2019年3月24日 (日)

カチンの拳銃弾 4

 
 

 

 一九四三年(昭和十八年)二月の最終の週間に、ソ連領土の奥深く、スモレンスク(ソ連西部の古都、ドニエプル川上流に臨み、中世期以来、通商、交通の中心、当時人口十五万)の西方数マイルの地点に駐屯中の独軍第五三七通信連隊のテレタイプ(印字電信機)は、独軍の野戦警察が、同連隊の露営地区内でポーランド軍将校の多数の死体を発見した、と報告した。彼らはどれくらい多数であるかを正確には知らなかったが、数千名の死体であることは確実であった。
 その死体は皮製のたけの高い長靴をはいて、胸には皮製の弾帯をめぐらし、その多くは功績と武勲を示す勲章をつけていた。各人はその頭部を撃ち抜かれていた。彼らはソ連の土地で、いくつもの集団墓場の中で発見されたが、彼らを射殺した弾丸はドイツ製のものであった。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの森の夜と霧』 読売新聞社 1963  25ページ)
 
 
 これが、いわゆる「カチンの虐殺」の事実が明らかになる発端であった。
 問題は、集団墓場の中に死体となって発見された数千名のポーランド軍将校は、何時そして誰によって殺害されたのか?である。

 1939年9月1日、対ポーランド戦を開始し、ポーランド国内に西から進撃したのはドイツ軍であった。次いで9月17日にはポーランド国境の東からソ連軍がポーランド攻撃に加わった。当時のドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」によって同盟関係にあり、条約の秘密議定書には両国によるポーランド侵攻と領土の分割が、明記されていたのである。ポーランドは9月27日に降伏し、以後、ポーランド領土の西側はドイツの占領下となり、東半分はソ連に占領され、ポーランド軍将兵は、それぞれドイツとソ連の収容所に送られた。
 1941年6月22日、今度はドイツがソ連に侵攻し、ドイツとソ連の同盟関係は終わる。ソ連は連合国の一員となり、最終的に勝利者となった。
 ポーランドの降伏後、ポーランド人は亡命政府をロンドンに設立し、連合国側で故国の占領者であるドイツとソ連との闘いを続けていたが、1941年6月の独ソ戦開始以降は、連合国の一員となったソ連との同盟関係の選択を余儀なくさせられた。
 ソ連国内の収容所に収容されていたポーランド軍将兵も解放され、連合国のソ連と共に対独戦争に参加することとなったが、集合地にはポーランド人将校の姿は、ほとんど現われなかった。消えたポーランド将校団の行方は、ポーランド亡命政府にとっても、もちろん占領下のポーランド人にとっても、追求すべき問題であったわけである。亡命政府当事者は、ソ連国内での捜索努力を続けたが、何も得られぬままに1943年の2月を迎えていたのであった。
 
 
 ドイツ宣伝相ヨージェフ・ゲッベルスの個人的日記の中には、一九四三年(昭和十八年)四月九日の日付の下で、次のような記述が発見されるであろう。
 「ポーランド人の墓の大群がスモレンスク付近で発掘されている。ボルシェヴィキ党員(共産主義者、ソ連軍をさす)が約一万名のポーランド軍捕虜をあっさり射殺してから、穴を掘って墓の中に埋め込んだのだ……」
 おそらく、この身の毛もよだつようなものすごい発見を、ゲッベルス宣伝相の注意を喚起するようにしたのはドイツの従軍記者であろう。一九四三年(昭和十八年)四月十三日午前九時十五分(ニューヨーク時間)に、ドイツのラジオ放送は連合国の団結を打ち砕くことをねらった宣伝をいっせいに電波にのせた。それは全世界に向けて、ポーランド軍将校が大量にソ連軍の手で殺害されたことを発表した。このドイツ側の声明にもとづくと、連合国側の一国の政府が、その同盟国の将校団の約半分を殺してしまったように思われた。
 その翌日、ソ連側の激しい反応は、マスコミのあらゆる可能な手段によってばらまかれた。ソ連政府の情報局は一九四三年(昭和十八年)四月十五日に声明を発表し、「一九四一年(昭和十六年)に、スモレンスク西方で建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、ドイツ・ファシストの死刑執行人の手中に陥った……」ので、その後に処刑されたのであると闡明した。…
     (前掲書 25~26ページ)
 
 
 独ソはそれぞれに、ポーランド将校団殺害の犯行を、相手の行為として断じたのである。
 ところで、問題のカチンの森とはどのような場所であったのか?
 
 
 カティンの森は、スモレンスク市西方約十マイルのところにあった。…(中略)…一九一七年のロシア革命後に、この地区はソ連政治警察の管轄下に置かれていた。
 ドイツとポーランド両国筋によると、一九二九年(昭和四年)ごろに、この森の周辺には「GPU特別地区、許可されない人の立ち入りを禁止す」という標識が立っていた。一九三一年(昭和六年)に、この森の一地区は鉄条網で取り囲まれた。その付近に居住しているソ連市民たちによると「さらに、立ち入り禁止の警告の張り紙が下げられた」といわれる。そして大きな家が、墓の大群の発見された地点より半マイルばかり離れたところに建てられたが、それは政治警察の係り官のための休息所として使用された。一九四〇年(昭和十五年)からソ連軍が撤退するまでの間、この全地域は、警察犬の護衛を伴った政治警察の保安隊員(NKVD)が巡察していた。
     (前掲書 26~27ページ)
 
 
 つまり、独ソ戦開始後にドイツに占領されるまでは、カチンの森はNKVDの管理下にあった土地なのである。ソ連内務人民委員部(あるいは中野五郎訳では政治警察)の管理する土地であったのだ。

 1943年にドイツ軍がポーランド軍将校の多数の死体を発見したのは、そんな性格の土地なのであった。
 
 
 

 

 一般の世論は、ドイツ軍に対し非難の指をさし向けた。発見された死体がドイツ製の弾丸で射殺されていた事実から、ドイツ政府は現地調査を行なうために、独立した国際調査委員会と、ポーランド赤十字委員会、ドイツ特別法医学委員会などを招待することに踏み切った。
     (前掲書  27ページ)
 
 この国際調査委員会とポーランド赤十字委員会のほかに、ドイツ特別法医学委員会も、また調査活動をしていた。この三つの調査委員会の各委員は、その調査期間中に、まったく独立して行動していた。そして独自の立場より結論に達したが、それは三つの個別の最終報告の中に述べられていた。これらの報告書は、そのもっとも重要な詳細な点で一致しているから、カティンの森の調査結果に関する次の記述は、これらのすべての報告と、さらに他の筋より収集した適切な補足にもとづいたものである。
 さてカティンの森では、八つの集団的な墓が発見された。それは深さ六フィートないし十一フィートの中に、死体がいっぱい充満していた。一般に、これらの死体の埋葬には特殊の方式がとられていた。彼らは顔を下にして両手をわきに置くか、または両手を身体の背後でしばられ、両足をまっすぐに伸ばして横たわっていた。しかも死体は一つずつ互いに重なり合って、十段か十二段になって積まれていた。
 その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
 二つの個別の墓が見つかった。その墓の中には、二名の、完全に軍服を着用した将軍の死体が発見されたが、いずれも一発で射殺されていた。赤外線の助けを借りて、その軍服を顕微鏡で分析した結果、この二名の将軍は、その冬外套のエリを立てたところを拳銃で撃たれたか、あるいは直接その頭部を撃たれたかして、処刑されたことが実証された。
 死体の大群の中の多数、とくに士官候補生と青年将校の死体は、その両手をしばられていた。これらの死体の発掘を目撃したある証人は、次の通り報告していた。
 「この第五号の墓より発掘された死体の典型的な特色は、その死体の全部の両手が背中で、白いナワで二重の結びめをつくってしばられていた事実であった。彼らの冬外套を頭部のまわりにかぶせて、しばりつけられていた。この冬外套は、同じ種類のナワで首の高さをしばられていて、時には二番目の結びめが犠牲者の頭上につくられていた。首筋にはただ一つの結びめがあり、そのナワの残部は背中を下方へ通って、しばられた両手のまわりにグルグルと巻きつけられた上、さらに首筋で、もう一度しばりつけてあった」
 「こんな風にして、犠牲者の両手は肩胛骨の高さまで引きつり上げられていた。犠牲者はこのような方法でしばり上げられていたので、いかなる抵抗もすることができなかった。なぜなら両手を動かすたびに、首筋のまわりのナワのくくり結びが堅く締まり、そのために、ノドを絞めつけるからであった。それのみならず、彼らは頭の上から冬外套をおおいかぶされていたために、どんな音を立てることもできなかった。処刑前に犠牲者を、このような風にしばり上げていたことは、死ぬ前に特別にくふうした拷問を加えていたものであった」
 このナワの結びめをつくる技術は、すべての実例で同一であった。そのナワは全部、同じ長さのものであったから、それが計画的に、事前に用意されたことは明白であった。現場でドイツ人の科学者が行なった、そのナワの顕微鏡検査によると、それはソ連製のものであることが判明した。また同じ種類の結びめが、ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体についても発見された。これらの死体もまた、カティンの森の別個の墓穴の中で発見されたものであった。これらの死体を仔細に検視した結果、この人々は五年ないし十年前に同じ方法で殺害されたものであり、それは独軍が、この地方に侵入したときよりも数年以前の出来事であった。
     (前掲書  30~32ページ)
 
 
 この「ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体」こそが、大粛清時に犠牲となったソ連国民の姿なのである。
 これが、カチンの森がNKVD(ソ連内務人民委員部)の管理下にあった土地であることの意味するところなのだ。
 カチンの森の奥でのNKVDの犠牲者は、まずは自国民だったのである。
 
 第二次世界大戦以前に大量の自国民を処刑・殺害してきたのと同じ手法(註:1)が、大戦に際してのポーランド軍将校の殺害においても用いられていたことが、これらの調査報告(ポーランド赤十字委員会には、抵抗運動メンバーも委員として参加しており、報告の信頼性は高い)から判明するわけである。 平時に、自国民の大量処刑・殺害を日常業務として効率的に実行してきた国家機関が、戦時には、他国民の効率的な大量処刑・殺害にその洗練された能力を発揮したのである。
 
 
 

 

【註:1】
 
  その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの夜と霧』 読売新聞社 1963  31ページ)
 
  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)
 
   ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
     (ザスラフスキー 『カチンの森』 173ページ 「訳者あとがき」より
 
 (ブローヒンについては「カチンの拳銃弾 3」を参照)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/07 21:36 → https://www.freeml.com/bl/316274/170641/
 投稿日時 : 2011/09/12 21:32 → https://www.freeml.com/bl/316274/170949/)
 
 
 

 

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2019年2月 2日 (土)

カチンの拳銃弾 3

 

 

 「カチンの虐殺」として知られる、ソ連という国家によるポーランド人捕虜の大量殺害。その現場には効率的大量殺害に公務として従事した処刑人の姿があった。効率的な処刑には専門性が必要であり、彼らは洗練された大量殺害技術の保持者であった。その専門性と技術は、ポーランドとの戦争に先立つ時期に、ソ連国内でソ連国民を処刑する中で磨かれたものであった。そんなソ連の処刑人を代表する人物と考えられているのが、ポーランド人捕虜殺害の際も活躍したヴァシリー・ブローヒンである(「ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」)。

 前回、「ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった」と要約したが、あらためて、効率的な処刑=殺人の詳細について確かめておきたい。

 

  カリーニン虐殺はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。

  拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

ブローヒンの役割・手法について、前回までにこのように紹介した(「カチンの拳銃弾 1」及び「カチンの拳銃弾 2」参照)。さらにザスラフスキーの著作を読み続けてみたい。

 

 すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである。報告書には、多くの場合に将校たちが抵抗したと記録されている。多くの将校には銃剣創が見られた。またある者は両腕が背中で特別な結び方で縛られたうえで首のまわりに繋がれていた。これだと手を動かせば首が閉って窒息する。射殺はNKDVの特別部隊が実行した。NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた。ナチ親衛隊の銃殺執行隊とちがって、NKDVの銃殺執行隊は犠牲者から金歯を抜いたり貴重品を取り去る命令を受けていなかった。だから死体発掘にさいして結婚指輪と金歯がポーランド将校の遺体に残っていたと記録されている。
 検屍記録はあきらかに矛盾する技術的細部を正確に書きとめていた。なかでも拳銃と銃弾はドイツ製でありながら、創傷はソ連軍が使っていた四刃の銃剣による刺殺を示していた。それに、犠牲者を縛っていた縄はソ連製だった。ブルデンコ委員会は銃剣と縄を無視しながら、ドイツ製弾丸が射殺に使われた事実を最大限利用して世論の大きな反響を勝ちえたのだ。以前に国際医学調査委員会が説明したところでは、拳銃はカールスルーエ近くのグスタフ・ゲンショウ社がヴェルサイユ条約後にドイツの兵器需要が激減したため、ソ連、ポーランド、バルト諸国に大量輸出するために製造されたものだったが、この事実は意図的に無視された。今やソ連公文書館の文書によると、NKDV銃殺執行隊がドイツ製拳銃と口径七・六五ミリの弾丸「ゲコ」で装備されていたことが確認されている。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 126~127ページ)

 

 カチンでの屋外での処刑(「カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスクNKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力」)と、カリーニンでの屋内での処刑(「モスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮」)では状況が異なることに留意しておく必要がある。ここに記されているのは、集団として自身の運命が明らかな中で次々に殺害されたカチンでの検証記録(解剖報告書)である。カリーニンでの個室での殺害では、被害者は抵抗を考える以前に、すなわち抵抗し銃剣で傷付けられることなく殺害されていたと考えられる。

 いずれにせよ、「すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである」とカチンの「解剖報告書」にも記されており、「執行の専門家」の熟練度が窺われる。

 

 根岸隆夫氏による「訳者あとがき」には、カリーニンでNKDV責任者であったトカリェフ(トカリェフは国境警備隊からNKDVに移動したときは大佐だったが、カリーニン虐殺でベリヤに認められ、1954年に少将に昇進した)による1991年3月20日の証言(軍事検察官ヤブロコフ中佐との質疑応答)の紹介がある。

 

 トカリェフ  ブローヒン、シネグボフ、クリヴェンコがモスクワ本部から処刑人として到着したときに拳銃を詰めこんだスーツケースを持ってきました。
 ヤブロコフ  どんな拳銃ですか。
 トカリェフ  ヴァルターですよ。
 ヤブロコフ  弾薬はなんですか。
 トカリェフ  ヴァルター用ですよ。有名な拳銃です。口径は知らないけれどドイツ製です……
 ヤブロコフ  監獄を描写してください。
 トカリェフ  ここが地下室。ここに囚人監房があります。ここが「赤い隅」で、そこから処刑室まで廊下があります。「赤い隅」で本人確認がおこなわれ、そこから廊下を通って処刑室に連れていき銃殺です。小さい部屋です。扉があって中庭に向かって開きます。そこから死体を出して、待ち受けているトラックに載せます。
 ヤブロコフ  監獄から「赤い隅」まで捕虜は一人ずつ連れてこられるのですか。
 トカリェフ  そうです、一人ずつです。「赤い隅」には政治ポスターが何枚か貼ってあります。政治教育に使われていました。だからレーニンの部屋と呼ばれました。
 ヤブロコフ  処刑室にはなにもないのですか。
 トカリェフ  荷台がひとつありました。
 ヤブロコフ  いつもウォッカがあったということでしたが。
 トカリェフ  箱で買いこんでいました。銃殺と埋葬にかかわっただれもが飲めるようにです。モスクワから来たブローヒンたち処刑人はパジャマ姿ですわって飲んでいましたね。かならず銃殺が終わってからで、その前や最中には飲みませんでした。ポーランド人の銃殺が終わると宿にしている引き込み線の食堂車で大宴会でした……
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 172~173ページ 訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

「捕虜は一人ずつ連れてこられる」のであり、処刑室は防音されており(「看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる」)、処刑されることへの予期は持ちにくい(多くの場合、抵抗を考える前に殺害されているはずである)。

 

 

 実際にNKDV(内務人民委員部)で処刑の任務に携わった人物による証言(「カチンの虐殺」への関与は語られていないが、多くのソ連国民を処刑した経験が語られている)が記録されているので読んでおきたい。

 

 「……わしは内務人民委員部の仕事に採用されたとき、ほんとに鼻高々だった。はじめての給料で上等のスーツを買ったんだよ。
 ……あのような仕事は……なんにたとえればいいのだろう。たとえるとしたら、戦争だ。しかし、わしは戦場ではらくだった。ドイツ人を銃殺刑にする、やつはドイツ語でさけぶ。ところが、こいつらときたら……こいつらはロシア語でさけぶんだ。なにやら仲間みたいだ……。リトアニア人やポーランド人を撃つのはもっとらくだった。ところが、こいつらときたらロシア語なんだよ。「でくの坊! 能なし野郎め! さっさと殺れよ!」畜生! わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。きみは若いよ……ペレストロイカ! ペレストロイカ! しゃべくり野郎どもの話を真にうけておる。さけばせておくがいい、自由、自由と。広場をちょっと走らせておくがいい……。斧が置かれているんだ……斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるんだよ。覚えておけ。畜生! わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。あんな仕事は、願いさげだ! まだ息のあったやつは、たおれて、豚みたいにキーキーいって……血を吐いておった。けらけらわらってる男を撃つのは、とくに胸くそが悪かった。そいつは気が狂っているか、こっちをさげすんでいるか、どっちかなんだ。あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。水をくれ! 水だ! 酒を飲みすぎたあとのように……。畜生! 勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。どっかで読んだことがあるだと? それそれ、そこなんだよ……。いまではあらん限りのことが書かれている……多くはでっちあげだ……。わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。畜生! なんでだまってんだ。青二才め……未熟者めが……よく聞け! まれに殺すのが好きだという兵士がいたもんだ……そういうやつは銃殺班からよそにとばされた。やつらはあまり好かれていなかった。わしのような農村の出身者がたくさんいた、田舎もんは都会もんよりタフだ。ハラがすわっておる。死というものに慣れている。ある者は家で豚をつぶしたことがあったし、ある者は子牛を殺したことがあったし、ニワトリはだれでもしめたことがあった。死に……慣れさせなくてはいかん……。最初の数日間は連れていって見せる……。兵士たちは死刑に立ち会っていただけ、あるいは既決囚を護送していただけだ。すぐに発狂というケースもあった。耐えられなかったのだ。デリケートな問題だ……。うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。わしに残ったのは、右耳の聞こえが悪くなったことだけだ。右手で撃っていたからだよ。
 ……わしらは「党と政府の特殊任務遂行に対して」表彰状をもらって、そこには「レーニン・スターリンの党の事業に献身的である」と書かれていた。上質紙のこれらの表彰状を、わしは戸棚いっぱい持っておる。年に一度、家族と一緒にりっぱなサナトリウムに行かせてもらった。最高の食事……肉がたっぷり……療養……。妻はわしの仕事のことはなにも知っちゃいなかった。責任重大な極秘の仕事、それだけだ。わしは恋愛結婚だった。
 ……戦時中は弾が節約されていた。もし海が近ければ……。平底船にぎゅうぎゅうに詰めこんだもんだ。船倉からはさけび声ではなく、けものの咆哮「誇り高きわがヴァリャーグ号は敵に屈せず/赦免はだれも望まない……」。一人ひとりの両手は針金で縛られていて、足には石が……。もし天気がおだやかなら……水面はなめらかで……やつらが底に沈んでいくのが長いあいだ見えていた……。なんだ、その目は。乳臭いやつめ! その目はなんだ! 畜生! 酒をつげ! そういう仕事……勤務だ……。きみが理解するために、話してやってるんだ。ソヴィエト政権はわしらにとって高くついた。それを大事にしなくてはならん。守らなくてはならんのだ。夕方、わしらが帰ってみると、平底船はからっぽ。死の静けさ。みんなの頭にあるのはひとつ。わしらが岸辺に出ていけば、わしらもそこで……。畜生! わしは、すぐ持ちだせるように、何年間もベッドの下に木のトランクを置いていた。替えの下着、歯ブラシ、カミソリ。枕の下にはピストル……。自分の額を撃ちぬく覚悟でいた。当時、みんながそんなふうに生きていたんだ。兵士も、元帥も。そこんとこは平等だった。
 ……戦争がはじまった……。わしはすぐ前線に志願した。戦闘で死ぬのはそれほどこわくない。祖国のための死だとわかっているからだ。すべてが簡単明瞭。ポーランドを解放していた、チェコを……。畜生! ベルリンの近くで自分の戦歴を終えた。二個の勲章と記章をもっておる。勝利だ! だが……その後に待っていたのは……。勝利のあと、わしは逮捕された。特務部のやつらがリストを用意していたのだ……。チェキスト〔国家保安機関の勤務員〕には、ふたつの道しかなかった。敵の手にかかって死ぬか、内務人民委員部の手にかかって死ぬか、どちらかだ。七年の刑をくらった。わしは、七年の刑期をまっとうした。いまでも……なあ、きみ……収容所時間で目が覚めるのだ、朝六時に。なんの罪で入っていたのか。なんの罪か、それはおしえてくれなかった。いったいなんの罪があるというのだ。畜生! 」
     (スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 『セカンドハンドの時代』 岩波書店 2016  357~359ページ)

 

 かつてNKDVに処刑要員として(処刑の専門家として)勤務した人物の証言である。「NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた」という中の一人だ。キャリアのスタートは戦前、大粛清の時代である。語られているのはその技術的詳細、処刑現場の状景の生々しさ、処刑要員としての心情。

 

  わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。

  わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。

  あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。

  勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。

  わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。

 うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。

  勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。

 ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。

  すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。

 

 確かに「あんな仕事は、願いさげだ!」という言葉もある。自身への呪いの言葉と満足感が同居している。

 ここではドイツ製のワルサーではなく、ソ連製の「ナガン連発式ピストル」を使用していたこと、引き金が引かれたのは「左後頭部」に向けてであったことが語られている。ブローヒンの流儀を過剰に一般化するべきではないということなのだろう。しかし、「ナガン連発式ピストル」使用により「勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった」ために「割当量」を果たすことが困難となり、「週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった」エピソードからは、あらためてブローヒンのワルサーが、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」との理由で選択されていたことが思い出される。

 

 「あんな仕事は、願いさげだ!」との言葉も吐いたこのチェキストは、しかし「名誉退役軍人」として特権を享受していた。「特別配給食料」としてサラミソーセージ、ブルガリア製のキュウリとトマトのピクルスの瓶詰、外国製の魚の缶詰、ハンガリー製の缶入りハム、グリーンピース、タラのレバーといった「当時、一般の人には手に入らなかったもの」を手にし、「官給の四〇〇平米の土地ではなく、どのくらいの広さだったか、もう正確には覚えていないが、そこには森林の一部も入っていた。古いマツ林だった。高い地位の人には、あのようなダーチャが与えられていたんです。特別な功績に対して。アカデミー会員や作家に」と対話者に語られるような特権的な生活を享受していたのである。公務としての効率的な殺人により得た特権である。

 そのような特権者が存在した国家。それがソ連であり、そのような特権者こそがソ連の国家権力を支えていた。処刑人の凄惨な現場の上に、日々の業務としての処刑の上に、「割当量」を果たそうと格闘する現場の上に、ソ連という国家は築かれていたのである。

 

 

 

 さて、あらためてブローヒンである。

 日本語の『ウィキペディア』をチェックしてみた(「百科事典」としての利用とは別に、ネット空間の中での対象への関心の程度を知る効果もある)が、現状(2011年9月6日、そして2019年2月2日に再確認)では「ブローヒン」の項目はなかった。しかし、「ニコライ・エジョフ」の項に、

 

 1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。

 

という形で、ブローヒンの名が登場する(以下、2011年9月6日時点での記載内容である)。

 「カチンの虐殺」は1940年の4月から5月の話で、その直前の時期に、ブローヒンは、エジョフの処刑の実行者となっていたわけである。ただし、『カチンの森』によれば、その時点でのブローヒンの地位は「保安少佐(モスクワNKVD監獄長)」なのであり、『ウィキペディア』の記述は正確ではないように思われる(2019年2月2日現在でも「1940年2月4日、エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された」との記述のままであった)。

 

 さて、では、ニコライ・エジョフとは何者か? 再び『ウィキペディア』の「エジョフ」の項を参照すると、

 

 ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフ(ロシア語;Николай Иванович Ежовニカラーイ・イヴァーナヴィチュ・イジョーフ、ラテン文字表記の例:Nikolai Ivanovich Yezhov、1895年5月1日 - 1940年2月4日頃)は、ソビエト連邦の政治家。1936年から1938年まで政治警察・秘密警察であるNKVDの長を務めた。国家保安総委員。ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

 エジョフの政治体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ;エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。

 

として要約される人物である。

  ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

とあるように、つまり、あの大粛清のシステムの中心人物であり、やがて当人も粛清の対象とされ、最後にブローヒンの手により処刑されたわけである。

 

 『ウィキペディア』は、エジョフの絶頂期の姿を、

 

 エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったとことで知られる。1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表している。これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となった。

 エジョフは粛清の第一段として、まず前任のヤゴーダ派の一掃に着手した。ヤゴーダ派の粛清で生き残った部下を自身の配下に組み入れることで、権力の基盤を磐石にしたのである。1937年3月、将校クラブに招集したNKVDメンバーの前の演説でエジョフは、前任者のヤゴーダが「ファシストのスパイ」として逮捕されたことを述べた上で、「無実の人間を10人犠牲にしてもいいからスパイ1人を逃してはならない。木を切り倒すときは木端が散るものだ」と主張した。また、自身の身長の低さに言及し、「私の身の丈は小さいが、両手は頑丈だ。-スターリンの意思を実行する両手だからだ」と述べた。

 エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として君臨した。NKVDとGPUに徹底的な粛清を指揮し、前任者のヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが任命した多くの人員が解任、銃殺されたが、その中にはエジョフ自ら任命した者も含まれていた。エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際には、その一字一句をメモに書き残していたとされる。さらにはNKVDの部署内にさえも、二重・三重の監視網が敷かれた。

 エジョフはかつてレフ・トロツキーを支持していた重工業人民委員部次官ゲオルギー・ピャタコフらを公開裁判(第二次モスクワ裁判)にかけ、銃殺刑を言い渡した。これを皮切りにエジョフ体制下での粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者・官僚・軍人の半数、ほかにも数百万人の市民が政府への反抗・政府の転覆活動・反革命の容疑を受けて粛清の対象として逮捕され、容赦ない拷問の結果、処刑・追放・収容所送りに至った。

 1937年12月20日、党はボリショイ劇場において、NKVDの創設20周年を祝う大祝典を催した。会場には、スターリンの巨大な肖像と隣り合ってエジョフの肖像が架けられた。花でうずまるステージにおいて、ダークのコーカサス風のチュニックコートとベルトを締めたアナスタス・ミコヤンが、エジョフの仕事を賞賛し、「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう!ちょうど、同志エジョフ自身が、同志スターリンから学び、これからも学び続けるであろうように!」と述べた。会場にいたある人物は、エジョフの様子を「彼はうつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。まるで、こんな手放しの賞賛に自分は相応しくないという風だった」と伝えている。スターリンが、このときの様子をプライベートボックスから眺めていた。

 

と記している。

 しかし、その絶頂の翌年、

 

 1938年4月8日、ほかの役職はそのままに、水上交通人民委員を兼任したが、エジョフの役割は徐々に小さくなっていった。これはエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。党内で上位にある者を定期的に粛清するスターリンのやり方は、主にそのやり方を組織化する役割を果たしたエジョフも知っていた。同年8月22日、ラヴレンチー・ベリヤが内務人民委員代理に就任する。ベリヤは政治将校の政務のためにエジョフの権力を奪い始め、NKVDの実質的な責任者になった。

 連日のように粛清を繰り返したエジョフは、晩年には疑心暗鬼によって、自身の妻までも粛清している。すでに飲んだくれとなっていたエジョフはアルコール依存症に陥り、絶望的になった。最後の業務の月のエジョフは、陰鬱で、だらしなく、起きている時間はほとんど酒を飲んでおり、勤務のために現れたことは滅多になかったという。

 同年11月11日、スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフは内務人民委員の解任を自発的に求め、11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。

 

このように、手にした権力を失っていく。そして、

 

 1939年3月3日、エジョフはソ連共産党中央委員会における全官職を解任された。

 

という形で、スターリン体制における地位のすべてを喪失し、エジョフの立場は完全に逆転することになる。

 

 1939年4月10日、エジョフは逮捕され、スハーノフカ刑務所(en:Sukhanovka)に収容された。拷問に耐えることができなかったエジョフは、奇しくも、自らが多くの人間を処刑したのと同じ理由、すなわち「自分は公式に無能であること、ドイツの諜報機関と結託してスパイ活動を行い、クーデターを計画していた」と自白した。さらにエジョフは、「自分は性的に逸脱しており、男色家で異性愛者である」とも自白した。これはのちに証言によって部分的に補強され、のちの取り調べによってほぼ真実と考えられている。

 1940年2月3日、ソビエトの裁判官ヴァシリー・ウルリヒは、ベリヤの事務室において彼を審理した。エジョフの言い分は支離滅裂であり、前任のヤゴーダのように終始悲嘆に暮れ、スターリンへの敬愛を述べ続けた。エジョフは、ベリヤからスターリン暗殺計画の自白を勧められたが、これを拒否して「どうせこの地上から消え去るなら、高潔な人間として消え去ったほうがましだ」と述べた。エジョフは自身の弁明のためにベリヤの前に跪いて許しを請うが、再三無視された。そしてついに、「スターリンの名を呼んで死ぬ」と誓った。エジョフのスターリン暗殺計画の自白の拒絶は、自身の宣伝目的に役立つことはなかった。

 死刑判決が読まれたとき、エジョフは泣き崩れ、部屋から体ごと運ばれなければならないほどに生気を失った。目撃者によると、ベリヤはエジョフに服を脱ぐよう命令し、エジョフを叩くよう警備員に命令したという。エジョフは体ごと処刑室に運ばれ、しゃっくりし、泣きじゃくった。1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。遺灰は、モスクワのドンスコイ修道院の集団墓地(en:Mass graves in the Soviet Union)に捨てられた。

 

というのが、大粛清システムの中心人物の最後のあさましい姿であった。

 

 しかし、このベリヤもまた、『ウィキペディア』の「ラヴレンチー・ベリヤ」の項によれば、

 

 同年(1953年)12月、ベリヤ、メルクーロフ、コブロフ、セルゲイ・ゴルギーゼ、デカノゾフ、メシク、ヴロジミルスキーの7人は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」と報道された。ベリヤは特別法廷において、弁護人なし、弁明権なしで、裁判にかけられた。裁判の結果、ベリヤは死刑判決を受けた。モスカレンコによると、死刑判決が下ったとき、ベリヤは膝を突いて泣きながら慈悲を乞い、助命嘆願をしたという。しかし、ベリヤはルビヤンカの地階に連行され、彼と彼の部下は、1953年12月23日にパーヴェル・バチツキーによって銃殺刑に処された。ベリヤの遺体はモスクワの森の周辺で火葬されたのち、埋葬された。

 

という最期を遂げることになるのであった。

 そのような政治体制の中で、「カチンの虐殺」は起きたのである。

 

 

 ちなみに、英語版の『ウィキペディア』には、ブローヒンの項目はあり、その最期についても記述がある。

 

 Blokhin was forcibly retired in 1953 following Stalin's death that March. However, his "irreproachable service" was publicly noted by Beria at the time of his departure.After Beria's fall from power in June of the same year, Blokhin's rank was stripped from him in the de-Stalinization campaigns of Nikita Khrushchev. He reportedly sank into alcoholism and serious mental illness, and died on 3 February 1955, with the official cause of death listed as "suicide".
     (Vasily Blokhin → 
https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Blokhin

 

 ブローヒンはスターリン批判の中で栄誉を剥奪される。アルコールに溺れる日々を送り、公式には自殺として記録される最期であったらしい。

 そこに大量殺害者としての悔悟があったのであろうか?

 (私には、ブローヒンの悔悟など想像し難いが)

 

 

 

           (「カチンの拳銃弾 4」に続く

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/06 21:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/170569/
 投稿日時 : 2019/02/01 21:04 → https://www.freeml.com/bl/316274/323553/

 

 

 

 

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2019年1月31日 (木)

カチンの拳銃弾 2

 

 

 ガス室のある収容所は数が限られていたことは、今でも知る人が少ない。もっとも有名なアウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクとシュトゥットホーフのほかにはヘウムノ、ソビブル、ベウジェツ、それにシュトゥットホートだけである。
 これに反して、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン、シルメック、ノイエンガメ、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック、ザクセン・ハウゼン、フロッセンブルクにガス室はなかった。そこでは、収容者は緩慢な死を迎えるか、拳銃で項を撃たれるか、つるはしで殴り殺されるか、働いている採石場の高い所から突き落とされるか、であった。
     (アルベール・シャンボン 『仏レジスタンスの真実』 河出書房新社 1997 171ページ)

 

これもまた、昨日のルドルフ・へスの証言に加えて、

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

というソ連の手法が、ナチスの強制収容所での収容者殺害においても採用されていた事実への言及(「拳銃で項を撃たれる」)である。

 小銃を構えた銃殺隊による銃殺刑という軍隊的スタイルや、機銃の乱射による大量殺害とは別に、「拳銃で項を撃たれる」殺害法もナチス体制の下で広く行なわれていたのだが、その手法の起源がソ連にあったのではないかというのが今回のテーマのひとつ、ということになろうか。

 

 

 前回記事(「カチンの拳銃弾 1」)で示した通り、「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法は、そもそもは、

 

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
    (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

とあるように、ソ連秘密警察において愛好され洗練された手法であった。

 あらためて、その詳細について読み進めると、

 

 トカリェフの証言をまとめると、カリーニン虐殺(オスタシュコフ収容所の5291人のポーランド人捕虜は、カリーニンのNKVD本部の地下監房に移送され、別室で殺害された-引用者)はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。処刑と埋葬にはNKVDの地方、中央をふくめてあらゆる階級の職員三〇名がたずさわった。看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。ブローヒンでなければカリーニンNKVDの総務部長ルバノフだった。監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた。植樹して隠そうとはしなかった。カチン、ハリコフとちがってカリーニンのドイツ軍占領は短かったので、発見されなかった。
 カリーニンでは合計六三一四人(オスタシュコフ収容所からの移送者以外の犠牲者も含まれる数字?-引用者)が銃殺されたが、一九九〇年に二三の墓穴が掘り返されたときには、死体の司法解剖は不可能だった。遺体は五十年経ち、土に戻っていた。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 173~174ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

このように記されている。カリーニン虐殺における、ブローヒンの役割と手法の詳細に注目しておきたい。

 

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

 ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった。

 

 

 ブローヒンの使用していたヴァルター二型拳銃(「ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参」とある)については、ワルサー社の「モデル2」を示すものであるのかどうか、検討の余地が残る。前回記事に引用した「拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた」との記述に示される口径から判断すると、口径6.35ミリの「モデル2」(1909年開発)には該当しない。口径7.65ミリのワルサー社の拳銃ということであれば、いずれも1910年代に開発された「モデル3」あるいは「モデル4」が存在する(註:1)。

 用いられた「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法からすれば、6.35ミリの小口径拳銃でも十分に役に立ちそうである。いずれにせよ、使用されたのはワルサー社の生産した拳銃であり、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」というのが選択基準であった。「疲れが少ない」拳銃を用いて、効率的な処刑が遂行されたのである。そして、「死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた」とあるように、死体処理も効率よく遂行された。

 日常的処刑業務を効率的に遂行するに際して「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」ことにおいて優位なドイツ製拳銃が、すなわち「ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた」のである。

 

 一方、ナチス・ドイツで愛用されたのは同じワルサー社のワルサーPP、あるいはPPKではないかと思われる。(内容的に妥当と思われるので、入力の手間を省き)『ウィキペディア』記事から引用すると、

 

 ワルサーPP(Walther PP)は、ドイツのカール・ワルサー社が1929年に開発したダブルアクション式セミオートマチック拳銃である。.22口径(5.6mm)、.32ACP口径(7.65mm)、.380ACP口径(9mm)の3種類がある。PPとはPolizeipistole(警察用拳銃)を意味する。

 1929年に開発される。ドイツ警察や再軍備宣言がなされたドイツ軍の将校用標準ピストルとして採用されており、国家社会主義ドイツ労働者党の制式拳銃でもあった。
     (2011/09/05 閲覧時の記述)

 

ということになる。その発展型にワルサーPPKがあるが、

 

 ワルサーPPKは、ドイツのカール・ワルサー社が開発した小型セミオートマチック拳銃である。警察用拳銃として開発されたワルサーPP(Polizeipistole)を私服刑事向けに小型化したもの。名称のKはもともと「刑事 (用)」を意味するクリミナールkriminalの頭文字だが、一般には「短い」を意味するクルツkurzの頭文字だと解釈されることも多い。

 1931年に発売開始。ヒトラーも、愛銃として使用しており、ドイツ警察(ゲシュタポ)や軍隊、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)で制式拳銃とされる。

 

とある通り、どちらもがナチス体制とも縁の深い拳銃である。

 

 

 処刑の効率について、

  屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。

とあったが、ナチス関係のものを読んでも同様の効率性は伝わってくる。しかし、ナチスは、ガス殺というより効率的な手法を開発した点において、ソ連の共産主義者を超えたわけである。

 

 

 いずれにしても、

  ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。

とされるブローヒンの人物像には、ソ連の共産主義の歴史の一面が深く刻印されており、いろいろと興味を引くところがある。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 3」に続く)

 

 

 

【註:1】

 ワルサー モデル1は、ドイツのワルサー社が1908年に開発した、同社初のポケットピストルである。
 作動方式はシンプルブローバック、トリガーはシングルアクションで発射する。スライドはオープントップデザイン。フレーム左側後部にクロスボルト式のマニュアルセイフティ(シアを固定)を備えている。フロントサイトはあるが、リアサイトはスライド上面の溝を利用するスナッグフリーデザイン。銃身にはテイクダウン用のバレルシュラウドが被せてあり、これを取り外すことで分解するという独特な構造をしている。形状や細かな仕様の違いで、5つのバリエーションが存在する。
 元々は「Selbstlade Pistole Cal.6.35」という名称だったが、後続モデルが登場した際に「モデル1」に改名された。
 1909年には改良モデルの「モデル2」が登場。スライドをフルカバーデザインに変更し、全体的なバランスの見直しを図っている。他にも、内蔵式ハンマーに変更、グリップ底部のマガジンリリースレバーの大型化、マニュアルセイフティをレバー式に変更、などの改良が施されている。初期型には、チャンバーインジケーターを兼ねる可動式リアサイトとマガジンセイフティが備わっていたが、後期型では製造工程とコストを省くため、両機能とも廃止されている。モデル1ではロングタイプだったテイクダウン用のバレルシュラウドは、銃口先端を覆うショートタイプのものに変更された。
 「モデル4~モデル8(モデル5を除く)」になるとサイズが大型化するが、1921年には再び小型モデルの「モデル9」が登場。オープントップスライドでストライカー式という特徴はモデル1と変わらないが、よりオーソドックスなデザインになっている。ただし、マニュアルセイフティの位置はフレーム左側後部ではなく、トリガーガード左側後部に変更された。

モデル
 全長 銃身長 重量 口径 装弾数

モデル1
 112mm 50mm 360g .25 ACP 6+1
モデル2
 113mm 50mm 277g
モデル3
 127mm 67mm 472g .32 ACP 8+1
モデル4
 151mm 88mm 521g
モデル5
 113mm 50mm 269g .25 ACP 6+1
モデル6
 210mm 121mm ?g 9mm×19 8+1
モデル7
 135mm 76mm 360g .25 ACP 8+1
モデル8
 130mm 73mm 364g
モデル9
 99mm 51mm 260g .25 ACP 6+1
     (MEDIAGUN DATABASE→ 
http://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/index.php?%BC%AB%C6%B0%B7%FD%BD%C6/%A5%EF%A5%EB%A5%B5%A1%BC%20M1

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/05 21:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/170528/

 

 

 

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2019年1月30日 (水)

カチンの拳銃弾 1

 

 

 これからしばらく、80年前のポーランド人捕虜の運命(1939年の9月1日、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻、同年9月17日にはソ連がポーランドの東側国境から侵攻し、ポーランドは両国により占領された)を振り返るところから始めて、20世紀の全体主義的ユートピアを支えた人間像―特に処刑人とその犠牲者の姿に焦点を当てることになるだろう―について考える機会としたい。

 

 

 コゼルスクから最初の捕虜の一隊を乗せた列車は、四月三日(1940年の話-引用者)の午後に出発した。捕虜は汽車で四時間くらいかけて、スモレンスクを通過して郊外二〇キロばかりの小さな駅に着く。そばをドニエプル川が悠々と流れている。この年の春は遅く、残雪があった。着剣し小銃をもったNKVD(ソ連内務人民委員部)警護・護送部隊が厳重に警戒するなかを、黒塗りの囚人輸送車に押しこまれて、二メートルの金網を周囲にめぐらしたNKVD管理下のカチンの森に入り、三キロ離れた山羊が丘(斜め丘との解釈もある)のある広々とした空き地に連れていかれる。そこには三月はじめに、スモレンスク監獄の囚人を使って八つの矩形の墓穴が掘られていた。深さは二メートルから三メートル。二人の兵隊が捕虜を一人ずつ両脇で腕を抑え、矩形に深く掘られた墓穴の縁で跪かせるか立たせる。後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する。犠牲者は墓穴に倒れこむ。死体は顔を下にして九層から一二層積み重ねられた。
 拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。しかし、カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスク
NKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力だ。しかし資料は十分ではない。ゲシュタポがNKVDに殺人手段で勝るのはガス殺だけだといわれる。拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。弾丸には、ドイツの弾薬メーカー、ゲンショウを意味するGECOと刻まれていた。ソ連はカチン事件をドイツ軍になすりつける口実にこの弾丸を使ったが、すぐに底が割れてしまう。というのも、第一次大戦後に軍縮で不況をかこったゲンショウ社が、この弾丸をさかんに、ソ連、バルト三国、ポーランドなどに輸出していたのだ。
 いっぱいになった墓穴には土がかけられ、松の苗木が植えられた。その樹齢で埋葬時期が科学的に推定され、ドイツ軍占領以前の一九四〇年春ころが特定され、NKVDの犯行を裏付けた。処刑されることを知って、捕虜が最後の抵抗をしたことは、遺体の状態から想像に難くない。後ろ手を縄で縛られ、それが首にまわされ、暴れると首が絞まるようになっていた。また将校用長外套をまくりあげて頭上で縛ってある遺体も、抵抗したからと推測される。口におが屑やぼろ切れが詰められた遺体もあった。使われた縄はあらかじめ一定の長さに切り揃えてあってソ連製だった。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169~170ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

 

 ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる。人質は、大方はもう長いこと収容所に入れられていた。彼らが人質だったことは、彼ら自身にも収容所指導部にもわかっていなかった。
 やがて、突然、保安防諜部だか国家保安本部だかからの命令を伝える電報が一通きた。それには、以下の抑留者を人質として、銃殺もしくは絞首刑にせよ、とあった。数時間のうちには、その完了を報告しなければならなかった。該当者は、その作業場から連れもどされ、また点呼によってえらび出され、処刑場に連れて行かれた。
 すでに長らく抑留されていた者たちの多くは、そのときすでにその決定を知り、少なくとも何が彼らを待ちうけているかを予感していた。処刑場で処刑命令が下された。
 初めの時期、一九四〇~四一年ごろには、彼らは部隊の処刑司令部によって、銃殺に処せられた。後になると、絞首刑にされたり、一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり、また、病院で寝たきりの病人なら注射で殺されたりした。
     (ルドルフ・へス 『アウシュヴィッツ収容所』 サイマル出版会 1972 108ページ)

 

 

 1939年9月、まずドイツがポーランドに侵攻し、続いてソ連がポーランドの東半分を占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書の取り決めに従い、両国はポーランドを侵略し分割したのであった。

 ドイツによる占領においても、ソ連による占領においても、ポーランド人への取り扱いは過酷を極め、ソ連による「カチンの虐殺」もその一端に過ぎない(註:1)。

 カチンでソ連が用いたのは、

 

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

 

という手法であったが、これは親衛隊あるいはゲシュタポも採用したナチスにとっても重要な殺害手段のひとつであった。

 「ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる」との限定が付されたアウシュヴィッツ収容所長ヘスの証言にも、「一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり」との記述がある通りである(ここで「小銃」と訳されている語は、「拳銃」を意味していたのではないだろうか)。

 また、その手法は、そもそもはソ連における粛清の歴史の中で、国内向けに用いられ洗練されて来たものなのである。再確認すれば、

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。

との構図(「拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった」)である。引用中に登場するブローヒン少佐は、「一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」(同書「訳者あとがき」)ような人物であり、ソ連の国民を処刑することにおいて既に豊富な経験を持っていた(そのブローヒンが「手練れの処刑人一二五人」を指揮していたことは、NKVDは既にそれだけ―実際にはそれ以上であろう―の人数の「拳銃による処刑」の専門家を擁していたことを示す)。つまり、ポーランド人は、最初の犠牲者ではない。

 

 

 あらためてソ連の捕虜となったポーランド人の運命について確認しておくと、

 

 三収容所の約一万五五〇〇人の捕虜は、カチンをふくめて後述するように銃殺される。くわえてウクライナ、ベロルシアで七〇〇〇人の将校捕虜が銃殺された。その他に三九年秋にドイツ軍に引き渡されたり、移送途中や、強制労働収容所で死んだ捕虜は一三万三〇〇〇人と推定される。これを合わせると一五万五〇〇〇人のポーランド人捕虜がソ連で犠牲になったと推定されている。
     (『カチンの森』 160ページ)

 この三収容所の収容者は一万四八五六人、そのうち三九五人はなんらかの理由で他の収容所へ移され、その多くが九死に一生を得た。残りの一万四四六一人(一九五九年三月にNKVDの後身KGB議長シェレーピンはフルシチョフに、一万四五五二人とする覚書を送っている。いずれにしても、カチン関連の数字は末尾一桁まで出ているのがいくつもあるが、どれが真実かわからない。ただ真実に近い)とウクライナ、ベロルシアのNKVD監獄に収監されていた約七〇〇〇人の将校たち、合わせて約二万二〇〇〇人が、一九四〇年四月から五月にかけてNKVDによって銃殺された。
     (『カチンの森』 161ページ)

 

つまり、カチン関連でのポーランド人犠牲者数は約2万2000人。全体では15万5000人ということになる。

 

 ザスラフスキーによれば、

 

  一九三九年終わりまでに、ソ連占領地域のポーランド将校は根こそぎ逮捕された。特別命令で、下士官とオサドニツィは将校と同等とみなされ、収容所に拘禁された。逮捕された将校の一部だけが職業軍人で、大多数は予備役だった。かれらはポーランド軍に動員されたばかりでソ連の手に落ちた新聞記者、大学教授、医師、弁護士、技師、芸術家たちである。
     (前掲書 24ページ)

 

とある通り、ポーランドの予備役将校を構成するのは、そのままポーランドの知識人階級であり、カチンでのポーランド将校殺害は、ポーランド知識人の殺害を意味してもいるのである。

 ここでは知識人が、反ソ抵抗運動の中核となることが予期され、その防止策としての殺害が実行されたのである。ザスラフスキーの『カチンの森』の日本語版サブタイトルは「ポーランド指導者階級の抹殺」であり、イタリア語で書かれた原著のタイトルは『階級浄化―カチンの虐殺』である。「虐殺」のターゲットとなったのが特定の階層のポーランド人であった事実を反映した表題である。

 

 その発想はナチスにも共有され、ポーランド知識人はドイツに占領された地域では、アインザッツグルッペン(「特別行動部隊」などと訳される占領地での「敵性分子」の殺害に特化した部隊)による殺害対象の中核とされたのであった。

 ここで(いささかの手抜きではあるが、内容的に妥当と思われるので)『ウィキペデイア』の「アインザッツグルッペン」の項から引用すると、

 

 対ポーランド戦争に際してもポーランド占領をしやすくするためにアインザッツグルッペンが再度組織された。ハイドリヒは1939年9月21日にアインザッツグルッペンの指揮官たちを前に「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」などと訓示している。
 ポーランドのアインザッツグルッペンは、1隊・2隊・3隊・4隊・5隊・6隊・「フォン・ヴォイルシュ」隊の7隊により構成され、それぞれの隊の下にアインザッツコマンドが複数ずつ置かれた。ポーランド戦の際のアインザッツグルッペンの総員は2700名であった。それぞれ陸軍14軍、陸軍10軍、陸軍8軍、陸軍4軍、陸軍3軍、南部軍集団の進撃を後ろから付いて行って銃殺活動を行った。「フォン・ヴォイルシュ」は軍に付随せず、ドイツとポーランドの国境付近において銃殺活動を行った。
 ポーランド戦の際にアインザッツグルッペンの銃殺活動の対象にされたのは主に教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層、またユダヤ人、ロマなどであった。1939年9月1日から10月25日にかけてドイツ占領下のポーランドでは民間人16,000人以上が殺害されたが、そのうち四割がアインザッツグルッペンによるものとされる。
     (2011/09/04 閲覧時の記述)

 

と記されている通りである。ラインハルト・ハイドリヒは「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」と訓示し、部隊はポーランドの指導者層・知識人層の絶滅を実行した。

 

 

 ナチス・ドイツとソ連の両全体主義体制の発想と手法の共通性、そしてその犯罪性を考える際に、この「カチンの虐殺」は一つの象徴的事件と言えるだろう。

 

 米英は、カチンにおけるソ連の行為を知りながら、対枢軸戦争での勝利を優先し、連合国の一員となったソ連(1941年6月、ヒトラーのドイツがソ連との不可侵条約を破棄し対ソ戦争を開始したことにより、ソ連はヒトラーの側から連合国の側へと転換していた)に迎合し、ソ連によるポーランド人将校虐殺を不問にしたのであった。

 ポーランド人は、米英の政治的リアリズムによってもカチンの墓穴深く葬り去られ、忘れ去られようとしたわけである。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 2」に続く)

 

【註:1】

 ポーランドの戦争補償局の報告(一九四七年)によれば、戦争中の死者は、実に戦前の人口の約五人に一人、六〇二万八〇〇〇人にのぼった。そのうち戦闘行為による戦死者は軍人・民間人を合せて六四万四〇〇〇人で、残りの五三八万四〇〇〇人が根絶政策に従って意図的に虐殺された。
 この中には二七〇万のユダヤ系ポーランド人が含まれている。戦前のユダヤ人人口は三三〇万人であったのだから、死を免れたユダヤ人はわずかに六〇万人ということになる。ユダヤ系ポーランド人を含めてポーランド国民はまさに絶滅の淵に立たされていた。
 一方、赤軍の占領下にあったポーランド人も、決して安全であったわけではない。ヒトラーが「占領者の権利」に基いてポーランドの領土を処置したのに対し、スターリンは、民族自決という一見民主的な手段を講じてほぼカーゾン線から東にあたるこの地域をソ連邦に併合した。つまりソ連政府は、独ソ秘密協定に従って、ヴィルノ地方をリトアニアに割譲したあと、残余の地域に二つの国民会議を創設させ、これにソ連邦への編入を宣言させたのである。ここでもロシア中央部に強制的に移されたポーランド人は一五〇万人にのぼったという。
     (山本俊朗・井内敏夫 『ポーランド民族の歴史』 三省堂選書 1980  187~189ページ)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/04 19:11 → https://www.freeml.com/bl/316274/170440/

 

 

 

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2018年12月27日 (木)

明治の悪童と修身 (『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』)

 

 古本の価値というのは様々だと思うが、かつての持ち主の書き込みを読むという楽しみもある。もっとも、最近の出版物(出版後10数年程度)であれば、新本でないがゆえの安価な入手法としての古書店利用もあり、その場合は当然ながら書き込みのないものを選ぶ。

 しかし、戦後復興期以前の出版物となると、書き込みの内容から、当時の読者の関心のあり方を読み取るという楽しみ方もあり、あえて書き込みのある古書に手を出すこともある。

 

 今回は、古書市で手に入れた、落書き炸裂の明治期の修身教科書の紹介である。

 

 

 

 三宅米吉 中根淑 校閲 渡邊政吉 編纂 『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』 (明治廿七年一月十六日 文部省檢定済) 東京 金港堂書籍會社 明治廿六年(1893)  定價 金七銭

 

 2015年に、改装前の立川フロム中武の古書市で購入。価は500円であった。

 

 

 

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(表紙)

 

 表紙を一瞥して、特徴ある筆法(いわゆる「ひげ題目」系)から、日蓮宗関係の書かと思いきや、そうではなかった。修身の教科書!

 

 

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(見返し)

 

 こちらも、タイトル部分は日蓮宗的筆法が加えられている(持ち主の生家が日蓮宗、という生育環境の反映か?)。

 肖像が誰のものかは、教養が足りず、不分明。筆描きの肖像の上方には、鉛筆描きによる富士山がある。題目風にあらためられたタイトルの下方には、「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字もある。

 

 これだけでも、なんとも豪快な修身教科書への落書きだが、本文については至って真面目で、鉛筆による漢字表記への振り仮名が付されている程度である。

 

 

 そして…

 

 

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(奥付、裏表紙の見返し)

 

 裏表紙側の見返しに描かれているのは、さらに豪快で怪異な西郷従道の肖像であった。やたら長い足に、股間からは謎の生物(?)の姿。

 ちなみに、従道は、

 

  さいごうつぐみち【西郷従道】
  1843‐1902(天保14‐明治35)
  明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。薩摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山県有朋とともに兵制研究のため渡欧(プロイセン,フランス,ロシア)し,帰国後兵部権大丞陸軍少将,兵部少輔,陸軍少輔,同大輔に進む。74年陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ,政府の中止命令をおして台湾へ出兵した。76年征台の功により最初の勲一等に叙せられる。78年参議兼文部卿次いで陸軍卿に就任し,81年農商務卿,84年伯爵,そして85年内閣制の成立を機に海軍大臣となった。
     (平凡社/世界大百科事典 第2版)

 

このような人物である。経歴を反映して、落書上でも当初記された「陸」の字が消され(そのままでは「陸」軍大将)、従道の肩書は「海軍大将」に換えられている(背景には軍艦)。

 怪異な肖像が描かれた当時(従道は第二次伊藤内閣で海軍大臣に任じられていた)、すなわち明治27(1894)年は日清戦争の年でもある。先の「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字も、そのような時代の空気を反映したものであろうか。

 

 

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(見返しの裏)

 

 先の西郷従道の肖像は、見返しの上に描かれていたものだが、見返し紙は貼られた裏表紙の裏からはがされ、裏表紙の裏には鉛筆画が描かれている。「徳川時代風俗」、ということらしい。

 まだ明治20年代の話なので、「徳川時代」は持ち主の父母の生まれた時代である(たかだか20数年前まで「徳川時代」が続いていたのである―もっとも、描かれているのは徳川時代初期をイメージさせる戦闘モードの武将の姿であるが)。

 

 

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(裏表紙)

 

 持ち主の名が記されている。この奔放豪快な落書きの作者は、当人の署名により、小川八郎君と判明。生年は明治10年代、1885年前後であろうか(19世紀の話なのだ)。

 裏表紙には、日清戦争らしき戦場が描かれている(まさに日清戦争最中の小川八郎君の高揚感が伝わる)。しかし、なぜか、戦場の手前を走るのは、軍服姿の帝國軍人ではなく、烏帽子姿の人物である(八郎君の想像力上の必然から生まれた表現であろうが、21世紀の私の想像力は、その「必然」に届かない)。

 

 

 「大日帝國」は日清戦争で勝利し、日露戦争で勝利し、第一次世界大戦でも勝者の側にあったが、支那事変以来の大東亞戦争では敗者となる。昭和20年には還暦前後となっていた小川八郎氏は、どのような老人(かつての日本では60歳は既に立派な老人である)となっていたであろうか? 「大日帝國」の近代をどのように経験したのであろうか?

 

 

 

 『日本修身書巻八』の第十七課では、以下のように説かれている。

 

 

  人の質性は、生まれながらにして、完備せるはなし。されば、人皆自ら其の身の長ずる所と、短なる所とを知り、其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ、其の短なる所を養ひて、漸く長ぜしめんことを務めざるべからず。斯くの如くするを、自ら其の身を修むといふ。自ら其の身を修むるは、何人にも極めて大切なり。人としては、多少父母教師の教へを受けざるものもなかるべければ、自修の心なくとも、無下に愚かなるものともならざるべし。されども、自修の心なきときは、父母教師の教へも、深く其の心に入らざるべければ、其の人に取りて、大いなる損なり。
     (第十七課 「修養」から抜き書き)

 

 

 この豪快に落書き(むしろ「落描き」と呼ぶべきか?)された修身教科書から、小川八郎少年は何を学び取ったのであろうか? この奔放豪快さを八郎少年の「身の長ずる所」として理解し、「其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ」ようとした高等小學校教師との出会いはあったであろうか?

 

 

 

(小川八郎少年は、学校での修身の授業の度に、教室でこの教科書を開いていたのであろうか? とすれば相当な悪童である。 それとも進級して用済みになってから、教科書を落書帳へと転用したのであろうか? 本文ページが無事なところからすると、落書帳転用説も弱い。 やはり悪童説が妥当なのであろうか?)

 

 

 

 

 

((オリジナルは、投稿日時 : 2018/12/27 13:02 → https://www.freeml.com/bl/316274/323029/

 

 

 

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2018年11月24日 (土)

無事なりし吾家の火鉢囲みけり (徳川夢声と昭和19年11月24日の空襲)

 

 

 昭和19(1944)年11月24日から、東京はB-29による空襲のターゲットとなった。同年7月にサイパンが陥落し米軍の占領地域となったことで、ついに東京はB-29の航続距離圏内に入り、米軍による航空基地の整備、部隊の訓練等を経て、11月24日の空襲に至ったのである。

 山田風太郎は、当日の経験を日記に記している(「プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」から再録)。

 

  ついウトウトと眠ってしまった。ふと眼を醒ますと、拡声器が、
「空襲警報発令! 空襲警報発令!」
と叫び出したので愕然となる。横浜駅であった。プラットフォームも車内もいっせいに騒然となり出した。
「なつかしの東京に、とんでもないことが待っていたなあ」
と、だれもが笑う。みな生き生きと嬉しげな顔になる。
  ただちに武装し、車窓の青幕を引いてそのまま発車する。
  川崎駅に入るや、全員退避の命令が下った。自分達も一般乗客も、デッキから構内へばらばらと飛び下りて、駅前の広場へ逃げ走る。プラットフォームではないので、一メートル余りの高さを飛び下りる女の中には、足を挫いて倒れる者もある。
     (山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 ちくま文庫 1998  535ページ)

 

 これが当時、東京医学専門学校の学生であった山田風太郎の昭和19年11月24日の日記である。

 11月21日から富士山の裾野での軍事演習に参加した医学生達が東京へ到着しようとする時に、空襲警報の発令にあい、川崎駅で下車して駅近くの防空壕で警報解除までの時間を過ごす。そして…

 

  一時間半もたって、ようやく入口から這い出すことを許された。空は灰色の雲に覆われ、もう砲声も爆音も聞えない。
  満員電車に乗ってやっと品川に着き、山ノ手線で新宿に帰る。空襲警報は解除になったが、乗客はむろん何となく殺気立っている。がやがやと話し声は聞えるが、べつに今の空襲について話しているわけではないらしい。無意味なる騒音、沈痛なる動揺――といった態である。
  すると、五反田から乗り込んできた二十二、三歳の工員風の男が二人、突然溜息を吐いて、
「おい、凄かったなあ、おれ、飯が食えねえや!」
と、叫んだ。みなふりむいた。一人の紳士が、おずおずと、
「――何か――見て来たんですか?」
と、たずねた。工員は待っていたように、カン高い声でしゃべり出した。
  二人は荏原を通って来たのだそうで、そこの防空壕に入っていると、突然しゅうっという実にいやな音が聞え、つづいて、ゴーっという凄まじい地響きがした。しばらくたって這い出してみると、二、三百メートル向こうに黒煙が見えた。いってみると三十メートルくらいの大穴が地にひらいて――「五十メートルはあったよ」と一人が訂正する――家は吹き飛ばされ、なぎ倒され、崩れおち、近傍の屋根瓦や戸障子やガラスなどが恐ろしい惨状をえがき出して――人はむろん死んでいた。防空壕の中で十数人全員即死したものもあり、身体の表面に傷は見えないのに真っ白になって死んでいるのもあり、幼児など石垣に叩きつけられてペシャンコになり、――
「病院へもいってみましたが、実に何ともむごたらしいかぎりでさあ。おら、腰がぬけちまった。顔の半分なくなったのが、口をあけてうなってるんですからね。たいてい女です。子供はわあわあ泣いている。――工場に主人の出た留守、一家全滅したのもあるそうです……おれ、今夜飯が食えねえや、……」
 一人がはっと気づいて眼で知らせながら、
「おい、あんまりしゃべらねえ方がいいぜ」
と注意した。
  二人は急に沈黙したが、また昂奮を抑えきれないらしく、蒼いカン走った声で「おら、飯が食えねえや」を繰り返しはじめる。――
  ○五時前に帰校。ただちに解散。
  下宿に帰ると、部屋のガラス窓はみななずされ、まるで暴風の一過したあとのようだ。しかし、こちらは全然何事もなかったということであった。やがて警戒警報解除となる。
  夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい。
          (539~541ページ)

 

 

 日記には「夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい」とあるが、市街地である「荏原附近」が本来の攻撃目標であったわけではない。

 本来の攻撃目標は、市街地ではなく、軍事的価値をもつ武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」収録記事も参照)であった。米軍は当初から都市無差別爆撃を志向していたわけではなく、高高度からの軍事目標への精密爆撃を戦術の基本としてはいたのである。ただし、それが達せられなかった場合の市街地爆撃も作戦計画には組み込まれていたのであり、市街地への爆撃が軍の指示から逸脱したものであったわけではない。その後も軍事目標への爆撃の価値が失われることはなかったが、翌年3月10日以降、市街地への無差別爆撃への躊躇は失われることになる。

 

 

 当時の日記類にも、空襲の経験は様々に記されているが、今回は徳川無声の日記を読んでみたい。11月24日の(そしてそれに続く)東京への空襲が、徳川夢声にはどのような経験であったのか。

 実は、夢声は11月24日には東京にいなかった。その時期は、苦楽座の一員として産業戦士慰問の地方巡業公演中であったのである。24日は、福井の小松日本館での公演をこなしていた(ただし「昼夜トモ不入リ」であったが「閉場後、館主ノ宅ニ招待サレ、鶏すき、酒ナド大御馳走。大損ヲサセタ上、甚ダ気ノ毒ナリ」と記されている)。

 空襲については翌25日の日記に、

 

  小松駅の売店で新聞を買う。出ている!
  ――B29八十機帝都空襲!
  やっぱり来やがったな、と思う。大した感動もない。なんだか「〆たッ」という気持ちもする。うれしいという感じとよく似た心境である。
  杉並区の吾家は如何? 妻は如何? 子供は如何? などチラチラ考えてみるが、あまりピンと来ない。坊やの姿だけが一番ハッキリ浮かぶ。
  ――なァに、私の家は大丈夫さ。
  心の底にはこの観念が納まっている。
  だが万一の事吾家にあった時、私という男が、如何に狼狽てるか、また狼狽てないか、まるで予測がつかない。遅かれ早かれ、東京が半分くらいになるのであろうが、それはまたその時のこと。
     (徳川夢声 『夢声戦争日記(五) 昭和十九年(下)』 中公文庫 1977  231ページ)

 

このように登場するが、自宅近辺の状況は(それだけでなく東京の状況も)、報道からはわからないのである。東京への空襲も、情報のない中、遠く離れた巡業先の夢声には切実な問題とはなっていない。夢声にとって切実であった(11月30日付日記)のは靴の盗難被害(これで三回目)であった(戦時下生活での靴の盗難被害は珍しいものではなかった)。

 

 

 12月1日の日記に、岐阜へ向かう車中で出会った東京からの避難者が登場する。

 

  二十九日夜(一昨夜ナリ)の東京爆撃に出っくわしたという女たちが、途中駅から乗り込んできた。東京を出発するまで、生きた気はしなかったと言う。
  ――日本橋、小石川、神田など酷くやられたらしい。
  ――夜通し火の手が上がっていたそうだ。
  だんだん話を聞いているうちに、これは大変だと思い出した。一刻も早く東京へ帰らねばならんと思う。女たちはそれぞれ子供をつれていて、これから大阪へ行くのだが、その大阪も今度はイカれるだろうと話していた。
  丸山ガンさんにその話をしたら、
「なアに、女のハナシには誇張がありますからね」
  と至極落ちついている。ガンさんは既に、郊外にある三好十郎の家に疎開し、夫婦二人きりで子供もない。なるほど、立場が違うと、Aにとっての一大事も、Bにとっては一向平気なわけだ。
  杉並の家で、水のある防空壕を、坊やが出たり入ったりする幻がチラついてならないのである。
     (244~245ページ)

 

 

 空襲が切実なものに感じられるようになった夢声は、「一日も早く東京へ帰って、家族と苦を共にすべきである」との思いを抱くようになる。しかし、

 

  宿へ帰ってから、同人の顔の揃ったところで、
「どうも東京空襲は容易ならんものらしい。私は九州行を御免こうむりたい」
  と申し出た。一大決意をもって申し出たつもりだった。すると高山君が、馬鹿に静かな声で、
「あなたが行かないという事は、この旅を中止するということになりますなあ」
  と言った。
「なにも中止するには当たらないでしょう。私一人だけぬけるんですから……」
「しかし、兵器廠との契約に、あなたの名が含まれていますから……」
  私が行かないと、契約を破ることになると言う。
「どうぞこの通りです。苦楽座同人に対する愛情を、何とか持ってもらえませんか? ねえ、お願いします」
  と丸山定夫君が、畳に両手をついて、華々しく頭を下げた。そして、結局私は、九州まで行くことにされてしまった。
  だらしがない! まったく吾ながらダラシがない! こんなことなら初めから帰京するなんて、言い出さない方が好かった。
     (246ページ 12月2日の条)

 

 

 この後の数日は、日記に帰京の話は記されていないが、もちろん、心の底では東京の家族のことを気にかけ続けていたはずである。

 

  美濃の山河を車窓から見つつ、人間は常に死と直面せることを思う。なにも空襲時に限ったことではない。いつ心臓の故障で斃れるか、いつ屋根瓦が落ちて昏倒するか、分かったものではない。空襲があるからと言って、急に狼狽てるのは、甚だ愚である。常時と同じ気もちで、私は旅を続ければ好い訳だ。死はいつも眼前にあり、同時に生も遥かに彼方のものである。
     (248ページ 12月4日の条)

 

 12月4日には、自らに言い聞かせるように、日記にこのように書きつける。しかし、いつか自身に訪れる死への覚悟を記すことで、離れた東京で空襲下にある家族の身の上への心配が霧消するわけでもないだろう。

 

  武蔵野工場(中島飛行機)が爆撃され、学徒が沢山死んだという事は本当らしい。浅野院長、副院長、看護婦たちはどうしたろうかしら。これが荻窪工場だったら、私もじっとしていられない訳だ。何しろ早く東京へ帰りたい。
  松沢病院に爆弾が落ちたという、昨日車中で聴いた情報は、まだ疑わしい。
     (252ページ 12月6日の条)

 

いろいろな噂が耳に入り、あらためて「何しろ早く東京へ帰りたい」と思う。

 

 そして12月7日、倉敷で妻からの速達を受け取る。千秋座前にの事務所で受け取った手紙を、夢声は座員と共に訪れた美術館の中で読む(「ゴーガン、モネ、ゴッホを前に、ミレー、シャバヌ、モローを背に、大ソファの上で、改めて静枝の手紙を読む」)。

 

  毎日毎日手紙を書こうと思いながら、先月の空襲以来、午前十一時になると敵機の来る時間なので、早めにご飯やら色々の支度。午後三時頃になると少しはおちつき、又夜は十一時頃より心配が始まり、まったくおちつきません。
  何しろ敵機が来る度に杉並、それも荻窪近くときて、中島(註 中島飛行機荻窪工場、田無工場、小金井工場トアリ)はそのたんび。田無は一番ひどく、大分の死人です。荻窪も宮田さん(註は略)の近所に先日は五個ぐらい落ち若杉小学校(註 愚息ノ通学シタ校)はいつもねらわれて、三日の時は家のそばのフミキリの家に落ち、親子二人生き埋めになり大変でした。それから八幡様のそばにも落ち、四、五人生き埋めで死んだ人もあります。
  折角でき上った陸橋の真中にもバクダンが落ち、線路にも落ち、中央線二日間不通、歩いて通う人、田舎に逃げる人で、大晦日の銀座通りの様でした。
  今日はやっと静かになりましたが、何しろこれだけバクダンが落ちる間の気持ち、ゴー(壕)の屋根の不完全さに、地ひびきや色々の音で、中に居た者は皆、生きた気持ちもありません。今度は家に落ちたかと、あと見廻るのも大変です。でも裕彦さん(長女俊子ノ夫)も質屋さんもみまわってくれますし、ことに質屋さん(註は略)はよく来てくれるので、其時はほっとします。
  一雄の学校も休みになり、時々は様子により出かけます。でも今まで皆が無事なのはほんとに結構と思います。
  一日中何もできず、そわそわと暮らします。杉並も荻窪もこんなに危険とはいがいでした。
  子供たちもビクビク閉口しています。夜の時も雨は降るし、洩るし、心細いこと此上もありませんでした。私だけはゴーにも入らず外にいましたが、質屋連のおかげで少しは心丈夫でした。
  空は真赤になるし、新宿あたりかと思いましたが、神田と日本橋でした。神田は千戸くらい、死人は大変だそうです。日本橋は白木の裏、阿野さんの事務所はやっと一廓のこったそうです。それで家でも急に、茶間の前に、裕彦さんと質屋さんに、丈夫なゴーを掘ってもらってます。石田さん(私のマネージャー)は三日の夜、荻窪がなくなったと言われビックリして見舞にきてくれました。今日(五日)は小島、丸山、吉井アン氏など三人きてくれ、丸山さんは旅から帰ったばかり。吉井さんは今晩と明日はゴーの手つだいをしてくれる事になっています。
  頭山(註 妻の妹の嫁ぎ先)でも心配して近所にいる富岡氏と尾形氏を見舞によこしてくれました。是非、田舎に家をかりるよう言ってます。私も、一坊、俊子、明子くらいは田舎にやる様にしなければいけないと思っています。
  何しろ地ひびきがダンダン近くなり、ガンガンいう音を聞くと、手足まといはまったく気になります。
  一日も早く帰られる事を一同まっています。
  飯田の母上は其上かるい中風になり、寝ているので閉口でしたが、空襲でびっくりして起きられたそうです。原宿駅前東郷神社にも落ちたそうです。
  そろそろお時間になりますから、これで。
     (254~256ページ 〔妻の書簡〕)

 

 千秋座前の事務所での開封直後にも、「自宅の近く踏切番親子が生埋めになったとあっては、もう少しで私の家の者が生埋めになるところだった事を意味する」と夢声は事態を理解した(註:1)が、

 

  さて、この手紙を改めて、大原美術館の名画に囲まれて、静かに読んでみた。大変だ大変だという気もちがだんだん真物になり、何か斯う血の気の下がる思いである。

 

美術館のソファの上での思いの深まりを記している。しかし、

 

  劇場昼の部、漫談が終わって「無法松」を開幕しようとするや地震あり。水平動であるが永い地震である。停電となる。客席から催促の喝采に私の心は甚だ落ちつかない。斯うなると、東京の空襲よりも何よりも、さしあたり早く電気がくれば好いと、そればかりが気になる。
  人間の感覚というもの、眼をつむれば富士山も見えないように出来ているから仕方がない。他人の首が切られるより、自分が針で刺される方が痛いのである。東京のことをケロリ忘れている時間を、自分ながら妙なものと思う。
     (256ページ)

 

夢声は劇場で昭和東南海地震(マグニチュード7.9、最大震度6)に遭遇するのである。「東京のことをケロリ忘れている時間」を味わうことになった。

 

 しかし、もちろん、「何しろ早く東京へ帰りたい」という思いが失われることはない、のだが…

 

  家が爆撃されたのならとにかく、近所に爆弾が落ちたでは、工場の慰問を捨てて、東京に帰る理由にはならん、と徳衛門氏は言う。だから帰るというなら私が病気をしたという事にしよう、そんなら言いわけは立つ、と彼は言う。爆弾が落ちてからではなんにもならん、落ちそうだから帰るのである。然し、慰問する相手が軍需工場の戦士たちである。この方は公事であり、吾家の方は私事である。入場料をとる興業ならまた話は別であるが、どうもこいつは私だけ一座からぬけるという訳に行きにくい。
  一方中坪の方では、委細構わず私の切符も買って了い、うやむやのうちに私を小倉に送り込む手配をしている。
  えーい、仕方がない、と諦めた。
     (257ページ 12月8日の条)

 

との次第で「えーい、仕方がない、と諦め」るのである。

 「諦め」ながらも、

 

  寒い寒い、足首の所が殊に冷える。ねむいので眼をつむると、寒さが肩の辺から水のように浸みこんでくる。吾家のことを想う。坊やを疎開させねばと思う。この正月は定めし厭な正月だろうと想う。俊子が赤ン坊を産んでも、空襲つづきでは母乳が止りはしないかと思う。東京の半分が無くなった時、私たちの家にも他人が強請的に割り込んで来るだろう。家庭生活なんて目茶目茶だと想う。インフレまたインフレで、いくら稼いでも始まらない事になりそうだと想う。
  この数日来めっきり悪くなった歯で、ポロポロの握り飯をムニャつきつつ、しみじみ味気なくなる。あれを想いこれを想いしているうち、――戦争はイヤだなア、と心の中で言う。馬鹿! 貴様は日本人か! と自分を叱る。
  敗戦は無論イヤである。然し、戦争も別にヨクはない。
     (258ページ 12月9日の条)

 

このような「想い」を書き連ねる(「反戦」というよりは「厭戦」の気分であろう)。同じ日、

 

  人間の思想斯の如し、平静なる時、興奮せる時、悄然たる時、同じ人間が同じ日の中に、幾度か変転する。一椀の飯、一杯の酒、寒暖五度の差よく思想を左右する。
  平静なる時の思想を当人の思想とすべきか、あらゆる場合の最大公約数を当人の思想とすべきか?
     (259ページ 12月9日の条)

 

このように自らを突き放してもみる。夢声の想いは、日々「変転」を続ける。

 

  小倉の街、何所を歩いても雑然たる感じ。イヤな街である。取片づけてない疎開の跡、空爆の跡、凸凹の道、加うるに寒気凛冽とくる。
  然し、あれほど目茶目茶に空爆された噂のある小倉が、この程度で、市民は平気で住んでいるという点が、私の心もちを楽にしてくれた。なアに東京だって斯の通り、少々の爆撃では平気で暮らせるに違いないと思う。
  工廠と産報の仕事とあっては、私も諦めて約束の十七日までは仕方があるまいと決心する。
  それに、私の家の近所が酷くやられたという事は、次の空爆には安全だという気がする。そう一つところがやられる筈はないという気がする。一度やられた町は、即ち敵の狙ったところというなら話はまた別になるが、盲爆であるなら、一度落ちた近所にはもう落ちないと見て宜しかろう。
     (259~260ページ 12月10日の条)

 

 既に空襲下となっていた小倉(翌日の夜には夢声も離れた場所での空襲を経験する)の街の姿を前に、「なアに東京だって斯の通り、少々の爆撃では平気で暮らせるに違いない」という気持になり(そのように自身に言い聞かせ)、「工廠と産報の仕事」であることと併せ、「私も諦めて約束の十七日までは仕方があるまいと決心する」のであった。

 

 

 こうして、座員への昼食の用意もないようなトラブル(一方で、終演後に館主・主催者等による「御馳走」を堪能する機会も多かったが)も起きる中、風船爆弾工場への動員学徒の慰問も経験しながら、12月20日過ぎまで九州での巡業を続けることになる。

 

  これで三日昼飯でもめている。今日は皆が混ぜ御飯の握り飯にありついたのが後二時頃である。元来今日は三方から昼飯が出る事になっていた。昨夜のうち中坪が交渉しておいた劇場での炊出し一ツ、平林老の自腹によるもの一つ(三十人前と称す)、工廠の方から支給されるもの一つ、これだけある話であった。それが平林老提供と称するものが、劇場の米一升五合を用いたものであり、工廠の分は十二時迄に取りに行かなかったから分けてしまったという返事である。工廠の役人から取りに行けと言われたのが十二時四十分過ぎであったから、十二時前に行ける訳がない。
  要するに、金儲け主義のインチキ興行師や、ブローカーや、二重にも三重にも絡んでいるところへ、工廠が絡んだり、警察が絡んだり(産報関係)で、結局一本筋の責任者がいないせいであろう。
  私と釜さんは今日も工廠で昼飯を喰ったから好いようなものの、他の座員はこれで三日続いて昼飯で苦しんでいる訳である。自分の腹は一杯でも、斯ういうゴタゴタを聴かされると、こちらも苦労になる、実に馬鹿馬鹿しい話。
     (262ページ 12月12日の条)

 

  今日もまた昼飯問題でヤッサモッサ、今は既に午後三時、まだ昼飯が来ない。飯々々で大騒ぎを、ベニヤ板一枚の隣室に聴かれて了う。そこには田舎廻りの劇団がトヤをしているらしく先刻も本読みが聴こえていた。田舎廻りの劇団は定めし、東京の最紳士劇団の文句を聴いて呆れているに違いない。
  やっと運搬された工廠よりの昼飯、飯の分量は充分だが副食物が菜葉の煮つけ、この食事のためあの大騒ぎと思えば苦笑ものである。あとで聴くと、私たちは早すぎたので、豆腐の煮たのと、沢庵の山盛りにありつけなかったのだそうだ。
     (264~265ページ 12月13日の条)

 

「昼飯問題」に翻弄されながらの産業戦士慰問巡業であった。「金儲け主義のインチキ興行師や、ブローカーや、二重にも三重にも絡んでいる」のは劇団の地方巡業の常でもあったろうが、戦時日本であればこそ、そこに「工廠が絡んだり、警察が絡んだり(産報関係)」と事態はより複雑化することになる。しかもそこに「結局一本筋の責任者がいない」という戦時統制の典型的症状が見出される。

 

 巡業も終盤を迎える中で、帰京の算段をするが鉄道は不通、郵便も電信も不通である。あらためて家族への募る想いが湧き上る。

 

  東海道線豊橋静岡間が未だに不通であるという。十八日には私が東海道線で帰京する訳だが、徒歩連絡などありとすると、あの重いスーツは困る。中央線でも迂回して帰るか、どうするか。現在は郵便も電信も不通だという。事によると東京から何か急の報せがありながら、こちらに届いていないのかとも疑われる。東京へ帰ってみると、吾家に大惨害があったら、など想像する。

  釜サント語ル――荻窪ノ家爆撃サレテ、私一人生キ残ッタ場合如何ニスルカ? 自殺スルカモ知レント私ハ言ッタ。
     (265~266ページ 12月14日の条)

 

  尾形重蔵に扮する時肥衣を二枚つけるが、これは妻が私の注文に従って、素人らしく造ってくれたものだ。下に着けるのはシャツを加工したもので、やや型を成しているが、上に着けるのは、チャンチャンコのような、暖簾のような至極不細工なものである。然し、私はこの不細工なところに一種の涙ぐましさを感ずる。こんな亭主を持った為に、彼女もこんな不細工な作品を縫わなければならなかったのである。私はこれを着ける度毎に、いつも妻を懐かしくあわれに思い出す。

  遠く離れていて坊やを考える。何故日頃もっと坊やに優しくしなかったと悔いる。さて顔を見るとすぐ小言が言いたくなる。自分と坊やとあまりに性質が似ているせいなのであろう。自分に対しては腹の立つことが多いのであるか?
     (271~272ページ 12月17日の条)

 

 

 産業戦士慰問も最終日を迎えたはずが、

 

  ヤレヤレ今日一日勤めれば、明日は東京へ発てると、ほがらかになっていると、平林老楽屋に現れて、二十日迄是非とも頼むと言う。全くうんざりして了った。平林老は私が途中からぬける事を契約の際知らずにいたのである――言わば一杯喰わされた型なのである。間に入った興行師連が悪いのであって、私には責任が無い訳であるが、老の立場として見れば気の毒でもある。頼まれてみると、イヤどうあっても帰るとは、私として言えなくなる。私の家の近くに爆弾が落ちたところで、老にとってはなんでもない事である。思えばお互様で、老の妻君が先日、天ぷらを揚げていて顔に火傷をしたという話を聴いても、私としては何等感動しなかった。こっちの爆弾は先方の火傷である、即ち他人の歯痛は私の歯痛でない。
  これは結局、二十日迄勤めさせられる事になりそうだ。放送局の事などで嘘をつけば、老も強いてとは言えなくなるだろうが、ウソはつきたくない。してみれば、工廠の兵器戦士慰問という公事の前に、吾家の心配という私事は、犠牲にせねばならない。
  二日早く帰宅したところで、実は別にどうという事もない訳だ。東海道線は今だに不通、帰るとすれば、今のところ、信州を廻って、松沢の家へ行き疎開先を物色したりして、東京に帰るという段取になりそうだから、明日出発として二十一日か二十二日にならないと荻窪へは着かない。二十日迄いれば、或は東海道全通となるかもしれない、それなら二十二日には帰宅出来る。
  まア仕方がない。二日余計勤めたために、吾家が全滅となるという事もあるまい。一日も早く帰りたい事も事実だが、二日延びればそれだけイヤな天沼の防空壕から遠ざかる事でもある。
     (272~274ページ 12月18日の条)

 

「私事」より「公事」の優先を自身に言い聞かせるしかない。

 

 しかし、苦楽座のメンバーの「私事」にも戦時の苛烈さが滲み出る。

 

  丸サンの兄さんが死んだという電報が来た。これは正に丸サンにとっての一大事である。今年になって四人兄弟のうち二人の兄さんが死んでいる。今度死んだ兄さんには、未亡人の他に二人の幼児が遺された。この遺族の面倒を見なければならないらしい。然し、私はさのみ心痛はしない、いや全然心痛しないと言ってよろしい。気の毒だなアと意識の表面で軽く考えるだけだ。私の不幸も丸サンにとって同じことである。
     (276ページ 12月19日の条)

 

  昨日ハ丸山君ノ兄ノ死。今日ハ河原君ノ兄ノ死。輸送船ノ機関長ナリシト。
     (277ページ 12月20日の条)

 

 

 ようやく慰問巡業を終えての東京への列車は、乗客が窓から出入りするような超満員状態であった。

 

  いやはや何とも物凄い列車である。やりきれなくなって吾等三人は広島で下車した。八時間立ったままであった。時々便所に行く人があるが、皆泣きっ面になって、人と人をこじあけて通る。諦めて途中から引き返す老紳士もある。私は房総線で一度大失敗をしているので気が気ではない。もし尿意をもよおして来たら、人を掻き分けて行く途上で落城して了うであろう。万已むを得なければ、ズボンの中へ流し込みと覚悟をする。幸いにして車中がムンムンと熱いので辛うじて広島までもったが、出口を飛び出すと、前の防空広場で用をたした。
  血気盛んの水兵が悲鳴をあげるくらいだから、以ってその混みようが分ろう。中程の客は窓から出て行く。女が三人ほど窓から飛び込んで来た。
  立ち続けは宜しいとして、私の靴は借り物であるためギシギシである。それが血が下がって足が腫れてくるにつれ両足のつま先がシンシンと痛んで来る。尿の心配とこの痛みでは到底このあと名古屋まで行って、中央線に乗り換えて(都合二晩車中で過ごすことになる)などは思いもよらない。
  私は広島で一応降りる決心をする。釜さんは直ちに賛成する。釜さんは悲鳴をあげ通しである。
  愈々広島駅に着いて、洗面所に頑張っている高山君に、二人は此処で降りる由を言うと、たちどころに彼も降りると言う。それまでに打合せしていると好かったんだが、突然、沢山の荷物を持って降りることになったから、さア大変である。乗る客が黒山のように押しよせている。文字通り高山君は獅子奮迅、二つのリュックサックと、毛布の巻いたのと鞄とパンの箱と、何やかや両手に持って、滅多矢鱈に飛び出して来た。奇跡のような働きであった。釜さんの白いズック小鞄と、高山君のラクダの襟巻とが、紛失して了ったが、とにかくあの人間の密集激流を突破してよく出られたものだ。
  私にはとても斯んな勇敢な行動はとれない。三人のうちこの意味における弱虫は一番私であろう。
  この騒ぎで、前記の如く二人が品物を失った時、私は心の一部で快哉を叫んだ。こいつは誠にはや情けない性分であるが、何しろ私は、蟇口を盗られ、剃刀を失い(これは返るかもしれない)、靴を盗まれという始末の旅であったから、他人が何か失うことに、やれ俺だけではなかったぞよ、という慰めを感ずるのである。
     (280~282ページ 12月22日の条)

 

  立ッタリ、床ニ胡坐シタリ、九時間アマリ難行苦行。イヨイヨ旅ハ考エモノデアル。朝ニナリ一時間半ホド、若キ海軍士官ノオ蔭デ席ニツキ少シ眠ル。
  名古屋駅デ、窓ヨリ人間ガ降リタゴタクサニ、私ノボストンバックガ歩廊ニ出テソノママ発車トナル。中ニハシャボン、飴、豆、他人ノゲートルナド入ッテイタリ。
     (283ページ 12月24日の条)

 

 12月22日には「この騒ぎで、前記の如く二人が品物を失った時、私は心の一部で快哉を叫んだ」という夢声も、12月24日には「窓ヨリ人間ガ降リタゴタクサニ、私ノボストンバックガ歩廊ニ出テソノママ発車トナル」という羽目に陥る。

 

 

 「いやはや何とも物凄い列車」の乗客として数日を過ごしてやっと12月24日の夕刻、

 

  十七時頃帰宅。静枝ジンマシンで寝テイル。他ハ一同無事ナ姿ヲ見テ安心スル。目出度シ目出度シ。
     (284ページ)

 

このように帰宅を果たし、「今回の旅行に於ける得失」についての考察を記した上で、

  俊子が十五日に出産したそうだ。空襲の影響であろう、一カ月ほど早産であった。女の児で、母子共に健全だという。これで私も愈々祖父となった訳、人間としての、生物としての二歩前進をした訳である。
     (245ページ)

 

と、その日の日記を結んでいる。11月24日の空襲から1ヶ月が過ぎてのことであった。

 

 無事なりし吾家の火鉢囲みけり

 

 吾家の無事を確かめての一句である。

 

 

 

【註:1】
  B29八〇機編隊が午後〇時一五分、北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所、およびその付近に高高度より集中爆撃を行い、その後、六ないし八機の小編隊に分かれて荏原、品川、杉並の各区および東京港をそれぞれ攻撃する。
     (鈴木芳行 『首都防空網と〈空都〉多摩』 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー358 2012  156ページ)

 夢声の家族が経験したのが、この中の杉並への爆撃であった。

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/11/24 09:40 → https://www.freeml.com/bl/316274/322532/
 投稿日時 : 2018/11/24 09:44 → https://www.freeml.com/bl/316274/322533/

 

 

 

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2018年10月14日 (日)

グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1) 

 

 これまで、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、いわゆる戦前・戦中期の多摩・武蔵野地域の軍産複合地帯化状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」の記事参照)。

 

 今回は、あえて戦後(いわゆる「先の大戦」、すなわち大東亜戦争の敗戦後)の小平地域の経験を取り上げてみたい。小平地域ではその一部が自衛隊施設となったのを除き、その広大な土地は様々に転用され、戦時期には軍事施設の集中地帯であった姿は大きく変容を遂げることとなった(註:1)。しかし、一方で、隣接する立川地区の陸軍立川飛行場は米軍に接収され、米軍の立川基地として運用が続けられ、小平地域の上空は、立川基地の米軍用機の飛行コースとされていった。

 

 その中で、朝鮮戦争下の1953年6月18日、当時の最大の軍用輸送機であったC-124グローブマスターが、立川基地離陸直後に小平町内小川地区に墜落した。129人という、当時で最大の犠牲者数をもたらす墜落事故であった(註:2)。

 空軍基地の隣接地域であること、すなわち米軍の軍事施設の隣接地域であることが、地域住民にとってどのような意味を持つのか? 現在の小平地域の住民の多くは、沖縄の米軍基地問題、米軍機事故問題を他人事としてしか考えていないように思われるが、地域の歴史的経験を振り返ることで、現在の沖縄が決して他人の話ではないことを再確認する機会になればと思う。

 

 

 ここでは、まず、グローブマスター機墜落事故の目撃者の証言により構成されたドキュメンタリー動画を紹介することから始めたい。

 中央大学の学生の取材・制作による地域紹介番組シリーズ(「多摩探検隊」)の一本である(ケーブルテレビで放映され、動画サイトにも制作者自身によりアップされている)。

 ちなみに、動画サイトにある内容紹介文には以下のように記されている。

 

  1953年6月18日、米軍立川基地から飛び立った米軍輸送機「C-124グローブマスター機」が小平市に墜落し129人が死亡しました。朝鮮戦争の前線から立川に戻り一時休暇を過ごした米兵を乗せて、再び朝鮮半島に向かう途中でした。
  事故直後に米軍が現場を封鎖し情報統制したため、その詳細は明らかにならないままでした。
  航空機事故としては当時史上最大の死者を出したこの米軍輸送機墜落事故について、目撃者の証言や貴重な写真資料を元に迫ります。

 

 

第102回 多摩探検隊 「グローブマスター機墜落事故」
 https://www.youtube.com/watch?v=_zjOkQC1yjA

 

 

 関係者の証言とナレーションを通して、事故のおおよその全体像は把握し得るものと思う。

 加えてここでは、まず、『小平市史』では墜落事故がどのように描かれているのかを読んでおきたい。

 

 

  一九五三(昭和二八)年六月一八日、立川基地から飛び立った米軍輸送機グローブマスターが、小川の農地に墜落した。乗員一二七名が死亡し、畑は一面の火の海と化した。麦畑やすいか畑で作業していた人びとのなかには、「全身に油を浴び火だるまになった」者もいた。修羅場と化した光景に付近の人びとは全く手の施しようがなく、ただ呆然とするのみであった。かけつけた地元小平町の消防署および消防団の放水では「効果は殆んど見られなかった」。
  急報により立川基地からの消防車や救急車、それに地元消防団、遠くは青梅、五日市、所沢からも数十台の消防車がかけつけた。必死の消火活動にもかかわらず、猛火は一時間以上もおさまらず、乗っていたはずの人影はなかった。
  乗員の生存者皆無、梅雨続きの雨の中、四散した機体が青白く光っていた。巨大な尾翼が地中に突き刺さったままである。やがて「人間かどうか」見分けがつかない「黒焦げ」の遺体が掘り出され、「なきがらを載せた数十台の米軍救援車は前後をMP(憲兵)のジープにまもられ、暗やみの青梅街道を一路立川基地に運ばれた」。
     (『小平市史』 2013  402ページ)

 

 

 事故の凄惨な状況が読み取れるものと思うが、その前に問題となるのは犠牲者数であろう。『小平市史』では犠牲者数を127名としているが、その数値については誤りと考えた方がよさそうである。実際問題として、『小平市史』に掲載されている当時(1953年6月19日)の朝日新聞記事画像でも「百廿九名(全乗員)が即死」との見出しが確認出来る。

 犠牲者数の問題を別とすれば、多摩探検隊の動画にある証言と共に、初動対応の状況を含めて、「何が起きたのか」を明らかにする記述である。ただし、動画の証言にあるように、「麦畑やすいか畑で作業していた人びとのなかには、「全身に油を浴び火だるまになった」者もいた」ということはなく、「軽い火傷」というのが当事者の実情であったようではある(『小平市史』の依拠した「飛行機墜落事故書類」にはそのように記されていたのではあろうが)。また、地上での犠牲者が他になかったのは、墜落地点が農地であったがための話であり、離陸直後の燃料満載状況での事故であったことからすれば、住民にとっても大惨事となる可能性もあったことには留意しておくべきであろう。現在では墜落現場の周囲は宅地化されつつあるし、墜落地点から自転車で数分の距離にある武蔵野美術大学のキャンパスに燃料満載の大型輸送機が墜落炎上することを想像してみれば、事故の重大さを再確認し得るはずである。

 

 ここまでは、事故の重大さを伝えるものであるが、続く『小平市史』の記述を読むと、当時の小平地域住民の経験はそのまま現在の沖縄の状況であり続けている事実に愕然とさせられることとなるはずである。

 

 

  直径約二キロの地区内は米軍のMPが厳重に交通をしゃ断し、すぐさま「ギャラップ・ゴー」の立ち入り禁止の麻縄のロープが張られ、日本側警察、消防団は現場より立ち退きを強いられ、MPが住を突きつけ、住民を追い払った。報道陣も写真を撮ろうとするとピストルで脅され、フィルムを抜き取られる始末であった。その範囲は三街道にもおよんだ。米軍のMP、部隊、AP(空軍憲兵)、救急車、消防車、照明車、クレーン車、トラック、ジープ、ブルドーザーは、付近の公道および私道より畑中を往来し、農作物並びに橋梁、井戸、門柱などに被害をおよぼした。
  このやり方に住民からは「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか、日本の警察官が遠慮して消極的すぎる」などの非難の声があがった。それを受け、衆議院外務委員会で地元選出の代議士並木芳雄が抗議の声をあげた。
  米軍兵士は、米ソ対立の接触点、朝鮮半島の前線に引き返すところであった。原因はエンジンの故障、そのため米軍最大の輸送機グローブマスターの性能までが疑問視された。ガソリンや消火液で畑はギラつき、農作物の被害は小麦、陸稲、じゃがいも、さつまいも、すいか、ごぼう、茶などにもおよび、立木・庭木、医療費などを含めた損害は約一〇〇〇万円に上った。墜落の衝撃で牛の乳量が激減しただけでなく、流産するケースもあった。にもかかわらず、被害を受けた小川住民は、八月四日に遭難現場で米兵慰霊祭を手厚く営んだ。
  半年後のこと、「大火傷をしたが幸い一命をとりとめた」住民は、「飛行機が頭の上を通るとゾッとしますよ。荒らされた畑の賠償問題もまだ解決していないが、今考えると悪夢のような気がしますね」と語った。補償問題は難航した。被害関係者二〇名は、六月二三日連名をもって「米機墜落事故発生並びに今後に対する善処方要望に関する件」を町長の添書きと共に政府(防衛庁東京調達局)に提出した。被害者は農地、農作物、立木、道路などの被害額二二八万九四七四円を損害賠償額として要求したが、調達局は米軍側と折衝の末、大幅に減額し、三分の一あまりの八五万円を提示したに過ぎなかった。
     (『小平市史』 2013  403~404ページ)

 

 

 ここに「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか」とあるのは、現在の沖縄県民の話ではなく、当時の小平地区住民の叫びなのである。被害の補償もお話にならない。この状況は、小平では既に人々の記憶から失われた昔話であろうが、沖縄では現在の問題なのである。

 さらに読み進めると、

 

 

  小平町でも、米軍車輌の通行のための五日市街道沿いの小金井桜の伐採問題、小川新田で七歳男児が米軍乗用車にはねられた交通事故、小川で米兵乗用車によるひき逃げ疑惑事件など、米軍関連の事件が続いた。
     (『小平市史』  406ページ)

 

 

「米軍関連事件」の頻発問題もまた、小平では昔話ではあっても、沖縄では現在の日常である。戦時期の小平地域の軍事化はいわば国内問題であったが、戦後の「米軍関連事件」は占領下、あるいは占領下同然の事態のなかでの問題であったことには気付いておくべきであろう。当時の小平住民の「日本の独立は名ばかりだ、行政協定があるのに占領時代と同じではないか」との言葉は、あらためて噛みしめておくに値する。

 『小平市史』では、立川基地の存在にあらためて焦点を当てる形で、

 

   敗戦は、軍事施設の解体・転用を強いたが、すぐさま軍事施設が消え去ることはなかった。中でも立川飛行場は米軍に接収されて米軍基地に転用され、立川は軍都から基地の町へと変わる。一九五一(昭和二六)年九月には対日講和条約と日米安全保障条約が調印され、翌五十二年四月には足かけ八年の長期にわたる占領をぬけだし、日本は独立した。その一方で、朝鮮戦争では日本は米軍の重要な軍事拠点、そして、兵站基地としての役割を果たした。そのような状況のなかでの一九五三年の米軍輸送機グローブマスターの墜落事故であった。わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった。
  立川基地周辺では、米軍人相手に春をひさぐ「パンパン」と呼ばれた「夜の女」が集まり、最高時の一九五二年には三〇〇〇人にもおよび、府中や福生をはじめとする多摩地区全域では七〇〇〇名ともいわれた。風紀とともに治安は乱れ、事件が多発した。「基地の町はいやです」という中学生の作文が「児童福祉期間」中に展示されたのは、一九五八年五月のことであった。その叫びもとどかず、米軍の駐留は続いた。
     (『小平市史』  406ページ)

 

このように記している。「わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった」というのが、1953年の小平の経験であり、2018年の沖縄の現実なのである。

 

 『小平市史』を読み進めると、

 

  この米軍機墜落事故にいち早く反応したのは、津田塾大学の学生であった。津田塾大学学生自治会は、「全三多摩の学生諸兄姉に訴える」とアピールを発表している。

   私たちの住む小川に米軍将兵をのせた大型輸送機が離陸直後に墜落し〔中略〕百雷が一時に落ちた様な轟音、それと同時に窓ガラスのビリビリという音、すぐ近くの森の向こうからは黒煙がもくもくと立ち、消防サイレンの気味悪い響きをたてた怪自動車が続いてゆきます。寮生の一人が「原爆を積んだ飛行機でなくてよかつたね」と洩らしました。〔中略〕
   今迄何度となく聞かされた平和の危機と朝鮮戦争の残酷さ、そしてその朝鮮戦争とこの三多摩が直結していることが、この事件によって正に自分達のものとして身近に痛い程感じられたのです。日夜夜毎爆音に悩まされ、あのような惨事の恐怖に晒されている私達三多摩の学生として今こそ手をとり合って平和を守る運動に立上がろうではありませんか。

  津田塾大学の学生たちは、今回の事件によって、朝鮮戦争と三多摩が「直結」していることを知り、「平和を守る運動」に立ち上がることを呼びかけている。この呼びかけに対して、一橋大学小平分校の学生たち(小平自治会)は、「津田塾大学のアッピールに応えよう」と全学生に訴え、クラス・サークル・ゼミなどでの討論を喚起した。
     (『小平市史』 405ページ)

 

このような、津田塾の学生による「平和を守る運動」があったことが記されている。事故はまさに「朝鮮戦争とこの三多摩が直結していること」により、小平地域の経験となったのである。「百雷が一時に落ちた様な轟音、それと同時に窓ガラスのビリビリという音、すぐ近くの森の向こうからは黒煙がもくもくと立ち、消防サイレンの気味悪い響きをたてた怪自動車が続いてゆき」とはまさに当事者による証言記録としても読むべき一節であろう。

 ここで指摘しておきたいのは、当時の二十歳前後の津田塾生は戦時期を小学生として経験した人々であるという点である。戦争が昔話ではなく、自身の経験の一部であった世代による「アピール」なのである。同時に、輸送機事故で犠牲となった米軍兵士の多くもまた、その津田塾生と同世代の若者であったことである。学生たちには、どこまで若い米軍兵士の置かれた境遇が「正に自分達のものとして身近に痛い程感じられ」るものとなっていたであろうか?

 

 

 ここまで、1953年6月18日のグローブマスター機墜落事故について、『小平市史』の記述と、「第102回 多摩探検隊」として中央大学の学生により制作された「グローブマスター機墜落事故」の動画の紹介を通して記してきた。

 ここからは、「第169回 多摩探検隊」として制作された、「第102回 多摩探検隊」の後日談となる、「グローブマスター機墜落事故~米国・遺族の証言~」 と題された動画をまず取り上げる。より広い視野で米軍輸送機墜落について考えることを目指したい。

 

 動画サイトにある内容紹介文には、

 

  朝鮮戦争休戦間近の1953年6月18日、立川基地から飛び立った米軍大型輸送機グローブマスターが、現在の小平市に墜落。当時航空機事故史上最大の死者を出しました。多摩探検隊(第102回)で、同事故について取り上げ、番組サイトで配信を開始したところ、いくつかのコメントが寄せられました。コメントを辿っていくと、最終的に、アメリカに住む遺族の方々にたどり着きました。今回は、アメリカでの取材を踏まえ、米軍立川基地グローブマスター機墜落事故を、遺族の視点から見つめ直します。

 

このように記されているが、「グローブマスター機墜落事故」について、前回が日本国民としての小平町小川地区住民の経験(幸いにも命を失うものはなかった)の証言であったのに対し、こちらは実際に犠牲者となった(命を失った)米軍将兵の家族(遺族)による証言である。

 

 

第169回多摩探検隊「グローブマスター機墜落事故~米国・遺族の証言~」
 https://www.youtube.com/watch?v=F9htXcmDrDs

 

 

 「わが国は独立したとはいえ、いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処であった」ことは事実である。しかし、そこで命を失ったのは「高圧的な米軍」ではなく、その一員であるかもしれないが、しかしそれぞれに家族に愛され、家族を愛する一人の人間―誰かの息子であり誰かの父親であり誰かの兄であり誰かの弟―でもあった。

 「第102回 多摩探検隊」で示された日本人の経験からだけでは見えてこない世界がそこにある。129名という犠牲者数が、当時最大の事故であったことを示す数字としてだけではなく、犠牲者129名の一人一人が、それぞれにかけがえのない存在であったことが、遺族の証言を通して伝わってくる。

 ここであらためて、「第102回 多摩探検隊」に登場する、現在でも犠牲者の慰霊のために線香をあげ続ける地元住民の姿―犠牲者の死を他人事と思わない心のあり方―も思い起こされる。

 

 

 ここからは、米国人にとって、あるいは米軍にとって、グローブマスター機墜落事故がどのように経験されたのかについて、少しだけ記してみたい。

 

 ネットで検索すると、2013年6月の『エア・フォース・マガジン(AIR FORCE MAGAZINE)』に掲載されたウォルター・J・ボイン(Walter J. Boyne)氏による「C-124と立川の悲劇(C-124 and Tragedy at Tachikawa)」と題された記事に辿り着く(ちなみに、米国側の資料に依拠して書かれたはずの同記事においても犠牲者数は129人となっている―『小平市史』の犠牲者数には問題があるだろう)。同記事中に記されたいくつかのエピソードにより、事故の全体像をより立体的に描くことができればと思う。

 

 

 「第102回 多摩探検隊」の方でディレクターを務めた曽田健太郎さんは、そこでグローブマスター機墜落事故を取り上げたきっかけについて、

 

  私がこの事故を知ったのは、二〇一一年六月一九日付の読売新聞地方版の記事がきっかけだった。墜落したグローブマスターを操縦していた米国空軍パイロットの親族と、事故を目撃した男性が面会したという内容だった。こんなにも大きな事故が、多摩で起きていた歴史的事実を私は全く知らなかった。

 

このように記している。

 ボイン氏の記事には、グローブマスター機(シリアルナンバーは51-137)のパイロットたちのプロフィールも紹介されている。機長を務めていたのはハーバート・G・ヴォラズ・ジュニア少佐で、当時37歳。飛行時間6000時間を超えるベテランである。年齢からすれば、日米開戦時に25歳、「終戦」の時点で29歳となる。つまり、戦場がどこであったかはわからないが、「先の大戦」(第二次世界大戦)での従軍経験のある人物だということになる。信頼に足る技量が期待される。他に、やはり十分に経験を積んだロバート・D・マコークル少佐、そしてポール・E・ケネディー少佐がパイロットとして搭乗していた。

 読売の記事にある「グローブマスターを操縦していた米国空軍パイロット」がその中の誰であったのかは、現時点ではわからないが、記事後半の記述を読むと、離陸時に機体を操縦し、最後に管制官とのやり取りをしていたのもヴォラズ少佐であったことがわかる。

 

 墜落の原因がエンジントラブルとされているが、離陸前のチェック段階で整備員は問題を感じていたようである。天候も、雲が低く、好条件ではなかった(「第102回 多摩探検隊」動画に登場する証言者も、「6月なんだけど小雨が降っていて比較的寒い感じ」であったとしている)。

 7人のクルー以外は、5日間の休暇(つかの間、命の保障のない戦場を離れてパンパンガールと過ごす時間―思い切りハメを外したであろう彼らの姿の裏には戦場での死の可能性がある―でもあったはずだ)の後、再び朝鮮半島の戦場へと戻される122名の将兵であった。筆者は、それを「いやいやながらの帰還(reluctantly returning)」と表現しているが、実際、約一ヶ月後の7月には休戦協定となる状況下での話であった。そんな戦場へ送り返される途中での墜落事故死であることを考えると、遺族の無念さも、より大きなものとなったであろう。そんな姿を見送った地上要員の証言も残されている。

 

 午後4時31分の離陸後1分で第一エンジンがトラブルに見舞われ、機長のヴォラズはエンジンを切ると同時に立川基地の管制官に着陸誘導管制(GCA)を求めている。航空機関士に対し「もっとパワーをくれ」と叫ぶ中、管制官は高度の維持を求め、それに対し「ラジャー」と返答したのを最後に通信は途絶えた。

 レーダー上の航跡は東北東3・25マイルで消えている。

 ほぼ地表面に垂直に墜落したために、乗員のほとんどは即死であったと考えられている。

 

 ボイン氏は、墜落地のすいか畑について、交通量の多い東京へのハイウェイの近接地と表現している。確かに、青梅街道沿いの土地ではあった(ウィキペディア先生の「立川基地グローブマスター機墜落事故」の記事には「米軍、警察、消防、報道関係等の車両が大量に押し寄せたため、当時は道幅が狭く、所によっては舗装されていなかった青梅街道は大渋滞を起こした」との記述がある)。

 墜落を目撃した軍人もいた。妻とともに東京からのドライブ中であったロバート・D・ヴェス軍曹は、すぐに救援活動に向かった。

 ジョン・H・ジョルダン・ジュニア上等兵―その時点では生きていた―を救出したが、数分で死亡してしまう。燃料タンクに火が移るまでの30分ほど、ヴェス軍曹は救助活動を続けた。その間、右翼のエンジンは稼働し続けていたともいう。

 4時50分には立川の管制は、ジョンソン空軍基地(入間)にも救援要請をし、5時13分には現地にヘリコプターを到着させている。

 『小平市史』にある、

 

  修羅場と化した光景に付近の人びとは全く手の施しようがなく、ただ呆然とするのみであった。かけつけた地元小平町の消防署および消防団の放水では「効果は殆んど見られなかった」。
  急報により立川基地からの消防車や救急車、それに地元消防団、遠くは青梅、五日市、所沢からも数十台の消防車がかけつけた。必死の消火活動にもかかわらず、猛火は一時間以上もおさまらず、乗っていたはずの人影はなかった。

 

この局面での話ということになる。

 さらに従軍牧師や身元確認チーム(遺体の身元確認である)も到着し、臨時の死体安置所も設けられ、『小平市史』にある、

 

  直径約二キロの地区内は米軍のMPが厳重に交通をしゃ断し、すぐさま「ギャラップ・ゴー」の立ち入り禁止の麻縄のロープが張られ、日本側警察、消防団は現場より立ち退きを強いられ、MPが住を突きつけ、住民を追い払った。報道陣も写真を撮ろうとするとピストルで脅され、フィルムを抜き取られる始末であった。その範囲は三街道にもおよんだ。米軍のMP、部隊、AP(空軍憲兵)、救急車、消防車、照明車、クレーン車、トラック、ジープ、ブルドーザーは、付近の公道および私道より畑中を往来し、農作物並びに橋梁、井戸、門柱などに被害をおよぼした。

 

このような状況となっていく。照明車の存在は、夜を徹しての活動であったことの証である。

 墜落は、エンジントラブルに加えて、飛行速度とフラップ操作の連携エラーに起因するものであったとの指摘もされていたことも語られている。

 

 日本側住民に対する態度(「いまだ米軍の統治が続いているかのような高圧的な米軍の事故対処」)の問題とは別に、犠牲者家族のその後の年月―遺族に深く刻まれた悲しみ―について知り、そして米軍内部での墜落事故対応のスピード感と徹底性(そこでは現地住民の利害は無視される)を知ることで、グローブマスター機墜落事故の全体像の理解も深まったように感じられないだろうか?

 

 いずれにせよ、この記事が、沖縄の現状を他人事にしてしまわないためのきっかけになればと願う。

 

 最後に、立川基地が反基地闘争の現場であったことも、多摩探検隊の動画を通して再確認しておきたい。現在の沖縄が決して他人事ではないことに想像力を及ぼすことが出来るだろうか?

 

 

第100回 多摩探検隊 「砂川の記憶─57年目の証言─」
 https://www.youtube.com/watch?v=PbyeWRKRFkg 

 

 

 

【註:1】
 
  戦時中に小平町に設けられた軍の施設は終戦後、民間の施設や住宅地に転用されていった。では具体的にどのように変わったのか、市制施行後の昭和三七年(一九六二)までの変化を記述してみよう(付図は略)。
  東部国民勤労訓練所は東京都多摩公共職業補導所や東京都身体障害者公共職業補導所(ともに後の訓練所)、緑成会付属病院などとなった。
  陸軍兵器補給廠小平分廠は旧地主(農家)や開拓農地として営農の希望者(同廠勤務関係者が多い)へ払下げられ、その後、畑は都営住宅、小平三中、六小、日本タンパク工業株式会社、ブリジストンタイヤ株式会社東京工場、松見病院、緑風荘療養所、一般住宅などに変わった。
  傷痍軍人武蔵療養所は国立武蔵療養所と称されるようになった。
  さらに陸軍経理学校の校舎敷地は建設省建設研修所、陸上自衛隊業務学校、同調査学校、関東管区警察学校に使用され、そして回田道の東側にあった同校練兵場は、終戦後いち早く開墾に従事した人たち(大部分が旧地主)に払下げられ、後にこれらの農地に三栄レコーダー製造、シルバー編機製造、あけぼのパン、ピルマン製造株式会社などが進出した。練兵場の南にあった官舎部分は恵泉女子学園短期大学(園芸科)が使用したり、自衛隊官舎になったりした。陸軍技術研究所と文部省電波物理研究所跡は一部は民間のものとなり、東京サレジオ学園に払下げられたり、旧地主や営農希望者に払下げられた後、文化服装学院グラウンドや沖電気工業株式会社総合グラウンドとなったりした。さらに国の施設としては郵政省電波研究所や東京学芸大学小金井分校などになった。小金井街道沿いの特殊無線通信所跡は住宅となった。
     (『小平市三〇年史』 1994  268~269ページ)

【註:2】
 正確には、「グローブマスター」の名称は戦中に開発着手されたダグラス社のC-74に与えられたもので、戦後に開発・量産されたC-124の愛称は「グローブマスター Ⅱ」であった。
 しかし、1953年に墜落したC-124について「グローブマスター機墜落事故」と呼ぶことが、今回引用した『小平市史』においても「多摩探検隊」においても行われており(ウィキペディア先生も同様)、当記事内でも「グローブマスター」で統一することとした。

 

 

 

《記事一覧》

 カテゴリー
 「多摩武蔵野軍産複合地帯
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 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)
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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)
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  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

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  用語としての多摩と武蔵野(歴史的視点と自然史的視点)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)
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  小平地域の軍事関連施設の総力戦期的特質

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
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  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-22a7.html
  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
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  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
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  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-6ff4.html
  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html
  木材供出で姿を消した青梅街道の欅並木と「木造船建造緊急方策要綱」

 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 (オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/10/14 18:29 →
 https://www.freeml.com/bl/316274/321865/
 
投稿日時 : 2018/10/14 18:33 → https://www.freeml.com/bl/316274/321866/

 

 

 

 

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2018年9月23日 (日)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」記事参照)。

 特に「武蔵野」の名を冠する武蔵野美術大学所在地である小平地域に焦点を当てることで、総力戦下でこその軍施設の様相、軍施設設置がもたらす軍施設関係者のための集団住宅建設の必要性、軍施設及び集団住宅への水源確保に際して機能した「大きな力」としての軍の姿も再確認することが出来た。前回は食糧増産を求められる農家と集団住宅住民の育児支援のための託児所の設置にも触れたが、これもまた総力戦状況が生み出したものであった。

 

 今回は、戦時期の小平地域の景観の変化について記してみたい。もちろん、軍施設の進出、それに伴う集団住宅建設自体、それまでの農地と山林で構成された地域景観を大きく変えるものであった。

 すなわち戦時開発そのものが地域景観に変化をもたらすものであったが、ここでは、「こだいら 水と緑の会」による『用水路 昔語り』と題された聞き書き集(2016)から、特に戦時期における青梅街道の景観の変化―木材供出による欅(ケヤキ)並木の伐採―について確かめることから着手し、その背景を探ることを試みようと思う。小平地域の木材供出の歴史を通して、大日本帝國の総力戦状況(その限界)も明らかになるはずである。

 

 

 まず、関連した証言を(気付いた限りではあるが)抜き書きしてみることから始める(太字化による強調は引用者によるもの)。

 

馬場:草はどうですか、昔はこんなのが生えていたとか。
荒井:大体同じだけど洋物が増えたね。日本タンポポは無くなった。藪、昔は竹藪が沢山あった。真竹が随分あったけど今は殆ど無いね。
馬場:伐採ですか?
荒井:いや、自然に枯れた。「竹は百年に一度花が咲いたら終わり」と言うが、本当に花咲いてそれで終わりだったね。植物が無くなったから環境も悪くなったって言えるよ。だって昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。
馬場:燃料として切られたんですか?
荒井:いや船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。それだけだってえらく環境が違っちゃったのよ。子供の頃はクーラーもないから夏は木陰で涼んだもんだが。
馬場:交通量なんかはどうですか?
荒井:昔はめったに車が通らなかった。道路にしゃがんで話していて、車が来たらどくかって感じね。戦後の変り様は凄いね。
馬場:青梅街道の道幅は変わりないですか?
荒井:それは全く変わらない。昔っからこの幅。幹線道路だったけど、舗装されてたのは本の真ん中だけ。周りは砂利で草も生えてた。特に六番、七番の所は広いんです。あそこは馬の継ぎ場だったから。
馬場:馬の中継ぎ場というと何か特別なものがあったんですか?
荒井:青梅から馬で石灰を運んできて、そこで馬を替えるわけですよ。だから道幅が広くて、馬に水飲ませるために真ん中に川が流れていたって聞いてます。多分全て幕府が管理してたんだろうね。
     (『用水路 昔語り』 8~9ページ)
     話し手:荒井利喜夫(昭五生 小川町)  
     聞き手:馬場淑子

 

馬場:青梅街道も随分と変わりましたでしょう。昔は欅のトンネルだったとか。
関根:そうです。欅もだけど、裏にはずーっと竹林があった、真竹のね。一斉に花咲いて全滅ね。「竹は百年に一度花をつけて枯れる。」って言うけど本当ね。林は防風のためでもあった。冬は土埃で空が真っ赤になるくらいだったからね。子供の頃、舗装されたばかりだったかな。
馬場:この辺りは道幅が狭いですよね。
関根:そうね、この少し先の辺りから細いね。
馬場:子供の頃の交通機関は何を?
関根:人は徒歩か、自転車が少し。多摩湖線と西武新宿線はあったよ。でも一時間に一本くらいかな。
     (『用水路 昔語り』 10ページ)
     話し手:関根初男(昭十三生 仲町)

 

馬場:子供の頃は青梅街道沿いに欅もたくさんありましたか?
小柳:欅のトンネルでした。春になると完全にトンネルになってました。保存樹林がその面影をとどめてるけどね。ここから八番まで、踏切のこっちまではそうでした。戦争中に船材として切られたという話は聞いたことがあります。
馬場:竹藪はどうでした?
小柳:竹藪もずっとありましたね。屋敷の裏が竹藪でね。竹藪と畑の間に細い道があるんですよ。そこを通って第一中に通ってました。花咲かせ竹が枯れたという話は聞いた。
 中学の時青梅街道は砂利でね。土埃が凄かった。車が来るともうもうとして辛かったね。逆に雪が降ると膝の所まで積もってね、弟達を学校に行かせるのに雪掻きしたね,三十cmくらいあったかね。
     (『用水路 昔語り』 13ページ)
     話し手:小柳忠男 (昭十二生 小川東)

 

馬場:かなり大きな家ですものね。
田中:大正七年に、屋敷森の欅を切って建てたんですよ。材料は周りの木を切って、大黒柱は欅でね。
馬場:昔の青梅街道は欅のトンネルだったと聞いています。
田中:そうです、欅のトンネルでした。夜はフクロウが鳴いてたし、子供の頃は兎がいたからね。だって大正十四年に一反歩を九百円で売買し油ようとしたら、不景気で五百五十円になったって聞いてます。そういう時代でしたからね。
     (『用水路 昔語り』 21ページ)
     話し手:田中次男(大五生 小川町)

 

馬場:子供の頃この辺りはどんなでした?
浅見:畑ばっか、家は無かったね。道も砂利で真ん中だけアスファルト舗装してあって、側溝が付いてたね。欅はこんもりと繁って緑のトンネルよ。屋敷森があって家があって、畑が玉川上水のとこまであるの。その頃の川は防火用水としての意味合いが強かったね。井戸あったし、幅も今より広くて七十cm位ありましたよ。よく盥を浮かべて舟ごっこして遊んだもの。広かったし水も多かった。
     (『用水路 昔語り』 39ページ)
     話し手:浅見清子(昭六生 小川町)

 

馬場:戦争と言えば、昔は青梅街道は緑のトンネルだったそうですね?
岩淵:そう、もう両脇に欅が聳えていてね、本当にずっと緑のトンネルだった。その下がヒイラギの垣根ね。夜なんか真っ暗。
馬場:その欅が戦時中供出で切られてしまったと聞いてます。
岩淵:枝下のある欅は皆切られたね。それからどこの家にも「伝次丸」って柿の木があったね。何代も前からあったようで、今は家のも無いけどね、新田だった三百年続いてるわけだから、きっとずっと昔に植えたもんだったんだろうね。
 家は皆藁屋根、東向き。うちは昭和三十三年に茅の丸葺きにしたんですが、他の所は藁の上にトタン被せちゃったりしてね、そのうちにはポチポチ建て替えになってね。
     (『用水路 昔語り』 48ページ)
     話し手:岩淵ヨシ子(昭四生 天神町)

   【枝下】 樹木の最も下の枝から地表までの長さ(『広辞苑』)

 

金豊:うちは高台で隣と三尺も違うから、そういうの利用して水車も回したんだろうね。ここは昔から「坂」って呼ばれてました。「坂」って位だから一番高かったんでしょうね。親戚も「坂のうち」ってね。三里四方、四里四方行ったって家の欅見えたから、昔だから高層住宅なんて無かったからね。
馬場:その欅も目立ったでしょうね。
金桃:いっぱいあったんですよ。戦争中全部供出させられて、これ一本きり残ったんです。
金豊:船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。
金桃:そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。
金豊:みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。
     (『用水路 昔語り』 80ページ)
     話し手:金子豊(大六生 小川町)
          金子桃代(大十生 小川町)

 

馬場:昔は青梅街道は緑のトンネルだったそうですね。
金子:夜は真っ暗になりましてね、街灯ついてなかったし、本当に真っ暗。道の真ん中にアスファルトがあって、あとは砂利でね、掘があって、のどかでしたね。秋になると農家の人が道の所で色々干すんですよ、筵で。大根の切り干しとか、昔は車もそんなに通らないしね、幅は昔からこのままですから。
     (『用水路 昔語り』 98ページ)
     話し手:金子光子(昭十一生 小川町)

 

馬場:青梅街道には昔雨水を流すための側溝がありました?
清水:道路のはじと家の前に少し溝があって、ほんの小さい橋が掛かってましたね。多分細い、何の囲いもないから、そこが崩れていたり、ちょっと澱んでいたりしてましたね。
馬場:その青梅街道は緑のトンネルだったとか?
清水:昔、私が子供の時分には道路の両側から大きな樹が植わってますから、樹が生い茂って、夜なんか本当に真っ暗で、鼻つままれても分からない位でしたよ。特に私の実家はお寺さんが側だから、夜なんて一人で歩くと、駆けると誰か後ろから追っかけて来るような気がして怖かったですよ。ここに来てからも、家の周りにカシの木あったり、隣りにも大きな木あって、庭は真っ暗と言ってもいい位ですね。
馬場:青梅街道には街灯はなかったのですか?
清水:うーん、子供の頃実家からここに用事で行かされた時も、真っ暗な中をとことこ歩いたような記憶しかないですね。昔は今と違うから。自転車の乗り方なんかも青梅街道でやりましたからね。車もめったに来ないから。
     (『用水路 昔語り』 103ページ)
     話し手:清水恵美子(大十五生 小川町)

 

角:欅は大きくなるのが早いですか?
小川:早いですよ。この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。
     (『用水路 昔語り』 139ページ)
     話し手:小川善一(大十生 学園東町)
     聞き手:角早桐

 

馬淑:小平の方でも巨木とか雑木林とかありますが・・・。
村野:青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。
馬淑:ヒイラギを植えるというのは何か意味があった?
村野:別にないけど、まぁ、刺があって垣根代わりになったんじゃないでしょうか。
須賀:結構密集してますよね。
村野:結構丈夫な木なんですよ。
馬政:小平の竹内家の大欅はご存じですか?市の天然記念物ですが。
村野:小平の欅ってのは全国的に有名なんですよ。地に合っていてね、「曲がっている苗木が、ここでは伸びると真っ直ぐになる。」って話あるんです。
馬政:緑のトンネルと言われてますよね、昔の青梅街道はどんな具合でしたか?
村野:家の前に欅伸びてるでしょ、あれが両側にあると思って下さい。
須賀:竹内家の大欅は目印だったって聞いてます。それを見ると、この辺りは小平だって。
村野:そうでしょうね。東村山に行くと万年欅って言うのがありますね。あと有名なのは府中の大国魂神社の欅。八万太郎義家が植えたというやつです。
     (『用水路 昔語り』 159~160ページ)
     話し手:村野啓一郎(昭六生 久留米市柳窪)
     聞き手:馬場淑子
          須賀美佐子
          馬場政孝

 

 

 

 

 かつての、「めったに車が通らなかった。道路にしゃがんで話していて、車が来たらどくかって感じ」であった青梅街道の姿。

 あらためて以下の言葉を読むことで、「木材供出による欅並木の伐採」についての全体像もつかめるだろう。

 

 

  青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。

  この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。

  昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。

  船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。

  船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。

  そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。

  みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。

 

 

 「昔はこの青梅街道は欅のトンネルだった」ものが、「戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった」、そしてそれは「船材として全部供出・船材にされちゃった」もので、しかも「それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ」という「まったく悲しい」顛末として、古くからの住民には記憶されていたのである。

 

 

 この聞き書きには「戦中、終わる頃」とあるだけで、年代の詳細はわからない。探せば、当時の関連公文書類も見つかるものと期待するが、今回はそこまでは踏み込まない。

 しかし、「船材として全部供出・船材にされちゃった」とあることから、戦時期の船舶建造政策との対応関係を確認することで、年代の推定も可能ではないかと思う。

 

 

 

 神戸大学附属図書館が電子データ化した「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 造船業」の中に、「木造船急速増強 きょう建造緊急方策発表」と題された大阪朝日新聞記事がある(1943(昭和18)年1月21日付)。

 

 

 木造船急速増強
 きょう建造緊急方策発表

大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた、右要綱中とくに注目すべきは

(一)造船統制会傘下の軍管理以外の主要造船、造機工場および新設工場を逓信省において管理
(二)木船建造促進に関する主要事項の審議機関として木船建造促進委員会(仮称)を逓信省に新設
(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する
(四)豊富な木材資源を擁する大東亜地域の木造船工場を全面的に活用する

など時局の新段階を反映した英断的措置を決定した諸点であるが、右のほかすでに実施されつつある措置には

(一)木造貨物船型の五種より三種への整理とともに大型木船の建造促進のため三百トンおよび五百トンの木鉄交造船の試作
(二)造船造機施設の拡充のためには既存施設の統合整備および主として産業設備営団による新設整備のほか現存の不急または遊休産業施設の転換利用のためには例えば自動車工場のごときが造機工場に転換することも可能となる
(三)資材、労務の確保についても物動その他において割当を確保し優先的入手のために各般の措置を講ずる

などであり、本要綱の目標達成のためには政府のみならず関係業者はじめ一般国民の絶大なる理解と協力が要請されねばならぬ

木造船建造緊急方策要綱(情報局発表)

一、建造目標 昭和十八年度における木造船建造目標(外地、満洲、支那および南方諸地域を除く)は昭和十七年度に比し画期的増大を期す
二、船型 (イ)木造貨物船の船型は極力これを整理するとともに大型木船の建造を可能ならしむるごとく措置す
(ロ)戦時標準船型をさらに簡易化するため各般の措置を講ず
三、造船および造機施設の拡充
(イ)既設の造船および造機施設を統合整備するとともに資材、労務などの立地条件を考慮し、所要数の造船および造機工場を新設し所要生産量を確保す
(ロ)造船および造機施設の拡充にあたりては関係各官庁協力のもとに現存施設の転換、利用などの措置を講ず
(ハ)造船、造機施設の整備ならびに新設は必要に応じ産業設備営団をしてこれに当らしむるとともに右施設は営団よりこれを政府の指定するものに譲渡し、貸附または出資せしむるごとく措置す
四、造船および造機施設の管理 主要既設工場(造船統制会に属するもの)にして軍の管理に属せざるものおよび新設工場は逓信省においてこれを管理す
五、資材の確保 木船建造用ならびに施設拡充用の資材、動力、機械、器具類などの割当は物資動員計画および電力動員計画において極力これを確保するとともに、これが優先的入手については関係各庁協力のもとに各般の措置を講ず
六、労務の確保 右計画遂行に必要なる労務者は造船および造機施設の拡充に伴い逐次これが充足を行うものとす
七、大東亜地域における木造船工場の活用 大東亜地域における木材資源豊富なる地の造船工場に機関、□装品などを供給し、かつ技術上の援助を供与し、計画造船の一環としてこれを全面的に活用するため関係各庁協議のうえ速かに具体策を決定し、即時実行に着手す
八、木船建造促進委員会(仮称)の設置 木船建造促進に関する重要事項を審議するため逓信省に木船建造促進委員会(仮称)を設く
九、木船建造促進に対する挙国的協力措置 木船建造の促進に関しては関係各官庁は緊密なる連繋協力のもとにそれぞれその所管事務の迅速処理をはかるとともに政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す

 

 

この記事中にある、「(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する」、そして「政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す」との「木造船建造緊急方策要綱」の方針こそが、戦時期小平地域での青梅街道の欅並木の運命の背景であろう。

 

 

 実際、これは、小平地域だけの問題ではなかった。

 

 

 情報局編輯になる『寫眞週報』(写真週報)の第263号(昭和18年3月17日)には以下の記事がある。

 

 

 寫眞週報 263号 2~3ページ

 

 時の立札
皇土に根ざし
風雪に耐へて二百年三百年を
今日の日のために
生きぬいてきた巨木だ
その命を捧げる日の壮絶さを想へ
我等その心をくみ、その心に應へ
木もて船を造らう
皇國の幸をはこぶ船を
     (表紙裏に位置する2ページ)

 

巨木擧ってお召しに應じよう
     岡山縣
     撮影 入江泰吉
(以下、キャプションは新字体で表記)
岡山県県社木山神社の神木は、国難打開のため軍需資材として応召する。この大樹は同神社の祭神須佐之男大神のおひげが自生したものといはれてゐたものである
     (3ページ)

 

 

 寫眞週報 263号 4~5ページ

 

巨木擧ってお召しに應じよう
 『神木が供出された』『五代にわたつたあそこの欅林も供出された』かうした氏子や篤志家及び団体などによる木材の供出は、いま、広く全国的に行はれてゐます。いふまでもなく、供出された木材は戦局の進展に伴つてますます必要となつてきた兵器や艦船、車両等の資材として、勝つための有力な力となつてお役に立つわけです
 しかし、この供木といふことは、もうわが国には軍需品の資材となる木がないといふわけではなく、それらの用途に向けられる木材の伐採が到底需要に足りないのです。欅や樫などの特殊材は山奥には相当あるのですが、それを刈つて運び出すのには相当の時日が要る上に人手も多くかかり、ソレッといふ間に合ひません
 そこで供木運動も運搬が比較的楽にできる屋敷林や公園、神社仏閣の境内林とか、街道の並木、平地林等を伐採することが対象となつてゐます
 これらは、或ひは父祖伝来のものであつたり、或ひは史跡名勝天然記念物として由緒ある並木であつたり、平時であれば決して伐れないものばかりでありませうが、一人息子さへお国に捧げるときです。戦力を増すためにこの際、進んで供木に応じませう
 勝つためだ、村民の決意は固く岡山県県社木山神社の神木が村民歓呼の声に送られて『応召』しました
(写真キャプション)
 参道の老杉は地響きを打つて倒れた
 参道並木の伐採は境内の森厳をそこなはぬために十分な調査が行はれた
 樹齢三百五十年の樅も村民の斧によつて応召する
 刈り倒された樹齢約三百五十年の老杉この杉の伐積は―直径一メートル八十センチ、高さ四十メートル、重量七千貫である
 神木は悠々と応召する

 

 

 寫眞週報 263号 6~7ページ

 

應召の木材は続々木船に
     ―大阪―
 畏くも天皇陛下には、戦時下における木船の重要性を思召され、木船材を御下賜あらせられました。聖慮の程、まことに畏き極みであります
 このありがたき聖慮に感激、感泣した政府は、勿論木船建造のため各地の国有林をどしどし伐り出してゐますが、さらに全国的に木船用木材供出が国民の盛り上がる力として行はれてゐることはご存じの通りです
 かうして供出された木材は、直ちに造船材に使用され、去る一月に戦時標準型貨物船の第一船が大阪で進水してから、続々と標準船が全国の造船所で造られ、各方面の海域に就航してゐます
 ここ大阪の造船所では木材供出者の意気に感じて、一日でも二日でも早く標準船をつくり上げようと、夜に日をついで造船の斧を振つてゐます。次々と進水する木造船は敵殲滅戦に、或ひは大東亞の建設戦に、堂々日の丸の旗を押し立てて大洋に乗り出してゆきます
(写真キャプション)
 肋骨は次々と組み立てられてゆく
 肋骨に外板をくつつける作業は、寒中もいとはず進められてゐる
 外板のつぎ目から水がはいらないやうに充填物をつめてゐる
 予定より三日も早かつたぞ! 標準型木船は進水した
 天を衝くやうに木船の意気は高く肋骨の組立も終り、一日も早く海洋に出る日を待つてゐる

 

 

 まさに、「木造船建造緊急方策要綱」にある「政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す」との方針が全国的に展開され、「祭神須佐之男大神のおひげ」までが、「木船建造用木材供出国民運動」の標的となっていた(『寫眞週報』は、すなわち情報局は、このエピソードを「まったく悲しい」こととしてではなく、木材供出の先進的事例として取り扱っている)。

 昭和18年の時点で、全国的には、木造船建造のために神社の御神木までが伐採される(「風雪に耐へて二百年三百年を今日の日のために生きぬいてきた巨木」が戦時期の国策の都合により伐採される)ようなところにまで追い詰められていたのである。小平地域では青梅街道の並木で済んだという意味では、まだ軽かったのかも知れない。

 

 せっかくの機会なので、「木造船建造緊急方策要綱」に至る、戦時期日本の造船関連の政策の推移について、吉川由美子氏による「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」(2004)と題された博士学位申請論文からの要約(「博士学位申請論文審査報告」2~3ページ)を用いて、確認しておきたい。

 

  1939年11月、造船業を対象とした統制策である「造船事業法」が成立、41年8月には造船の発注統制を強化した「戦時海運管理要綱」が成立し、翌42年1月には造船統制会が設立された。こうして、海運も造船も強力な国家統制下に置かれることになった。
  1942年3月、戦時標準船(以下、戦標船と略す)の建造と計画造船の実施が決定された。しかし、同年12月のガダルカナル島攻防戦による船舶の損失も加わって、43年度は船舶増産の強化が急務となった。そのため43年に入ると、上記船標船とは異なり、急速な増産に重点を置いた第二次戦標船が設計された。その中でも特に重視されたのは、船舶の簡易化と大量生産に適した改E船(第一次戦標船のE型の改良型)であった。改E船の構造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、即ち東京造船所・播磨松ノ浦、三菱若松、川南深堀の4造船所で集中的に建造された。これらの造船所は大量生産方式、流れ作業、ブロック建造法、電気溶接(三菱若松)などの新しい生産技術体系を導入したため、簡易工場にもかかわらず、かえって時代の先端を行く工場となった。しかし、これらの工場の労働力の主力は囚人であった。
  1944年に入ると、造船用鋼材の不足が深刻になった。この鋼材不足の対応策として考案されたのが、藤原銀次郎による「雪達磨造船」である。即ち、船舶で鉄鉱石を輸送し、その鋼材で船舶を建造し、その船で鉄鉱石と石炭を再び運ぶという循環構造によって造船量の拡大を図るというものであった。しかしこの「雪達磨造船」は、戦況悪化による国力崩壊を食い止める突破口とはならなかった。
  造船用鋼材不足が対応策としてもう一つ考案されたのは、「雪達磨造船」より前のことになるが、木造船の建設であった。1943年1月の閣議決定「木船建造緊急方策要綱」がそれである。木造船はあくまで鋼船の補完的役割を期待されたが、鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産がおこなわれた。しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した。
  戦争末期には鋼材の入手が激減して新造より修理が優先される一方、鋼材節約のためにベニヤ板を材料とした合板船や、コンクリート船が検討され試作がなされたが、実用化されるには至らなかった。

 

 

 先の『寫眞週報』記事(御神木の伐り倒し)を読んだ後で、そして「みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね」との小平のお年寄りの嘆息を共有した後で、「しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」との顛末に眼を通すとき、実際、「まったく悲しい」気持ちを抱くしかない(『函館市史デジタル版』の「造船所の対応と戦時標準船、木造軍艦の建造」の項では、「政府はあらゆる施策を講じて木造貨物船の増産をはかった。しかし、19年の頃は応召による熟練工の不足、船用金物の入手難などで目標の達成は極めて困難であった」と、当時の実情を記している)。

 

 

 

 再び吉川由美子論文の要約に戻ると、

 

  1942年3月、戦時標準船(以下、戦標船と略す)の建造と計画造船の実施が決定された。しかし、同年12月のガダルカナル島攻防戦による船舶の損失も加わって、43年度は船舶増産の強化が急務となった。そのため43年に入ると、上記船標船とは異なり、急速な増産に重点を置いた第二次戦標船が設計された。その中でも特に重視されたのは、船舶の簡易化と大量生産に適した改E船(第一次戦標船のE型の改良型)であった。改E船の構造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、即ち東京造船所・播磨松ノ浦、三菱若松、川南深堀の4造船所で集中的に建造された。これらの造船所は大量生産方式、流れ作業、ブロック建造法、電気溶接(三菱若松)などの新しい生産技術体系を導入したため、簡易工場にもかかわらず、かえって時代の先端を行く工場となった。

 

このように、戦時標準船の先端的側面が示されている。その点について、後藤伸氏の論考にも触れておきたい。後藤氏は戦時標準船について、

 

   統制が始まる以前、平時の商戦の注文はおおむね一隻ごとの個別注文であり、造船所は契約成立ごとに詳細な設計図面を作成し、資材と部品を調達し、それを船台で組み立てていくという、典型的な受注生産を行っていた。このような造船業に対して、昭和14年(1939)9月以降、臨時船舶管理法によって、新造船に際しては事前に逓信省の承認を受けることが規定されたが、これが新造船に関する統制の始まりといえる。この事前承認性は、翌15年2月の海運統制令により逓信大臣の許可制となり、統制が強められた。このように事前の承認や許可が必要とはいえ、建造される船舶についてはなお船主の希望なり裁量の余地が働き、また造船所もそれに対して従来の個別注文的な方法で対処しえた。もっとも、この時期まで、強制ではなかったが、建造される船舶の一定割合は、すでに船型、構造、主要性能などを標準化した船舶によって占められていた。この平時における標準船型は、船舶改善協会が中心となって昭和14年4月に選定したものであるが、後述するとおり、これら船型は戦時標準船(第1次)の原型となった。
     (後藤伸「戦時期日本造船業の生産技術に関する一考察―戦時標準船の建造をめぐって―」1992 『国際経営論集(神奈川大学経営学部)』 3  85~86ページ)

 

  組立産業における大量生産の歴史を顧みると、量産システムの確立のためには、生産種類を限定するとともに、部品を規格化して製品の標準化をはかり、また設計をできる限り簡素化することが必要であった。戦時造船における多量生産は、標準型船の設計とその簡易化という形をとった。ここでいう標準船とは、船体、機関、艤装品などの形状や構造を規格化し、同一資材や部品を使用するよう設計された船舶であり、工期の短縮、工費の低廉をもたらすという意図から発想されたものである。
     (後藤伸 前掲論文  97~98ページ)

 

  このことは、船型の簡易化が使用鋼材料の節約をとおして工数短縮=建造期間の減少をもたらすとともに、それと同等あるいはそれ以上に、建造工程における簡易化(=改善)をとおして工数の減少をもたらしていたことを示唆する。
     (後藤伸 前掲論文  105ページ)

 

  第一に、戦前と戦後の造船技術の連続性について。戦後の造船業の技術革新が溶接ブロック建造法に求められるとすれば、この建造法は戦後日本の造船業にまったく新規の工法であったということはできない。既にみたように、大手の造船所では1920年代初頭から溶接技術の導入、開発を手掛け、戦標船の建造では溶接による接合が船体のかなり広い範囲にわたって用いられた。また、ブロック建造についても、自然発生的におこなわれていた部材の小組立程度の段階から、さらには先行艤装方式さえもが意識的に試みられ、そしてそれは大量生産という点ではかなりの成果をおさめることができたのである。
 第二に、戦前と戦後の造船技術の格差について。戦時に試みられたこれら建造方法は、まさに戦時という特殊事情のもとで採用されたものであり、平時での建造方法としてそのままで通用するわけではなかった。たとえば、電気溶接一つ採り上げてみても、これが戦時に急ピッチで採用されたのは、鋼材の節約もさることながら、鋲打ちのための熟練工が不足し、まったくの素人でも扱える接合技術として導入されたという事情は無視できない。しかも、手動ないしせいぜい半自動の溶接機によって接合された船舶は、戦標船という船体構造が極度に簡易化された小型船舶が主であり、戦後展開されるような大型商船の溶接ブロック建造を可能とするには、船舶設計、溶接技術、使用鋼材、運搬設備、工程管理など多方面にわたるいくつもの困難な技術的ハードルを超える必要があった。
     (後藤伸 前掲論文  119~120ページ)

 

このように、戦前期には「契約成立ごとに詳細な設計図面を作成」することから開始される個別の受注生産品であった船舶が、規格化されることによって大量生産を容易にし、戦時の船舶需要の急増への対応が試みられたこと。そして、戦時標準船製造の経験には、戦後の造船業の生産技術への連続的側面があることが主張されている。

 確かに、生産技術の観点からは、そのような評価も可能なのであろう。

 しかし、「船舶の簡易化」すなわち船体構造の極度な簡易化は船体の強度を犠牲にしたものであり、それは洋上で船舶を運航する乗組員を犠牲とするものであった(船員の人命の軽視、ということなのである)。

 

 

 第二次戦時標準船について、大内健二氏は以下のように指摘する。

 

  艦政本部は第二次戦時標準船の設計に際し、徹底した工期短縮を行なうために建造予定の各形式の船について、抜本的な対策としてかなり強引な設計の簡略化、それに伴う強引なまでの工作の簡略化を実施したのである。この抜本的な対策とは次のようになっていた。
  (イ)、早期完成のために量産化に適した構造の船であること。
  (ロ)、材料と工数の徹底した節約と節減。
  (ハ)、(ロ)項の要求から完成した個々の船舶の寿命は短期であっても可とする(戦争期間だけ持てば良い)。
  (ニ)、運用効率の上から一隻当たりの載貨重量は極力大きくする。
  (ホ)、個船には高性能は求めない。従って機関の低馬力と低速力は容認する(量産の利く低価格、低性能の機関の搭載が前提条件)。
  第二次戦時標準船に貫かれた建造方針は、一にも二にも徹底した簡易・簡略構造による建造機関の短縮であった。そして結果的にはこの第二次戦時標準船こそ、後に粗製濫造の見本として周知された、いわゆる「戦標船」なのである。
  第二次戦時標準船に採用された主な簡易・簡略化は次のとおりであった。
  (イ)、全船種からの二重底の廃止。
  (ロ)、船体のシーアやキャンバーの廃止。一部を除き曲面加工の廃止。
  (ハ)、ブロック建造方式の大幅採用。
  (ニ)、電気溶接工法の大幅採用。
  (ホ)、付属装置や機器の簡素化。
     (大内建二 『戦時標準船入門』 光人社NF文庫 2010  75~76ページ)

 

  この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
  二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
  二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十~二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
  徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
  造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
  このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (同書 80~82ページ)

 

 ここに、戦時標準船の姿から明らかになる大日本帝國の総力戦状況がある。戦時標準船は、それが鋼船であっても、船員の犠牲を前提にして成り立っていたのである(大日本帝國の戦争における徹底的な人命軽視については「統帥の無責任としての特攻精神 6 (海に沈んだ「陸軍」将兵)」及び「統帥の無責任としての特攻精神 8 (ボンバールと靖國の英霊)」でも、大内氏の論考により論じたことがある)。

 その戦時日本において、鋼船建造能力の限界が生み出したのが「木造船建造緊急方策要綱」による木造船建造であった(「しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」)。

 それこそが、かつては「緑のトンネル」であった欅並木が「大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ」という戦時期の小平の経験の背景ということになる。

 

 

 

《記事一覧》

 カテゴリー
 「多摩武蔵野軍産複合地帯
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat71885235/index.html

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-c5f0.html
  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-00e7.html
  (1)に続き、多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(特に軍の展開状況)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-0537.html
  用語としての多摩と武蔵野(歴史的視点と自然史的視点)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4460.html
  武蔵野台地における水資源確保の困難について矢嶋仁吉氏の論考紹介

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-cb9a.html
  小平地域の軍事関連施設の総力戦期的特質

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-8e6b.html
  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-22a7.html
  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-242c.html
  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-b433.html
  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-6ff4.html
  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html
  木材供出で姿を消した青梅街道の欅並木と「木造船建造緊急方策要綱」

 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/09/23 15:27 → https://www.freeml.com/bl/316274/321487/
 投稿日時 : 2018/09/23 16:35 → https://www.freeml.com/bl/316274/321488/
 投稿日時 : 2018/09/23 18:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/321489/

 

 

 

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2018年8月31日 (金)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)

 

 

 これまで、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代(1930年代後半から1940年代前半)の多摩武蔵野地域の軍産複合的状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」記事参照)。

 特に、(武蔵野の名を冠した)武蔵野美術大学所在地である小平地域について、総力戦状況下を象徴するような軍施設の集中地区として整理し(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)、加えて住宅営団による軍施設関係者用の集団住宅開発を取り上げ (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」参照)、さらに「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」及び「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)」では、小平地域の給水問題(地勢的条件による飲料水確保の困難)を通して、「大きな力」としての軍の姿を再確認した。

 

 今回は、総力戦下での女性(と子供)の位置を、津田英学塾(現・津田塾大学)の開設した「津田こどもの家」を通して確かめてみたい。

 まず、『小平市史』と『小平市三〇年史』では、どのように「津田こどもの家」が描かれているのかを読むことから始める。

 

 

   女子英学塾(一九三三年から津田英学塾)は移転してきて以来、小平の地域社会との関係づくりに気を配っており、学生たちによる子どもを対象とした日曜学校や津田英学塾青年会の伝道活動、小平村出征兵士への慰問品送付の活動などに取り組んできた。しかし、モダンな校舎のミッションスクールと農村社会の文化的ギャップは大きく、教職員たちは「なんとなく村人と調和のとれぬ思い」を抱え、「英文学を専攻する学生たちが、象牙の塔に住みなれて、社会、殊にその地域社会から浮き上がつてしまうこと」を恐れていた。
  そうした中塾長の星野あいは、重労働に疲れ果てる農家の女性とその子供たちのために、農村託児所の開設を思い立った。これに賛同した教職員、学生、卒業生たちは、映画会を開いて資金を稼いだり、卒業生から寄付を集めるなど奔走して資金や資材を調達し、校舎と道を隔てた三〇〇坪の校地に、総工費四千六百円、建坪七〇坪の園舎を完成させた。オルガン、テーブル、ラジオから医務室の器具に至るまで、備品はすべて卒業生からの不要品の寄付に依った。また建設作業には全校三百数十名の学生も参加しておこなわれ、そのようすは「テニスンやワーズワースの詩集代わりにスキやクワを握ってその一振り一つきに尊い汗の奉仕を続けてゐる」などと報道された(『朝日新聞』 一九三九年七月二七日)。
  一九三九(昭和一四)年一〇月一日、同窓会と学友会の経営による「津田こどもの家」が無事開所式を迎えた。学齢前の六~七〇名の幼児に対する保育には、専門の教育を受けた保母二名に加え、「お手伝い」の津田塾生が交替であたり、朝七時半から一六時までの保育時間は「お遊戯、お話、手工等を始めとして、お食事、おひるね、おやつ等の嬉しい事もあり、その後は花壇、畠に水をやる」(津田英学塾同窓会『会報』第四九号)といった次第であった。二〇銭の月謝支払日、母親たちは口々に深く感謝の言葉を述べたという。また農閑期に母親を対象に栄養料理講習会が開催されると、これも好評を博した。
  このように津田こどもの家は地域社会に歓迎され、開設まもなくにして「過去八年間どうしても越える事が出来なかつた村の人等と私達の間のギャップが一度にふつとんでしまつた」のであった(津田塾同窓会『会報』第四八号)。津田英学塾と地域社会との信頼関係がこうして確立したのだった。
  当初、幼児の父兄は近隣の農家がほとんどであったが、一九四二年頃になると「だんだん他所から入つて来た人も増え」、今年はじめて朝鮮人の「子供も入つて参りました。そして家庭の職業は農でも父は職工などといふのが可也ある様で、此にも時局の反映が見られる様でございます」と報告された(津田英学塾同窓会『会報』第五三号)。戦時開発にともなう地域社会の変化は、「地付の人」のための農村託児所というもともとの性格を変えていったのである。
  同時に津田こどもの家に対する幼児教育機関としての期待も高まっていった。こどもの家の出身児童は国民学校で模範生であると評判になり、農家の母親のあいだで「良いお坊ちゃんね、大きくなったら商大に入れるのです」「エエ津田子供の家に入れるのですよ、早くそうなってくれれば良いのですが」といった会話が交わされ、「此の辺の御母さん達は託児所に入れることが御自慢であり理想」になったという。農家の母親たちも将来につながるものとしての幼児教育に関心をもちはじめたのである。
  こうして地域社会に定着し、農家の女性の負担軽減と農村生活の改善に貢献した津田こどもの家であったが、頻発する空襲警報にともなう幼児の退避で保育が成立しなくなり、給食の材料も入手困難になったので一九四五年三月に閉鎖することになった。なお一九四四年五月に東京都は戦時託児所を一七〇か所開設することを決め、一九四五年三月、小川一番に都立小平戦時託児所が開設されたが、空襲の激化から戦時託児所制度自体の廃止とともに、同年六月に閉鎖された。小平戦時託児所は戦後、都立小平保育園となった(『私が見てきた保育の歴史』)。
     (『小平市史』 2013  332~335ページ)

 

 

  津田英学塾は昭和一四年(一九三九)一〇月「津田こどもの家」という託児所を開設した。同学は小平移転以来なんとかして小平の地域社会と融合したいという考えを抱いていた。戦争のため働き盛りの若者の多くが応召し、女性の労力を必要とするとき、育児の労を軽くし、これを通して村の人と親密になれたらという願いからであった。
  校内の雑木林三〇〇余坪の林の間に新築された木造平屋五四坪の建物だった。当初の申込者は九〇人を超えた。『津田英学塾四十年史』の中に卒業生の回顧として次のようにある。
  或る子供のおじいさんが子供と託児所にやってきて、お弁当の前に手を洗うのを見て「ははあ、水いたずらをしてしょうがないと思ったら、ここで習ったのか」という。そこで保母さんが、水いたずらではなくて、食事の前には手をきれいにして食事をするのだと説明すると、おじいさんは「そういうものかね」と感心したように聞いていたそうだ。託児所の第一回卒業生は小学校でも非常に評判がよいと星野先生が嬉しそうに話された。
  そして昭和二〇年四月三〇日限り休業のやむなきに至るのである。時局の悪化、空襲の頻発、食料の窮迫に伴い、これ以上危険・困難を冒して児童を預かることができなかったのである。
     (『小平市三〇年史』 1994  202ページ)

 

 

 設立の経緯・背景については、別のニュアンスを伝える証言もある。

 

 

   藤田たきは『社会事業』1941年5月号に於いて、東京市の中心にあった津田英学塾が北多摩郡小平村に移転の後、「津田子どもの家」を建設して女学生の勤労奉仕として保育事業を行ったことを述べている。1938年の文部省通牒により、女学生も長期休業の際、3-5日間勤労奉仕することが義務付けられていた。津田英学塾の女学生も勤労奉仕のため陸軍被服廠に、また宮城外苑整備事業に出かけていた。だが、小平村から東京までの交通費が一人当たり1円はかかったので、寄宿舎の女学生180人が異動すると180円を要することになる。そのように大きな金額では東京まで出かけられない。代りに、そのお金で一つの幼稚園も託児所もない小平村に託児所を建てることにする。
     (金慶玉 「総力戦体制期における「戦時保育」と保育施設の変容」 2015 『アジア地域文化研究』 11  32ページ)

 

 

 『小平市史』や『小平市三〇年史』に示されている「なんとかして小平の地域社会と融合したいという考え」を疑う必要はないだろうし、藤田たきの伝える事情もまた、当時の現実の議論の流れであったろう。

 

 

 まず、当時の託児所(保育施設)をめぐる一般的状況について確認しておきたい。

 

 

   「農繁期託児所」とは、田植えや稲刈りなどの農繁期に子どもの世話をできない農家の事情を鑑み、放置されがちになる乳幼児の保護を目的とした事業である。古木弘造『幼児保育史』(厳松堂書店、1949年)によれば、わが国に於ける農繁期託児所は、「鳥取県気高郡美穂村下味野に於て、筧雄平氏によって明治二十三年に開設されたものが最初のものとされている」という。しかし、その後の発達は遅々たるもので、1920年代初頭から全国に少しずつ設けられはじめていったのが実態である。
   ところが、農繁期託児所は、1930年代後半から1940年代前半における時期に、開設数を飛躍的に増大させていく。これは、1937(昭和12)年7月の日中戦争開始以後、戦時体制がとられ、農村における労働力不足への対応や食料増産を企図して、国及び各道府県が積極的な形で設置を奨励・助成したことによるものである。
     (浅野俊和 「戦時下保育運動における農繁期託児所研究―「保育問題研究会」を中心に」 2007 『中部学院大学短期大学部研究紀要』 8  55ページ)

 

   成人男子出征による「銃後」の労働力不足を補うための女子勤労動員は1939(昭和14)年の国民徴用令の施行に始まる。当初は未婚女子への就職奨励という程度であったが、労働力不足の深刻化に伴い、1943(昭和18)年以降、未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる。明治末期から昭和初期にかけて開設された託児所は、主に都市部の貧困層のための救貧対策として設けられていたが、戦時体制下の女子の大量動員はそれまでの貧困家庭のみならず、一般家庭の子どもの託児の必要をも生じさせることになり、名古屋市、福岡県、大阪市、東京市など全国各地に戦時託児所など臨時の簡易保育施設が数多く設置された。さらに1943年以降、福岡県を皮切りに、東京都、愛知県、名古屋市などで、幼稚園を保育施設へ転換する動きが出てくる。
     (矢治夕起 「昭和戦中期の戦時託児所について : 幼稚園から戦時託児所への転換事例 1」 2014 『淑徳短期大学研究紀要』 53  85~86ページ)

 

 

 「津田こどもの家」についていえば、農業が基本であった小平地域において、当初は農繁期託児所的性格の下に開始された事業が、戦時開発による地域社会の変化の中で、戦時託児所的意味も持つようになっていったことがわかるだろう。その点について、『小平市史』は、

 

  当初、幼児の父兄は近隣の農家がほとんどであったが、一九四二年頃になると「だんだん他所から入つて来た人も増え」、今年はじめて朝鮮人の「子供も入つて参りました。そして家庭の職業は農でも父は職工などといふのが可也ある様で、此にも時局の反映が見られる様でございます」と報告された(津田英学塾同窓会『会報』第五三号)。戦時開発にともなう地域社会の変化は、「地付の人」のための農村託児所というもともとの性格を変えていったのである。

 

このように記している。

 津田英学塾の託児所開設時の昭和14(1939)年は、既に支那事変(いわゆる日中戦争)が二年経過し、9月にはナチスドイツのポーランド侵攻によりヨーロッパでの戦争も現実となった時点である。既に支那事変段階で、「成人男子出征による「銃後」の労働力不足」が生じており、昭和16(1941)年の対米英開戦は「労働力不足」問題を深刻化させた。「戦時体制下の女子の大量動員」は、より徹底されることになる。事変の「当初は未婚女子への就職奨励という程度であった」ものが、米国をも相手とした総力戦状況の中で、「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」状況にまで追い込まれる。子供の保育への公的保障は、既婚者をも対象とする「女子の大量動員」の必須の要件となる。

 

 

 ここで明らかなのは、国家総力戦として展開した「大東亜戦争(政府による定義上、対米英戦だけではなく支那事変段階を含む)」において、大日本帝國は人的資源の資源量、すなわち人口に当初から問題を抱えていたという事実である。「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」しかなかったのは、人的資源にまったく余裕がなかったことを示す歴史的経過である。

 

 もちろん、戦時体制の構築に際し、政府が人的資源上の問題を認識していなかったわけではない。有効な人口政策の樹立は帝國政府・軍の課題であった。

 

 

   人口問題全国協議会の政府諮問答申案(国立公文書館所蔵文書―本文中に文書作成日付がないものの、論文筆者の増山道康氏は内容から1935~1938年作成のものと位置付けている―文中に「日中戦争の深刻化」とあることからすれば1937年以降となりそうだが:引用者)では、前文冒頭で「人口は国力の根帯にして其の数量並びに資質の如何は直に国運の消長民族の盛衰に関す。」と述べ、人口を資源として明記している。その理由として戦争を根本原因として挙げ、日中戦争の深刻化が人口問題に直結しているとしている。ここに、戦争計画で、人口政策が必要とされる理由がある。戦争遂行には、兵力及び補給力の増強が最も基本的な課題となる。それには一定の人口を確保する必要があるが、満州事変、さらに日中戦争開始以降には、総力戦を戦うには人的資源が不足しているとの認識が政府部内では強くなっていった。
     (増山道康 「戦争計画による社会保障制度形成」 2004 『岐阜経済大学論集』 37-2  32ページ)

 

 

 実際問題として、昭和10年代前半(1930年代後半)の日本では出生率が低下しており、軍の危機意識は強いものであった。1920年の出生率が36.2、1925年が34.9、1930年が32.4、1935年が31.6、1936年が30.0、1937年が30.9、1938年が27.2、1939年が26.6となっており、出生率の低下は明らかであった(一方で死亡率の低下もみられてはいたが)。「総力戦を戦うには人的資源が不足しているとの認識が政府部内では強くなっていった」中で、軍、企画院、厚生省等による人口政策の策定が試みられ、昭和16(1941)年の1月には、「人口政策確立要綱」が閣議決定される(以下の引用に際しては、漢字は現代表記にあらためてある)。

 

 

      人口政策確立要綱 (昭和一六、一、二二 閣議決定)
   第一 趣旨
    東亞共栄圏を建設してその悠久にして健全なる発展を図るは皇国の使命なり、之が達成の為には人口政策を確立して我国人口の急激にして且つ永続的なる発展増殖とその資質の飛躍的なる向上とを図ると共に東亞に於ける指導力を確保する為その配置を適正にすること特に喫緊の要務なり
   第二 目標
    右の趣旨に基き我国の人口政策は内地人口に就きては左の目標を達成することを旨とし差当り昭和三十五年総人口一億を目標とす、外地人人口に就きては別途之を定む
    一、人口の永遠の発展性を確保すること
    二、増殖力及資質に於て他国を凌駕するものとすること
    三、高度国防国家に於ける兵力及労力の必要を確保するjこと
    四、東亞諸民族に対する指導力を確保する為其の適正なる配置をなすこと
   第三 (略)
   第四 人口増加の方策
    人口の増加は永遠の発展を確保する為出生の増加を基調とするものとし併せて死亡の減少を図るものとす
    一、出生増加の方策
    出生の増加は今後の十年間に婚姻年齢を現在に比し概ね三年早むると共に一夫婦の出生数平均五児に達することを目標として計画す
    之が為採るべき方策概ね左の如し
     (イ) 人口増殖の基本的前提として不健全なる思想の排除に努むると共に健全なる家族制度の維持強化を図ること
     (ロ) 団体又は公営の機関等をして積極的に結婚の紹介、斡旋、指導をなさしむること
     (ハ) 結婚費用の徹底的軽減を図ると共に、婚資貸付制度を創設すること
     (ニ) 現行学校制度の改革に就きては特に人口政策との関係を考慮すること
     (ホ) 高等女学校及び女子青年学校等に於ては母性の国家的使命を認識せしめ保育及保健の知識、技術に関する教育を強化徹底して健全なる母性の育成に努むることを旨とすること
     (へ) 女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採ると共に婚姻を阻害するが如き雇傭及就業条件を緩和又は改善せしむる如く措置すること
     (ト) 扶養家族多き者の負担を軽減すると共に独身者の負担を加重する等租税政策に就き人口政策との関係を考慮すること
     (チ) 家族の医療費、教育費等其の他の扶養費の負担軽減を目的とする家族手当制度を確立すること
         之が為家族負担調整金庫制度(仮称)の創設等を考慮すること
     (リ) 多子家族に対し物資の優先配給、表彰、其の他各種の適切なる優遇の方法を講ずること
     (ヌ) 妊産婦乳児等の保護に関する制度を樹立し産院及乳児院の拡充、出産衛生資材の配給確保、其の他之に必要なる諸方策を講ずること
     (ル) 避妊、堕胎等の人為的産児制限を禁止防遏すると共に、花柳病の絶滅を期すること
    ニ、死亡減少の方策
   (以下略―要綱は第七まで続いている)

 

 

 「出生増加の方策」の根幹として示されているのは、「出生の増加は今後の十年間に婚姻年齢を現在に比し概ね三年早むると共に一夫婦の出生数平均五児に達することを目標として計画す」ということであり、その具体的方策として、今回の託児所問題と関連するものとして、「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採ると共に婚姻を阻害するが如き雇傭及就業条件を緩和又は改善せしむる如く措置すること」とあるのが興味深い。「人口政策確立要綱」の精神からすれば、「未婚・既婚を問わず女子の大量動員がかけられる」などあり得ぬ話なのである。「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制」することで婚姻年齢を早め、出産育児に専念させるのが、「人口政策確立要綱」の描いた構図であった。

 言い換えれば、「人口政策確立要綱」が求めたのは、「家庭内の良妻賢母」としての女性の姿であった。「高等女学校及び女子青年学校等」の女子生徒に求められているのは「母性の国家的使命を認識」すること「健全なる母性の育成に努むること」であって、目指されているのは「被傭者」として家庭の外で労働する母となることではないだろう(「出生増加の方策」の中に託児所設置は含まれていない)。しかし、現実の展開の早さが、「人口政策確立要綱」での目論見を根底から突き崩してしまう。「人口政策確立要綱」が閣議決定された昭和16年の末には、同じ政府は対米英開戦を決断してしまう。「人口政策確立要綱」に描かれた「出生増加の方策」は、米国までを相手にした総力戦の現実の展開の中で意味を失っていくのである。

 

 そのような歴史的展開の中での戦時託児所であり、津田英学塾による「津田こどもの家」の存在なのである。

 

 

 

 多くの男性が兵士として前線へと送られる状況の中では女性の積極的雇用にしか選択の余地はない。それが「近代総力戦」の現実であった。

 米国でもその状況にかわりはなく、そして、実際に多くの既婚女性が、保育所に支えられながら、それまで「男の仕事」とされていた職務を男性に遜色なくこなしたのであった。

 ここでは、大戦時の米国の軍需産業の中の女性労働者の姿を取り上げた記事(「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」)中でも参考にした松本園子氏の論文から、既婚女性の戦時動員と保育の問題にどのように取り組まれたのかについて、同時代の米国の状況を見ておきたい。

 

 

   1941年、ランハム法(Lanham Act)として知られるコミュニティー施設法が成立した。これは軍需生産のために新しく出来た工場地帯において、学校、上下水道、病院、リクリエーションセンターなど公共施設の設置に国費を補助するものであった。
    ランハム法を保育施設設置に適用することは、翌1942年の法修正によって可能となった。この業務を管轄したのは連邦職業庁(FWA、ニューディール政策により設置された職業促進局WPAの後進)であり、FWAはこの法により保育施設設置を促進することを主張した。しかし、社会保障庁、児童局はランハム法のプログラムにより質の低い保育を提供することに反対し、設置に消極的であった。
     (松本園子 「第二次世界大戦期アメリカ合衆国における保育問題」 2005 『淑徳短期大学研究紀要』 44  68ページ)

 

   1941年6月、児童局の後援で「働く母親の子どものための保育に関する会議」が開催された。ここでは、家庭で育児をしている母親こそが本質的な愛国的責務を実行している、という考えのもとに、母親と子供の福祉を考慮する政策を提示することが要求された。
   この会議で承認された総合的なスタンダード集が1942年1月に公刊された。ここには、グループデイケア、フォスターファミリーデイケア、ホームメーカーサービスについてそれぞれの基準が示されたことに加え、次の原則が明らかにされた。
   1、就学前児童の母親に働くことを奨励すべきではない
   2、母親が働きに出る場合は、コミュニティーは子どものケアの計画について親を援助する義務をもつ
   3、乳児は集団保育すべきではない
   4、もし必要ならば、2歳以下の子どもは、自宅でホームメーカーサービスを提供されるか、あるいはフォスターファミリーホームで世話されるべきである
   5、州と地方自治体は、保育の充分な基準を監督し維持する責任がある
     (松本園子 2005  70ページ)

 

   児童局の保育観は、以上のように基本的に母親の労働および、それを奨励する保育所を否定するものであった。そのため、できるだけ働くことを思いとどまらせるよう母親へのカウンセリングが勧められた。また集団保育が否定され、やむを得ず保育する場合は家庭保育に近いフォスターファミリーデイケア(少人数の子供が日中、女性によって彼女自身の家庭でケアされ、ソーシャルワーカーが監督するというシステム)、あるいはホームメーカーサービス(=ホームヘルパー、子供の家庭に出向いて保育する)をすすめた。また特に、2歳以下の子供の母親が働くことを否定し、集団保育を否定した。
   児童局は理想を掲げ戦争の波から子供を護るべく闘ったのであるが、これらは、戦時の社会的要請に合致しなかったのみならず、次章でみるように、働く母親の実態と気持ちにもそぐわぬものであった。ローズは児童局のスタッフは「児童保護の高い基準と、多様なサービスを主張し、保育は長期の問題であることを理解していたのであるが、母親の労働を必要悪とする見解が、彼らが保育の向上に取り組むことを阻んだ。働く母親の子どもが容易く入れる集団保育施設の創設に抵抗することによって、児童局における児童福祉擁護者は状況を現に悪化させることとなった。……保育はかくして、増加する戦争産業の慈悲にゆだねられた」と問題を指摘している。
     (松本園子 2005  71ページ)

 

   戦時労働力委員会は公式には児童局の立場を採用し、幼い子供を持つ母親の雇用に否定的であった。しかし、それは軍需産業側、軍需生産を厳しく求める他の政府機関、そして次章に述べるように、戦時雇用を自分たちの生活とよりよい子育てのチャンスととらえた母親たちのニーズにも衝突した。
   世論も変化した。1936年の調査では、既婚女性の労働に対しては不賛成が82%であったが、1942年のナショナルオピニオンリサーチセンターの調査では、既婚女性も軍需工場で働くべきだという回答が60%であった。
   こうした中で、軍需生産を行う私企業自身が、女性労働者の募集と保持のために保育所を運営する場合もあった。例えば1942年秋、サンタモニカのダグラス飛行機工場は工場の4マイル以内で、しかし「敵の目的の範囲外」に保育所を開く計画を発表した。女性労働者をバッファローの飛行機工場に募集するために、カーチスライト会社は工場ナースリースクールの大きさを二倍にすると発表した。オレゴン州ポートランドのカイザー造船所も保育センターを開いた。
     (松本園子 2005  72ページ)

 

 

 興味深いのは、児童局の一貫した態度であろう(そこに「良妻賢母」イメージを見出し共感あるいは反発するのか、幼児の権利の擁護として位置付けられるものと考えるのかは別として)。いずれにせよ、様々な思惑の交錯する中で、実現した保育システムに支えられながら、既婚女性も労働者として戦時生産に参画していくことになる。松本氏は、エリザベス・ローズの著書に依拠しながら、特に公的な保育の実現事例としてフィラデルフィアの経験に焦点を当てて論じているが、ここでは、女性労働力を必要とした当事者としての私企業の取組事例を引用紹介しておきたい。

 

 

   オレゴン州に大規模な戦時市民住宅団地バンポート・シティーが建築されたが、そこに住み、造船所で働く25,000人の女性労働者のために、カイザーは、二つの大きな保育センターを建てた。所長には、コロンビア大学児童発達研究所前所長ルイス・ミーク・ストールズが就任した。
   建物は「コミュニティーの外ではなく、しかも造船所の入口の前に配置し、仕事の行きかえりの母親の便宜をはかった。1,125人の幼い子ども一人一人に、あるいは一日三交代の375人それぞれに適応するような広さがあり、斬新な舵輪のデザインは、広い芝生の遊び場と、四つの子供用プールと、一五の保育室を囲んでいた。広い保育室の窓から、子供達は母親が働く船を見ることができた。
   各センターには、訓練されたナースのいる診療所、ソーシャルワーカー、充分なスタッフのいる調理室が備えられた。
   子どもたちの食事に加えて、勤務を終わった母親の家族のための持ち帰り食もここで用意された。「ホームサービスフード」と呼ばれたこのプログラムはエレノア・ルーズベルトによって示唆されたものであった。食事は、栄養バランスがとれ、きっちり包装され、「再加熱してサラダと野菜を加えることによって完全なディナーになります」、という注意書が入っていた。一人前50セントで、一食で大人ひとり子どもひとりを満足させた。
   カイザー保育センターにおける入所数は最高時1944年9月に1,005人となった。当初の目標には到達しなかったが、カイザーセンターは、私企業がなしうることの見本とされた。とはいえ、これは純粋に私企業が行なった取り組みではなく、連邦政府が間接的に資金補助を行い、合衆国海運委員会が建設費を負担した。
     (松本園子 2005  72ページ)

 

 

 用意された保育施設のレベルの高さには驚かされるしかない。

 このような国との全面戦争を選択したのが、わが大日本帝國なのである。

 

 

 その日本での戦時託児所開設を支えたのは、以下のような論理であった。

 

 

   戦時保育の第一の特徴は教育と保護の機能が一体化した点である。当時、東京市健民局母子課長を務めてた苅宿俊風(1998-?)は、東京市が推進した戦時託児所という名称につき、「保育所といふことにすると、外来の思想の臭気がするし、託児所といふと、従来の貧困階級のことを思はれて、この度の設置方針が諒解せられないのではないかと憂ひましたが、戦時と託児所と離れてゐるのではなく、一気に一つの概念として戦時託児所」としたと、苦心の跡を述べている。その対象を見ても、

     ここには入つてくる子供は、従来東京市がやつてゐたやうに、生活に余裕のない家庭を対象にしてゐるのでもないし、又従来の幼稚園といふののやり方、それはやはり生活に余裕のある家庭の子弟を見るといふことにあつたやうに思ふが、これでもないのである。(後略)
    (前略)全体を対象として一人の有閑者をも無からしむる施設にして行かうといふ新しい性格を持つているのである。

と所信を披歴している。
     (金慶玉 2015  26~27ページ)

 

   東京市はまず、1943年に既存の方面館などの公立保育施設46ヶ所の名を戦時託児所と替え、一ヶ所につき予算年額8千円を設定して166ヶ所の設置を目標にし、その性格も時局に対応したものとした。戦時託児所の設置方針は次の通りである。

    一、時局の要請に副ふべく、みんな働けるやうに。戰時生産に役立つやうに。
    二、働くと言つても工場だけでなく、種々の職場に於て働く。都市に於ては、知識階級の方面の婦人も大いに働いてゐるから、かういふ方面にも役に立たせるやうに。
    三、大東京の外周には農業を営んでゐる所がかなりあるので、食糧増産といふ方面にも役に立つやうに、季節託児所といふことも都市では考へる。

戦時期「銃後の努め」の完遂を求め、都市と農村を含んだすべての職場において、戦時生産に全力をあげるように、これが設置方針であった。さらに食糧増産のため設けられた季節託児所も戦時託児所と同じ方針の下に、都市に於いても設置が進められていた。
     (金慶玉 2015  30~31ページ)

 

 

 戦時動員として目指されているのが、「時局の要請に副ふべく、みんな働けるやうに」という状況であり、それは「全体を対象として一人の有閑者をも無からしむる」ところまで徹底されなければならない。 

 「人口政策確立要綱」では、「人口増加の方策」として、「女子の被傭者としての就業に就きては二十歳を超ゆる者の就業を可也抑制する方針を採る」ことが明言されていたが、「時局の要請」は、「一人の有閑者をも無からしむる」方針へと転換され、「女子の被傭者としての就業」こそが国策となったのである。そのための戦時託児所なのであった。

 

 

 小平地域について言えば、今回の主役である「津田こどもの家」に加え、『小平市史』には1945年3月に開設された「小平戦時託児所」の存在が記されている。

 

   一九四五年三月、小川一番に都立小平戦時託児所が開設されたが、空襲の激化から戦時託児所制度自体の廃止とともに、同年六月に閉鎖された。小平戦時託児所は戦後、都立小平保育園となった。

 

 この二ヶ所とは別に、小平青年学校が関与した農繁期託児所の存在が、青年学校教諭であった伊藤為次氏の日記に登場する。

 

   五月四日 (木) 農繁期託児所を青年学校で開設するため、女子職員、校長が青梅に行き見学。
   六月十四日 (水) 託児所開設、幼児四十五名が集まる。
     (伊藤為次 『小平戦中日記』 昭和19(1944)年の条 『そのとき小平では Ⅵ』 2008  24~25ページ)

 

内容からすると、例年のものではなく、昭和19年に新規設置されたものに見える。『そのとき小平では Ⅵ』に掲載分では、翌昭和20年の日記には農繁期託児所についての言及がない。しかし、そもそもが抄録なので、現状では昭和20年の託児所設置の有無については結論めいたことは言えない。19年に幼児45名の利用があることからすれば、地域として必要な施設であったようにも見える(状況の悪化により、津田こどもの家が20年3月―『小平市三〇年史』では「昭和二〇年四月三〇日限り」とされているが―に、小平戦時託児所も6月に閉鎖となっていることからすれば、20年6月という時点での農繁期託児所の開設は困難であったのかも知れない)。一方で、開設に先立ち「青梅に行き見学」とあるところからすれば、小平地域には参考となる農繁期託児所の先行事例がなかったことを推測させる。

 いずれにせよ、津田こどもの家、都立の小平戦時託児所、そして小平青年学校の農繁期託児所の存在も確認されたことからすれば、小平地域での託児所には社会的ニーズがあった、とは言えそうである。

 

 

 

 再び、津田こどもの家に戻ろう。

 

 

 「校舎と道を隔てた三〇〇坪の校地に、総工費四千六百円、建坪七〇坪の園舎」(『小平市史』)、「校内の雑木林三〇〇余坪の林の間に新築された木造平屋五四坪の建物(『小平市三〇年史』)」と建物の坪数に異同はあるが、いずれにせよ、昭和14(1939)年に津田こどもの家は完成し、託児所として開設される(ちなみに、『小平市史』『小平市三〇年史』共に「津田こどもの家」表記だが、金慶玉論文では基本的に「津田子供の家」表記が用いられている)。

 金慶玉論文には、

 

   託児所を開所してから一ヶ月が経った1939年10月1日、託児所委員会は、戦時物価高による建築費の高騰を背景とする1939年10月から1949年3月までの「経営費の不足は四、五百円見当と目される」と述べている。
     (金慶玉 
「戦時期における農村託児所の研究―「津田子供の家」を中心にして―」 2017 『アジア地域文化研究』 13  31~32ページ)

 

とあるが、「建築費の高騰」は、事変拡大がもたらしたものであり、戦時動員の帰結でもあった。

 

  日中戦争期における生産力拡充の根本的な制約要因は、外貨不足であった。国際収支改善の観点から輸入制限と配給統制の必要性が生じたが、木造住宅の主要な建築資材の1つである木材については、1938年7月、米松販売取締規則の施行により使用制限が開始された。1940年の「外材ノ輸入ハ前年[1939]ニ比シ著減シ、殊ニ米材ハ外貨節約ノタメソノ輸入ハ昨年ノ約六割ニ減少」した。1940年度の木材需給は「内外地ヲ通ジテ生産ハ需要ヲ賄フ事ヲ得ズ、相当量ノ手持ヲ喰ヒ込ンデ辛ジテ需給ノ均衡ヲ保ツ」状況であり、翌41年度の見通しとしては、「木材ノ需給ハ今年[1940年]以上ニ逼迫ヲ告ゲルニ至ル」ことが想定された。したがって、木材の「配給機構ヲ整備シ不急ノ需要ヲ抑圧スル」ことが求められた。この「不急ノ需要ヲ抑圧スル」手段の1つとしてすでに実施されていた政策が、建築統制であった。
   1939年11月、木造建物建築統制規則が施行された。同規則により、延床面積が30.25坪を超える住宅[共同住宅を除く]を新築する際には、原則として、地方長官の許可が必要となった。この背景にある問題は資材不足、とりわけ主要な建築資材である木材不足の深刻化であった。
     (小野浩 「戦時総動員体制下の住宅供給」 2017 『産業経営研究』36  6ページ)

 

  住宅建設の建築技能者(大工、左官、現場監督者等)は、兵士にとられたり、また賃金の高い軍需産業及び生産力拡充産業に転職する傾向にあり、またそれが容易であったため技能者が減少した。建築技能者の徒弟制度は崩壊しつつあり、技能者が養成されなかった。そのため絶対数の減少は、必然的に建築技能者の賃金の上昇をまねいた。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  439ページ)

 

 建築資材不足も建築技能者の絶対数の減少も、「事変完遂」の国策が招いたものであった。このような条件下での「津田こどもの家」の建設であり開所であった。金慶玉論文によれば、

 

   ところが、特に目立ったのは東京府からの助成金である。…(金額の詳細は略)…。当時「津田子供の家」の託児所委員であった三上加那於は、「学校の附属といふので特別に奨励便宜」が与えられたと述べている。社会事業法の下で運営された託児所の拠り所として、東京府からの支援が機能していたことがうかがえる。
     (金慶玉 2017  31~32ページ)

 

公的助成金による資金面での支援は重要であった。さらに、

 

   食糧や物資が不十分であった戦時期にも拘らず、「津田子供の家」の子どもの健康が良好で、しかも全国の子どもと比べても優っているのはどういうことであったのか。そこには、配給における便宜が与えられていた点を見逃してはならない。「副食物給与に関しては不自由のない様、村で醤油味噌砂糖特配の便宜をはかつて」くれたと、当時の「津田子供の家」委員長の三上加那於は述べている。さらに、農村という特性もあって、「農家からは野菜、魚屋さんからは魚といふ風に新鮮なものがに入るし、役場の特別臨時配給として醤油味噌砂糖等入要だけ頂けるので今でもちつとも不自由なしでやつて居」り、「おやつは府の社会事業協会から配給されるぱん菓子飴の他甘藷、じやがいも、おにぎりの加工したもの、蒸パン、焼パン、ホツトケーキなど工夫してやつて居」たと保育主任の横澤は説明している。このように食糧配給においても特配という名目で便宜がはかられていたのは、「津田子供の家」が東京府社会課と社会事業協会から持続的に支援されるほどの関係にあったためである。1939年10月の開所式で朝原が述べたように、戦時厚生事業として食糧増産に役立つ託児所の設置が打ち出されていた状況下、一つの託児所もない小平で、全ての施設と人材を備えた女学校が国策に沿って運営されるということは、「表面的には目立たぬ事業であるが、国花桜花の裏をなす梅花の」ようなものだと期待されていた。
     (金慶玉 2017  35~36ページ)

 

様々なルートでの便宜供与による支援があった。地元小平にとっても、支援すべき施設と認識されていたことがわかる。

 

 津田側も、ただ外部からの支援に頼るだけではなかった。

 

   1939年7月10日の学業終了後、生徒は通学生も教師もみな班別に分けられ、寮舎に泊まりながら、夏季集団勤労を実施することになる。

    各生徒は必ず五日間寄宿舎に止宿し、二名乃至四名づつの指導教師監督の下に班長、副班長及び各係を定め、十一より厳粛に勤労生活を始め

ている。生徒たちは、

    朝五時半の起床より夜九時の就床まで、規律正しきプログラムにテニスコートの草取り、託児所の基礎工事(石運び、タコツキ)、硝子洗ひ(五番町で使い古した硝子障子がこんど託児所の戸になります)さては薯掘、食事の用意、舎内外の掃除

などをやっていた。全校三百数十名が参加した当時の状況を『朝日新聞』は、「テニスンやワーズワースの詩集代わりにスキやクワを握ってその一振り一つきに尊い汗の奉仕を続けてゐる」と述べている。
     (金慶玉 2017  36~37ページ)

 

基礎工事の段階から、生徒が積極的に参加していたというのである。

 

 

   津田英学塾は英語専門の女学校だったので、学校のカリキュラムには保姆養成や保育と関連する科目はなかった。文部省は1932年、高等女学校の既設科目から、専門的な知識だけを授け実際生活に適切ではないという理由で「法制」と「経済」を削除し、代わりに公民科を設立した。また1936年からは体錬と教練、家事、裁縫が重視され、1943年には外国語が任意の科目となり、代わりに家政科に主力を注いでいた。こういう時局を背景にして、藤田は1941年の『社会事業』で、津田英学塾が「新学期より児童心理学を新たに教科内容に加へこの託児所を生徒の実験室とする計画をとつてゐる」と述べている。
   実際に1941年の春から学科の変更があり、国語は週一時間、東洋史は週二時間増加し、新たに二年生を対象に児童心理学が週一時間、三年生を対象に科学の時間が設けられ、優生学と遺伝学を教えていた。それは戦時という時局において、銃後部隊としての役割が期待された女学生への教育であった。同時に作業の時間も設けられ、校舎、寮舎内外の掃除と、約千五百坪の畑への種蒔きと除草が女学生に課せられた。1941年3月18日に結成された津田英学塾報国会は、前述のように銃後奉仕部を設けて映画会などを開催し、託児所援助や傷病兵慰問、出征軍人遺家族慰問なども行った。「津田子供の家」は1942年の時点で二人の保姆と一人のお手伝い、そして塾の女学生が交替で手伝っていた。女学生は託児所の建設当初から建設の後まで、勤労奉仕という名目の下、労働力を提供し保育を援助する役割を果たした。また保育報国が唱えられていた時代を反映して、学校の側でも児童心理学の科目が開設され、女学生には託児所がその実験室として提供されていた。
     (金慶玉 2017  37~38ページ)

 

 科目としての児童心理学の追加は、託児所を、学校との関係においても、より実質的なものとしていこうとする方向性を示すものだろう。また、新たに設けられた「科学の時間」の内容が「優生学と遺伝学」であった。先に紹介した「人口政策確立要綱」の「第五 資質増強の方策」の項には、「資質の増強は国防及び勤務に必要なる精神的及肉体的の素質の増強を目標として計画す」とあり、「(ト) 優生思想の普及を図り、国民優生法の強化を期すること」と記されている。まさにそのような国策の下での「科学の時間」であった。

 

 

 戦争の進展の中で(より直截に表現すれば、戦局の逼迫の中で)、津田英学塾も戦時日本の軍産複合状況の中に、より大きく組み込まれることとなる。

 

 

   津田塾の女子学生たちも学徒勤労動員で、軍需生産に携わった。一九四四(昭和一九)年三月から校舎は日本航空機立川工場の分工場となった。ある教員は「厚い板金からのゲーヂ作り、複雑な電纜組立作業、精密を要する諸検査、写図、扨は物理科一年生による合金鋳造部の御仕事。これ程に充実した内容をもつ学校工場は他に存在しないであらう」と「津田塾工場」の充実ぶりを誇っていたが、工場は生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当しており、「マコトに純真な学徒が責任を与えられてする仕事ぶりの素晴らしさには頭が下がる」と語っていた。またある学生は「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女性学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」と述べている。しかし学業への思いも捨てがたく、学生たちは昼夜三交代制で働きながらも、特に希望をして、一日一、二時間の授業を受けたという(『津田塾六十年史』)。
   以上のように、「女性も労働力に」との国家からの働きかけに応える中で、女性たちは職場で働くことの誇りや喜びを味わい、男女対等の意識を芽生えさせていったが、同時にそのことが戦争を支えることにもつながっていった。
     (『小平市史』  329~331ページ)

 

 

 「工場は生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当して」いたという点は重要であろう。動員による戦時協力は、一方的に強いられただけのものではなく、女子が主体的に社会参加する経験をもたらすものでもあった。

 

 

   小平では戦時開発によって生まれた総力戦関連施設に、女学校や高等小学校を卒業したての女性の就職が増えたほか、小平農業会では最初の女性課長が誕生して新聞の話題となった。戦時の労働力不足が、結果として女性の就業機会を拡げていったのである。
   隣接する田無町で、ある女性が男の仕事とされていた郵便集配人に志願し、立派にその役目を果たしているとして新聞に紹介された。彼女は「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらつてゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」と語った。ここからは、男性と同等に働けるという喜びや誇りをもち、あるいは男性同様に国家に貢献しているのだという思いをもって、働いていたことがわかる。
     (『小平市史』  329~331ページ)

 

 

 田無町の女性の、「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらつてゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」に込められた自負には注目しておくべきだろう。

 戦時動員は、為政者の思惑を超えて、動員された女性達に、男性と女性である自分が同等であること(それは「男に出来るのに女に出来ないといふことは無い」という言葉に集約される)を経験させてしまったのである。

 

 

 

 戦後フェミニズムの起源は、GHQの占領政策の陰謀的性格にあるのではなく、それ以前の大日本帝國における戦時体験にあるというべきであろうか(註:1)。

 

 

 

   こうした社会状況の中で、津田塾では昭和一九年(一九四四)の三月以降、体育館と生徒控室を工場に充て軍需品生産に当たっていたが、昭和二〇年(一九四五)四月、寮生はすべて東寮に移り、校舎本館の大部分と西寮と運動場の一部を東部第九二部隊に貸与することが決まった。移転を急いだ東部第九二部隊は、契約書も正式に作らないうちに五月六日到着、部隊は津田塾の門標をはずして、部隊の門標を塾の正門両側に麗々しく掲げた。いわゆる門標紛失事件が起きたのはこの夜のことで、塾生四人が軍の門標をはずして玉川上水に流したのである。軍はこの行為を重くとがめて、軍法会議にかけるといきまいた。塾長の星野あいは生徒の不始末の責任者として軍に謝るとともに、軍の門標を片側だけにしてほしい、事件の起こったそもそもの原因は軍が塾の標札を取外したことにあるのだから、と条理を尽くして話した。その結果、軍の上司は塾長の願いを受入れ、四人の処分を学校に委ね、四人は塾長に始末書を書くだけで済んだのである。空襲は相ついだが、幸い塾は無事であった。
     (『小平市三〇年史』  258~259ページ)

 

 

 「反戦的武勇伝」として取り扱うことも出来るだろうが、「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女性学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」という、国策と共に生きる塾生の姿を見ないふりする必要もないだろう。

 日々、主体的に「何か直接お国の役に立つ仕事」をしている自負があればこそ、「津田塾の門標をはずして、部隊の門標を塾の正門両側に麗々しく掲げた」軍の行為に見ぬふりをするわけには行かなかった。そのようにも見える。

 

 戦時期の津田英学塾(現・津田塾大学)は、託児所(津田こどもの家)の設立、そして軍需工場(日本航空機立川工場の分工場)及び軍部隊(東部第九二部隊)の受け入れと、国策としての戦争に組み込まれていくことで、多摩武蔵野地域の軍産複合状況を経験していたのである。東部第九二部隊は「軍」そのものであり、日本航空機立川工場分工場は軍需産業としての「産」そのものであり、まさに軍産による英学塾への侵入であった。託児所については、根底に地域社会との親密な関係構築への希求があったと同時に、戦時期の食料増産要求を満たすものでもあった。そのような意味で、津田英学塾は、総力戦下の多摩武蔵野地域の軍産複合状況を集約した場でもあった。「総力戦」は当事者の意思など呑み込んでしまう(総力戦に対応すべきはずの「人口政策確立要綱」の構想は、まさに総力戦状況の中で崩壊した)。

 いずれにせよ、当時の軍を相手にして譲ることなく塾生の側に立ち続けた、塾長の星野あいの姿には感銘を受ける。

 

 

 

【註:1】
 松本園子氏の論文の問題意識は、戦後日本の児童福祉法(1948)の先進的な内容、そこに示された公的保育制度の理念への占領軍の影響の有無を明らかにすることであった。

 戦時期の米国に先進的な保育制度が確立されていて、それが占領期に移入された

そのように考えることが正しいのか否か?
 その問題意識に基づき、米国の戦後については、

    戦後のアメリカ合衆国の保育の動向については、同国の研究者が「非制度 (non system)」と表現しているように、保育の公的保障は、貧困層に限定され、一般には営利的保育サービスを利用する以外に無い、という状況にあるという。
     (松本園子 「アメリカ合衆国における保育問題の歴史」 2004 『淑徳短期大学研究紀要』 43  98ページ)

このような状況にあることが確認され、

   まず、保育政策動向については、戦時労働力政策として、連邦の補助金が保育施設して支出され、公立保育施設が各地に誕生し、数十万人の子供が保育を受けた。しかし、この施策は恒久的な制度となることはなく、戦争終結とともに終了した。一部の私企業によってかなり水準の高い保育施設も設置されたが、これはあくまでも戦時の女性労働力吸引策であった。教育行政サイドでも、労働力対策として学校施設を利用した学童保育サービスが行なわれたが戦後への継続はなかった。
   一方、連邦児童局は、家庭と母性重視が児童福祉の根幹であるという強い信念のもとに、戦前から一貫して母親の労働と保育に反対であり、戦時、母親の労働が強く要求されたときも基本的にこの立場を変えなかった。やむを得ぬ場合は保育所の集団保育ではなく、家庭的保育で対応するという方針に終始し、現に必要とされた保育所の改善と充実の努力はしなかった。
   このように、米国における為政者側のどの陣営にも、戦中・戦後期、保育所を通常時に一般的な制度として実施することを支持する考え方は存在しなかった。このような状況では、日本の新しい保育所制度誕生について占領軍の積極的な関与はありえない、といってよいであろう。
   戦時の米国において、保育所利用者側には、伝統的性別役割を乗り越えた「共働き」という言葉に象徴される新しい女性労働観、保育所観の芽生えがあった。CIO女性助力者の保育プログラム案は、そのような新しい保育所観の成果である。しかし、これらは大きなうねりとなって全体の状況を変える力とはならなかった。戦後の継続的運動は、日本の戦後期の盛んな保育運動を思わせる展開があったが、一部の例外的なものにとどまった。これらも、日本の保育所制度誕生に影響があったとは思えない。
   したがって、戦後児童福祉法による保育所制度は、戦後期までの日本の保育の進展と、戦後改革期の時代のエネルギーから生まれた成果であるといえよう。
   なお、戦後日本の保育についてみると、先進的な保育所規定とは裏腹に、消極的で限定的な保育行政が続けられてきた。ここには、米国の児童福祉の色濃い影響が読み取れる。
     (松本園子 2005  81~82ページ)

との認識が示される。あらためて抜き書きすれば、

  米国における為政者側のどの陣営にも、戦中・戦後期、保育所を通常時に一般的な制度として実施することを支持する考え方は存在しなかった。このような状況では、日本の新しい保育所制度誕生について占領軍の積極的な関与はありえない、といってよいであろう

これが松本氏の結論である。
 現在の日本の保育所制度は、GHQの占領政策がもたらしたものと考えるのではなく、戦時日本の遺産として取り扱うのが妥当なようである。

 

 

 

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  軍産施設の進出に伴う集団住宅建設問題(住宅営団と東京瓦斯電気のジードルング)

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-22a7.html
  武蔵野台地上での水源確保の困難を営団住宅の給水問題を通して再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-242c.html
  『国分寺市の今昔』(2015)巻末の一覧を用いて軍産施設設置状況を再確認

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-b433.html
  箱根土地の小平学園開発と販売戦略としての小平簡易水道設置とナチス礼賛広告

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-6ff4.html
  「津田こどもの家」を中心に、総力戦下の女性動員と託児所の役割

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html
  木材供出で姿を消した青梅街道の欅並木と「木造船建造緊急方策要綱」

 「グローブマスター機墜落 (軍産複合地域としての昭和十年代多摩 戦後編-1)
  http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-511f.html
  1953年の小平町のグローブマスター機墜落事故と沖縄の現在

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/08/31 15:39 → https://www.freeml.com/bl/316274/321011/
 投稿日時 : 2018/08/31 15:43 → https://www.freeml.com/bl/316274/321012/
 投稿日時 : 2018/08/31 15:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/321013/

 

 

 

 

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2018年7月30日 (月)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、「多摩(武蔵野)地域」の全体を視野に入れつつ、特に(「武蔵野」の名を冠した)武蔵野美術大学の所在地でもある現・小平市に焦点を合わせながら、既に8本のブログ記事としてアップしてきた(記事カテゴリーとしては「多摩武蔵野軍産複合地帯」)。

 小平に設置された軍事施設の特質(「近代総力戦状況」の中でのそれらの施設群の持つ意味)を明らかにする(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)と共に、軍事施設の立地と地勢的条件の関係を、より具体的なものとして理解することに努めてもきた。

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」では、矢嶋仁吉氏の1939(昭和14)年の論文を読むことで、40年代に本格化する小平地域の軍事化の直前の小平の状況を、地理学者の眼を通して理解・把握することを試みた。

 小平地域の「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、「大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」のであって、居住者にとっての「飲料水問題」の切実さ(飲料水確保の困難)を矢嶋氏は繰り返し指摘していた。

 そのような地勢的条件を前に、「小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置」する形で対処したことを示しておいた。

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」では、再び小平地域での地下水源の確保と給水能力の問題について、住宅営団による戦時期集団住宅として建設が開始された小川地区の中宿住宅の事例を切り口に、より詳しく取り上げてみた。矢嶋論文の指摘するように「10-15m」の地下水面(ただし不圧地下水面である)への到達さえ困難であったのが、近代以前の小平地域での各戸を事業主体とした井戸掘削の状況であった。しかし、昭和10年代の小平に設立された軍事施設では、「深井戸」の掘削による(100メートルを超える深度からの)被圧地下水の確保・供給を実現したのである。

 

 

 

 今回は、あらためて小平地域における「水の確保の困難」の問題を取り上げたい。自ら深井戸を掘削し給水システムを整備した「大きな力」としての戦時期の軍に加え、大正末から宅地開発に関わり簡易水道を整備した民間土地開発事業者の姿について記しておこうと思う。まず取り上げるのは『小平市三〇年史』(1994)の記述である。

 

 

  開拓当初の小平では玉川上水から水を得たが、時がたつにつれて飲用水は個々の井戸から得るようになった。まだ小平が純農村のころの話である。
  大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である。終戦後急激に居住者が増え、施設を拡充する必要に迫られ、給水申込には権利金が必要とされるようになった。
  昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた。その関係者で地元に住んだ人は、普通農家に間借りしたり、その宅地内に住んだりしたので、とくに水に対する新たな配慮は要らなかった。
  続いて終戦前後相次いで建設された集団住宅はどうであったのか。日本住宅営団による集団住宅は桜上水(二一六戸)、旭ヶ丘(七七戸)および中宿(二一四戸)に建設され、それぞれ昭和一八年(一九四三)、二一年及び二二年に合計五〇七戸が入居した。
  桜上水と旭ヶ丘では四軒に一井の割で井戸が掘られた。桜上水の井戸は水脈に当ったせいか、水の出はまことに良かった。最初は手押しポンプであったが、昭和二四(一九四九)ころからモーターによるポンプと台所までの給水管が設けられ便利となった。一方、旭ヶ丘の井戸は水の出が悪かった。水の不足を訴える家はかなりの数にのぼり、夜間水の出の良い井戸のある家に水をもらいに行ったり、洗濯には近くの玉川上水や新堀用水の水を使ったりしてしのいだ。深い玉川上水に綱のついたバケツを下げてくみ上げるときの苦労を語る女性もいた。小平の地下水は深いところにしかないのを知らない人が掘ったのではないかともいわれた。
  中宿では浅井戸三二井が掘られたが、これも地下水が深くてほとんど使いものにならなかった。いち早く自治会が結成され、対策が練られた結果、隣接する厚生省職業訓練所(前東部国民勤労訓練所・現東京職業能力開発短期大学校)の深井戸から水を運ぶことになった。人手による根気のいる作業だった。その後関係者の好意で中宿住宅の中央部まで一本の給水管が延長されて共同水栓が設置された。しかし、その後も居住者は増える一方で、この共同水栓だけでは賄い切れなくなった。そこで、自治会より広い組織の中宿居住者組合で水対策を検討、坂北の旧兵器補給廠小平分廠の給水施設を利用したらどうかということになった。早速坂北、本町、旭町地区の代表者の賛同を取りつけ、小川中宿居住者組合と坂北生活協同組合の名で大蔵省東京財務局に使用許可の申請がされる。昭和二四年(一九四九)八月に許可が下り、それを受けて各地区の代表者によって給水事業計画が練られた。このとき「小川給水組合」として発足できるよう努力を重ねたが、施設費用などの負担問題で組合の結成には至らず「小川給水組合」の名目で実質経営は各地区代表者(発起人)が当たることとなった。そして昭和二八(一九五三)に関係自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し、新たに「小川水利協会」を結成、翌年一月から新しい機構で運営することになった。(付図は略)
  給水人口は一九九〇人、一日最大給水量五〇〇立方メートルであった。
  しかし水道事業の重要性を考えると、任意団体の運営では住民の福祉向上を図るには困難な点が多い。役員会議でも水道施設を町に移管し、町営水道として経営するのがよいとの意見の一致をみて、その体制の整備を念頭におきながらの経営となった。また小平町のほうでも大蔵省から、水源施設を民間の任意団体に貸与するのは好ましくないので、早く町営にするようにと指摘されていた。
     (大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター編 『小平市三〇年史』 1994  329~331ページ)
 

 

 

 「昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた」とある。

 「大きな力」を背景として「必要で十分な深井戸による自家水道を設け」ることをなし得た「公共施設」として、東部国民勤労訓練所と陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠が示されていることになるが、その背後にあった「大きな力」とは厚生省であり帝國陸軍である。そもそも厚生省は陸軍の要求により設置されたものであることを考えれば、ここでの「大きな力」を「軍」として理解することも出来るだろう。

 『小平市三〇年史』には、「大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である」との記述があることも見落とさないでおきたい。民間の開発事業者の「力」もまた、「深井戸」を「水源」とした「水道」を実現していた(「小平簡易水道」と呼ばれていた)のである。

 昭和10年代の小平地域には、公的インフラとしての(すなわち村営あるいは町営の)「水道」は存在しなかったが、軍と民間の土地開発業者は、それぞれの「力」で自前の給水システムを構築していたのである(村や町にはそのような「力」はなかった)。

 

 

  市では予想を超える人口増加に伴い、市制施行直後の昭和三七年(一九六二)一一月に全市水道構想を見直し、水道事業変更認可申請を厚生大臣に提出した。すなわち昭和三八年度から実施する給水区域を拡大、市域のうち小平簡易水道区域を除く区域とするもので、昭和四四年度の給水目標人口を六万人と設定、一日最大給水量を一万九二〇〇立方メートルとし、深井戸一三井と浄水場を一か所建設するという計画であった。
  一方、これまで学園西町と学園東町を給水区域として経営してきた小平簡易水道(国土計画株式会社)は、昭和四〇年(一九六五)一月三一日までという期限付で東京都知事の許可を受けて行われたため、当然、期限が来ると市への移管となるべきもので、水道法により公営事業の経営主体は地方公共団体がなすべき事柄であった。
  その上、簡易水道の給水区域の学園西町、学園東町は人口の急増地域でもあり、その施設の老朽化に伴い、住民側から市営統合を望む声が次第に大きくなり、昭和四〇年二月一日市営水道への移管が実現、ここに全市域が市営となった。同年度末の行政人口は一〇万八九四九人、給水人口は三万八五〇四人で、普及率をみると三五・三%であり、今日の一〇〇%と比較すると隔世の感がある。この三八年度から開始された水道拡張事業は、後に第一次拡張事業と名付けられた。
     (『小平市三〇年史』  575ページ)
 

 

 

 小川水利協会の運用した給水施設(そもそもは軍の「大きな力」による施設である)は町営水道に統合され、国土計画株式会社の小平簡易水道(民間土地開発事業者の大きな力による施設である)が市営水道に統合されたのは昭和40年になってのことだったが、その時点での市内の水道普及率は35・5%にとどまっていた。もちろん、そこには戦後の小平地域での人口の急増という背景があることも確かではある。しかしいずれにせよ、昭和10年代の軍関連施設の給水設備が戦後小平の町営水道のルーツとなり、それに先立つものとして箱根土地株式会社による小平学園開発の際の小平簡易水道があった。

 

 

 ところで、矢嶋仁吉氏の論文では、小平学園地区の開発について以下のように記されていた。

 

 

  尚、本地域の南部の一部に、碁盤目状の地割を施した所がある。この地域は同村の一部に過ぎぬもので、前述の如く、商大予科の校舎設定後、土地会社の手によって、区画された地域である。その計画では、商科大学予科の校舎を中心とし、その周囲に住宅地、焦点地域を区画し、国分寺駅より主要道路を設け碁盤型の3間道路を縦横に通じて、田園都市化せんとしたところである。そのため、新田開発当初よりの短冊形の地割は一部崩壊し、従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実である。かかる例は省線国立駅の南方、商科大学の校舎附近に於ても見るところであって、井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様である。本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要であろう。
     (
矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 『地理学評論 11』 1939  24ページ)

 

 

 矢嶋氏は論文執筆当時の小平学園地区について、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」とその開発状況を記し、その理由として「最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実」だと主張している。同じ箱根土地株式会社による国立の学園都市計画についても「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」との評価を示しながら、「本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要」との判断を加えている。

 しかし、実際には小平学園都市計画の下で、「土地会社」は深井戸を水源とする小平簡易水道を用意していたし、国立学園都市においても、その計画の当初から、インフラとしての給水システムの整備は織り込まれていたのである。

 

 小平簡易水道については、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」をまとめていた時点で、『水道事業概要 昭和58年』(小平市水道業務課・工務課 1983)中に言及があるのには気付いていた(註:1)。そこで早速、「小平簡易水道」をネット検索したのだが、一件もヒットしない状況であった(言うまでもない話だが、「一件もヒットしない」ことは、ある事実が存在しないことを意味するのではなく、まだ誰もその事実についてネット上にアップしていないことを意味する可能性も考えておかねばならない)。小平市水道業務課・工務課による『水道事業概要』にある以上、その存在を疑う必要は感じなかったが、『水道事業概要』の記述からだけでは、小平簡易水道の設置年代が判然とせず、矢嶋論文執筆時点での給水システムの実状はわからなかった。今回、あらためて『小平市三〇年史』の記述を通して、矢嶋氏の認識に不正確なところがあったことが判明した次第である。

 

 

 箱根土地株式会社(堤康次郎)による学園都市開発については、渡辺彰子 編・執筆による『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』(株式会社サトウ 2015)に様々な資料が掲載されている。

 

 ここではまず、「堤康次郎(談)」として掲載された「分譲地の賣價算定に付て」と題された、昭和15年10月19日の文書からの関連事項の抜き書きを示す(ここでは影印に付された現代語表記による書き起こしを用いる)。

 

 
   箱根土地会社は世間の一般的土地売買業者もしくは信託会社など、その性質内容が根本的に異なっておって箱根土地会社においては単なる仲介により法外なる手数料を取るが如き事をなさず、土地の加工施設に重点を置き即ち原料たる土地を仕入れてこれを製品化するというような、いわゆる国土計画に則した住宅地の造成を行っているのである。例えば国立の土地についていうならばそこは太古玉川の流れのあとで、わずかな表土の下は十数尺の砂礫層で農耕地にはもちろん林業を行うにもまったく不適当な土地である。
   …(中略)…
   この意味において会社は国立に停車場を新設し道路、水道、下水等あらゆる文化的施設を加え、そしてこれを住宅地に改造したのである。それでその土地の価格はどうかというに今まで山林として顧みられなかったものが、その加えられた文化的施設によって住宅地としての価値を生じた訳である。
   しからばその山林を買収してからこれに手をかけ、すべて分譲に至るまでの経費は一体どの位かかるか、どの位の割合を要するものかというと国立は地上物は別であるが土地は一反千円で大体全体の七割を買収したが百万坪の土地を権力を用いずしてひとまとめに纏めたのであるから、その困難は到底想像以上で筆舌の尽し得るものではなく中には先祖伝来の土地坪百円でも売らぬと頑張られてついに大連まで出かけて行って坪当たり六十円でようやく買収した数千坪の土地もあったが、平均の買収価格は坪当たり地上物を含んで七円五十銭に当っている。それを道路に一割五分を潰し、道路の工事費に地価の約一割を費し、水道、下水、電燈等の工事費に又一割五分を要し、停車場の工事費、その他測量、設計、監督、舗装、公課に対してかれこれ一割を要している。なおこれに又金利、営業費等を加えると、原価は土地買収価格の約倍額に当るようになる。
     分譲地の売価算定に付て (『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』  240~241ページ)

 

 その先では、実際の予算書内容も示されている。

 

  大正十二年国立建設着手当時の計画書による建設費予算書
  一、金一千四百万円也 建設費予算総額
   一、金八十万円也 水道工事費
     但し幹線導水本管埋設 延長二万九千五百六十円 平均間当り金十五円也及び水源工事費、配水槽工事費ならびこれに伴う諸機械および器具費共三十五万六千六百円也を含む
     (同書 242ページ)

 

当初予算の段階で、幹線導水本管埋設 水源工事費、配水槽工事費ならびこれに伴う諸機械および器具費を含む形で「水道工事費」が計上されているのが確かめられる。

 「写真から見る国立大学町誕生の頃」と題された第一章には、「水道源池」の写真が掲載されており、以下の解説が付されている。

 

  水道源池とは、水道を供給するために地下水を汲み上げる施設の場所です。箱根土地の大正14年12月1日から大正15年5月までの国立大学町「起工・庶務概要」に「水源第1号鑿泉(さくせん)を完成せり」とあります。又、大正15年9月発行の分譲区分図に、水道源池の場所がはじめて示され、その説明によると地下水は地下四百尺を掘り抜いて湧いたとされています。場所は中央線北側、国立駅舎より約二五〇m東の高台で、ここより水道管を埋設し線路下の土手をくぐらせて南側の国立大学町へ水道水を供給しました。

 

 「場所は中央線北側、国立駅舎より約二五〇m東の高台」とあるが、この「高台」に連なるのが武蔵野台地の武蔵野段丘(武蔵野面)と呼ばれる段丘面で、小平市もその段丘面上に位置する。「地下水は地下四百尺を掘り抜いて湧いた」とあるが、その深度(400尺=120メートル強)は、まさに小平地域の「深井戸」(被圧地下水)の深度である。国立学園都市が計画されたのは、「高台」の下に位置する、中央線の南側の立川段丘(立川面)上であり、国分寺崖線と呼ばれる段丘崖によって隔てられている。国分寺崖線下の立川面では、不圧地下水までの深度は浅いと考えられ、その利用は困難ではないのではないか(国分寺崖線下には湧水源も多い)。文字通りの「浅井戸」による不圧地下水の汲み上げが可能な地域だと思われる(「井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではない」 矢嶋論文 18ページ)。

 ここであらためて、わざわざ宅地開発域から離れた「高台」としての武蔵野段丘上に深井戸を掘削し(それだけ多くの予算が必要となる)、学園都市への給水システムとして整備した箱根土地の構想力(そして実行力、それらを支えた資本力)には注目しておきたい。「飲料水の確保」を各戸(各個人)による井戸の掘削に期待するのではなく、開発事業者がインフラとして「水道」を用意するというのである(註:2)。

 高い位置(高台上)に水源を確保し、重力を利用して低い位置にある水栓に給水する。国立の学園都市の給水システムの発想は、原理的には小平地域の軍事施設の給水塔設置と重なるものでもある。

 

 

 

 箱根土地(堤康次郎)による学園都市開発についての矢嶋氏の認識―上水道の未整備との指摘―には明らかに誤りがあったが、しかし、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」、「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」は開発後の現実でもあった。実際、売れなかったのである。

 

 

 当初は「国分寺大学都市」として分譲開始されているものだが、

 

  箱根土地は、大泉学園都市とほぼ並行して明治大学を中心とする学園都市の開発を計画した。震災直後の一九二三(大正一二)年一〇月より小平村の土地の買収を開始し
     (『小平市史』 2013  221ページ)

 

  一九二五年一月三日に地鎮祭がおこなわれ、宣伝のために大学都市内の風景を題材とした懸賞写真の募集がおこなわれた。本格的な分譲は三月から開始され、
     (『小平市史』  222ページ)

 

  …、国分寺大学都市―小平学園と変遷してきた箱根土地による住宅地分譲だったが、その売れ行きは昭和恐慌などの影響で芳しいものではなかった。しかし恐慌からの脱出を受けて、一九三五(昭和一〇)年頃から徐々に売れ行きが回復してくるとともに、日中戦争のさなかである一九三八年から四一年にかけて、それまで更地が多かった小平学園の西地区に、ようやく住宅が建ちだしたと言われている(『小平町誌』)。東京の郊外化の更なる進展、および小平を含む多摩の戦時開発の影響が、学園地区にもあらわれてきたのである。
     (『小平市史』  291ページ)

 

  学園の住宅は、その生成時期は東区において最も早く大正一二年ごろで、ついて西地区の昭和の初めであるが、東区の遅々たる建設に対し、西地区は昭和一三~一六年ごろ急速に建設がすすめられ、第二次大戦後は両地区とも建設は速度を増し、特に昭和二七年以降はその傾向がいちじるしい。
     (『小平町誌』 1959  447ページ)

 

 

 つまり、販売開始から10年ほどは、住宅地としての販売は低迷し続けたのである。矢嶋氏にとっての小平学園地区のイメージは、現地調査に通っていたであろうまさにこの時期に刻み付けられたものということになる。しかし、矢嶋氏の論文執筆時(発表が1939年)には、そこに変化の兆しが見出されてもいたのである。

 

 

  一九三八年頃、小平学園の開発地六〇万坪のうち、多摩湖線の線路西側に沿った地区六万坪で「国分寺厚生の家」という建物付きの分譲がおこなわれた。このころ分譲地全体は「国分寺厚生村」とも呼ばれており、小平学園駅と青梅街道駅のあいだに新設された駅は厚生村駅と名付けられた(三九年開設、四五年使用休止、五三年廃止)。なお、一九四〇年の史料には「国分寺学園分譲地」という名称もみられる。
  国分寺厚生の家は、残されている販売用パンフレットによれば、土地百坪と小さなバンガロー風の家屋とをあわせて八〇〇円で販売された物件である。一九二六年に国分寺大学都市として分譲を開始した頃、分譲地の坪単価は九円八〇銭~一二円八〇銭だったのだから、坪単価八円はかなりの特売価格であった。
     (『小平市史』  291~292ページ)

 

 

 先に紹介した『国立に誕生した大学町』に収録されている「販売用パンフレット」の裏面画像には、

 

  設備 道路(幹線五間巾、支線三間巾)、電燈、水道、下水

  此処に今回新たに意匠登録を受けた瀟洒な農園小舎を建て家の周囲に果樹や蔬菜を栽培し一家團欒、土と緑に親しむのであります。戰時體制下の厚生國策に沿ふ、御一家の心身鍛錬場として晴耕雨讀の家庭道場として御所有になることを切にお奨め致します。彼の「農園住宅」や「歓喜力行」の本場とも云ふべきドイツから来たヒツトラー・ユーゲントの見るからに健やかな身體や、溌剌たる風丯に接するときまことに躍進ドイツそのものを見るの感があります。土と緑に育まるる彼等ドイツ青少年□□の幸福を思ひ我等もまた大いに示唆を受けるものがあると存じます。

 

このように記されている(「設備」には「水道」が含まれている点にも留意―矢嶋論文執筆時期の販売広告上では開発地域内の「水道」の存在がアピールされていた事実)。

 『小平市史』は、「つまり、厚生の家とは、定住用の住宅ではなく、週末に農作業を楽しむための家庭農園付きの小屋のことだったのである」と要約している(293ページ)。さらに『小平市史』は次のように論じる。

 

 

  では、厚生の家ないし厚生村という「厚生」を冠した宅地分譲とは、どういう意味だったのだろうか。一九三八年一月、総力戦体制構築を推進する軍部のあと押しをうけながら、国民の健康や体力増進政策、衛生や医療政策、人口政策、労働政策といった戦時社会政策を担当する官庁として、厚生省が発足した。そして同じ年、イタリア・ファシズムのドーポラボーロ(労働の後)運動やナチス・ドイツの歓喜力行団の活動に影響を受けて、日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動がはじまった。つまりこの時期の「厚生」とは、戦争の遂行に役立つような国民体力の向上や健全な余暇活動を意味していた。したがって厚生の家での「心身鍛錬」「晴耕雨読」とは、まさにそのような意味での「国策」に沿った「厚生」にほかならない。一方で、厚生の家は「一家団欒」「家庭和樂」の場であることが強調され、「子女」の成長にとっても有益であることが謳われているが、それは「家庭」「団欒」の私生活空間と時間を大切にし、「子女」の教育を重視する意識が強かったサラリーマン層の家族に訴求しようとしたからであろう。ただし、「厚生」が冠されているのだから、そこでの私生活は「国策」に役立つ限りでの私生活ということになる。
  厚生の家・厚生村という名付けには、戦時における国策と商業主義の狭間で、郊外の位置づけやそこでの生活の意味付けが微妙に変化を遂げていることを見てとれる。それは戦時開発とはいえないが、平時の郊外住宅地開発としての学園開発が、総力戦体制に順応するなかで変形を遂げたものだといえよう。
     (『小平市史』  293~294ページ)

 

 

 多摩・武蔵野地域の軍事地域化と民間土地開発会社の商業主義が重なった姿を、戦時期の小平学園地区=厚生村に見出すことが出来るだろう。

 また、この「厚生の家・厚生村という名付け」による販売戦略を通して、当時の日本で、ナチス・ドイツの政策が模範的(お手本的)に機能していた状況も見えてこないだろうか。既に、現・東大和市の南街地区の開発モデルとして機能したのが、ナチス・ドイツのジードルング政策であったことに触れておいた(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」参照)が、小平学園地域での「厚生の家・厚生村という名付け」からも、同時代(どちらも1938年)の日本での「躍進ドイツ」への憧憬・傾倒的雰囲気が見える(註:3)。

 ちなみに、この昭和13(1938)年には、ヒトラー・ユーゲントが日本を訪問し、大きな話題となっていた。「販売用パンフレット」は、「昭和13年10月版」とあるので、まさにヒトラー・ユーゲント日本訪問の最中のものということになる。「ヒツトラー・ユーゲントの見るからに健やかな身體や、溌剌たる風丯」を目の当たりにした人々こそが、「販売用パンフレット」のターゲットであった。箱根土地は、「躍進ドイツ」―「農園住宅」や「歓喜力行」の本場―モデルにビジネス・チャンスを見出したのである。

 

 しかし、素敵な厚生村の素敵な厚生の家(実のところ、ホワイトカラー向けのセカンド・ハウスなのである)を手に入れることなど、当時の軍需工場労務者には考えられぬのが大日本帝國の現実であった。

 「日本でも余暇活動の充実と健全娯楽の推進をはかることで国民を統合し、生産力を向上させようとする厚生運動」のまさに同時期の厚生省生活課技師による報告には以下のように記されている。

 

  昭和13年当時の厚生省生活課技師の報告によると、「先般各地軍需工場地帯に於ける労務者の居住状況を視る機会を得て、痛感した事は、労務者殊に農村から見習工として集まって来た人々に住居の欠乏していることである。例えば、4畳半に4人、6畳に6人と云ふ過密状況が各所に見られ、或は15坪以上もある広い部屋を急設して、採光通風等考慮せず、唯寝る場所を与へて押入れもない室内に寝具、荷物を散乱させ、20~30名の新人工が合宿している。所謂万年床は随所にあり、殊に夜勤者が昼間強い日光を浴び乍ら寝苦しさうな様を見て、斯かる状態は長期戦のもとに何時迄も黙過出来ぬことと痛感した。徒に生理的欲求を斥けることなく、疲労恢復に適する最小限の住居と、体力を維持増進するに足る栄養の供給とは、殊に銃後の第一線を守る軍需工場労務者には、確固たる方針を以つて之が万全を期すべきである。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究』 Vol.19 No.4 1984  433ページ)

 

 

 

【註:1】
  当時(昭和37(1962)年の「第1次拡張事業」をめぐる記述からの引用である)市内の水道施設は、西武国分寺線小川駅周辺を中心とする市営水道と学園地区に給水する民間経営の小平簡易水道があるだけで、その給水能力は併せて16,000人分しかなく、人口的にも、地域的にも一部に過ぎませんでした。
  小平市は、いわゆる「武蔵野台地」にあり、都区内水準よりも約80mの高台にあり、地下水量は豊富と見られていましたが、その水位は予想外に低く、加えて昭和30年代には、宅地化の進行に伴い、家庭用井戸は乱掘の様相をみせ、そのため家庭用井戸の水位は全般的に低下し、とくに渇水期においては水不足が直接市民生活を脅かすに至りました。とりわけ、市の東部に位置する花小金井地区の家庭用井戸は、渇水期において枯渇したものが多く、市はこれに対する緊急給水に追われているという実情でした。
     (『水道事業概要 昭和58年』 小平市水道業務課・工務課 1983  3ページ)
 
  小平簡易水道の給水区域を市営水道の給水区域とするため、第2回計画変更を昭和40年月13日付、厚生大臣に申請しました。
  当時、市内には市営水道のほかに民間会社の経営する小平簡易水道があり、これは当該地区(現在の学園西町、学園東町)開発のために計画されたもので、その施設は古く、区域内の人口増加の状況に照らしてもその能力は、極めて不充分であり、また、一般に水道事業の経営主体は、地方公共団体であることが望ましいという観点から、小平簡易水道は、昭和40年1月31日までの期限付で都知事の許可を受けていました。
  したがって、当該地域の住民も市営水道に統合されることを強く要望しており、市においても市の給水区域として需要に適合した施設の拡充を計る必要を認め、事業変更を行うことになりました。
     (『水道事業概要 昭和58年』  4ページ)

 

【註:2】
 箱根土地による大泉学園都市の分譲販売チラシでは以下のように主張されている。

  表
  ◇大泉公園はその昔武蔵野の少納言久保と云はれた處で翠緑滴るが如き赤松林の大樹が土佐繪のような風趣を添え楢や欅の雑木林が繁つて居ります。ことに鑿井より湧き出ずる水は清冽手を切るようで内務省衛生局の検査によれば完全な地下水として水道以上純良なることを證明されました。
  裏
  ◇郊外の住宅地は大泉學園のように組織的大規模に建設せられて始めて實用價値を生じ實用的價値の存在を前提として始めて投資的價値が存するのであります。
  ◇電燈も道路もない林や畑を工事もせず只土地の價額の少ないことのみをもつて、地價が廉いと云ふことによつて土地をお買いになるのは最も注意すべきことであります。
  ◇分譲地を買入れた方自身がめいめいに道路やその他の工事をせねばならぬとすればそれは如何に煩雑で不経済なことでありませう。結局豫期せざる高價な土地を買入れたと同一になつて仕舞ひます。即ち大泉學園都市の如き工事の完成した大地積の經營に於て始めて徹底的の建設が實現せらるるのであります。
  ◇大泉學園都市は電車停車場、公園、公園道路、乗合自動車、日用品マーケツト、娯楽場等を新設し、一坪十圓内外でお譲り致します。
     (『国立に誕生した大学町―箱根土地(株) 中島 陟 資料集―』  220ページ)

 

【註:3】
   ドイツナチスによるジードルングのユートピア運動というのがある。労働者に職を与えて安定した生活をつくり上げる。労働者は一日の労働に疲れて家に帰り、新鮮な空気を吸い、和やかな家庭的慰楽の生活にひたり、新しい明日への活力を回復するという考えに基いた都市構想、これが「ジードルング」で当時ドイツの企業経営に多く採用されていた。
   ジードルングというのは、つまり、都市郊外に一団として建設される企業を中心とした、集合住宅という意味である。ドイツで昭和七年、住宅法が制定され、特にその政策を工業を主体とする企業が採り入れていた。
          (元日立航空機専務 内山 直 手記)
     (『東大和市史』 2000 337ページ)

 

  「汝の體は國家のものである。」
  「汝は國家に對し健康であるべき義務を持つ。」
  さういふ崇高な標語のもとにヒトラー・ユーゲントは先づ健全な體を養ふことを第一義とする。ここに我々は、個人の健康といふことに於いても個人主義的な考え方が克服されてゐるのを見るのである。その施設のゆきとどいてゐることもさることながら、保健や體育に對する根本的な考え方に學ぶべきところが少なくない。
     (ヤーコプ・ザール 高橋健二 『ヒトラー・ユーゲント』 新潮社 1941  32ページ)

 身体的にも政治的にも「健康」なアーリア人にとってのみ、ナチス・ドイツはユートピアであった(それがユートピアであり得たのは、あくまでも「戦前」の話であるが)。その健康なユートピアが昭和10年代の帝國日本のお手本でもあった姿を、南街の集団住宅計画や小平学園の「厚生の家・厚生村という名付け」を通して確かめることが出来る。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」に続く)

 

 

 

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  昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合状況の概観(星野朗氏の論考紹介)

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(オリジナルは、
 投稿日時 : 2018/07/30 21:35 → https://www.freeml.com/bl/316274/320440/
 投稿日時 : 2018/07/30 21:37 → https://www.freeml.com/bl/316274/320441/

 

 

 

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