な理解だと思う。



 さて、戦争という問題だ。
 「戦争体験の継承」が課題として取り上げられるのを見聞きする。

 1970年当時、敗戦を大人として経験した世代はまだ世の中の現役であった。
 今年で敗戦後62年である。
 1970年から62年前を考えてみたい。1908年だ!
 第一次世界大戦前の話、日露戦争から間もない時代ということになる。1970年代の「大人」にとってさえ、第一次世界大戦ましてや日露戦争など大昔の話であったはずだ。

 あの1945年の敗戦に至る戦争は、それだけ大昔の体験となってしまっていることに気付かなければならないと思う。
 「戦争を知らない子どもたち」が今や老人である時代なのだ(老人にしちゃぁ元気に過ぎる気もするが)。

 「戦争体験の継承」の困難さを考える時に、62年という時間の流れを前提としなければならないということだ。
 当事者の証言を得ることはますます困難になっていくだろう。
 一方で、その時間は、かつての出来事を「歴史」として対象化することを可能にする時間でもある。
 冷静な批判の対象と出来るようになった、と考えることも可能なのである。

 残された短い時間で、当事者の証言を集めること。その一方で、冷静に歴史的評価の対象とすること。
 その二つのことが、私達の世代の前にある課題だと思う。


 戦争のいまだなくならない世界を生きる私達の。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/07/15 22:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/35797/user_id/316274

 

 

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健康という名のテロリズム

 

 健康とは何なのだろうか?

 このところの、コミュニティ「存在の意味」での、やわらか@テロルさんのトピック「人間の存在様式としての「公共性」の問題」の上での、やわらか@テロルさんの発言に注目している。


 ナチスの政策としての、障害者への「断種」と「安楽死」をめぐる議論である。
 アーリア民族至上主義イデオロギーを現実化するにおいて、民族=人種の「健康」がナチスのテーマとなっていた。

 人種の健康の維持に欠かせないのが、不健康者の排除である。
 至上の人種としてのアーリア人の健康への脅威が、外部のユダヤ人であり、内部の精神障害者であった。

 ナチスの政権獲得と共に、ユダヤ人の排除が現実化する。
 外部からの、アーリア人種の健康への脅威の排除が、その目的であった。

 精神障害者は、それ以前から精神病院に収容され、社会からは隔離されてはいた。
 しかし、福祉の対象として、その生存は国家によって保障されていたのである。

 ナチス特有というよりは時代の産物という側面もある当時の「優生学」思想の結実として、政権獲得の年である1933年7月14日に、第三帝国議会において、「遺伝病の子孫を予防するための法律」が可決される。
 精神薄弱者、精神分裂病者(統合失調症患者)、躁鬱病者、癲癇患者、重症アルコール中毒者、先天性の盲人と聾唖者、重度障害児、小人症、痙性麻痺、筋ジストロフィー、フリードライヒ病、先天性股関節脱臼の患者が、断種処置の対象となったのである。
 アーリア人種から、遺伝的障害の拡散の危険が排除された、と理解されていた処置である。
 アーリア人内部における人種の健康の維持は、これで保障される。


 一方で、ヴァイマール期の悪化した経済状態は、国家による障害者への福祉政策への疑問を生じさせた。
 福祉への支出は、国家財政の損失として、一部の人間から理解され始めるのである。
障害者への安楽死の妥当性が議論の対象となり始めるのである。
 これは、優生学的問題意識とは別の文脈として理解することが必要のようである。
 法律家カール=ビンディングと医師アルフレート=ホッへの共著になる『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』と題された1920年に出版された本が、その手の議論の嚆矢とされている。

 この書物では、安楽死の対象として3つのカテゴリーが想定されている。
 

1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
2)治療不能な知的障害者
3)瀕死の重傷者
 

 この3つのケースが、法律家カール=ビンディングにより、安楽死の対象として想定され検討されるのである。
 そして、2〉のケースが特に精神科の医師アルフレート=ホッへによる考察の対象となっている。

 出版年はナチス結党の年でもあり、同時代性を感じられると共に、しかし異なる文脈の出来事であることにも留意しておく必要はあると思う(ナチスの思想と同書を直接的に結び付けて論じる風潮に、私は、距離をおきたいと思う〉。

 安楽死が実行されるのは、1939年になってからのことであるが、その際は、カール=ビンディングとアルフレート=ホッへの想定を超えた範囲の「精神障害者」が「安楽死」という名の殺人の対象とされることになった。
 T4アクツィオーンとして知られる作戦の開始である。ドイツ国内の何ヶ所かの精神病院内に、安楽死用のガス室と焼却炉が設置される。
 1941年になり、作戦の内実が知られるようになり、教会関係者からの異議がもたらされ、作戦は中止されるが、その時点で7万人以上の精神障害者がガス室での殺人の対象となっていたのである。

 そして、このT4アクツィオーンの中心に位置していた人物が、後のユダヤ人に対する「最終的解決」の一環としての「絶滅収容所」の設置に携わっていくのである。


 アーリア人種の健康の実現は、ユダヤ人の絶滅と、精神障害者の抹殺にかかっていた、そう考えられていたのである。

 ちなみに、アドルフ・ヒトラーは菜食主義者として有名であり、酒もタバコも嫌っていた。
ナチスの健康な世界の中心にはふさわしい、そう言うことが出来るだろうか。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/06/30 23:00 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/34627/user_id/316274

 

 

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続・政治的対立と宗教的対立、その背後にある出来事(現代史のトラウマ38)

 

 さて、「政治と宗教」について語りだしてしまっていた。


 パレスチナの現状を語る上で、それを宗教対立の問題として考えてしまうことの的外れであることを、まずは書いたはずだ。

 それは政治的な問題である、と。


 しかし、私の「政治的な問題」という表現には、二重の意味が込められている。

 職能としての政治家の関与する政治の世界があり、職能としての宗教家の関与する宗教的世界がある。
 そこには政治的世界と宗教的世界という二つの世界があり、所属する人間集団にそれぞれ別の形で影響力を行使しているのだ、という理解の仕方である。
 パレスチナ問題を語る上で、これまで前提としてきたのは、基本的にはそのような「政治と宗教」をめぐる理解の仕方であった。



 人間存在、社会的存在としての人間は、不可避的に「政治的」ならざるをえない。
 そのような人間理解の仕方を前提として、問題を考えることも出来るし、私は、考えておくべきであると思っている。

 これまでにも何度か書いてはきたことであるが、一個体のヒトが社会を作ることはない。
 社会的関係とは、複数のヒト個体の存在を前提として起きる出来事である。

 さて、ヒトが二個体、というより二人の人間がいれば、そこには強弱の関係が発生し、支配と被支配の関係が生まれてしまう。
 まず、対等な関係は形成されず、どちらかが事態を主導し、残りがそれに従属的になるのが一般的構図である。
 相互関係の承認は、平和的に行なわれることもあれば、暴力的過程を経る場合もある。
 いずれにせよ、そこに権力関係が発生するのである。

 私はそのような事態を肯定しているわけではない。しかし、リアルな人間理解として、その現実を承認しておく必要は感じるのだ。そのような事態の存在を前提にするからこそ、私は、そのような関係の固定化や支配関係の強化を目指すのではなく、支配-従属関係からの自由度の高い社会システムの形成を主張するわけである。
 それは、システムとして固定化されてはならないという主張も、そのような関係は人間の社会的関係そのものから不断に発生するものであるという認識が支えるわけだ。権力関係を発生させることのない社会システムは存在しえないだろうというのが、私にとって、リアルな認識である。


 さて、三人の人間が存在すれば、そこに「政治的」関係が発生する。
 一人にとって、他の二人は、自分の友であるか敵となる。つまり、そこに党派が発生するのである。

 「友と敵」という形で、政治的関係を定式化したのがカール・シュミットである。
 つまり、どのような社会的関係であれ、それが「友か敵か」という言葉で語りうるような関係であれば、それを「政治的」関係として定義するわけだ。

 つまり、ここでの「政治的」関係というのは、職能としての政治家に独占されているような社会的関係ではなく、社会的存在としての人間が、その社会生活の様々な局面で、所属集団内の他者との関係で持たざるをえない社会的関係なのである。
 あるいは、集団間の関係でもあるが、そこにある「友か敵か」という原理は同一である。


 「宗教的対立」について考えてみよう。

 ここでは、教義論上の対立を想定してみよう。経典の解釈をめぐる対立である。
 ある解釈を奉じる集団と、別の解釈を採る集団との対立という構図である。
 教義上の「理論的な」対立では、確かにあるだろう。
 しかし、そこには純粋な理論上の問題のみが存在するのではない。理論的対立は、既に党派性を帯びて、議論の応酬による適切性の問題からは離れ始めてしまうのである。 理論の問題であったものが、もう理論的には解決出来ない事態に至るのである。
 しかも、同じ党派内部でも主導権をめぐる闘争が発生する。これは、宗教の内部に政治が介入するのではなく、人間は社会的存在として「政治的」ならざるをえないという、人間の条件から発生する事態なのだ。

 宗教間対立であれ、事態は同様である。

 求められるのは、宗教的空間が、同時にそのまま政治的空間として存在しているということへの想像力なのである。


 政治と宗教は、人間生活の上では、まったく別の問題であるという側面も確かにある。職能として考える限りそれは正しい。
 しかし、人間の条件としての政治性という問題は、まったく別の、人間としての根源的な事態なのである。

 宗教が、人間にとっての根源的事態であるという側面は、また別に論じられなければならない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/27 00:05 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31993/user_id/316274

 

 

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政治的対立と宗教的対立、その背後にある出来事(現代史のトラウマ37)

 

 やっと土曜日。
 …にもかかわらず、なんだか忙しい一日だった。

 この一週間、公私共に忙しかった感じもする。自分の日記を書くので精一杯で、皆さんのところを訪問することも出来なかった。


 振り返ってみれば、この二週間ほどは、「神の姿日記」ならぬ「齟齬の姿日記」を書いている。
 まぁ、「神の姿日記」自体、スタート時点では、「いぢわる日記」と呼ばれていたものだ。

 どちらも、いただいたコメント一つで、世界ががらりと変わってしまった。

 自分の考えが、それまでの方向から、思いもよらぬ方向へと転換されてしまった。コメント一つの力、である。

 とはいうものの、「いぢわる日記」の時点での問題意識も「神の姿日記」上での関心のあり方も、そして現在の「齟齬の姿日記」上での議論の展開も、たいして変わっちゃぁいない、ようにも思える。

 私と世界の関係、私と他者の関係、という問題を前に、「いぢわる」の在り処を検証しようとしてみたり、「神」という存在を介在させてみたり、「コミュニケーション」という視覚から眺めてみたりという、異なるアプローチをもって立ち向かってみた記録、と言えるかも知れない。

 結局、私自身の問題意識が軸にある以上、自分にとってのテーマとなるものに、そう変化はないということなのだろうか。


 さて、問題のコメント、齟齬をめぐるコメントをいただいた日記では、その後もコメントのやり取りが進み、最後には「政治と宗教」が問題となってしまっていた。

 宗教的和解を重んじる(という私の理解が正確であるかどうかは別として)心情を述べたコメントに対し、私自身の認識として、現代社会における宗教的対立の問題として一般に流布されている問題の多くは政治的な問題であるという認識を語っておいた。
 ここでは、いただいたコメントへの反論という形ではなく、一般的な問題として、「政治と宗教」の問題、あるいは「宗教的対立」として世の中では理解されてしまっている問題についての私の考えを述べておこうと思う。

 これもまた、「現代史のトラウマ」シリーズに一貫して流れている問題意識そのものであると考えるからだ。

 実際、現在のパレスチナにおける問題は、宗教的対立の現実化した状態として理解されることが多く、そのために解決困難な問題であるという形で受け入れられていることが多い。
 しかし、パレスチナの地における問題は、ユダヤ教とイスラム教の対立ゆえに存在しているものではない。
 (イスラム教徒でもある)アラブ系の人々が住むパレスチナの土地に、(ユダヤ教徒でもある)ユダヤ系の人々により建国されたイスラエル国家が存在し、そこでは入植者として侵入してきたユダヤ系イスラエル国民による、先住のアラブ系パレスチナ人に対する暴力的な占領・抑圧状態が続いていることが、問題の根源にある出来事なのである。
 それは第二次世界大戦後のことなのであり、パレスチナの地へのユダヤ人国家建国という事態が招いた出来事なのである。イスラエル国民(となったユダヤ人)によるパレスチナの占領(に伴うパレスチナ人排除)という事態がなければ、問題は存在しなかったのだ。

 そして、事態の悪化は、イスラエルの政治家にとっては利益であり(国民の利益であるかどうかとは別の話である)、パレスチナの反イスラエル政治組織にとっても勢力拡大のチャンスでもあるのだということは、理解しておいた方がよいだろう。


 いずれにせよ、問題の本質的解決をもたらすのは、宗教的和解ではなく政治的な解決なのである。なぜならば、問題の起源が宗教的対立にあるわけではないのだから。

 もちろん宗教的な相互承認は必要である。宗教は人間を根源的なところで動かしうる力でもあるからだ。そのことを否定するつもりはまったくない。


 しかし、ところで、私にとって「政治と宗教」として語られる問題は、これまで語ってきたこととはまったく異なる側面を主題とするものでもある。


                          続く

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/26 21:20 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31985/user_id/316274

 

 

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歴史的70年代の記録と大日本帝國の記憶

 

 

  

 『赤軍 -PFLP 世界戦争宣言』を観て来てしまった。

 初見である。
 ある年代以上の人々には郷愁を誘う題名だろう。
 若松孝二×足立正生による1971年の作品だ。



赤軍 -PFLP 世界戦争宣言
アウトロー講座07’
5月24日 (木)
16:30~上映/18:00~対談
第1講義室1号館103

…というチラシ。武蔵野美術大学の学生からもらった。
 実はよくデザインされた、B4版3枚続きのチラシ。デザインが気に入って、壁に貼っている学生からワンセットもらってしまった。先週の話だ。時間的に参加は無理だろうと考えていた。


 今日、昼休み、講座関係者と思われる学生のパフォーマンスを目撃してしまう。
 シュプレヒコールを繰り返す一団。よく見ると、顔にはタオルでマスク、ヘルメットかぶった集団がいた。ジグザグデモをし、広場の中央辺りでリーダー格が演説。
 今時、ホンモノはいないだろう。そういえば、今日が講座の当日であることを思い出す。
 仕事に戻ろうと歩き出したところへ、別の学生(顔見知り)からパンフを渡される。「ちょっと時間的に無理だと思う」と伝え別れたのだが、ちらちらパンフの中身を読むと…、やっぱり時間は自分で作り出すべきもの、という気になる。


 で、4時半前には、講義室に座っていた(真ん中のいい席に)。



 赤軍とPFLPが合作で制作ということで、基本的にプロパガンダ映像である。実際、プロパガンダである旨は、繰り返し作品中で述べられている。
 16ミリで撮影された映像に字幕とナレーションがかぶる。
 そのナレーションと映像は、必ずしも連動しているわけではない。ナレーションは、映像の説明をするわけではなく、映像とナレーションが解説的機能を果たすことは、あまりない。
 内戦前のベイルートの街並み、パレスチナの難民キャンプの映像、AK47の組み立てシーン、赤軍集会の映像もあった。ナレーションは映像の説明ではなく、基本的に、スローガンや闘争のテーゼを語るものである。プロパガンダでありアジテーションである。
 ライラ・ハレドや重信房子のインタビュー映像も挟まれる。当時の左翼用語の組み合わせで成り立った言葉が延々と続く。

 とにかく、パレスチナの(当時の)現状も歴史的背景も何もわからない。PFLPや赤軍がどのような組織であるかについても説明的に語られることはない。
 現在の目で見ると、不思議なドキュメンタリーでありプロパガンダ映像である。

 しっかし、それが面白い(多分、大半の学生は退屈してただろう)。
 そこにあるのは歴史の解説ではなく、今や「歴史そのもの」となってしまった映像だったのだ。
 ナレーションやインタビューの中で語られる言葉は、ほとんど、現在の学生達には理解不能だろう。
 当時の左翼用語だけの世界だ。接続詞や助詞以外は、今ではナジミのない言葉だけである。
 武装闘争・人民・革命の主体…、書こうと思っても、今や私の語彙から消えている言葉ばかりだ(って、別にそんな言葉話してたわけではないが理解は出来ていたつもりではあった)。
 しかし、それが実に面白かった、理解出来なくなっているところが。

 何かに似ているのである。
 『國體の本義』(昭和12年文部省発行)の文章だ。
 もちろん、文体が同じわけではない。四角張って、立派に見えるが、無内容、地に足が付いていない言葉のオンパレードであるところが、実に、同じなのである。
 昭和10年代から敗戦まで、大日本帝國には、『國體の本義』用語の組み合わせで作られた文章が蔓延していた。
 その状況によく似ているのである。
 70年代の左翼用語も同様に、常套句の組み合わせでありながら、内容ある表現をしているように、当人には感じられていたはずだ。

 どちらも内実は空疎な表現であり、現実に太刀打ちすることが出来ずに消滅していった、ように私には感じられたのであった。


 70年代というものが、もう既に「歴史」として私たちの前にあったのである。
 それをまざまざと見せ付けられてしまった、という意味でも、私にはエキサイティングな経験であった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/24 23:16 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31850/user_id/316274

 

 

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歴史についての「正しい理解」という問題

 

 現在、参院に提出審議中の「改正」学校教育法の条文について考えてみたい。

 取り上げるのは、

  第二章 義務教育

 第二十一条

義務教育として行なわれる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するように行なわれるものとする。

 一、二は略

 三 わが国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土の歴史を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 四~九は略


という条文。この三の内容についてである。

 別にこの条文自体に大きな文句は無い。そのように教育がなされることを願うのみだ。
 しかし、問題を感じないわけでもない。歴史における「正しい理解」とはどのようなことであるのか、という点についてである。

 歴史を構成するのは、過去の出来事についての残された記録と記憶である。
 個人の記憶と記録があり、共同体としての記憶と記録があり、国家レベルでの記憶と記録があり、人類規模での記憶と記録も存在する。
 個人史があり、共同体の歴史があり、国家の歴史があり、人類の歴史もある。

 個人レベルで考えてみよう。それは、その個人の視点、個人の経験により形作られた、個人の歴史である。
 他者との関係において、ある部分は共有され、ある部分は相容れないものとなるであろう。個人間の関係は、共同性と共に対立性という相反する性格を持つものであるからだ。
 自分に好意を持っている人間と、自分に敵意を抱いている人間は、同時に存在するが、両者が意見を分かち合う可能性は少ない。対立的な関係にある人間同士の間では、記憶も記録も共有されることは無い。
 被害の記憶は共有されないだろう。被害者に対立するのは加害者であって、加害感情は自覚化されにくく、自覚されたにせよ、被害体験と加害体験はまったく別の記憶を形成し、記録として残されるだろう。
 両者にとって共通の歴史認識は存在し得ないのである。

 同じ時空を共有した、しかし対立する二人の人間には、共通の歴史認識は生じ得ないのである。
 交通事故被害者の家族と加害者の家族にとって、事故の過程は同一であっても、そこで形成される記憶がどれだけ隔たったものとなるか、一度は考えておくべきだろう。
 ここで、警察調書という記録に真実が宿るという観点もありうるだろう。しかし、それすら、その場に立ち会った警察官の視点による記録であるという限界を抱えているのである。

 実際、歴史認識というものが問題化されるのは、警察調書の内容としてではない。そこでの被害者としての記憶なのか、加害者としての(意識化されにくい)記憶であるのか、その両者の溝の間に、歴史認識をめぐる問題は発生するのである。
 そのことに関しては、共同体間のレベルにおいても、国家間の問題としても、構図は同じだ。


 つまり「歴史における正しい理解」とは、歴史を対象化して考える時に、唯一の正当な歴史記述として「正しい理解」が存在するのではないということを「理解」することでなくてはならないだろう。
 国家が歴史記述に介入し、「唯一の正当な歴史記述」を強制しないことこそが、「歴史について、正しい理解に導」く内実とならなければならないのである。

 そのことの実現だけが、「進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の発展と平和に寄与する態度を養うこと」に帰結するのである。



(この文章は、問題意識としては、4月29日に書いた「法と道徳の間(現代史のトラウマ32)」へのコメントのやりとりから発展したものであると共に、昨日の橋爪さんを招いた会での打ち上げで交わされた会話の内容が反映されたものです。日記にコメントいただいた皆さんと、昨日の話し相手となって下さった皆さんに感謝申し上げます)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/20 21:56 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31510/user_id/316274

 

 

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憲法を魂として生きる…?

 

 

 

 「戦前・戦後を生きた平凡な女性の、非凡なる軌跡 ― 憲法を魂として生きる ― 」とタイトルされた集まりに出席して来た。
 他人の話を聞くということが、これだけエキサイティングなことだったのか、そんな時間を過ごした。

 橋爪志津乃さんという方が、『生きていく意味』(文芸社刊)というタイトルの本を出版されたことにちなんでの集まりである。
 編集に当たったのが知人だったので、誘われて出かけたわけだ。

 橋爪さんは、大正7年生まれの女性である。
 教師として国民学校で教えた世代だ。大日本帝國憲法と教育勅語の下に教育があった時代である。教育が国家の強力な統制下にある中で、大東亜戦争完遂(支那事変完遂がスタートである)のための小国民教育を現場で担った一人が、橋爪さんだったわけだ。

 昭和20年8月15日を、国民学校教師として体験し、戦後教育のスタートにも立ち会うことになる。その過程で、いわゆる墨塗り教科書の登場の当事者となる。
 これまで真実として教えてきたことが、墨を塗られ隠蔽される。しかし、そのような教育を推進してきた者、執筆者、文部省自体の謝罪も反省もなかった。
 古い真実は隠蔽され、新しい真実が登場する。責任を取る者がいない。
 そのような事態の中で、教師としての自分自身のけじめをつけるために、教職から身を離した。彼女はそのような形で、敗戦後に真実性を否定され墨を塗られるようなことを教壇から生徒へ説いてきたことへの責任を取ったのである。


 教師となるまでの人生や、戦後のことも、実に面白かったのだが、ここでの紹介は敗戦前後の問題に絞る。


 彼女は、戦後にあらためて大学生として生活をするのだが、そこで「皇国の道は学問でも何でもなかった」という実感を持ったという。そのようなものを教壇の上から「教育」していた自身の責任を彼女は問うのである。
 単なる「皇国の道」ではなく、それは戦争遂行を目標とした教育であった。教え子は、他国へ出かけて人を殺し、殺されたわけだ。
 その責任を自らに問い、教員としての職を辞したのである。誰かのせいにするわけではなく、自分の責任として考え、それを実行したのであった。

 さて、あの戦争において、誰が責任を負うべきかという問題がある。
 政治システムと軍事システムの頂点にいた存在としての、昭和天皇の責任に、彼女は言及する。命令システムの頂点にいた存在としての責任ということである。

 誤解のないように言っておくが、「天皇の戦争責任」という言葉で語られることの内容は限定的ではない。それを語る者によって、問題の立てられ方は異なる。
 戦争を主体的に遂行した者と昭和天皇を断定してしての責任の問い方もあれば、別の側面を問題とするものもある。戦争を主体的に遂行したかどうかは別にして、戦争遂行システムの頂点の存在として、あらゆる命令の権威の源泉となった者としての責任の存在という問題の立て方である。
 彼女が問題とするのは後者の側面である。

 これは彼女自身の生き方と関わって来るだろう。つまり、末端の一教師でありながらも、国民学校教育の一翼を担った者として、自ら職を辞するという途を、自らの責任の取り方として選択した人間としての考え方である。
 自らが負う責任の表明をしていないという一点において、彼女は、昭和天皇に問いを発するのである。

 彼女の話を聞いていて、爽快感が常に付きまとうのは、そのような彼女の生き方が背景にあるからであろう。
 彼女は、自分を被害者として、昭和天皇にいちゃもんをつけているわけではない。
 不適切な教育を施してしまったことへの自らの責任を自覚し、職を辞した者として、昭和天皇自身の責任を問い、その責任の果たし方に疑問を投げかけているのである。

 ここにあるのは、彼女自身の個人としての責任であり、天皇自身の個人としての責任という問題なのである。
 個人としての責任を、常に自分のものとして考え、生きてきた人間としての問いかけなのであるという点に、私は注目するのだ。
 それは、天皇が個人としての責任を問われうる存在で、法的に、あったかどうかとはまったく別の問題だ。


 彼女にとっては、現在に至る戦後の道徳崩壊現象のスタート地点に、個人としての責任を自らに問うことのなかった(あるいは、それを行動として表現することのなかった)昭和天皇の存在がある、ということなのであった。


  (本当はもっともっと書きたいことがあるエキサイティングな会だったのだが、本日はここまででご勘弁を)

 

 

 

(オリジナルは、2007/05/19 22:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/31440/user_id/316274

 

 

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土日は休養、今日はいぢわるお休みフツー日記 (再録)

 

 睡眠至上主義者であったはずの私が、いったい何をやっているのか、という事態が、もう3週間も続いてしまっている。が、始めてしまったものは、とりあえず、続けてみなければならない、と(多分)遺伝子が命令するので、しばらくは自らの信条に背くようなストレス多き生活が続くことを覚悟せねばならないのかも知れない。と、遺伝子のセイにしてみたりしながら、ストレスが頭髪の減少量増加に結びつくことまでに至らぬようコントロールしつつ、日記は書き継がれていくのでしょう(ちょっと他人事ですね)。

 何せ、いぢわるなアジサイですからね(ミミズの自己実現、あの頃はまだ平和だった)。いったい来週はどんな展開が待ち受けているのか、インチキ予言者の手に余る状況が生まれつつありますね。


 トラウマシリーズも、やたら血圧上がりまくりになってしまうという、はなはだ本人には危険な状況下で書き続けるようなことになるのかも知れず、もう命がけ、睡眠不足どころではないではありませんか、という事態になるやも知れず、という展開になりつつもあり、先が思いやられるのでありました。緋水さんの「怒れる若者」姿は実にカッコいいんですが、こちらもケッコウ、本気で、「怒れるオヤジ」状態になってしまうところが我ながら、どうしたものか、って感じですが、本人もそれなりに楽しんでいるようでもあり、続いていくことなんでしょう、きっと。せいぜい「いかれたオヤジ」状態だけは避けたいと願うのみであります。


 普段感じているのは、とにかく俺はマジョリティーに入れてもらえない人間なんだろうということですね。まぁ、全く入る気もないわけで、それで一向にかまやしないわけではありますが。
 オーゲサにいえば、俺は常にマイノリティーの側にい続けるべき、というか、マジョリティーに魅力を感じないし、どころかマジョリティーのふるまいにハラを立て続けているらしい以上、そっちの側ではない、ということだけは確かなのでしょう。一般的には、多数者に対する弱者としての少数者、という構図があり、外国人、少数民族出身者、被差別部落出身者、ヒバクシャ、同性愛者、…、という形で共通項によりカテゴライズされたマイノリティーが存在するわけですが、そのような分類学的発想とはかかわりなく、マイノリティーとして位置づけられた自分の姿を見出してしまうヒトというのは、確かに存在する、ということがこの場を通じて可視化されつつあるようで、そうとなれば日記は続く、ということなんですかね。

 とにかく、基本的発想としては、マイノリティーに正義があるわけじゃあない、そこんとこを間違えちゃあいけないぜ、ってトコから始めているつもりではありますがね。


 後ろで覗き込んでいた、かああひる(私の娘の母)が、「やっぱり、それじゃあ、アライグマのオヤジ」って言うんだけど、そうかもしれない、って言うしかありませんね。


 ねぇ、やっぱり、いぢわるじゃあありませんよねぇ、この私は。



                    (2006年10月14日の日記の再録です)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/12 11:41 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30871/user_id/316274

(オリジナルのオリジナルは、投稿日時:2006/10/14 22:33 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/3299

 

 

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初期の「現代史のトラウマ」シリーズ再録のお知らせ

 

 本日の午前中に、思い立って、「現代史のトラウマ」シリーズの初期の文章を、まとめて再録しておいた。
 シリーズの1から4、そして6と7、間に「桜里の休日」で書かれたけども内容が関連しているものを一本。

 今後、憲法をテーマに書く前提として、私の歴史認識、国民と国家に関する私なりの観点、国民を構成するマジョリティーとマイノリティーの関係性をめぐる私の問題意識、といったことについて示しておきたいと思ったからだ。つまり、私の議論の立脚点を、まず先に明確にしておこうというわけだ。


 これを書いた当時は、まだ2000字という字数制限に慣れていなくて、書き上げたのに字数オーバーでエラーを喰らい、仕方なく分割して掲載していたような次第で、1と2、3と4,6と7は元来は一つの文章だったものだ。
 そのために、若干読みにくくなってしまっていることを、まずはお断りしておきたい。


 また、今日だけで、この文章を含めて8本の日記となっている。
 「神の姿」シリーズの昨日分もその前に収録されているので、遡ってお読みいただければ幸いでございます(タイトルは「あなたの中にあって、あなたの周りにある世界を考える、神の姿日記」となってます)。

     ―・―・―・―・―・―

 「freeml」上のオリジナルでは、以上の文章と共に、初期の「現代史のトラウマ」の文章が再掲載されていた。

 ここでは、再掲載分のURLのみを再録しておく。

 初回掲載時とは異なるコメントが付けられているので、何かの参考になるかとは思うというのが、その理由である。

 

 

現代史のトラウマ、なんて題を使用してしまうぞ今日はフツー日記 その1 (再録)

 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30867/user_id/316274

現代史のトラウマ、なんて題を使用してしまうぞ今日はフツー日記 その2 (再録)

 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30868/user_id/316274

現代史のトラウマ、その3 なんて題で書いてしまう今日もフツー日記 (再録)

 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30869/user_id/316274

現代史のトラウマ、その4 なんて題で書いてしまう今日もフツー日記 (再録)

 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30870/user_id/316274

土日は休養、今日はいぢわるお休みフツー日記 (再録)

 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30871/user_id/316274

現代史のトラウマ、その6 マイノリティーとマジョリティーの間 (再録)

 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30872/user_id/316274

現代史のトラウマ、その7 続マイノリティーとマジョリティーの間 (再録)

 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30873/user_id/316274

 

 

 ただし文中で触れられている、

「桜里の休日」で書かれたけども内容が関連しているもの=土日は休養、今日はいぢわるお休みフツー日記 (再録)

については、これに続いて本文を再録しておくことにする(「マイノリティーとマジョリティーの間」のモチーフとなった文章である)。

 憲法に関する議論の展開は、実は、未だに実行されていないという事実も付け加えておく(2008年11月26日)

     ―・―・―・―・―・―

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/12 21:34 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30908/user_id/316274

 

 

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憲法9条の賜としての安倍政権という現実

 

 憲法改正について考えてしまったので、書いておくことにする。

 本来なら、連休も終わり、神様の出番なのだが、もう一日お休みを続けてもらおう。


 たまたま、NHKの「クローズアップ現代」で、憲法9条をめぐる話題を取り上げていた。それを見ているうちに思いついたことを書いておきたい。



 結論から言えば、安倍政権は、憲法9条の賜(たまもの)だろうということだ。
 憲法9条がなければ、現在、自民党に政権があったかどうかも疑わしい、そんな問題を取り上げてみる。

 憲法改正をして、9条条文を改変することの目的とされているのは、自衛隊を軍隊として公式に認定することと、国際貢献の名の下に戦闘行為も含めた海外派遣を可能にすることである。

 イラク戦争当時、自民党小泉政権は、自衛隊の海外派遣まではなんとか実現させたものの、その任務は非戦闘地域内の復興支援業務に限定せざるをえなかった。9条の縛りがあったからだ。
 9条改定により、戦闘地域内での戦闘行為にも参加出来るようにすることが可能になるわけだ。
 つまり、戦後復興における、非戦闘地域内限定の復興支援業務だけではなく、開戦当初からの戦闘への参加、つまりイラク戦争への参戦も可能になるということだ。

 9条「改正」の結果もたらされるのは、あのイラク戦争を例にとれば、ブッシュ米国政権主導の「有志連合」の一翼を担い、参戦国としてイラク戦争そのものに関与することが可能になる状態である。

 しかし、幸いなことに、9条の縛りのおかげで、その道は閉ざされていたのである。誰に一番幸いしていたのか。
 安倍晋三氏にである、と私は思う。

 イラク戦争開戦から、参戦国としてイラク国内の戦闘に加わり、占領に関与していたら、日本はどうなっていただろうか。
 終わらぬ戦闘状態と、それに伴う戦死者の増加の中で、イタリアやスペイン同様に政権交代を迎えるか、ブレアやブッシュのように低支持率の中でなんとか政権の延命だけをはかることが出来ているか、いずれにせよ、自らの政権で憲法改正を企てることなど不可能な状態となっていたはずだ。

 9条の縛りを抜きに、自民党政権の下、イラク戦争に直面していたとすれば、有志連合に参加し、交戦国の一員となる以外に選択肢があったようには思えない。
 そして、そのことが国益につながったとは思えない。
 現在、有志連合主要参加国中に、イラク戦争参加が、国家的利益として評価されている国があるだろうか。ありはしない。
 米国内では、いわゆるネオコン連中の利益がかつては語られたが、今では彼らはマヌケの代名詞である。
 イタリア・スペインでは、当時の与党は政権を失い、国家的利益どころか自党の利益さえ損なっている。

 小泉政権の下の総選挙で自民党が勝利を得られたのは、9条の縛りのおかげで、自衛軍ならぬ自衛隊の任務が、非戦闘地域内での復興支援業務に限定されていたればこそのことなのである。
 現在の安倍政権誕生も、その結果を受けてのことであった。


 私自身は、国民主権という原則から考えれば、シビリアンコントロールの下、自衛軍を持つこと自体には、論理的には反対ではない。
 マジョリティーとしての国民を信頼するのであれば、主権者としての国民の下でシビリアンコントロールを機能させることは可能であるはずであり、「自衛」軍として軍事力を持つことから問題が生まれるとは考え難い。

 しかし、イラク戦争をめぐる9条抜きの日本国家の決断をシミュレーションしてみた結果は、上記の通りなのである。
 イラク戦争開戦にあたり、米国を支持した自民党政府の決断がいかに誤りに満ちたものであったのか、それがよぉく理解出来るはずである。そのような政治家によるシビリアンコントロールの危うさを考えざるを得ないだろう。

 9条を保持することが自民党の政権維持にさえ有利に働いていたという現実を、もう少し、直視してみても良いのではないか、そう私は思ったわけだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/05/07 21:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/30496/user_id/316274

 

 

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法と道徳の間 (現代史のトラウマ 32)

 

 中教審会長の山崎正和さんの発言が、最近では面白いニュースだったと思う。



  山崎中教審会長「道徳・歴史教育は不要」

中央教育審議会の山崎正和会長は26日の日本記者クラブ主催の会見で、個人的な意見と断った上で「価値観が多様化する中、倫理的問題は学校になじまない。道徳を学校で教える必要はないと思う」と述べ、道徳教育は不要との考えを示した。歴史教育についても「我が国の歴史はこうだったと国家が決めるのは間違い」と強調した。

政府の教育再生会議は小中学校で道徳を「徳育」として正式教科にすることを検討している。中教審の審議は学校教育のあり方に深くかかわるだけに、発言が波紋を投ずる可能性もある。

山崎会長は「社会の価値観が多様化する中、決着のつかないことが多い倫理的問題は学校になじまない」と指摘。妊娠中絶や、勝者と敗者を生む競争社会など是非をめぐって意見が割れる問題を例に挙げ「点数を付けられるものでもなく、学校で簡単に教えられない。代わりに民法や刑法などの順法精神を教えればいい」と持論を述べた。(23:00)

(NIKKEI NET 4月26日)


というものだ。

 興味を引かれたのは、道徳教育は不要という論と共に、「代わりに民法や刑法などの順応精神を教えればいい」という発言だ。

 「道徳」の教科としての適切性への疑問と共に、「順法精神」教育の必要性が語られている。
 ここでは、「法」が「道徳」に対比されている。

 法とは成文化されたものだ。明文化されたと表現すべきかもしれない。
 誰に対しても、誰の行為に対しても、一義的に(なることを目指して)明文化された法の条文が適用される。
 また、法は、立法府(議会)によって制定・承認されるものであり、少なくとも手続き上は、国民多数の合意に基づくものである。
 また、法は罰則を伴うこともあるが、それも明文化されており、その執行は行政機関にゆだねられる。
 法の執行が個人の恣意によることはあってはならない。

 道徳は、内面的倫理を中心とする、共同体により形成・共有された、行為への価値基準であり、成文化されたものではない。
 たとえ同じ集団に属していても、価値判断の基準は異なり、一義的なものとは言えない。


 中教審の山崎会長の発言は、このような両者の性格を十分に理解した上での見識あるものと、私は思う。特に価値観の多様化した現代において、教科として一義的に道徳教育をすることの問題を見据えての発言と考える。


 政府主導の教育再生会議での、「道徳」の教科化への提言に比べた時に、山崎発言は光る。

 現政府は道徳教育推進には熱心である。その意を受けての教育再生会議での提言であろう。
 しかし、皮肉なことに、私たちはここで、あの「なんとか還元水」をめぐる大臣の発言を思い浮かべざるをえないだろう。
 何より倫理的問題(=道徳的問題である)を問われているにもかかわらず、「法的に問題ない」という弁明で、問題追及をかわしたのである。
 道徳など問題ではない、それが安倍内閣閣僚自らの発言の意味するところなのだ。

 山崎正和氏の道徳教育をめぐる見解は、現内閣に対する皮肉として発せられたものではないと思うが、そのような文脈において眺めてみると、実に味わい深いものだと思う。


 読売新聞によれば、山崎発言には、
 
道徳は教科で教えるべきではなく、教師や親も含めた大人が身をもって教えるべきだ。科目として点数をつけ、教科書を使う教科とすることは無理があると思う。
 
というくだりもある。松岡大臣、身をもって子供たちに何を教えたいのか?

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/04/29 23:46 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/29719/user_id/316274

 

 

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教育勅語の生態学 (現代史のトラウマ 31)

 

敎育ニ關スル勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日

御名御璽


…と、勅語には書かれている。読み通せました?

 明治時代の教養人にとっては、漢文は必須であり、このような表現自体はその延長とも考えられる。
 しかし、こんな言葉遣いで会話をしていたわけではない。
 勅語下付の対象となった国民の多くにとっては、単なる呪文であった。

 いずれにせよ、文章が漢文体で書かれているからといって、その内容に格調があるというわけでもない。世の中には、漢文で書かれたポルノも存在していたわけである。まぁ、それは格調高いポルノなのだ、そう主張することも出来ないわけではないだろうが、内容はポルノである。ポルノにはポルノの存在理由があり、それは、漢文で書かれているかどうかで評価されるものではない。現代人の眼からは、漢文体は古めかしく、格調高く感じられるだけのことに過ぎない。

 ハナシを教育勅語に戻せば、その評価は、文体ではなく、内容で吟味されるべき事柄なのである。そして、時代の流れの中で果たした機能において。

 内容的には、家族間のことから、社会的関係、そして国家との関係にいたる、大日本帝國臣民としての、道徳的目標が書かれている。

 家族間のことでいえば、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という文言がある。記録に残されている限りでも、ギリシア悲劇の時代から、人類の課題となっているものであろう。まぁ、普遍性ある道徳的目標と考えることが出来る。

 国家との関係でいえば、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という文言に焦点が当てられるだろうが、これも帝国主義が地球上を覆った時代の相を考えれば理解は可能である。列国によるアジア・アフリカの植民地化の進展の中での、国家的独立の維持は、明治国家にとっても課題であった。
 もちろん一方には、統治の都合という側面もある。反抗的でない国民の養成は、統治者にとって望ましい事柄である。
 両面に眼配りをすることが、正当な評価につながるだろう。


 昭和期になると、大日本帝國憲法における「神聖不可侵」の天皇の地位と、勅語が重ね合わせられ、国民統治の道具としての機能をフルに発揮することになる。
 もはや、大日本帝國は列強による植民地化の対象となりうる存在ではない。自らが植民地的権益の獲得を目標とする存在となっている。軍事力による勢力圏拡大こそが「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼ス」る道として観念されている時代なのである。

 その過程の進行が、大東亜戦争に帰結し、大日本帝國は亡びることとなった。そこでは、臣民の多くの命が失われたのである。対戦国及び戦場となった土地住民の命も失われていることも忘れるべきではない。
 家族に関する普遍的道徳目標が文言として採用されているからといって、教育勅語そのものの復権・評価を目指すような試みには、私は、同意出来ない。

 昭和という時代に、大日本帝國が日本国へと生まれ変わり、大日本帝國憲法から日本国憲法へという変化も経験している。しかし、ここで「国体(國體)」は護持されているという点も忘れてはならないだろう。依然として、天皇の地位は、国家にとって不可欠のものとしてとどまっているということだ。
 教育勅語が天皇の言葉であることで問題視する人々に言いたいことは、日本国憲法も天皇の名により公布されていることを忘れるべきではない、ということである。
 そして、教育勅語賛美を試みる人々に言いたいことは、昭和期の歴史の中で、そのような教育勅語の神聖化が、まさに我が「国体」の危機を招来した事実を直視しろということである。我が亡国の歴史を直視しろ、そういうことだ。

 葉の形だけを見て、樹木を考えない、森林を考えない、そのような試みからは、(森の住民にとっては)、愚かな結果しか得られないだろう。生態学的思考が求められるわけである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/04/22 13:23 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/29016/user_id/316274

 

 

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正義と平和の間の真理

 

 教育基本法について、久しぶりに書いておこうと思う。

 まずは、今日の毎日新聞朝刊2面の「発信箱」欄、編集局の広岩近広氏の署名のある文章を引く。

 

今年の小学1年生は、改正教育基本法のもとで義務教育のスタートをきる。私が懸念をいだくのは平和教育である。
というのも、昨年12月に改正された教育基本法の前文が旧法と異なっているからだ。「人間の育成を期する」につながる記述で、旧法には「真理と平和を希求する」とある。ところが新法では「真理と正義を希求し」に変わった。「平和」がなくなり「正義」が登場したのである。
私は「正義」という言葉にうさんくささを覚える。駆け出し時代には、支局長から「新聞記者は正義の味方・月光仮面になってはいけない」と諭された。一方的な視点で記事を書くなということで、その通りだと戒めている。それだけではない。米国の例を持ち出すまでもなく、他国に軍事介入するときはたいがい「正義の戦い」となる。こうなると「正義」は「平和」の対極に位置するだろう。

 

 次に、新旧教育基本法該当箇所を示す。

 

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造を目差す教育を普及徹底しなければならない。 (旧教育基本法)
 
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を追求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造をめざす教育を推進する。 (「改正」教育基本法)

 

 ここでは、「個人の尊厳」、「真理」、「平和」、「正義」、「公共の精神」、「伝統」といった文言にこめられた意味が問題となる。

 それぞれについて論じておきたいところだが、ここでは、問題の「平和」から「正義」への変更がはらむ問題だけに絞って、話を進めておきたい。

 「平和」とは誰でも納得出来る定義のある状態でる。つまり、戦争状態がそこにあってはいけない。国家間の戦争に加え、内戦状態や武力衝突のない状態、広義には治安の安定した状態まで含まれるだろう。武力による支配、暴力による支配の排除された状態だ。具体的内実のある状態、そう述べることが出来るだろう。

 「正義」は、それとは異なる。正義には具体的内実はない。
 不正な状態があり、そこからの補正が「正義」の作用である。固定した正義の立場は存在しない。
 ユダヤ人に対するナチスドイツの迫害から、ユダヤ人を救い出すことへの努力は「正義」に適った行為であろう。この時、「正義」は迫害されたユダヤ人の側にあった。
 しかし、パレスチナの地で、パレスチナ人の人権に対する侵害行為を公然と行なっているイスラエル国家の行為を、「正義」に適った行為と考えることは出来ない。イスラエル国民の側に、つまりイスラエルに住むユダヤ人の側に「正義」があるとは考え難い。
 「正義」に適った行為があるとすれば、イスラエル国家による人権への公然たる侵害からパレスチナ人を保護することにこそあるだろう。

 人間が人間を踏みつけにすること。そのこと自体は、避け難いことである、と私は思う。望ましいことではないが、生じてしまうことであると思わざるをえない。それはリアリストとしての私の認識である。
 しかし、そのような状態に対し敏感になること。そのような状態の発生を感知したら、その是正を目標とすることは出来る。
 その「是正」への努力、そこに「正義」は宿るだろう。人間が人間を踏みつけにしているような事態を放置しないための努力、そう言えばよいだろうか。

 さて、そのように考える私として、先の「改正」教育基本法の文言に、どこまでそのような反省的視点が盛り込まれているのか、大きな疑問を持たざるをえないのである。
 新旧教育基本法の字句の相違、大したことはないとも考えられる。
 しかし、「改正」の経緯、現在までの教育再生会議内での議論のあり方を見る限り、先に紹介した広岩氏の危惧を否定出来るほど楽観的にはなれないのである。


 人間が人間を踏みつけにすること、「正義」という口実の下に人間が人間を公然と踏みつけにすること。
 それは人類の歴史において、実にありふれた出来事であった。
 そのことをこそ、まずは見つめておくべきである。そう言わざるを得ない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/03/25 21:44 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/26254/user_id/316274

 

 

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発掘された1993年の大量虐殺……?

 

 4月1日に、客が来る。とりあえず20人くらいは入れるスペースだけは確保しておかなければならない。
 で、数日前から、部屋の片付けが課題となっている。

 その過程で、発掘された写真をフォト欄にアップしてみた。家族全員、今では別人だ。

 数々の発掘品の中に、1993年の年賀状があった。
 細かい字で、文章がぎっしり詰め込まれている。
 ワープロで打ったものを縮小コピーし、画面上のバランスを考えながら(以前にはモノクロ写真を使用していたスペースに置き換える感じで)デザインしたものだ。
 当時は版下を自分で作り、印刷屋へ頼んでいた。その後は家庭用コピー機の導入、そして今やパソコン時代で、デザインから印刷まで自分の手で済ませられるようになってしまった。
 1993年には、夢物語だったのが今や現実である。

 さて、その1993年の賀状の文面である、本日の話題は。

 この15年ほど(賀状の文章を書いていたのは1992年のことだ)の世界と私、何か進歩と呼べるものはあったのだろうか、そんなことを考えさせられたのである。


            謹賀新年

今、我々はどのような時代を生きているのだろうか?  この「問い」は格調高く、鋭く、カッコ良く、年頭にはふさわしい。が、実は何とも漠然、曖昧模糊とした「問い」でもある。何とでも答えようがあるではないか(だからますます年頭にふさわしい?)。 どういう「今」が問題なのか(この瞬間?今日?今年?戦後?20世紀?…)、あるいは「我々」とは誰のことなのか(そもそも誰が誰に向かって問いを発しているのか?誰に誰に向かって答えよというのか)と、言ってしまうことも出来る。 が、それは、「問い」を他人事としているかぎり、答えるのも他人事でしかありえないということでしかない。ここで、今、私はどのような時代を生きていると考えることが出来るのか、と自らに問うてみる以外にない。  実は、このところ、切実に感じている「時代」がある。「アウシュビッツの、そしてポル・ポトの時代」というのがそれだ(今さら、と言われようと)。あれほど大量の殺人が日常の風景(戦場の出来事としてではなく)としてあったということ。殺人が国家の基本政策の一部として立案決定され、行政の行為として組織的に能率良く実行されてしまったということ。もちろん、大量殺人の存在はこの時代のみの話題ではない。むしろ、アウシュビッツがアーリア人のユートピアをドイツ国民に提示したナチズムの成果であり、カンボジアの白骨の山はクメール・ルージュのマオイズム的ユートピアの実現の過程に築かれたのだという事実(そこには「悲劇」など存在せず、彼らの美しき理想の実現の過程があるだけなのだ ― 彼らにとっては、だが)。ペルーのグスマン氏にとり、重要なのは美しきマオイズム・ユートピアの思想であって、その前に築かれた死体の山の高さなど問題にならない(彼が何を惜しむかといえば没収された毛沢東バッジだ)。大セルビア主義のユートピアの実現の過程に半世紀前のヒトラー氏の民族浄化技法が復活する。  「歴史は繰り返す」と言っているのではない。あくまでも、それぞれ固有の、別の出来事である。別の人間の手が別の人間を死体にしているのである。「歴史」を問題にするならこれらの出来事の背後にある「近代」という「時代」を見るべきであろう。「国民国家」の時代だ。国民(吉田兼好の時代には存在せず、吉田松陰において構想され、吉田茂が相手にしたところの近代の産物としての「国民」)が主人公である国家、その内部のユートピア。そこでこそ、国民による非国民の抹消という事態が成立する(第三帝国では「民族」が国民の要件であり、「階級」が毛沢東主義国家の国民を規定した、ということ)。  あらためて現在を問題にするならば、欧州統合は「国民国家」という自らの近代史の形そのものの克服抜きにはありえないが、その課題の大きさには目がくらむ。また、たとえポル・ポト氏のユートピアからのカンボジアの解放が実現したとしても、そこに待ち受けているのはムキダシの資本主義の過酷なユートピア、これが我々の生きている「今」である。  →ヨノナカヲウシトヤサシトオモエドモトビタチカネツトリニシアラネバ  ←ニワトリだって二足歩行してますけどね(少しは慰めになるだろうか)。

            1/1/1993


 こんな文章だ。宛名面の下には、「新年明けましておめでとうございます 今年もどうかよろしくお願い申し上げます」の挨拶の下に、始祖鳥の図版と、「今は哺乳類と鳥類の時代、でもある」という言葉が添えられていた(酉年の賀状である)。


 世界は少しはマシなものになったのだろうか。

 文章には全く進歩がないな。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/03/24 21:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/26133/user_id/316274

 

 

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トラウマを書くウマシカな私

 

 もうそろそろ半年が過ぎることになる。

 毎日毎日、わけのわからない日記を書き続けて、6ヶ月が過ぎようとしているわけだ。

 一回2000字近く。400字詰め原稿用紙5枚分。
 まぁ、最初の頃は字数制限もよくわからず、4枚くらいだったかも知れない。
 今、数えたら、194タイトルあるようだ。
 つまり、少なくとも原稿用紙900枚以上になる。
 驚いた話だ。

 以前にも書いたが、この20年以上、いつか小説を書きたい、そう繰り返している友人がいる。
 その友人のためにコミュニティを作り、解散した。まぁ、それはいいのだが、その友人に、毎日書き続ければ、長編小説だって書けるぜ、ということを見せ付けてやろうという気もあっての、毎日の2000字である。
 まぁ、面白がってやっているので、ウラミツラミはない。

 書いてみて、自分がこんなことを考えるのかと驚く時も多い。知っていることを書く、知識を公開するということには興味がなく、その時々のテーマに対して自分が何を考えられるかを書いてきたつもりだ。それだからこそ続いたのだと思う。

 確かに読み返してみれば、やはり、この私の考えそうなことではある。しかし、ここで書き始めなければ、一生そんなことは考えずに終わってしまったであろうことを考えている自分に出会えるというのは、実に、面白いことだ。
 20年間、小説を書かずにいてくれた友人には感謝すべきだろう。



 先週の「神の姿シリーズ」は、「貴方のために、貴方を管理しますと言われた時のための、神の姿日記」というタイトルの文章で終わっている。
 それと、バインダー設定「現代史のトラウマ」シリーズでの私の基本姿勢には共通の感覚が流れているように思う。

 人間にとっての自由の問題だ。

 書いてみて思い出したのだが、私の10代から20代にかけての思考テーマとなっていたのが、その「自由」という問題だった。
 自分自身が自分自身を評価する時に、「今、私は自由であると思えるかどうか」が私にとっての自己評価の基軸となっていることの自覚、基軸としていくことへの自覚が、当時の(今よりは若き日の)私を形作っていったように思う。

 自分自身が自由に生きているという実感は、どのように得ることが出来るのか、そんなことを考えていたのだろう。実際、時が経ってみれば、そんなことを日常生活の中で考えるようなことはもうない。
 しかし、その頃考えていたことがあればこそ、現在は問題を自覚することなくとも、自由の問題はその都度の私の態度決定の底を支えているように思う。

 あの「現代史のトラウマ」シリーズでは、いわゆる左翼・右翼という分類には収まらないような私自身の政治的位置が表明されていると考えている。
 判断の基準は、人間にとっての自由の問題だ。
 人間は自由に生きるべきだ、とは私は言わない。それは、それぞれが判断すればよいことであって、自由に生きない自由も人間にはあると考える「べきだ」と考えるのが私である。
 しかし、私は自由でありたいと思う。自由でありたいと思う人間のための場所を確保しておくための努力はしておきたいと思うのである。

 他人の自由を制限するための努力には同意出来ない。いかなる口実であれ、人間は自由であることを尊重されるべきだと思う。ここでは不自由を選ぶことも可能であるはずだ。しかし、それは自らの選択の問題としてであって、強制であってはならない。それが私の考えである。


 2人の人間がいれば、そこに支配ー被支配の権力関係が生じる。3人の人間がいれば、敵ー味方の政治的関係が発生する。リアリズムとして、そのことを事実と承認する。
しかし、そこで、人が人を踏みつけにする関係の発生に自覚的になり、その関係の最小化への努力をしていくこと、それを課題としなければならないと思う。

 そんな考え方が、これまでの、そしてこれからの日記の基底に流れ続けることだろう。

 この「自由」をめぐる問題。また機会があったら書いてみたいと思う。



 今日は、ウマシカな私の現在を書いてみた。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/03/18 22:17 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/25438/user_id/316274

 

 

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続・文部科学大臣の知性という問題 (現代史のトラウマ 27)

 

 文部科学大臣の知性がはらむ問題を考えてきた。

 国家と国民の関係をめぐる、安倍政権のスタンスの問題でもある。

 大きな国家へのノスタルジーと、小さな国家の実現の必要という現実の間で、スタンスが定まっていない印象を受ける。
 大きな国家といっても、社会民主主義的福祉国家ではなく、大日本帝國へのノスタルジーなので、問題は、余計に複雑である。

 前政権以来、「自己責任」をキーワードに、国家による福祉政策の縮小が目指されて来ている。
 一方で、教育基本法「改正」や「教育再生会議」の議論には、教育行政に対する国家関与の増大の意図が見える。予算措置抜きの、法による縛りだけが増えていくのが現状であろう。

 「自己責任」の根幹には、自立した個人の存在が求められる。
 教育行政の方向は、自立した個人の育成ではなく、国家に依存した個人の育成にあるようにしか見えない。

 両立可能であろうか?

 小さい政府を可能にするのは、国家に対する国民の依存度の縮小である。
 国民の国家への依存度の縮小を支えるのは、国民の精神であり、それを形成するのは教育である。

 教育システムの未来像を構想するにあたって、国家への依存度の高い人間育成を目指しながら、国民の国家への依存度の縮小を目指すことが、果たして、可能なのだろうか。

 安倍政権のヴィジョンの支離滅裂さが、まさに、ここにありはしないか。
 このような構想に疑問を持たずにいられる人間の知性は、疑われてしかるべきであろう。


 ここに「人権だけを食べ過ぎれば、日本社会は人権メタボリック症候群になる」という伊吹文科相の発言を重ねてみよう。何が見えてくるか。

 国民への福祉政策の提供を国家の義務からはずそうという方向がまずある。
 国家による福祉政策は、本来的に、人権の充実を目指すものである。
 つまり、国家による福祉政策の縮小の意味するところは、人権への国家の顧慮の縮小なのである。
 そのような政策を推進する途上の内閣の大臣の発言として、問題の伊吹文科相の発言を読み返せば、その含意は明確となる。
 人権のやせ細った国家を目指す者にとっては、人権をめぐる当然の主張も、「食べ過ぎ」に見えてしまうことは、当然のこととして理解出来るのである。

 そのような意味では、大臣の知性は、福祉削減という安倍内閣の方向性とは整合性を保っていると言えるかも知れない。
 しかし、世界史などの未履修問題を監督する官庁のトップとしては、その世界史理解はお粗末と言うよりない。


 世界史だけではない。
 「イラクを例に出し」、日本を「宗教的に自由かっ達な国民が作っている」という発言。
 イラクの現状をもたらした経緯への無理解がそこにある。国際感覚の欠如と言うべきか。世界史と共に地理のお勉強も必要に見える。
 同時に、一向一揆や、比叡山焼き討ち、キリシタン弾圧、島原の乱、明治になってからの廃仏毀釈にキリスト教弾圧、昭和になってからの大本教への大弾圧。そんな、日本史の常識も大臣には思い出して欲しい。

 それに、「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実」とおっしゃいますが、それは確かに、大和民族=日本列島の住民と定義すれば、ということに過ぎない。これは、共産主義国家は労働者の代表により統治されているのでそこに労働問題は存在しない、と主張する共産主義者のレトリックと同型のものである。
 現実には、民族の同質性と異質性には客観的な基準は存在しないのであり、関東人と関西人を、その言語・習慣において異民族と主張することも可能なのである(ヨーロッパの現実を見よ)。民族意識は、同質性の中から異質性を発見すること(異質性の中に同質性を見つけるという方向もある)で見出されることもあることを忘れてはならない。
 伊吹文科大臣の発言は、民族をめぐる問題に対する人類学的、歴史学的蓄積への無理解をも示していることは確かだ。

 大臣、もう少し知性を、そう思わずにはいられない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/02/28 15:45 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/23590/user_id/316274

 

 

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文部科学大臣の知性という問題 (現代史のトラウマ 26)

 

 文部科学大臣が知的人物であるべきかどうか、どのように考えるべきなのであろうか。
 現文部科学大臣の発言を聞いた時、その知性を疑わざるを得なかった私の抱いた疑問である。

 問題の発言は次の通り。

 
伊吹文部科学相は25日、長崎県長与町で開かれた自民党長与支部大会で「教育再生の現状と展望」と題して講演し、「人権だけを食べ過ぎれば、日本社会は人権メタボリック症候群になる」と発言した。また、「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。極めて同質的な国」などとも述べた。
伊吹文科相は、人権を「侵すべかざる大切なもの」としたうえで、バターに例えて発言。「権利と自由だけを振り回している社会はいずれだめになる。これが今回の教育基本法改正の一番のポイント」と持論を展開した。
「同質な国」発言の前段では、イラクを例に出し、日本を「宗教的に極めて自由かっ達な国民が作っている」と述べた。
       (中略) 
伊吹文科相は講演でさらに、全国の高校で発覚した履修漏れについて「受験に有利なことだけ教えたっていうのは未履修問題。教育の世界における村上ファンドやライブドアみたいなもの」とも発言した。
                (2月26日 毎日新聞)
 
 
 文部科学大臣、世界史や日本史のお勉強が足りなすぎるのではないか、「未履修」でもあるまいに、そう思わざるを得ない。

 人権というのは歴史的に形成された概念である。
 国家における支配者と被支配者の関係が根底にある。
 そこには、被支配者が支配者への服従をのみ求められる状態から脱し、やがて主権者である国民として、自らが自らの国家の主人としての地位を獲得するに至る歴史があることを忘れてはならない。

 国家が、支配―被支配(命令と服従)の装置である状態の中で、「人権」は、被支配階層が支配階層に対し自らの存在を対置し、国の主権者の位置を獲得する上でのキーワードであった。
 かつては、服従=義務であった。それに対し「人権」を掲げ、自らの権利を主張し戦うことによって、やっと獲得されたものが、国家の主権者としての地位なのである。
 権利は主張されて当たり前の概念なのである。主張のないところに権利は存在しない、それが歴史的教訓なのだ。

 国民主権の国家においては、実は義務もそのような様相を帯びてくる。納税し兵役に就くこと。これは主権者であるからこそ主張出来ることでもあるのだ。
 江戸時代を考えればよい。年貢は税とは異なる。税とは国家および国民の利益向上のために支払われるもの(結局は自らに還るもの)であって、お上の生活を支える年貢ではないのである。主権者であるからこそ、自らが国の主人であるからこそ、武器を手にするのも当然のことなのである。農工商にとって兵役は義務でさえなかったのであることは、文部科学大臣もご存知のことと思うのだが。
 つまり、ここでは義務と権利は相反する概念ではない。しかし、それは、あくまでも主権者としての国民という条件があってのことなのである。
 国民主権が実現されている状態とは、人権の保障が実現されている状態に他ならない。

 人権あっての義務、権利あっての義務なのである。間違えられては困るのだ。

 「権利と自由だけを振り回している社会はいずれだめになる」ことは確かであろう。
 しかし、「権利と自由」の主張の由来、世界史的背景に対する顧慮すら出来ない人物の発言としては問題なのである。

 それが「今回の教育基本法改正の一番のポイント」であっては困るのだ。

 自立した個人の育成こそが、権利と義務の相補性の認識につながるはずだ。
 今回の教育基本法改正で失われた一番のポイントがそこにある。

                                 (続く)

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/02/28 14:38 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/23588/user_id/316274

 

 

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反革命的な? いつもの長さの、しかし革命を語る日記

 

 現状に満足している者は、革命には無縁である。

 不満があるからこそ、卓袱台はひっくり返される。

 しかし、卓袱台をひっくり返したからといって、現状は改善されない。

 事態は、悪くなるだけだ。空腹は癒されず、せっかくの食事は畳の上だ。茶碗は割れ、味噌汁はこぼれ、と何も良いことなどない。

 考えが足りなかったのだ。

 どこにも、計画性というものがない。卓袱台をひっくり返したら、それで、何が得られるのか、それがまったく考えられてはいなかった。

 では、どのように卓袱台ひっくり返しを計画すればよかったのか、それを考えておくべきだった、と考えるのは、単なる大馬鹿者である。

 自分は何に不満があったのか、何が達成されれば満足出来るのか、それを考えておかなければならない、はずだ。本当に何かを求めていたのなら。

 もっとも、卓袱台をひっくり返しさえすれば、それで目的は達成出来ていたのかも知れない。
 この家で、卓袱台をひっくり返せるのはオレだ、オレだけが卓袱台をひっくり返せるのだ、とアピールすることで。

 しかし、それは、妻子がそれに耐えていてくれる間だけのことだ。妻子に見捨てられた暁には、話にならない。
 つまり、妻子の方が革命を起こしてしまえば、ということだ。



 まぁ、歴史を振り返ってみれば、なんともありふれた話である。

 1989年の終わり。ルーマニアでの出来事を思い出す。

 ニコラ・チャウシェスクは革命の指導者であった。
 ルーマニアの指導者であっただけではない。
 ソ連を盟主としたワルシャワ条約機構に反旗を翻し、成功を収めた数少ない東欧国家の指導者でもあった。
 実際、1968年、春を謳歌したプラハの労働者にとって、チャウシェスクは希望の星であったのだ。

 しかし、時は流れ、チャウシェスクは、東欧の社会主義諸国の中でも悪名高い独裁者として知られるようになる。
 ルーマニアでただ一人、卓袱台をひっくり返すことの出来る人物となったのであった。

 社会主義世界、共産党の支配する世界での最大の問題点の一つは、支配政権、支配政党、そして支配者自身が、労働者の代表と定義されていることだ。
 現実に、その世界に住む労働者の権利・生活がどん底にあろうが、労働者達は反抗の対象を持たないのである。
 自分達の現状をもたらしたのが、現実には、支配政権であり、支配政党であり、支配者達であることは確かであっても、それは労働者の代表なのであり、反抗の対象とはなりえないのである。
 自分達の代表に反抗出来るはずがないのである、論理的には。しかし、自分達を苦しめているのが、まさに自分達の代表なのであったという、何とも不条理きわまる事態!!
 そんな事態の中に、東欧の労働者は置かれ続けてしまったのであった。

 オレはお前達の為を思って卓袱台をひっくり返しているんだ、そんなことを主張するオヤジの下で暮らす妻子の姿、みたいなものだ。

 しかし、1989年12月の終わり、ルーマニアの労働者達は、チャウシェスクに愛想を尽かし、最後には処刑してしまった。
 革命の指導者が新たな革命の対象となってしまったわけだ。

 ルーマニアの労働者達は、チャウシェスクという名の卓袱台をひっくり返したわけだ。

 しかし、現在、ルーマニアの労働者達が満足に値する世界を獲得出来たという話は聞かない。

 いずれにしても、大変なのは、卓袱台をひっくり返した後のこと、そういうことなのだろう。

 

 

  

(オリジナルは、投稿日時:2007/02/25 17:24 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/23282/user_id/316274

 

 

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2008年11月25日 (火)

岡本太郎 『日本の伝統』 2

 さて、岡本太郎の『日本の伝統』。最終章「伝統論の新しい展開」から、

 
 

 今までは伝統というものを、パティキュラーな狭いものと考えていました。京都の伝統、薩摩の伝統、少しひろがって日本の伝統、東洋の伝統、それに対立する西洋の伝統というふうに、人種とか国境、民族、そういう枠で過去を裁断し、局限して捉えようとしたのです。ひらかれた世界性に対して、閉ざされた枠、制約。そういうものによって局限された世界、特殊性を受けついで行くのが伝統であり、「現在」は、反対に無限にひらかれた世界的な世界の可能性にたたされている。というのが伝統とか現代文化に対する一般的な考え方でした。 
 だが実はそうじゃない。私が言いたいのは逆だ。今日、過去の方は非常に広大に、全世界的にひろがって来ています。さっきも言ったように、民族とか国境とかいう狭い枠をぬきにして、すべて現在的な感動、今日の血肉となっている過去、現在的な感動をもってわれわれが関心をもつすべては、われわれの受けた遺産です。そしてその遺産は、そのうけるものの分量において無限にうちひらかれているのです。

 創造は本来、極めてパティキュラーなものです。それはほとんど一人だけの孤独な作業なのです。しかもいま言ったような局限された特殊な状況を土台にして創り出す場合、しぼられた特殊な様相をおびるのは当然です。おのれをのりこえるということは、極端におのれ自身になりきること以外にはありません。

 過去をどんらんに無限大にまでひらいて、現在のパティキュラリティーは逆に局限までちぢめて考えるべきだと私は思うのです。ちょうど袋にいっぱいに空気をつめて、口をキュッとしめたように。その締めた口のところが現在の自分です。うんとふくらました中には世界のあらゆる過去の遺産、財宝が豊かにとり込まれています。緊密に締めれば締めるほど、中の空気はビューッと、凄い勢いでふき出る。それがつまり創造活動であり、その口のあり方がオリジナリティ、創造の契機なのです。先に言ったような現実のパティキュラリティーは逆に考えれば、その口のあり方の独自性を強烈にプラスする条件です。
 ところが今までの伝統主義者のとっていた手続きは逆でした。いつでも、伝統の名において過去をひどく狭めて考える。そして逆に現在をルーズに開放される場所としてみるのです。つまり、われわれは日本人である。千利休のような審美眼をもち、奥の細道みたいな気分になり、モノノアワレをうち出し、ユーゲンな味をこめ、そういう土台にのっとってひろく世界に通じるような仕事をしようという考えです。袋の方はしぼっておいて、口の方ばっかりひろげて見せたりしても、駄目。せいぜいすかした味ぐらいで、そこからはとうてい猛烈な創造のエネルギーは出て来ないのです。

 

 

 …という、書中の個々の作品評価にすべて同意出来るわけではない。岡本太郎の芸術論に全面的同意もしません、私は。

 しかし、冒頭第1章の「伝統とは創造である」、そして最終章「伝統論の新しい展開」で岡本太郎が主張していることには共感出来ます。非常に共感します。


 ここにあるのは伝統の消費者の姿ではありません。後生大事に先祖伝来の品を取り出し、それを並べて、そこに自分自身の価値を重ねて悦に入り、他人を見下しているような人物ではない、ということです。

 ある時代に生まれ合わせた者として、その時代の制約を自らのものとして引き受け、しかしその時代を超えたところへと自らを導き、創造する者の姿がそこにあるということです。

 伝統とは、自分に都合の良い物語などではなく、今ここに生きている自分を成り立たせているもの全てなのであり、そこに正面から立ち向かい引き受けるものだけが新たな伝統の担い手となる、そういうことでしょう。


 中身のない自分に勿体を付けるためのものではないわけです。


 私がここで岡本太郎の『日本の伝統』を取り上げたのも、最近の「美しい国」をめぐる議論の中での「伝統」像の歪みを見過ごす気になれなかったからでしょう。
自らを拠って立たしめるものとしての「伝統」を考えることは大事なことです。しかし、それは先祖の遺産を自慢する行為とは別のことでなければなりません。

 まぁ、先祖の遺産の自慢という文脈で言えば、つまり自らの創造物ではない収集品の自慢の「伝統」を考えれば、アキバ系オタク文化こそ我が日本の伝統文化の粋、そのような言い方も出来ますが。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/02/04 00:36 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/20888/user_id/316274

 

 

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岡本太郎 『日本の伝統』 1

 岡本太郎の『日本の伝統』を初めて読んだのは、まだ私が高校生の頃、なんと30年以上も前の話だ。

 岡本太郎の作品については、実は、それほど評価していない。…というか、いなかった。
 岡本太郎自身の芸術論の絵解き、そんな感想が付きまとってしまうところがあったからだと思う。
 
「キレイなものじゃなくって、なんだこれは!!と思わせるものが芸術なんだ」
 
 …というような話を、あの表情を交えてしている姿を、度々、テレビ画面で観たりして、話自体には納得しながらも、どこか、作品がその芸術論の説明・絵解きで終わってしまっているように感じられてしまっていたのだった。
 
 夏休みに、娘の求めに応じて、再発見された「明日の神話」を、暑い中、日テレまで観に行った。これまでの印象の再確認と同時に、そこに込められた岡本太郎のエネルギーの大きさには、やはり、頭を下げずにはいられなかった。やっぱ、すげーや、そう思いました。
 
 で、本題の『日本の伝統』。
 最初は高校生向け(?)の松田道雄のアンソロジーに採録されていた第1章「伝統とは創造である」の文章に感銘を受け(つまりオオウケし)たのが始まりだった。
 家に帰り、その話をすると、母は書棚から『日本の伝統』を抜き出して見せるじゃありませんか(家にあったわけ)。で、全文読みました。ますます感銘を受け(オオウケし)、岡本太郎ファン誕生となったのでございました(それでも作品は好きではなかったのですが)。
 
 で、『日本の伝統』。このところの、「美しい国」だなんだかんだの話の中で、日本の「伝統」が持ち出されるのを見るに及び、あんたら、そいつぁ、ちょっと話がおかしかぁござんせんか、という気分は膨らむばかり。
 それで、今回、娘のために文庫化されたのを買ってきたところなので、ここで、ちょっとご紹介を、そう思ったわけでございます(光文社 知恵の森文庫)。

 

 
 伝統を徹底的に見かえす ― それが『日本の伝統』の目的です。
 似て非なるものほど、非なるものはありません。伝統主義者ほど伝統について見当ちがいしているものはないでしょう。古いものをカサにきて、現実を侮辱するなんて、これくらい非伝統的であり、人間として卑怯なことはありません。そういう気分にたいする憤りから、私はこの本を書いたのです。…

 

 

 昭和31年8月15日に書かれた「はじめに」の一節です。

 
 第1章では、亀井勝一郎や竹山道雄の文章を取り上げてコキ下ろしています。そこが実に痛快で、若き日の私は大いに感銘を受けました(オオウケだったわけ)。ホントは、そこから全文引用したいくらいですが、字数制限で諦めましょう(まずは書店でどうぞ)。
で、戦後日本の駅前風景の醜悪さを嘆くだけの竹山道雄をコキ下ろした続きで、

 

 

 それが現実であり、現代日本文化の姿であるならば、全面的におのれに引きうけなければならない。ツバをひっかけただけで通りすぎるとはもってのほかです。まず冷静に正視する。それは、のりこえる第一の前提です。残酷な、絶望的な現実であるならばこそ、あるがままを認め、そこから出発する決意を持つべきです。すなわち芸術の問題であり伝統にたいする正しい態度だと思います。

 ところが彼らは、その点をごまかしています。(自分たちが小指の先だけでも力をかしたわけではないのに、)まるでおのれの権利ででもあるかのように古典をふりかざし、過去のがわにたって居丈高く現在をいやしめ、今日ただいま、おのれが負わなければならない責任をのがれている。卑怯です。これが今日の伝統主義者なのです。

 

 
…と、言い切っています。そして、

 

 

 すべての古典はそれぞれの時代に、あらゆる抵抗にたいして現在を決意し、たくましい生命力を充実させた精神の成果です。過去の権威によりかからず、おのれを卑下せず、はげしく生ききった気配にあふれています。そういうものだけが伝統として、精神的に、肉体的に、われわれ現在を決意したものにびりびりつたわってくるのです。

 

 

「古典はその時代のモダンアートだった」という小見出しの文章の一節です。

                    ― 続く ―

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/02/03 23:57 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/20865/user_id/316274

 

 

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続々 亡国の正月 昭和二十年一月十五日 (現代史のトラウマ 22)

 

 今日は、昭和二十年一月十五日の日記から。


 まずは、内田百閒の日記から抜粋。

 昨夜も無事であったが、敵機は昨日また名古屋を襲い、うち一編隊三機はお伊勢様を爆撃したる由也。午多田来。玄関にて会う。白いお米少少、大根小松菜等をくれた。午後省線電車にて出社す。夕省線電車にて帰る。

 午後は出社している(日本郵船まで)。
 太田静子の『斜陽日記』には、

 新しい年が明けてからは、空襲は少しなくなったけれど、こちらがすくないと思えば、関西の方がひどく、そのうち、一月十四日に伊勢神宮に投弾した。このニュースを聞いて、私の心は暗い悲しみに閉ざされた。ああ、これが戦争の現実なのだと思った。

という記述がある。
 清沢冽も、十五日の日記で「伊勢の豊受大神宮が敵機のために被害を受けたということ」を記し、

 敵機は計画的にこれを投弾したか、それとも謬って投弾したのか、それともまた果たして敵機の仕業であるのか。米国人の捕虜の言だとて世間で聞くところでは、宮城、明治神宮、靖国神社は襲撃せぬ方針だといわれた。いまそれをやる理由如何。新聞標題 ― 「米、鬼畜の本性現わす」「醜弾伊勢の神域を汚す」「この暴挙断じて許さじ」(『朝日』)、それから名家の憤慨談を掲載。

と書いている。「果たして敵機の仕業であるのか」には、「ここで清沢は、国民の厭戦・反戦の気分から生まれた放火ということを考えたのかもしれない」という注が付けられている。


高見順は、東京に出かけている。

 榊山君の話では、(二本松に疎開しているのだ)田舎に徴用官の相談役のようなのがいて、それが鬼の如くに恐れられているとのこと。むかしの悪代官の手下みたいに、ちょっとでもその男から睨まれると、たちまち徴用をかけられる。農業の方は徴用がかからないはずなのに、なんとかかんとかいって、ひっぱって行く。そして一方、徴用をかけるぞと嚇して私腹をこやしている。かけられると聞かされた方は、その男にわいろを持って行くのだ。わいろが少ないとさらに嚇かす。
 田舎は荒んでいると嘆くのだった。
 尾崎士郎も、疎開していて、同じような話をした。民間の者がこの頃権力を持たされるようになったが、するとこれは官吏よりもひどい官吏風を吹かせる。もとは憤慨していた官尊民卑を逆に発揮する。困ったものだという。
 民が官につくと、かように悪質になるのは、もとよりその人間にもよるのだろうが、それだけながい間、官尊民卑に民が苦しめられていたせいだとも言える。たちまち官吏風を吹かせるというような、そういう民を生んだのは官尊民卑のせいだ。

 東京での友人との会話。清沢の日記にも、「統制」が進めば進むほど効率の悪くなる社会状況への苛立ちが、頻出する。山田風太郎も、内田百鬼園も同様の指摘をしている。自由主義・個人主義の否定=統制経済=全体主義体制とは、そのようなシステムとなるらしい。東欧の社会主義国家でも事態は変わらなかった。それと、人を踏みつけにして利を得る人間の登場。「利己的な」個人主義は否定されたはずなのだが、全体主義的システムが利己的な人間に「人を踏みつけにする」場所を与える。

十五日(月) 晴午後曇夕雪
 ○空襲のため毎日明日の命わからず。高須さんまでが遺言を書いておくという。
 余の遺言はただ一つ「無葬式」。
 紙製の蓮花、欲ふかき坊主の意味わからざる読経、悲しくも可笑しくもあらざるに神妙げなる顔の陳列。いずれも腹の底から御免こうむりたし。
 やるならウイスキーを供えて、ベートーベンのレコードでもかけてくれたらそれにて結構なれど、もとよりそれも愚にして無。

 これは一月十五日の山田風太郎。

 而してこのごろ他と情に於て交渉するが煩わしければ、ことさらにとぼけ、飄然とす。たいていのことは見ざるまね、聞かざるまね、知らざるまねして通すに、習い性となり、偽次第に真となりて、ようやく老耄の気をおぼゆ。二十四歳にして耄碌せりといわば、人大いに笑うべし。
 ○歯医者にゆき、神経をとってもらう。

 明日の命はわからないが、歯医者には行かねばならない、ということだ。非常時の日常生活。


 昭和二十年の今日、一月十五日(月曜日)の出来事。亡国の日は7か月後のことである。

        (本日は「いぢわる、あるいは神の姿」に代えて「現代史のトラウマ」の続き、でした)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/01/15 22:27 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/18744/user_id/316274

 

 

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続 亡国の正月 昭和二十年一月一日 (現代史のトラウマ 21)

 

 昨日に続いて、昭和二十年一月一日の日記の紹介を続ける。



          昭和二十年

     一月

一日(月) 薄曇のち晴
 ○運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ。
 ○昨夜十時、午前零時、黎明五時、三回にわたりてB29来襲。除夜の鐘は凄絶なる迎撃の砲音、清め火は炎々たる火の色なり。浅草蔵前附近に投弾ありし由。この一夜、焼けたる家千軒にちかしと。
 ○午前高輪螺子にゆく。振袖にかっこ下駄の愛らしき少女いずこへ消えたりや。凄涼の街頭、ただ音たててひるがえるは戸毎の国旗のみ。高輪螺子にて先日の鶏、その他くるま海老、豚などにて飲み、酔いて帰る。午後より家にてまた飲み、夕ついにエルブレッヘン(嘔吐)し、泥のごとく眠る。

      山田風太郎 『戦中派不戦日記』 (講談社文庫)

 昭和二十年、山田風太郎は東京在住の、23歳になる医学生だった(「エルブレッヘン」という表現に反映されている)。高輪螺子(らす)は、確か、工員時代の取引先で、いろいろと世話になっていたようである。
 元日からの空襲の様が見て取れる。

 昭和二十年一月一日
 遅い朝食(雑煮)をとっていると、平野徹君(平野謙令弟)来訪。海軍少尉の服装なり。
 やがてまた海軍少尉来る、河出書房にいた飯山君である。聞けば同期の予備学生である。吉川誠一君来る、海軍報道部勤務、海軍ばやりである。
 三君とも夜までいる。平野君ひとり、あとまで残る。しきりに死を口にする。フィリッピンに赴任するのである。冗談半分で死のことを言っているのかとおもったら、ほんとうに悩んでいるらしい。

     高見順 『敗戦日記』 (文春文庫)

 高見順は、その年38歳になる。鎌倉在住。前年6月から12月まで陸軍報道班員として、中国大陸で従軍(「支那から帰って去年いっぱい粥食で通した。アメーバ赤痢気味」という記述が翌日の日記にある)。
 1月14日は東京に出、「汚い、うすよごれた道路だけ」となった銀座の光景を日記に残している。

 一月一日 (月)
 昨夜から今晩にかけ三回空襲警報なる。焼夷弾を落としたところもある。一晩中寝られない有様だ。僕の如きは構わず眠ってしまうが、それにしても危ない。
 配給のお餅を食って、お目出度うをいうと矢張り新年らしくなる。曇天。
 日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だとかいって戦争を賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由からであった。戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、彼らは味わっているのだ。だが、それでも彼等が、ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼等は第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼等は戦争の英雄的であることに酔う。第三に彼等に国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。
 当分は戦争を嫌う気持が起ころうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ。
 日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界一等国となることはできぬ。総べての問題はここから出発をしなくてはならぬ。
 日本が、どうぞして健全に進歩するように ― それが心から願望される。この国に生まれ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るように ― 。「仇討ち思想」が、国民の再起の原動力になるようではこの国民に見込みはない。
 僕は、文筆的余生を、国民の考え方転換のために捧げるであろう。本年も歴史を書き続ける。幸いにして基金もできた。後世をめがけて努力しよう。
 本年の予想 ― ドイツは本年中に敗戦するであろう。大東亜戦争は本年中には片はつくことはないであろう。ダンバートン・オークス案は成立するであろう。そうすると日本だけが、孤立奮闘するような事情が生まれるであろうことも想像できる。


     清沢冽 『暗黒日記』 (ちくま学芸文庫)

 清沢は、徹底したリベラリスト、愛国者。
 同年5月21日に、肺炎のため、築地の聖路加病院で急逝。5月26日の空襲の前である。8月15日の亡国の日を迎えることなく、そして戦後の日々を経験することなく、55歳で世を去ってしまった。


 亡国の年の正月元日。様々な思いがあった。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/01/14 18:54 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/18583/user_id/316274

 

 

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亡国の正月 昭和二十年一月一日 (現代史のトラウマ 20)

 

  ― 遠くに真白き富士の嶺、箱根の連山、朝日かがやく海の光り、折柄庭の梅の古木に、鳩よりずっと大きく、濃き納戸色の羽根したる鳥、東天に向いて、じっと置物の如くとまりて、瑞気溢れ、わけもなく東の空を伏し拝みぬ。
 お膳を片付けたる頃、鳥はいずこへか飛び去り行きぬ。
 やがて子供達、にこにこして、おめでとうございます、とあそびに来る。羽根をついたり、お手玉をしたり、子供たちと、ひねもす子どものような気持ちにて、あそびくらす。何事も忘れて…………。実に容易ならざる昭和二十年の元日を、かくものどかに過ごさせて頂きし有難さ。

 これは、元日の、お母さまの日記である。静子と二人で迎えた元日。このお母さま最後のお正月は、お母さまにとって、満足そのもののようなお正月であった。何事も忘れてとあるように、お母さまは、しょっちゅう、戦地にある二人の子どものことを思っていらっしゃった。殊に別れて四年にもなる遠い南の島にいる通(とおる)のことは、夜、昼、瞬時もお母さまの胸から消えることはなかったのである。その子どものことも忘れて、お母さまは、幸福な元日を、全く無邪気な子どもにかえってお過ごしになったのである。
 お縁側で、二人で向かい合って、おとそと、お雑煮を頂いた時の、お母さまのかがやいた幸福そうなお顔。極楽浄土というものが、もしもこの世にあるとしたならば、お母さまはあのまさしく極楽浄土にいらっしゃったのである。
 私はお母さまのように、幸福ではなかったけれど、お正月らしい楽しい一日を、お母さまとともに過ごした。


     太田静子 『斜陽日記』 (小学館文庫)

 太田静子は、太宰治の『斜陽』のモデル。下曽我に滞在時の日記(を後にまとめたもの)。母は、その年の暮れに死去。





     鹿が食う様な物でお正月

 昭和二十年
 一月一日月曜日旧暦十六夜。一時過ぎに眠りに就く。夜通し表に人声や足音が聞こえた様だが、矢張り初詣りなのか知ら。午前五時警戒警報にて起きる。五時三十分解除。また焼夷弾の落ちるのが見えた。今度はさっきの二度より右手の方なり。幸い消し止めたらしく火事にはならなかった様である。温かいおじやを食べて寝たら七時過ぎになった。よく眠れなかった。十時過ぎ起きる。さて更めてこれから目出度く昭和二十年なりと思う。御歳五十七也。しかし些ともお正月らしきところなし。昨日古日のくれたお酒を少し残しておいたのを家内と祝う。今日のお雑煮は家例の味噌汁也。今年は千江も居らず、唐助も在らず。家内と差し向かいにて物騒な妙なお正月を味わう。昼中は静かであったが今夜にもまたやって来る事なる可し。


     内田百閒 『東京焼盡』 (ちくま文庫)

 当時、東京は麹町五番町に在住。この後、5月26日の空襲で住まいを焼かれる。
 「序二代ヘル心覚」の中に

○サウシテ五月二十四日カラ二十五日二十六日ニ及ブ仕上ゲノ大空襲トナリ
○二十五日夜半家ヲ焼カレタ
○焼カレタ後ノ焼ケ出サレノ明ケ暮レニ忘レラレナイ数数ガ残ッタ
○ナゼ疎開シナカッタト云フニ行ク所モ無カッタシ、又逃ゲ出スト云フ気持ガイヤダッタカラ動カナカッタ
○何ヲスルカ見テヰテ見届ケテヤラウト云フ気持モアッタ
○ソノ晩ハもろとふノ麺麭籠カラ焼夷弾ガ足許ニ落チテ来タ
○アノ時ヨク死ナナカッタト思フ

という文がある。

 1月2日の日記中には

…。それにつけても麦酒かお酒があれば血のめぐりを調える事が出来るのに、うらめしやそれが無い。止んぬる哉。全くの所こんなお正月は初めてであり今回限りに願いたい。昨夜以来夕方迄敵の飛行機も来らず、お正月でも人は来ない。朝も晩も動物園の鹿の食う様な物ばかり家内と二人で食べている。…

という記述がある。




 昭和二十年の正月を、まずは2人の日記から振り返ってみた。

 何人かの日記を読み返しながら気付いたのだが、今年と曜日が同じである。
 1月13日は土曜日となっていた(それで気付いた)。

 亡国の年の正月、である。

                    続く

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/01/13 21:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/18467/user_id/316274

 

 

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亡国の礎 3 万邦無比の我が国体 (現代史のトラウマ 19)

 

 「亡国」の姿、続きます。


…、民族の力量はこれだけで優劣は論ぜられない。すなはち民族の力はあくまで個々の力の総合結集でなければならない。この意味において、民族の各構成員が同一目標に向つて強調一致邁進する民族精神が重要な要素となるのである、これによつて民族の量と質は初めて活動体としての生命を与へられ、国家としての総力を発揮するのである。
日本はこの点に関しては皇室を上にいただき、義は君臣、情は父子の強固なる団結力と八紘一宇の聖業達成の大目標とが厳存して万邦無比である。

 昭和19年(1944年)7月2日の『読売報知』紙上の文章です。
 筆者の林春雄は、続けて、

しかるに米英等の民族精神は享楽主義をもととした個人主義である。…
…個人主義が骨の髄までしみこんでゐて、この思想の上に社会制度が強固に根を下ろしてしまつた…
 
と書き、

かくの如く米英等は個人中心、利己主義であるから強調一致の精神において破綻を来たし易い。国家の目的といへども、己が利害と一致しなければ反対の方向に走る危険は多分にあるのである。この点滅私奉公、至誠一貫の日本民族の団結とは雲泥の相違がある。

と主張しています。医学博士にして軍事保護院顧問の帝大名誉教授が、新聞紙上に発表した文章です。

 東條英機首相の下、言論統制下の新聞ですから、一般的な公的認識の反映された文章として理解出来ます。

 実際、対米英開戦当初から、「個人主義」あるいは「享楽主義」の米英への、「万邦無比の国体」とその精神の優越性は、一種の「常識」となっていました。
 今、手元に開戦当初の適当な文書がないので引用出来ないのが残念ですが、いずれにしても、上記の文章は、昭和19年サイパン陥落を目前にして考え出されたレトリックではなく、開戦当初から、あるいは開戦に至る決断を支えていた認識の延長として書かれているものであるところに注目する必要があります。

 支那人のナショナリズムに対する想像力を欠いていたように、敵国としてしまった米英人のナショナリズムと、その根底にある個人主義への無理解がそこにあったということです。
 贅沢に慣れた「享楽的な」米国人というイメージ。過酷な状況におかれれば、すぐに音を上げるはずだ、という思い込み。
 ピューリタンの伝統、過酷な開拓生活を経て来たその歴史への想像力の欠如。

 『国体の本義』に見出された「個人主義」への排撃の延長で、自らに都合よく積み重ねられたイメージの上に、対米英開戦へと導かれる雰囲気が醸成されたわけです。『国体の本義』自体が、「国体明徴」という時代精神の上に書かれたものでした。ナショナリズムの基盤を「国体」の上に置き、そこからの逸脱を許さぬという発想が、国家の行政に浸透し、言論の抑圧の上に政治的決定が行われるようになっていきます。

歴代の天皇が臣民を哀れみ給ふことは、恰も親が子に対するが如く、又国民が天皇を敬慕し奉ることも、恰も子が親に対するが如く、君臣の関係が、その心持に於て、親子間の恩愛と少しも変わらないのが、我が国体の事実であり、又将来に向つての理想である。

 昭和12年(1937年)刊の『新制 女子国語読本 巻九』にある「忠孝と我が国体」という文章です。

 大東亜戦争の開戦の背景には、「国体」の個人主義への優越性という認識がありました。しかし、その結果、国家は敗北し、200万人を超える英霊が新たに靖国神社に祀られることとなりました。「万古不易の国体」は「個人主義」に敗北したのです。
 「義は君臣」、「情は父子」。しかし、私には、昭和天皇が200万人の国民(一般市民を加えれば死者は300万人を超えます)の死を望んでいたとは思えません。「親が子に対するが如く」の情が「国体」を支えていたはずですから。

 「亡国」へと至る責任。どこにあるのでしょうか。
 「個人主義」の否定を基調とした新・教育基本法、より善い世界を築く礎となりえるのでしょうか。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/01/07 20:04 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/17688/user_id/316274

 

 

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亡国の礎 2 盧溝橋事件 (現代史のトラウマ 18)

 

 今日も、「亡国」の話である。

 1937年、支那事変。
 当初、軍人達は、ちょっと武力行使で脅かせば、中華民国政府は降伏する、そう主張していました。大日本帝国に有利な条件で講和に応じると。

 現実的には、外国の半植民地状態という現状の自覚が、中国の人々に共有され始め、近代的主権国家としての国家建設が目標となりつつあった時代でした。
 排他的な主権領域と中国人が考えていた土地に、満洲国を「建国」し、その上に盧溝橋事件をきっかけに武力行使の拡大を続ける大日本帝国は、当然のこととして第一の排撃の対象となっていました。

 国際連盟にも承認された中華民国政府が統治する主権領域内に軍隊を送り込み、敵対的な軍事行動を続けている以上、排撃の対象となるのは当たり前のことです。
 日本国政府が統治する主権領域内に、他国の軍隊が侵入し、敵対的な軍事力行使を試みるような事態に備え、その排除を目的として、自衛隊→自衛軍は存在しているわけです。1937年に大日本帝国の軍隊が、中国本土で、正統的なものと国際的に認められてた政権に対し、軍事力の行使の拡大をもって、自らの政治的・経済的利益の獲得を要求した以上、排除の対象となったのは当然のことでした。

 「愛国心」というものを日本国民以外の外国国民も所有していると考えるのは当然のことでしょう。歴史的過程の中で、ナショナリズムが浸透しつつあった中国の地で、大日本帝国の行為に対する憤激が一般化していくことの蓋然性を理解出来ないとはどのような事態なのでしょうか。
 中国人には「愛国心」は生じえないという判断は、どのように可能なのでしょうか。

 1937年、明治維新から70年過ぎただけの時点です。維新から、当初の内戦状態(西南戦争を頂点とする)を経て、明治政府が権力の正統性を確立するのに10年を要しています。
 日本が統一国家としての姿を明確にしてから60年ほどしか経ていない時点だ、ということなのです。
 「国民」が、日本を「祖国」と考え、「愛国心」の対象としていくには、更なる年月が必要でした。
 1937年、辛亥革命から26年、中華民国成立から25年が過ぎただけの時点です。広大に中国大陸にようやく統一的な権力が確立されつつある時でした。小さな日本列島で10年、広い大陸で26年、要して当然の時間です。

 大日本帝国の軍事力行使を、大陸に統一的権力が確立していないことを理由に正当化するような試みには、賛成出来ません。
 大陸における、民族自決は当然のことであり、広さゆえに時間のかかるのも当然のことです。混乱状況に乗じて、軍事力行使を進め、自らの政治的・経済的利益の獲得を試みることに道義性は見出されません。

 中国人の抵抗を、当時の日本の新聞雑誌は、「暴戻支那」、「暴支膺懲」などという形容で報じました。そこでは、「愛国心」に基づく支那人の抵抗が、不当な暴力行使として描かれてしまっています。

 これは、現在のイスラエル占領下のパレスチナの人々による、イスラエル国家に対する抵抗を、「テロ」として告発するイスラエルの姿勢に、現在でも共通するものです。

 他国国民のナショナリズムに対する無理解がそこにあります。
 その無理解の上に、戦闘を継続し、講和への可能性を自ら閉ざし、終わりなき戦闘状態を作り出してしまいました。戦線の拡大と共に、占領地の治安の維持は不可能となり、大日本帝国にとり、戦争状態の終結はますます困難となるだけでした。

 現在、米国がイラクで陥っている状況を、70年前の大日本帝国は、既に、味わっていました。

 そして、1941年12月8日、対米英戦の開始に至ります。中国の正統政府との戦闘に勝利出来なかった国家とその軍隊が、ますます戦線を拡大するという判断はどのように可能だったのでしょうか。

 亡国への道、考えておくべきことは、まだまだあります。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/01/06 23:56 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/17575/user_id/316274

 

 

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亡国の礎 『国体の本義』 (現代史のトラウマ 17)

 

 今年の年賀状のテーマ(?)として、1937年を取り上げました。2007年から、丁度70年前になります。

 1917年、ロシア革命から90年目という年でもありますが、日本に住むものとしては、1937年が現在に直結している象徴的な年であるように思えました。

 賀状(フォトページ参照)にもあるように、1937年5月31日は、文部省による『国体の本義』の刊行日であり、7月7日は盧溝橋事件の起きた日付です。
 どちらも、1945年8月15日正午、昭和天皇自らの声による「玉音放送」を通じて、大日本帝国の敗北が国民に発表されるに至る事態への出発点にあると考えられる出来事です。すなわち、「亡国」への出発点であった、ということです。

 7月7日、盧溝橋事件に始まる中華民国国内における大日本帝国軍隊の武力行使の拡大は、やがて1941年12月8日の真珠湾攻撃に始まる対米英戦争へと発展しました。開戦後半年間の戦闘における勝利が続いた後は、敗北の連続となり、当初の占領地を失い、継戦能力の喪失による無条件降伏に等しい最期を迎える結果となったわけです。

 戦争当初の占領地域の喪失のみならず、(関東軍の謀略によるものであれ)親日国家として建国された満州国は瓦解し、明治以来獲得した台湾と朝鮮半島の植民地をも失うこととなったわけです。
 そして、大日本帝国は連合軍の占領下に置かれました。占領下の裁判で、大日本帝国の指導者は裁かれ、処刑もされました。
 「亡国」とは、そのような事態を指します。

 軍事的な出発点が、盧溝橋事件でした。それを政治がコントロール出来なかったという意味において、政治的出発点であったとも言えるでしょう。

 『国体の本義』の刊行は、精神的出発点とも呼びうるものであったと、私は、考えます。やがて来る「亡国」の精神的出発点であった、ということです。


 『国体の本義』の前文から抜書きしてみましょう。


抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの台頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換の時期を将来してゐるといふことが出来る、久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相克、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。

 前文の最後はこのような文章で終えられています。
 『国体の本義』において批判の対象となっていたのは、端的に言って、「個人主義」であった、そう述べて問題はないでしょう。
 当代の問題の起源が「個人主義の行詰り」に求められ、その克服の方途として「真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明すること」が示される、というわけです。

 歴史を振り返れば、形式的な愛国主義の瀰漫と、自己礼賛の繰り返しが、その後のこの国にあふれかえりました。
 しかし、最後にやって来たのは、1945年8月15日、亡国の日でした。
 米英の「個人主義」の国に、『国体の本義』の国は、敗北し去ったのです。

 そして現在、「個人主義」の否定に重点を置いたかに見える、教育基本法の「改正」が行われました。再度の亡国への出発点、私にはそのように見えます。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/01/05 22:49 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/17456/user_id/316274

 

 

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2007年1月4日 (亡国の徴) 現代史のトラウマ 16

 

 1月4日、仕事始め、だそうです。

 が、私はまだ休みなので、家族で立川まで出かけました。いろいろと寄った末に北口のフロム中武へ。娘はアニメオタクショップ。私は切手と古銭の店へ。

 古銭と切手といっても、元々からの収集癖があったわけではなく、何度かアニメオタクショップ通いに付き合わされるうちに、ヒマつぶして眺めていられる店として覗くようになったもの。
 始めは、家族の生まれ年の各国の硬貨を見つけ、面白がって購入していたわけです。硬貨のすり減り具合も、必ずしも年代の古さを反映していなかったりしますし、故国でそのコインが経て来た運命など想像したりするだけで、結構楽しめたものです。

 そうやって「見切り品」風に、店先の箱の中に入れられているコインを1枚1枚、国や年代を確認しながら選ぶ。なんてことを何度かしている内に、興味も拡がっていきました。もう存在しない国家の発行した硬貨が混ざっていることに気付いたわけです。
 最初に見つけたのは、1915年、革命以前のロシアのコインでした。やがて、1916年のアルジェリア、フランスの植民地であった時の貨幣。1942年のドイツ(ナチス時代)のハーケンクロイツ付きのもの。1945年のスウェーデン(第二次世界大戦では中立国)のコインなど、想像力をくすぐられるものが、ちょっと注意していると見つかることに気付いたわけです。
 そのうちに、今はなき、東欧の社会主義国家のコインにも気付きます。チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、そして東独、ソビエト連邦と、今はまったく別の政治体制の下に置かれている国家群の様々な貨幣。


 本日の成果。社会主義時代のチェコスロバキアのコインセット(1970~80年代のもの)。英連邦時代のニュージーランド。年代不詳のマスカット-オマーン(現オマーン)。年代不詳のイラク(サダム政権下あるいはそれ以前)。フランコ時代のスペイン(フランコの肖像入り)。そして、康徳元年と大同3年の年号の入った、「大満洲國」の1角白銅貨を1枚ずつ。

 例えば、社会主義時代のチェコスロバキア。年代からいって、1968年の「プラハの春」が、ブレジネフの指令下のワルシャワ条約機構軍戦車部隊の侵入により潰され、その後の「正常化」時代、つまり結局のところは国家財政破綻に向かう「正常化」の時代のものですね。丁度、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の主人公トマーシュと息子の生きた時代のコインということ。
 「社会主義共同体」の危機を救うために投入されたはずの戦車部隊は、結局のところ20年かけて、1989年の社会主義共同体の消滅を用意しただけでした。

 興味深い(?)のは、ネパールやビルマ(ミャンマー)、あるいはイスラエル、そしてイスラム圏の国々の貨幣には、西暦年号が記されていないことです。それぞれの年号がそれぞれの文字で記されているため、現在の私には、前記のイラクやマスカット-オマーンの例のように年代の確定が出来ません。1枚のコインですが、歴史・文化を深く刻印されているわけですね。

 そして、大満洲國の硬貨。関東軍の謀略に起源を持つ国家の発行した硬貨、ですね。日露戦争後に、ロシアから大日本帝国が獲得した権益の防衛のために派遣された、「関東軍」と呼ばれた大日本帝国の軍隊の軍人達の謀略により「建国」された国家の貨幣が、今、ここにあるわけです。
 同じ軍隊の軍人達は、満洲國の「建国」に飽き足らず、やがて盧溝橋事件をきっかけに中華民国正規軍との戦闘状態を拡大し(支那事変)、そのことから米国との外交関係を悪化させ、ついには真珠湾攻撃による対米英戦争の開始(大東亜戦争)に行き着きます。
 しかし、20世紀の戦争を戦い抜くには戦術的にも戦略的にも未熟な上に、兵器のみならず戦略物資の確保も出来ぬまま開戦に踏み切った結果(当然の結果として)、ポツダム宣言の受諾という形での事実上の無条件降伏に至ることになります。
 ここに、大日本帝國は亡国の時を迎え、その出先軍隊の謀略の産物としての満洲國も消滅の時を迎えました。
 満洲國が真に五族協和の国であったなら、その国民自らが国家防衛に当たったことでしょう。現実には、侵入してきたソ連軍に抵抗する満洲人の姿はなく、それどころか満洲防衛を任務としていたはずの関東軍が居留民(日本国内からの移住者)より先に逃亡したのが実態でした。
 以前に、新正卓写真展のところで記した「中国残留孤児」の悲劇、そして「シベリア抑留」もそれに付随する出来事でした。

 1枚のコインから、ある国家の「亡国」の姿までが蘇ります。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2007/01/04 23:27 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/17322/user_id/316274

 

 

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引き裂かれた家族の肖像 新正卓写真展 (現代史のトラウマ その15)

 

 11月25日の日記で、武蔵野美術大学内で開催されている、新正卓さんの写真展を取り上げた。
 写真展は、昨日で終了してしまったのだが、木曜日にもう一度足を運ぶことが出来た。今回は、前回の日記の延長として、再度、新正さんの写真について書いておくことにしたい。

 最初に、「現代史のトラウマ日記」の一つとして書いた、新正さんが私たちの前に提示して見せてくれた、写真の中の時間について。


 今回は、特に「双家族」と題されたシリーズについて考えることによって、より詳しく問題に接近してみたい。

 1986年から、1988年にかけて、日本と中国で撮影された、中国に留まざるをえなかった「残留孤児」と日本に住むその家族の写真の組み合わせ。1990年に東京のニコンサロンの個展で発表されたもの。
 図録の年譜によると、そのような撮影と発表の経緯をたどり、まだ写真集という形での刊行はないようだ。今回の展覧会の図録は、ハードカバーの写真集として後日刊行予定のようなので、その際に作品を見ていただきたい。

 残留孤児の方々それぞれの事情(中国国内の家族状況など)が一方にあり、日本国内の家族事情がもう一方にあり、本人の日本帰国が叶わなかった離ればなれのままの家族の写真。中国国内で撮影された本人の写真と、日本国内で撮影された家族(親であったり、兄弟姉妹であったり)の写真が並べて展示されている。

 そこにある時間を、あらためて考えた。

 キャプションとして、姓名、生年月日、撮影地、撮影年月が表示されている。
 例えば、
呂 雅之(妹・近藤綾子)昭和10.2.26生 黒龍江省佳木斯市旧旭国民学校 1987.7 (新正卓が入学した国民学校。彼女は多分1年先輩だろう。)
黒川安治(兄)大正11.1.23生、黒川好美(安治の娘)昭和32.8.30生 長野県下伊那郡 1986.2
        という具合である。

 最初に、満洲国の崩壊の時点、家族が離ればなれとならざるをえなかった時点での年齢がある。
妹10歳。兄23歳。
撮影時の年齢。
妹52歳。兄64歳。兄の娘28歳。
現在の年齢。
妹71歳。兄84歳。兄の娘49歳。

 満洲国の崩壊とは、大日本帝国の崩壊の時であった。大日本帝国軍隊の策謀により建国された満洲国が、大東亜戦争の敗北による大日本帝国の崩壊により地上から姿を消した時のこと。大日本帝国の国策と共に満洲国民となった家族が離散に直面する時であった。
 この例では、残留時の年齢は10歳であるが、生後数ヶ月で家族から離されているケースも多い。いずれにせよ、本来の家族からは引き離され、中国人のもとで育てられた40年を超える歳月が撮影時までに経過しているのである。その間の労苦は想像を超えている。そして、日本国内まで引き揚げられた家族にしても、決して平穏な40数年間ではなかったはずだ。そのような年月が撮影時までに既に経過していた。
 そして、写真を私が見ている現在がある。撮影時から20年近い年月が経過してしまっているのである。この兄妹の両親は既に世を去っていることであろう。兄の娘には何人の子どもがいるのであろうか。妹の家族は、どんな様子なのであろうか。
 この兄弟の上を経過した61年間という時間を想う、のである。昭和20年8月からの61年である。
 もちろん、昭和20年8月までの家族の日々という時間も、それ以前にあった。
 1枚の写真が喚起してしまう時間。その重層した時間を私は前にしたのだった。

 前回にも書いたように、そこにある時間は、大日本帝国と日本国、この二つの、しかし 不可分の国家がこの家族の上に刻印した時間でもあるのだ。引き裂かれた家族の、苦労と悲哀に満ちた戦後61年という時間に対して、この国家は実に酷薄であった。穏やかな表情で、こちらを見つめる兄と妹。別の国で暮らす兄と妹の姿。その写真の背後に隠れているのは、今、私たちが暮らす国の姿、ということだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/12/17 23:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/15072/user_id/316274

 

 

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自虐とプライド、そして歴史 (現代史のトラウマ 14)

 

 自虐史観、という言い方がある。

 もう一つよくわからない話なのである。

 自虐史観。ではその反対は何なんだ、逆は何なんだ、と私が考えてしまうからだろう。

 他虐史観ということなのか?
 それとも自尊史観、自慢史観、自賛史観とでもいうことになるのだろうか。

 どうも私の思考回路は、そんな方向に考えを進めてしまうのである。

 そういうことでは、多分、ないのだろうなぁ、とは思う。

 しかし、自虐でなければ他虐ではないのかなぁ。
 自虐でなければ、やはり、自尊、自慢、自賛ではないのかなぁ、と思ってしまう。

 他虐、つまり、他を貶めることで自らの位置を引き上げる、つまり、自尊、自慢、自賛ということではないのか、と我が思考回路は考えを進めてしまうのである。

 どっか違うのだろうか、考え方が。


 自身にひきつけて考える。
 ミニマムな歴史としての我が人生、これまでの行為とその結果、経験の総体を思い起こす。記憶に残る、我が経験の総体としてのこれまでの人生を思い起こしてみる、わけだ。

 まぁ、お恥ずかしい話ばかりで、他人様に語るようなことはない。

 その中でも、ダメージ体験、自分がヒドイ目にあったと感じられるような出来事を思い起こす。
 大抵は、自ら招いたこと、我が愚かさの報いでしかない。
 いまだに愚かであることには変わりはないので、下手をすれば、二の舞三の舞が待ち受けているだけだ。しかし、少なくとも、原因の一端が自分にある以上、その自覚がある以上、繰り返しを避ける手立てもないわけではない。
 他人のせいにしておけば、自分の愚かさを自覚する必要はなく、利口だと思っていられるのだろう。
 しかし、それでは、同じ過ちを何度でも繰り返すだけのこと。何度でも、何事でも、他人のせいにしておけば済むことなのかも知れないが、それは経験から何も学ばない、学べない自分を永遠に存在させることを意味してしまう(といっても死ぬまでのことに過ぎないわけだが)。
 いずれにせよ、大したことのない自分である。それで十分と思っているのである。他人を貶めて、相対的に自分の位置を高めて、自分の方がエライと思うことの必要を感じない。そんなことは、なんか浅ましくてみっともないことなんじゃないかとさえ思う。

 …とミニマムな歴史としてのこれまでの自分を振り返ってみる。


 自虐史観、問題とされているのは国家の歴史、大きな歴史だ。
 「自存自衛」のための戦争を決断し、戦い、敗北した。大日本帝國は歴史から消えた(自衛出来ず、存在を失った)。開戦を決断し、戦争を指導し、国家を敗北の窮地に立たせた政治的軍事的指導者が占領軍による報復的裁判で死刑に処せられた。
 その一連の過程を、自らの責任として受け入れずして、対戦国のせいにして、何が得られるのかと思う。敗戦を、言葉通り「負け」として受け入れること。敗戦に至る国家の歴史を直視し、その過程を他国のせいにするのではなく、自国の政治的・外交的・軍事的失敗としてしっかり受け止めること。
 必要なのは、歴史に対するそのような態度であると思う。それは自虐ではない。他虐でもなく、自存、自慢、自賛でもなく歴史に向かうこと。
 国家の歴史、大きな歴史を前にしても、未来を開くのはそのような態度であると思う。

 プライドというのは、自分の方がエライと主張すること、自分は決してマチガッテナイと主張することで表現されるのではないのではないか。尊敬されるのは、過ちを犯したら改めることの出来る人間の方なのである。
 別に尊敬されなくてもよいが、私にとって、プライドとは、そのようなものなのである。そういうものではないのだろうか?

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/12/10 21:48 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/14063/user_id/316274

 

 

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特別な日 12月8日 (現代史のトラウマ13)

 

 昨日は12月8日。
 65年前、昭和16年(1941年)、

大本営陸海軍部発表。本日未明、帝國陸海軍は、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり……

 というラジオニュースを多くの国民が喜びをもって聞いていた日でした。

 開戦記念日、ですね。以後、敗戦まで、毎月8日は「大詔奉戴日」として、国民に祝われるべき日となっていきました。

 大東亜戦争中、特別な意味を持つ日付の一つであり続けたわけです。
 ちなみに、「大詔奉戴日」とは、天皇の名により、国民に対し、米国及び英国に対する宣戦を告げる文書(詔書)の発せられた日、を意味します。
 付け加えておけば、この「宣戦の大詔」は、国民に対する天皇の公文書ではあっても、米国及び英国に対する宣戦布告の文書ではありません。

 大東亜戦争中のこの特別な日は、4年後の昭和20年(1945年)8月15日正午、天皇自ら読み上げた「戦争終結の大詔」のラジオ放送により、特別な日の座を終えることになります。
 以後、戦後の日々、大東亜戦争での敗戦により消滅した大日本帝国に替わる日本国において、8月15日が、特別な日としての座を受け継いできました。

 大日本帝国においては、12月8日が、大東亜戦争開戦の日として、特別な日であり、戦後の日本国にあっては、8月15日が、新生日本のスタートの日として、特別な日として取り扱われて来たということでしょう。
 もちろん、日本国憲法発布の日、講和条約発効の日こそが新生日本のスタートの日としてはふさわしいのではないか、という理屈が成り立つことは承知しておりますが、実際の国民の記憶という点から考えても、国家的行事のあり方から見ても、8月15日には及ぶものでないことは確かなことでしょう。

 大日本帝国が、大東亜戦争を開始した日が、12月8日であり、大東亜戦争における敗戦を受け入れた日が、8月15日である、ということになります。


 中国においては、7月7日が特別な日です。盧溝橋事件の日、いわゆる支那事変が始まる日です。昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋付近における、日支両軍間の銃撃戦をきっかけとした、大日本帝国陸軍による終わりなき軍事力行使の始まった日ということです。もちろん、「終わりなき」というのは文章表現上の修飾であり、そこで軍事力行使を停止できなかったことが、昭和16年12月8日の対米英開戦に帰結し、最後に昭和20年8月15日の「玉音放送」による、天皇自らの、敗戦の受け入れ宣言をもって、大日本帝国の軍事力行使には「終わり」が訪れたわけです。
 中国では、中国「固有の領土内」での大日本帝国陸軍(支那派遣軍)による自国軍隊への攻撃の開始の日、国土の他国軍による蹂躙開始の日として、7月7日は特別な日として記憶されています。

 また、8月15日は、国土を蹂躙し、多くの国民の生命財産を奪い続けた大日本帝国の敗戦の日であると共に、何よりも、自国を蹂躙し続けた敵国への勝利の日として、中国人には理解されています。
 朝鮮半島の人々にとっても、事態は同様、あるいはそれ以上かもしれません。大日本帝国の植民地であった祖国が、失われていた独立を回復する日を意味するからです。


 大東亜戦争をめぐるいくつかの日付を取り上げて、その意味するところを考えてきました。特別に記憶されてきた日、「特別な日」という視点を採用してみたわけです。
 戦争とは、政治的対立の軍事的手段による解決の試みを意味します。そこには「対立」があり、お互いがお互いの「敵」となる構造があります。その「対立」の一方からの観点のみではなく、もう一方の視点にも想像力を働かせることにより、問題の所在を自己欺瞞に陥ることなく見出す途が開かれます。歴史から教訓を学ぶことが出来るとすれば、そのための途として、有効な想像力の働かせ方であると考えるわけです。

 12月8日がどのように特別な日であるのか、考えるための第一歩として、本日の日記がお役に立てることを願います。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/12/09 23:09 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/13969/user_id/316274

 

 

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自殺に至るいじめ 個人の尊厳が否定される世界 (現代史のトラウマ その12)

 

 自殺に至るイジメについて考えてきた。

 教育再生会議による「いじめ問題への緊急提言」とは、教育基本法の理念の実現に消極的であった政権政党による内閣により設置された組織による提言なのである。
 特に、現内閣は、「教育基本法改正」を目標として掲げている首相により組織された内閣であることを忘れることは出来ない。
 これまでの、教育基本法の理念の実現に消極的な、むしろ現実に、その理念の実現に反する方向で教育政策・行政を推進してきた者達が、より積極的にその方向を目指すための施策として、「教育基本法改正」を目指しているというのが、現状理解として妥当なところであろう。

 そこでは、現行教育基本法を支える「個人主義的理念」がターゲットとされているのは確かなことである。
 しかし、「見て見ぬふりをする者」から脱すること、傍観者から脱しうる精神を支えるのは、むしろ個人主義、社会に責任ある個人の形成基盤としての個人主義的理念の徹底である、と私は思う。
 引用した教育基本法の文言から読み取れるのは、反社会的な個人とその理念としての反社会的な個人主義ではない。より良い社会を形成するための、社会的責任の自覚を前提とした、社会的責任の実現を視野に置いた個人主義なのである。

 現状での「教育基本法改正」の議論では、まったく、そのような現行教育基本法の文言とその意味する文脈が理解されるどころか、みごとに捻じ曲げられた上で否定されてしまっていると言わざるをえない。

 個人主義的理念の否定の後ろにあるのは、統制感覚である。上から下を見る統治の感覚である。教育現場における、行政的・政治的統制こそが目指されているものである。そのことは、この60年間の、政権政党の政策の反映としての、教育行政の歩みを見れば一目瞭然であろう。

 そのような政権政党による現内閣により設置された教育再生会議の提言、として、あの「緊急提言」が読まれるのは当然のこととなる。


 私もそのように読まざるをえない。

 「個人の尊厳」が尊重された世界(現行教育基本法の理念とする世界)では、そもそも、自殺に至るイジメは、決して、放置されるものではないだろう。すなわち、現状は(既に)そのような世界ではない、ということだ。
 その上で、「教育基本法改正」で目指されているのは、「個人の尊厳」を縮小解釈することであることは確かなことである。
 究極、目指されているのは、命令と服従を基本とする世界なのである(あくまでも究極の理念としては、だが)。

 命令と服従を理念とする世界。それこそは旧軍隊内で最高度に現実化されていたことは言うまでもない。
 そして、1989年のベルリンの壁崩壊以前の共産主義国家内で実現していた世界も、まさにそのようなものであった。
 そのような世界でも、傍観者であることは、決して、許されることではなかった。
 密告の奨励されていた社会がそこにある。無実の隣人を、反国家的人間として、資本主義国家のスパイとして告発することが当たり前となる世界。

 個人主義の否定の上での、傍観者であることの否定がはらむ問題がそこにある。イジメの解決がもたらされるのではなく、果てしなく、お互いがお互いを監視し密告する世界が実現するのである。お互いがお互いをイジメ抜く世界、ということだ。


 そもそも、現行の近代的教育システムは、単純作業の工場労働者と徴兵制の軍隊の兵員養成のためのシステムであった。産業構造が変わり、戦争のスタイルが変化した現在、システムの前提自体が破綻しているのである。
 そのことの認識を抜きになされる、命令と服従システムの再現という最終的イメージの下での「教育再生」から、自殺に至るイジメの問題の解決を望むことは困難であると言うことしか、私には、出来ないのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/12/03 18:52 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/13116/user_id/316274

 

 

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自殺に至るいじめ 教育再生会議そして教育基本法 (現代史のトラウマ その11)

 

 さて、政府の教育再生会議有識者委員による「いじめ問題への緊急提言」について。

 報道(毎日新聞11月29日夕刊)によれば、その一項目目は

①学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。<学校に、いじめを訴えやすい場所や仕組みを設けるなどの工夫を><徹底的に調査を行い、いじめを絶対に許さない姿勢を学校全体に示す>

という文言となっている。傍観者の罪、という認識自体は正しい。傍観者の共同責任という考え方は正しいものであることに、私も同意する。

 第二次世界大戦の経験が、特に戦後ドイツにおいて、もたらした認識でもある。抑圧的な体制の形成、抑圧的な体制の維持、抑圧的な体制による犯罪行為への加担のみでなく傍観自体が罪なのであるという認識がそこにある。


 ところで、教育システムの現状である。
 教育再生会議とは何なのか。
 教育行政の責任は文部科学省にある。教育システムの現状に一義的に責任を負わなくてはならないのは文部科学省なのである。
 一方で、戦後日本の政治の中枢を継続して担い続けてきたのは自由民主党である。教育再生会議とは、現在も政権担当政党である自由民主党の政府官邸主導により設けられた組織である。これまでの教育行政を、政治的に主導してきた政党による内閣により設置されたということだ。
 一方に行政責任を負うべき文部科学省があり、一方に政治責任を負うべき自由民主党とその政府がある。日教組が果たした役割など小さなものだ(ブレーキ役としての存在を過小評価するべきではないと思いはするが)。
 教育システムの現状とは、文部科学省と自由民主党政府が一体となって戦後の60年間をかけて達成されたその「成果」と考えなければならない。
 そして、それを支え続けてきたのは、複数政党制による普通選挙を保障されてきた国民の選択である。
 教育システムの現状について、国民もまた、政治的に、共犯者であることは免れないということだ。

 教育基本法の文言を見る。

前文から
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
第一条から
 教育は、人格の完成をめざし、平和な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。
第二条から
 この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めねばならない。

 現状の教育システムが抱え込んでしまった問題。果たして、教育基本法の理念の実現の結果なのであろうか。
 教育基本法の理念を放置し、逆方向を目指した政策・行政の存在こそが、この60年間の現実ではないのか。
 教育システムの現状の象徴のようになってしまっている、自殺に至るいじめの問題。それは、決して教育基本法の理念が生み出したものではなく、一貫して教育基本法の理念に反した方向を向いた、政治と行政の責任と考えなければならないのである。そして、傍観者どころか、積極的に投票行動により現状を支えてきた国民の責任もそこにある、ということだ。

           続く

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/12/03 17:31 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/13104/user_id/316274

 

 

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自殺に至るいじめ 学校と軍隊 (現代史のトラウマ その10)

 

 自殺に至るイジメ、について考える。

 その前に、イジメを生み出す心理的基盤について。

 自己肯定感をもてない者が、他者を踏みつけにすることによって、相対的に自分の位置を引き上げ、自己肯定への途とするような心理のあり方(このことについては、以前に書いた「ありふれた大量虐殺」へのコメント参照)。
 そのような行為を集団ですることによる、集団帰属意識の維持(そのためには、排除される他者を必要とする)。

 上記二項の組み合わせによる行為の増幅過程。集団への帰属=安全地帯であり、安全地帯での自分の場の維持にはイジメ行為への継続的加担が要請される。


 そのようなことをまず考える。もちろん一面をとらえたに過ぎないことは、言うまでもない。


 その上で、現在のイジメの問題、それが自殺に至るものとなってしまっていることの意味について考える。

 自殺に至るイジメ、について考える上で、現在見落とされている事実をまず指摘する。
 近代日本史を見渡した時、自殺に至るいじめの存在が顕著に見出される場がある。歴史的に見出される、自殺に至るイジメである。

 大日本帝国軍隊の新兵教育の中で発生していた、下士官・古参兵による、内務班内の新兵イジメとその果てに起こる兵営内での自殺を、昨今のイジメによる自殺報道を見聞きするうちに、私は、思い起こさずにはいられない。
 手元に、統計的データを持たないので、数量的に論じることは、現状では出来ない、のだが、帝国陸軍に関する回想の多くに、その事実が見出されることは確かなことである。多くの記述が、自殺に至るいじめの存在を「例外的な事件」として描くのではなく、むしろ旧軍内での構造的な症例とでも言うべき文脈で取り上げていることには注目しておく必要があるように思う。

 まず、自殺に至るイジメが、近現代日本史を通して、現在のみの特有な現象として存在しているのではない、ということをここで確認しておきたい。


 しかし、一方で、発生状況の違いも認識されなければならない。

 現在のイジメは、学校のクラス内における、同等のクラスメート同士の間に生じているものである。
 一方で、旧軍隊内のイジメは、軍隊という厳格な階級組織の中で、命令系統を前提に、上位に立つ下士官・古参兵によって実行されたものである。対象は最下位の新兵であった。
 その相違を混同してはならない。しかし、その際に、周囲の者の反応という視点を導入した際に、相似点も明らかとなる。
 自らもまた、イジメの対象とされる可能性を抜きに、目前のイジメに介入することは出来ないのである。そして、介入の帰結は、自らもイジメの対象となり、問題の解決には決して結びつくことがないという認識としてしか想像が出来ない、そのような状況として理解しておく必要があるということだ。

 もちろん、組織が生み出す旧軍内のイジメ、その組織の原理自体が生み出してしまう旧軍隊内のイジメと、現在のクラス内のイジメの相違点にも留意しなければならない。組織の原理ではなく、状況が生み出すイジメ、とりあえずそのようにまとめてみる。
 が、一方で、教育というシステムの現状と不可分なものとしての現在のイジメという視点も、そこに浮上してくるのである。

                続く

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/12/03 16:28 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/13100/user_id/316274

 

 

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新正 卓 写真展 1 (現代史のトラウマ、その9)

 

 本日は土曜日。実は土曜に休みが取れたのは、かなり、久しぶり。

 土曜は、普段(この夏まで)だと、娘のとろろ丼と、銀座のギャラリーをブラブラ、とか一日どこかの美術館で過ごす、というスタイルだった。
 最近は、仕事も地元の小平で(自転車でふらふら片道20分通勤)という東京の田舎の日々。中央線に乗る、ということも平日はない。
 で、土曜日は、中央線に乗り街に出る。ギャラリーや美術館に加え、美味しい一服や買い物。まぁ、CD買い込みウハウハという一日ともなる。
 銀座辺りのギャラリーは日曜休みが普通なので、ギャラリー巡りオアズケ状態が若干ストレス化しつつあった(加えて、このところの日曜は撮影で美術館もオアズケ)のも正直なところ。出来なくなってみて初めてわかる普段の生活スタイルを発見、てところですかね。

 そこで、今日は、久方ぶりの銀座を考えていたのですが、夕方に地元で一仕事あったことに気付き取り止め。武蔵野美術大学内の展覧会を見に行くこととしました。

 娘と家を出たのが2時過ぎ。お目当ての展覧会が3つ。だったものの、時間の関係で観られたのは、写真家(美大の教授でもある)の新正卓さんの写真展のみでした。


 私にとっては、非常に刺激的なものでした。

 新正さんは、元々はコマーシャル写真がスタートだった人です。
 昭和20年8月15日には家族と共に満洲にいました。つまり、その後に引き揚げ体験を持つ多くの日本人のひとりということです。
 新正さんは、その難民体験のさなかに乳母であった女性と生き別れとなります。その女性が1978年に日本に一時帰国を果たします。翌年、孫のいる中国へ帰った女性のところを訪ねました。写真家の訪問を知った中国残留者が50人ほど新正さんの到着を待ち構えています。そこで、ホテルのロビーでシーツをバックにして撮ったのが『私は誰ですか』という写真集に結実する一連の写真でした。

 以後、それ以前からの撮影地ブラジルは、日系移民の地という新たな視線での撮影の場となります。米国移民とその後ろにある強制収容体験の影、シベリアへ強制連行された捕虜達の残した建設物(オペラハウス、アパート、鉄橋、ダム…)の50年後の姿。そして米国で出会った先住民の姿(力強いマイノリティーの肖像)。
 先住民をテーマにすえたもの以外には、あの戦争をはさんだ日本が、そこに残したままにしたものが写っています。移民、捕虜、米国先住民。相対的、絶対的な弱者として生きることを人生の条件としてきた、せざるをえなかった、させられた人々の姿。

 撮影することによって定着されるそれぞれの姿。
 それぞれの生年から撮影時までの年月。撮影・発表時から現在までの年月。そして撮影時の一瞬。3つの時間がそこに同時にあります。
 写真が示せる時間は、決して、撮影時の一瞬にとどまるものではない。そのことが、見る者(少なくとも私の)の心に染みわたります。シャッターを押すことの意味、の発見のときでした。
 そのすべての時間に、日本の、戦前・戦中・戦後の日本の国策が影としてまとわりついています。そして、考えなくてはならないのは、シャッターの一瞬から現在までの時間。そこにあるのは、80年代以後の、私たちの時代です。私たちの日本が、依然として放置したままにしている時間が、そこにはある、ということです。
 写真を見るということ、そして、写真が見せることが出来ること。ここでは、時間の提示、私たち自身が責任を負わねばならぬ時間の提示が、新正卓の手でなされていた、そのように思います。


武蔵野美術大学 9号館地下展示室  ~12月16日(日曜日休館)

   ”黙示 ARAMASA Taku Photographs” 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/11/25 23:51 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/12013/user_id/316274

 

 

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現代史のトラウマ、その8 ありふれた大量虐殺.

 

 さて、大量虐殺、について。

 大量虐殺は、歴史的には古くから存在し、地球上のあらゆる地域で引き起こされている出来事である。人間の歴史において、どこにでもある、ありふれた、あくびの出るくらい退屈な事態である。

 もちろん、それは、大量虐殺をデータとして処理する限りにおいてのことである。現実には、それぞれの時代、それぞれの場所において、異なった人間が、別の異なった数多い人間を、殺害してきたのであった。すべて、個別の出来事なのである。個別の悲劇がそこにある。個別の被害者がそこにおり、個別の加害者がそこにいるのである。

 20世紀は、大量虐殺の歴史において画期であったと言えよう。
 アウシュヴィッツとポルポトの時代。
 暴動、内乱、革命、戦争に伴う大量虐殺、人類史にありふれた大量虐殺とは、そのようなものであった。
 ナチスによる絶滅収容所の運営、クメールルージュによる田園風景の中での大量殺人。どちらも日常的出来事であった。
 ありふれた大量虐殺とは、特別な日の特別な出来事なのである。非常時の中で起きること、起きてしまうこと、起きてしまったことなのである。
 日常的に、平和な(あえて言えば、ではあるが)生活の中で、日常の業務として、毎日の繰り返しとして、粛々と進められていく殺人、それこそが20世紀において起きた画期的な殺人形態、大量虐殺のスタイルなのである。

 そこにいるのは、内乱や戦闘の渦中といった非日常的状況の中で、興奮し、理性を失った人の群れではない。
 いつも通りに、朝食を食べ、仕事場へ向かい、殺人業務に就き、昼食を食べ、再び殺人を続け、一日のノルマを果たし、家路につき、家族と楽しく夕食を食べ、夜のくつろいだひとときを過ごし、有意義な一日に満足しながら眠りにつく。
 そのような、ありふれた日常生活の光景の一部として、大量の人間の殺害が遂行されていったのである。

 ナチスドイツでは、発達した工業社会に見合った、工場システムの中でそれが行われ、カンボジアでは、田園風景の中でいささか手工業的に行われたという違いはある。しかし、いずれもが、日常生活の中で行われたことなのである。日常生活とともに進行していた事態だったのである。

 そして、どちらにおいても、日常生活はいわばユートピア的状況にあると考えられていた。あるいは、日常をユートピア化するためにこそ、大量虐殺が必要だと考えられていたのである。ユートピアに害毒となるものを排除すること。害毒となると判定された者が収容所に集められ、日々の業務として、殺されていった。
 ドイツにおいては、ユダヤ人、共産主義者、同性愛者達がターゲットとなった。絶滅収容所においては即日の死があり、強制収容所においては緩慢な死が待っていた(労働による絶滅!)という違いはあるにせよ、死体の山は毎日積み上がり、その処理もまた毎日の業務であった(殺して終わりではないのである-死体の処理という次の仕事も待っていたのだ)。
 カンボジアでは、農民とクメールルージュ構成員以外は有害な存在と見なされた。拘束され、家族はバラバラにされ、田園風景の下でやがて白骨となった。

 有害者を排除した清潔なユートピア。死体の山の上に築かれたユートピアだった。

 20世紀に人類の経験した新たな段階、それがユートピアの現実化と死体の山。
 1995年、オウムのユートピアが築いた死体の山をみたのは10年ほど前のことだ。

 21世紀に入っても死体の山を見せ続けられている。相変わらず、殺す者があり、殺される者がいる。

 大量虐殺を引き起こすことから人類は自由にはなっていない。
 しかし、私たちには、大量虐殺の行為そのものに目を向けておくことは出来る。見ないフリをするよりは、自由へ少しだけ近付く道とはなるだろう。

 今回の日記は、大量虐殺という、人間にとっていまだにありふれた事態を考える上で、論点を明確化させる必要を感じ、書いてみたものである。
 もちろん、論じるべきこと、考えるべきことはこれだけではない。しかし、どのような条件(非常時なのか、日常風景なのか)の下で大量虐殺が遂行されたのか、そこが整理出来ていないと、議論が無駄に拡散するおそれを感じたので、まず、ここから書いてみた次第である。

 今回の日記の動機付けとなったのは、果林さんの11月13日の日記、「ラジオで聞いたイスラムの話」である。
 果林さんと、そこへのコメントで、この問題へ眼を向けるきっかけを与えてくれた元祖さんに感謝いたします。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/11/18 23:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/10951/user_id/316274

 

 

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ネコとフニャフニャしたお陰で現代史のトラウマにかわり小さな希望が書けたような日記

 

 今日で、freeml 参入47日。日記も47日目となる。

 土日と祝日は、あの「いぢわる日記」(いつの間にやらそう呼ばれるようになってしまっていた)シリーズはお休みにして、「現代史のトラウマ」と題するものを書くか、どうでもいいようなことを書く日とするか、となってからも数週間が過ぎたことになる。

 この3連休も最後の1日、今日くらいはトラウマシリーズと行きたいところだったのだが、もう一つ力がみなぎってこない。

 このところ、忙しい日々が続き(ただし当人比)、その後の一段落フニャフニャの日々も含めて、ニュースに接していなかったのが、その要因のような気もする。
 自分のこと(仕事含む)で忙しかったり、ネコに腕枕してフニャフニャした日を送っていれば、世の中に腹を立てることもなく、その意味では平穏な日々が送れますよ、ということなのだろうか。

 トラウマシリーズの原動力は、腹立ち、怒りだったということですかね。個人的なこと(私的なこと及び仕事上のこと)ではなく、世の中に対する怒り、世界に対する怒り、腹立ち、ということ。
 まっとうに怒ること、を追い求めて来た、のであると自分では思っております。つまり、誰かのせいにするのではなく、自らの問題として事に当たるということ。

 マジョリティーの問題を取り上げてきているのも、自らをマイノリティーの側に位置づけながらも、しかし実際には自分がマジョリティーの側の人間として見られなければならない一人でもあることを自覚すればこそのことでもある。「マイノリティーとマジョリティーの間」(10月22日)でそのことを書いた。
 誰かのせいにはしないこと。自分が常に正しいのではないことをすべての前提とすること。そして、たとえ自分が被害者の側にいようとも、実際に自らが被害者であったとしても、自分の側に正義があるとは思わないこと。
 加害者は、自分に対して不当なことをした(ので加害者と呼ぶ)のは確かなことであるにしても(もっとも、この事実関係さえ検証されていないことも多いが)、自分の側に正義があるのではないのである。正義があるとすれば、被害者・加害者間の不均衡状態、その是正作用・回復作用としてのみ考えなくてはならないと思う。そこを見誤ると、被害者-加害者関係の逆転を正義の実現としてしまうことになる。現実に生ずるのは、被害者が正義の名の下に加害者に転ずるという事態である。実にありふれた事態である。
 ありふれているからと言って、それでよしとするわけにはいかない。人間とはそのような事態をありふれたものとしてしまうものであるということに自覚的になること。そして自らはそのような事態の再現からは距離をとること。これは、このことだけは、自分で出来ること。自分ひとりでも出来ることなのである。そして、それが、この自分に出来ることであるとするならば、他の多くの人にも可能なことという線で想像力を働かせること。あるいは、他の誰かに出来たのなら、自分に出来ないという理由を見つけることに努力するよりは、その誰かに力を貸すことをこそ考えること。

 …と、ネコとフニャフニャした日々を送ったお陰で、怒り・腹立ちではなく、少しは希望の影のある日記が書けた、ような気がする。

 読み返してみて、
 果林さんの日記:13歳犠牲少女「私を先に撃ってください」
          :「汝の敵を愛せ」る?13歳犠牲少女の世界観とは
        を念頭に置きながら書いた部分がありそうです。そちらもお読みになっていただければと思います。 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/11/05 21:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/8248/user_id/316274

 

 

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現代史のトラウマ、その7 続マイノリティーとマジョリティーの間

 

 現実に、明治維新の時点で考えれば、日本国民など存在してはいなかった。国とは、藩のことであり、何よりもそこでのマジョリティーは、農・工・商ではあっても、「国民」ではなかった。国=藩は、支配層である士の関心事であっても、そこにマジョリティーである農・工・商が関与することはなかったのである。そのような分権的幕藩体制国家が中央集権的明治国家に編成しなおされる過程を思い起こしてみたい。そこでは、西南戦争という内戦状況をくぐり抜けていることに注目しておく必要がある。幕藩体制に代わる国家が複数誕生している可能性がそこにはあった、ということを想像しておくことは決して無駄なことではない。複数の民族がそこに生まれていたかもしれないのである。実際、当時の口語を考えて欲しい。列島の東と西、北と南の人間が会話を通じてコミュニケーションを図るには大きな困難があったはずだ。単一の「日本語」の存在さえ怪しかったのである。現在のチェコ語とスロバキア語の差異と、当時の薩摩語と津軽語の差異を考えた時、どちらに大きな開きがあるのか、一度は問うてみる必要はあるのではないか。
 「日本民族」、「大和民族」という答えのすわりの悪さにはそのような淵源もあることを忘れるべきではない。
 そのようなことを考えに入れた上で、当初の問題に戻りたい。民族問題に無自覚な多数者・マジョリティーとしての「日本人」、つまりアイヌ民族出身者、朝鮮半島出身者、その他の日本国内在住の少数民族出身者を除いた「日本人」に属する私の問題に、である。
民族問題に無自覚であるということは、民族的アイデンティティー及びそこから生まれるプライドへの想像力の欠如をもたらす。そのような場にこの国のマジョリティーは立っている、ということなのである。自らを問うこと無しに、しかし、マジョリティーであるという相対的に有利な位置から、現に、少数民族差別が無自覚に行われ続けているのである。
 そして、私の思想・心情とはまったく別のこととして、被差別少数者から見れば、私はマジョリティーの側の人間なのである。
 つまり、ここには個人は存在しないのである。カテゴリーのどこに組み入れられるか、そこで決定されることなのであるから。あるアイヌが差別される時、その個人が問題にされてはいない。カテゴリーが問題なのである。その同型の関係が、私に向けられる、と考えておかなくてはいけないというわけなのである。人間をカテゴライズすることが何を生み出すのか、そのことも考えておくこと。
 そして、たとえば、私がアイヌ差別を語るとすれば、被差別当事者のアイヌではなく、差別当事者のマジョリティーの側に分類されうる人間で私自身がいることを忘れてはいけないということなのである。
 個人を主語に出来れば、そこに問題はないのかも知れない。しかし、現実のこの世界には、個人を主語にして語ることが出来ない、そのような現実もあるということ、なのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/10/22 22:43 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/5091/user_id/316274

 

 

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現代史のトラウマ、その6 マイノリティーとマジョリティーの間

 

 先週書いた中に、マジョリティーとマイノリティーの間、というような話題があったはずだ。

 私自身の立ち位置としてのマイノリティーというようなこと。

 しかし、基本的には、私は男性であり、健常者であり、日本国籍を持つ日本国民であり、江戸の昔からの東京(江戸というべきか)在住者の末裔であり、同性愛者というわけでもなく、犯罪歴もなく、失業しているわけでもなく……、強者の側の人間ということにはなる。
 ここで、私は、マジョリティーという言葉と強者という言葉を、ほぼ同意語として用いている。何か一定の共通項によりカテゴライズされた少数者。弱者としての少数者、そのような仮定が一方にある。しかし、高額所得者層も少数者であり、この者たちが、この国の政治・経済・行政の中心に位置している現実を考えれば、少数者=弱者という構図は、それだけでは単純に過ぎる。
 つまり、私の立ち位置としてのマイノリティーという言明には、少数者であるとともに弱者としてこの国を生き抜かざるをえない人々の側にいようとする自分、という含みがあることになる。これは、正義とか、善とかいう観念とは無縁なところでの、私の選択である。
 先に記したように、私自身は、何か一定の共通項によりカテゴライズされた形でのマイノリティーでは、おそらく、ない。しかし、この国のマジョリティーとして日々ふるまい続ける人々に共感できる部分を見出し難く思っている人間である。マジョリティーとしての自信を持ってふるまい続ける人々に対して、精神的に、心情的に、マイノリティーであらざるをえない自分の姿を、何かにつけ見出してしまう。そのような意味でのマイノリティーということなのである。そして、そのような文脈において、私は強者ではない。少なくとも、強者の側の人間ではいられない。
 繰り返すが、弱者の側にいることが正義であるとか、善なる立場であるとか考えてのことではない。弱者に対する、マジョリティーの行為が正義や善という理念に反するものであることが多いことは確かであり、それは正されるべきであると常に考えてはいるが、マイノリティーが正義の側にあるとか、マイノリティーであることは善であるとかいうような「思い」とは私は無縁である。

 これは実際、ビミョ-な立場である。
 たとえば、先住民アイヌ民族に対し、私はマジョリティーの側の人間ということになる。それは、個人的な交流の中での信頼関係や共感とはまったく別のことである。出身民族ということで人間をカテゴライズし、日本国内におけるその布置を考えれば、アイヌ民族出身者は、弱者であり少数者であるマイノリティにカテゴライズされ、私は強者であり多数者である側にカテゴライズされる。
 この際、用語上に、私の立つますますビミョーな位置が現れる。いや、私ではなく、この国におけるマジョリティーの、でもあるのだ、それは。
 少数者であるアイヌに対し、では、私は、何者であるのか? 日本人である、という答えは、答えとしてはすわりが悪すぎるのである。アイヌ民族出身者も日本国籍を持つ日本国民である。日本国籍を持つ日本国民であるということと、日本人である、という言明の間には、イコールで結ぶことの出来ない関係がある、のである。あるいは、アイヌ民族出身者をも日本人として呼ぶとすれば、日本人という語は、民族名称とはズレがあるということを意味してしまう。日本人=日本民族ではない、のである。現実に、この国のマジョリティーに所属民族を尋ねてみるがよい。「日本民族」、「大和民族」、あるいは何と答えるであろうか。いずれにせよ、日常語としてすわりの悪い言葉が返ってくるであろう。民族としてのアイデンティティーに無自覚なマジョリティーの姿がそこにある。ここに、自らを深く問うこと無しになされる、多数者による少数者への差別的取り扱いがあるということを、見失ってはいけない。

                        続く

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/10/22 22:38 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/5088/user_id/316274

 

 

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現代史のトラウマ、その5 大日本帝国 vs 日本国をめぐるフツー日記

 

 想像力の貧しさは、貧しい結果しかもたらさない。

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を理解を超えた「悪」と考え、攻撃的な意見を表明することにより、何かが解決される、解決されうる、とする態度は愚かである。
 まずもって、たとえ相手が「理解を超えた悪」であったとしても、攻撃的意見の表明によって解決される(ように見える)のは、自身の欲求不満に彩られた攻撃的な心情のみに過ぎない。攻撃の対象を見出した自身の心情の鬱屈が解放されるだけのこと、幾分かは、ウサを晴らすことが出来るというだけのことである。
 日本では、攻撃の相手に影響を与えることの出来ない意見表明のことを「犬の遠吠え」という。プライドのある人間のとるべき態度ではないとされているはずである。
 北朝鮮をめぐる問題を、本当に解決すべき問題であると主張するなら、攻撃的意見の表明をもって、ことに対処して終わりとするような態度は、まず改めなければならない。

 実際に、「理解を超えた悪」であるのかどうかが、まず問われてしかるべきであろう。
 私からすれば、非常に理解のしやすい「悪といえば悪」にしか見えない。自らの国の歴史に盲目にならない限り、北朝鮮理解は容易である。
 朝鮮半島に現存する大日本帝国、そのように考えれば、解決の糸口は見出しやすくなるだろう。日本国の国民にとって、一番身近な参照対象として、日本国のかつての姿がある。「悪といえば悪」と表現したのは、大日本帝国も「悪といえば悪」な存在であるから、ということである。
 大東亜戦争時の大日本帝国には、「高度国防国家」という自己規定があった。「政治も外交も、経済も産業も、教育も思想も、所謂広義国防の一切の要素を挙げて、国防の目的に合する様に、一つの意志で一貫した全体組織をつくり、之を統制的に運営する国家体制」と表現された、その理念は、現在の北朝鮮において現実化しているわけである。かつての「高度国防国家」である大日本帝国が「悪」なのであれば、現在の北朝鮮を「悪」と見なすことに異存はない。しかし、かつての大日本帝国を「悪」と見なすことに躊躇があるのだとすれば、現在の北朝鮮に単純に「悪」のレッテルを貼ることにも、躊躇することが必要であろう。
 かつて、追い詰められた大日本帝国の関心が「国体の護持」に収斂していったように、現在の北朝鮮の関心が金正日体制の存続に収斂していくことも、当然の成り行きとして理解出来るはずなのである。
 国際社会はかつて、満洲国建国、支那事変の拡大、仏印への進駐といった、大日本帝国の攻撃的な行為に対し懸念を示し、原油の禁輸へと向かう「経済制裁」も課すことをも試みてきた。それがどのような効果を生んだのかは、私たち日本人自身が誰よりもよく知っているはずである。現在、試みようとしている、北朝鮮への攻撃的措置が、事態の解決に効果を持つものである可能性がいかに小さなものであるのか、自らの歴史を振り返る時、深く理解出来るはずである。

 一方で、私たちが教訓として考えておかなければならないことがもう一つある。北朝鮮が「悪」であるとすれば、すなわち大日本帝国もまた「理解を超えた悪」であったとすれば、という問題設定を、である。日本国憲法は「諸国民の公正と信義に信頼」することを立脚点としている。北朝鮮を「公正と信義」を信頼し難い「理解を超えた悪」と想定するとすれば、同時に、私たちは、大日本帝国をも「公正と信義」を信頼し難い国家であったと考えなくてはならない。
 問われているのは、日本国憲法の楽観主義をもって、大日本帝国に立ち向かうことが出来るものであるのかどうか、ということなのである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/10/15 17:59 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/3439/user_id/316274

 

 

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現代史のトラウマ、番外編 『六ヶ所村ラプソディー』観てきましたフツー日記 その2

 

 問われているのは、真の意味での「自己責任」である、という言い方もできるでしょう。長期的視野を持つ、リスクも見つめる、その上で自身が判断する。判断に基づいて行動する、行動の結果に責任を持つ。これができるかどうか。
 一人の力は無力であり、行動の結果が望むものの実現をもたらすという保証は無い、わけです、現実には。しかし、ここで妥協せずに生きるということは、結果として、誰かのせいにする、という態度とは無縁の生き方をもたらします。
 現実には再処理工場が稼動へ向けて既成事実を積み重ねていく中、そこで合意することを拒み、反対という姿勢を保ち続け生きる彼ら・彼女らの姿の輝きの源がそこにあるように感じられました。他人のせいにするヤツは醜い、ということです(妥協し、合意していってしまった人々を責めるわけではありません ― それぞれの事情に対する想像力を失ってはなりません)。自分自身の態度決定に当たって、自身に問いかけるべき性質の問題として、ということです。

 現実には、再処理は開始され、微量であれ、放射性物質の空気中への放出が開始されてしまっています。これまで、有機栽培、無農薬栽培にこだわることによって、直接消費者と結びついて来た農家には、危機的状況であるという現実も描かれていました。放射能に汚染された農産物、という現状は否定できなくなってしまったわけです(再処理施設の危険性を言えば言うほど、自らの生産物の汚染状況も否定できなくなるわけですから)。解約されるケースも出てきている現状が紹介されていました。
 ここで、チェルノブイリの事故当時の仲間との会話を思い出しました。酒を飲みながらの話です。よくズブロッカというポーランド製ウォッカを飲んでいた頃の話ですね(ギンギンに凍らせたヤツがうまい)。ビンの中に、バイソングラスという草が入っているんですが、もうこれからは、これも汚染されて、飲めなくなるねぇ、なんて話していたわけです。そしたら、仲間の一人が、いや、今だからこそ飲まなきゃ、って言うわけですよ。飲んでこそ、ポーランド人との連帯じゃないか、って言うわけ。白ロシア人、ウクライナ人との連帯だ、ってね。で、そーだ!そーだ!!と酔っ払いたちが盛り上がった夜のことを。
 たわいない話ですが、他人事(ひとごと)ではなく自分たちのこと、って考えた時に、こういう選択もいいな、って思ったのは確かです。程度問題ではありますけどね。ただ、こんなエピソードも、今後の自分自身の態度決定に当たって、冷たい他人ではないふるまいにつなげられるものじゃないか、って思ったので書いておく気になりました。汚染を隠して売ることは許せませんが、避けられぬ汚染を共有することも、私たちには出来る、ということです。

 生まれ育った場所で生きていく、ということを考えた時、現実に仕事の無い中、原子力産業に雇われて生きていかざるを得ない人々を責めるのではなく、そのように追い込んでいったメカニズムを直視すること。その時、自分自身が追い込んだ側にいることに気が付くこと、これが出来なくては、この映画を観た意味はない、とも思いました。また、チェチェンの紛争を逃れて、とにかく武力による殺害を免れうる場所として、チェルノブイリ近郊の無住地帯に移り住む人々の姿も思い出しました。まずは、目前の危険を逃れること、弱い人間に出来ることはそれだけだ、という現実世界で追い詰められた人間の姿!


 そんなことを考えさせられながら、ポレポレ東中野を後にし、十数年ぶりに、山手通りを渡った先に続くギンザ通り商店街を散歩しました。うねうねと続く、道幅狭く車も通らぬ商店街。途中の中華屋さんで五目焼きそば(好物)を食べ、屋号を見たら茉莉。昔の散歩友達と同じ名前。いったい彼女は今…、なんてことを考えながら歩き続けると、早稲田通り。中野方面に向かって歩きます。ついにオタクの殿堂と化した中野ブロードウェー到着。今日はかああひる・とろろ丼母娘が一緒ではないので、ただ一階を通り抜け、家路へと向かいました。

 と、臨時フツー日記でした。皆様も機会があったら映画ご覧になって下さい。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/10/11 17:32 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/2810/user_id/316274

 

 

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現代史のトラウマ、番外編 『六ヶ所村ラプソディー』観てきましたフツー日記 その1

 

 昨日、広島県在住の友人より、封書が届きました。開けてみると、

 ……突然ですが、10月7日より東中野のポレポレ東中野で上映されている、鎌仲ひとみ監督の「六ヶ所村ラプソディー」のチケット(精算済み)を送らせていただきます。どこからか圧力がかかっているらしく、マスコミがまったく反応せず、前売り券がかなり余っている(鎌仲さんのメールより)とのことなので、私も少し引き受けさせていただいています。……

 という手紙と共に、映画のチラシとチケットが同封されていました。
 彼女とはもう十数年は会っていない(年賀状のやり取りのみ)のですが、同じような血が流れているひとりとは思ってきていました。要するに、観ろ、ということですね。
 映画のプロデューサーは、一年に一度、某所の忘年会で挨拶を交わす関係でもありますし、鎌仲監督の前作『ヒバクシャ-世界の終わりに』の共同プロデューサーは友人のひとりでもあります。というわけで、これは観ないわけには行かない、と早速、仕事が休みであった本日、東中野まで出かけてきました。

 まぁ、作品については、自分に責任を持ってこの国で生きていこうとするなら観ておけ、という言い方が出来るでしょうね(内容的に)。と言っても、そんな肩肘張ったものではなく、青森の風景とそこにふりかかる日本国の原子力政策、そしてそれに同意せずにそこに生きる人々の姿が、丁寧に撮られた作品です。ちょっと登場する猫がいいです(猫好き向け情報)。
 今日は映画評というより、タイトルどおり、「現代史のトラウマ番外編」として、私の中に喚起されたいくつかのことども、を書いておきます。

 六ヶ所村、成田三里塚、上九一色村、共通するのは、戦後の引揚者の開拓地としての成立事情ですね。そこに前二者では日本の国家が、後者では日本国家のパロディそのもののオウム教団が、土地を奪い、生活の基盤を奪い、安全な生活を脅かす、というふるまいを繰り広げているわけです。戦前・戦中の国策協力(植民地化の尖兵であったということではあるわけですが)の末に、敗戦と共に引揚者として全てを失った上で帰国し、再び故国の原野を開拓し、やっと生活基盤を確立できたと思った矢先に、再び国家政策により築き上げた全てを否定される。自ら築き上げた世界は重いものです。金銭と交換されてヨシというものではありません(そこのところの想像力が麻痺してしまうと精神的に荒廃します ― 現在の「教育基本法改正」論議にはそのような視点は全くありません)。しかし、戦後日本とは、そのような世界であり、人々の築き上げた風景の破壊者達が「美しい国」などというフレーズを恥ずかしげもなく口に出来るのが、現在のこの国の現実です。

 また、原子力政策の推進という行為には、長期的視野の欠落とマイナス情報の隠蔽がそこでは常にエンドレステープのようにまわり続けているという意味で、この国の姿の縮図を見ることが出来ます。長期的には破綻する政策でありながら、それが常に近視眼的に、リスクからは目をそらしメリットのみを強調することにより推進されていく姿がそこにあります。かつての、大東亜戦争の開戦の決定から敗戦にいたる歴史が、ここでは再び繰り返されているように見えます。米国のイラク戦争開戦決定過程においても情報操作が行われ、マイナス情報は切り捨てられました。その挙句の現在のイラクの状況です。そしてどこにも責任を負う者がいないという事態。

                    続く

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/10/11 16:12 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/2800/user_id/316274

 

 

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現代史のトラウマ、その4 なんて題で書いてしまう今日もフツー日記

 

 ちなみに、ここで第二次大戦という呼称をもちいた、欧州での戦争に言及しておけば、それはナチス・ドイツによる、欧州の主権国家への侵略戦争であった、そのように性格付けすることが出来ます。基本的に植民地宗主国への戦争であった(支那事変を除外すれば)大東亜戦争と戦争の性格自体が大きく違うことにも留意しておく必要を感じます。

 イラク戦争に関連させた議論を付け加えれば、ブッシュ政権の「テロとの戦い」政策の遂行においての、テロ国家、テロ支援国家を外交交渉の対象としないという原則、これはかつて支那事変の泥沼化に先立つ「国民政府を交渉の対手とせず」という大日本帝国の採用とした態度を髣髴とさせるもののように思えます。自ら交渉の道を断ってしまっては、解決の道は失われるということにしかなりません。しかし言い出してしまった以上、後戻りは出来ない、というところなのでしょう。


 一般的には、憲法改正論者は現実主義者であるということになっています。が、現実には、それほど現実的ではない、というのが私の感想です。
 武力行使を前提としない外交交渉すらまともに出来もせずに、武力行使の道具を身につけたからといって、それで外交交渉が上手くいくなどと考えることこそ幻想的です。大ケガするのがオチです。
 現実的考えというのはこのようなものでなければ、それは信ずるに値しません。いや、現実的考えとは、信ずるものではなく、考えるものでなくてはならない、というべきなのでしょう。
 考えていないという点においては、憲法9条擁護論の多くにも、同様のコメントが出来るでしょう。
 私はどっちの味方、であるわけでもありません。とにかく、話をしろ、議論をしろ、相手を説得してみろ、大きな声は出すな、これを言いたいだけです。


 話をする、議論をする、相手を説得する、大きな声は出さない、これをこの国のマジョリティができるようになれば、憲法9条を改正しようと、自衛軍を持とうと、そんなに大ケガすることもないだろう。これが結論でしょうか。

 しかし、その期待がちっとも現実的に見えないところが唯一の難点なのですがね。



 本日もいぢわるはなし、どんなもんだい?

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/10/08 12:41 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/2307/user_id/316274

 

 

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現代史のトラウマ、その3 なんて題で書いてしまう今日もフツー日記

 

(本日も、昨日に引き続き、「現代史のトラウマ」、といっちゃいます。内容の解読に苦労することはないでしょう。多少硬派一般向け日記となるはずです。泥沼でなくてトラウマ、いぢわるもないことでしょう、多分)


 昨日、20世紀半ばの戦争の名称をめぐり、「欧州における第二次大戦、日本における大東亜戦争」という記述をしました。
 その背景にある(私なりの)論理についてお話しすることから始めましょう。
 ”World War Ⅱ”が、第二次大戦の原語です。後に第一次大戦と呼ばれることになる”World War”(世界大戦という訳語の方が正確のような気もしますが、大戦という表現に局地戦ではないという意味も込められていると勝手に決めて、大戦でいきます)がもう一度起きてしまったので、第二次大戦なわけです。欧州全域が巻き込まれ、歴史的には「総力戦」という概念が誕生したのが第一次大戦だった、ということになります。つまり、欧州を中心とした(後に参戦した米国を含む)概念であるということです。
 「大東亜戦争」という名称は、1941年12月12日の閣議決定に基づく、12月8日の真珠湾攻撃に始まる戦争の、公式名称です。
 私が、「大東亜戦争」という呼称を採用する理由の一つは、この歴史的呼称であるということ。第二点は、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す、大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜に限定するものにあらず」(朝日新聞による)という情報局発表にあります。遡及的に、支那事変もこの「戦争」の名称に含めると言う宣言・認識がここにあるということです。
 支那事変とは中華民国の主権領域内へ、宣戦布告することなく、中華民国政府軍への武力行使を拡大して、ついには首都占領に至る、大日本帝国の軍隊の行動をさすものです。独立した統帥権という概念は、この軍事力行使が、天皇の名の下に行われた(これは、天皇自身の思いとは別の問題です)大日本帝国の国家意思に基づくものであったことを示しています。「事変」という呼称の使用は、不戦条約調印国の一国として、戦争という呼称が、条約で禁止されている「侵略」にあたるものとされるのを避けるための措置と考えられています(そのために「宣戦布告」はされていないわけです)。
 「大東亜戦争」とは、あらためて、その軍事行動、武力行使が戦争の名をもって語られた、ということなのです。

 この意味は重い、と私は考えています。「アジア解放のための戦争」という論理がここに崩壊するからです。12月8日に始まる対米英戦は、基本的に、欧米諸国の植民地となっていたアジア地域における宗主国との戦争でした。形式的には「解放戦争」という論理は成り立ちます。しかし、支那事変とは、宣戦布告抜きで、他国の主権領域内に正規軍を送り込み、敵対的な軍事行動を続けた事態への大日本帝国からの呼称でした。それが、遡及的にであれ、「大東亜戦争」という呼称の下に含まれることとなった以上、その「侵略戦争」としての性格付けを免れることは出来なくなる、と私は考えます。12月8日の対米英開戦自体が、支那事変の帰結としてのものでしかない以上、大東亜戦争をアジア解放戦争と位置付けることを、論理的で、説得力のあるものとしては、私は信ずることが出来ません。
 憲法9条の「改正」をめぐる議論の中で、わが国への「北朝鮮」による敵対的行為、軍事力行使の可能性への対処、を理由とするような議論が横行しています。
 が、しかし、「北朝鮮」が宣戦布告することなく、ミサイルを発射したり、わが国の領域内に工作員を送り不法な行為を行ったとしても、それをわが国への侵略行為であると認定する根拠を、大東亜戦争(支那事変)の侵略的側面を認めない限り、わが国は論理的に持ち得ない、と私は考えています。これは、「北朝鮮」の脅威を持ち出すだけでは、自衛隊、あるいは自衛軍の行動の根拠をわが国は持ち得ない、ということも示しています。
 憲法9条をめぐる議論、自衛隊の地位をめぐる議論で、その改正、その強化を主張するなら、まず、大東亜戦争(支那事変)の侵略性を認めることが、それらを説得力ある主張とするための第一歩でなければならない。これが、私の考えです。

                                   続く

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/10/08 12:38 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/2306/user_id/316274

 

 

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現代史のトラウマ、なんて題を使用してしまうぞ今日はフツー日記 その2

 

 あの20世紀半ばの戦争が残した、「武力行使」という事態に関する評価のあり方の違いを、私たちは肝に銘じておく必要があります。憲法9条の普遍性を歌い上げるのは簡単ではありますが、この間の事情を理解しない限り、その主張は普遍性ある説得力を持ちえるものとはなりえません。
 憲法9条をめぐる議論に、このような視点が欠落しているように見えることは、残念なことであると私は考えています。

 さて、イラク戦争ですが、何よりも特徴的なのは、あれは軍人の戦争ではなかった、ということです。あれは、ラムズフェルドの戦争でした。シヴィリアンであるラムズフェルド国防長官が主導した戦争であったということです。開戦に反対していた当時の統合参謀本部長を替えてまでして、文民であるラムズフェルドが推し進めた戦争であった、ということなのです。そして戦争のプロである軍人の異議を排除し進めた結果が、現在のイラクの悲惨、そして出口を見出せずにイラク駐留を続けざるを得ない米軍の状況、となってしまっているわけです。

 我々日本人が大東亜戦争の教訓として連想するのは、軍人が戦争のプロと呼ぶに値しなかった、20世紀半ばの自国の歴史。戦争のプロですらない軍人が、政治・外交まで担っていた、あの20世紀半ばの歴史です。
 しかし、今回のイラク戦争の教訓、わが国にとって、その国民にとっての教訓は、文民自体の信頼性をも問わなければならない、ということです。自衛隊を自衛軍とし、それが文民統制の下にあることが担保となったつもりでいては甘い、ということです。
 ここでの文民とは、複数政党制が保障された下での自由選挙によって選出された政党政治家の多数派によって成立した内閣の閣僚、ということになります。すなわち、そこには国民の多数派の意思が反映されているということになります。
 つまるところ、問われているのは、多数派国民の理性的選択の可能性である、ということになります。
 その可能性を信じられる者、この者こそ幸せ者、というのが結論でしょうか。

 私は不幸せ者、と言うよりありませんが。



 さあ、どうだ、フツーの日記だっただろうが。いぢわるなんかどこにもないぞ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/10/07 23:15 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/2256/user_id/316274

 

 

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現代史のトラウマ、なんて題を使用してしまうぞ今日はフツー日記 その1

 

(本日は、「現代史のトラウマ」という表題で、イラク戦争を入り口に、一般向け多少硬派モードの日記となるはずです。いぢわるは、ない、はずです。泥沼ではなくトラウマです)



 毎日、あんな心にもないいぢわる日記を書いていると、精神的消耗があまりにも激しいので、今日はまともに日記を書く努力をしてみました。どんなもんでしょうか?


 基本的に日本のマジョリティーの言論は、二つの潮流に支配されているように感じられます。うらみつらみ、何でも左翼が悪い、の正論・諸君!が一方にあり、対するは、いつもおりこう良い子です、の朝日新聞、なんて構図ですね。そーじゃない言論のあり方をこれから追求してみようじゃないか、それが今日の日記を書くに至る動機です。

 さて、入り口のはずのイラク戦争ですが、その話に入る前に、「現代史のトラウマ」という表題を考えた時の最初のイメージからお話しましょう。

 このところ、考えていたのは、欧州における第二次大戦、日本における大東亜戦争、この二つの戦域における連合国と枢軸国との戦い、その惨禍の経験がそれぞれに残した教訓のあり方についてです。
 日本においては、何のかんの言われながらも、戦後長期にわたり、憲法9条は国民の支持するものであり続けました。たとえ占領軍の元ネタに基づくものであろうとも、憲法の条文を、戦争はこりごり、軍隊・軍人もこりごりという気分が支え続けて来たものと私は解釈しています。自ら始めたことの帰結とはいえ、徹底的な攻撃の対象となってしまった末に、殆んど無条件降伏状態で敗戦を迎えた、これがかつて大日本帝国と呼ばれた国における戦争の帰結でした。戦争自体が悲惨な体験として記憶されると共に、その戦争を主導した軍人・軍隊への嫌悪感が長く残ったわけです。
 日本における大東亜戦争の経験がもたらしたものは、戦争への嫌悪、軍隊・軍人への嫌悪、武力行使への嫌悪の感情であった(論理不在ではあるわけですが)、これが私の観点です。
 一方、欧州における、第二次大戦の教訓は、と考えた時に浮かぶのは、「ミュンヘンのトラウマ」と私が呼んでいる、常に底流を流れる感情、あるいは強迫観念です。第二次大戦に先立つ時期、ミュンヘン協定において、英仏はチェコスロバキア共和国へのナチス・ドイツの領土要求を受け入れ、当事者チェコスロバキアの主権を全く無視する形で、軍事力によらぬ「平和的解決」を勝ち取ったはずだったわけです。結果として、平和的解決どころか、ポーランド侵攻による第二次大戦の開始という帰結をもたらすものであったのは、ご存知の通りです。ここには、必要な時期に適切な軍事力の行使を怠ったがために訪れた欧州の惨禍、という認識が生じました。特にそれが、ナチス・ドイツという全体主義・独裁国家の引き起こした戦争であった点には注意する必要があります。好戦的、全体主義的、民族主義的、独裁的、と言った形容詞のつく国家との関係には、神経質になる傾向が残りました。もたらされたのは、適切な時期に武力行使への決断を怠ったがためにもたらされた欧州の悲惨、という認識です。コソボにおけるNATO軍の軍事的介入の背景にあるのはこの感情、あるいは強迫観念であったと、私は見ています。特にミュンヘン協定の当事者であった英仏の外交と武力行使をめぐる決断には常にこの影が付きまとっていることを念頭に入れておくべきでしょう。ミュンヘンから帰ったチェンバレン英国首相の姿、彼らにとってマヌケの代名詞でしかありません。

                                  続く

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時:2006/10/07 23:11 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/blog_id/2255/user_id/316274

 

 

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「現代史のトラウマ」 序

 

 「現代史のトラウマ」シリーズは、本来は、「freeml」のサーヴィスを利用し、自分のページに「日記」として掲載していたものだ。

  ( → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/CategoryEntryFront/user_id/316274/category_id/4306

 日記は、テーマにより、いくつかのバインダーに分類されており、「現代史のトラウマ」シリーズも、そのバインダーの一つである。

 「現代の、その都度の問題を、歴史的展望の下に論じてみる」というのが、そのテーマということになる。

 「現代史のトラウマ」だけでも投稿数が150近くなり、その一方で他のバインダーの投稿に埋もれてしまう状態となり、過去の文章を読むにも不便な事態となりつつある。

 そこで、今回、こちらを「現代史のトラウマ」シリーズ専用のブログとして設定することにした次第だ。

 議論の参考にしていただければ幸いである。

 

 

 

                              (11/25/2008)

 

 

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