2019年5月17日 (金)

モバイル・タイニー・バウハウス

 

 

 2019年はバウハウス100周年に当る。1919年、第一次世界大戦敗戦後のドイツ、ヴァイマールの地に設立された教育施設。いわゆるモダン・デザインの先導者であった。

 1925年にデッサウへ移転し、理念を具現化した校舎を建設する。

 

 なんと、そのデッサウの校舎がモバイル化されているのであった!

 

 

Tiny Bauhaus: smallest 2-room apartment & school on wheels
  
https://www.youtube.com/watch?v=x7UIx-iTyR4

 

 

 ミニマムサイズの様々な住居の試みを中心に動画取材しているキルステン・ディルクセン(Kirsten Dirksen)氏によって、この「Tiny Bauhaus」も紹介されていたのである(数日前の話)。

 ラオス出身のヴァン・ボー・ル=メンツェル(Van Bo Le-Mentzel)氏の作品であり、動画中にもタイニー・バウハウスの内部を案内し、インタビューに応える本人の姿も記録されている。

 

 

 私個人の好みとして、このタイニー・バウハウスは実に愛おしく魅力的である。

 動画のコメント欄には、丸見えのバスルームはどうなのよ的意見も散見されるが、そして私自身もそのような見解を共有することも確かではあるにしても、実用性を上回るデザインの魅力を認めざるを得ない。

 

 

 そのタイニー・バウハウスの設置場所もまた、動画の見どころであろう。ドイツの「古都」そのものといったリューネブルクの街の佇まい。そのリューネブルクのロイファナ大学構内にタイニー・バウハウスが停車している(建物の下には車輪が見える)のである。

 映し出されるロイファナ大学のキャンパスで目を引くのが、ダニエル・リベスキンド設計の校舎である。いわゆる脱構築主義建築の代表者である。

 古風な町並みの中の自己主張炸裂型脱構築主義建築に対峙する形で、モダン・デザイン建築の見本のようなデッサウのバウハウス校舎(もはや古典である)のミニチュアが静かに停車しているのである。

 

 

 

 だからどうした、と言われても困るが、個人的には実に楽しい光景なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年4月11日 (木)

古本ジャングルと70代の道案内

 

 

  よくお世話になっている(カモにされている)立川フロム中武の古書市の案内状、「恒例フロム古書市ご案内」が届いている。

  案内状に記された天心堂御主人の「呟き」にウケたので、ここに記録保存。

 

 

 

 

     l_ccc5acbb812454b7cb3b485f1dab36ecc438be6d.jpg

 

 

   中央線沿線から集まった古本屋五軒。
    そのほとんどは70歳以上、現役。
    世に珍しい高齢者立上げの即売会は
     (どこかのんびりしています)
     目の前に広がる古本ジャングル群
   (お客様が開拓者ならば、私どもは道案内)
     本との出合いは束の間のトキメキ、
       ご来場をお待ちしております。
              参加店主の呟き  天心堂
                   2019年 4月吉日

 

 

 

  今回は、日程的に「開拓者」として出かける時間がとれるかどうか状態なのが残念。

  レジで雑談にふける道案内の大先輩方の気配を感じながら、古本ジャングル探索を楽しんじゃうひととき。

  財布の中身を減らし、狭い部屋をより狭くする。そこに問題があるのだが、「本との出合いは束の間のトキメキ」なのである。

 

 

 

 

 実際、どうなるかというと…こんなものが手に入ってしまったりする
     (以下追記:2019/04/13)

 

 《昨年の夏のある日の収穫》

 

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明治期の小學理科教科書からバタイユまで、この13冊で8150円の買い物

(上段左から右へ)
學海指針社編輯 『小學理科新書 甲種 巻之一』 明治26(1893)年 集英堂  金十二銭→700円 
深谷甫 『米國海軍艦型圖輯』 昭和18(1943)年 海と空社  2圓00銭→900円
宇都宮謙編輯 『義は君臣情は父子』 昭和13(1938)年 日本歴史研究會  金壹圓五拾銭→1200円
ジョルジュ・バタイユ ハンス・ベルメール画 『眼球譚◎マダム・エドワルダ』 1988 白水社  2400円→400円
谷喬夫 『ナチ・イデオロギーの系譜』 2012 新評論 900円
小学校平和教育教材編集委員会・広島県原爆被爆教師の会編 『ひろしま―これはわたしたちのさけびです(試案)』 1970(ただし1981年の3訂版第7刷 広島平和教育研究所出版部  頒価180円→100円
(下段左から右へ)
日本民族學協會編輯 『民俗學研究 第十二巻 第二號』 1947 彰考書院  三十五圓→250円
多木浩二 『「もの」の詩学』 1984 岩波現代選書  1800円→500円
藤原彰 『中国戦線従軍記』 2002 大月書店  2000円→800円 
デイヴィッド・フィンケル 『帰還兵はなぜ自殺するのか』 2015 亜紀書房  2300円→800円
武藤貞一 『日支事變と次に来るもの』 昭和12(1937)年 新潮社  ¥1.00→800円
ポソニー 『今日の戰爭―その計畫・遂行・經費』 昭和15(1940)年 岩波新書  五十銭→200円
「青島戦ドイツ俘虜収容所」研究会 『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究 第六号』 2008 「青島戦俘虜収容所」研究会  600円

 

 この中から一冊を選ぶとすれば…

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 深谷甫 『米國海軍艦型圖輯』 1943(昭和18年) 海と空社

  

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 かつての持ち主である吉澤大尉の署名

 

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 ページには附箋が付され、書き込みも多い(吉澤大尉の努力研究の跡である)
 附箋と書き込み、そして署名に魅せられての購入であった(多分、美品であれば購入はしていない)

 

 

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 奥付を見ると、再版で2000部という発行部数であったことが記録されている
 才谷屋書店の出品で900円であった(昭和18年の定価2圓00銭)

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2019/04/11 08:51 → https://www.freeml.com/bl/316274/324508/)

 

 

 

 

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2019年4月 1日 (月)

総力戦下の猫

 

 

 戦争は人間の都合によるものだが、その悲惨に巻き込まれるのは人間だけではない。

 

 

 

 アジア太平洋戦争下の昭和19年(1944)秋、軍需毛皮の兎が不足したことから、軍需省・厚生省が飼い犬の毛皮供出献納を都道府県知事あてに通牒し運動が全国に展開した。ところが、北海道では早くも18年に犬毛皮の供出が始まり、19年には海軍の要請により飼い猫が加わった。運動と実施の主体は北海道庁と札幌市及び大政翼賛会北海道支部と札幌支部であり、実際の業務は国策会社の北海道興農公社が全道にまたがり行うという、官民一体となった運動であった。背景には国民を戦争協力体制へ導く教化運動があり、日中戦争(1937年)を契機に開始した国民精神総動員運動が翌年1938年の国家総動員運動へ、さらに1940年の国民統合組織の大政翼賛会運動へ発展・継続した。物資不足の代替に供出対象が飼い犬飼い猫という身近な愛玩動物へエスカレートした。社会全体を上意下達の全体主義が覆い、行政の末端の町内会までに草の根の軍国主義が及んだ一つの現象であった。
     (西田秀子 「アジア太平洋戦争下 犬、猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態―史実と科学鑑定」 2016 札幌市公文書館 事業年報第3号別冊 論考3冒頭の「要旨」より)

 

 

 今回は、戦時下の猫の受難について、西田氏のすぐれた論考を通して紹介してみようと思う。

 

 「戦時下の猫」と書いて思い出すのは、米国陸軍省による「Why We Fight」と題されたシリーズの一本、フランク・キャプラによる『Why We Fight: The Battle of Britain 』に登場する、ロンドン空襲下で市民と共にあるネコの姿である(29分5秒と37分25秒)。とても短いシーンの中に、空襲の惨禍の中で、ネコの存在が人々にもたらす安らぎが記録されている(https://www.youtube.com/watch?v=cSZnFo7JORo)。

 

 悲惨なのは、普仏戦争の際にプロシア軍に包囲され食糧補給の途絶えたパリから記事を送っていたヘンリー・ラブシェアの伝えるエピソードである。

 

 ラブシェアは、従軍記者に期待されていた強がりを軽蔑した。「私は、遠くから戦闘の匂いを嗅ぎつけて、その真っ只中に急行するという抗し難い欲望は持ち合わせていない。自分の好奇心を満たすためだけに頭部に砲弾を受けるなどは、私には愚の骨頂としか思えない……」。そこでラブシェアは一〇人から一二人が殺される毎日の砲撃のことは無視し、食糧補給が途絶えたために動物園の獣を食べ、やがてこれまでは食物と思われなかった物まで料理し始めたパリ市民の生き残りの決意を克明に書くことに専念した。
 ラブシェアが最近食べた献立の記事に読者はぞっとしながらも、『デーリー・ニューズ』の発行部数は着実に伸びていった。彼によると、猫は「ネズミとリスの中間の味ながら、独特の風味がある。美味である。子猫は、玉ネギで蒸し煮にするか、シチューにすると最高である」。ロバはマトンに似ているし、「ドブネズミのサラミ」はカエルとウサギの中間の味がした。イギリス人の彼には、犬を喰うのはとても無理だった。「私は、人間の友である犬を食べるときは、罪悪感をおぼえる。こないだはスパニエルを一切れ食べた。決して悪い味ではなく、子羊のようだったが、人食い人種の気分だった」
     (フィリップ・ナイトリー 『戦争報道の内幕 隠された真実』 中公文庫 2004)

 

 厳しい飢餓の中、追い詰められた人々に、ネコも食料とされてしまうのである。

 

 

 さて、西田氏の論考である。

 戦時下の日本で、飼い猫が毛皮の供給源とされてしまった事実を、史料に基づいて示したものだ。

 皮革・毛皮は重要な軍需物資であった。昭和12年以降の支那事変の拡大は、軍需物資としての皮革・毛皮の確保を切実な問題とさせた。

 

 昭和13年3月、戦時(事変)に際して人的および物的資源を統制、動員、運用するための国家総動員法が公布され5月に施行された。
 皮革は軍需品として国の統制下に入った。政府は生産力拡充の目的で(2)、昭和13年7月1日付けで皮革について次の商工省令を公布した。①「使用制限規則」、②「製品販売価格取締規則」、 ③「配給統制規則」これにより、皮革原皮の集荷・販売・配給が一元化された。全国の原皮を集荷統制し、各製革工場に販売、配給する権限を国から付与されたのは、東京原皮商業組合、大阪原皮商業組合、北海道では酪連であった。
 酪連は道内の原皮統制機関として13年8月から営業を開始した。皮革統制により商売不能となった道内の原皮仲買人は、酪連が道内28カ所の現地処理主任として採用した。道内各地の屠場で処理された原皮を札幌苗穂(14年に新設)の酪連皮革工場に集荷し、軍が買い上げた後に同工場で製革し、残りを民需用として販売した(3)。これらの毎月の取り扱い数量は所管の商工省に報告の義務があった。酪連は札幌市から委譲された屠場で処理した材料で軍用缶詰を製造し、第七師団に納入する一方、原皮の集荷・鞣革(牛・馬・豚)と兎毛皮生産についても軍需・民需両面の生産、販売を一手に担い急成長していく。
     (西田論文 
2-1-2ー論文にはページ数の表記がないので、以下、各節の番号で引用箇所を示す)

 

 肉は軍用缶詰に、皮革は様々な装具に用いられ、毛皮は防寒具として重要であった。

 兎の毛皮については、ナチスドイツでのエホバの証人をめぐるエピソードを思い出す(強制収容所で兎を飼育し、軍用毛皮の供給源としていた中での出来事)。

 

 証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。
     (シビル・ミルトン 「エホバの証人」 ウォルター・ラカー編『ホロコースト大辞典』)

 

ナチスにより強制収容所に収容されたエホバの証人は、徴兵拒否にとどまらず広範な戦争関係業務拒否も貫き、(労働としては軽度であるはずの)「ウサギの番さえ拒否することも起きた」というのである。それが死刑に相当する「反逆罪」と位置付けられた背景として、軍用毛皮の確保の国家的重要性も考えておくべきであろう。

 

 さて、日本である。西田氏は特に北海道に焦点を合せているのだが、北海道空知郡農会により昭和12年(1937)9月、傘下の農家の実行組合長と組合員に宛てた「急告兎毛皮奉国」というチラシが紹介されている。西田氏による抜き書きを引用しておこう(チラシ原文にある振り仮名は略、アンダーラインは原文通り)。

 

〇膺懲の皇軍の、矢継早の勝利に伴ふて、兎毛皮の軍事品としての要求が彌々緊切必須の度を高めました。
〇零下三四十度の、寒冽なる戦場に於ける我等勇士に、暖かき兎毛皮付きの外套等を供することは、身も心も一層勇壮にし明朗にして以て三軍の士気を振はしむることとなるのであります。(略)
〇然るに、僅かの値ちがいに眩惑して(本年度は値ちがいのない計画ではあるが)商人の奪取に一任するが如きは、忠誠なる日本人魂の上から、不可解ばかりでなしに、見様によりては、非国民呼はりをも、さけ得ないことではないでせうか
〇陸海軍では、如何にしても予定の兎毛皮の納入を得なければならぬといふ、軍事上の最大急要の事情があるので、確聞するところによれば、全国農家飼育頭数の全部(来年に備ふべき種等は別として)買上げの計画であり、亦近く、国法では、兎毛皮海外輸出を禁ずることになるとのことであります。兎毛皮奉国の理由は之だけでも明かでせう。
実行組合会長各位、なにとぞ其の組合員の分を取りまとめて下さい。組合員各位、何卒衷心より、赤誠を以て、納入を敢行してください。
 学校の生徒諸君は、自分の飼育の分は、勿論ご両親が飼育している分でも、もし、ご両親が、気づかずにいるなれば、諸君が早速申し出て、兎毛皮奉国の実を挙げて下さい。

〇兎毛皮奉国! !!兎毛皮奉国! !!本年は是非少なくとも配当の枚数だけは、萬障を排して、町村農会を経て納入して、他府県、外支庁管内に比し断然優勝の成績を挙くるやふ、お互に努力奮闘したいと思ひます。
〇納入手続、価格、其他詳細のことは、町村農会よりお知らせ致しますが、各位からも御照会を願います。
     (2-3-2)

 

 北海道という土地柄からすれば、「零下三四十度の、寒冽なる戦場に於ける我等勇士に、暖かき兎毛皮付きの外套等を供することは、身も心も一層勇壮にし明朗にして以て三軍の士気を振はしむることとなるのであります」、すなわち「暖かき兎毛皮付きの外套等を供すること」の切実さは実感として理解・共有されるものであったろう。その上で「陸海軍では、如何にしても予定の兎毛皮の納入を得なければならぬといふ、軍事上の最大急要の事情がある」とし、「軍事上の最大急要の事情」を強調しているのである。それへの非協力に対し、「見様によりては、非国民呼はりをも、さけ得ないことではないでせうか」と脅迫的言辞も付け加えられての「急告兎毛皮奉国」なのである。上意下達の国家的行政的指示命令システムによるもの以前に、北海道空知郡農会は「兎毛皮奉国」を率先して展開しようとしていたのである。下からの「兎毛皮奉国」運動の盛り上がりなのだ。事変が始まって、まだ2か月の段階での話だ。

 

 その3年後、「事変発生以来暖かい防寒毛皮となり肉となって聖戦に尽くした幾多の軍用兎の霊を慰める」との趣旨で開催された、帝国農会による「軍兎祭」は全国的なものであったという(「兎毛皮奉国」の全国化を示す慰霊祭祀形式の軍需協力プロパガンダ)。

 

 昭和15年ころに兎関連の新聞記事が急増する。15年9月16日、中秋の名月の日を選び帝国農会は「軍兎祭」を日本全国各地で行った。「事変発生以来暖かい防寒毛皮となり肉となって聖戦に尽くした幾多の軍用兎の霊を慰める」とある。「修祓(しゅうふつ)、献選、招魂祭の儀についで農林次官(代理)、道農会会長、陸軍被服支廠札幌出張所長森中佐、札幌地方海軍人事部斎藤中尉ほかの奉奠(ほうてん)があり慰霊祭を終り、被服本廠長より道農会へ感謝状、郡農会より道内市町村、小学校養兎家、軍兎の功労者256人へ表彰状授与。北光小学校児童の「兎のダンス」の余興が披露された」。国益に叶うなら兎の霊も慰める「軍兎祭」のように、国家に捧げた命の犠牲を儀式化することで、一般国民に報国を知らしめる戦争プロパガンダ(宣伝)が増えていく。
 「少女ら兎を献納札幌市北光小学校では『学童養兎報国団』をつくり四年生以上の二百五十名が学校から子兎一頭ずつをもらい受け、自宅で空箱を利用して」6か月間育てたあと、学校で酪連の技師による審査を受け、肥育の良い200羽が「酪連を通じて戦地の兵隊さんの外套の襟として献納」された。この兎飼育運動は来年も続けるとあり、昭和19年には学校単位の競争に発展する(『北海タイムス』昭和15年10月17日、『北海道新聞』昭和19年2月19日)。2016年の現在、校庭の隅の兎小屋で兎を飼育する小学校が見受けられるが、もとは戦時下の兎飼育奨励の毛皮献納運動に始まっている。
     (2-3-4)

 

 「軍用兎の霊を慰める」一方で、「学童養兎報国団」をつくる小学校もあり、「昭和19年には学校単位の競争」にまで発展する。西田氏による「2016年の現在、校庭の隅の兎小屋で兎を飼育する小学校が見受けられるが、もとは戦時下の兎飼育奨励の毛皮献納運動に始まっている」との指摘は興味深い(起源は忘れ去られている)。

 

 しかし、「兎と兎皮の集荷数は昭和14年26万8000羽をピークに下降し、昭和20年はピーク時の1割に届かないまでに減少した。北海道庁が12年にたてた5カ年計画は農家12万戸に24羽ずつの割当飼育で年間288万羽の兎毛皮を見込んだ。最盛期14年の48万羽でさえも2割にも満たない大きな計算違いであった(2-3-6)」と西田氏は実情を明らかにしている。

 

 17年度は大政翼賛会が主体となって陸軍・海軍・農林・文部各省と帝国農会の協力により全国的な家兎大増産運動を展開し農家はもちろん学校・家庭にも飼育を奨励したが収入の少ない養兎はなおざりにされて家庭労働力も減少し「頼みの学童飼育でさえ労力を緊急方面に動員された」ため全国的に運動の成果が上がらなかった。17年度の兎毛皮は14万8600枚で3000枚の増産にとどまった。18年度は道庁・農業会・興農公社の3者が一体となって飼育と供出を勧奨したところ、家兎の公定価格が3割引き上げられ、さらに北海道の特殊事情により公定価格よりも百匁につき2銭の歩合を付けたが自家用屠殺が増えて集荷数は13万9700枚と前年よりも8900枚の減少となった。配給制に頼る食糧難が続くと、自宅で飼っている兎は良質のたんぱく源として、家族の胃袋を満たしてくれる存在となった結果である。19年の全道生産が20万羽あっても、興農公社が兎肉を集荷できなかったということを現している。航空服用の毛皮に兎が入手できなくなった北海道庁と興農公社、大政翼賛会の運動が非常時対策として次に着目したのが、飼い犬飼い猫の毛皮供出献納運動であった。
     (2-3-6 )

 

 総力戦下での戦時動員は多方面に及び、労働力不足はどの産業でも深刻化した(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」も参照)。農家にとっても学校でも養兎どころではなくなりつつあったのである。さらに食糧難は兎を「良質のたんぱく源」として自家消費させるところに追い込む。戦時日本の限界の典型的事例であろう。

 そこで着目されたのが飼い犬であった。

 

 西田氏は昭和18年4月2日の『北海道新聞、「毛皮報国ワン公も滅私奉公」と題する記事を紹介している(3-2-3)。

 
 街頭を横行する野犬を大東亜戦を勝ち抜くための毛皮報国のために御役にたてる妙案が札幌市翼賛会支部で実施されることになった。
 畜犬毛皮の献納運動は翼壮、青年団員の勤労奉仕によることとして準備中であったが、野犬の捕獲は、狂犬病を有するものがあって、相当危険なので警察当局と打合わせの結果、畜犬に限り連合公区長及公区長を煩はして、飼い主から献納申し込み徴収し、四月六日まで市役所公区係に提出させることになった。その方法は、次の通りで、札幌支部では野犬報国運動の徹底を期してゐる。
一、各公区で献納が十頭以上あるときは申込書と同時にその公区の一定の場所に集め、引渡し月日を市公区係に通知すること。(ただし四月十日までを献納期間とす)十頭未満の場合は、献納主より直接豊平毛皮工場に引付けのこと。
二、興農公社の買収代金は、大政翼賛会札幌支部(公区係)を経て国防献金として同時に支部に報告すること。

 

 昭和19年2月1日の北海道庁経済部長、警察部長名による「野畜犬毛皮献納運動実施ニ関スル件」の「野畜犬毛皮献納運動要綱」では、

 

 一、趣旨兎毛皮ハ酷寒地第一線ノ将兵並ニ航空将兵ノ衣料トシテ眞ニ欠クベカラザル重要ナル軍需資材ナリ然ルニ輓近軍用兎ノ増殖ヲ図ルモ野畜犬ノ被害ニ依リ飼育頭数激減スルノ状勢ニアリ。決戦下寔ニ寒心耐ヘザルモノアルニ鑑ミ本運動ヲ実施シ軍用兎ノ増産ヲ計ルト共ニ野畜犬毛皮ヲ献納シ軍兎毛皮ノ不足ヲ補フヲ目途トス

 

との理由付けがされている(3-2-4)。北海道庁の発行する『北海道庁公報』第3306号(昭和19年2月2日)の表紙には「野畜犬進んで奉公さあ! 今だ!」の標語とイラストが掲載されている(3-2-5)。

 「進んで奉公」の実際は、殺されて毛皮となることである。その決断・協力を飼い主に求めたのである。

 既に人間には「玉砕」の名による戦死が慫慂され、やがて特攻という名の自殺攻撃が求められるようになる時代の話なのである。大日本帝國の戦争、総力戦は、果てに「一億総玉砕」なるスローガンまで編み出すに至る。言葉通りに理解すれば、日本人全員が戦死するという話だ。飼い犬だって「進んで奉公」するのが当然なのである。ただし、それは飼い犬自身の意思の問題ではなく人間の都合の問題なのであった。

 

 

 西田氏によれば、飼い犬飼い猫を毛皮の供給源とする発想については、先行事例があった。

 

 北昤吉衆議院議員が第七十五回帝国議会衆議院予算委員会の質問で、第一次世界大戦時に独逸が行った例を挙げ、「軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまふ、さうすれば皮は出る、飼料はうんと助かります。」と犬猫不要論を唱えた。それに対して畑俊六陸軍大臣が、「犬を全部殺して愛犬家の楽しみを奪ったが善いか悪いかと云ふことに尽きましては、尚ほ折角研究を致したい」と答を回避した。北議員は「犬は豚や鶏と違い、唯物を食って大して益する所がない。皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります。農林大臣には犬猫の数及び一年の飼育に要する分量等御聴きしたい。独逸では現にあった」という持論を展開した。
     (3-2-2)

 

 既に昭和15(1940)年2月13日、衆議院予算委員会の場で、北昤吉は「皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります」と主張していたのである。

 北海道での取り組みとの関連はわからないが、昭和18年の「毛皮報国ワン公も滅私奉公」に先立つ議論が対米戦争開戦の前に(支那事変段階において)行われていたのである。

 しかし「犬は豚や鶏と違い、唯物を食って大して益する所がない」との前提、そして「皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります」と展開される主張には言葉を失う(平成日本の用語法に従えば「犬猫には生産性がない」であろうか?)。が、やがて大日本帝國において北の主張は現実化するのである。

 西田氏は、昭和20年5月11日の鳥取県の鳥取県告示第百八十四号に、「軍需省厚生省通牒犬原皮増産確保竝狂犬病根絶対策要綱ニ基キ、畜犬ノ献納受入及供出犬買上竝野犬ノ掃蕩ヲ左記日時場所ニ於テ之ヲ施行ス」とあり、それが軍需省化学局長・厚生省衛生局長の連名による「犬原皮増産確保竝狂犬病根絶対策」およびその「要綱」の通牒(西田氏によれば昭和19年11月15日付)に基くものであることを確認している。北海道内での献納運動から全国展開に至ったのである。「毛皮報国ワン公も滅私奉公」がついに国策になったのである。

 こうして飼い犬の受難は全国展開される。

 

 飼い猫の方は、北海道限定だったようである。

 西田氏は昭和19年5月27日付の『北海道新聞』記事を引いている。

 

 犬猫の皮も軍用に買上げ犬は十円、猫は五円の公定価
 二十六日道会議事堂で開かれた北海道地方行政協議会に、在室蘭海軍主席監督官から『犬猫毛皮買ひ上げの件』が提案されたが、犬の毛とともに猫の毛も航空要員の防寒服にしようと、この協議会に華々しくとりあげられたもので、その集荷の方法や製皮関係も考へて犬猫皮回収策を決定した。
 集荷方法としては、市町村長が管内の畜犬、畜猫の率先供出を求めるほか、野良犬や、野良猫までもかり集めて、剥皮し、それを興農公社の各皮革工場でなめして立派な製皮として軍に納入することになってゐるが、興農公社では剥皮のままの猫の皮一匹約五円、犬の皮はその皮質や大小に応じて十円前後で買ひ上げる。剥皮されたものは、なめし料とか生皮のときに使ふ防腐用の薬代などを含んだ値段が軍納価格となってゐるが、これによって犬猫の皮にも公定価格が付されたわけだ。それはともかく、この犬猫毛皮の軍用実材化は、軍用兎毛の不足を補う海軍当局の非常手段である。
 犬猫もただならぬといわれた不仲も、戦争必勝には見事に解消し、空の武具として仲良く出陣することになったもの。
 なほ、堵殺の時期は冬が一番であって、すでに時期遅れの感があるが、全道的に約二万頭の犬猫が動員される予定であり、今冬のいはゆる堵殺時期には道樺民の協力で、相当数の供出が期待されているが、当局は、犬猫の献納運動も進める方針である。
     (3-2-6)

 

 「在室蘭海軍主席監督官から『犬猫毛皮買ひ上げの件』が提案されたが、犬の毛とともに猫の毛も航空要員の防寒服にしようと、この協議会に華々しくとりあげられたもの」とあるように、「猫毛皮の軍用実材化 」を提唱したのは海軍関係者であったらしい。

 昭和19年11月10日付の『北海道新聞』記事では、

 

 兵隊さんの温い防寒服へ犬や猫を全道から供出しょう
 北の前線に戦ふ兵隊さんの防寒服用として道庁では昨年初めて献犬運動を起こし、翼賛会や興農公社の協力を得て全道から百三十頭の野良犬の毛皮を集め供出したが今年は陸海軍の要望もあり大々的な献犬献猫運動を展開、温かい防寒被服を沢山送らうと意気込んでゐる、道庁北方農業課の皮算用では道内の野畜犬は十五万頭、そのうち二割が軍用犬、番犬、運搬犬で、他はすべて主なき野良犬または飼主は居ても食餌を与へぬ野良犬同様のものばかりといふ、しかも犬による家畜被害は昭和十七年の調査によれば一年間に兎三万五千頭、鶏三万一千羽、緬羊六百四十頭で、兎は総飼育数の十五%に達してをり、兎の飼育者から「兎の毛皮を増産するなら犬を退治してほしい」との悲鳴さへあがってゐる本道第一の軍用兎飼育地である上湧別村が野犬の徹底的撲滅はもちろん畜犬の全廃によって犬害の恐れなく、全村一体の養兎報国に邁進してゐる例のみならず戦争にはつきものといはれる狂犬病を未然に防ぐ上からも野犬狩り、畜犬の取締りを一段と強化しなければならぬわけだ
 猫は家鼠の駆逐にも必要とあってその一部を供出させる方針でこれら供出犬猫の処置は一切興農公社が引受けるが供出は犬猫とも毛の密生した十一月から春三月までがよく、割当ては近く市町村から通牒されるはず。
     (3-2-7)

 

このように「献犬献猫運動」の成果が語られている。当時の全体状況としては、

 

 集荷・処理事業を実施した興農公社は「18年度は兎毛皮だけでは需要を満たすことができず、リス・いたち・きつね・オットセイ、犬、ネズミまで集めて毛皮増産に拍車をかけた。19年度は海軍の発注により犬・猫その他の毛皮を集荷したが、とくに犬、猫については道庁と公社が中核となり、市町村当局ならびに諸団体、公社地方工場の協力を得て、全国的に有名となった献犬、献猫運動を起こした。ネズミは樺太で前年野ネズミが発生し60万枚の毛皮があるという調査から、海軍の買収命令を受け、公社職員が樺太庁と大泊の海軍要港部の援助を求め各地を回ったが大半は既に処分され、ようやく5万枚を獲得することができた」という。
     (4―1)

 

このように(小さな)野ネズミの毛皮まで対象とされるまでに追い詰められていた。その中での北海道の飼い猫の受難なのである。

 

 もちろん、飼い主にとっては可愛い飼い犬であり可愛い飼い猫である。昭和20年6月13日付の『日本海新聞』の「親子三代犬納物語」と題された記事では、

 

 戦ふ日本の軍需皮革としてお役に立てて下さいと、県下千八百匹の畜犬、野犬は今献納、供出運動に応召してゐるが、現在までに応召した畜犬は六百五拾六匹で約三分の一、以下は県衛生課の話。
 愛玩、番犬中には「この犬を取られたら生きてゐる気がしない」と哀願する人、「時局は認識してゐるが、犬だけはゆるしてほしい、永年家族同様に飼ってきたものだから」と歎願する人また逆に食ってかゝるものもあるといった具合でこの傾向は概して有力者とみられる層に多い、然し鳥取市吉方の元市議常田幸治氏などは、分娩して間もない親仔犬を伴れてきて、「仔持ちで可哀そうだがこれも勝つためだ、親仔ともに供出します、もし仔犬の皮が役立たぬならすてゝ頂けばいい、それからこれはこの親犬の親の毛皮でなめしたものですが、これも一緒にお役に立てて下さい」と親、子、孫三代の犬を一とときに献納してゐる。
     (4-2-1)

 

このように、「仔持ちで可哀そうだがこれも勝つためだ、親仔ともに供出します、もし仔犬の皮が役立たぬならすてゝ頂けばいい、それからこれはこの親犬の親の毛皮でなめしたものですが、これも一緒にお役に立てて下さい」と自身の飼い犬を率先して献納する模範的(とされたであろう)人物の姿の一方で、愛犬家らしく「「この犬を取られたら生きてゐる気がしない」と哀願する人、「時局は認識してゐるが、犬だけはゆるしてほしい、永年家族同様に飼ってきたものだから」と歎願する人また逆に食ってかゝるもの」のあることも記されている。

 

 献納された飼い猫の受領證が残されている。

 

 受領證

 畜猫壱匹

  右軍需用毛皮供出トシテ正ニ受領候也
   昭和二十年二月二十二日

           札幌市長三澤寛一市長押印
 納者

    牧スミ殿

 

 牧スミさんにとって人生のかけがえのない伴侶であったかも知れない大事な飼い猫は、一枚の受領證と引きかえに「軍需用毛皮」として「供出」された。すなわちスミさんの愛猫は、大日本帝國の軍需(という人間の都合)のために命を奪われたのである。

 

 さらに西田氏は、殺処分の現場に立ち会った人物の証言を記録している。

 

【証言a】昭和20年2月頃興農公社の殺処分のアルバイトをした
 証言者:国民学校高等科を卒業後のこと。当時15歳の少年。
 興農公社の知人から処分作業のアルバイトに誘われた。昭和20年の2月か3月頃の冬に4,5人の処理班とともに岩見沢、滝川、江部乙、新十津川、雨竜町のオシラリカ(尾白利加)川を覚えている。主に農村地帯を馬橇で廻り、5日間程度の日程を旅館で宿泊しながら11、12カ所で作業をした。
 岩見沢では朝、旅館から出かけて行った。幅1メートルくらいの小さな川の側で、兎や猫を連れてきた人が一列に並んだ。農協の受付係の人が「兎、犬、猫」と書いて、1匹50銭か1円の時もあった。連れてきた人の眼の前で、金槌で殺すんだ。怖がっていたよ。自分も怖かった。なるべく苦しまないように眉間を狙うんだ。
 滝川では農協の職員が小さな机を置いて、猫や犬を連れてきた人に一匹当たり1円を支払い、帳面につけていた。女性の事務員も一人いた。皮を剥ぐとカマスに入れて塩をぶっかけて、塩漬けにして興農公社に送っていた。友人の一人は作業が怖くなり、途中で止めて自宅に帰った。
 今でも忘れられない。時々夢を見る。孫娘から「おじいちゃんは戦争中にそんな悪い事をしていたの」と言われるのが一番怖くて、家族には一言も話していない。「兵隊さんも戦場で戦っているのに、犬もお国のためにならなければ」と言われていた。戦争の時は惨いことをしたもんだ。(場所:札幌市文化資料室。2007年6月西田秀子聞き取り)

【証言b】学校の帰り道犬猫の処分を見ていた
 当時前田村(現・共和町)の集会所証言者加藤光則さん(当時10歳)
 当時は国民学校の5年生、学校でも白米弁当は姿を消しました。季節風に小雪の舞う寒い日でした。学校の帰り、部落の集会所の空き地に雪穴が掘られて周囲を雪壁でかこってました。その中から男の人の声が聞こえてきて、何だろうと友達と近寄って穴を覗き込みました。で、
息を飲んだんですよ。雪穴の中は一面が血の色に染まっていて、雪壁の縁には犬猫の毛皮と裸にされた犬猫が山積みになっていました。
 「子どもは来るな」と怒鳴られました。男の人が口の閉じたカマスを金槌みたいな斧みたいなもので数回叩きつけてました。カマスの口を空けた途端に、猫が飛び出して雪壁を駆けあがり、ポプラの木に駆け上った。怖くて身震いしていました。急いで家に帰り、父親に話すと、「犬猫の供出だ。戦地の兵隊さんに送るんだ」と。「農家はネズミ捕るやつ一匹だけ残していいんだ」。それ以来、供出は忘れられません。(2007年6月西田秀子聞き取り)
 動物の命奪っておいて人間だけが幸せになるなんてできやしませんよ。弾が飛んでくるとこだけが戦場だと理解したら、とんでもないです。(2015年談話)
     (4-3)

 

 実に生々しく、痛ましい。

 

 

 

 西田氏は「北海道内の実施状況」として以下の数字を示している。

 

 初年度の18年度は犬皮のみ2,627枚、19年度は北海道庁が道内各市町村長宛てに割当頭数を通達したことから犬皮1万5000枚、猫も4万5000枚で合計6万枚が供出された。これを種類別にみると、猫が4万5000匹で、犬3万157頭と猫の供出が犬よりも1万5000匹多い。割当頭数と比較してみると、4年間の合計犬3万頭は、昭和19年度の1年分の割当2万9664頭と同数。猫は19年度だけで4万5000匹供出されており、割当1年分の約7万7000匹の6割が供出されている。換言すれば、18年の戦時中から4年間で(引用者註:付表の年度が昭和18年から昭和21年となっている)北海道内の飼い犬が3万頭、猫は4万5000匹が供出されて殺処分となり毛皮にされたということである。
     (4―1)

 

 3万頭の飼い犬、4万5000匹の飼い猫の受難(すなわち「供出されて殺処分となり毛皮にされたということ」)である。戦時下、国家の求めに従わざるを得なかった愛犬家・愛猫家の心情はどのようであっただろうか。もっとも、人間にも国家のための戦死が慫慂されてた時代の話である。

 

 

 

 このように、西田氏による丹念な史料探索と見出した体験者による証言は、戦時期のイヌネコの運命を明らかにした。

 西田論文はそれだけで終わらない。続く第5章でのアプローチに、私は敬意を抱く。西田氏の問題意識は、以下のように展開していくのである(引用部は「戦争遺品の毛皮同定(鑑定)検査の目的」と題されている)。

 

 本章では、戦時中の犬や猫の毛皮供出献納運動によって集荷された毛皮類が、献納運動の趣旨の通り実際に将兵の防寒着に使用されていたのだろうかという疑問について検討・考察する機会としたい。しかしこの件に関する明確な記録や関係者による証言が残されていないことから、次の方法を取ることにした。
  ①日中戦争・太平洋戦争期の防寒着や防寒靴には、どのような動物の毛皮が使われていたのか。
  ②その結果を当時の陸軍被服廠の「製造仕様書」と照合し、一致と不一致を確認する。
 すなわち当時の史料である防寒着などの「製造仕様書」と、実際の戦争遺品の防寒着・防寒靴から毛を採取し、同定検査(鑑定)した結果とを照合・検証し、事実を確認することが目的である。
 検証作業に当たっては、次の道内の三博物館・資料館に所蔵されている戦争遺品から、博物館職員により所蔵保管に影響のない範囲内で動物の毛皮の毛を採取し、試料を提供していただいた。また、同定(鑑定)検査については、次の専門家三人に依頼し、結果の回答を顕微鏡写真とともに所見をいただいた。
     (5-1)

 

 そこから得られた知見も実に興味深いものである。

 

 今回の同定(鑑定)検査によって判明した動物の種類と、当時の陸軍被服廠による防寒外套の仕様書とを照合する。
 まず、3005-90(半袖)昭和17年製の左小袖腋回りにはネコ、右袖にはウサギの毛が使われていた。製作年から該当する仕様書を調べてみると、「陸軍被服品仕様聚下巻/第1編成品被服/第3款特殊地方用被服」(6)という昭和14年の仕様書を綴った史料が見つかった。その「一五四頁」の「其の二防寒外套真綿裏(人口毛皮製)昭和一四年一二月一四日被臨仕第一一一号改正」のなかに、「皮革兎毛皮小袖裏」とある。
 また「一五七頁」には、「防寒外套真綿裏(人口毛皮製)臨時材料調書昭和一四年五月二九日被臨仕第三六号制定」があり、そのなかに「皮革兎毛皮色相ヲ限定セズ猫、小羊等使用シ得」とある。つまり基本は兎だが、臨時に「色相は限定しないで猫、小羊など使用しても良い」となっている。
 ネコもウサギも、この昭和14年制定の仕様書と一致した。仕様書通りに製作されていた。つまり、犬、猫毛皮供出献納運動(昭和18年以降)よりも以前から、遅くとも昭和14年以降は、防寒外套に猫毛皮の使用を陸軍省管理の被服廠が公的に指示していた、という事実が確認された。
     (5-3-2)

 

 西田氏が依頼した科学的鑑定から明らかになったのは、「3005-90(半袖)昭和17年製の左小袖腋回りにはネコ、右袖にはウサギの毛が使われていた」事実であった。さらに史料探索による「昭和14年の仕様書」の内容確認を通して、「つまり、犬、猫毛皮供出献納運動(昭和18年以降)よりも以前から、遅くとも昭和14年以降は、防寒外套に猫毛皮の使用を陸軍省管理の被服廠が公的に指示していた、という事実」が、科学的鑑定からも公文書からも明らかになったのである。

 「献犬献猫運動」として推進される以前に、既に現場では「猫毛皮の使用」は行われていたのである。「皮革兎毛皮色相ヲ限定セズ猫、小羊等使用シ得」との規定が示すのは、当時の毛皮流通事情の中で、猫、小羊等の毛皮が入手可能であった事実であろう。入手可能であり、用途に適った毛皮として、猫と小羊が指定されているということではないか。しかし、その流通量は軍需を満たすには少なく、ついに(入手の容易な)飼い猫の犠牲を飼い主に強いるようになったのが、「献犬献猫運動」以降の展開であった、ということか。

 もう一度、その数を確認しておこう。

 18年の戦時中から4年間で北海道内の飼い犬が3万頭、猫は4万5000匹が供出されて殺処分となり毛皮にされた
     (4―1)

 いずれにせよ、戦争という人間の都合の犠牲にされた猫の姿を、深く心に刻んでおきたい。ネコの生命を粗末にする国ではやがて人間の生命も粗末に扱われる、という話ではなく、構図は逆転しており、人間に自身の生命を粗末にすることを強いる国家においてネコの生命も粗末に取り扱われることになったという、戦時期日本を象徴するエピソードであった。

 

 

 

 

 今回は、西田秀子氏の論文に依拠した、論文からの引用の多い記事となってしまったが、言うまでもなく、私の関心に基づく抜粋に終始している。この論考の魅力は、紹介し尽くせてはいない(註:1)。ぜひ、論文そのものを味読することをお勧めする。以下にリンク先を示す(4つのPDFファイルに分割されている)。

 

西田秀子 「アジア太平洋戦争下、犬猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態-史実と科学鑑定」 2016

事業年報第3号別冊<研究論考編> 札幌市公文書館

論考3-1(PDF:4,245KB)2(PDF:2,726KB)3(PDF:4,142KB)4正誤表(PDF:277KB)

 

 

 

【註:1】
 記事中で言及した「急告兎毛皮奉国」というチラシや「献納された飼い猫の受領證」は画像で掲載されているので、ぜひ確認して欲しい。
 また、それ以外にも様々な画像資料(史料画像だけでなく鑑定画像も含む)も採録されており、実見しておく価値があるものと思う。
 個人的には、数多く掲載された『北海道廰公報』の表紙が興味深いものであった。特に昭和19年2月16日の第3317号の表紙を飾る、「決戦生産・決戦増産/設置だ!保育所/乳幼児は保育所へ/一家揃って増産へ」の文字には、戦時期小平の託児所であった「津田こどもの家」の姿(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」参照)と重なるものがあり、総力戦下の女子動員事情も窺われ、感慨深いものであったことを記しておきたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2019/04/01 09:49 → https://www.freeml.com/bl/316274/324357/
 投稿日時 : 2019/04/01 09:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/324358/)

 

 

 

 

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2019年3月24日 (日)

カチンの拳銃弾 4

 
 

 

 一九四三年(昭和十八年)二月の最終の週間に、ソ連領土の奥深く、スモレンスク(ソ連西部の古都、ドニエプル川上流に臨み、中世期以来、通商、交通の中心、当時人口十五万)の西方数マイルの地点に駐屯中の独軍第五三七通信連隊のテレタイプ(印字電信機)は、独軍の野戦警察が、同連隊の露営地区内でポーランド軍将校の多数の死体を発見した、と報告した。彼らはどれくらい多数であるかを正確には知らなかったが、数千名の死体であることは確実であった。
 その死体は皮製のたけの高い長靴をはいて、胸には皮製の弾帯をめぐらし、その多くは功績と武勲を示す勲章をつけていた。各人はその頭部を撃ち抜かれていた。彼らはソ連の土地で、いくつもの集団墓場の中で発見されたが、彼らを射殺した弾丸はドイツ製のものであった。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの森の夜と霧』 読売新聞社 1963  25ページ)
 
 
 これが、いわゆる「カチンの虐殺」の事実が明らかになる発端であった。
 問題は、集団墓場の中に死体となって発見された数千名のポーランド軍将校は、何時そして誰によって殺害されたのか?である。

 1939年9月1日、対ポーランド戦を開始し、ポーランド国内に西から進撃したのはドイツ軍であった。次いで9月17日にはポーランド国境の東からソ連軍がポーランド攻撃に加わった。当時のドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」によって同盟関係にあり、条約の秘密議定書には両国によるポーランド侵攻と領土の分割が、明記されていたのである。ポーランドは9月27日に降伏し、以後、ポーランド領土の西側はドイツの占領下となり、東半分はソ連に占領され、ポーランド軍将兵は、それぞれドイツとソ連の収容所に送られた。
 1941年6月22日、今度はドイツがソ連に侵攻し、ドイツとソ連の同盟関係は終わる。ソ連は連合国の一員となり、最終的に勝利者となった。
 ポーランドの降伏後、ポーランド人は亡命政府をロンドンに設立し、連合国側で故国の占領者であるドイツとソ連との闘いを続けていたが、1941年6月の独ソ戦開始以降は、連合国の一員となったソ連との同盟関係の選択を余儀なくさせられた。
 ソ連国内の収容所に収容されていたポーランド軍将兵も解放され、連合国のソ連と共に対独戦争に参加することとなったが、集合地にはポーランド人将校の姿は、ほとんど現われなかった。消えたポーランド将校団の行方は、ポーランド亡命政府にとっても、もちろん占領下のポーランド人にとっても、追求すべき問題であったわけである。亡命政府当事者は、ソ連国内での捜索努力を続けたが、何も得られぬままに1943年の2月を迎えていたのであった。
 
 
 ドイツ宣伝相ヨージェフ・ゲッベルスの個人的日記の中には、一九四三年(昭和十八年)四月九日の日付の下で、次のような記述が発見されるであろう。
 「ポーランド人の墓の大群がスモレンスク付近で発掘されている。ボルシェヴィキ党員(共産主義者、ソ連軍をさす)が約一万名のポーランド軍捕虜をあっさり射殺してから、穴を掘って墓の中に埋め込んだのだ……」
 おそらく、この身の毛もよだつようなものすごい発見を、ゲッベルス宣伝相の注意を喚起するようにしたのはドイツの従軍記者であろう。一九四三年(昭和十八年)四月十三日午前九時十五分(ニューヨーク時間)に、ドイツのラジオ放送は連合国の団結を打ち砕くことをねらった宣伝をいっせいに電波にのせた。それは全世界に向けて、ポーランド軍将校が大量にソ連軍の手で殺害されたことを発表した。このドイツ側の声明にもとづくと、連合国側の一国の政府が、その同盟国の将校団の約半分を殺してしまったように思われた。
 その翌日、ソ連側の激しい反応は、マスコミのあらゆる可能な手段によってばらまかれた。ソ連政府の情報局は一九四三年(昭和十八年)四月十五日に声明を発表し、「一九四一年(昭和十六年)に、スモレンスク西方で建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、ドイツ・ファシストの死刑執行人の手中に陥った……」ので、その後に処刑されたのであると闡明した。…
     (前掲書 25~26ページ)
 
 
 独ソはそれぞれに、ポーランド将校団殺害の犯行を、相手の行為として断じたのである。
 ところで、問題のカチンの森とはどのような場所であったのか?
 
 
 カティンの森は、スモレンスク市西方約十マイルのところにあった。…(中略)…一九一七年のロシア革命後に、この地区はソ連政治警察の管轄下に置かれていた。
 ドイツとポーランド両国筋によると、一九二九年(昭和四年)ごろに、この森の周辺には「GPU特別地区、許可されない人の立ち入りを禁止す」という標識が立っていた。一九三一年(昭和六年)に、この森の一地区は鉄条網で取り囲まれた。その付近に居住しているソ連市民たちによると「さらに、立ち入り禁止の警告の張り紙が下げられた」といわれる。そして大きな家が、墓の大群の発見された地点より半マイルばかり離れたところに建てられたが、それは政治警察の係り官のための休息所として使用された。一九四〇年(昭和十五年)からソ連軍が撤退するまでの間、この全地域は、警察犬の護衛を伴った政治警察の保安隊員(NKVD)が巡察していた。
     (前掲書 26~27ページ)
 
 
 つまり、独ソ戦開始後にドイツに占領されるまでは、カチンの森はNKVDの管理下にあった土地なのである。ソ連内務人民委員部(あるいは中野五郎訳では政治警察)の管理する土地であったのだ。

 1943年にドイツ軍がポーランド軍将校の多数の死体を発見したのは、そんな性格の土地なのであった。
 
 
 

 

 一般の世論は、ドイツ軍に対し非難の指をさし向けた。発見された死体がドイツ製の弾丸で射殺されていた事実から、ドイツ政府は現地調査を行なうために、独立した国際調査委員会と、ポーランド赤十字委員会、ドイツ特別法医学委員会などを招待することに踏み切った。
     (前掲書  27ページ)
 
 この国際調査委員会とポーランド赤十字委員会のほかに、ドイツ特別法医学委員会も、また調査活動をしていた。この三つの調査委員会の各委員は、その調査期間中に、まったく独立して行動していた。そして独自の立場より結論に達したが、それは三つの個別の最終報告の中に述べられていた。これらの報告書は、そのもっとも重要な詳細な点で一致しているから、カティンの森の調査結果に関する次の記述は、これらのすべての報告と、さらに他の筋より収集した適切な補足にもとづいたものである。
 さてカティンの森では、八つの集団的な墓が発見された。それは深さ六フィートないし十一フィートの中に、死体がいっぱい充満していた。一般に、これらの死体の埋葬には特殊の方式がとられていた。彼らは顔を下にして両手をわきに置くか、または両手を身体の背後でしばられ、両足をまっすぐに伸ばして横たわっていた。しかも死体は一つずつ互いに重なり合って、十段か十二段になって積まれていた。
 その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
 二つの個別の墓が見つかった。その墓の中には、二名の、完全に軍服を着用した将軍の死体が発見されたが、いずれも一発で射殺されていた。赤外線の助けを借りて、その軍服を顕微鏡で分析した結果、この二名の将軍は、その冬外套のエリを立てたところを拳銃で撃たれたか、あるいは直接その頭部を撃たれたかして、処刑されたことが実証された。
 死体の大群の中の多数、とくに士官候補生と青年将校の死体は、その両手をしばられていた。これらの死体の発掘を目撃したある証人は、次の通り報告していた。
 「この第五号の墓より発掘された死体の典型的な特色は、その死体の全部の両手が背中で、白いナワで二重の結びめをつくってしばられていた事実であった。彼らの冬外套を頭部のまわりにかぶせて、しばりつけられていた。この冬外套は、同じ種類のナワで首の高さをしばられていて、時には二番目の結びめが犠牲者の頭上につくられていた。首筋にはただ一つの結びめがあり、そのナワの残部は背中を下方へ通って、しばられた両手のまわりにグルグルと巻きつけられた上、さらに首筋で、もう一度しばりつけてあった」
 「こんな風にして、犠牲者の両手は肩胛骨の高さまで引きつり上げられていた。犠牲者はこのような方法でしばり上げられていたので、いかなる抵抗もすることができなかった。なぜなら両手を動かすたびに、首筋のまわりのナワのくくり結びが堅く締まり、そのために、ノドを絞めつけるからであった。それのみならず、彼らは頭の上から冬外套をおおいかぶされていたために、どんな音を立てることもできなかった。処刑前に犠牲者を、このような風にしばり上げていたことは、死ぬ前に特別にくふうした拷問を加えていたものであった」
 このナワの結びめをつくる技術は、すべての実例で同一であった。そのナワは全部、同じ長さのものであったから、それが計画的に、事前に用意されたことは明白であった。現場でドイツ人の科学者が行なった、そのナワの顕微鏡検査によると、それはソ連製のものであることが判明した。また同じ種類の結びめが、ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体についても発見された。これらの死体もまた、カティンの森の別個の墓穴の中で発見されたものであった。これらの死体を仔細に検視した結果、この人々は五年ないし十年前に同じ方法で殺害されたものであり、それは独軍が、この地方に侵入したときよりも数年以前の出来事であった。
     (前掲書  30~32ページ)
 
 
 この「ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体」こそが、大粛清時に犠牲となったソ連国民の姿なのである。
 これが、カチンの森がNKVD(ソ連内務人民委員部)の管理下にあった土地であることの意味するところなのだ。
 カチンの森の奥でのNKVDの犠牲者は、まずは自国民だったのである。
 
 第二次世界大戦以前に大量の自国民を処刑・殺害してきたのと同じ手法(註:1)が、大戦に際してのポーランド軍将校の殺害においても用いられていたことが、これらの調査報告(ポーランド赤十字委員会には、抵抗運動メンバーも委員として参加しており、報告の信頼性は高い)から判明するわけである。 平時に、自国民の大量処刑・殺害を日常業務として効率的に実行してきた国家機関が、戦時には、他国民の効率的な大量処刑・殺害にその洗練された能力を発揮したのである。
 
 
 

 

【註:1】
 
  その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの夜と霧』 読売新聞社 1963  31ページ)
 
  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)
 
   ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
     (ザスラフスキー 『カチンの森』 173ページ 「訳者あとがき」より
 
 (ブローヒンについては「カチンの拳銃弾 3」を参照)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/07 21:36 → https://www.freeml.com/bl/316274/170641/
 投稿日時 : 2011/09/12 21:32 → https://www.freeml.com/bl/316274/170949/)
 
 
 

 

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2019年2月 2日 (土)

カチンの拳銃弾 3

 

 

 「カチンの虐殺」として知られる、ソ連という国家によるポーランド人捕虜の大量殺害。その現場には効率的大量殺害に公務として従事した処刑人の姿があった。効率的な処刑には専門性が必要であり、彼らは洗練された大量殺害技術の保持者であった。その専門性と技術は、ポーランドとの戦争に先立つ時期に、ソ連国内でソ連国民を処刑する中で磨かれたものであった。そんなソ連の処刑人を代表する人物と考えられているのが、ポーランド人捕虜殺害の際も活躍したヴァシリー・ブローヒンである(「ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」)。

 前回、「ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった」と要約したが、あらためて、効率的な処刑=殺人の詳細について確かめておきたい。

 

  カリーニン虐殺はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。

  拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

ブローヒンの役割・手法について、前回までにこのように紹介した(「カチンの拳銃弾 1」及び「カチンの拳銃弾 2」参照)。さらにザスラフスキーの著作を読み続けてみたい。

 

 すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである。報告書には、多くの場合に将校たちが抵抗したと記録されている。多くの将校には銃剣創が見られた。またある者は両腕が背中で特別な結び方で縛られたうえで首のまわりに繋がれていた。これだと手を動かせば首が閉って窒息する。射殺はNKDVの特別部隊が実行した。NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた。ナチ親衛隊の銃殺執行隊とちがって、NKDVの銃殺執行隊は犠牲者から金歯を抜いたり貴重品を取り去る命令を受けていなかった。だから死体発掘にさいして結婚指輪と金歯がポーランド将校の遺体に残っていたと記録されている。
 検屍記録はあきらかに矛盾する技術的細部を正確に書きとめていた。なかでも拳銃と銃弾はドイツ製でありながら、創傷はソ連軍が使っていた四刃の銃剣による刺殺を示していた。それに、犠牲者を縛っていた縄はソ連製だった。ブルデンコ委員会は銃剣と縄を無視しながら、ドイツ製弾丸が射殺に使われた事実を最大限利用して世論の大きな反響を勝ちえたのだ。以前に国際医学調査委員会が説明したところでは、拳銃はカールスルーエ近くのグスタフ・ゲンショウ社がヴェルサイユ条約後にドイツの兵器需要が激減したため、ソ連、ポーランド、バルト諸国に大量輸出するために製造されたものだったが、この事実は意図的に無視された。今やソ連公文書館の文書によると、NKDV銃殺執行隊がドイツ製拳銃と口径七・六五ミリの弾丸「ゲコ」で装備されていたことが確認されている。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 126~127ページ)

 

 カチンでの屋外での処刑(「カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスクNKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力」)と、カリーニンでの屋内での処刑(「モスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮」)では状況が異なることに留意しておく必要がある。ここに記されているのは、集団として自身の運命が明らかな中で次々に殺害されたカチンでの検証記録(解剖報告書)である。カリーニンでの個室での殺害では、被害者は抵抗を考える以前に、すなわち抵抗し銃剣で傷付けられることなく殺害されていたと考えられる。

 いずれにせよ、「すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである」とカチンの「解剖報告書」にも記されており、「執行の専門家」の熟練度が窺われる。

 

 根岸隆夫氏による「訳者あとがき」には、カリーニンでNKDV責任者であったトカリェフ(トカリェフは国境警備隊からNKDVに移動したときは大佐だったが、カリーニン虐殺でベリヤに認められ、1954年に少将に昇進した)による1991年3月20日の証言(軍事検察官ヤブロコフ中佐との質疑応答)の紹介がある。

 

 トカリェフ  ブローヒン、シネグボフ、クリヴェンコがモスクワ本部から処刑人として到着したときに拳銃を詰めこんだスーツケースを持ってきました。
 ヤブロコフ  どんな拳銃ですか。
 トカリェフ  ヴァルターですよ。
 ヤブロコフ  弾薬はなんですか。
 トカリェフ  ヴァルター用ですよ。有名な拳銃です。口径は知らないけれどドイツ製です……
 ヤブロコフ  監獄を描写してください。
 トカリェフ  ここが地下室。ここに囚人監房があります。ここが「赤い隅」で、そこから処刑室まで廊下があります。「赤い隅」で本人確認がおこなわれ、そこから廊下を通って処刑室に連れていき銃殺です。小さい部屋です。扉があって中庭に向かって開きます。そこから死体を出して、待ち受けているトラックに載せます。
 ヤブロコフ  監獄から「赤い隅」まで捕虜は一人ずつ連れてこられるのですか。
 トカリェフ  そうです、一人ずつです。「赤い隅」には政治ポスターが何枚か貼ってあります。政治教育に使われていました。だからレーニンの部屋と呼ばれました。
 ヤブロコフ  処刑室にはなにもないのですか。
 トカリェフ  荷台がひとつありました。
 ヤブロコフ  いつもウォッカがあったということでしたが。
 トカリェフ  箱で買いこんでいました。銃殺と埋葬にかかわっただれもが飲めるようにです。モスクワから来たブローヒンたち処刑人はパジャマ姿ですわって飲んでいましたね。かならず銃殺が終わってからで、その前や最中には飲みませんでした。ポーランド人の銃殺が終わると宿にしている引き込み線の食堂車で大宴会でした……
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 172~173ページ 訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

「捕虜は一人ずつ連れてこられる」のであり、処刑室は防音されており(「看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる」)、処刑されることへの予期は持ちにくい(多くの場合、抵抗を考える前に殺害されているはずである)。

 

 

 実際にNKDV(内務人民委員部)で処刑の任務に携わった人物による証言(「カチンの虐殺」への関与は語られていないが、多くのソ連国民を処刑した経験が語られている)が記録されているので読んでおきたい。

 

 「……わしは内務人民委員部の仕事に採用されたとき、ほんとに鼻高々だった。はじめての給料で上等のスーツを買ったんだよ。
 ……あのような仕事は……なんにたとえればいいのだろう。たとえるとしたら、戦争だ。しかし、わしは戦場ではらくだった。ドイツ人を銃殺刑にする、やつはドイツ語でさけぶ。ところが、こいつらときたら……こいつらはロシア語でさけぶんだ。なにやら仲間みたいだ……。リトアニア人やポーランド人を撃つのはもっとらくだった。ところが、こいつらときたらロシア語なんだよ。「でくの坊! 能なし野郎め! さっさと殺れよ!」畜生! わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。きみは若いよ……ペレストロイカ! ペレストロイカ! しゃべくり野郎どもの話を真にうけておる。さけばせておくがいい、自由、自由と。広場をちょっと走らせておくがいい……。斧が置かれているんだ……斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるんだよ。覚えておけ。畜生! わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。あんな仕事は、願いさげだ! まだ息のあったやつは、たおれて、豚みたいにキーキーいって……血を吐いておった。けらけらわらってる男を撃つのは、とくに胸くそが悪かった。そいつは気が狂っているか、こっちをさげすんでいるか、どっちかなんだ。あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。水をくれ! 水だ! 酒を飲みすぎたあとのように……。畜生! 勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。どっかで読んだことがあるだと? それそれ、そこなんだよ……。いまではあらん限りのことが書かれている……多くはでっちあげだ……。わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。畜生! なんでだまってんだ。青二才め……未熟者めが……よく聞け! まれに殺すのが好きだという兵士がいたもんだ……そういうやつは銃殺班からよそにとばされた。やつらはあまり好かれていなかった。わしのような農村の出身者がたくさんいた、田舎もんは都会もんよりタフだ。ハラがすわっておる。死というものに慣れている。ある者は家で豚をつぶしたことがあったし、ある者は子牛を殺したことがあったし、ニワトリはだれでもしめたことがあった。死に……慣れさせなくてはいかん……。最初の数日間は連れていって見せる……。兵士たちは死刑に立ち会っていただけ、あるいは既決囚を護送していただけだ。すぐに発狂というケースもあった。耐えられなかったのだ。デリケートな問題だ……。うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。わしに残ったのは、右耳の聞こえが悪くなったことだけだ。右手で撃っていたからだよ。
 ……わしらは「党と政府の特殊任務遂行に対して」表彰状をもらって、そこには「レーニン・スターリンの党の事業に献身的である」と書かれていた。上質紙のこれらの表彰状を、わしは戸棚いっぱい持っておる。年に一度、家族と一緒にりっぱなサナトリウムに行かせてもらった。最高の食事……肉がたっぷり……療養……。妻はわしの仕事のことはなにも知っちゃいなかった。責任重大な極秘の仕事、それだけだ。わしは恋愛結婚だった。
 ……戦時中は弾が節約されていた。もし海が近ければ……。平底船にぎゅうぎゅうに詰めこんだもんだ。船倉からはさけび声ではなく、けものの咆哮「誇り高きわがヴァリャーグ号は敵に屈せず/赦免はだれも望まない……」。一人ひとりの両手は針金で縛られていて、足には石が……。もし天気がおだやかなら……水面はなめらかで……やつらが底に沈んでいくのが長いあいだ見えていた……。なんだ、その目は。乳臭いやつめ! その目はなんだ! 畜生! 酒をつげ! そういう仕事……勤務だ……。きみが理解するために、話してやってるんだ。ソヴィエト政権はわしらにとって高くついた。それを大事にしなくてはならん。守らなくてはならんのだ。夕方、わしらが帰ってみると、平底船はからっぽ。死の静けさ。みんなの頭にあるのはひとつ。わしらが岸辺に出ていけば、わしらもそこで……。畜生! わしは、すぐ持ちだせるように、何年間もベッドの下に木のトランクを置いていた。替えの下着、歯ブラシ、カミソリ。枕の下にはピストル……。自分の額を撃ちぬく覚悟でいた。当時、みんながそんなふうに生きていたんだ。兵士も、元帥も。そこんとこは平等だった。
 ……戦争がはじまった……。わしはすぐ前線に志願した。戦闘で死ぬのはそれほどこわくない。祖国のための死だとわかっているからだ。すべてが簡単明瞭。ポーランドを解放していた、チェコを……。畜生! ベルリンの近くで自分の戦歴を終えた。二個の勲章と記章をもっておる。勝利だ! だが……その後に待っていたのは……。勝利のあと、わしは逮捕された。特務部のやつらがリストを用意していたのだ……。チェキスト〔国家保安機関の勤務員〕には、ふたつの道しかなかった。敵の手にかかって死ぬか、内務人民委員部の手にかかって死ぬか、どちらかだ。七年の刑をくらった。わしは、七年の刑期をまっとうした。いまでも……なあ、きみ……収容所時間で目が覚めるのだ、朝六時に。なんの罪で入っていたのか。なんの罪か、それはおしえてくれなかった。いったいなんの罪があるというのだ。畜生! 」
     (スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 『セカンドハンドの時代』 岩波書店 2016  357~359ページ)

 

 かつてNKDVに処刑要員として(処刑の専門家として)勤務した人物の証言である。「NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた」という中の一人だ。キャリアのスタートは戦前、大粛清の時代である。語られているのはその技術的詳細、処刑現場の状景の生々しさ、処刑要員としての心情。

 

  わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。

  わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。

  あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。

  勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。

  わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。

 うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。

  勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。

 ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。

  すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。

 

 確かに「あんな仕事は、願いさげだ!」という言葉もある。自身への呪いの言葉と満足感が同居している。

 ここではドイツ製のワルサーではなく、ソ連製の「ナガン連発式ピストル」を使用していたこと、引き金が引かれたのは「左後頭部」に向けてであったことが語られている。ブローヒンの流儀を過剰に一般化するべきではないということなのだろう。しかし、「ナガン連発式ピストル」使用により「勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった」ために「割当量」を果たすことが困難となり、「週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった」エピソードからは、あらためてブローヒンのワルサーが、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」との理由で選択されていたことが思い出される。

 

 「あんな仕事は、願いさげだ!」との言葉も吐いたこのチェキストは、しかし「名誉退役軍人」として特権を享受していた。「特別配給食料」としてサラミソーセージ、ブルガリア製のキュウリとトマトのピクルスの瓶詰、外国製の魚の缶詰、ハンガリー製の缶入りハム、グリーンピース、タラのレバーといった「当時、一般の人には手に入らなかったもの」を手にし、「官給の四〇〇平米の土地ではなく、どのくらいの広さだったか、もう正確には覚えていないが、そこには森林の一部も入っていた。古いマツ林だった。高い地位の人には、あのようなダーチャが与えられていたんです。特別な功績に対して。アカデミー会員や作家に」と対話者に語られるような特権的な生活を享受していたのである。公務としての効率的な殺人により得た特権である。

 そのような特権者が存在した国家。それがソ連であり、そのような特権者こそがソ連の国家権力を支えていた。処刑人の凄惨な現場の上に、日々の業務としての処刑の上に、「割当量」を果たそうと格闘する現場の上に、ソ連という国家は築かれていたのである。

 

 

 

 さて、あらためてブローヒンである。

 日本語の『ウィキペディア』をチェックしてみた(「百科事典」としての利用とは別に、ネット空間の中での対象への関心の程度を知る効果もある)が、現状(2011年9月6日、そして2019年2月2日に再確認)では「ブローヒン」の項目はなかった。しかし、「ニコライ・エジョフ」の項に、

 

 1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。

 

という形で、ブローヒンの名が登場する(以下、2011年9月6日時点での記載内容である)。

 「カチンの虐殺」は1940年の4月から5月の話で、その直前の時期に、ブローヒンは、エジョフの処刑の実行者となっていたわけである。ただし、『カチンの森』によれば、その時点でのブローヒンの地位は「保安少佐(モスクワNKVD監獄長)」なのであり、『ウィキペディア』の記述は正確ではないように思われる(2019年2月2日現在でも「1940年2月4日、エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された」との記述のままであった)。

 

 さて、では、ニコライ・エジョフとは何者か? 再び『ウィキペディア』の「エジョフ」の項を参照すると、

 

 ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフ(ロシア語;Николай Иванович Ежовニカラーイ・イヴァーナヴィチュ・イジョーフ、ラテン文字表記の例:Nikolai Ivanovich Yezhov、1895年5月1日 - 1940年2月4日頃)は、ソビエト連邦の政治家。1936年から1938年まで政治警察・秘密警察であるNKVDの長を務めた。国家保安総委員。ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

 エジョフの政治体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ;エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。

 

として要約される人物である。

  ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

とあるように、つまり、あの大粛清のシステムの中心人物であり、やがて当人も粛清の対象とされ、最後にブローヒンの手により処刑されたわけである。

 

 『ウィキペディア』は、エジョフの絶頂期の姿を、

 

 エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったとことで知られる。1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表している。これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となった。

 エジョフは粛清の第一段として、まず前任のヤゴーダ派の一掃に着手した。ヤゴーダ派の粛清で生き残った部下を自身の配下に組み入れることで、権力の基盤を磐石にしたのである。1937年3月、将校クラブに招集したNKVDメンバーの前の演説でエジョフは、前任者のヤゴーダが「ファシストのスパイ」として逮捕されたことを述べた上で、「無実の人間を10人犠牲にしてもいいからスパイ1人を逃してはならない。木を切り倒すときは木端が散るものだ」と主張した。また、自身の身長の低さに言及し、「私の身の丈は小さいが、両手は頑丈だ。-スターリンの意思を実行する両手だからだ」と述べた。

 エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として君臨した。NKVDとGPUに徹底的な粛清を指揮し、前任者のヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが任命した多くの人員が解任、銃殺されたが、その中にはエジョフ自ら任命した者も含まれていた。エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際には、その一字一句をメモに書き残していたとされる。さらにはNKVDの部署内にさえも、二重・三重の監視網が敷かれた。

 エジョフはかつてレフ・トロツキーを支持していた重工業人民委員部次官ゲオルギー・ピャタコフらを公開裁判(第二次モスクワ裁判)にかけ、銃殺刑を言い渡した。これを皮切りにエジョフ体制下での粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者・官僚・軍人の半数、ほかにも数百万人の市民が政府への反抗・政府の転覆活動・反革命の容疑を受けて粛清の対象として逮捕され、容赦ない拷問の結果、処刑・追放・収容所送りに至った。

 1937年12月20日、党はボリショイ劇場において、NKVDの創設20周年を祝う大祝典を催した。会場には、スターリンの巨大な肖像と隣り合ってエジョフの肖像が架けられた。花でうずまるステージにおいて、ダークのコーカサス風のチュニックコートとベルトを締めたアナスタス・ミコヤンが、エジョフの仕事を賞賛し、「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう!ちょうど、同志エジョフ自身が、同志スターリンから学び、これからも学び続けるであろうように!」と述べた。会場にいたある人物は、エジョフの様子を「彼はうつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。まるで、こんな手放しの賞賛に自分は相応しくないという風だった」と伝えている。スターリンが、このときの様子をプライベートボックスから眺めていた。

 

と記している。

 しかし、その絶頂の翌年、

 

 1938年4月8日、ほかの役職はそのままに、水上交通人民委員を兼任したが、エジョフの役割は徐々に小さくなっていった。これはエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。党内で上位にある者を定期的に粛清するスターリンのやり方は、主にそのやり方を組織化する役割を果たしたエジョフも知っていた。同年8月22日、ラヴレンチー・ベリヤが内務人民委員代理に就任する。ベリヤは政治将校の政務のためにエジョフの権力を奪い始め、NKVDの実質的な責任者になった。

 連日のように粛清を繰り返したエジョフは、晩年には疑心暗鬼によって、自身の妻までも粛清している。すでに飲んだくれとなっていたエジョフはアルコール依存症に陥り、絶望的になった。最後の業務の月のエジョフは、陰鬱で、だらしなく、起きている時間はほとんど酒を飲んでおり、勤務のために現れたことは滅多になかったという。

 同年11月11日、スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフは内務人民委員の解任を自発的に求め、11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。

 

このように、手にした権力を失っていく。そして、

 

 1939年3月3日、エジョフはソ連共産党中央委員会における全官職を解任された。

 

という形で、スターリン体制における地位のすべてを喪失し、エジョフの立場は完全に逆転することになる。

 

 1939年4月10日、エジョフは逮捕され、スハーノフカ刑務所(en:Sukhanovka)に収容された。拷問に耐えることができなかったエジョフは、奇しくも、自らが多くの人間を処刑したのと同じ理由、すなわち「自分は公式に無能であること、ドイツの諜報機関と結託してスパイ活動を行い、クーデターを計画していた」と自白した。さらにエジョフは、「自分は性的に逸脱しており、男色家で異性愛者である」とも自白した。これはのちに証言によって部分的に補強され、のちの取り調べによってほぼ真実と考えられている。

 1940年2月3日、ソビエトの裁判官ヴァシリー・ウルリヒは、ベリヤの事務室において彼を審理した。エジョフの言い分は支離滅裂であり、前任のヤゴーダのように終始悲嘆に暮れ、スターリンへの敬愛を述べ続けた。エジョフは、ベリヤからスターリン暗殺計画の自白を勧められたが、これを拒否して「どうせこの地上から消え去るなら、高潔な人間として消え去ったほうがましだ」と述べた。エジョフは自身の弁明のためにベリヤの前に跪いて許しを請うが、再三無視された。そしてついに、「スターリンの名を呼んで死ぬ」と誓った。エジョフのスターリン暗殺計画の自白の拒絶は、自身の宣伝目的に役立つことはなかった。

 死刑判決が読まれたとき、エジョフは泣き崩れ、部屋から体ごと運ばれなければならないほどに生気を失った。目撃者によると、ベリヤはエジョフに服を脱ぐよう命令し、エジョフを叩くよう警備員に命令したという。エジョフは体ごと処刑室に運ばれ、しゃっくりし、泣きじゃくった。1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。遺灰は、モスクワのドンスコイ修道院の集団墓地(en:Mass graves in the Soviet Union)に捨てられた。

 

というのが、大粛清システムの中心人物の最後のあさましい姿であった。

 

 しかし、このベリヤもまた、『ウィキペディア』の「ラヴレンチー・ベリヤ」の項によれば、

 

 同年(1953年)12月、ベリヤ、メルクーロフ、コブロフ、セルゲイ・ゴルギーゼ、デカノゾフ、メシク、ヴロジミルスキーの7人は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」と報道された。ベリヤは特別法廷において、弁護人なし、弁明権なしで、裁判にかけられた。裁判の結果、ベリヤは死刑判決を受けた。モスカレンコによると、死刑判決が下ったとき、ベリヤは膝を突いて泣きながら慈悲を乞い、助命嘆願をしたという。しかし、ベリヤはルビヤンカの地階に連行され、彼と彼の部下は、1953年12月23日にパーヴェル・バチツキーによって銃殺刑に処された。ベリヤの遺体はモスクワの森の周辺で火葬されたのち、埋葬された。

 

という最期を遂げることになるのであった。

 そのような政治体制の中で、「カチンの虐殺」は起きたのである。

 

 

 ちなみに、英語版の『ウィキペディア』には、ブローヒンの項目はあり、その最期についても記述がある。

 

 Blokhin was forcibly retired in 1953 following Stalin's death that March. However, his "irreproachable service" was publicly noted by Beria at the time of his departure.After Beria's fall from power in June of the same year, Blokhin's rank was stripped from him in the de-Stalinization campaigns of Nikita Khrushchev. He reportedly sank into alcoholism and serious mental illness, and died on 3 February 1955, with the official cause of death listed as "suicide".
     (Vasily Blokhin → 
https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Blokhin

 

 ブローヒンはスターリン批判の中で栄誉を剥奪される。アルコールに溺れる日々を送り、公式には自殺として記録される最期であったらしい。

 そこに大量殺害者としての悔悟があったのであろうか?

 (私には、ブローヒンの悔悟など想像し難いが)

 

 

 

           (「カチンの拳銃弾 4」に続く

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/06 21:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/170569/
 投稿日時 : 2019/02/01 21:04 → https://www.freeml.com/bl/316274/323553/

 

 

 

 

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2019年1月31日 (木)

カチンの拳銃弾 2

 

 

 ガス室のある収容所は数が限られていたことは、今でも知る人が少ない。もっとも有名なアウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクとシュトゥットホーフのほかにはヘウムノ、ソビブル、ベウジェツ、それにシュトゥットホートだけである。
 これに反して、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン、シルメック、ノイエンガメ、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック、ザクセン・ハウゼン、フロッセンブルクにガス室はなかった。そこでは、収容者は緩慢な死を迎えるか、拳銃で項を撃たれるか、つるはしで殴り殺されるか、働いている採石場の高い所から突き落とされるか、であった。
     (アルベール・シャンボン 『仏レジスタンスの真実』 河出書房新社 1997 171ページ)

 

これもまた、昨日のルドルフ・へスの証言に加えて、

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

というソ連の手法が、ナチスの強制収容所での収容者殺害においても採用されていた事実への言及(「拳銃で項を撃たれる」)である。

 小銃を構えた銃殺隊による銃殺刑という軍隊的スタイルや、機銃の乱射による大量殺害とは別に、「拳銃で項を撃たれる」殺害法もナチス体制の下で広く行なわれていたのだが、その手法の起源がソ連にあったのではないかというのが今回のテーマのひとつ、ということになろうか。

 

 

 前回記事(「カチンの拳銃弾 1」)で示した通り、「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法は、そもそもは、

 

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
    (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

とあるように、ソ連秘密警察において愛好され洗練された手法であった。

 あらためて、その詳細について読み進めると、

 

 トカリェフの証言をまとめると、カリーニン虐殺(オスタシュコフ収容所の5291人のポーランド人捕虜は、カリーニンのNKVD本部の地下監房に移送され、別室で殺害された-引用者)はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。処刑と埋葬にはNKVDの地方、中央をふくめてあらゆる階級の職員三〇名がたずさわった。看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。ブローヒンでなければカリーニンNKVDの総務部長ルバノフだった。監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた。植樹して隠そうとはしなかった。カチン、ハリコフとちがってカリーニンのドイツ軍占領は短かったので、発見されなかった。
 カリーニンでは合計六三一四人(オスタシュコフ収容所からの移送者以外の犠牲者も含まれる数字?-引用者)が銃殺されたが、一九九〇年に二三の墓穴が掘り返されたときには、死体の司法解剖は不可能だった。遺体は五十年経ち、土に戻っていた。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 173~174ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

このように記されている。カリーニン虐殺における、ブローヒンの役割と手法の詳細に注目しておきたい。

 

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

 ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった。

 

 

 ブローヒンの使用していたヴァルター二型拳銃(「ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参」とある)については、ワルサー社の「モデル2」を示すものであるのかどうか、検討の余地が残る。前回記事に引用した「拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた」との記述に示される口径から判断すると、口径6.35ミリの「モデル2」(1909年開発)には該当しない。口径7.65ミリのワルサー社の拳銃ということであれば、いずれも1910年代に開発された「モデル3」あるいは「モデル4」が存在する(註:1)。

 用いられた「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法からすれば、6.35ミリの小口径拳銃でも十分に役に立ちそうである。いずれにせよ、使用されたのはワルサー社の生産した拳銃であり、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」というのが選択基準であった。「疲れが少ない」拳銃を用いて、効率的な処刑が遂行されたのである。そして、「死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた」とあるように、死体処理も効率よく遂行された。

 日常的処刑業務を効率的に遂行するに際して「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」ことにおいて優位なドイツ製拳銃が、すなわち「ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた」のである。

 

 一方、ナチス・ドイツで愛用されたのは同じワルサー社のワルサーPP、あるいはPPKではないかと思われる。(内容的に妥当と思われるので、入力の手間を省き)『ウィキペディア』記事から引用すると、

 

 ワルサーPP(Walther PP)は、ドイツのカール・ワルサー社が1929年に開発したダブルアクション式セミオートマチック拳銃である。.22口径(5.6mm)、.32ACP口径(7.65mm)、.380ACP口径(9mm)の3種類がある。PPとはPolizeipistole(警察用拳銃)を意味する。

 1929年に開発される。ドイツ警察や再軍備宣言がなされたドイツ軍の将校用標準ピストルとして採用されており、国家社会主義ドイツ労働者党の制式拳銃でもあった。
     (2011/09/05 閲覧時の記述)

 

ということになる。その発展型にワルサーPPKがあるが、

 

 ワルサーPPKは、ドイツのカール・ワルサー社が開発した小型セミオートマチック拳銃である。警察用拳銃として開発されたワルサーPP(Polizeipistole)を私服刑事向けに小型化したもの。名称のKはもともと「刑事 (用)」を意味するクリミナールkriminalの頭文字だが、一般には「短い」を意味するクルツkurzの頭文字だと解釈されることも多い。

 1931年に発売開始。ヒトラーも、愛銃として使用しており、ドイツ警察(ゲシュタポ)や軍隊、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)で制式拳銃とされる。

 

とある通り、どちらもがナチス体制とも縁の深い拳銃である。

 

 

 処刑の効率について、

  屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。

とあったが、ナチス関係のものを読んでも同様の効率性は伝わってくる。しかし、ナチスは、ガス殺というより効率的な手法を開発した点において、ソ連の共産主義者を超えたわけである。

 

 

 いずれにしても、

  ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。

とされるブローヒンの人物像には、ソ連の共産主義の歴史の一面が深く刻印されており、いろいろと興味を引くところがある。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 3」に続く)

 

 

 

【註:1】

 ワルサー モデル1は、ドイツのワルサー社が1908年に開発した、同社初のポケットピストルである。
 作動方式はシンプルブローバック、トリガーはシングルアクションで発射する。スライドはオープントップデザイン。フレーム左側後部にクロスボルト式のマニュアルセイフティ(シアを固定)を備えている。フロントサイトはあるが、リアサイトはスライド上面の溝を利用するスナッグフリーデザイン。銃身にはテイクダウン用のバレルシュラウドが被せてあり、これを取り外すことで分解するという独特な構造をしている。形状や細かな仕様の違いで、5つのバリエーションが存在する。
 元々は「Selbstlade Pistole Cal.6.35」という名称だったが、後続モデルが登場した際に「モデル1」に改名された。
 1909年には改良モデルの「モデル2」が登場。スライドをフルカバーデザインに変更し、全体的なバランスの見直しを図っている。他にも、内蔵式ハンマーに変更、グリップ底部のマガジンリリースレバーの大型化、マニュアルセイフティをレバー式に変更、などの改良が施されている。初期型には、チャンバーインジケーターを兼ねる可動式リアサイトとマガジンセイフティが備わっていたが、後期型では製造工程とコストを省くため、両機能とも廃止されている。モデル1ではロングタイプだったテイクダウン用のバレルシュラウドは、銃口先端を覆うショートタイプのものに変更された。
 「モデル4~モデル8(モデル5を除く)」になるとサイズが大型化するが、1921年には再び小型モデルの「モデル9」が登場。オープントップスライドでストライカー式という特徴はモデル1と変わらないが、よりオーソドックスなデザインになっている。ただし、マニュアルセイフティの位置はフレーム左側後部ではなく、トリガーガード左側後部に変更された。

モデル
 全長 銃身長 重量 口径 装弾数

モデル1
 112mm 50mm 360g .25 ACP 6+1
モデル2
 113mm 50mm 277g
モデル3
 127mm 67mm 472g .32 ACP 8+1
モデル4
 151mm 88mm 521g
モデル5
 113mm 50mm 269g .25 ACP 6+1
モデル6
 210mm 121mm ?g 9mm×19 8+1
モデル7
 135mm 76mm 360g .25 ACP 8+1
モデル8
 130mm 73mm 364g
モデル9
 99mm 51mm 260g .25 ACP 6+1
     (MEDIAGUN DATABASE→ 
http://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/index.php?%BC%AB%C6%B0%B7%FD%BD%C6/%A5%EF%A5%EB%A5%B5%A1%BC%20M1

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/05 21:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/170528/

 

 

 

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2019年1月30日 (水)

カチンの拳銃弾 1

 

 

 これからしばらく、80年前のポーランド人捕虜の運命(1939年の9月1日、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻、同年9月17日にはソ連がポーランドの東側国境から侵攻し、ポーランドは両国により占領された)を振り返るところから始めて、20世紀の全体主義的ユートピアを支えた人間像―特に処刑人とその犠牲者の姿に焦点を当てることになるだろう―について考える機会としたい。

 

 

 コゼルスクから最初の捕虜の一隊を乗せた列車は、四月三日(1940年の話-引用者)の午後に出発した。捕虜は汽車で四時間くらいかけて、スモレンスクを通過して郊外二〇キロばかりの小さな駅に着く。そばをドニエプル川が悠々と流れている。この年の春は遅く、残雪があった。着剣し小銃をもったNKVD(ソ連内務人民委員部)警護・護送部隊が厳重に警戒するなかを、黒塗りの囚人輸送車に押しこまれて、二メートルの金網を周囲にめぐらしたNKVD管理下のカチンの森に入り、三キロ離れた山羊が丘(斜め丘との解釈もある)のある広々とした空き地に連れていかれる。そこには三月はじめに、スモレンスク監獄の囚人を使って八つの矩形の墓穴が掘られていた。深さは二メートルから三メートル。二人の兵隊が捕虜を一人ずつ両脇で腕を抑え、矩形に深く掘られた墓穴の縁で跪かせるか立たせる。後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する。犠牲者は墓穴に倒れこむ。死体は顔を下にして九層から一二層積み重ねられた。
 拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。しかし、カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスク
NKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力だ。しかし資料は十分ではない。ゲシュタポがNKVDに殺人手段で勝るのはガス殺だけだといわれる。拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。弾丸には、ドイツの弾薬メーカー、ゲンショウを意味するGECOと刻まれていた。ソ連はカチン事件をドイツ軍になすりつける口実にこの弾丸を使ったが、すぐに底が割れてしまう。というのも、第一次大戦後に軍縮で不況をかこったゲンショウ社が、この弾丸をさかんに、ソ連、バルト三国、ポーランドなどに輸出していたのだ。
 いっぱいになった墓穴には土がかけられ、松の苗木が植えられた。その樹齢で埋葬時期が科学的に推定され、ドイツ軍占領以前の一九四〇年春ころが特定され、NKVDの犯行を裏付けた。処刑されることを知って、捕虜が最後の抵抗をしたことは、遺体の状態から想像に難くない。後ろ手を縄で縛られ、それが首にまわされ、暴れると首が絞まるようになっていた。また将校用長外套をまくりあげて頭上で縛ってある遺体も、抵抗したからと推測される。口におが屑やぼろ切れが詰められた遺体もあった。使われた縄はあらかじめ一定の長さに切り揃えてあってソ連製だった。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169~170ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

 

 ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる。人質は、大方はもう長いこと収容所に入れられていた。彼らが人質だったことは、彼ら自身にも収容所指導部にもわかっていなかった。
 やがて、突然、保安防諜部だか国家保安本部だかからの命令を伝える電報が一通きた。それには、以下の抑留者を人質として、銃殺もしくは絞首刑にせよ、とあった。数時間のうちには、その完了を報告しなければならなかった。該当者は、その作業場から連れもどされ、また点呼によってえらび出され、処刑場に連れて行かれた。
 すでに長らく抑留されていた者たちの多くは、そのときすでにその決定を知り、少なくとも何が彼らを待ちうけているかを予感していた。処刑場で処刑命令が下された。
 初めの時期、一九四〇~四一年ごろには、彼らは部隊の処刑司令部によって、銃殺に処せられた。後になると、絞首刑にされたり、一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり、また、病院で寝たきりの病人なら注射で殺されたりした。
     (ルドルフ・へス 『アウシュヴィッツ収容所』 サイマル出版会 1972 108ページ)

 

 

 1939年9月、まずドイツがポーランドに侵攻し、続いてソ連がポーランドの東半分を占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書の取り決めに従い、両国はポーランドを侵略し分割したのであった。

 ドイツによる占領においても、ソ連による占領においても、ポーランド人への取り扱いは過酷を極め、ソ連による「カチンの虐殺」もその一端に過ぎない(註:1)。

 カチンでソ連が用いたのは、

 

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

 

という手法であったが、これは親衛隊あるいはゲシュタポも採用したナチスにとっても重要な殺害手段のひとつであった。

 「ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる」との限定が付されたアウシュヴィッツ収容所長ヘスの証言にも、「一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり」との記述がある通りである(ここで「小銃」と訳されている語は、「拳銃」を意味していたのではないだろうか)。

 また、その手法は、そもそもはソ連における粛清の歴史の中で、国内向けに用いられ洗練されて来たものなのである。再確認すれば、

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。

との構図(「拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった」)である。引用中に登場するブローヒン少佐は、「一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」(同書「訳者あとがき」)ような人物であり、ソ連の国民を処刑することにおいて既に豊富な経験を持っていた(そのブローヒンが「手練れの処刑人一二五人」を指揮していたことは、NKVDは既にそれだけ―実際にはそれ以上であろう―の人数の「拳銃による処刑」の専門家を擁していたことを示す)。つまり、ポーランド人は、最初の犠牲者ではない。

 

 

 あらためてソ連の捕虜となったポーランド人の運命について確認しておくと、

 

 三収容所の約一万五五〇〇人の捕虜は、カチンをふくめて後述するように銃殺される。くわえてウクライナ、ベロルシアで七〇〇〇人の将校捕虜が銃殺された。その他に三九年秋にドイツ軍に引き渡されたり、移送途中や、強制労働収容所で死んだ捕虜は一三万三〇〇〇人と推定される。これを合わせると一五万五〇〇〇人のポーランド人捕虜がソ連で犠牲になったと推定されている。
     (『カチンの森』 160ページ)

 この三収容所の収容者は一万四八五六人、そのうち三九五人はなんらかの理由で他の収容所へ移され、その多くが九死に一生を得た。残りの一万四四六一人(一九五九年三月にNKVDの後身KGB議長シェレーピンはフルシチョフに、一万四五五二人とする覚書を送っている。いずれにしても、カチン関連の数字は末尾一桁まで出ているのがいくつもあるが、どれが真実かわからない。ただ真実に近い)とウクライナ、ベロルシアのNKVD監獄に収監されていた約七〇〇〇人の将校たち、合わせて約二万二〇〇〇人が、一九四〇年四月から五月にかけてNKVDによって銃殺された。
     (『カチンの森』 161ページ)

 

つまり、カチン関連でのポーランド人犠牲者数は約2万2000人。全体では15万5000人ということになる。

 

 ザスラフスキーによれば、

 

  一九三九年終わりまでに、ソ連占領地域のポーランド将校は根こそぎ逮捕された。特別命令で、下士官とオサドニツィは将校と同等とみなされ、収容所に拘禁された。逮捕された将校の一部だけが職業軍人で、大多数は予備役だった。かれらはポーランド軍に動員されたばかりでソ連の手に落ちた新聞記者、大学教授、医師、弁護士、技師、芸術家たちである。
     (前掲書 24ページ)

 

とある通り、ポーランドの予備役将校を構成するのは、そのままポーランドの知識人階級であり、カチンでのポーランド将校殺害は、ポーランド知識人の殺害を意味してもいるのである。

 ここでは知識人が、反ソ抵抗運動の中核となることが予期され、その防止策としての殺害が実行されたのである。ザスラフスキーの『カチンの森』の日本語版サブタイトルは「ポーランド指導者階級の抹殺」であり、イタリア語で書かれた原著のタイトルは『階級浄化―カチンの虐殺』である。「虐殺」のターゲットとなったのが特定の階層のポーランド人であった事実を反映した表題である。

 

 その発想はナチスにも共有され、ポーランド知識人はドイツに占領された地域では、アインザッツグルッペン(「特別行動部隊」などと訳される占領地での「敵性分子」の殺害に特化した部隊)による殺害対象の中核とされたのであった。

 ここで(いささかの手抜きではあるが、内容的に妥当と思われるので)『ウィキペデイア』の「アインザッツグルッペン」の項から引用すると、

 

 対ポーランド戦争に際してもポーランド占領をしやすくするためにアインザッツグルッペンが再度組織された。ハイドリヒは1939年9月21日にアインザッツグルッペンの指揮官たちを前に「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」などと訓示している。
 ポーランドのアインザッツグルッペンは、1隊・2隊・3隊・4隊・5隊・6隊・「フォン・ヴォイルシュ」隊の7隊により構成され、それぞれの隊の下にアインザッツコマンドが複数ずつ置かれた。ポーランド戦の際のアインザッツグルッペンの総員は2700名であった。それぞれ陸軍14軍、陸軍10軍、陸軍8軍、陸軍4軍、陸軍3軍、南部軍集団の進撃を後ろから付いて行って銃殺活動を行った。「フォン・ヴォイルシュ」は軍に付随せず、ドイツとポーランドの国境付近において銃殺活動を行った。
 ポーランド戦の際にアインザッツグルッペンの銃殺活動の対象にされたのは主に教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層、またユダヤ人、ロマなどであった。1939年9月1日から10月25日にかけてドイツ占領下のポーランドでは民間人16,000人以上が殺害されたが、そのうち四割がアインザッツグルッペンによるものとされる。
     (2011/09/04 閲覧時の記述)

 

と記されている通りである。ラインハルト・ハイドリヒは「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」と訓示し、部隊はポーランドの指導者層・知識人層の絶滅を実行した。

 

 

 ナチス・ドイツとソ連の両全体主義体制の発想と手法の共通性、そしてその犯罪性を考える際に、この「カチンの虐殺」は一つの象徴的事件と言えるだろう。

 

 米英は、カチンにおけるソ連の行為を知りながら、対枢軸戦争での勝利を優先し、連合国の一員となったソ連(1941年6月、ヒトラーのドイツがソ連との不可侵条約を破棄し対ソ戦争を開始したことにより、ソ連はヒトラーの側から連合国の側へと転換していた)に迎合し、ソ連によるポーランド人将校虐殺を不問にしたのであった。

 ポーランド人は、米英の政治的リアリズムによってもカチンの墓穴深く葬り去られ、忘れ去られようとしたわけである。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 2」に続く)

 

【註:1】

 ポーランドの戦争補償局の報告(一九四七年)によれば、戦争中の死者は、実に戦前の人口の約五人に一人、六〇二万八〇〇〇人にのぼった。そのうち戦闘行為による戦死者は軍人・民間人を合せて六四万四〇〇〇人で、残りの五三八万四〇〇〇人が根絶政策に従って意図的に虐殺された。
 この中には二七〇万のユダヤ系ポーランド人が含まれている。戦前のユダヤ人人口は三三〇万人であったのだから、死を免れたユダヤ人はわずかに六〇万人ということになる。ユダヤ系ポーランド人を含めてポーランド国民はまさに絶滅の淵に立たされていた。
 一方、赤軍の占領下にあったポーランド人も、決して安全であったわけではない。ヒトラーが「占領者の権利」に基いてポーランドの領土を処置したのに対し、スターリンは、民族自決という一見民主的な手段を講じてほぼカーゾン線から東にあたるこの地域をソ連邦に併合した。つまりソ連政府は、独ソ秘密協定に従って、ヴィルノ地方をリトアニアに割譲したあと、残余の地域に二つの国民会議を創設させ、これにソ連邦への編入を宣言させたのである。ここでもロシア中央部に強制的に移されたポーランド人は一五〇万人にのぼったという。
     (山本俊朗・井内敏夫 『ポーランド民族の歴史』 三省堂選書 1980  187~189ページ)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/04 19:11 → https://www.freeml.com/bl/316274/170440/

 

 

 

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2018年12月27日 (木)

明治の悪童と修身 (『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』)

 

 古本の価値というのは様々だと思うが、かつての持ち主の書き込みを読むという楽しみもある。もっとも、最近の出版物(出版後10数年程度)であれば、新本でないがゆえの安価な入手法としての古書店利用もあり、その場合は当然ながら書き込みのないものを選ぶ。

 しかし、戦後復興期以前の出版物となると、書き込みの内容から、当時の読者の関心のあり方を読み取るという楽しみ方もあり、あえて書き込みのある古書に手を出すこともある。

 

 今回は、古書市で手に入れた、落書き炸裂の明治期の修身教科書の紹介である。

 

 

 

 三宅米吉 中根淑 校閲 渡邊政吉 編纂 『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』 (明治廿七年一月十六日 文部省檢定済) 東京 金港堂書籍會社 明治廿六年(1893)  定價 金七銭

 

 2015年に、改装前の立川フロム中武の古書市で購入。価は500円であった。

 

 

 

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(表紙)

 

 表紙を一瞥して、特徴ある筆法(いわゆる「ひげ題目」系)から、日蓮宗関係の書かと思いきや、そうではなかった。修身の教科書!

 

 

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(見返し)

 

 こちらも、タイトル部分は日蓮宗的筆法が加えられている(持ち主の生家が日蓮宗、という生育環境の反映か?)。

 肖像が誰のものかは、教養が足りず、不分明。筆描きの肖像の上方には、鉛筆描きによる富士山がある。題目風にあらためられたタイトルの下方には、「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字もある。

 

 これだけでも、なんとも豪快な修身教科書への落書きだが、本文については至って真面目で、鉛筆による漢字表記への振り仮名が付されている程度である。

 

 

 そして…

 

 

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(奥付、裏表紙の見返し)

 

 裏表紙側の見返しに描かれているのは、さらに豪快で怪異な西郷従道の肖像であった。やたら長い足に、股間からは謎の生物(?)の姿。

 ちなみに、従道は、

 

  さいごうつぐみち【西郷従道】
  1843‐1902(天保14‐明治35)
  明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。薩摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山県有朋とともに兵制研究のため渡欧(プロイセン,フランス,ロシア)し,帰国後兵部権大丞陸軍少将,兵部少輔,陸軍少輔,同大輔に進む。74年陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ,政府の中止命令をおして台湾へ出兵した。76年征台の功により最初の勲一等に叙せられる。78年参議兼文部卿次いで陸軍卿に就任し,81年農商務卿,84年伯爵,そして85年内閣制の成立を機に海軍大臣となった。
     (平凡社/世界大百科事典 第2版)

 

このような人物である。経歴を反映して、落書上でも当初記された「陸」の字が消され(そのままでは「陸」軍大将)、従道の肩書は「海軍大将」に換えられている(背景には軍艦)。

 怪異な肖像が描かれた当時(従道は第二次伊藤内閣で海軍大臣に任じられていた)、すなわち明治27(1894)年は日清戦争の年でもある。先の「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字も、そのような時代の空気を反映したものであろうか。

 

 

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(見返しの裏)

 

 先の西郷従道の肖像は、見返しの上に描かれていたものだが、見返し紙は貼られた裏表紙の裏からはがされ、裏表紙の裏には鉛筆画が描かれている。「徳川時代風俗」、ということらしい。

 まだ明治20年代の話なので、「徳川時代」は持ち主の父母の生まれた時代である(たかだか20数年前まで「徳川時代」が続いていたのである―もっとも、描かれているのは徳川時代初期をイメージさせる戦闘モードの武将の姿であるが)。

 

 

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(裏表紙)

 

 持ち主の名が記されている。この奔放豪快な落書きの作者は、当人の署名により、小川八郎君と判明。生年は明治10年代、1885年前後であろうか(19世紀の話なのだ)。

 裏表紙には、日清戦争らしき戦場が描かれている(まさに日清戦争最中の小川八郎君の高揚感が伝わる)。しかし、なぜか、戦場の手前を走るのは、軍服姿の帝國軍人ではなく、烏帽子姿の人物である(八郎君の想像力上の必然から生まれた表現であろうが、21世紀の私の想像力は、その「必然」に届かない)。

 

 

 「大日帝國」は日清戦争で勝利し、日露戦争で勝利し、第一次世界大戦でも勝者の側にあったが、支那事変以来の大東亞戦争では敗者となる。昭和20年には還暦前後となっていた小川八郎氏は、どのような老人(かつての日本では60歳は既に立派な老人である)となっていたであろうか? 「大日帝國」の近代をどのように経験したのであろうか?

 

 

 

 『日本修身書巻八』の第十七課では、以下のように説かれている。

 

 

  人の質性は、生まれながらにして、完備せるはなし。されば、人皆自ら其の身の長ずる所と、短なる所とを知り、其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ、其の短なる所を養ひて、漸く長ぜしめんことを務めざるべからず。斯くの如くするを、自ら其の身を修むといふ。自ら其の身を修むるは、何人にも極めて大切なり。人としては、多少父母教師の教へを受けざるものもなかるべければ、自修の心なくとも、無下に愚かなるものともならざるべし。されども、自修の心なきときは、父母教師の教へも、深く其の心に入らざるべければ、其の人に取りて、大いなる損なり。
     (第十七課 「修養」から抜き書き)

 

 

 この豪快に落書き(むしろ「落描き」と呼ぶべきか?)された修身教科書から、小川八郎少年は何を学び取ったのであろうか? この奔放豪快さを八郎少年の「身の長ずる所」として理解し、「其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ」ようとした高等小學校教師との出会いはあったであろうか?

 

 

 

(小川八郎少年は、学校での修身の授業の度に、教室でこの教科書を開いていたのであろうか? とすれば相当な悪童である。 それとも進級して用済みになってから、教科書を落書帳へと転用したのであろうか? 本文ページが無事なところからすると、落書帳転用説も弱い。 やはり悪童説が妥当なのであろうか?)

 

 

 

 

 

((オリジナルは、投稿日時 : 2018/12/27 13:02 → https://www.freeml.com/bl/316274/323029/

 

 

 

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2018年11月24日 (土)

無事なりし吾家の火鉢囲みけり (徳川夢声と昭和19年11月24日の空襲)

 

 

 昭和19(1944)年11月24日から、東京はB-29による空襲のターゲットとなった。同年7月にサイパンが陥落し米軍の占領地域となったことで、ついに東京はB-29の航続距離圏内に入り、米軍による航空基地の整備、部隊の訓練等を経て、11月24日の空襲に至ったのである。

 山田風太郎は、当日の経験を日記に記している(「プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」から再録)。

 

  ついウトウトと眠ってしまった。ふと眼を醒ますと、拡声器が、
「空襲警報発令! 空襲警報発令!」
と叫び出したので愕然となる。横浜駅であった。プラットフォームも車内もいっせいに騒然となり出した。
「なつかしの東京に、とんでもないことが待っていたなあ」
と、だれもが笑う。みな生き生きと嬉しげな顔になる。
  ただちに武装し、車窓の青幕を引いてそのまま発車する。
  川崎駅に入るや、全員退避の命令が下った。自分達も一般乗客も、デッキから構内へばらばらと飛び下りて、駅前の広場へ逃げ走る。プラットフォームではないので、一メートル余りの高さを飛び下りる女の中には、足を挫いて倒れる者もある。
     (山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 ちくま文庫 1998  535ページ)

 

 これが当時、東京医学専門学校の学生であった山田風太郎の昭和19年11月24日の日記である。

 11月21日から富士山の裾野での軍事演習に参加した医学生達が東京へ到着しようとする時に、空襲警報の発令にあい、川崎駅で下車して駅近くの防空壕で警報解除までの時間を過ごす。そして…

 

  一時間半もたって、ようやく入口から這い出すことを許された。空は灰色の雲に覆われ、もう砲声も爆音も聞えない。
  満員電車に乗ってやっと品川に着き、山ノ手線で新宿に帰る。空襲警報は解除になったが、乗客はむろん何となく殺気立っている。がやがやと話し声は聞えるが、べつに今の空襲について話しているわけではないらしい。無意味なる騒音、沈痛なる動揺――といった態である。
  すると、五反田から乗り込んできた二十二、三歳の工員風の男が二人、突然溜息を吐いて、
「おい、凄かったなあ、おれ、飯が食えねえや!」
と、叫んだ。みなふりむいた。一人の紳士が、おずおずと、
「――何か――見て来たんですか?」
と、たずねた。工員は待っていたように、カン高い声でしゃべり出した。
  二人は荏原を通って来たのだそうで、そこの防空壕に入っていると、突然しゅうっという実にいやな音が聞え、つづいて、ゴーっという凄まじい地響きがした。しばらくたって這い出してみると、二、三百メートル向こうに黒煙が見えた。いってみると三十メートルくらいの大穴が地にひらいて――「五十メートルはあったよ」と一人が訂正する――家は吹き飛ばされ、なぎ倒され、崩れおち、近傍の屋根瓦や戸障子やガラスなどが恐ろしい惨状をえがき出して――人はむろん死んでいた。防空壕の中で十数人全員即死したものもあり、身体の表面に傷は見えないのに真っ白になって死んでいるのもあり、幼児など石垣に叩きつけられてペシャンコになり、――
「病院へもいってみましたが、実に何ともむごたらしいかぎりでさあ。おら、腰がぬけちまった。顔の半分なくなったのが、口をあけてうなってるんですからね。たいてい女です。子供はわあわあ泣いている。――工場に主人の出た留守、一家全滅したのもあるそうです……おれ、今夜飯が食えねえや、……」
 一人がはっと気づいて眼で知らせながら、
「おい、あんまりしゃべらねえ方がいいぜ」
と注意した。
  二人は急に沈黙したが、また昂奮を抑えきれないらしく、蒼いカン走った声で「おら、飯が食えねえや」を繰り返しはじめる。――
  ○五時前に帰校。ただちに解散。
  下宿に帰ると、部屋のガラス窓はみななずされ、まるで暴風の一過したあとのようだ。しかし、こちらは全然何事もなかったということであった。やがて警戒警報解除となる。
  夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい。
          (539~541ページ)

 

 

 日記には「夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい」とあるが、市街地である「荏原附近」が本来の攻撃目標であったわけではない。

 本来の攻撃目標は、市街地ではなく、軍事的価値をもつ武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」収録記事も参照)であった。米軍は当初から都市無差別爆撃を志向していたわけではなく、高高度からの軍事目標への精密爆撃を戦術の基本としてはいたのである。ただし、それが達せられなかった場合の市街地爆撃も作戦計画には組み込まれていたのであり、市街地への爆撃が軍の指示から逸脱したものであったわけではない。その後も軍事目標への爆撃の価値が失われることはなかったが、翌年3月10日以降、市街地への無差別爆撃への躊躇は失われることになる。

 

 

 当時の日記類にも、空襲の経験は様々に記されているが、今回は徳川無声の日記を読んでみたい。11月24日の(そしてそれに続く)東京への空襲が、徳川夢声にはどのような経験であったのか。

 実は、夢声は11月24日には東京にいなかった。その時期は、苦楽座の一員として産業戦士慰問の地方巡業公演中であったのである。24日は、福井の小松日本館での公演をこなしていた(ただし「昼夜トモ不入リ」であったが「閉場後、館主ノ宅ニ招待サレ、鶏すき、酒ナド大御馳走。大損ヲサセタ上、甚ダ気ノ毒ナリ」と記されている)。

 空襲については翌25日の日記に、

 

  小松駅の売店で新聞を買う。出ている!
  ――B29八十機帝都空襲!
  やっぱり来やがったな、と思う。大した感動もない。なんだか「〆たッ」という気持ちもする。うれしいという感じとよく似た心境である。
  杉並区の吾家は如何? 妻は如何? 子供は如何? などチラチラ考えてみるが、あまりピンと来ない。坊やの姿だけが一番ハッキリ浮かぶ。
  ――なァに、私の家は大丈夫さ。
  心の底にはこの観念が納まっている。
  だが万一の事吾家にあった時、私という男が、如何に狼狽てるか、また狼狽てないか、まるで予測がつかない。遅かれ早かれ、東京が半分くらいになるのであろうが、それはまたその時のこと。
     (徳川夢声 『夢声戦争日記(五) 昭和十九年(下)』 中公文庫 1977  231ページ)

 

このように登場するが、自宅近辺の状況は(それだけでなく東京の状況も)、報道からはわからないのである。東京への空襲も、情報のない中、遠く離れた巡業先の夢声には切実な問題とはなっていない。夢声にとって切実であった(11月30日付日記)のは靴の盗難被害(これで三回目)であった(戦時下生活での靴の盗難被害は珍しいものではなかった)。

 

 

 12月1日の日記に、岐阜へ向かう車中で出会った東京からの避難者が登場する。

 

  二十九日夜(一昨夜ナリ)の東京爆撃に出っくわしたという女たちが、途中駅から乗り込んできた。東京を出発するまで、生きた気はしなかったと言う。
  ――日本橋、小石川、神田など酷くやられたらしい。
  ――夜通し火の手が上がっていたそうだ。
  だんだん話を聞いているうちに、これは大変だと思い出した。一刻も早く東京へ帰らねばならんと思う。女たちはそれぞれ子供をつれていて、これから大阪へ行くのだが、その大阪も今度はイカれるだろうと話していた。
  丸山ガンさんにその話をしたら、
「なアに、女のハナシには誇張がありますからね」
  と至極落ちついている。ガンさんは既に、郊外にある三好十郎の家に疎開し、夫婦二人きりで子供もない。なるほど、立場が違うと、Aにとっての一大事も、Bにとっては一向平気なわけだ。
  杉並の家で、水のある防空壕を、坊やが出たり入ったりする幻がチラついてならないのである。
     (244~245ページ)

 

 

 空襲が切実なものに感じられるようになった夢声は、「一日も早く東京へ帰って、家族と苦を共にすべきである」との思いを抱くようになる。しかし、

 

  宿へ帰ってから、同人の顔の揃ったところで、
「どうも東京空襲は容易ならんものらしい。私は九州行を御免こうむりたい」
  と申し出た。一大決意をもって申し出たつもりだった。すると高山君が、馬鹿に静かな声で、
「あなたが行かないという事は、この旅を中止するということになりますなあ」
  と言った。
「なにも中止するには当たらないでしょう。私一人だけぬけるんですから……」
「しかし、兵器廠との契約に、あなたの名が含まれていますから……」
  私が行かないと、契約を破ることになると言う。
「どうぞこの通りです。苦楽座同人に対する愛情を、何とか持ってもらえませんか? ねえ、お願いします」
  と丸山定夫君が、畳に両手をついて、華々しく頭を下げた。そして、結局私は、九州まで行くことにされてしまった。
  だらしがない! まったく吾ながらダラシがない! こんなことなら初めから帰京するなんて、言い出さない方が好かった。
     (246ページ 12月2日の条)

 

 

 この後の数日は、日記に帰京の話は記されていないが、もちろん、心の底では東京の家族のことを気にかけ続けていたはずである。

 

  美濃の山河を車窓から見つつ、人間は常に死と直面せることを思う。なにも空襲時に限ったことではない。いつ心臓の故障で斃れるか、いつ屋根瓦が落ちて昏倒するか、分かったものではない。空襲があるからと言って、急に狼狽てるのは、甚だ愚である。常時と同じ気もちで、私は旅を続ければ好い訳だ。死はいつも眼前にあり、同時に生も遥かに彼方のものである。
     (248ページ 12月4日の条)

 

 12月4日には、自らに言い聞かせるように、日記にこのように書きつける。しかし、いつか自身に訪れる死への覚悟を記すことで、離れた東京で空襲下にある家族の身の上への心配が霧消するわけでもないだろう。

 

  武蔵野工場(中島飛行機)が爆撃され、学徒が沢山死んだという事は本当らしい。浅野院長、副院長、看護婦たちはどうしたろうかしら。これが荻窪工場だったら、私もじっとしていられない訳だ。何しろ早く東京へ帰りたい。
  松沢病院に爆弾が落ちたという、昨日車中で聴いた情報は、まだ疑わしい。
     (252ページ 12月6日の条)

 

いろいろな噂が耳に入り、あらためて「何しろ早く東京へ帰りたい」と思う。

 

 そして12月7日、倉敷で妻からの速達を受け取る。千秋座前にの事務所で受け取った手紙を、夢声は座員と共に訪れた美術館の中で読む(「ゴーガン、モネ、ゴッホを前に、ミレー、シャバヌ、モローを背に、大ソファの上で、改めて静枝の手紙を読む」)。

 

  毎日毎日手紙を書こうと思いながら、先月の空襲以来、午前十一時になると敵機の来る時間なので、早めにご飯やら色々の支度。午後三時頃になると少しはおちつき、又夜は十一時頃より心配が始まり、まったくおちつきません。
  何しろ敵機が来る度に杉並、それも荻窪近くときて、中島(註 中島飛行機荻窪工場、田無工場、小金井工場トアリ)はそのたんび。田無は一番ひどく、大分の死人です。荻窪も宮田さん(註は略)の近所に先日は五個ぐらい落ち若杉小学校(註 愚息ノ通学シタ校)はいつもねらわれて、三日の時は家のそばのフミキリの家に落ち、親子二人生き埋めになり大変でした。それから八幡様のそばにも落ち、四、五人生き埋めで死んだ人もあります。
  折角でき上った陸橋の真中にもバクダンが落ち、線路にも落ち、中央線二日間不通、歩いて通う人、田舎に逃げる人で、大晦日の銀座通りの様でした。
  今日はやっと静かになりましたが、何しろこれだけバクダンが落ちる間の気持ち、ゴー(壕)の屋根の不完全さに、地ひびきや色々の音で、中に居た者は皆、生きた気持ちもありません。今度は家に落ちたかと、あと見廻るのも大変です。でも裕彦さん(長女俊子ノ夫)も質屋さんもみまわってくれますし、ことに質屋さん(註は略)はよく来てくれるので、其時はほっとします。
  一雄の学校も休みになり、時々は様子により出かけます。でも今まで皆が無事なのはほんとに結構と思います。
  一日中何もできず、そわそわと暮らします。杉並も荻窪もこんなに危険とはいがいでした。
  子供たちもビクビク閉口しています。夜の時も雨は降るし、洩るし、心細いこと此上もありませんでした。私だけはゴーにも入らず外にいましたが、質屋連のおかげで少しは心丈夫でした。
  空は真赤になるし、新宿あたりかと思いましたが、神田と日本橋でした。神田は千戸くらい、死人は大変だそうです。日本橋は白木の裏、阿野さんの事務所はやっと一廓のこったそうです。それで家でも急に、茶間の前に、裕彦さんと質屋さんに、丈夫なゴーを掘ってもらってます。石田さん(私のマネージャー)は三日の夜、荻窪がなくなったと言われビックリして見舞にきてくれました。今日(五日)は小島、丸山、吉井アン氏など三人きてくれ、丸山さんは旅から帰ったばかり。吉井さんは今晩と明日はゴーの手つだいをしてくれる事になっています。
  頭山(註 妻の妹の嫁ぎ先)でも心配して近所にいる富岡氏と尾形氏を見舞によこしてくれました。是非、田舎に家をかりるよう言ってます。私も、一坊、俊子、明子くらいは田舎にやる様にしなければいけないと思っています。
  何しろ地ひびきがダンダン近くなり、ガンガンいう音を聞くと、手足まといはまったく気になります。
  一日も早く帰られる事を一同まっています。
  飯田の母上は其上かるい中風になり、寝ているので閉口でしたが、空襲でびっくりして起きられたそうです。原宿駅前東郷神社にも落ちたそうです。
  そろそろお時間になりますから、これで。
     (254~256ページ 〔妻の書簡〕)

 

 千秋座前の事務所での開封直後にも、「自宅の近く踏切番親子が生埋めになったとあっては、もう少しで私の家の者が生埋めになるところだった事を意味する」と夢声は事態を理解した(註:1)が、

 

  さて、この手紙を改めて、大原美術館の名画に囲まれて、静かに読んでみた。大変だ大変だという気もちがだんだん真物になり、何か斯う血の気の下がる思いである。

 

美術館のソファの上での思いの深まりを記している。しかし、

 

  劇場昼の部、漫談が終わって「無法松」を開幕しようとするや地震あり。水平動であるが永い地震である。停電となる。客席から催促の喝采に私の心は甚だ落ちつかない。斯うなると、東京の空襲よりも何よりも、さしあたり早く電気がくれば好いと、そればかりが気になる。
  人間の感覚というもの、眼をつむれば富士山も見えないように出来ているから仕方がない。他人の首が切られるより、自分が針で刺される方が痛いのである。東京のことをケロリ忘れている時間を、自分ながら妙なものと思う。
     (256ページ)

 

夢声は劇場で昭和東南海地震(マグニチュード7.9、最大震度6)に遭遇するのである。「東京のことをケロリ忘れている時間」を味わうことになった。

 

 しかし、もちろん、「何しろ早く東京へ帰りたい」という思いが失われることはない、のだが…

 

  家が爆撃されたのならとにかく、近所に爆弾が落ちたでは、工場の慰問を捨てて、東京に帰る理由にはならん、と徳衛門氏は言う。だから帰るというなら私が病気をしたという事にしよう、そんなら言いわけは立つ、と彼は言う。爆弾が落ちてからではなんにもならん、落ちそうだから帰るのである。然し、慰問する相手が軍需工場の戦士たちである。この方は公事であり、吾家の方は私事である。入場料をとる興業ならまた話は別であるが、どうもこいつは私だけ一座からぬけるという訳に行きにくい。
  一方中坪の方では、委細構わず私の切符も買って了い、うやむやのうちに私を小倉に送り込む手配をしている。
  えーい、仕方がない、と諦めた。
     (257ページ 12月8日の条)

 

との次第で「えーい、仕方がない、と諦め」るのである。

 「諦め」ながらも、

 

  寒い寒い、足首の所が殊に冷える。ねむいので眼をつむると、寒さが肩の辺から水のように浸みこんでくる。吾家のことを想う。坊やを疎開させねばと思う。この正月は定めし厭な正月だろうと想う。俊子が赤ン坊を産んでも、空襲つづきでは母乳が止りはしないかと思う。東京の半分が無くなった時、私たちの家にも他人が強請的に割り込んで来るだろう。家庭生活なんて目茶目茶だと想う。インフレまたインフレで、いくら稼いでも始まらない事になりそうだと想う。
  この数日来めっきり悪くなった歯で、ポロポロの握り飯をムニャつきつつ、しみじみ味気なくなる。あれを想いこれを想いしているうち、――戦争はイヤだなア、と心の中で言う。馬鹿! 貴様は日本人か! と自分を叱る。
  敗戦は無論イヤである。然し、戦争も別にヨクはない。
     (258ページ 12月9日の条)

 

このような「想い」を書き連ねる(「反戦」というよりは「厭戦」の気分であろう)。同じ日、

 

  人間の思想斯の如し、平静なる時、興奮せる時、悄然たる時、同じ人間が同じ日の中に、幾度か変転する。一椀の飯、一杯の酒、寒暖五度の差よく思想を左右する。
  平静なる時の思想を当人の思想とすべきか、あらゆる場合の最大公約数を当人の思想とすべきか?
     (259ページ 12月9日の条)

 

このように自らを突き放してもみる。夢声の想いは、日々「変転」を続ける。

 

  小倉の街、何所を歩いても雑然たる感じ。イヤな街である。取片づけてない疎開の跡、空爆の跡、凸凹の道、加うるに寒気凛冽とくる。
  然し、あれほど目茶目茶に空爆された噂のある小倉が、この程度で、市民は平気で住んでいるという点が、私の心もちを楽にしてくれた。なアに東京だって斯の通り、少々の爆撃では平気で暮らせるに違いないと思う。
  工廠と産報の仕事とあっては、私も諦めて約束の十七日までは仕方があるまいと決心する。
  それに、私の家の近所が酷くやられたという事は、次の空爆には安全だという気がする。そう一つところがやられる筈はないという気がする。一度やられた町は、即ち敵の狙ったところというなら話はまた別になるが、盲爆であるなら、一度落ちた近所にはもう落ちないと見て宜しかろう。
     (259~260ページ 12月10日の条)

 

 既に空襲下となっていた小倉(翌日の夜には夢声も離れた場所での空襲を経験する)の街の姿を前に、「なアに東京だって斯の通り、少々の爆撃では平気で暮らせるに違いない」という気持になり(そのように自身に言い聞かせ)、「工廠と産報の仕事」であることと併せ、「私も諦めて約束の十七日までは仕方があるまいと決心する」のであった。

 

 

 こうして、座員への昼食の用意もないようなトラブル(一方で、終演後に館主・主催者等による「御馳走」を堪能する機会も多かったが)も起きる中、風船爆弾工場への動員学徒の慰問も経験しながら、12月20日過ぎまで九州での巡業を続けることになる。

 

  これで三日昼飯でもめている。今日は皆が混ぜ御飯の握り飯にありついたのが後二時頃である。元来今日は三方から昼飯が出る事になっていた。昨夜のうち中坪が交渉しておいた劇場での炊出し一ツ、平林老の自腹によるもの一つ(三十人前と称す)、工廠の方から支給されるもの一つ、これだけある話であった。それが平林老提供と称するものが、劇場の米一升五合を用いたものであり、工廠の分は十二時迄に取りに行かなかったから分けてしまったという返事である。工廠の役人から取りに行けと言われたのが十二時四十分過ぎであったから、十二時前に行ける訳がない。
  要するに、金儲け主義のインチキ興行師や、ブローカーや、二重にも三重にも絡んでいるところへ、工廠が絡んだり、警察が絡んだり(産報関係)で、結局一本筋の責任者がいないせいであろう。
  私と釜さんは今日も工廠で昼飯を喰ったから好いようなものの、他の座員はこれで三日続いて昼飯で苦しんでいる訳である。自分の腹は一杯でも、斯ういうゴタゴタを聴かされると、こちらも苦労になる、実に馬鹿馬鹿しい話。
     (262ページ 12月12日の条)

 

  今日もまた昼飯問題でヤッサモッサ、今は既に午後三時、まだ昼飯が来ない。飯々々で大騒ぎを、ベニヤ板一枚の隣室に聴かれて了う。そこには田舎廻りの劇団がトヤをしているらしく先刻も本読みが聴こえていた。田舎廻りの劇団は定めし、東京の最紳士劇団の文句を聴いて呆れているに違いない。
  やっと運搬された工廠よりの昼飯、飯の分量は充分だが副食物が菜葉の煮つけ、この食事のためあの大騒ぎと思えば苦笑ものである。あとで聴くと、私たちは早すぎたので、豆腐の煮たのと、沢庵の山盛りにありつけなかったのだそうだ。
     (264~265ページ 12月13日の条)

 

「昼飯問題」に翻弄されながらの産業戦士慰問巡業であった。「金儲け主義のインチキ興行師や、ブローカーや、二重にも三重にも絡んでいる」のは劇団の地方巡業の常でもあったろうが、戦時日本であればこそ、そこに「工廠が絡んだり、警察が絡んだり(産報関係)」と事態はより複雑化することになる。しかもそこに「結局一本筋の責任者がいない」という戦時統制の典型的症状が見出される。

 

 巡業も終盤を迎える中で、帰京の算段をするが鉄道は不通、郵便も電信も不通である。あらためて家族への募る想いが湧き上る。

 

  東海道線豊橋静岡間が未だに不通であるという。十八日には私が東海道線で帰京する訳だが、徒歩連絡などありとすると、あの重いスーツは困る。中央線でも迂回して帰るか、どうするか。現在は郵便も電信も不通だという。事によると東京から何か急の報せがありながら、こちらに届いていないのかとも疑われる。東京へ帰ってみると、吾家に大惨害があったら、など想像する。

  釜サント語ル――荻窪ノ家爆撃サレテ、私一人生キ残ッタ場合如何ニスルカ? 自殺スルカモ知レント私ハ言ッタ。
     (265~266ページ 12月14日の条)

 

  尾形重蔵に扮する時肥衣を二枚つけるが、これは妻が私の注文に従って、素人らしく造ってくれたものだ。下に着けるのはシャツを加工したもので、やや型を成しているが、上に着けるのは、チャンチャンコのような、暖簾のような至極不細工なものである。然し、私はこの不細工なところに一種の涙ぐましさを感ずる。こんな亭主を持った為に、彼女もこんな不細工な作品を縫わなければならなかったのである。私はこれを着ける度毎に、いつも妻を懐かしくあわれに思い出す。

  遠く離れていて坊やを考える。何故日頃もっと坊やに優しくしなかったと悔いる。さて顔を見るとすぐ小言が言いたくなる。自分と坊やとあまりに性質が似ているせいなのであろう。自分に対しては腹の立つことが多いのであるか?
     (271~272ページ 12月17日の条)

 

 

 産業戦士慰問も最終日を迎えたはずが、

 

  ヤレヤレ今日一日勤めれば、明日は東京へ発てると、ほがらかになっていると、平林老楽屋に現れて、二十日迄是非とも頼むと言う。全くうんざりして了った。平林老は私が途中からぬける事を契約の際知らずにいたのである――言わば一杯喰わされた型なのである。間に入った興行師連が悪いのであって、私には責任が無い訳であるが、老の立場として見れば気の毒でもある。頼まれてみると、イヤどうあっても帰るとは、私として言えなくなる。私の家の近くに爆弾が落ちたところで、老にとってはなんでもない事である。思えばお互様で、老の妻君が先日、天ぷらを揚げていて顔に火傷をしたという話を聴いても、私としては何等感動しなかった。こっちの爆弾は先方の火傷である、即ち他人の歯痛は私の歯痛でない。
  これは結局、二十日迄勤めさせられる事になりそうだ。放送局の事などで嘘をつけば、老も強いてとは言えなくなるだろうが、ウソはつきたくない。してみれば、工廠の兵器戦士慰問という公事の前に、吾家の心配という私事は、犠牲にせねばならない。
  二日早く帰宅したところで、実は別にどうという事もない訳だ。東海道線は今だに不通、帰るとすれば、今のところ、信州を廻って、松沢の家へ行き疎開先を物色したりして、東京に帰るという段取になりそうだから、明日出発として二十一日か二十二日にならないと荻窪へは着かない。二十日迄いれば、或は東海道全通となるかもしれない、それなら二十二日には帰宅出来る。
  まア仕方がない。二日余計勤めたために、吾家が全滅となるという事もあるまい。一日も早く帰りたい事も事実だが、二日延びればそれだけイヤな天沼の防空壕から遠ざかる事でもある。
     (272~274ページ 12月18日の条)

 

「私事」より「公事」の優先を自身に言い聞かせるしかない。

 

 しかし、苦楽座のメンバーの「私事」にも戦時の苛烈さが滲み出る。

 

  丸サンの兄さんが死んだという電報が来た。これは正に丸サンにとっての一大事である。今年になって四人兄弟のうち二人の兄さんが死んでいる。今度死んだ兄さんには、未亡人の他に二人の幼児が遺された。この遺族の面倒を見なければならないらしい。然し、私はさのみ心痛はしない、いや全然心痛しないと言ってよろしい。気の毒だなアと意識の表面で軽く考えるだけだ。私の不幸も丸サンにとって同じことである。
     (276ページ 12月19日の条)

 

  昨日ハ丸山君ノ兄ノ死。今日ハ河原君ノ兄ノ死。輸送船ノ機関長ナリシト。
     (277ページ 12月20日の条)

 

 

 ようやく慰問巡業を終えての東京への列車は、乗客が窓から出入りするような超満員状態であった。

 

  いやはや何とも物凄い列車である。やりきれなくなって吾等三人は広島で下車した。八時間立ったままであった。時々便所に行く人があるが、皆泣きっ面になって、人と人をこじあけて通る。諦めて途中から引き返す老紳士もある。私は房総線で一度大失敗をしているので気が気ではない。もし尿意をもよおして来たら、人を掻き分けて行く途上で落城して了うであろう。万已むを得なければ、ズボンの中へ流し込みと覚悟をする。幸いにして車中がムンムンと熱いので辛うじて広島までもったが、出口を飛び出すと、前の防空広場で用をたした。
  血気盛んの水兵が悲鳴をあげるくらいだから、以ってその混みようが分ろう。中程の客は窓から出て行く。女が三人ほど窓から飛び込んで来た。
  立ち続けは宜しいとして、私の靴は借り物であるためギシギシである。それが血が下がって足が腫れてくるにつれ両足のつま先がシンシンと痛んで来る。尿の心配とこの痛みでは到底このあと名古屋まで行って、中央線に乗り換えて(都合二晩車中で過ごすことになる)などは思いもよらない。
  私は広島で一応降りる決心をする。釜さんは直ちに賛成する。釜さんは悲鳴をあげ通しである。
  愈々広島駅に着いて、洗面所に頑張っている高山君に、二人は此処で降りる由を言うと、たちどころに彼も降りると言う。それまでに打合せしていると好かったんだが、突然、沢山の荷物を持って降りることになったから、さア大変である。乗る客が黒山のように押しよせている。文字通り高山君は獅子奮迅、二つのリュックサックと、毛布の巻いたのと鞄とパンの箱と、何やかや両手に持って、滅多矢鱈に飛び出して来た。奇跡のような働きであった。釜さんの白いズック小鞄と、高山君のラクダの襟巻とが、紛失して了ったが、とにかくあの人間の密集激流を突破してよく出られたものだ。
  私にはとても斯んな勇敢な行動はとれない。三人のうちこの意味における弱虫は一番私であろう。
  この騒ぎで、前記の如く二人が品物を失った時、私は心の一部で快哉を叫んだ。こいつは誠にはや情けない性分であるが、何しろ私は、蟇口を盗られ、剃刀を失い(これは返るかもしれない)、靴を盗まれという始末の旅であったから、他人が何か失うことに、やれ俺だけではなかったぞよ、という慰めを感ずるのである。
     (280~282ページ 12月22日の条)

 

  立ッタリ、床ニ胡坐シタリ、九時間アマリ難行苦行。イヨイヨ旅ハ考エモノデアル。朝ニナリ一時間半ホド、若キ海軍士官ノオ蔭デ席ニツキ少シ眠ル。
  名古屋駅デ、窓ヨリ人間ガ降リタゴタクサニ、私ノボストンバックガ歩廊ニ出テソノママ発車トナル。中ニハシャボン、飴、豆、他人ノゲートルナド入ッテイタリ。
     (283ページ 12月24日の条)

 

 12月22日には「この騒ぎで、前記の如く二人が品物を失った時、私は心の一部で快哉を叫んだ」という夢声も、12月24日には「窓ヨリ人間ガ降リタゴタクサニ、私ノボストンバックガ歩廊ニ出テソノママ発車トナル」という羽目に陥る。

 

 

 「いやはや何とも物凄い列車」の乗客として数日を過ごしてやっと12月24日の夕刻、

 

  十七時頃帰宅。静枝ジンマシンで寝テイル。他ハ一同無事ナ姿ヲ見テ安心スル。目出度シ目出度シ。
     (284ページ)

 

このように帰宅を果たし、「今回の旅行に於ける得失」についての考察を記した上で、

  俊子が十五日に出産したそうだ。空襲の影響であろう、一カ月ほど早産であった。女の児で、母子共に健全だという。これで私も愈々祖父となった訳、人間としての、生物としての二歩前進をした訳である。
     (245ページ)

 

と、その日の日記を結んでいる。11月24日の空襲から1ヶ月が過ぎてのことであった。

 

 無事なりし吾家の火鉢囲みけり

 

 吾家の無事を確かめての一句である。

 

 

 

【註:1】
  B29八〇機編隊が午後〇時一五分、北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所、およびその付近に高高度より集中爆撃を行い、その後、六ないし八機の小編隊に分かれて荏原、品川、杉並の各区および東京港をそれぞれ攻撃する。
     (鈴木芳行 『首都防空網と〈空都〉多摩』 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー358 2012  156ページ)

 夢声の家族が経験したのが、この中の杉並への爆撃であった。

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/11/24 09:40 → https://www.freeml.com/bl/316274/322532/
 投稿日時 : 2018/11/24 09:44 → https://www.freeml.com/bl/316274/322533/

 

 

 

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2018年10月14日 (日)

グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1) 

 

 これまで、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、いわゆる戦前・戦中期の多摩・武蔵野地域の軍産複合地帯化状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」の記事参照)。

 

 今回は、あえて戦後(いわゆる「先の大戦」、すなわち大東亜戦争の敗戦後)の小平地域の経験を取り上げてみたい。小平地域ではその一部が自衛隊施設となったのを除き、その広大な土地は様々に転用され、戦時期には軍事施設の集中地帯であった姿は大きく変容を遂げることとなった(註:1)。しかし、一方で、隣接する立川地区の陸軍立川飛行場は米軍に接収され、米軍の立川基地として運用が続けられ、小平地域の上空は、立川基地の米軍用機の飛行コースとされていった。

 

 その中で、朝鮮戦争下の1953年6月18日、当時の最大の軍用輸送機であったC-124グローブマスターが、立川基地離陸直後に小平町内小川地区に墜落した。129人という、当時で最大の犠牲者数をもたらす墜落事故であった(註:2)。

 空軍基地の隣接地域であること、すなわち米軍の軍事施設の隣接地域であることが、地域住民にとってどのような意味を持つのか? 現在の小平地域の住民の多くは、沖縄の米軍基地問題、米軍機事故問題を他人事としてしか考えていないように思われるが、地域の歴史的経験を振り返ることで、現在の沖縄が決して他人の話ではないことを再確認する機会になればと思う。

 

 

 ここでは、まず、グローブマスター機墜落事故の目撃者の証言により構成されたドキュメンタリー動画を紹介することから始めたい。

 中央大学の学生の取材・制作による地域紹介番組シリーズ(「多摩探検隊」)の一本である(ケーブルテレビで放映され、動画サイトにも制作者自身によりアップされている)。

 ちなみに、動画サイトにある内容紹介文には以下のように記されている。

 

  1953年6月18日、米軍立川基地から飛び立った米軍輸送機「C-124グローブマスター機」が小平市に墜落し129人が死亡しました。朝鮮戦争の前線から立川に戻り一時休暇を過ごした米兵を乗せて、再び朝鮮半島に向かう途中でした。
  事故直後に米軍が現場を封鎖し情報統制したため、その詳細は明らかにならないままでした。
  航空機事故としては当時史上最大の死者を出したこの米軍輸送機墜落事故について、目撃者の証言や貴重な写真資料を元に迫ります。

 

 

第102回 多摩探検隊 「グローブマスター機墜落事故」
 https://www.youtube.com/watch?v=_zjOkQC1yjA

 

 

 関係者の証言とナレーションを通して、事故のおおよその全体像は把握し得るものと思う。

 加えてここでは、まず、『小平市史』では墜落事故がどのように描かれているのかを読んでおきたい。

 

 

  一九五三(昭和二八)年六月一八日、立川基地から飛び立った米軍輸送機グローブマスターが、小川の農地に墜落した。乗員一二七名が死亡し、畑は一面の火の海と化した。麦畑やすいか畑で作業していた人びとのなかには、「全身に油を浴び火だるまになった」者もいた。修羅場と化した光景に付近の人びとは全く手の施しようがなく、ただ呆然とするのみであった。かけつけた地元小平町の消防署および消防団の放水では「効果は殆んど見られなかった」。
  急報により立川基地からの消防車や救急車、それに地元消防団、遠くは青梅、五日市、所沢からも数十台の消防車がかけつけた。必死の消火活動にもかかわらず、猛火は一時間以上もおさまらず、乗っていたはずの人影はなかった。
  乗員の生存者皆無、梅雨続きの雨の中、四散した機体が青白く光っていた。巨大な尾翼が地中に突き刺さったままである。やがて「人間かどうか」見分けがつかない「黒焦げ」の遺体が掘り出され、「なきがらを載せた数十台の米軍救援車は前後をMP(憲兵)のジープにまもられ、暗やみの青梅街道を一路立川基地に運ばれた」。
     (『小平市史』 2013  402ページ)

 

 

 事故の凄惨な状況が読み取れるものと思うが、その前に問題となるのは犠牲者数であろう。『小平市史』では犠牲者数を127名としているが、その数値については誤りと考えた方がよさそうである。実際問題として、『小平市史』に掲載されている当時(1953年6月19日)の朝日新聞記事画像でも「百廿九名(全乗員)が即死」との見出しが確認出来る。

 犠牲者数の問題を別とすれば、多摩探検隊の動画にある証言と共に、初動対応の状況を含めて、「何が起きたのか」を明らかにする記述である。ただし、動画の証言にあるように、「麦畑やすいか畑で作業していた人びとのなかには、「全身に油を浴び火だるまになった」者もいた」ということはなく、「軽い火傷」というのが当事者の実情であったようではある(『小平市史』の依拠した「飛行機墜落事故書類」にはそのように記されていたのではあろうが)。また、地上での犠牲者が他になかったのは、墜落地点が農地であったがための話であり、離陸直後の燃料満載状況での事故であったことからすれば、住民にとっても大惨事となる可能性もあったことには留意しておくべきであろう。現在では墜落現場の周囲は宅地化されつつあるし、墜落地点から自転車で数分の距離にある武蔵野美術大学のキャンパスに燃料満載の大型輸送機が墜落炎上することを想像してみれば、事故の重大さを再確認し得るはずである。

 

 ここまでは、事故の重大さを伝えるものであるが、続く『小平市史』の記述を読むと、当時の小平地域住民の経験はそのまま現在の沖縄の状況であり続けている事実に愕然とさせられることとなるはずである。

 

 

  直径約二キロの地区内は米軍のMPが厳重に交通をしゃ断し、すぐさま「ギャラップ・ゴー」の立ち入り禁止の麻縄のロープが張られ、日本側警察、消防団は現場より立ち退きを強いられ、MPが住を突きつけ、住民を追い払った。報道陣も写真を撮ろうとするとピストルで脅され、フィルムを抜き取られる始末であった。その範囲は三街道にもおよんだ。米軍のMP、部隊、AP(空軍憲兵)、救急車、消防車、照明車、クレーン車、トラック、ジープ、ブルドーザーは、付近の公道および私道より畑中を往来し、農作物並びに橋梁、井戸、門柱などに被害をおよぼした。
  このやり方に住民からは「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか、日本の警察官が遠慮して消極的すぎる」などの非難の声があがった。それを受け、衆議院外務委員会で地元選出の代議士並木芳雄が抗議の声をあげた。
  米軍兵士は、米ソ対立の接触点、朝鮮半島の前線に引き返すところであった。原因はエンジンの故障、そのため米軍最大の輸送機グローブマスターの性能までが疑問視された。ガソリンや消火液で畑はギラつき、農作物の被害は小麦、陸稲、じゃがいも、さつまいも、すいか、ごぼう、茶などにもおよび、立木・庭木、医療費などを含めた損害は約一〇〇〇万円に上った。墜落の衝撃で牛の乳量が激減しただけでなく、流産するケースもあった。にもかかわらず、被害を受けた小川住民は、八月四日に遭難現場で米兵慰霊祭を手厚く営んだ。
  半年後のこと、「大火傷をしたが幸い一命をとりとめた」住民は、「飛行機が頭の上を通るとゾッとしますよ。荒らされた畑の賠償問題もまだ解決していないが、今考えると悪夢のような気がしますね」と語った。補償問題は難航した。被害関係者二〇名は、六月二三日連名をもって「米機墜落事故発生並びに今後に対する善処方要望に関する件」を町長の添書きと共に政府(防衛庁東京調達局)に提出した。被害者は農地、農作物、立木、道路などの被害額二二八万九四七四円を損害賠償額として要求したが、調達局は米軍側と折衝の末、大幅に減額し、三分の一あまりの八五万円を提示したに過ぎなかった。
     (『小平市史』 2013  403~404ページ)

 

 

 ここに「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか」とあるのは、現在の沖縄県民の話ではなく、当時の小平地区住民の叫びなのである。被害の補償もお話にならない。この状況は、小平では既に人々の記憶から失われた昔話であろうが、沖縄では現在の問題なのである。

 さらに読み進めると、

 

 

  小平町でも、米軍車輌の通行のための五日市街道沿いの小金井桜の伐採問題、小川新田で七歳男児が米軍乗用車にはねられた交通事故、小川で米兵乗用車によるひき逃げ疑惑事件など、米軍関連の事件が続いた。
     (『小平市史』  406ページ)

 

 

「米軍関連事件」の頻発問題もまた、小平では昔話ではあっても、沖縄では現在の日常である。戦時期の小平地域の軍事化はいわば国内問題であったが、戦後の「米軍関連事件」は占領下、あるいは占領下同然の事態のなかでの問題であったことには気付いておくべきであろう。当時の小平住民の「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか」との言葉は、あらためて噛みしめておくに値する。

 『小平市史』では、立川基地の存在にあらためて焦点を当てる形で、

 

   敗戦は、軍事施設の解体・転用を強いたが、すぐさま軍事施設が消え去ることはなかった。中でも立川飛行場は米軍に接収されて米軍基地に転用され、立川は軍都から基地の町へと変わる。一九五一(昭和二六)年九月には対日講和条約と日米安全保障条約が調印され、翌五十二年四月には足かけ八年の長期にわたる占領をぬけだし、日本は独立した。その一方で、朝鮮戦争では日本は米軍の重要な軍事拠点、そして、兵站基地としての役割を果たした。そのような状況のなかでの一九五三年の米軍輸送機グローブマスターの墜落事故であった。わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった。
  立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の一九五二年には三〇〇〇人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全域では七〇〇〇名ともいわれた。風紀とともに治安は乱れ、事件が多発した。「基地の町はいやです」という中学生の作文が「児童福祉期間」中に展示されたのは、一九五八年五月のことであった。その叫びもとどかず、米軍の駐留は続いた。
     (『小平市史』  406ページ)

 

このように記している。「わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった」というのが、1953年の小平の経験であり、2018年の沖縄の現実なのである。

 

 『小平市史』を読み進めると、

 

  この米軍機墜落事故にいち早く反応したのは、津田塾大学の学生であった。津田塾大学学生自治会は、「全三多摩の学生諸兄姉に訴える」とアピールを発表している。

   私たちの住む小川に米軍将兵をのせた大型輸送機が離陸直後に墜落し〔中略〕百雷が一時に落ちた様な轟音、それと同時に窓ガラスのビリビリという音、すぐ近くの森の向こうからは黒煙がもくもくと立ち、消防サイレンの気味悪い響きをたてた怪自動車が続いてゆきます。寮生の一人が「原爆を積んだ飛行機でなくてよかつたね」と洩らしました。〔中略〕
   今迄何度となく聞かされた平和の危機と朝鮮戦争の残酷さ、そしてその朝鮮戦争とこの三多摩が直結していることが、この事件によって正に自分達のものとして身近に痛い程感じられたのです。日夜夜毎爆音に悩まされ、あのような惨事の恐怖に晒されている私達三多摩の学生として今こそ手をとり合って平和を守る運動に立上がろうではありませんか。

  津田塾大学の学生たちは、今回の事件によって、朝鮮戦争と三多摩が「直結」していることを知り、「平和を守る運動」に立ち上がることを呼びかけている。この呼びかけに対して、一橋大学小平分校の学生たち(小平自治会)は、「津田塾大学のアッピールに応えよう」と全学生に訴え、クラス・サークル・ゼミなどでの討論を喚起した。
     (『小平市史』 405ページ)

 

このような、津田塾の学生による「平和を守る運動」があったことが記されている。事故はまさに「朝鮮戦争とこの三多摩が直結していること」により、小平地域の経験となったのである。「百雷が一時に落ちた様な轟音、それと同時に窓ガラスのビリビリという音、すぐ近くの森の向こうからは黒煙がもくもくと立ち、消防サイレンの気味悪い響きをたてた怪自動車が続いてゆき」とはまさに当事者による証言記録としても読むべき一節であろう。

 ここで指摘しておきたいのは、当時の二十歳前後の津田塾生は戦時期を小学生として経験した人々であるという点である。戦争が昔話ではなく、自身の経験の一部であった世代による「アピール」なのである。同時に、輸送機事故で犠牲となった米軍兵士の多くもまた、その津田塾生と同世代の若者であったことである。学生たちには、どこまで若い米軍兵士の置かれた境遇が「正に自分達のものとして身近に痛い程感じられ」るものとなっていたであろうか?

 

 

 ここまで、1953年6月18日のグローブマスター機墜落事故について、『小平市史』の記述と、「第102回 多摩探検隊」として中央大学の学生により制作された「グローブマスター機墜落事故」の動画の紹介を通して記してきた。

 ここからは、「第169回 多摩探検隊」として制作された、「第102回 多摩探検隊」の後日談となる、「グローブマスター機墜落事故~米国・遺族の証言~」 と題された動画をまず取り上げる。より広い視野で米軍輸送機墜落について考えることを目指したい。

 

 動画サイトにある内容紹介文には、

 

  朝鮮戦争休戦間近の1953年6月18日、立川基地から飛び立った米軍大型輸送機グローブマスターが、現在の小平市に墜落。当時航空機事故史上最大の死者を出しました。多摩探検隊(第102回)で、同事故について取り上げ、番組サイトで配信を開始したところ、いくつかのコメントが寄せられました。コメントを辿っていくと、最終的に、アメリカに住む遺族の方々にたどり着きました。今回は、アメリカでの取材を踏まえ、米軍立川基地グローブマスター機墜落事故を、遺族の視点から見つめ直します。

 

このように記されているが、「グローブマスター機墜落事故」について、前回が日本国民としての小平町小川地区住民の経験(幸いにも命を失うものはなかった)の証言であったのに対し、こちらは実際に犠牲者となった(命を失った)米軍将兵の家族(遺族)による証言である。

 

 

第169回多摩探検隊「グローブマスター機墜落事故~米国・遺族の証言~」
 https://www.youtube.com/watch?v=F9htXcmDrDs

 

 

 「わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった」ことは事実である。しかし、そこで命を失ったのは「高圧的な米軍」ではなく、その一員であるかもしれないが、しかしそれぞれに家族に愛され、家族を愛する一人の人間―誰かの息子であり誰かの父親であり誰かの兄であり誰かの弟―でもあった。

 「第102回 多摩探検隊」で示された日本人の経験からだけでは見えてこない世界がそこにある。129名という犠牲者数が、当時最大の事故であったことを示す数字としてだけではなく、犠牲者129名の一人一人が、それぞれにかけがえのない存在であったことが、遺族の証言を通して伝わってくる。

 ここであらためて、「第102回 多摩探検隊」に登場する、現在でも犠牲者の慰霊のために線香をあげ続ける地元住民の姿―犠牲者の死を他人事と思わない心のあり方―も思い起こされる。

 

 

 ここからは、米国人にとって、あるいは米軍にとって、グローブマスター機墜落事故がどのように経験されたのかについて、少しだけ記してみたい。

 

 ネットで検索すると、2013年6月の『エア・フォース・マガジン(AIR FORCE MAGAZINE)』に掲載されたウォルター・J・ボイン(Walter J. Boyne)氏による「C-124と立川の悲劇(C-124 and Tragedy at Tachikawa)」と題された記事に辿り着く(ちなみに、米国側の資料に依拠して書かれたはずの同記事においても犠牲者数は129人となっている―『小平市史』の犠牲者数には問題があるだろう)。同記事中に記されたいくつかのエピソードにより、事故の全体像をより立体的に描くことができればと思う。

 

 

 「第102回 多摩探検隊」の方でディレクターを務めた曽田健太郎さんは、そこでグローブマスター機墜落事故を取り上げたきっかけについて、

 

  私がこの事故を知ったのは、二〇一一年六月一九日付の読売新聞地方版の記事がきっかけだった。墜落したグローブマスターを操縦していた米国空軍パイロットの親族と、事故を目撃した男性が面会したという内容だった。こんなにも大きな事故が、多摩で起きていた歴史的事実を私は全く知らなかった。

 

このように記している。

 ボイン氏の記事には、グローブマスター機(シリアルナンバーは51-137)のパイロットたちのプロフィールも紹介されている。機長を務めていたのはハーバート・G・ヴォラズ・ジュニア少佐で、当時37歳。飛行時間6000時間を超えるベテランである。年齢からすれば、日米開戦時に25歳、「終戦」の時点で29歳となる。つまり、戦場がどこであったかはわからないが、「先の大戦」(第二次世界大戦)での従軍経験のある人物だということになる。信頼に足る技量が期待される。他に、やはり十分に経験を積んだロバート・D・マコークル少佐、そしてポール・E・ケネディー少佐がパイロットとして搭乗していた。

 読売の記事にある「グローブマスターを操縦していた米国空軍パイロット」がその中の誰であったのかは、現時点ではわからないが、記事後半の記述を読むと、離陸時に機体を操縦し、最後に管制官とのやり取りをしていたのもヴォラズ少佐であったことがわかる。

 

 墜落の原因がエンジントラブルとされているが、離陸前のチェック段階で整備員は問題を感じていたようである。天候も、雲が低く、好条件ではなかった(「第102回 多摩探検隊」動画に登場する証言者も、「6月なんだけど小雨が降っていて比較的寒い感じ」であったとしている)。

 7人のクルー以外は、5日間の休暇(つかの間、命の保障のない戦場を離れてパンパンガールと過ごす時間―思い切りハメを外したであろう彼らの姿の裏には戦場での死の可能性がある―でもあったはずだ)の後、再び朝鮮半島の戦場へと戻される122名の将兵であった。筆者は、それを「いやいやながらの帰還(reluctantly returning)」と表現しているが、実際、約一ヶ月後の7月には休戦協定となる状況下での話であった。そんな戦場へ送り返される途中での墜落事故死であることを考えると、遺族の無念さも、より大きなものとなったであろう。そんな姿を見送った地上要員の証言も残されている。

 

 午後4時31分の離陸後1分で第一エンジンがトラブルに見舞われ、機長のヴォラズはエンジンを切ると同時に立川基地の管制官に着陸誘導管制(GCA)を求めている。航空機関士に対し「もっとパワーをくれ」と叫ぶ中、管制官は高度の維持を求め、それに対し「ラジャー」と返答したのを最後に通信は途絶えた。

 レーダー上の航跡は東北東3・25マイルで消えている。

 ほぼ地表面に垂直に墜落したために、乗員のほとんどは即死であったと考えられている。

 

 ボイン氏は、墜落地のすいか畑について、交通量の多い東京へのハイウェイの近接地と表現している。確かに、青梅街道沿いの土地ではあった(ウィキペディア先生の「立川基地グローブマスター機墜落事故」の記事には「米軍、警察、消防、報道関係等の車両が大量に押し寄せたため、当時は道幅が狭く、所によっては舗装されていなかった青梅街道は大渋滞を起こした」との記述がある)。

 墜落を目撃した軍人もいた。妻とともに東京からのドライブ中であったロバート・D・ヴェス軍曹は、すぐに救援活動に向かった。

 ジョン・H・ジョルダン・ジュニア上等兵―その時点では生きていた―を救出したが、数分で死亡してしまう。燃料タンクに火が移るまでの30分ほど、ヴェス軍曹は救助活動を続けた。その間、右翼のエンジンは稼働し続けていたともいう。

 4時50分には立川の管制は、ジョンソン空軍基地(入間)にも救援要請をし、5時13分には現地にヘリコプターを到着させている。

 『小平市史』にある、

 

  修羅場と化した光景に付近の人びとは全く手の施しようがなく、ただ呆然とするのみであった。かけつけた地元小平町の消防署および消防団の放水では「効果は殆んど見られなかった」。
  急報により立川基地からの消防車や救急車、それに地元消防団、遠くは青梅、五日市、所沢からも数十台の消防車がかけつけた。必死の消火活動にもかかわらず、猛火は一時間以上もおさまらず、乗っていたはずの人影はなかった。

 

この局面での話ということになる。

 さらに従軍牧師や身元確認チーム(遺体の身元確認である)も到着し、臨時の死体安置所も設けられ、『小平市史』にある、

 

  直径約二キロの地区内は米軍のMPが厳重に交通をしゃ断し、すぐさま「ギャラップ・ゴー」の立ち入り禁止の麻縄のロープが張られ、日本側警察、消防団は現場より立ち退きを強いられ、MPが住を突きつけ、住民を追い払った。報道陣も写真を撮ろうとするとピストルで脅され、フィルムを抜き取られる始末であった。その範囲は三街道にもおよんだ。米軍のMP、部隊、AP(空軍憲兵)、救急車、消防車、照明車、クレーン車、トラック、ジープ、ブルドーザーは、付近の公道および私道より畑中を往来し、農作物並びに橋梁、井戸、門柱などに被害をおよぼした。

 

このような状況となっていく。照明車の存在は、夜を徹しての活動であったことの証である。

 墜落は、エンジントラブルに加えて、飛行速度とフラップ操作の連携エラーに起因するものであったとの指摘もされていたことも語られている。

 

 日本側住民に対する態度(「いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処」)の問題とは別に、犠牲者家族のその後の年月―遺族に深く刻まれた悲しみ―について知り、そして米軍内部での墜落事故対応のスピード感と徹底性(そこでは現地住民の利害は無視される)を知ることで、グローブマスター機墜落事故の全体像の理解も深まったように感じられないだろうか?

 

 いずれにせよ、この記事が、沖縄の現状を他人事にしてしまわないためのきっかけになればと願う。

 

 最後に、立川基地が反基地闘争の現場であったことも、多摩探検隊の動画を通して再確認しておきたい。現在の沖縄が決して他人事ではないことに想像力を及ぼすことが出来るだろうか?

 

 

第100回 多摩探検隊 「砂川の記憶─57年目の証言─」
 https://www.youtube.com/watch?v=PbyeWRKRFkg 

 

 

 

【註:1】
 
  戦時中に小平町に設けられた軍の施設は終戦後、民間の施設や住宅地に転用されていった。では具体的にどのように変わったのか、市制施行後の昭和三七年(一九六二)までの変化を記述してみよう(付図は略)。
  東部国民勤労訓練所は東京都多摩公共職業補導所や東京都身体障害者公共職業補導所(ともに後の訓練所)、緑成会付属病院などとなった。
  陸軍兵器補給廠小平分廠は旧地主(農家)や開拓農地として営農の希望者(同廠勤務関係者が多い)へ払下げられ、その後、畑は都営住宅、小平三中、六小、日本タンパク工業株式会社、ブリジストンタイヤ株式会社東京工場、松見病院、緑風荘療養所、一般住宅などに変わった。
  傷痍軍人武蔵療養所は国立武蔵療養所と称されるようになった。
  さらに陸軍経理学校の校舎敷地は建設省建設研修所、陸上自衛隊業務学校、同調査学校、関東管区警察学校に使用され、そして回田道の東側にあった同校練兵場は、終戦後いち早く開墾に従事した人たち(大部分が旧地主)に払下げられ、後にこれらの農地に三栄レコーダー製造、シルバー編機製造、あけぼのパン、ピルマン製造株式会社などが進出した。練兵場の南にあった官舎部分は恵泉女子学園短期大学(園芸科)が使用したり、自衛隊官舎になったりした。陸軍技術研究所と文部省電波物理研究所跡は一部は民間のものとなり、東京サレジオ学園に払下げられたり、旧地主や営農希望者に払下げられた後、文化服装学院グラウンドや沖電気工業株式会社総合グラウンドとなったりした。さらに国の施設としては郵政省電波研究所や東京学芸大学小金井分校などになった。小金井街道沿いの特殊無線通信所跡は住宅となった。
     (『小平市三〇年史』 1994  268~269ページ)

【註:2】
 正確には、「グローブマスター」の名称は戦中に開発着手されたダグラス社のC-74に与えられたもので、戦後に開発・量産されたC-124の愛称は「グローブマスター Ⅱ」であった。
 しかし、1953年に墜落したC-124について「グローブマスター機墜落事故」と呼ぶことが、今回引用した『小平市史』においても「多摩探検隊」においても行われており(ウィキペディア先生も同様)、当記事内でも「グローブマスター」で統一することとした。

 

 

 

《記事一覧》

 カテゴリー
 「多摩武蔵野軍産複合地帯
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat71885235/index.html

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-c5f0.html
  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-00e7.html
  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)
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  用語としての多摩と武蔵野(歴史的視点と自然史的視点)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4460.html
  武蔵野台地における水資源確保の困難について矢嶋仁吉氏の論考紹介

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-cb9a.html
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-8e6b.html
  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-22a7.html
  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-242c.html
  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-b433.html
  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-6ff4.html
  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html
  木材供出で姿を消した青梅街道の欅並木と「木造船建造緊急方策要綱」

 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 (オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/10/14 18:29 →
 https://www.freeml.com/bl/316274/321865/
 
投稿日時 : 2018/10/14 18:33 → https://www.freeml.com/bl/316274/321866/

 

 

 

 

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