2019年7月30日 (火)

撃ちてしやまむ この暮しゆとりなくとも(戦時木造船の周辺)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)」では、木材供出で姿を消したという青梅街道(小平市内)の欅並木をめぐる証言と、その背景としての戦時木造船建造政策(「木造船建造緊急方策要綱」昭和18年1月20日閣議決定)について記した(『寫眞週報』第263号の記事―木材供出のための岡山県での神社の御神木の伐採事例等―も画像で紹介してある)。

 大日本帝國における国家総力戦体制の内実をよく伝えるエピソードだと思うが、先の記事に加えて、情報局編輯による政府広報誌である『週報』、そして『寫眞週報』(写真週報)にある関連記事を紹介しておきたい(漢字表記は新字体、カナについては原文通り)。

 

 

 まず、昭和18年10月27日の『週報』(第367号)の表紙裏の「週言」と題されたコーナーでの主張である。

 

  従来、生活といへば、とかく個人的なもの、消費的なもののやうに考へられて来た。自分で稼いだお金はどう使はうと勝手だ、無駄使ひをしたり、無くて済むものまで買ひ揃へることが、生活の潤ひであり、より高き生活であるとさへ思はれて来た。
  しかし、決戦下の今日、我々の生活をかくあらしめてはならない。生活は決戦へ、百八十度の転回をせなばならない。生活は個人のためのものから国家のためのものに、消費から生産へと切り替へられねばならない。
  一億国民が衣料切符の一割に当たる絹を節約すれば、落下傘八十九万台が出来る。紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになるのである。
  生活は戦力の源泉である。我々の生活の中から、戦争に勝つための、物や、お金や、人手をもつともつと浮き出させて、戦力の増強、国力の充実をはかることが、決戦下にあるべき生活の姿である。
  生活は消費にあらずして、生産である。

 

 

 青梅街道の欅並木伐採に至る切迫した状況が、

 

  紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになるのである。

 

この言葉からも伝わるであろう。

 

 『週報』のこの号の17ページには、貯金局による「紙も兵器だ!  貯金通帳の無駄を一掃しよう」と題された記事も掲載されている。

 

  最近、貯蓄が増えたため、どこの家庭でも通帳が多くなつて、保管や整理に困るといふ声があるやうですが、通帳を幾冊にも分けて預入するのは、それだけ多くの人手と物資を使うことになりますから、かうした決戦下の尊い努力と物資の節約を図り、挙げて戦力の増強に振向けるやうに、通帳の無駄を一掃したいものです。
  最近の調査によりますと、郵便貯金通帳の所持数は、
 1、調査世帯数               八、二九八世帯
 2、同上人員(通帳を所持する者のみ)    三、九九九二人
  一世帯当り人員             四.八人
 3、通帳所持冊数              八七、〇九四冊
  一世帯当り通帳所持冊数         一〇.五冊
  一人当り通帳所持冊数          二.二冊
 4、一世帯当り通帳所持冊数内訳
  …(以下数値略)…
となつていて、随分無駄があるやうです。
  試みに最近一ヶ年間の通帳の増加振りをみますと、約二千四百万口の増加で、支那事変以来、六年間に八千七百万口といふ激増振りです。かうして年々二千万の通帳が増えると共に受払の口数は六億口といふ厖大な取扱数になりますから、これの処理に要する人手と物資も、また莫大なものです。
  しかし、その割合に一冊当りの預け高は少く、現在、国民の持つてゐる通帳は約一億四千万冊ですから、最近の現在高百六十億円で計算すれば、一冊当り平均百円少しとなりますが、統計によると、その七割九分は現在高五十円以下の通帳で、郵便貯金は一人五千円まで出来るのですから、もつと通帳の能力を最高度に活用しなければなりません。
  要は通帳の数を出来るだけ少なくして、預け高をどんどん増やしてゆくことが、敵米英を撃砕する貯蓄報国の近道であつて、これからはなるべく人手や物資を無駄に使はずに、貯金を殖やすやうにすべきです。
  今日では、一冊の通帳も非常に大切な資材ですから、新しく預入申込をするときは、古い通帳がないかよく調べてからにすること――何か新しい出来事を記念して貯金するとか、新しい団体でも出来て貯金するとかいふと、先づ通帳も新しいのでといふ気持になり易いのですが、そんな場合にも、出来るだけ前から持つている通帳を利用してゆくやうにしたいものです。
  また少額の貯金は、貯金箱を利用して月一回位に纏めて預入すること――かうして手数を省き、通帳の使用期限を永くするのも無駄を排除する一方法です。
  現在、手元に同じ種類の通帳が二冊も三冊もある場合はなるべく一冊に纏めること――据置貯金など二冊以上で預けてゐるのは、期間の永い方へ合併して一冊で預ける――といふやうに、通帳の無駄を一掃して、貯蓄陣もなるだけ簡素強力化し、長期戦に堪へるやうに、お互に協力し合ふやうにしませう。
  戦線では、我が勇敢な将兵一人一人が、それぞれ十人もの敵を相手に勝つてをられるのですから、私どもも一冊の通帳で十冊の通帳に匹敵する御奉公をするやうに心掛けたいものです。

 

この「要は通帳の数を出来るだけ少なくして、預け高をどんどん増やしてゆくことが、敵米英を撃砕する貯蓄報国の近道」という主張を、先の「紙二割を節約すれば木材二百六十万石が浮き、百トンの木造船が二千六百隻も造れることになる」という「週言」の言葉と重ね合わせることで、青梅街道の欅並木伐採に至る、当時の切迫した総力戦状況が理解し得るはずである。

 

    大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた
     (大阪朝日新聞 1943年1月21日)

 

 木造船建造が国策として推進されるに至る背景には、金属資源の枯渇という問題があった。本来であれば、木造船ではなく鋼船建造こそが敵米英撃砕の近道なのである。金属資源の確保への涙ぐましい努力を伝える記事も読んでおこう。

 

     補助貨の全面引換へ
  昨年十二月から始めたアルミ貨以外の補助貨の引換運動は、関係各方面の非常な協力と一億国民の熱誠によつて好成績を挙げ、去る七月末日までに総額実に一億四千万円、約十六億枚の補助貨を引換へることが出来ました。しかし決戦の様相はますます熾烈化し、今や、飛行機、軍艦を、一機一艦でも多く前線へ送ることが、私ども銃後国民の急務であります。
  周知のやうに飛行機、軍艦、戦車その他優秀な兵器には多量の銅、ニッケル、銀が使はれてゐます。かのマレー沖海戦で撃沈したプリンス・オブ・ウェールス級三万五千トンの軍艦を造るには、実に九百トン余の銅と訳三百五十トンのニッケルが使はれてゐるといはれます。
  即ち二億五千万枚の銅貨と約一億枚のニッケル貨があれば、このやうな軍艦を造ることが出来るわけで、つまり、各家庭から平均十七枚の銅貨と七枚のニッケル貨を国家へ引換へのため提供すれば、三万五千トン級の軍艦一隻を前線へ送り得るわけであります。
  またドイツのユンカースW三三型飛行機用の発動機一つには、ニッケル一キロ半が使はれてゐるとのことでありますから、各家庭でニッケル貨を一枚ずつ国家に差出し、紙幣等と引換へたとすると、これだけでも実に三万五千台の発動機が出来ることになります。そのほか飛行機の車軸や主動軸等にもニッケル合金が使はれてゐます。弾丸を通さない戦車や索引車や火砲、弾丸等に使はれるニッケルの数量は相当多いのであります。
  さらに銀は、銅よりも相当よい電導体であつて、最近優秀な近代兵器に使はれる量は頗る多くなり、航空決戦や海上決戦上の緊急な兵器の製造には、重要欠くことのできないものとなつています。
  このやうな重要兵器の原材料である銅、ニッケル、銀の補助貨はまだまだ沢山残つてゐるので、政府では最近の決戦の熾烈化に鑑み、この十月から明年三月までを期し、銅貨、ニッケル貨、銀貨の最終的全面引換へを行ふことにし、特に来る十一月二十日から三十日までを、補助貨全面引換期間と定め、全国一斉にアルミ貨以外の補助貨の全面的引換運動を実施することになりました。
一、引換を行ふ補助貨の種類
  (一) ニッケル貨、白銅貨 (十銭、五銭)
  (二) 銅貨、青銅貨、黄銅貨、アルミ青銅貨 (十銭、五銭、二銭、一銭、半銭、五厘、一厘)
  (三) 銀貨 (一円、五十銭、二十銭、十銭、五銭)
  (四) 天保銭、寛永通宝、文久銭、丁銀、豆板銀、五匁銀、一分銀、二朱銀、一朱銀投、銀または銅の古貨幣
  (五) 旧韓国補助貨、支那葉銭その他の外国貨幣で銅貨、ニッケル貨または銀貨のもの
二、引換機関
   全国銀行、信託会社、市街地信用組合や信用組合及び中央物資活用協会のほか本年度は新たに無尽会社でも引換へます。
三、引換手数料
   引換機関では、引換者に対してその種類に拘はらず、五十箇毎に五銭(但し五十箇未満は切捨)の引換手数料を支払ひます。
     ×     ×
  戦局はいよいよ緊迫し、いまや飛行機、軍艦その他の兵器を前線へ送ることは一刻の猶予をゆるしません。銅、ニッケル、銀を決戦力増強のために国家へ提供するのも、一国の猶予をゆるさないのであります。
  本年度の最終的補助貨全面引換の実施に際しては、この期間中に、町内会、部落会、隣組で、各家庭から補助貨を取纏め、これを引換機関で引換へることになつてゐます。また大日本婦人会でも同様、補助貨全面引換に協力され、さらに今般は特別に全国の国民学校児童の協力をも得ることになつてゐます。私ども銃後国民、今こそ一枚のこらず貯金箱にあるものも、記念としてゐるものも、すべての銅貨、ニッケル貨、銀貨をアルミ貨や紙幣などに引換へて軍国の急務に応じなければなりません。
     (『週報』 367号 14~16ページ)

 

金属貨幣は「紙幣」へと「引換へ」されることになるわけだが、紙幣もまた本来なら「節約」されるべき紙製であり、木造船となるべき木材資源なのである(「紙も兵器だ!」)。

 

 

 続いて『寫眞週報』の270号(昭和18年5月5日)の表紙裏にある「時の立札」と題されたコーナー。

 

わが蓄めしいささかの金
  けふも鋼鉄(くろがね)の艦(ふね)となり
  南海の敵を撃つ
わが積みしそこばくの金
  けふも銀翼となり
  大東亞の空に飛び立つ
撃ちてしやまむ
  この暮しなほゆとりあり
  否 この暮しゆとりなくとも

 

「手元に同じ種類の通帳が二冊も三冊もある場合はなるべく一冊に纏める」だけではなく(紙の節約だけではなく)、「わが蓄めしいささかの金」は貯蓄報国の資源であり、「この暮しゆとりなくとも」自身の利便のために貯蓄・消費するのではなく、「生活は個人のためのものから国家のためのものに、消費から生産へと切り替へられねばならない」というのである。

 この『寫眞週報』(270号)の表紙には、「二百七十億へ さァ突撃だ」の言葉が記され、4ページから9ページにわたって貯蓄推進記事が組まれている(簡易保険加入の呼びかけ、節約の奨励、贅沢・遊興・浪費への批判と共に)。

 

貯め抜く道はいくらもある
   二百七十億へ さァ突撃だ!
  佐藤陸軍軍務局長の談にあるやうに、今度の戦争は生はんかな妥協に終わる戦争ではない。文字通り民族の興亡を賭した戦争であり、国家の運命はわれわれ一人々々の運命である。貯蓄の心構えもかかる自覚から奮起しなければならない
  われわれが鬼畜のやうな米英人を相手に果合ひをするとして、一ふりの日本刀もないと知りながら、なほかつ武装を忘れて酒食に、贅沢な衣装に金を費やす者があるだらうか。食べものをつめても、まづ日本刀を求め、なほ更に近代兵器の購入にあたるだらう貯蓄は国民の一人々々がその命を託す兵器をまかなふ費用なのだ。
  今年の国民所得五百億円のうち、三百七十億円が国家目的、即ち戦争完遂のために集中される。この三百七十億のうち、百億円は租税及びこれと同性質の国民負担となるが、残りの二百七十億はどうしても国民貯蓄でまかなふのだ。今年の貯蓄目標であるこの二百七十億はどうしても貯め抜かう
  鈍刀(なまくら)を帯びて戦場に臨むは武士の恥、わが国民性が断じて許さない筈だ
     (『寫眞週報』 270号 5ページ)

 

 「貯蓄は国民の一人々々がその命を託す兵器をまかなふ費用」とされるのである。

 

 

 そして、何より課題となるのは造船用木材の確保である。

 

 記事のタイトルは「密林から生まれ出る日の丸船 ―北ボルネオ―」。

 

  世界で三番目の大きい島ボルネオ、その広い広い大陸のやうな全土が、見渡す限りの大密林に蔽はれてゐるボルネオは、実に木材の無限の宝庫だ。殊に英領時代から木材の輸出を以て知られた北ボルネオは、内地の造船増強運動に呼応して、いま軍政部の首脳が陣頭に立つて木造船の建造に大童である。千古の密林から伐り出される勿体ないやうなボルネオ産チークや、ラワン等の造船用木材の大木が、原住民の木遣り音頭を密林に谺させながら搬出され、林間鉄道で河に送られる。そして筏に組んでボルネオの誇りとする大製材所へ。そして日本人の指導の下に原住民の船大工達の必死の努力で、着々と立派な木造船が造られてゆく。日本人達も烈日の下、汗を流して勤労奉仕のお手伝ひである。
  かくて、その第一船は日本側軍官民と原住民たちの感激のうちに、去る紀元の佳節に進水、『第五十一ボルネオ丸』と命名され、続いて第二、第三と続いて完成、進水し、日を逐うて加速的に能率をあげてゐる。軍政部首脳以下『木造船ならボルネオだ』と大した張りきり方である。
   記事 坪内陸軍報道班員
   撮影 藤波陸軍報道班員
     (『寫眞週報』 270号 14~15ページ)

 

写真に付されたキャプションは以下の通り。

 

北ボルネオの大密林には木船用最適材が無限にある。天を衝いて聳える巨木にいま丁!と斧が入れられた
現地軍官民歓呼のうちにボルネオ生まれの第一船は進水した
昼なお暗い密林の中を林間鉄道はディーゼルエンジンの音も景気よく巨材を運んでゆく
現地人の船大工も一生懸命だ。もうぢき勝利を運ぶわれわれの船ができ上るぞ

 

 先の「木造船建造緊急方策要綱」においても、「(四)豊富な木材資源を擁する大東亜地域の木造船工場を全面的に活用する」とされていた通りである。

 

 そして、岡山県津山市での松並木伐採の記事もある(ちなみに『寫眞週報』第263号(昭和18年3月17日)の記事で紹介されていた御神木伐採も岡山県の事例であった) 。タイトルは「應召する三百歳の松並木 岡山縣津山市」、撮影は小石清。

 

  岡山県津山市の名勝地二宮松原の並木が、翼賛会の主唱する木材供出の先陣を承つて米英撃滅の船材として晴れの応召をした。
  『君を松原 夕日が暮れて 鐘が鳴りますお城のお山…』とまで津山小唄に唄はれ、地元民に親しまれてゐたこの松並木は、延宝三年(今から二百六十九年前)、時の城主によつて植ゑられたもので、城下の外郭として、また非常時の防塞として、春秋二百七十年を経て今日に至つた。
  二百七十年の樹齢に歴史の来し方を眺めてきた由緒あるこの松並木は、四月十九日の斧入れを莞爾と受け、引続いて県木材会社の手によつて三百三十余本の伐採が続けられてゐる。またこの運搬には連日、地元翼賛壮年団、在郷軍人会、大日本婦人会の勤労奉仕隊が当つてゐるが、これらの人々の汗の結晶は、松材にして約三万五千石となる。
     (『寫眞週報』 270号 16~17ページ)

 

ここには「翼賛会の主唱する木材供出の先陣を承つて米英撃滅の船材として晴れの応召をした」、そして「またこの運搬には連日、地元翼賛壮年団、在郷軍人会、大日本婦人会の勤労奉仕隊が当つてゐる」とあるが、「木造船建造緊急方策要綱」においても、「(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する」とされており、実際にそのような過程で事態が進行したことが窺われる。

こちらのキャプションは、

 

二百七十年の樹齢を保つた二宮松原の名勝地
必勝の念願こめた平松津山市長の斧始め
津山市の翼賛壮年団員は総出で大八車に供木を積み、運搬の奉仕をする
枝とはいへ、二、三十年を経た位の太さのものが降りてくる
大日本婦人会員も枝払いの済んだ枝木の運搬に当る
枝払いが済むと丸太ン棒を幹に結へてクレーンにし、いよいよ大木の輪切りがはじまる

 

 

 

 三井昭二氏の論考、「木材統制法の成立過程に関する一考察」の結語部分には以下のようにある。

 

  やや性急な規定が許されるとすれば、資源を持たない後進帝国主義・日本にとって、資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した、といえよう。そして数少ない国内賦存資源としての森林資源は、金属・石油資源に代替することまで要請され、いわば森林資源の総動員体制を形成することが促迫された。なかでも木材は、軍需の激増・産業の軍事化が進むにつれ、量的・質的確保が緊要な課題となった。
  いっぽう輸入の遮断・需要の急増によって、内地材の増産が急務となりながら、その生産・流通構造は、産地が分散し供給パイプが細いため、軍需増大に対応できなかった。しかも統制経済下の基本原則であった低物価政策・生産費主義に対し、立木価格が公定化できない現実は、すでに醸成されていた木材資源所有と木材生産との矛盾を拡大せざるをえなかった。
  そのような状況に対して、陸軍の介入をともないながら、生産・配給機構に対する強力な国家統制と「経営の所有に対する優越」による矛盾の回避が企図された。(なお海軍は国家統制による木材調達のほか、「指定業者」として個人営業を温存した。
     (三井昭二 「木材統制法の成立過程に関する一考察--山林局官僚のプランと陸軍の介入を中心として」 1982 『林業経済研究 No102』 39~40ページ)

 

 三井氏は、

 

 資源が無いために開戦し、資源が無いために敗戦した

 

と、ミモフタモナイ言い方をしているが、まさにその通りであった。そして、

 

 数少ない国内賦存資源としての森林資源は、金属・石油資源に代替することまで要請され

 

とある通りで、船舶鋼材に代替しての木造船建造であり、金属貨幣の代替としての紙幣への「引換」であり、(今回は取り上げなかったが)石油資源の代替としての松根油の採集であった。

 

 

 

 これが戦時日本の国家総力戦状況の現実であった。

 

 

 

 

 

 

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2019年6月25日 (火)

清水多嘉示資料展(第Ⅲ期) ホセ・ラウエルとマッカーサー

 

 武蔵野美術大学美術館において、かつて武蔵野美術大学の彫刻科教授であった清水多嘉示にまつわる「清水多嘉示資料展」、その第Ⅲ期・戦後編として「清水多嘉示資料展 石膏原型の全てと戦後資料」が開催されていた(6月16日で終了)。最終日になっての駆け足での展観となってしまったが、特に印象に残った資料について記しておきたい。

 前回の資料展開催が2011年で、「清水多嘉示の道程:敗戦まで」と題された通り、戦時期の清水多嘉示の姿を知る機会となった。その際の感想めいたことをまとめたのが「清水多嘉示資料展 「千人針記念碑」との出会い」である。「従軍彫塑家」として、支那事変(日中の軍事衝突)下の中国大陸で従軍した中でのスケッチの数々。昭和13(1938)には源田実をモデルとしたブロンズ像「海の荒鷲」、翌14年には主翼を破損した九六式艦上戦闘機で奇跡的生還を果たした樫村飛曹のエピソードがモチーフとなっているレリーフ「南昌制覇」のような、事変の渦中の日本の海軍軍人の姿を彫像化したもの。また、翌15年制作の「千人針記念碑の一部」(サブタイトルは「出征兵士ヲ送ル」) といった戦時期の銃後に焦点を当てた作品に抱いた個人的関心について記した。

 その結びの部分で以下のように書いた。

  

  展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

  敗戦直後の清水は、「特攻寺」の創設を提案した文章を残している。「あの戦争」の「あの作戦」で命を落とした特攻隊員を弔う場としての「特攻寺」なのである。どことなく高揚感の漂う文章に、戦後の清水の出発点を見る思いがした。

 

 今回の「戦後資料」のトップに展示されていたのが、昭和20(1945)年に記された「特攻寺」をめぐる原稿であった。あらためて、特攻による死を求められ、それに応えざるを得なかった特攻隊員への、敗戦の現実の中で高揚する清水の心情を再確認させられるものであった。「特攻による死」を求める側にいた(ことになってしまう)清水にとって、「特攻寺」の創設提案は、特攻による戦死者への清水なりの責任感の表現なのではあろう。

 ただし、展示されているのは二種の原稿のみであって、印刷されて公的に発表されたものではない(原稿執筆のみで終わってたものなのか、実際にどこかに公表されていたのかは、現時点では不明である)。

 

 続く展示資料には驚かされた。特攻寺をめぐる原稿の隣にあったのは、1946年のものとされている、モニュメント彫刻のプラン(スケッチ)である。バックにはゲート風の枠組み(彫像の身長より高い)があり、一歩前にいる男性とその背後で男性に従い歓呼する民衆(男女の二名、だったと思う)という構図。

 一歩前にいる指導者然とした男性が日本占領軍司令官であるマッカーサーにしか見えない。マッカーサーに導かれる民衆の像、なのである(そのモデルが実際にマッカーサーであったとしての話だが)。戦時期に、大陸で行使される大日本帝國の軍事力を肯定的なものと捉え、銃後での戦時協力を「千人針記念碑」として造形化した彫刻家の、戦後の第一作の構想として登場するダグラス・マッカーサー、なのである。

 それだけでも、十二分に強烈な印象だが、そのマッカーサー・モニュメント・プランの上方に展示されていた別のモニュメント・プランは更に強烈であった。そこにあったのも、ゲート風の枠組みの前で、一歩前にいる男性とその背後で男性に導かれ歓呼する民衆の構図によるモニュメントであった。ただし、先頭にいるのはマッカーサーではなく、ホセ・ラウエルなのである。異なるのは、指導者然とした位置を占めるのがラウエルかマッカーサーかの違いのみであり、全体の構図には違いがない。

 ホセ・ラウエルは、対米英開戦後に日本軍占領下となったフィリピンが、(大日本帝國の政策により)「独立」する際にフィリピン大統領に就任した人物である。昭和18(1943)年の話だ。展示では明示的に年代が示されていなかったが、ラウエル・モニュメントの構想は、フィリピンに独立が与えられ、ラウエルが大統領に就任した1943年当時のものである可能性が高い。1943年には、東條首相により、アジアの日本軍占領域各地の政治指導者を集めての大東亜会議も開催されており、その時期でのラウエル・モニュメント制作は、国策に寄り添う彫刻家の構想として理解可能なものである。ただし、資源統制下の大日本帝國において、ブロンズによる作品の実現には見込みはなく、ラウエル・モニュメントは戦時期の清水多嘉示の構想段階で終わったものと思われる。

 その戦時期のモニュメント構想が、基本構図をそのままに、敗戦後の日本で復活する。主役をラウエルからマッカーサーへと換えられて(マッカーサーもフィリピンと縁のある軍人ではある)。

 資料展示では、展示物についての詳細なキャプションを欠いている(研究の現状では、残された資料を網羅的に展示するしかないということなのであろう)ので、私の解釈が正しいものかどうかは不明確だが、とりあえず仮説的に提示しておこうと思う。

 

 同構図で主役だけ交換されたモニュメント・プランという理解が正しいとして、その意味をどのように捉えるかという問題は残される。

 戦時期の清水には、確かに国策に親和的なところが窺われる(いわゆる「戦争協力」への積極性ということだ)。

 今回の展示のもう一つの目玉である「石膏原型の全て」によって、戦時期の清水の石膏原型の中に、記憶に残っているところでも二作品、軍事と航空の結びつきを表現するものがあることがわかった(展示最終日の駆け足での展観のため、曖昧さが残るのは残念である)。前回の資料展で出会った「海の荒鷲」も「南昌制覇」も、海軍航空隊の活躍を期待し、讃えた作品であった。従軍彫塑家としてのスケッチにも、海軍の陸上攻撃機が登場する。その意味で、国策と清水の親和性は確かのものと言えるだろう。反軍的な芸術家の姿ではない。

 しかし、ラウエル・モニュメント・プランとマッカーサー・モニュメント・プランの構図の同一性。マッカーサー・モニュメント・プランはラウエル・モニュメント・プランの完全な流用というしかない事実から見出せるのは、芸術家の時局便乗的態度ではなく、芸術家のニヒリズムなのではないか? そのように思えなくもない。

 発注者に応えるのが彫刻家の役割だとするならば、彫刻家は発注者の側である政治体制の求めに応えるのみ。彫刻家にとって、芸術家にとって、表現こそが(表現のスタイルこそが)目指すものだとするならば、清水には戦時期と敗戦後の断絶は存在しない。ラウエルをマッカーサーに差し替える。構図は、表現のスタイルは微動だにしない。

 

 ここで思い出すのは、戦時期の丹下健三と敗戦後の丹下健三である(以下、井上章一 『戦時下日本の建築家』 朝日選書 1995 による)。

 昭和17(1942)年、建築学会は「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スルニ足ル記念造営計画案」の図面を募集する。実際には、戦時下の資材不足の中で、実現の可能性のまったくない「記念造営計画案」なのだが、建築学会は競技設計として図面の募集を行った。ここで丹下健三の「忠霊神域計画」が一等の情報局賞を獲得する(二等以下を大きく引き離して)。この平面プランと、戦後の広島の、やはり丹下健三による広島平和記念公園(竣工は1954年)の平面プランの同型性が指摘されている。また、広島平和記念公園の慰霊碑も、忠霊神域計画の本殿建屋との同型性が、ハニワ・モチーフということで指摘されている。忠霊神域計画は富士山の裾野を想定し計画された雄大なものだが、比較すれば、広島の平和記念公園はスケール的には小さなものである。しかし、平面計画においても、メインの施設造型においても、その同型性は否定できない。

 戦時期の「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スル」建築計画と、戦後(大東亜共栄圏崩壊後)の平和記念公園の間に、その表現のスタイル(平面計画とメイン施設の造型モチーフ)において断絶はない。

 

 単なる芸術家の無節操と切り捨てることも可能だろうが、しかし、そこに政治体制(あるいは政治的思想・信条)に対するニヒリズムを見出すことも可能であろう(それを良しとするかどうかは別としての話ではあるが)。

 もっとも、特攻寺創設を主張する清水多嘉示の姿からは、戦時期の自らに対する否定的心情の片鱗が読み取れるようにも思われる。軍事における航空力の優位の重要性を理解していたように見える作品群からすれば、特攻作戦に依存せざるを得ないところまで追い込まれた祖国がどのように評価されていたのか? 敗戦後になって、あらためて特攻隊員の犠牲に対峙したとき、清水の心情は、特攻寺創設案として表現されたことになる(それが特攻による戦死者にとっての救いとなるかどうかはともかく)。

 

 

 再び、前回の展示をめぐる話題に戻る。

  展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

 

 戦時期の清水多嘉示の作品には、海軍(航空隊)との深い縁を示すものが多く、海軍館での展示作品ともなっている。その海軍館は、B-29による東京への空襲の初期の段階で投弾対象とされ、被害に遭っている。昭和19(1944)年11月27日の第二回目の出撃、目標は武蔵野市の中島飛行機工場であったが、気象不良のため、都内に投弾したものである。特に海軍館を標的にしたものではなかったが、原宿駅周辺が投弾対象となり、市街地、海軍館、東郷神社などが被害に遭っている。

 前回の資料展の翌年、東京大空襲・戦災資料センターでの「東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃」展(2012年)の際に、海軍館の空襲被害状況を示す写真の存在を知ることとなった(「プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」も参照)。

 現在は、NHKスペシャル取材班/山辺昌彦『東京大空襲 未公開写真は語る』(新潮社 2012)に掲載されている写真で確認可能である。

 以下、海軍館についての記述を引用しておく(最初のもの以外は、掲載写真のキャプション)。

 

  原宿にあった海軍設立の戦争博物館「海軍館」には、2発の爆弾が投下され、建物のみならず野外に展示されていた戦車も損傷した。警視庁の記録によれば、「爆弾一個は建物に命中、三階を貫通して二階にて爆発、建物一部破壊、一個は植込内に落達し、死者一名、傷者一名を生ず。尚数日間は観覧不能にて休館せり」とある。

  海軍の戦争博物館「海軍館」。大理石を使った堅牢な洋館だったが、大きな損傷を受けた。

  「制空」の碑の周辺にも瓦礫が積もる。

  海軍館の庭に展示されていた戦車の周辺には、瓦礫が飛散している。

  海軍館の内部。爆弾は3階を貫通して2階で爆発。崩れた建物の中に、展示された彫像が倒れている。

 

 

 被害の程度が伝わるだろう。「制空の碑」は台座だけで、「碑」の本体はない(東京大空襲・戦災資料センターでの報告書作成関係者の話では、空襲による被害なのか、金属供出により既に失われていたのかは詳らかではないという―台座にダメージが見られない点からすれば、後者の可能性が高いのではないかという話)。崩れた建物内で倒れているのは、幼い兄弟の姿の彫像である(作者についての記述はない)。

 制空権が奪われ、B-29による空襲も激化していく。清水多嘉示は、どのような心情の下に、その日々を送っていたのであろうか?

 

 

 

 

 

 

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2019年5月17日 (金)

モバイル・タイニー・バウハウス

 

 

 2019年はバウハウス100周年に当る。1919年、第一次世界大戦敗戦後のドイツ、ヴァイマールの地に設立された教育施設。いわゆるモダン・デザインの先導者であった。

 1925年にデッサウへ移転し、理念を具現化した校舎を建設する。

 

 なんと、そのデッサウの校舎がモバイル化されているのであった!

 

 

Tiny Bauhaus: smallest 2-room apartment & school on wheels
  
https://www.youtube.com/watch?v=x7UIx-iTyR4

 

 

 ミニマムサイズの様々な住居の試みを中心に動画取材しているキルステン・ディルクセン(Kirsten Dirksen)氏によって、この「Tiny Bauhaus」も紹介されていたのである(数日前の話)。

 ラオス出身のヴァン・ボー・ル=メンツェル(Van Bo Le-Mentzel)氏の作品であり、動画中にもタイニー・バウハウスの内部を案内し、インタビューに応える本人の姿も記録されている。

 

 

 私個人の好みとして、このタイニー・バウハウスは実に愛おしく魅力的である。

 動画のコメント欄には、丸見えのバスルームはどうなのよ的意見も散見されるが、そして私自身もそのような見解を共有することも確かではあるにしても、実用性を上回るデザインの魅力を認めざるを得ない。

 

 

 そのタイニー・バウハウスの設置場所もまた、動画の見どころであろう。ドイツの「古都」そのものといったリューネブルクの街の佇まい。そのリューネブルクのロイファナ大学構内にタイニー・バウハウスが停車している(建物の下には車輪が見える)のである。

 映し出されるロイファナ大学のキャンパスで目を引くのが、ダニエル・リベスキンド設計の校舎である。いわゆる脱構築主義建築の代表者である。

 古風な町並みの中の自己主張炸裂型脱構築主義建築に対峙する形で、モダン・デザイン建築の見本のようなデッサウのバウハウス校舎(もはや古典である)のミニチュアが静かに停車しているのである。

 

 

 

 だからどうした、と言われても困るが、個人的には実に楽しい光景なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年4月11日 (木)

古本ジャングルと70代の道案内

 

 

  よくお世話になっている(カモにされている)立川フロム中武の古書市の案内状、「恒例フロム古書市ご案内」が届いている。

  案内状に記された天心堂御主人の「呟き」にウケたので、ここに記録保存。

 

 

 

 

     l_ccc5acbb812454b7cb3b485f1dab36ecc438be6d.jpg

 

 

   中央線沿線から集まった古本屋五軒。
    そのほとんどは70歳以上、現役。
    世に珍しい高齢者立上げの即売会は
     (どこかのんびりしています)
     目の前に広がる古本ジャングル群
   (お客様が開拓者ならば、私どもは道案内)
     本との出合いは束の間のトキメキ、
       ご来場をお待ちしております。
              参加店主の呟き  天心堂
                   2019年 4月吉日

 

 

 

  今回は、日程的に「開拓者」として出かける時間がとれるかどうか状態なのが残念。

  レジで雑談にふける道案内の大先輩方の気配を感じながら、古本ジャングル探索を楽しんじゃうひととき。

  財布の中身を減らし、狭い部屋をより狭くする。そこに問題があるのだが、「本との出合いは束の間のトキメキ」なのである。

 

 

 

 

 実際、どうなるかというと…こんなものが手に入ってしまったりする
     (以下追記:2019/04/13)

 

 《昨年の夏のある日の収穫》

 

Img_0809_2

 

明治期の小學理科教科書からバタイユまで、この13冊で8150円の買い物

(上段左から右へ)
學海指針社編輯 『小學理科新書 甲種 巻之一』 明治26(1893)年 集英堂  金十二銭→700円 
深谷甫 『米國海軍艦型圖輯』 昭和18(1943)年 海と空社  2圓00銭→900円
宇都宮謙編輯 『義は君臣情は父子』 昭和13(1938)年 日本歴史研究會  金壹圓五拾銭→1200円
ジョルジュ・バタイユ ハンス・ベルメール画 『眼球譚◎マダム・エドワルダ』 1988 白水社  2400円→400円
谷喬夫 『ナチ・イデオロギーの系譜』 2012 新評論 900円
小学校平和教育教材編集委員会・広島県原爆被爆教師の会編 『ひろしま―これはわたしたちのさけびです(試案)』 1970(ただし1981年の3訂版第7刷 広島平和教育研究所出版部  頒価180円→100円
(下段左から右へ)
日本民族學協會編輯 『民俗學研究 第十二巻 第二號』 1947 彰考書院  三十五圓→250円
多木浩二 『「もの」の詩学』 1984 岩波現代選書  1800円→500円
藤原彰 『中国戦線従軍記』 2002 大月書店  2000円→800円 
デイヴィッド・フィンケル 『帰還兵はなぜ自殺するのか』 2015 亜紀書房  2300円→800円
武藤貞一 『日支事變と次に来るもの』 昭和12(1937)年 新潮社  ¥1.00→800円
ポソニー 『今日の戰爭―その計畫・遂行・經費』 昭和15(1940)年 岩波新書  五十銭→200円
「青島戦ドイツ俘虜収容所」研究会 『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究 第六号』 2008 「青島戦俘虜収容所」研究会  600円

 

 この中から一冊を選ぶとすれば…

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 深谷甫 『米國海軍艦型圖輯』 1943(昭和18年) 海と空社

  

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 かつての持ち主である吉澤大尉の署名

 

Img_0817_1

 ページには附箋が付され、書き込みも多い(吉澤大尉の努力研究の跡である)
 附箋と書き込み、そして署名に魅せられての購入であった(多分、美品であれば購入はしていない)

 

 

Img_0818_1

 奥付を見ると、再版で2000部という発行部数であったことが記録されている
 才谷屋書店の出品で900円であった(昭和18年の定価2圓00銭)

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2019/04/11 08:51 → https://www.freeml.com/bl/316274/324508/)

 

 

 

 

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2019年4月 1日 (月)

総力戦下の猫

 

 

 戦争は人間の都合によるものだが、その悲惨に巻き込まれるのは人間だけではない。

 

 

 

 アジア太平洋戦争下の昭和19年(1944)秋、軍需毛皮の兎が不足したことから、軍需省・厚生省が飼い犬の毛皮供出献納を都道府県知事あてに通牒し運動が全国に展開した。ところが、北海道では早くも18年に犬毛皮の供出が始まり、19年には海軍の要請により飼い猫が加わった。運動と実施の主体は北海道庁と札幌市及び大政翼賛会北海道支部と札幌支部であり、実際の業務は国策会社の北海道興農公社が全道にまたがり行うという、官民一体となった運動であった。背景には国民を戦争協力体制へ導く教化運動があり、日中戦争(1937年)を契機に開始した国民精神総動員運動が翌年1938年の国家総動員運動へ、さらに1940年の国民統合組織の大政翼賛会運動へ発展・継続した。物資不足の代替に供出対象が飼い犬飼い猫という身近な愛玩動物へエスカレートした。社会全体を上意下達の全体主義が覆い、行政の末端の町内会までに草の根の軍国主義が及んだ一つの現象であった。
     (西田秀子 「アジア太平洋戦争下 犬、猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態―史実と科学鑑定」 2016 札幌市公文書館 事業年報第3号別冊 論考3冒頭の「要旨」より)

 

 

 今回は、戦時下の猫の受難について、西田氏のすぐれた論考を通して紹介してみようと思う。

 

 「戦時下の猫」と書いて思い出すのは、米国陸軍省による「Why We Fight」と題されたシリーズの一本、フランク・キャプラによる『Why We Fight: The Battle of Britain 』に登場する、ロンドン空襲下で市民と共にあるネコの姿である(29分5秒と37分25秒)。とても短いシーンの中に、空襲の惨禍の中で、ネコの存在が人々にもたらす安らぎが記録されている(https://www.youtube.com/watch?v=cSZnFo7JORo)。

 

 悲惨なのは、普仏戦争の際にプロシア軍に包囲され食糧補給の途絶えたパリから記事を送っていたヘンリー・ラブシェアの伝えるエピソードである。

 

 ラブシェアは、従軍記者に期待されていた強がりを軽蔑した。「私は、遠くから戦闘の匂いを嗅ぎつけて、その真っ只中に急行するという抗し難い欲望は持ち合わせていない。自分の好奇心を満たすためだけに頭部に砲弾を受けるなどは、私には愚の骨頂としか思えない……」。そこでラブシェアは一〇人から一二人が殺される毎日の砲撃のことは無視し、食糧補給が途絶えたために動物園の獣を食べ、やがてこれまでは食物と思われなかった物まで料理し始めたパリ市民の生き残りの決意を克明に書くことに専念した。
 ラブシェアが最近食べた献立の記事に読者はぞっとしながらも、『デーリー・ニューズ』の発行部数は着実に伸びていった。彼によると、猫は「ネズミとリスの中間の味ながら、独特の風味がある。美味である。子猫は、玉ネギで蒸し煮にするか、シチューにすると最高である」。ロバはマトンに似ているし、「ドブネズミのサラミ」はカエルとウサギの中間の味がした。イギリス人の彼には、犬を喰うのはとても無理だった。「私は、人間の友である犬を食べるときは、罪悪感をおぼえる。こないだはスパニエルを一切れ食べた。決して悪い味ではなく、子羊のようだったが、人食い人種の気分だった」
     (フィリップ・ナイトリー 『戦争報道の内幕 隠された真実』 中公文庫 2004)

 

 厳しい飢餓の中、追い詰められた人々に、ネコも食料とされてしまうのである。

 

 

 さて、西田氏の論考である。

 戦時下の日本で、飼い猫が毛皮の供給源とされてしまった事実を、史料に基づいて示したものだ。

 皮革・毛皮は重要な軍需物資であった。昭和12年以降の支那事変の拡大は、軍需物資としての皮革・毛皮の確保を切実な問題とさせた。

 

 昭和13年3月、戦時(事変)に際して人的および物的資源を統制、動員、運用するための国家総動員法が公布され5月に施行された。
 皮革は軍需品として国の統制下に入った。政府は生産力拡充の目的で(2)、昭和13年7月1日付けで皮革について次の商工省令を公布した。①「使用制限規則」、②「製品販売価格取締規則」、 ③「配給統制規則」これにより、皮革原皮の集荷・販売・配給が一元化された。全国の原皮を集荷統制し、各製革工場に販売、配給する権限を国から付与されたのは、東京原皮商業組合、大阪原皮商業組合、北海道では酪連であった。
 酪連は道内の原皮統制機関として13年8月から営業を開始した。皮革統制により商売不能となった道内の原皮仲買人は、酪連が道内28カ所の現地処理主任として採用した。道内各地の屠場で処理された原皮を札幌苗穂(14年に新設)の酪連皮革工場に集荷し、軍が買い上げた後に同工場で製革し、残りを民需用として販売した(3)。これらの毎月の取り扱い数量は所管の商工省に報告の義務があった。酪連は札幌市から委譲された屠場で処理した材料で軍用缶詰を製造し、第七師団に納入する一方、原皮の集荷・鞣革(牛・馬・豚)と兎毛皮生産についても軍需・民需両面の生産、販売を一手に担い急成長していく。
     (西田論文 
2-1-2ー論文にはページ数の表記がないので、以下、各節の番号で引用箇所を示す)

 

 肉は軍用缶詰に、皮革は様々な装具に用いられ、毛皮は防寒具として重要であった。

 兎の毛皮については、ナチスドイツでのエホバの証人をめぐるエピソードを思い出す(強制収容所で兎を飼育し、軍用毛皮の供給源としていた中での出来事)。

 

 証人たちは軍務を嫌悪した。そのため、毛皮が軍服に使われるというのでウサギの番さえ拒否することも起きた。その結果、何人かの女性囚は、ラーヴェンスブリュックとアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)で反逆罪により死刑を執行された。
     (シビル・ミルトン 「エホバの証人」 ウォルター・ラカー編『ホロコースト大辞典』)

 

ナチスにより強制収容所に収容されたエホバの証人は、徴兵拒否にとどまらず広範な戦争関係業務拒否も貫き、(労働としては軽度であるはずの)「ウサギの番さえ拒否することも起きた」というのである。それが死刑に相当する「反逆罪」と位置付けられた背景として、軍用毛皮の確保の国家的重要性も考えておくべきであろう。

 

 さて、日本である。西田氏は特に北海道に焦点を合せているのだが、北海道空知郡農会により昭和12年(1937)9月、傘下の農家の実行組合長と組合員に宛てた「急告兎毛皮奉国」というチラシが紹介されている。西田氏による抜き書きを引用しておこう(チラシ原文にある振り仮名は略、アンダーラインは原文通り)。

 

〇膺懲の皇軍の、矢継早の勝利に伴ふて、兎毛皮の軍事品としての要求が彌々緊切必須の度を高めました。
〇零下三四十度の、寒冽なる戦場に於ける我等勇士に、暖かき兎毛皮付きの外套等を供することは、身も心も一層勇壮にし明朗にして以て三軍の士気を振はしむることとなるのであります。(略)
〇然るに、僅かの値ちがいに眩惑して(本年度は値ちがいのない計画ではあるが)商人の奪取に一任するが如きは、忠誠なる日本人魂の上から、不可解ばかりでなしに、見様によりては、非国民呼はりをも、さけ得ないことではないでせうか
〇陸海軍では、如何にしても予定の兎毛皮の納入を得なければならぬといふ、軍事上の最大急要の事情があるので、確聞するところによれば、全国農家飼育頭数の全部(来年に備ふべき種等は別として)買上げの計画であり、亦近く、国法では、兎毛皮海外輸出を禁ずることになるとのことであります。兎毛皮奉国の理由は之だけでも明かでせう。
実行組合会長各位、なにとぞ其の組合員の分を取りまとめて下さい。組合員各位、何卒衷心より、赤誠を以て、納入を敢行してください。
 学校の生徒諸君は、自分の飼育の分は、勿論ご両親が飼育している分でも、もし、ご両親が、気づかずにいるなれば、諸君が早速申し出て、兎毛皮奉国の実を挙げて下さい。

〇兎毛皮奉国! !!兎毛皮奉国! !!本年は是非少なくとも配当の枚数だけは、萬障を排して、町村農会を経て納入して、他府県、外支庁管内に比し断然優勝の成績を挙くるやふ、お互に努力奮闘したいと思ひます。
〇納入手続、価格、其他詳細のことは、町村農会よりお知らせ致しますが、各位からも御照会を願います。
     (2-3-2)

 

 北海道という土地柄からすれば、「零下三四十度の、寒冽なる戦場に於ける我等勇士に、暖かき兎毛皮付きの外套等を供することは、身も心も一層勇壮にし明朗にして以て三軍の士気を振はしむることとなるのであります」、すなわち「暖かき兎毛皮付きの外套等を供すること」の切実さは実感として理解・共有されるものであったろう。その上で「陸海軍では、如何にしても予定の兎毛皮の納入を得なければならぬといふ、軍事上の最大急要の事情がある」とし、「軍事上の最大急要の事情」を強調しているのである。それへの非協力に対し、「見様によりては、非国民呼はりをも、さけ得ないことではないでせうか」と脅迫的言辞も付け加えられての「急告兎毛皮奉国」なのである。上意下達の国家的行政的指示命令システムによるもの以前に、北海道空知郡農会は「兎毛皮奉国」を率先して展開しようとしていたのである。下からの「兎毛皮奉国」運動の盛り上がりなのだ。事変が始まって、まだ2か月の段階での話だ。

 

 その3年後、「事変発生以来暖かい防寒毛皮となり肉となって聖戦に尽くした幾多の軍用兎の霊を慰める」との趣旨で開催された、帝国農会による「軍兎祭」は全国的なものであったという(「兎毛皮奉国」の全国化を示す慰霊祭祀形式の軍需協力プロパガンダ)。

 

 昭和15年ころに兎関連の新聞記事が急増する。15年9月16日、中秋の名月の日を選び帝国農会は「軍兎祭」を日本全国各地で行った。「事変発生以来暖かい防寒毛皮となり肉となって聖戦に尽くした幾多の軍用兎の霊を慰める」とある。「修祓(しゅうふつ)、献選、招魂祭の儀についで農林次官(代理)、道農会会長、陸軍被服支廠札幌出張所長森中佐、札幌地方海軍人事部斎藤中尉ほかの奉奠(ほうてん)があり慰霊祭を終り、被服本廠長より道農会へ感謝状、郡農会より道内市町村、小学校養兎家、軍兎の功労者256人へ表彰状授与。北光小学校児童の「兎のダンス」の余興が披露された」。国益に叶うなら兎の霊も慰める「軍兎祭」のように、国家に捧げた命の犠牲を儀式化することで、一般国民に報国を知らしめる戦争プロパガンダ(宣伝)が増えていく。
 「少女ら兎を献納札幌市北光小学校では『学童養兎報国団』をつくり四年生以上の二百五十名が学校から子兎一頭ずつをもらい受け、自宅で空箱を利用して」6か月間育てたあと、学校で酪連の技師による審査を受け、肥育の良い200羽が「酪連を通じて戦地の兵隊さんの外套の襟として献納」された。この兎飼育運動は来年も続けるとあり、昭和19年には学校単位の競争に発展する(『北海タイムス』昭和15年10月17日、『北海道新聞』昭和19年2月19日)。2016年の現在、校庭の隅の兎小屋で兎を飼育する小学校が見受けられるが、もとは戦時下の兎飼育奨励の毛皮献納運動に始まっている。
     (2-3-4)

 

 「軍用兎の霊を慰める」一方で、「学童養兎報国団」をつくる小学校もあり、「昭和19年には学校単位の競争」にまで発展する。西田氏による「2016年の現在、校庭の隅の兎小屋で兎を飼育する小学校が見受けられるが、もとは戦時下の兎飼育奨励の毛皮献納運動に始まっている」との指摘は興味深い(起源は忘れ去られている)。

 

 しかし、「兎と兎皮の集荷数は昭和14年26万8000羽をピークに下降し、昭和20年はピーク時の1割に届かないまでに減少した。北海道庁が12年にたてた5カ年計画は農家12万戸に24羽ずつの割当飼育で年間288万羽の兎毛皮を見込んだ。最盛期14年の48万羽でさえも2割にも満たない大きな計算違いであった(2-3-6)」と西田氏は実情を明らかにしている。

 

 17年度は大政翼賛会が主体となって陸軍・海軍・農林・文部各省と帝国農会の協力により全国的な家兎大増産運動を展開し農家はもちろん学校・家庭にも飼育を奨励したが収入の少ない養兎はなおざりにされて家庭労働力も減少し「頼みの学童飼育でさえ労力を緊急方面に動員された」ため全国的に運動の成果が上がらなかった。17年度の兎毛皮は14万8600枚で3000枚の増産にとどまった。18年度は道庁・農業会・興農公社の3者が一体となって飼育と供出を勧奨したところ、家兎の公定価格が3割引き上げられ、さらに北海道の特殊事情により公定価格よりも百匁につき2銭の歩合を付けたが自家用屠殺が増えて集荷数は13万9700枚と前年よりも8900枚の減少となった。配給制に頼る食糧難が続くと、自宅で飼っている兎は良質のたんぱく源として、家族の胃袋を満たしてくれる存在となった結果である。19年の全道生産が20万羽あっても、興農公社が兎肉を集荷できなかったということを現している。航空服用の毛皮に兎が入手できなくなった北海道庁と興農公社、大政翼賛会の運動が非常時対策として次に着目したのが、飼い犬飼い猫の毛皮供出献納運動であった。
     (2-3-6 )

 

 総力戦下での戦時動員は多方面に及び、労働力不足はどの産業でも深刻化した(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」も参照)。農家にとっても学校でも養兎どころではなくなりつつあったのである。さらに食糧難は兎を「良質のたんぱく源」として自家消費させるところに追い込む。戦時日本の限界の典型的事例であろう。

 そこで着目されたのが飼い犬であった。

 

 西田氏は昭和18年4月2日の『北海道新聞、「毛皮報国ワン公も滅私奉公」と題する記事を紹介している(3-2-3)。

 
 街頭を横行する野犬を大東亜戦を勝ち抜くための毛皮報国のために御役にたてる妙案が札幌市翼賛会支部で実施されることになった。
 畜犬毛皮の献納運動は翼壮、青年団員の勤労奉仕によることとして準備中であったが、野犬の捕獲は、狂犬病を有するものがあって、相当危険なので警察当局と打合わせの結果、畜犬に限り連合公区長及公区長を煩はして、飼い主から献納申し込み徴収し、四月六日まで市役所公区係に提出させることになった。その方法は、次の通りで、札幌支部では野犬報国運動の徹底を期してゐる。
一、各公区で献納が十頭以上あるときは申込書と同時にその公区の一定の場所に集め、引渡し月日を市公区係に通知すること。(ただし四月十日までを献納期間とす)十頭未満の場合は、献納主より直接豊平毛皮工場に引付けのこと。
二、興農公社の買収代金は、大政翼賛会札幌支部(公区係)を経て国防献金として同時に支部に報告すること。

 

 昭和19年2月1日の北海道庁経済部長、警察部長名による「野畜犬毛皮献納運動実施ニ関スル件」の「野畜犬毛皮献納運動要綱」では、

 

 一、趣旨兎毛皮ハ酷寒地第一線ノ将兵並ニ航空将兵ノ衣料トシテ眞ニ欠クベカラザル重要ナル軍需資材ナリ然ルニ輓近軍用兎ノ増殖ヲ図ルモ野畜犬ノ被害ニ依リ飼育頭数激減スルノ状勢ニアリ。決戦下寔ニ寒心耐ヘザルモノアルニ鑑ミ本運動ヲ実施シ軍用兎ノ増産ヲ計ルト共ニ野畜犬毛皮ヲ献納シ軍兎毛皮ノ不足ヲ補フヲ目途トス

 

との理由付けがされている(3-2-4)。北海道庁の発行する『北海道庁公報』第3306号(昭和19年2月2日)の表紙には「野畜犬進んで奉公さあ! 今だ!」の標語とイラストが掲載されている(3-2-5)。

 「進んで奉公」の実際は、殺されて毛皮となることである。その決断・協力を飼い主に求めたのである。

 既に人間には「玉砕」の名による戦死が慫慂され、やがて特攻という名の自殺攻撃が求められるようになる時代の話なのである。大日本帝國の戦争、総力戦は、果てに「一億総玉砕」なるスローガンまで編み出すに至る。言葉通りに理解すれば、日本人全員が戦死するという話だ。飼い犬だって「進んで奉公」するのが当然なのである。ただし、それは飼い犬自身の意思の問題ではなく人間の都合の問題なのであった。

 

 

 西田氏によれば、飼い犬飼い猫を毛皮の供給源とする発想については、先行事例があった。

 

 北昤吉衆議院議員が第七十五回帝国議会衆議院予算委員会の質問で、第一次世界大戦時に独逸が行った例を挙げ、「軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまふ、さうすれば皮は出る、飼料はうんと助かります。」と犬猫不要論を唱えた。それに対して畑俊六陸軍大臣が、「犬を全部殺して愛犬家の楽しみを奪ったが善いか悪いかと云ふことに尽きましては、尚ほ折角研究を致したい」と答を回避した。北議員は「犬は豚や鶏と違い、唯物を食って大して益する所がない。皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります。農林大臣には犬猫の数及び一年の飼育に要する分量等御聴きしたい。独逸では現にあった」という持論を展開した。
     (3-2-2)

 

 既に昭和15(1940)年2月13日、衆議院予算委員会の場で、北昤吉は「皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります」と主張していたのである。

 北海道での取り組みとの関連はわからないが、昭和18年の「毛皮報国ワン公も滅私奉公」に先立つ議論が対米戦争開戦の前に(支那事変段階において)行われていたのである。

 しかし「犬は豚や鶏と違い、唯物を食って大して益する所がない」との前提、そして「皮が不足しているので犬猫を撲殺することに陸軍が努力してはどうか、非常時であるから統制を強化しなければならぬ。軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまへば皮は出る、飼料はうんと助かります」と展開される主張には言葉を失う(平成日本の用語法に従えば「犬猫には生産性がない」であろうか?)。が、やがて大日本帝國において北の主張は現実化するのである。

 西田氏は、昭和20年5月11日の鳥取県の鳥取県告示第百八十四号に、「軍需省厚生省通牒犬原皮増産確保竝狂犬病根絶対策要綱ニ基キ、畜犬ノ献納受入及供出犬買上竝野犬ノ掃蕩ヲ左記日時場所ニ於テ之ヲ施行ス」とあり、それが軍需省化学局長・厚生省衛生局長の連名による「犬原皮増産確保竝狂犬病根絶対策」およびその「要綱」の通牒(西田氏によれば昭和19年11月15日付)に基くものであることを確認している。北海道内での献納運動から全国展開に至ったのである。「毛皮報国ワン公も滅私奉公」がついに国策になったのである。

 こうして飼い犬の受難は全国展開される。

 

 飼い猫の方は、北海道限定だったようである。

 西田氏は昭和19年5月27日付の『北海道新聞』記事を引いている。

 

 犬猫の皮も軍用に買上げ犬は十円、猫は五円の公定価
 二十六日道会議事堂で開かれた北海道地方行政協議会に、在室蘭海軍主席監督官から『犬猫毛皮買ひ上げの件』が提案されたが、犬の毛とともに猫の毛も航空要員の防寒服にしようと、この協議会に華々しくとりあげられたもので、その集荷の方法や製皮関係も考へて犬猫皮回収策を決定した。
 集荷方法としては、市町村長が管内の畜犬、畜猫の率先供出を求めるほか、野良犬や、野良猫までもかり集めて、剥皮し、それを興農公社の各皮革工場でなめして立派な製皮として軍に納入することになってゐるが、興農公社では剥皮のままの猫の皮一匹約五円、犬の皮はその皮質や大小に応じて十円前後で買ひ上げる。剥皮されたものは、なめし料とか生皮のときに使ふ防腐用の薬代などを含んだ値段が軍納価格となってゐるが、これによって犬猫の皮にも公定価格が付されたわけだ。それはともかく、この犬猫毛皮の軍用実材化は、軍用兎毛の不足を補う海軍当局の非常手段である。
 犬猫もただならぬといわれた不仲も、戦争必勝には見事に解消し、空の武具として仲良く出陣することになったもの。
 なほ、堵殺の時期は冬が一番であって、すでに時期遅れの感があるが、全道的に約二万頭の犬猫が動員される予定であり、今冬のいはゆる堵殺時期には道樺民の協力で、相当数の供出が期待されているが、当局は、犬猫の献納運動も進める方針である。
     (3-2-6)

 

 「在室蘭海軍主席監督官から『犬猫毛皮買ひ上げの件』が提案されたが、犬の毛とともに猫の毛も航空要員の防寒服にしようと、この協議会に華々しくとりあげられたもの」とあるように、「猫毛皮の軍用実材化 」を提唱したのは海軍関係者であったらしい。

 昭和19年11月10日付の『北海道新聞』記事では、

 

 兵隊さんの温い防寒服へ犬や猫を全道から供出しょう
 北の前線に戦ふ兵隊さんの防寒服用として道庁では昨年初めて献犬運動を起こし、翼賛会や興農公社の協力を得て全道から百三十頭の野良犬の毛皮を集め供出したが今年は陸海軍の要望もあり大々的な献犬献猫運動を展開、温かい防寒被服を沢山送らうと意気込んでゐる、道庁北方農業課の皮算用では道内の野畜犬は十五万頭、そのうち二割が軍用犬、番犬、運搬犬で、他はすべて主なき野良犬または飼主は居ても食餌を与へぬ野良犬同様のものばかりといふ、しかも犬による家畜被害は昭和十七年の調査によれば一年間に兎三万五千頭、鶏三万一千羽、緬羊六百四十頭で、兎は総飼育数の十五%に達してをり、兎の飼育者から「兎の毛皮を増産するなら犬を退治してほしい」との悲鳴さへあがってゐる本道第一の軍用兎飼育地である上湧別村が野犬の徹底的撲滅はもちろん畜犬の全廃によって犬害の恐れなく、全村一体の養兎報国に邁進してゐる例のみならず戦争にはつきものといはれる狂犬病を未然に防ぐ上からも野犬狩り、畜犬の取締りを一段と強化しなければならぬわけだ
 猫は家鼠の駆逐にも必要とあってその一部を供出させる方針でこれら供出犬猫の処置は一切興農公社が引受けるが供出は犬猫とも毛の密生した十一月から春三月までがよく、割当ては近く市町村から通牒されるはず。
     (3-2-7)

 

このように「献犬献猫運動」の成果が語られている。当時の全体状況としては、

 

 集荷・処理事業を実施した興農公社は「18年度は兎毛皮だけでは需要を満たすことができず、リス・いたち・きつね・オットセイ、犬、ネズミまで集めて毛皮増産に拍車をかけた。19年度は海軍の発注により犬・猫その他の毛皮を集荷したが、とくに犬、猫については道庁と公社が中核となり、市町村当局ならびに諸団体、公社地方工場の協力を得て、全国的に有名となった献犬、献猫運動を起こした。ネズミは樺太で前年野ネズミが発生し60万枚の毛皮があるという調査から、海軍の買収命令を受け、公社職員が樺太庁と大泊の海軍要港部の援助を求め各地を回ったが大半は既に処分され、ようやく5万枚を獲得することができた」という。
     (4―1)

 

このように(小さな)野ネズミの毛皮まで対象とされるまでに追い詰められていた。その中での北海道の飼い猫の受難なのである。

 

 もちろん、飼い主にとっては可愛い飼い犬であり可愛い飼い猫である。昭和20年6月13日付の『日本海新聞』の「親子三代犬納物語」と題された記事では、

 

 戦ふ日本の軍需皮革としてお役に立てて下さいと、県下千八百匹の畜犬、野犬は今献納、供出運動に応召してゐるが、現在までに応召した畜犬は六百五拾六匹で約三分の一、以下は県衛生課の話。
 愛玩、番犬中には「この犬を取られたら生きてゐる気がしない」と哀願する人、「時局は認識してゐるが、犬だけはゆるしてほしい、永年家族同様に飼ってきたものだから」と歎願する人また逆に食ってかゝるものもあるといった具合でこの傾向は概して有力者とみられる層に多い、然し鳥取市吉方の元市議常田幸治氏などは、分娩して間もない親仔犬を伴れてきて、「仔持ちで可哀そうだがこれも勝つためだ、親仔ともに供出します、もし仔犬の皮が役立たぬならすてゝ頂けばいい、それからこれはこの親犬の親の毛皮でなめしたものですが、これも一緒にお役に立てて下さい」と親、子、孫三代の犬を一とときに献納してゐる。
     (4-2-1)

 

このように、「仔持ちで可哀そうだがこれも勝つためだ、親仔ともに供出します、もし仔犬の皮が役立たぬならすてゝ頂けばいい、それからこれはこの親犬の親の毛皮でなめしたものですが、これも一緒にお役に立てて下さい」と自身の飼い犬を率先して献納する模範的(とされたであろう)人物の姿の一方で、愛犬家らしく「「この犬を取られたら生きてゐる気がしない」と哀願する人、「時局は認識してゐるが、犬だけはゆるしてほしい、永年家族同様に飼ってきたものだから」と歎願する人また逆に食ってかゝるもの」のあることも記されている。

 

 献納された飼い猫の受領證が残されている。

 

 受領證

 畜猫壱匹

  右軍需用毛皮供出トシテ正ニ受領候也
   昭和二十年二月二十二日

           札幌市長三澤寛一市長押印
 納者

    牧スミ殿

 

 牧スミさんにとって人生のかけがえのない伴侶であったかも知れない大事な飼い猫は、一枚の受領證と引きかえに「軍需用毛皮」として「供出」された。すなわちスミさんの愛猫は、大日本帝國の軍需(という人間の都合)のために命を奪われたのである。

 

 さらに西田氏は、殺処分の現場に立ち会った人物の証言を記録している。

 

【証言a】昭和20年2月頃興農公社の殺処分のアルバイトをした
 証言者:国民学校高等科を卒業後のこと。当時15歳の少年。
 興農公社の知人から処分作業のアルバイトに誘われた。昭和20年の2月か3月頃の冬に4,5人の処理班とともに岩見沢、滝川、江部乙、新十津川、雨竜町のオシラリカ(尾白利加)川を覚えている。主に農村地帯を馬橇で廻り、5日間程度の日程を旅館で宿泊しながら11、12カ所で作業をした。
 岩見沢では朝、旅館から出かけて行った。幅1メートルくらいの小さな川の側で、兎や猫を連れてきた人が一列に並んだ。農協の受付係の人が「兎、犬、猫」と書いて、1匹50銭か1円の時もあった。連れてきた人の眼の前で、金槌で殺すんだ。怖がっていたよ。自分も怖かった。なるべく苦しまないように眉間を狙うんだ。
 滝川では農協の職員が小さな机を置いて、猫や犬を連れてきた人に一匹当たり1円を支払い、帳面につけていた。女性の事務員も一人いた。皮を剥ぐとカマスに入れて塩をぶっかけて、塩漬けにして興農公社に送っていた。友人の一人は作業が怖くなり、途中で止めて自宅に帰った。
 今でも忘れられない。時々夢を見る。孫娘から「おじいちゃんは戦争中にそんな悪い事をしていたの」と言われるのが一番怖くて、家族には一言も話していない。「兵隊さんも戦場で戦っているのに、犬もお国のためにならなければ」と言われていた。戦争の時は惨いことをしたもんだ。(場所:札幌市文化資料室。2007年6月西田秀子聞き取り)

【証言b】学校の帰り道犬猫の処分を見ていた
 当時前田村(現・共和町)の集会所証言者加藤光則さん(当時10歳)
 当時は国民学校の5年生、学校でも白米弁当は姿を消しました。季節風に小雪の舞う寒い日でした。学校の帰り、部落の集会所の空き地に雪穴が掘られて周囲を雪壁でかこってました。その中から男の人の声が聞こえてきて、何だろうと友達と近寄って穴を覗き込みました。で、
息を飲んだんですよ。雪穴の中は一面が血の色に染まっていて、雪壁の縁には犬猫の毛皮と裸にされた犬猫が山積みになっていました。
 「子どもは来るな」と怒鳴られました。男の人が口の閉じたカマスを金槌みたいな斧みたいなもので数回叩きつけてました。カマスの口を空けた途端に、猫が飛び出して雪壁を駆けあがり、ポプラの木に駆け上った。怖くて身震いしていました。急いで家に帰り、父親に話すと、「犬猫の供出だ。戦地の兵隊さんに送るんだ」と。「農家はネズミ捕るやつ一匹だけ残していいんだ」。それ以来、供出は忘れられません。(2007年6月西田秀子聞き取り)
 動物の命奪っておいて人間だけが幸せになるなんてできやしませんよ。弾が飛んでくるとこだけが戦場だと理解したら、とんでもないです。(2015年談話)
     (4-3)

 

 実に生々しく、痛ましい。

 

 

 

 西田氏は「北海道内の実施状況」として以下の数字を示している。

 

 初年度の18年度は犬皮のみ2,627枚、19年度は北海道庁が道内各市町村長宛てに割当頭数を通達したことから犬皮1万5000枚、猫も4万5000枚で合計6万枚が供出された。これを種類別にみると、猫が4万5000匹で、犬3万157頭と猫の供出が犬よりも1万5000匹多い。割当頭数と比較してみると、4年間の合計犬3万頭は、昭和19年度の1年分の割当2万9664頭と同数。猫は19年度だけで4万5000匹供出されており、割当1年分の約7万7000匹の6割が供出されている。換言すれば、18年の戦時中から4年間で(引用者註:付表の年度が昭和18年から昭和21年となっている)北海道内の飼い犬が3万頭、猫は4万5000匹が供出されて殺処分となり毛皮にされたということである。
     (4―1)

 

 3万頭の飼い犬、4万5000匹の飼い猫の受難(すなわち「供出されて殺処分となり毛皮にされたということ」)である。戦時下、国家の求めに従わざるを得なかった愛犬家・愛猫家の心情はどのようであっただろうか。もっとも、人間にも国家のための戦死が慫慂されてた時代の話である。

 

 

 

 このように、西田氏による丹念な史料探索と見出した体験者による証言は、戦時期のイヌネコの運命を明らかにした。

 西田論文はそれだけで終わらない。続く第5章でのアプローチに、私は敬意を抱く。西田氏の問題意識は、以下のように展開していくのである(引用部は「戦争遺品の毛皮同定(鑑定)検査の目的」と題されている)。

 

 本章では、戦時中の犬や猫の毛皮供出献納運動によって集荷された毛皮類が、献納運動の趣旨の通り実際に将兵の防寒着に使用されていたのだろうかという疑問について検討・考察する機会としたい。しかしこの件に関する明確な記録や関係者による証言が残されていないことから、次の方法を取ることにした。
  ①日中戦争・太平洋戦争期の防寒着や防寒靴には、どのような動物の毛皮が使われていたのか。
  ②その結果を当時の陸軍被服廠の「製造仕様書」と照合し、一致と不一致を確認する。
 すなわち当時の史料である防寒着などの「製造仕様書」と、実際の戦争遺品の防寒着・防寒靴から毛を採取し、同定検査(鑑定)した結果とを照合・検証し、事実を確認することが目的である。
 検証作業に当たっては、次の道内の三博物館・資料館に所蔵されている戦争遺品から、博物館職員により所蔵保管に影響のない範囲内で動物の毛皮の毛を採取し、試料を提供していただいた。また、同定(鑑定)検査については、次の専門家三人に依頼し、結果の回答を顕微鏡写真とともに所見をいただいた。
     (5-1)

 

 そこから得られた知見も実に興味深いものである。

 

 今回の同定(鑑定)検査によって判明した動物の種類と、当時の陸軍被服廠による防寒外套の仕様書とを照合する。
 まず、3005-90(半袖)昭和17年製の左小袖腋回りにはネコ、右袖にはウサギの毛が使われていた。製作年から該当する仕様書を調べてみると、「陸軍被服品仕様聚下巻/第1編成品被服/第3款特殊地方用被服」(6)という昭和14年の仕様書を綴った史料が見つかった。その「一五四頁」の「其の二防寒外套真綿裏(人口毛皮製)昭和一四年一二月一四日被臨仕第一一一号改正」のなかに、「皮革兎毛皮小袖裏」とある。
 また「一五七頁」には、「防寒外套真綿裏(人口毛皮製)臨時材料調書昭和一四年五月二九日被臨仕第三六号制定」があり、そのなかに「皮革兎毛皮色相ヲ限定セズ猫、小羊等使用シ得」とある。つまり基本は兎だが、臨時に「色相は限定しないで猫、小羊など使用しても良い」となっている。
 ネコもウサギも、この昭和14年制定の仕様書と一致した。仕様書通りに製作されていた。つまり、犬、猫毛皮供出献納運動(昭和18年以降)よりも以前から、遅くとも昭和14年以降は、防寒外套に猫毛皮の使用を陸軍省管理の被服廠が公的に指示していた、という事実が確認された。
     (5-3-2)

 

 西田氏が依頼した科学的鑑定から明らかになったのは、「3005-90(半袖)昭和17年製の左小袖腋回りにはネコ、右袖にはウサギの毛が使われていた」事実であった。さらに史料探索による「昭和14年の仕様書」の内容確認を通して、「つまり、犬、猫毛皮供出献納運動(昭和18年以降)よりも以前から、遅くとも昭和14年以降は、防寒外套に猫毛皮の使用を陸軍省管理の被服廠が公的に指示していた、という事実」が、科学的鑑定からも公文書からも明らかになったのである。

 「献犬献猫運動」として推進される以前に、既に現場では「猫毛皮の使用」は行われていたのである。「皮革兎毛皮色相ヲ限定セズ猫、小羊等使用シ得」との規定が示すのは、当時の毛皮流通事情の中で、猫、小羊等の毛皮が入手可能であった事実であろう。入手可能であり、用途に適った毛皮として、猫と小羊が指定されているということではないか。しかし、その流通量は軍需を満たすには少なく、ついに(入手の容易な)飼い猫の犠牲を飼い主に強いるようになったのが、「献犬献猫運動」以降の展開であった、ということか。

 もう一度、その数を確認しておこう。

 18年の戦時中から4年間で北海道内の飼い犬が3万頭、猫は4万5000匹が供出されて殺処分となり毛皮にされた
     (4―1)

 いずれにせよ、戦争という人間の都合の犠牲にされた猫の姿を、深く心に刻んでおきたい。ネコの生命を粗末にする国ではやがて人間の生命も粗末に扱われる、という話ではなく、構図は逆転しており、人間に自身の生命を粗末にすることを強いる国家においてネコの生命も粗末に取り扱われることになったという、戦時期日本を象徴するエピソードであった。

 

 

 

 

 今回は、西田秀子氏の論文に依拠した、論文からの引用の多い記事となってしまったが、言うまでもなく、私の関心に基づく抜粋に終始している。この論考の魅力は、紹介し尽くせてはいない(註:1)。ぜひ、論文そのものを味読することをお勧めする。以下にリンク先を示す(4つのPDFファイルに分割されている)。

 

西田秀子 「アジア太平洋戦争下、犬猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態-史実と科学鑑定」 2016

事業年報第3号別冊<研究論考編> 札幌市公文書館

論考3-1(PDF:4,245KB)2(PDF:2,726KB)3(PDF:4,142KB)4正誤表(PDF:277KB)

 

 

 

【註:1】
 記事中で言及した「急告兎毛皮奉国」というチラシや「献納された飼い猫の受領證」は画像で掲載されているので、ぜひ確認して欲しい。
 また、それ以外にも様々な画像資料(史料画像だけでなく鑑定画像も含む)も採録されており、実見しておく価値があるものと思う。
 個人的には、数多く掲載された『北海道廰公報』の表紙が興味深いものであった。特に昭和19年2月16日の第3317号の表紙を飾る、「決戦生産・決戦増産/設置だ!保育所/乳幼児は保育所へ/一家揃って増産へ」の文字には、戦時期小平の託児所であった「津田こどもの家」の姿(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10)」参照)と重なるものがあり、総力戦下の女子動員事情も窺われ、感慨深いものであったことを記しておきたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2019/04/01 09:49 → https://www.freeml.com/bl/316274/324357/
 投稿日時 : 2019/04/01 09:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/324358/)

 

 

 

 

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2019年3月24日 (日)

カチンの拳銃弾 4

 
 

 

 一九四三年(昭和十八年)二月の最終の週間に、ソ連領土の奥深く、スモレンスク(ソ連西部の古都、ドニエプル川上流に臨み、中世期以来、通商、交通の中心、当時人口十五万)の西方数マイルの地点に駐屯中の独軍第五三七通信連隊のテレタイプ(印字電信機)は、独軍の野戦警察が、同連隊の露営地区内でポーランド軍将校の多数の死体を発見した、と報告した。彼らはどれくらい多数であるかを正確には知らなかったが、数千名の死体であることは確実であった。
 その死体は皮製のたけの高い長靴をはいて、胸には皮製の弾帯をめぐらし、その多くは功績と武勲を示す勲章をつけていた。各人はその頭部を撃ち抜かれていた。彼らはソ連の土地で、いくつもの集団墓場の中で発見されたが、彼らを射殺した弾丸はドイツ製のものであった。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの森の夜と霧』 読売新聞社 1963  25ページ)
 
 
 これが、いわゆる「カチンの虐殺」の事実が明らかになる発端であった。
 問題は、集団墓場の中に死体となって発見された数千名のポーランド軍将校は、何時そして誰によって殺害されたのか?である。

 1939年9月1日、対ポーランド戦を開始し、ポーランド国内に西から進撃したのはドイツ軍であった。次いで9月17日にはポーランド国境の東からソ連軍がポーランド攻撃に加わった。当時のドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」によって同盟関係にあり、条約の秘密議定書には両国によるポーランド侵攻と領土の分割が、明記されていたのである。ポーランドは9月27日に降伏し、以後、ポーランド領土の西側はドイツの占領下となり、東半分はソ連に占領され、ポーランド軍将兵は、それぞれドイツとソ連の収容所に送られた。
 1941年6月22日、今度はドイツがソ連に侵攻し、ドイツとソ連の同盟関係は終わる。ソ連は連合国の一員となり、最終的に勝利者となった。
 ポーランドの降伏後、ポーランド人は亡命政府をロンドンに設立し、連合国側で故国の占領者であるドイツとソ連との闘いを続けていたが、1941年6月の独ソ戦開始以降は、連合国の一員となったソ連との同盟関係の選択を余儀なくさせられた。
 ソ連国内の収容所に収容されていたポーランド軍将兵も解放され、連合国のソ連と共に対独戦争に参加することとなったが、集合地にはポーランド人将校の姿は、ほとんど現われなかった。消えたポーランド将校団の行方は、ポーランド亡命政府にとっても、もちろん占領下のポーランド人にとっても、追求すべき問題であったわけである。亡命政府当事者は、ソ連国内での捜索努力を続けたが、何も得られぬままに1943年の2月を迎えていたのであった。
 
 
 ドイツ宣伝相ヨージェフ・ゲッベルスの個人的日記の中には、一九四三年(昭和十八年)四月九日の日付の下で、次のような記述が発見されるであろう。
 「ポーランド人の墓の大群がスモレンスク付近で発掘されている。ボルシェヴィキ党員(共産主義者、ソ連軍をさす)が約一万名のポーランド軍捕虜をあっさり射殺してから、穴を掘って墓の中に埋め込んだのだ……」
 おそらく、この身の毛もよだつようなものすごい発見を、ゲッベルス宣伝相の注意を喚起するようにしたのはドイツの従軍記者であろう。一九四三年(昭和十八年)四月十三日午前九時十五分(ニューヨーク時間)に、ドイツのラジオ放送は連合国の団結を打ち砕くことをねらった宣伝をいっせいに電波にのせた。それは全世界に向けて、ポーランド軍将校が大量にソ連軍の手で殺害されたことを発表した。このドイツ側の声明にもとづくと、連合国側の一国の政府が、その同盟国の将校団の約半分を殺してしまったように思われた。
 その翌日、ソ連側の激しい反応は、マスコミのあらゆる可能な手段によってばらまかれた。ソ連政府の情報局は一九四三年(昭和十八年)四月十五日に声明を発表し、「一九四一年(昭和十六年)に、スモレンスク西方で建設工事に従事していたポーランド軍捕虜は、ドイツ・ファシストの死刑執行人の手中に陥った……」ので、その後に処刑されたのであると闡明した。…
     (前掲書 25~26ページ)
 
 
 独ソはそれぞれに、ポーランド将校団殺害の犯行を、相手の行為として断じたのである。
 ところで、問題のカチンの森とはどのような場所であったのか?
 
 
 カティンの森は、スモレンスク市西方約十マイルのところにあった。…(中略)…一九一七年のロシア革命後に、この地区はソ連政治警察の管轄下に置かれていた。
 ドイツとポーランド両国筋によると、一九二九年(昭和四年)ごろに、この森の周辺には「GPU特別地区、許可されない人の立ち入りを禁止す」という標識が立っていた。一九三一年(昭和六年)に、この森の一地区は鉄条網で取り囲まれた。その付近に居住しているソ連市民たちによると「さらに、立ち入り禁止の警告の張り紙が下げられた」といわれる。そして大きな家が、墓の大群の発見された地点より半マイルばかり離れたところに建てられたが、それは政治警察の係り官のための休息所として使用された。一九四〇年(昭和十五年)からソ連軍が撤退するまでの間、この全地域は、警察犬の護衛を伴った政治警察の保安隊員(NKVD)が巡察していた。
     (前掲書 26~27ページ)
 
 
 つまり、独ソ戦開始後にドイツに占領されるまでは、カチンの森はNKVDの管理下にあった土地なのである。ソ連内務人民委員部(あるいは中野五郎訳では政治警察)の管理する土地であったのだ。

 1943年にドイツ軍がポーランド軍将校の多数の死体を発見したのは、そんな性格の土地なのであった。
 
 
 

 

 一般の世論は、ドイツ軍に対し非難の指をさし向けた。発見された死体がドイツ製の弾丸で射殺されていた事実から、ドイツ政府は現地調査を行なうために、独立した国際調査委員会と、ポーランド赤十字委員会、ドイツ特別法医学委員会などを招待することに踏み切った。
     (前掲書  27ページ)
 
 この国際調査委員会とポーランド赤十字委員会のほかに、ドイツ特別法医学委員会も、また調査活動をしていた。この三つの調査委員会の各委員は、その調査期間中に、まったく独立して行動していた。そして独自の立場より結論に達したが、それは三つの個別の最終報告の中に述べられていた。これらの報告書は、そのもっとも重要な詳細な点で一致しているから、カティンの森の調査結果に関する次の記述は、これらのすべての報告と、さらに他の筋より収集した適切な補足にもとづいたものである。
 さてカティンの森では、八つの集団的な墓が発見された。それは深さ六フィートないし十一フィートの中に、死体がいっぱい充満していた。一般に、これらの死体の埋葬には特殊の方式がとられていた。彼らは顔を下にして両手をわきに置くか、または両手を身体の背後でしばられ、両足をまっすぐに伸ばして横たわっていた。しかも死体は一つずつ互いに重なり合って、十段か十二段になって積まれていた。
 その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
 二つの個別の墓が見つかった。その墓の中には、二名の、完全に軍服を着用した将軍の死体が発見されたが、いずれも一発で射殺されていた。赤外線の助けを借りて、その軍服を顕微鏡で分析した結果、この二名の将軍は、その冬外套のエリを立てたところを拳銃で撃たれたか、あるいは直接その頭部を撃たれたかして、処刑されたことが実証された。
 死体の大群の中の多数、とくに士官候補生と青年将校の死体は、その両手をしばられていた。これらの死体の発掘を目撃したある証人は、次の通り報告していた。
 「この第五号の墓より発掘された死体の典型的な特色は、その死体の全部の両手が背中で、白いナワで二重の結びめをつくってしばられていた事実であった。彼らの冬外套を頭部のまわりにかぶせて、しばりつけられていた。この冬外套は、同じ種類のナワで首の高さをしばられていて、時には二番目の結びめが犠牲者の頭上につくられていた。首筋にはただ一つの結びめがあり、そのナワの残部は背中を下方へ通って、しばられた両手のまわりにグルグルと巻きつけられた上、さらに首筋で、もう一度しばりつけてあった」
 「こんな風にして、犠牲者の両手は肩胛骨の高さまで引きつり上げられていた。犠牲者はこのような方法でしばり上げられていたので、いかなる抵抗もすることができなかった。なぜなら両手を動かすたびに、首筋のまわりのナワのくくり結びが堅く締まり、そのために、ノドを絞めつけるからであった。それのみならず、彼らは頭の上から冬外套をおおいかぶされていたために、どんな音を立てることもできなかった。処刑前に犠牲者を、このような風にしばり上げていたことは、死ぬ前に特別にくふうした拷問を加えていたものであった」
 このナワの結びめをつくる技術は、すべての実例で同一であった。そのナワは全部、同じ長さのものであったから、それが計画的に、事前に用意されたことは明白であった。現場でドイツ人の科学者が行なった、そのナワの顕微鏡検査によると、それはソ連製のものであることが判明した。また同じ種類の結びめが、ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体についても発見された。これらの死体もまた、カティンの森の別個の墓穴の中で発見されたものであった。これらの死体を仔細に検視した結果、この人々は五年ないし十年前に同じ方法で殺害されたものであり、それは独軍が、この地方に侵入したときよりも数年以前の出来事であった。
     (前掲書  30~32ページ)
 
 
 この「ソ連製の衣服の残りぎれを身に着けていた数名の男女の死体」こそが、大粛清時に犠牲となったソ連国民の姿なのである。
 これが、カチンの森がNKVD(ソ連内務人民委員部)の管理下にあった土地であることの意味するところなのだ。
 カチンの森の奥でのNKVDの犠牲者は、まずは自国民だったのである。
 
 第二次世界大戦以前に大量の自国民を処刑・殺害してきたのと同じ手法(註:1)が、大戦に際してのポーランド軍将校の殺害においても用いられていたことが、これらの調査報告(ポーランド赤十字委員会には、抵抗運動メンバーも委員として参加しており、報告の信頼性は高い)から判明するわけである。 平時に、自国民の大量処刑・殺害を日常業務として効率的に実行してきた国家機関が、戦時には、他国民の効率的な大量処刑・殺害にその洗練された能力を発揮したのである。
 
 
 

 

【註:1】
 
  その死体は全部、例外なく後頭部を撃ち抜かれていた。たいていの場合、これらの人々は、ただ一回で射殺されていた。しかし二回撃たれていたものもいくらかあったし、ある場合には頭蓋骨を三発の弾丸で粉砕されていた。概して弾丸を撃ち込まれたところは首筋の上であり、その発射方向は上向きで、弾丸は頭蓋骨を貫通して、鼻と頭髪のはえぎわの中間で顔の側面に抜けていた。
     (J.K.ザヴォトニー 『カティンの夜と霧』 読売新聞社 1963  31ページ)
 
  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)
 
   ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
     (ザスラフスキー 『カチンの森』 173ページ 「訳者あとがき」より
 
 (ブローヒンについては「カチンの拳銃弾 3」を参照)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/07 21:36 → https://www.freeml.com/bl/316274/170641/
 投稿日時 : 2011/09/12 21:32 → https://www.freeml.com/bl/316274/170949/)
 
 
 

 

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2019年2月 2日 (土)

カチンの拳銃弾 3

 

 

 「カチンの虐殺」として知られる、ソ連という国家によるポーランド人捕虜の大量殺害。その現場には効率的大量殺害に公務として従事した処刑人の姿があった。効率的な処刑には専門性が必要であり、彼らは洗練された大量殺害技術の保持者であった。その専門性と技術は、ポーランドとの戦争に先立つ時期に、ソ連国内でソ連国民を処刑する中で磨かれたものであった。そんなソ連の処刑人を代表する人物と考えられているのが、ポーランド人捕虜殺害の際も活躍したヴァシリー・ブローヒンである(「ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」)。

 前回、「ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった」と要約したが、あらためて、効率的な処刑=殺人の詳細について確かめておきたい。

 

  カリーニン虐殺はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。

  拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

ブローヒンの役割・手法について、前回までにこのように紹介した(「カチンの拳銃弾 1」及び「カチンの拳銃弾 2」参照)。さらにザスラフスキーの著作を読み続けてみたい。

 

 すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである。報告書には、多くの場合に将校たちが抵抗したと記録されている。多くの将校には銃剣創が見られた。またある者は両腕が背中で特別な結び方で縛られたうえで首のまわりに繋がれていた。これだと手を動かせば首が閉って窒息する。射殺はNKDVの特別部隊が実行した。NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた。ナチ親衛隊の銃殺執行隊とちがって、NKDVの銃殺執行隊は犠牲者から金歯を抜いたり貴重品を取り去る命令を受けていなかった。だから死体発掘にさいして結婚指輪と金歯がポーランド将校の遺体に残っていたと記録されている。
 検屍記録はあきらかに矛盾する技術的細部を正確に書きとめていた。なかでも拳銃と銃弾はドイツ製でありながら、創傷はソ連軍が使っていた四刃の銃剣による刺殺を示していた。それに、犠牲者を縛っていた縄はソ連製だった。ブルデンコ委員会は銃剣と縄を無視しながら、ドイツ製弾丸が射殺に使われた事実を最大限利用して世論の大きな反響を勝ちえたのだ。以前に国際医学調査委員会が説明したところでは、拳銃はカールスルーエ近くのグスタフ・ゲンショウ社がヴェルサイユ条約後にドイツの兵器需要が激減したため、ソ連、ポーランド、バルト諸国に大量輸出するために製造されたものだったが、この事実は意図的に無視された。今やソ連公文書館の文書によると、NKDV銃殺執行隊がドイツ製拳銃と口径七・六五ミリの弾丸「ゲコ」で装備されていたことが確認されている。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 126~127ページ)

 

 カチンでの屋外での処刑(「カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスクNKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力」)と、カリーニンでの屋内での処刑(「モスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮」)では状況が異なることに留意しておく必要がある。ここに記されているのは、集団として自身の運命が明らかな中で次々に殺害されたカチンでの検証記録(解剖報告書)である。カリーニンでの個室での殺害では、被害者は抵抗を考える以前に、すなわち抵抗し銃剣で傷付けられることなく殺害されていたと考えられる。

 いずれにせよ、「すべての解剖報告書は、処刑が執行の専門家によって行われたと証言している。ほとんどの犠牲者は後頭部の正確な個所を狙って一発の弾丸で殺されていた。二発目が発射されたのはきわめてまれである」とカチンの「解剖報告書」にも記されており、「執行の専門家」の熟練度が窺われる。

 

 根岸隆夫氏による「訳者あとがき」には、カリーニンでNKDV責任者であったトカリェフ(トカリェフは国境警備隊からNKDVに移動したときは大佐だったが、カリーニン虐殺でベリヤに認められ、1954年に少将に昇進した)による1991年3月20日の証言(軍事検察官ヤブロコフ中佐との質疑応答)の紹介がある。

 

 トカリェフ  ブローヒン、シネグボフ、クリヴェンコがモスクワ本部から処刑人として到着したときに拳銃を詰めこんだスーツケースを持ってきました。
 ヤブロコフ  どんな拳銃ですか。
 トカリェフ  ヴァルターですよ。
 ヤブロコフ  弾薬はなんですか。
 トカリェフ  ヴァルター用ですよ。有名な拳銃です。口径は知らないけれどドイツ製です……
 ヤブロコフ  監獄を描写してください。
 トカリェフ  ここが地下室。ここに囚人監房があります。ここが「赤い隅」で、そこから処刑室まで廊下があります。「赤い隅」で本人確認がおこなわれ、そこから廊下を通って処刑室に連れていき銃殺です。小さい部屋です。扉があって中庭に向かって開きます。そこから死体を出して、待ち受けているトラックに載せます。
 ヤブロコフ  監獄から「赤い隅」まで捕虜は一人ずつ連れてこられるのですか。
 トカリェフ  そうです、一人ずつです。「赤い隅」には政治ポスターが何枚か貼ってあります。政治教育に使われていました。だからレーニンの部屋と呼ばれました。
 ヤブロコフ  処刑室にはなにもないのですか。
 トカリェフ  荷台がひとつありました。
 ヤブロコフ  いつもウォッカがあったということでしたが。
 トカリェフ  箱で買いこんでいました。銃殺と埋葬にかかわっただれもが飲めるようにです。モスクワから来たブローヒンたち処刑人はパジャマ姿ですわって飲んでいましたね。かならず銃殺が終わってからで、その前や最中には飲みませんでした。ポーランド人の銃殺が終わると宿にしている引き込み線の食堂車で大宴会でした……
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 172~173ページ 訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

「捕虜は一人ずつ連れてこられる」のであり、処刑室は防音されており(「看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる」)、処刑されることへの予期は持ちにくい(多くの場合、抵抗を考える前に殺害されているはずである)。

 

 

 実際にNKDV(内務人民委員部)で処刑の任務に携わった人物による証言(「カチンの虐殺」への関与は語られていないが、多くのソ連国民を処刑した経験が語られている)が記録されているので読んでおきたい。

 

 「……わしは内務人民委員部の仕事に採用されたとき、ほんとに鼻高々だった。はじめての給料で上等のスーツを買ったんだよ。
 ……あのような仕事は……なんにたとえればいいのだろう。たとえるとしたら、戦争だ。しかし、わしは戦場ではらくだった。ドイツ人を銃殺刑にする、やつはドイツ語でさけぶ。ところが、こいつらときたら……こいつらはロシア語でさけぶんだ。なにやら仲間みたいだ……。リトアニア人やポーランド人を撃つのはもっとらくだった。ところが、こいつらときたらロシア語なんだよ。「でくの坊! 能なし野郎め! さっさと殺れよ!」畜生! わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。きみは若いよ……ペレストロイカ! ペレストロイカ! しゃべくり野郎どもの話を真にうけておる。さけばせておくがいい、自由、自由と。広場をちょっと走らせておくがいい……。斧が置かれているんだ……斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるんだよ。覚えておけ。畜生! わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。あんな仕事は、願いさげだ! まだ息のあったやつは、たおれて、豚みたいにキーキーいって……血を吐いておった。けらけらわらってる男を撃つのは、とくに胸くそが悪かった。そいつは気が狂っているか、こっちをさげすんでいるか、どっちかなんだ。あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。水をくれ! 水だ! 酒を飲みすぎたあとのように……。畜生! 勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。どっかで読んだことがあるだと? それそれ、そこなんだよ……。いまではあらん限りのことが書かれている……多くはでっちあげだ……。わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。畜生! なんでだまってんだ。青二才め……未熟者めが……よく聞け! まれに殺すのが好きだという兵士がいたもんだ……そういうやつは銃殺班からよそにとばされた。やつらはあまり好かれていなかった。わしのような農村の出身者がたくさんいた、田舎もんは都会もんよりタフだ。ハラがすわっておる。死というものに慣れている。ある者は家で豚をつぶしたことがあったし、ある者は子牛を殺したことがあったし、ニワトリはだれでもしめたことがあった。死に……慣れさせなくてはいかん……。最初の数日間は連れていって見せる……。兵士たちは死刑に立ち会っていただけ、あるいは既決囚を護送していただけだ。すぐに発狂というケースもあった。耐えられなかったのだ。デリケートな問題だ……。うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。わしに残ったのは、右耳の聞こえが悪くなったことだけだ。右手で撃っていたからだよ。
 ……わしらは「党と政府の特殊任務遂行に対して」表彰状をもらって、そこには「レーニン・スターリンの党の事業に献身的である」と書かれていた。上質紙のこれらの表彰状を、わしは戸棚いっぱい持っておる。年に一度、家族と一緒にりっぱなサナトリウムに行かせてもらった。最高の食事……肉がたっぷり……療養……。妻はわしの仕事のことはなにも知っちゃいなかった。責任重大な極秘の仕事、それだけだ。わしは恋愛結婚だった。
 ……戦時中は弾が節約されていた。もし海が近ければ……。平底船にぎゅうぎゅうに詰めこんだもんだ。船倉からはさけび声ではなく、けものの咆哮「誇り高きわがヴァリャーグ号は敵に屈せず/赦免はだれも望まない……」。一人ひとりの両手は針金で縛られていて、足には石が……。もし天気がおだやかなら……水面はなめらかで……やつらが底に沈んでいくのが長いあいだ見えていた……。なんだ、その目は。乳臭いやつめ! その目はなんだ! 畜生! 酒をつげ! そういう仕事……勤務だ……。きみが理解するために、話してやってるんだ。ソヴィエト政権はわしらにとって高くついた。それを大事にしなくてはならん。守らなくてはならんのだ。夕方、わしらが帰ってみると、平底船はからっぽ。死の静けさ。みんなの頭にあるのはひとつ。わしらが岸辺に出ていけば、わしらもそこで……。畜生! わしは、すぐ持ちだせるように、何年間もベッドの下に木のトランクを置いていた。替えの下着、歯ブラシ、カミソリ。枕の下にはピストル……。自分の額を撃ちぬく覚悟でいた。当時、みんながそんなふうに生きていたんだ。兵士も、元帥も。そこんとこは平等だった。
 ……戦争がはじまった……。わしはすぐ前線に志願した。戦闘で死ぬのはそれほどこわくない。祖国のための死だとわかっているからだ。すべてが簡単明瞭。ポーランドを解放していた、チェコを……。畜生! ベルリンの近くで自分の戦歴を終えた。二個の勲章と記章をもっておる。勝利だ! だが……その後に待っていたのは……。勝利のあと、わしは逮捕された。特務部のやつらがリストを用意していたのだ……。チェキスト〔国家保安機関の勤務員〕には、ふたつの道しかなかった。敵の手にかかって死ぬか、内務人民委員部の手にかかって死ぬか、どちらかだ。七年の刑をくらった。わしは、七年の刑期をまっとうした。いまでも……なあ、きみ……収容所時間で目が覚めるのだ、朝六時に。なんの罪で入っていたのか。なんの罪か、それはおしえてくれなかった。いったいなんの罪があるというのだ。畜生! 」
     (スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 『セカンドハンドの時代』 岩波書店 2016  357~359ページ)

 

 かつてNKDVに処刑要員として(処刑の専門家として)勤務した人物の証言である。「NKDVには数万の「処刑専門家」がいて、殺害と死体隠しの訓練を受けていた」という中の一人だ。キャリアのスタートは戦前、大粛清の時代である。語られているのはその技術的詳細、処刑現場の状景の生々しさ、処刑要員としての心情。

 

  わしは全身血まみれ……手のひらを自分の頭髪でぬぐっていた……。たまに皮製の前掛けが支給されることがあった。そういう仕事だった。勤務だ。

  わしは兵士だ。命令されたから、やった。撃った。命令されたら、やるもんだよ。や・る・ん・だ・よ! わしが殺していたのは敵だ。破壊分子どもだ。正式な書類があった。「極刑に処す……」。国家の判決だ。

  あっちからもこっちからも、号泣と汚いことば。あのような仕事の前には食事などできん……。わしは食えなかった……。いつものどがからからだった。

  勤務時間の終わりにバケツがふたつ持ってこられた。ウォッカのバケツとオーデコロンのバケツ。ウォッカは仕事のあとで持ってきてくれた、仕事の前じゃなかった。

  わしらはオーデコロンで上半身を洗っていた。血は、鼻にツンとくる、一種独特のにおいがして……ちょっと精液のにおいに似ている……。わしの家にはシェパードがいたが、仕事のあとでは、わしによりつこうとしなかった。

 うさぎをひねる、それだって慣れが必要で、だれにでもやれるもんじゃない。畜生! ひざまずかせて、ナガン連発式ピストルの銃口部を左後頭部につきつけて撃つ……左耳あたりに……。

  勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった。

 ほかのあらゆる場所のように、わしらにも割当量があった。工場の生産割当量のように。最初のころは、割当量をこなすことができなかった。物理的に遂行できなかったのだ。

  すると、医師が呼び集められ、立会診察がおこなわれた。その結果、週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった。右手と人差し指のマッサージ。人差し指のマッサージはどうしても必要だ、撃つときにいちばん大きな負荷がかかるんだ。

 

 確かに「あんな仕事は、願いさげだ!」という言葉もある。自身への呪いの言葉と満足感が同居している。

 ここではドイツ製のワルサーではなく、ソ連製の「ナガン連発式ピストル」を使用していたこと、引き金が引かれたのは「左後頭部」に向けてであったことが語られている。ブローヒンの流儀を過剰に一般化するべきではないということなのだろう。しかし、「ナガン連発式ピストル」使用により「勤務時間が終わるころには、片手がムチのようにだらんとぶらさがっていた。人差し指はとくにダメージがおおきかった」ために「割当量」を果たすことが困難となり、「週に二回、兵士全員がマッサージをうけることになった」エピソードからは、あらためてブローヒンのワルサーが、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」との理由で選択されていたことが思い出される。

 

 「あんな仕事は、願いさげだ!」との言葉も吐いたこのチェキストは、しかし「名誉退役軍人」として特権を享受していた。「特別配給食料」としてサラミソーセージ、ブルガリア製のキュウリとトマトのピクルスの瓶詰、外国製の魚の缶詰、ハンガリー製の缶入りハム、グリーンピース、タラのレバーといった「当時、一般の人には手に入らなかったもの」を手にし、「官給の四〇〇平米の土地ではなく、どのくらいの広さだったか、もう正確には覚えていないが、そこには森林の一部も入っていた。古いマツ林だった。高い地位の人には、あのようなダーチャが与えられていたんです。特別な功績に対して。アカデミー会員や作家に」と対話者に語られるような特権的な生活を享受していたのである。公務としての効率的な殺人により得た特権である。

 そのような特権者が存在した国家。それがソ連であり、そのような特権者こそがソ連の国家権力を支えていた。処刑人の凄惨な現場の上に、日々の業務としての処刑の上に、「割当量」を果たそうと格闘する現場の上に、ソ連という国家は築かれていたのである。

 

 

 

 さて、あらためてブローヒンである。

 日本語の『ウィキペディア』をチェックしてみた(「百科事典」としての利用とは別に、ネット空間の中での対象への関心の程度を知る効果もある)が、現状(2011年9月6日、そして2019年2月2日に再確認)では「ブローヒン」の項目はなかった。しかし、「ニコライ・エジョフ」の項に、

 

 1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。

 

という形で、ブローヒンの名が登場する(以下、2011年9月6日時点での記載内容である)。

 「カチンの虐殺」は1940年の4月から5月の話で、その直前の時期に、ブローヒンは、エジョフの処刑の実行者となっていたわけである。ただし、『カチンの森』によれば、その時点でのブローヒンの地位は「保安少佐(モスクワNKVD監獄長)」なのであり、『ウィキペディア』の記述は正確ではないように思われる(2019年2月2日現在でも「1940年2月4日、エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された」との記述のままであった)。

 

 さて、では、ニコライ・エジョフとは何者か? 再び『ウィキペディア』の「エジョフ」の項を参照すると、

 

 ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフ(ロシア語;Николай Иванович Ежовニカラーイ・イヴァーナヴィチュ・イジョーフ、ラテン文字表記の例:Nikolai Ivanovich Yezhov、1895年5月1日 - 1940年2月4日頃)は、ソビエト連邦の政治家。1936年から1938年まで政治警察・秘密警察であるNKVDの長を務めた。国家保安総委員。ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

 エジョフの政治体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ;エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。

 

として要約される人物である。

  ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

とあるように、つまり、あの大粛清のシステムの中心人物であり、やがて当人も粛清の対象とされ、最後にブローヒンの手により処刑されたわけである。

 

 『ウィキペディア』は、エジョフの絶頂期の姿を、

 

 エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったとことで知られる。1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表している。これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となった。

 エジョフは粛清の第一段として、まず前任のヤゴーダ派の一掃に着手した。ヤゴーダ派の粛清で生き残った部下を自身の配下に組み入れることで、権力の基盤を磐石にしたのである。1937年3月、将校クラブに招集したNKVDメンバーの前の演説でエジョフは、前任者のヤゴーダが「ファシストのスパイ」として逮捕されたことを述べた上で、「無実の人間を10人犠牲にしてもいいからスパイ1人を逃してはならない。木を切り倒すときは木端が散るものだ」と主張した。また、自身の身長の低さに言及し、「私の身の丈は小さいが、両手は頑丈だ。-スターリンの意思を実行する両手だからだ」と述べた。

 エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として君臨した。NKVDとGPUに徹底的な粛清を指揮し、前任者のヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが任命した多くの人員が解任、銃殺されたが、その中にはエジョフ自ら任命した者も含まれていた。エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際には、その一字一句をメモに書き残していたとされる。さらにはNKVDの部署内にさえも、二重・三重の監視網が敷かれた。

 エジョフはかつてレフ・トロツキーを支持していた重工業人民委員部次官ゲオルギー・ピャタコフらを公開裁判(第二次モスクワ裁判)にかけ、銃殺刑を言い渡した。これを皮切りにエジョフ体制下での粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者・官僚・軍人の半数、ほかにも数百万人の市民が政府への反抗・政府の転覆活動・反革命の容疑を受けて粛清の対象として逮捕され、容赦ない拷問の結果、処刑・追放・収容所送りに至った。

 1937年12月20日、党はボリショイ劇場において、NKVDの創設20周年を祝う大祝典を催した。会場には、スターリンの巨大な肖像と隣り合ってエジョフの肖像が架けられた。花でうずまるステージにおいて、ダークのコーカサス風のチュニックコートとベルトを締めたアナスタス・ミコヤンが、エジョフの仕事を賞賛し、「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう!ちょうど、同志エジョフ自身が、同志スターリンから学び、これからも学び続けるであろうように!」と述べた。会場にいたある人物は、エジョフの様子を「彼はうつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。まるで、こんな手放しの賞賛に自分は相応しくないという風だった」と伝えている。スターリンが、このときの様子をプライベートボックスから眺めていた。

 

と記している。

 しかし、その絶頂の翌年、

 

 1938年4月8日、ほかの役職はそのままに、水上交通人民委員を兼任したが、エジョフの役割は徐々に小さくなっていった。これはエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。党内で上位にある者を定期的に粛清するスターリンのやり方は、主にそのやり方を組織化する役割を果たしたエジョフも知っていた。同年8月22日、ラヴレンチー・ベリヤが内務人民委員代理に就任する。ベリヤは政治将校の政務のためにエジョフの権力を奪い始め、NKVDの実質的な責任者になった。

 連日のように粛清を繰り返したエジョフは、晩年には疑心暗鬼によって、自身の妻までも粛清している。すでに飲んだくれとなっていたエジョフはアルコール依存症に陥り、絶望的になった。最後の業務の月のエジョフは、陰鬱で、だらしなく、起きている時間はほとんど酒を飲んでおり、勤務のために現れたことは滅多になかったという。

 同年11月11日、スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフは内務人民委員の解任を自発的に求め、11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。

 

このように、手にした権力を失っていく。そして、

 

 1939年3月3日、エジョフはソ連共産党中央委員会における全官職を解任された。

 

という形で、スターリン体制における地位のすべてを喪失し、エジョフの立場は完全に逆転することになる。

 

 1939年4月10日、エジョフは逮捕され、スハーノフカ刑務所(en:Sukhanovka)に収容された。拷問に耐えることができなかったエジョフは、奇しくも、自らが多くの人間を処刑したのと同じ理由、すなわち「自分は公式に無能であること、ドイツの諜報機関と結託してスパイ活動を行い、クーデターを計画していた」と自白した。さらにエジョフは、「自分は性的に逸脱しており、男色家で異性愛者である」とも自白した。これはのちに証言によって部分的に補強され、のちの取り調べによってほぼ真実と考えられている。

 1940年2月3日、ソビエトの裁判官ヴァシリー・ウルリヒは、ベリヤの事務室において彼を審理した。エジョフの言い分は支離滅裂であり、前任のヤゴーダのように終始悲嘆に暮れ、スターリンへの敬愛を述べ続けた。エジョフは、ベリヤからスターリン暗殺計画の自白を勧められたが、これを拒否して「どうせこの地上から消え去るなら、高潔な人間として消え去ったほうがましだ」と述べた。エジョフは自身の弁明のためにベリヤの前に跪いて許しを請うが、再三無視された。そしてついに、「スターリンの名を呼んで死ぬ」と誓った。エジョフのスターリン暗殺計画の自白の拒絶は、自身の宣伝目的に役立つことはなかった。

 死刑判決が読まれたとき、エジョフは泣き崩れ、部屋から体ごと運ばれなければならないほどに生気を失った。目撃者によると、ベリヤはエジョフに服を脱ぐよう命令し、エジョフを叩くよう警備員に命令したという。エジョフは体ごと処刑室に運ばれ、しゃっくりし、泣きじゃくった。1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。遺灰は、モスクワのドンスコイ修道院の集団墓地(en:Mass graves in the Soviet Union)に捨てられた。

 

というのが、大粛清システムの中心人物の最後のあさましい姿であった。

 

 しかし、このベリヤもまた、『ウィキペディア』の「ラヴレンチー・ベリヤ」の項によれば、

 

 同年(1953年)12月、ベリヤ、メルクーロフ、コブロフ、セルゲイ・ゴルギーゼ、デカノゾフ、メシク、ヴロジミルスキーの7人は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」と報道された。ベリヤは特別法廷において、弁護人なし、弁明権なしで、裁判にかけられた。裁判の結果、ベリヤは死刑判決を受けた。モスカレンコによると、死刑判決が下ったとき、ベリヤは膝を突いて泣きながら慈悲を乞い、助命嘆願をしたという。しかし、ベリヤはルビヤンカの地階に連行され、彼と彼の部下は、1953年12月23日にパーヴェル・バチツキーによって銃殺刑に処された。ベリヤの遺体はモスクワの森の周辺で火葬されたのち、埋葬された。

 

という最期を遂げることになるのであった。

 そのような政治体制の中で、「カチンの虐殺」は起きたのである。

 

 

 ちなみに、英語版の『ウィキペディア』には、ブローヒンの項目はあり、その最期についても記述がある。

 

 Blokhin was forcibly retired in 1953 following Stalin's death that March. However, his "irreproachable service" was publicly noted by Beria at the time of his departure.After Beria's fall from power in June of the same year, Blokhin's rank was stripped from him in the de-Stalinization campaigns of Nikita Khrushchev. He reportedly sank into alcoholism and serious mental illness, and died on 3 February 1955, with the official cause of death listed as "suicide".
     (Vasily Blokhin → 
https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Blokhin

 

 ブローヒンはスターリン批判の中で栄誉を剥奪される。アルコールに溺れる日々を送り、公式には自殺として記録される最期であったらしい。

 そこに大量殺害者としての悔悟があったのであろうか?

 (私には、ブローヒンの悔悟など想像し難いが)

 

 

 

           (「カチンの拳銃弾 4」に続く

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/09/06 21:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/170569/
 投稿日時 : 2019/02/01 21:04 → https://www.freeml.com/bl/316274/323553/

 

 

 

 

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2019年1月31日 (木)

カチンの拳銃弾 2

 

 

 ガス室のある収容所は数が限られていたことは、今でも知る人が少ない。もっとも有名なアウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクとシュトゥットホーフのほかにはヘウムノ、ソビブル、ベウジェツ、それにシュトゥットホートだけである。
 これに反して、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン、シルメック、ノイエンガメ、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック、ザクセン・ハウゼン、フロッセンブルクにガス室はなかった。そこでは、収容者は緩慢な死を迎えるか、拳銃で項を撃たれるか、つるはしで殴り殺されるか、働いている採石場の高い所から突き落とされるか、であった。
     (アルベール・シャンボン 『仏レジスタンスの真実』 河出書房新社 1997 171ページ)

 

これもまた、昨日のルドルフ・へスの証言に加えて、

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

というソ連の手法が、ナチスの強制収容所での収容者殺害においても採用されていた事実への言及(「拳銃で項を撃たれる」)である。

 小銃を構えた銃殺隊による銃殺刑という軍隊的スタイルや、機銃の乱射による大量殺害とは別に、「拳銃で項を撃たれる」殺害法もナチス体制の下で広く行なわれていたのだが、その手法の起源がソ連にあったのではないかというのが今回のテーマのひとつ、ということになろうか。

 

 

 前回記事(「カチンの拳銃弾 1」)で示した通り、「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法は、そもそもは、

 

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。
    (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

とあるように、ソ連秘密警察において愛好され洗練された手法であった。

 あらためて、その詳細について読み進めると、

 

 トカリェフの証言をまとめると、カリーニン虐殺(オスタシュコフ収容所の5291人のポーランド人捕虜は、カリーニンのNKVD本部の地下監房に移送され、別室で殺害された-引用者)はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。処刑と埋葬にはNKVDの地方、中央をふくめてあらゆる階級の職員三〇名がたずさわった。看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。ブローヒンでなければカリーニンNKVDの総務部長ルバノフだった。監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた。植樹して隠そうとはしなかった。カチン、ハリコフとちがってカリーニンのドイツ軍占領は短かったので、発見されなかった。
 カリーニンでは合計六三一四人(オスタシュコフ収容所からの移送者以外の犠牲者も含まれる数字?-引用者)が銃殺されたが、一九九〇年に二三の墓穴が掘り返されたときには、死体の司法解剖は不可能だった。遺体は五十年経ち、土に戻っていた。
     (ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 173~174ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

このように記されている。カリーニン虐殺における、ブローヒンの役割と手法の詳細に注目しておきたい。

 

  看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。

  監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。

 

 ブローヒンが従事したのは効率的な処刑=殺人であり、それが彼とその部下にとっての日常業務(「メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまで」)なのであった。

 

 

 ブローヒンの使用していたヴァルター二型拳銃(「ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参」とある)については、ワルサー社の「モデル2」を示すものであるのかどうか、検討の余地が残る。前回記事に引用した「拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた」との記述に示される口径から判断すると、口径6.35ミリの「モデル2」(1909年開発)には該当しない。口径7.65ミリのワルサー社の拳銃ということであれば、いずれも1910年代に開発された「モデル3」あるいは「モデル4」が存在する(註:1)。

 用いられた「後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する」処刑法からすれば、6.35ミリの小口径拳銃でも十分に役に立ちそうである。いずれにせよ、使用されたのはワルサー社の生産した拳銃であり、「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」というのが選択基準であった。「疲れが少ない」拳銃を用いて、効率的な処刑が遂行されたのである。そして、「死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザー二台と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた」とあるように、死体処理も効率よく遂行された。

 日常的処刑業務を効率的に遂行するに際して「反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない」ことにおいて優位なドイツ製拳銃が、すなわち「ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた」のである。

 

 一方、ナチス・ドイツで愛用されたのは同じワルサー社のワルサーPP、あるいはPPKではないかと思われる。(内容的に妥当と思われるので、入力の手間を省き)『ウィキペディア』記事から引用すると、

 

 ワルサーPP(Walther PP)は、ドイツのカール・ワルサー社が1929年に開発したダブルアクション式セミオートマチック拳銃である。.22口径(5.6mm)、.32ACP口径(7.65mm)、.380ACP口径(9mm)の3種類がある。PPとはPolizeipistole(警察用拳銃)を意味する。

 1929年に開発される。ドイツ警察や再軍備宣言がなされたドイツ軍の将校用標準ピストルとして採用されており、国家社会主義ドイツ労働者党の制式拳銃でもあった。
     (2011/09/05 閲覧時の記述)

 

ということになる。その発展型にワルサーPPKがあるが、

 

 ワルサーPPKは、ドイツのカール・ワルサー社が開発した小型セミオートマチック拳銃である。警察用拳銃として開発されたワルサーPP(Polizeipistole)を私服刑事向けに小型化したもの。名称のKはもともと「刑事 (用)」を意味するクリミナールkriminalの頭文字だが、一般には「短い」を意味するクルツkurzの頭文字だと解釈されることも多い。

 1931年に発売開始。ヒトラーも、愛銃として使用しており、ドイツ警察(ゲシュタポ)や軍隊、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)で制式拳銃とされる。

 

とある通り、どちらもがナチス体制とも縁の深い拳銃である。

 

 

 処刑の効率について、

  屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。

とあったが、ナチス関係のものを読んでも同様の効率性は伝わってくる。しかし、ナチスは、ガス殺というより効率的な手法を開発した点において、ソ連の共産主義者を超えたわけである。

 

 

 いずれにしても、

  ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。

とされるブローヒンの人物像には、ソ連の共産主義の歴史の一面が深く刻印されており、いろいろと興味を引くところがある。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 3」に続く)

 

 

 

【註:1】

 ワルサー モデル1は、ドイツのワルサー社が1908年に開発した、同社初のポケットピストルである。
 作動方式はシンプルブローバック、トリガーはシングルアクションで発射する。スライドはオープントップデザイン。フレーム左側後部にクロスボルト式のマニュアルセイフティ(シアを固定)を備えている。フロントサイトはあるが、リアサイトはスライド上面の溝を利用するスナッグフリーデザイン。銃身にはテイクダウン用のバレルシュラウドが被せてあり、これを取り外すことで分解するという独特な構造をしている。形状や細かな仕様の違いで、5つのバリエーションが存在する。
 元々は「Selbstlade Pistole Cal.6.35」という名称だったが、後続モデルが登場した際に「モデル1」に改名された。
 1909年には改良モデルの「モデル2」が登場。スライドをフルカバーデザインに変更し、全体的なバランスの見直しを図っている。他にも、内蔵式ハンマーに変更、グリップ底部のマガジンリリースレバーの大型化、マニュアルセイフティをレバー式に変更、などの改良が施されている。初期型には、チャンバーインジケーターを兼ねる可動式リアサイトとマガジンセイフティが備わっていたが、後期型では製造工程とコストを省くため、両機能とも廃止されている。モデル1ではロングタイプだったテイクダウン用のバレルシュラウドは、銃口先端を覆うショートタイプのものに変更された。
 「モデル4~モデル8(モデル5を除く)」になるとサイズが大型化するが、1921年には再び小型モデルの「モデル9」が登場。オープントップスライドでストライカー式という特徴はモデル1と変わらないが、よりオーソドックスなデザインになっている。ただし、マニュアルセイフティの位置はフレーム左側後部ではなく、トリガーガード左側後部に変更された。

モデル
 全長 銃身長 重量 口径 装弾数

モデル1
 112mm 50mm 360g .25 ACP 6+1
モデル2
 113mm 50mm 277g
モデル3
 127mm 67mm 472g .32 ACP 8+1
モデル4
 151mm 88mm 521g
モデル5
 113mm 50mm 269g .25 ACP 6+1
モデル6
 210mm 121mm ?g 9mm×19 8+1
モデル7
 135mm 76mm 360g .25 ACP 8+1
モデル8
 130mm 73mm 364g
モデル9
 99mm 51mm 260g .25 ACP 6+1
     (MEDIAGUN DATABASE→ 
http://mgdb.himitsukichi.com/pukiwiki/index.php?%BC%AB%C6%B0%B7%FD%BD%C6/%A5%EF%A5%EB%A5%B5%A1%BC%20M1

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/05 21:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/170528/

 

 

 

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2019年1月30日 (水)

カチンの拳銃弾 1

 

 

 これからしばらく、80年前のポーランド人捕虜の運命(1939年の9月1日、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻、同年9月17日にはソ連がポーランドの東側国境から侵攻し、ポーランドは両国により占領された)を振り返るところから始めて、20世紀の全体主義的ユートピアを支えた人間像―特に処刑人とその犠牲者の姿に焦点を当てることになるだろう―について考える機会としたい。

 

 

 コゼルスクから最初の捕虜の一隊を乗せた列車は、四月三日(1940年の話-引用者)の午後に出発した。捕虜は汽車で四時間くらいかけて、スモレンスクを通過して郊外二〇キロばかりの小さな駅に着く。そばをドニエプル川が悠々と流れている。この年の春は遅く、残雪があった。着剣し小銃をもったNKVD(ソ連内務人民委員部)警護・護送部隊が厳重に警戒するなかを、黒塗りの囚人輸送車に押しこまれて、二メートルの金網を周囲にめぐらしたNKVD管理下のカチンの森に入り、三キロ離れた山羊が丘(斜め丘との解釈もある)のある広々とした空き地に連れていかれる。そこには三月はじめに、スモレンスク監獄の囚人を使って八つの矩形の墓穴が掘られていた。深さは二メートルから三メートル。二人の兵隊が捕虜を一人ずつ両脇で腕を抑え、矩形に深く掘られた墓穴の縁で跪かせるか立たせる。後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する。犠牲者は墓穴に倒れこむ。死体は顔を下にして九層から一二層積み重ねられた。
 拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。しかし、カチンで処刑を統率したのはモスクワから来た処刑人ではなく、スモレンスク
NKVD監獄長グリポフ保安中尉、次長グヴォズドフスキー、ステルマハとみられる。これにスモレンスクNKVD監獄の看守、運転手、それにミンスクNKVD本部から派遣された処刑専門家がくわわったという説が有力だ。しかし資料は十分ではない。ゲシュタポがNKVDに殺人手段で勝るのはガス殺だけだといわれる。拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた。反動が少ない、故障が少ない、装填しやすいのが利点で、疲れが少ない。大量処刑のカチン事件では、ソ連製ナガンやトカレフよりも好んでヴァルターが使われた。弾丸には、ドイツの弾薬メーカー、ゲンショウを意味するGECOと刻まれていた。ソ連はカチン事件をドイツ軍になすりつける口実にこの弾丸を使ったが、すぐに底が割れてしまう。というのも、第一次大戦後に軍縮で不況をかこったゲンショウ社が、この弾丸をさかんに、ソ連、バルト三国、ポーランドなどに輸出していたのだ。
 いっぱいになった墓穴には土がかけられ、松の苗木が植えられた。その樹齢で埋葬時期が科学的に推定され、ドイツ軍占領以前の一九四〇年春ころが特定され、NKVDの犯行を裏付けた。処刑されることを知って、捕虜が最後の抵抗をしたことは、遺体の状態から想像に難くない。後ろ手を縄で縛られ、それが首にまわされ、暴れると首が絞まるようになっていた。また将校用長外套をまくりあげて頭上で縛ってある遺体も、抵抗したからと推測される。口におが屑やぼろ切れが詰められた遺体もあった。使われた縄はあらかじめ一定の長さに切り揃えてあってソ連製だった。
     (ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 169~170ページ  訳者根岸隆夫氏による「訳者あとがき」より)

 

 

 ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる。人質は、大方はもう長いこと収容所に入れられていた。彼らが人質だったことは、彼ら自身にも収容所指導部にもわかっていなかった。
 やがて、突然、保安防諜部だか国家保安本部だかからの命令を伝える電報が一通きた。それには、以下の抑留者を人質として、銃殺もしくは絞首刑にせよ、とあった。数時間のうちには、その完了を報告しなければならなかった。該当者は、その作業場から連れもどされ、また点呼によってえらび出され、処刑場に連れて行かれた。
 すでに長らく抑留されていた者たちの多くは、そのときすでにその決定を知り、少なくとも何が彼らを待ちうけているかを予感していた。処刑場で処刑命令が下された。
 初めの時期、一九四〇~四一年ごろには、彼らは部隊の処刑司令部によって、銃殺に処せられた。後になると、絞首刑にされたり、一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり、また、病院で寝たきりの病人なら注射で殺されたりした。
     (ルドルフ・へス 『アウシュヴィッツ収容所』 サイマル出版会 1972 108ページ)

 

 

 1939年9月、まずドイツがポーランドに侵攻し、続いてソ連がポーランドの東半分を占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書の取り決めに従い、両国はポーランドを侵略し分割したのであった。

 ドイツによる占領においても、ソ連による占領においても、ポーランド人への取り扱いは過酷を極め、ソ連による「カチンの虐殺」もその一端に過ぎない(註:1)。

 カチンでソ連が用いたのは、

 

  後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する

 

という手法であったが、これは親衛隊あるいはゲシュタポも採用したナチスにとっても重要な殺害手段のひとつであった。

 「ここで、私は、軍事裁判と人質処刑のことにふれねばならない。ただし、ここではポーランド人の場合にかぎる」との限定が付されたアウシュヴィッツ収容所長ヘスの証言にも、「一人ひとり小銃で頭を撃ちぬかれたり」との記述がある通りである(ここで「小銃」と訳されている語は、「拳銃」を意味していたのではないだろうか)。

 また、その手法は、そもそもはソ連における粛清の歴史の中で、国内向けに用いられ洗練されて来たものなのである。再確認すれば、

  拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった。出血が少なく、一発で処刑できた。だがこれには熟練を要した。モスクワNKVD本部は手練れの処刑人一二五人を、ブローヒン少佐を長としてポーランド将校銃殺のために派遣した。

との構図(「拳銃による処刑は、一九二〇年代からソ連秘密警察が常用し磨きをかけた処刑方法だった」)である。引用中に登場するブローヒン少佐は、「一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった」(同書「訳者あとがき」)ような人物であり、ソ連の国民を処刑することにおいて既に豊富な経験を持っていた(そのブローヒンが「手練れの処刑人一二五人」を指揮していたことは、NKVDは既にそれだけ―実際にはそれ以上であろう―の人数の「拳銃による処刑」の専門家を擁していたことを示す)。つまり、ポーランド人は、最初の犠牲者ではない。

 

 

 あらためてソ連の捕虜となったポーランド人の運命について確認しておくと、

 

 三収容所の約一万五五〇〇人の捕虜は、カチンをふくめて後述するように銃殺される。くわえてウクライナ、ベロルシアで七〇〇〇人の将校捕虜が銃殺された。その他に三九年秋にドイツ軍に引き渡されたり、移送途中や、強制労働収容所で死んだ捕虜は一三万三〇〇〇人と推定される。これを合わせると一五万五〇〇〇人のポーランド人捕虜がソ連で犠牲になったと推定されている。
     (『カチンの森』 160ページ)

 この三収容所の収容者は一万四八五六人、そのうち三九五人はなんらかの理由で他の収容所へ移され、その多くが九死に一生を得た。残りの一万四四六一人(一九五九年三月にNKVDの後身KGB議長シェレーピンはフルシチョフに、一万四五五二人とする覚書を送っている。いずれにしても、カチン関連の数字は末尾一桁まで出ているのがいくつもあるが、どれが真実かわからない。ただ真実に近い)とウクライナ、ベロルシアのNKVD監獄に収監されていた約七〇〇〇人の将校たち、合わせて約二万二〇〇〇人が、一九四〇年四月から五月にかけてNKVDによって銃殺された。
     (『カチンの森』 161ページ)

 

つまり、カチン関連でのポーランド人犠牲者数は約2万2000人。全体では15万5000人ということになる。

 

 ザスラフスキーによれば、

 

  一九三九年終わりまでに、ソ連占領地域のポーランド将校は根こそぎ逮捕された。特別命令で、下士官とオサドニツィは将校と同等とみなされ、収容所に拘禁された。逮捕された将校の一部だけが職業軍人で、大多数は予備役だった。かれらはポーランド軍に動員されたばかりでソ連の手に落ちた新聞記者、大学教授、医師、弁護士、技師、芸術家たちである。
     (前掲書 24ページ)

 

とある通り、ポーランドの予備役将校を構成するのは、そのままポーランドの知識人階級であり、カチンでのポーランド将校殺害は、ポーランド知識人の殺害を意味してもいるのである。

 ここでは知識人が、反ソ抵抗運動の中核となることが予期され、その防止策としての殺害が実行されたのである。ザスラフスキーの『カチンの森』の日本語版サブタイトルは「ポーランド指導者階級の抹殺」であり、イタリア語で書かれた原著のタイトルは『階級浄化―カチンの虐殺』である。「虐殺」のターゲットとなったのが特定の階層のポーランド人であった事実を反映した表題である。

 

 その発想はナチスにも共有され、ポーランド知識人はドイツに占領された地域では、アインザッツグルッペン(「特別行動部隊」などと訳される占領地での「敵性分子」の殺害に特化した部隊)による殺害対象の中核とされたのであった。

 ここで(いささかの手抜きではあるが、内容的に妥当と思われるので)『ウィキペデイア』の「アインザッツグルッペン」の項から引用すると、

 

 対ポーランド戦争に際してもポーランド占領をしやすくするためにアインザッツグルッペンが再度組織された。ハイドリヒは1939年9月21日にアインザッツグルッペンの指揮官たちを前に「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」などと訓示している。
 ポーランドのアインザッツグルッペンは、1隊・2隊・3隊・4隊・5隊・6隊・「フォン・ヴォイルシュ」隊の7隊により構成され、それぞれの隊の下にアインザッツコマンドが複数ずつ置かれた。ポーランド戦の際のアインザッツグルッペンの総員は2700名であった。それぞれ陸軍14軍、陸軍10軍、陸軍8軍、陸軍4軍、陸軍3軍、南部軍集団の進撃を後ろから付いて行って銃殺活動を行った。「フォン・ヴォイルシュ」は軍に付随せず、ドイツとポーランドの国境付近において銃殺活動を行った。
 ポーランド戦の際にアインザッツグルッペンの銃殺活動の対象にされたのは主に教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層、またユダヤ人、ロマなどであった。1939年9月1日から10月25日にかけてドイツ占領下のポーランドでは民間人16,000人以上が殺害されたが、そのうち四割がアインザッツグルッペンによるものとされる。
     (2011/09/04 閲覧時の記述)

 

と記されている通りである。ラインハルト・ハイドリヒは「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」と訓示し、部隊はポーランドの指導者層・知識人層の絶滅を実行した。

 

 

 ナチス・ドイツとソ連の両全体主義体制の発想と手法の共通性、そしてその犯罪性を考える際に、この「カチンの虐殺」は一つの象徴的事件と言えるだろう。

 

 米英は、カチンにおけるソ連の行為を知りながら、対枢軸戦争での勝利を優先し、連合国の一員となったソ連(1941年6月、ヒトラーのドイツがソ連との不可侵条約を破棄し対ソ戦争を開始したことにより、ソ連はヒトラーの側から連合国の側へと転換していた)に迎合し、ソ連によるポーランド人将校虐殺を不問にしたのであった。

 ポーランド人は、米英の政治的リアリズムによってもカチンの墓穴深く葬り去られ、忘れ去られようとしたわけである。

 

 

 

          (「カチンの拳銃弾 2」に続く)

 

【註:1】

 ポーランドの戦争補償局の報告(一九四七年)によれば、戦争中の死者は、実に戦前の人口の約五人に一人、六〇二万八〇〇〇人にのぼった。そのうち戦闘行為による戦死者は軍人・民間人を合せて六四万四〇〇〇人で、残りの五三八万四〇〇〇人が根絶政策に従って意図的に虐殺された。
 この中には二七〇万のユダヤ系ポーランド人が含まれている。戦前のユダヤ人人口は三三〇万人であったのだから、死を免れたユダヤ人はわずかに六〇万人ということになる。ユダヤ系ポーランド人を含めてポーランド国民はまさに絶滅の淵に立たされていた。
 一方、赤軍の占領下にあったポーランド人も、決して安全であったわけではない。ヒトラーが「占領者の権利」に基いてポーランドの領土を処置したのに対し、スターリンは、民族自決という一見民主的な手段を講じてほぼカーゾン線から東にあたるこの地域をソ連邦に併合した。つまりソ連政府は、独ソ秘密協定に従って、ヴィルノ地方をリトアニアに割譲したあと、残余の地域に二つの国民会議を創設させ、これにソ連邦への編入を宣言させたのである。ここでもロシア中央部に強制的に移されたポーランド人は一五〇万人にのぼったという。
     (山本俊朗・井内敏夫 『ポーランド民族の歴史』 三省堂選書 1980  187~189ページ)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/04 19:11 → https://www.freeml.com/bl/316274/170440/

 

 

 

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2018年12月27日 (木)

明治の悪童と修身 (『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』)

 

 古本の価値というのは様々だと思うが、かつての持ち主の書き込みを読むという楽しみもある。もっとも、最近の出版物(出版後10数年程度)であれば、新本でないがゆえの安価な入手法としての古書店利用もあり、その場合は当然ながら書き込みのないものを選ぶ。

 しかし、戦後復興期以前の出版物となると、書き込みの内容から、当時の読者の関心のあり方を読み取るという楽しみ方もあり、あえて書き込みのある古書に手を出すこともある。

 

 今回は、古書市で手に入れた、落書き炸裂の明治期の修身教科書の紹介である。

 

 

 

 三宅米吉 中根淑 校閲 渡邊政吉 編纂 『實驗 日本修身書巻八 高等小學 生徒用』 (明治廿七年一月十六日 文部省檢定済) 東京 金港堂書籍會社 明治廿六年(1893)  定價 金七銭

 

 2015年に、改装前の立川フロム中武の古書市で購入。価は500円であった。

 

 

 

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(表紙)

 

 表紙を一瞥して、特徴ある筆法(いわゆる「ひげ題目」系)から、日蓮宗関係の書かと思いきや、そうではなかった。修身の教科書!

 

 

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(見返し)

 

 こちらも、タイトル部分は日蓮宗的筆法が加えられている(持ち主の生家が日蓮宗、という生育環境の反映か?)。

 肖像が誰のものかは、教養が足りず、不分明。筆描きの肖像の上方には、鉛筆描きによる富士山がある。題目風にあらためられたタイトルの下方には、「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字もある。

 

 これだけでも、なんとも豪快な修身教科書への落書きだが、本文については至って真面目で、鉛筆による漢字表記への振り仮名が付されている程度である。

 

 

 そして…

 

 

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(奥付、裏表紙の見返し)

 

 裏表紙側の見返しに描かれているのは、さらに豪快で怪異な西郷従道の肖像であった。やたら長い足に、股間からは謎の生物(?)の姿。

 ちなみに、従道は、

 

  さいごうつぐみち【西郷従道】
  1843‐1902(天保14‐明治35)
  明治時代の軍人,政治家,元老。本名は隆興,通称信吾。薩摩国鹿児島城下に生まれる。西郷隆盛の実弟。1869年(明治2)山県有朋とともに兵制研究のため渡欧(プロイセン,フランス,ロシア)し,帰国後兵部権大丞陸軍少将,兵部少輔,陸軍少輔,同大輔に進む。74年陸軍中将兼台湾蕃地事務都督に任ぜられ,政府の中止命令をおして台湾へ出兵した。76年征台の功により最初の勲一等に叙せられる。78年参議兼文部卿次いで陸軍卿に就任し,81年農商務卿,84年伯爵,そして85年内閣制の成立を機に海軍大臣となった。
     (平凡社/世界大百科事典 第2版)

 

このような人物である。経歴を反映して、落書上でも当初記された「陸」の字が消され(そのままでは「陸」軍大将)、従道の肩書は「海軍大将」に換えられている(背景には軍艦)。

 怪異な肖像が描かれた当時(従道は第二次伊藤内閣で海軍大臣に任じられていた)、すなわち明治27(1894)年は日清戦争の年でもある。先の「大日帝國萬歳萬歳萬歳」の文字も、そのような時代の空気を反映したものであろうか。

 

 

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(見返しの裏)

 

 先の西郷従道の肖像は、見返しの上に描かれていたものだが、見返し紙は貼られた裏表紙の裏からはがされ、裏表紙の裏には鉛筆画が描かれている。「徳川時代風俗」、ということらしい。

 まだ明治20年代の話なので、「徳川時代」は持ち主の父母の生まれた時代である(たかだか20数年前まで「徳川時代」が続いていたのである―もっとも、描かれているのは徳川時代初期をイメージさせる戦闘モードの武将の姿であるが)。

 

 

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(裏表紙)

 

 持ち主の名が記されている。この奔放豪快な落書きの作者は、当人の署名により、小川八郎君と判明。生年は明治10年代、1885年前後であろうか(19世紀の話なのだ)。

 裏表紙には、日清戦争らしき戦場が描かれている(まさに日清戦争最中の小川八郎君の高揚感が伝わる)。しかし、なぜか、戦場の手前を走るのは、軍服姿の帝國軍人ではなく、烏帽子姿の人物である(八郎君の想像力上の必然から生まれた表現であろうが、21世紀の私の想像力は、その「必然」に届かない)。

 

 

 「大日帝國」は日清戦争で勝利し、日露戦争で勝利し、第一次世界大戦でも勝者の側にあったが、支那事変以来の大東亞戦争では敗者となる。昭和20年には還暦前後となっていた小川八郎氏は、どのような老人(かつての日本では60歳は既に立派な老人である)となっていたであろうか? 「大日帝國」の近代をどのように経験したのであろうか?

 

 

 

 『日本修身書巻八』の第十七課では、以下のように説かれている。

 

 

  人の質性は、生まれながらにして、完備せるはなし。されば、人皆自ら其の身の長ずる所と、短なる所とを知り、其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ、其の短なる所を養ひて、漸く長ぜしめんことを務めざるべからず。斯くの如くするを、自ら其の身を修むといふ。自ら其の身を修むるは、何人にも極めて大切なり。人としては、多少父母教師の教へを受けざるものもなかるべければ、自修の心なくとも、無下に愚かなるものともならざるべし。されども、自修の心なきときは、父母教師の教へも、深く其の心に入らざるべければ、其の人に取りて、大いなる損なり。
     (第十七課 「修養」から抜き書き)

 

 

 この豪快に落書き(むしろ「落描き」と呼ぶべきか?)された修身教科書から、小川八郎少年は何を学び取ったのであろうか? この奔放豪快さを八郎少年の「身の長ずる所」として理解し、「其の長ずる所を助けて、ますます長ぜしめ」ようとした高等小學校教師との出会いはあったであろうか?

 

 

 

(小川八郎少年は、学校での修身の授業の度に、教室でこの教科書を開いていたのであろうか? とすれば相当な悪童である。 それとも進級して用済みになってから、教科書を落書帳へと転用したのであろうか? 本文ページが無事なところからすると、落書帳転用説も弱い。 やはり悪童説が妥当なのであろうか?)

 

 

 

 

 

((オリジナルは、投稿日時 : 2018/12/27 13:02 → https://www.freeml.com/bl/316274/323029/

 

 

 

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