2012年1月14日 (土)

昭和天皇の戦争責任問題と東京裁判

 

 

 さきの大戦につきましての天皇の法的な責任のみについて申し上げます。旧憲法下におきまして、天皇は統治権の総攬者でございまして宣戦の権能をお持ちになっておられましたが、国務大臣がそれにつきましては天皇を輔弼しまして一切の責任を負うことになっておりまして、天皇は神聖不可侵であるという規定が旧憲法第3条にあったわけでございます。この神聖不可侵であるということの意味の一つといたしまして、天皇は先ほどおっしゃいましたように無答責である、責任を負わないんだということにこの解釈は恐らく争いがなかったことであると思います。 したがいまして、天皇は旧憲法下におきまして国内法上一切の法的責任を負うことはないと、このようにされておりました。当時の憲法において一切の法的責任を負うことがないとされております以上は、その旧憲法当時の行為につきまして後になって法的責任があるというわけにはまいりませんので、国内法上は昭和天皇には戦争についての法的責任はないと考えてございます。  
 さらに、国際法上の問題についてご議論がございましたが、これはご指摘のとおり、昭和天皇の戦争責任の問題につきましては極東国際軍事裁判において検討がなされましたが、連合軍が昭和天皇に訴追を行わなかったということはご指摘のとおりでございまして、昭和天皇の国際法上の戦争責任の問題は既に決着した問題であるというふうに考えております。
 (1989年2月14日の参院内閣委における、味村治内閣法制局長官の答弁)

     竹前栄治・監修 高橋紘・著 『日本国憲法・検証 資料と論点 第二巻 象徴天皇と皇室 あるべき天皇像とは』 小学館文庫 2000  259~260ページ

 

 

 これは、自民党政権下での日本政府の公式見解である。

 ここでは、昭和天皇をめぐる「さきの大戦(つまり大東亜戦争)」についての「戦争責任」問題に関し、国内法上も国際法上も昭和天皇に「法的責任はない」ということが、日本政府の公式見解として明言されているのである。

 国内法上は大日本帝國憲法の条文が根拠とされ、国際法上は極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」である)の訴追過程が、その根拠として示されていることになる。天皇の「戦争責任」問題に関し、国際法上の「法的責任はない」と判断する理由が、東京裁判の過程に求められている点に注目しておきたい。

 つまり、天皇の戦争責任問題をめぐる自民党政権下の日本国政府の公式見解は、東京裁判の過程を根拠にすることで、天皇に国際法上の法的責任がないことを主張しているわけである。この主張が成立するためには、東京裁判の国際法上の有効性の認識が前提とならねばならない。

 

 その「前提」を支えているのは、サンフランシスコ講和条約の条項である。

 サンフランシスコ講和条約第11条(戦争犯罪)には、

  日本国は、極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする

…との文言があるのだ。つまり、ここで日本国政府は、「極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行する」当事者として、「極東軍事裁判=東京裁判」の国際法上の有効性を認めていたことになる、と考えざるを得ないのである。

 

 

 では、昭和天皇自身の「極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判」に関する認識はどのようなものであったのだろうか?

 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 (岩波現代文庫 2008)によれば、講和条約調印10日後の1951年9月18日に行われたリッジウェイ(連合軍最高司令官)との会見の席で、昭和天皇は、

  有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約

…として、サンフランシスコ講和条約への賞賛の言葉を述べている(224~225ページ)し、そもそもその前任者であるマッカーサーの退任の際の会見(1951年4月15日)ではマッカーサーに対し、

  戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、この機会に謝意を表したいと思います

…と、連合軍最高司令官としてのマッカーサーの意図を反映する経過をたどった戦争裁判=極東軍事裁判=東京裁判への肯定的評価を表明している(119ページ)のである。

 また、英国国王宛の「親書」(1946年1月29日付)にも、

  私はポツダム宣言の条項を忠実に履行し、平和と民主主義に貢献する、よりよい国家の再建のために出来る限りの努力を払いたいと切に望んでおります

…との昭和天皇の言葉があるという(33ページ)。言うまでもなく、ポツダム宣言は、その条項の中で、戦争犯罪人の処罰を戦争終結条件として明示していた。

 つまり、昭和天皇自身は、極東軍事裁判(東京裁判)の判決とその刑の執行に対し、積極的に肯定的な評価を与えていたのだと考えねばならないのである。退任するマッカーサーとの会見の場でわざわざ「戦争裁判」の過程に謝意を表したり、リッジウェイとの会見の席でわざわざ「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」との講和条約評価を語ったり、英国国王宛ての親書中でわざわざ「ポツダム宣言の条項を忠実に履行」することへの「出来る限りの努力」について言及したりする昭和天皇の「積極性」には、十分に配慮する必要があるということだ。

 

 

 自民党政権下での日本国政府が「天皇の戦争責任」について、その法的責任がないことを主張する際の根拠を「東京裁判」の過程に求め、昭和天皇自身もサンフランシスコ講和条約を「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」と評価することで、「東京裁判」の過程を正当なものとして受け容れていたのだと理解しなければならない。

 戦後、「象徴」として天皇の地位が確保された背後には、「東京裁判」を正当なものとして位置付けた昭和天皇自身の判断が隠されているのである。

 

 

 

 「東京裁判」とは、

  戦争の勝者が、事後法により戦争の敗者を一方的に裁いた「裁判」

…という意味で、その正当性は損なわれているし、そこでは、

  敗者による「戦争犯罪」のみが訴追され、
  勝者による「戦争犯罪」が問われることはなかった

…という問題を指摘することも容易である。

 しかし、昭和天皇および日本国政府が、

  極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする

…という形で、裁判の全過程を容認し、そのことにより、

  天皇の地位および日本国政府の統治の正統性を維持した

…という事実も、構図として否定することは出来ないのである。

 東京裁判の全過程の受容の上にのみ、戦後の天皇の存在と日本国政府の正統性が成立していたのであり、その構図が、東京裁判批判を皮肉な状況に追いやってしまうのだ。

 つまり、東京裁判否定論は、昭和天皇の大御心に反する論となってしまうのである。

 ネット上では、サンフランシスコ講和条約の日本側の当事者であった吉田茂について、サヨクだの反日だのとのレッテル貼りをすることで、吉田茂の東京裁判受け容れを批判する論に出会うことが出来る。

 そのような吉田茂批判の論理の帰結は、歴代日本政府(それも自民党政権下!のである)を反日サヨクとして規定することにつながるし、そもそも昭和天皇をも反日サヨクとして告発するという事態へと発展せざるを得なくなってしまうのである。

 

      コレゾ不忠不敬ノ言論ナラズヤ

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/01/13 23:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/180050/

 

 

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2011年12月18日 (日)

日本国の象徴と、國體の本義 18(大日本帝國の「大」)

 

 

  「大日本帝國憲法」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

 

…というのは、言うまでもない話だと思うが、それが「大日本帝國」という名称の国家の「憲法」だからである。

 

 国家の呼称としての「大日本帝國」の用例の代表的なものと思われるのは、

 

 

 天佑ヲ保全シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ淸國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     「明治天皇 淸國に對する宣戰の詔」 明治二十七年八月一日 官報 (森清人 『詔語索引』 啓文堂書店 昭和十七年 173~174ページ)

 

 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ露國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     「明治天皇 露國に對する宣戰の詔」 明治三十七年二月十日 官報 (前掲書 190ページ)

 

 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ獨逸國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     「大正天皇 獨逸國に對する宣戰の詔」 大正三年八月二十三日 官報 (前掲書 213ページ)

 

 天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
 朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス…(以下略)
     「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」 (前掲書 ただし扉ページの表記―これ以外の引用は本文の表記によるものであり、句読点が添えられているが、本来は句読点なしのものである―による)

 

 

…といったものであろう。これらでは、「大日本帝國」という国家の皇帝あるいは天皇(その称号表記の変遷も興味深いが、ここではその問題には立ち入らない)により、「宣戰の詔」が発せられているのである。「詔書」という最高度に公的な文書の中で、「大日本帝國」という呼称が、明治・大正・昭和の三代にわたり、国家の自称として用いられている事実が確認出来るだろう。

 

 

 

 
 さて、「大日本帝國憲法」における「大日本帝國」表記の成立過程を、清水伸『明治憲法制定史 下』(原書房 明治百年叢書 1973)により見ておきたい(原著の刊行年は昭和15年)。示されるのは、枢密院における憲法原案の討議過程である(底本とされているのは、枢密院議長伊藤博文秘書官であった伊東巳代治による「憲法草案枢密院会議筆記」である)。

 

 

     二 国号「大日本帝国」の決断(第一条)

 第二読会の討議は、原案「第一章 天皇」、「第一条 日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」からはじめられた。この条は、原案に見るように、「日本」に「大」が無いことが、まず議場の注目をひいた。すなわち寺島宗則提議して曰く、
  『皇室典範には大日本とありて、此憲法には只日本とのみあり。故に此憲法にも大の字を置き、憲法と皇室典範との文体を一様ならしめん事を望む。』
 さきに枢密院で決議した皇室典範「第一章 皇位継承」、第一条には、「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とあり、その国号には「大」を冠したのに、憲法にはこれがないのは、首尾一貫せぬ不体裁といわねばならなかった。したがって森有礼、大木喬任、土方久元等も進んで寺島の一元化の提案に賛成した。しかし、「大」を除いたのは、起草者の十分に意識していたところであり、決して書落としなどの結果ではなかった。井上毅は寺島にその諒解を求めた。
  『皇室典範には大日本と書けども、憲法は内外の関係もあれば、大の字を書くこと不可なるが如し。若し憲法と皇室典範とは一様の文字を要するものなれば、叡旨を受て、典範にある大の字を削り、憲法と一様にせんことを望む。英国に於て大英国(グレイト・ブリタン)と云ふ所以は、仏国にある「ブリタン」と区別するの意なり。又大清、大朝鮮と云うものは、大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり。寧ろ大の字を削り、単に日本と称すること穏当ならん。』
 かえりみるに当時の日本は、維新の業成って漸く二十余年を経過したばかりで、国際的地位はきわめて低かった。情けないことに、列強の顔色を恐れ気兼ねする結果、国号に大の字を冠するさえ、左顧右眄せねばならなかったのである。世界の大勢に明るかった森有礼は、井上の見解に同意してかどうか、直ちに井上説による文体の統一を支持して、
  『大の字を置くは自ら誇大にするの嫌いあるや否やに係わらず、典範と憲法と国号を異にするは目立つものなれば、之を削ること至当ならん。』
 ところが吉田清成はこれと反対であった。すなわち、
  『典範には已に大日本とあり。又此憲法の目録にも大日本とあり。故に原案者は勿論同一にするの意ならん。』
 ただし吉田の大日本説も、起草者の、「内外の関係もあれば……自ら尊大にするの嫌いあり」との思慮に対して触れず、僅かに典範の前例を指摘して、前後の矛盾を言及するにすぎなかった。
 「日本」か「大日本」か。これ、第二読会の最初の憲法上の問題であった。かくして国号問題の解決が必要になったのであるが、この問題は、これ以上の論議なく、にわかに解決を見た。それは伊藤議長の決断であった。曰く、
  『此事は別に各員の表決を取らずして、大の字を加えて可ならん。故に書記官に命じて大の字を加えしむ。』
 これは伊藤が、議場に「大」の賛成者が圧倒的だったのに、当事者のみが原案を固執する無意味を察し、かく改めさせたものと思われる。ついでその他の点に関する異論を待ったが、それらしいものはなかったので、
  『本条につき別に意見なければ、直に原案同意の起立を乞ふ。』
 会議手記には『起立(全会一致)』とあり、実にわが「大日本」は、このようにして決定されたのであった。よって伊藤は、
  『全会一致に付、本条は原案に可決し第二条に移る。』
と、この成立を宣したのである。
 思うに、伊藤のこの「大」に対する決断が、はたしてわが国に対するそのような信念にもとづいたものであったかいなかは不明である。なぜなら、政府は憲法発布と同時にその英訳を公表したが、そこには、原文の「大日本」は、”Great Japan”と訳されていなかった。恐らく当時の伊藤は、「大」の拒否が井上の言う様に外国に対する気兼ねだけの理由ならば、英訳の際に手心を加えればそれでよい、とも考えていたためだったのではあるまいかと思われる。
          (156~159ページ)

 

 

 これが、「国号」としての「大日本帝國」表記の可否が論じられた、枢密院(これは「議会」ではない)での憲法制定に際しての議論の実際であった(憲法上の表記は国号として機能してしまうものなのである)。

 

 ここでは、皇室典範では「大日本帝国」ではなく「大日本国」表記であったらしい点が気になるが、今回はその問題に立ち入ることはしないでおく。

 

 また、手元にある明治以来の貨幣を見ると、すべて「大」が加えられた「大日本」となっている。たとえば明治4年の20銭、大正2年の10銭、昭和12年の1銭、すべて「大日本」表記であり、少なくとも貨幣上の国号表記に関しては、明治初年から戦前期昭和に至るまで、「大日本」で一貫していたらしいことがわかる(貨幣に関しては、「大日本國」あるいは「大日本帝國」ではなく「大日本」なのである)。

 

 いずれにしても、

  又大清、大朝鮮と云うものは、大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり。寧ろ大の字を削り、単に日本と称すること穏当ならん。

…との井上の主張は、皇室典範との表記の一貫性の保持という形式性の方が重視された、枢密院の議論過程で顧みられることがなく終わったのであった。「自ら尊大にするの嫌いあり」と、井上に指摘された国号「大日本帝國」が、こうして選択・決定されたわけである(註:1)。

 

 

 

 「国号」としての「大日本帝國」表記の使用事例として、もうひとつ、ここでは昭和初期に用いられた教科書(もちろん「国定」教科書である)の記述を参照してみたい。

 

 

     第三課 擧國一致

明治三十七八年戰役は、我が大日本帝國が、國家の安全と東洋の平和のためにロシヤと戰つて、國威を世界にかがやかした大戰争であります。明治三十七年二月十日に宣戰の詔が下ると、國民は皆一すぢに大御心を奉體して、帝國の為に盡さうとかたく決心しました。
…(以下略)

 

     第二十七課 よい日本人

我が大日本帝國は萬世一系の天皇を戴き、御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は數千年来、心をあはせて克く忠孝の道に盡くしました。これが我が國の世界に類のないところであります。我等臣民たる者は常に天皇陛下・皇后陛下の御高徳を仰ぎ奉り、祖先の志を継いで、忠君愛國の道に励まねばなりません。忠君愛國の道は君國の一大事に臨んでは、擧國一致して奉公の誠を尽くし、平時にあつては、常に大御心を奉じて各自分の業務に励んで、國家の進歩發達をはかることであります。我等が市町村の公民としてよく其の勤めを盡すのは、やはり忠君愛國の道を實行するのであります。
…(以下略)

 

 

…と、「尋常小學校修身書 巻五」(ここでは大正11年から用いられた、いわゆる「第三期」の修身教科書から引用―『日本教科書体系 近代編 第三巻』 講談社 1962 172ページ 193~194ページに収録)にある通り、ここでも「大日本帝國」表記が採用されているのを読むことが出来る。

 つまり、文部省による「国定」の教科書中に、「大日本帝國」という呼称が採用されており、教科書を通して「大日本帝國」という呼称を学ぶことにより、「国号」としての「大日本帝國」は、日常的場面にも流通していったはずである。

 

 

 

 しかし、実際には、当時の各種の公文書類を読むと、「大」を欠いた「日本帝國」や「大」もなければ「帝國」でもない「日本國」といった表記に出会うことも珍しいことではなく、当時の「国号」の表記法自体が、それほど厳密な一元化されたものではなかったと考えることも出来るだろう(註:2)(註:3)。

 たとえば、先の『詔語索引』にある、「大正天皇 (摂政御名) 學制頒布五十周年記念式典に際し下し給へる勅語」の出典名は、「大正十一年十月三十日 日本帝國文部省第五十年報」となっているのである(先の第三期教科書出版年次と同じ、大正11年のものであるのにもかかわらず)。「國定教科書」の元締めである文部省自身が、「大日本帝國」ではなく、「大」のない「日本帝國」を、自省の年報という公的文書の表示で用いていたというわけである(註:4)。

 

 

 

 

 

 私自身は、「大日本帝國」表記を愛用しているが、「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」表記を愛用し、「日中戦争」ではなく「支那事変」を愛用しているのと同様、それが歴史的用語としての妥当性を持つと判断しているからである。実際にこれまで見たように、公的に厳密な場面での使用例を多く見ることが出来るし、あの事大主義的国家の呼称として、「自ら尊大に」振舞った果てに亡国への道を辿った国家の呼称として、「大日本帝國」表記は実にマッチしたものであると判断しているからでもある。

 

 

 

 最後に、もう一度、

  「大日本帝國憲法」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

…という最初の問いに立ち戻ってみよう。確かに、

  それが「大日本帝國」という名称の国家の「憲法」だからである。

…という答え方は間違ってはいない。しかし、ここで新たに、

  「大日本帝國」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

…という問いを立ててみると、

  その国家の「憲法」に「大日本帝國」と書かれているからである。

…という答えが得られることになるだろう。

 そこには、国家と憲法の密接な関係のあり方の特異性が見出されるはずである。国家の存在が憲法を生み出し、生まれ出た憲法によって国家のあり方が規定され直されることになるのである。

 

 

 

 

 

【註:1】
 「大日本帝國憲法」は、

朕國家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣榮トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
     (憲法發布勅語)

將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ爲ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ
     (上諭)

…とあるように、天皇により「朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」ることで発効し、「將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執」ることでのみ「條章」の「改定」が可能になるものであった。
 憲法條章の改定に関しては、天皇の発議によるもののみが可能であり、それ以外は「朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ」とされ、つまり天皇以外に憲法の改定を発議出来る存在はなかったのである。
 ここに「天皇大権」の意味がある。議会の権能は、「議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外」には存在し得ないのである。国民=臣民=議会には、憲法改定の発議権はないというのが、大日本帝國憲法の原則なのであり、それが「国民主権」による「日本国憲法」との決定的な相違点なのである。

 つまり、「朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布」した後には、その條章の改定には天皇の発議が要件とされ、である以上、発布後は「大日本帝國」という「国号」の変更についても、天皇の発議による以外にはなし得ないことになる。
 国号の変更についても、国民(議会)は発議し得ないというのが、大日本帝國憲法上の原則なのである。

 しかし、一方で、「議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スル」という文言、そして「第三十七條 凡テ法律ハ帝國議會ノ協贊ヲ經ルヲ要ス」というような條規の解釈により議会の権能を強化しようと試みたのが、いわゆる「天皇機関説」なのであった。「君臨すれども統治せず」との言葉で表現される「立憲君主」としての天皇像は、いわば解釈改憲の産物なのである。大正期から昭和初年には、その天皇機関説が公的天皇像を支えるものにまでなったが、その後の「国体明徴運動」とそれに促された政府の「国体明徴声明」により「天皇機関説」が公的に否定され、天皇大権の強調による「君臨し統治する」天皇像(御親政的天皇像)が、敗戦に至る昭和期の大日本帝國を規定するものとなったのである。
 その結果として、「裁可ノ権」のみでなく「裁可セザルノ権」をも保有した、大権の保持者としての天皇像が国家運営の基本に位置付けられるようなことにまでなってしまった。これは、昭和天皇自身が天皇大権を積極的に行使し、独裁的に振舞ったということを意味するわけではない。しかし、政治システムの中での天皇大権の位置付けが、政治的意思決定の硬直化と責任主体の曖昧化に結びつき、敗戦に至るこの国の歴史過程を支配したことは否定出来ない。それは、大枠としては、天皇の意思の問題ではなく、憲法システムの問題なのである。

 そのような「裁可セザルノ権」をも保有した御親政的天皇像(それは「立憲君主による御親政」なのである)の下では、「議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スル」という規定が存在しようとも、その議決の結果を「裁可セザルノ権」をもって否定することさえも天皇には可能なのである。現在の日本国憲法下の感覚からすれば、「朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ」なる文言を、天皇が議会の議決に拘束される存在であるかのように解釈してしまうことにもなるのであろうが、それは「国民主権」の下にある現代人の感覚で帝國憲法を語ろうとする試みに過ぎず、そのような感覚では帝國憲法下の政治的意思決定過程は理解し得ないのである。
 あくまでも「裁可ハ天皇ノ独有主権ナリ。天皇ハ自由ニ裁可シ又ハ裁可セザルコトヲ得。故ニ天皇ノ裁可権ハ、其提議権ノ為ニ束縛セラレ、帝国議会ニ対スル政府ノ宣言ノ為ニ羈束セラレ、及帝国議会ノ決議ノ為ニ左右セラルルコトナシ。天皇ハ議会ノ決議ニ反シ法律ヲ裁可スルコトヲ得ズト雖モ、議会ノ決議シタル法律ヲ裁可スベキ羈束ヲ受クルコトナシ」というのが、大日本帝國憲法制定時の制定者の理念なのであり(伊東巳代治 「大日本帝国憲法衍義」)、その理念が国体明徴論者により強化され解釈運用されたことが、あの大日本帝國の歴史の骨格を形作っているのである。

 この構図を把握しない限り、敗戦に至る大日本帝國期の歴史は理解し得ないし、大日本帝國憲法の歴史的意義を理解したことにもならない。

 

《「この構図」の詳細については以下の記事も参照のこと》

日本国の象徴と、國體の本義 13(「立憲政治」と天皇)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-3d4d.html

日本国の象徴と、國體の本義 14(君臨し統治する天皇)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-156d.html

日本国の象徴と、國體の本義 15(「輔弼」と「助言と承認」)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-535e.html

日本国の象徴と、國體の本義 16(天皇と「裁可セザルノ権」)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-5311.html

日本国の象徴と、國體の本義 17(立憲君主による御親政)
 http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/17-aa35.html

 

【註:2】
 現在の外務省のページでは、この問題について、

 日本の国号標記に関しては、外務省条約局作成(昭和11年5月)の「我国国号問題二関スル資料」(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」所収)に、従来の経緯や諸学説、外国での実例などの調査結果が記されています。
 1927年(昭和2年)、日本の国号について日本政府は、各国がどのように呼称するかは便宜上の問題であり、一般的に周知されている呼称を用いることが適当であるとして、各国が「ジャパン」という呼称を用いても構わないとの見解を明らかにしました。しかし、その後、1934年(昭和9年)に文部省の臨時国語調査会が国号の呼称を「ニッポン」に統一し、外国に発送する書類にも“Japan"ではなく“Nippon"を用いるべしとの案が政府に提出され、また翌1935年(昭和10年)には、衆議院に対して、「ジャパン」という呼称は「我ガ帝国ノ威信ヲ損スル」ものであり、世界各国に対して日本の国号の呼称を「大日本帝国」とするよう求める建議がなされるなど、国号標記の変更を求める動きが強まりました。こうした動きを受けて外務省は、1935年(昭和10年)7月、外務省所管である条約など外交文書の日本文(漢文もこれに準じる)について、それまで「日本国」「日本帝国」「大日本国」「大日本帝国」と様々な標記がされていた国号の標記を、「大日本帝国」とすると決定しました。しかし、英語標記については結局、統一的な見解が示されることはありませんでした。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sonota_02.html

…と、説明している。

 その「我国国号問題二関スル資料(正式な表記は「我國國號問題二關スル資料」である)」の「緒言」を読むことで、問題の概略を把握しておきたい。

     第一 國號問題の概要
(一)緒言
 我國國號問題ニ付テハ従来種々の議論(内大臣府及議会ニ対スル請願或ハ議會ニ於ケル建議案ノ對象ト為レルコトモ屡々アリ)アル處要スルニ問題ノ中心ハ
 (イ)國號ハ之ヲ「大日本帝國」トスヘシ
 (ロ)右ハ日本文ニ於テノミナラス條約其ノ他ノ文書ノ外國文ニ於テモ之ヲ其ノ儘羅馬字ニテ表示スヘシ
 トノ二点ニ帰着スヘシ
 仍テ左ニ國號問題ニ關スル従来ノ經緯ヲ述ヘ然ル後将来ノ問題ニ及フヘシ
(二)従来ノ経緯
 我國號ハ明治初年以来條約其ノ他ノ文書ニ於テ「日本國」「日本帝國」「大日本國」等種々ノ名稱用ヒラレ近時條約ニ於テハ略「日本國」ニ統一セラレタル處昭和十年六月條約其ノ他ノ文書ノ日本文ニ於テハ憲法第一條ニ於ケルカ如ク「大日本帝國」ナル名稱ヲ用フヘシトノ問題起リ爾来当省ニ於テ研究ヲ重ネタル結果國號ノ一般的統一其ノ他ノ本件ノ根本的解決ハ姑ク措キ外務省所管タル條約其ノ他ノ文書ノ日本文(漢文之ニ準ス)ニ於テハ右名稱ニ依ルコトニ決定シ昭和十年七月内閣及宮内省側ニモ之ヲ通知シタル上
 (イ)條約トシテハ昭和十年十二月二十七日公布セラレタル日満郵便條約
 (ロ)其ノ他ノ文書トシテハ八月十六日附〇羅國駐箚矢田部公使ニ対スル更新御信任状
 以来實行シツツアリ
 尚宮内省ニ於テモ外務省ト歩調ヲ合セ同省関係ノ文書ニ付「大日本帝國」ノ國號ヲ用フルコトトナレリ
          (外務省記録 外務省外交資料館 我国国号問題ニ関スル資料 1 1~4ページ アジア歴史資料センター B02031473100)

…という具合で、外務省において「條約其ノ他ノ文書」上の国号表記が「大日本帝國」に統一された(言うまでもないこととは思われるが、これは国号の「変更」ではなく、国号の表記法の「統一」に過ぎない)のは、昭和10年以降のことなのであった。
 また、

  尚宮内省ニ於テモ外務省ト歩調ヲ合セ同省関係ノ文書ニ付「大日本帝國」ノ國號ヲ用フルコトトナレリ

…とあるように、宮内省においてでさえも国号の「大日本帝國」表記が原則化されたのが、この昭和10年になってのことなのである。

 言うまでもないが、この昭和10年とは、あの「国体明徴声明」が政府から発せられた年である。詰まるところ、「国体明徴運動」とは、井上毅の保有していた「大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり」との感覚を失ってしまった時代精神の表現なのであろうか?

 注目点としては、「国号」を「大日本帝國」に統一すべしとの議論の根拠が、

  條約其ノ他ノ文書ノ日本文ニ於テハ憲法第一條ニ於ケルカ如ク「大日本帝國」ナル名稱ヲ用フヘシトノ問題

…という形で、憲法第一條の文言に求められているところであろう。
 憲法上の表記と「国号」の相関については、枢密院での憲法原案審議段階での、

  『大の字を置くは自ら誇大にするの嫌いあるや否やに係わらず、典範と憲法と国号を異にするは目立つものなれば、之を削ること至当ならん。』

…との、森有礼の発言にあるように、当初から意識されていたところではあった。
 しかし、国号が「大日本帝國」であるはずの国家で実際の文書作成に当たった官吏達は、異なる表記を用いることに特段の問題を見出すこともなく、昭和10年までの日々を過ごしていたというわけである。

 もっとも、「我國國號問題二關スル資料」で取上げられている「資料」の多くは、「国号」としての「大日本帝國」表記の問題ではなく、“Japan"ではなく“Nippon"たるべしという問題と、その前提としての「ニホン」なのか「ニッポン」なのかの問題の方についてのものであることも申し添えておくべきであろう。その問題に関しては、集録された様々な資料の中でも、昭和9年2月19日の第六十五議会貴族院の速記録(昭和我国国号問題ニ関スル資料 2 B02031473200)にある、政府委員としての金森徳次郎の答弁が秀逸なものなので、場をあらためて紹介したいとは思っている。

 

【註:3】
 「条約ニ於ケル本邦ノ国号ニ関スル件」(外務省記録)によれば、条約文中の国号表記の実際は次のようなものであった。

     條約ニ於ケル本邦ノ國號ニ關スル件
一、本邦カ明治維新前二外國ト締結シタル條約ニ於ケル本邦ノ國號ヲ見ルニ左表ノ如シ
  (表には、嘉永七年の「日米和親條約」から慶應三年の「日魯新約定書」までの事例について、「條約名」、「前文ニ於ケル稱呼」、「條文中ニ於ケル稱呼」が掲載されているが、ここでは略)
即チ二十四箇ノ條約中前文ニ於テ帝國大日本ナル國號ヲ使用セルハ安政五年ノ日米、日蘭、日魯、日英間ノ四通商條約、萬延元年ノ日葡、日魯間ノ二通商條約、慶應二年ノ日白、日伊間ノ二通商條約計八箇ノ通商條約ニシテ其ノ他ハ嘉永七年ノ日米和親條約外安政四年ノ日米下田條約、慶應二年ノ日丁通商條約ノ三條約カ帝國日本ナル稱呼使用シタル外全部(十三箇ノ條約)ハ單二日本又ハ日本國ナル稱呼ヲ使用シタリ而テ條約ノ條文ニ於テハ例外ナク日本又ハ日本國ナル稱呼ヲ使用シタリ
 (註一)最初ノ條約タル日米和親條約ハ前文ニテ帝國日本ナル文字ヲ使用シ條文中ニテハ英文ニハ The Empire of Japan トアレトモ 日本文ニテハ日本ト云ヘリ
 (註二)安政二年ノ日蘭條約ニ於テハ蘭文ノ前文ニ Great Japon トシ而モ括弧内ニ Dai Nipon ト註セルニモ拘ラス日本文ニテハ單ニ日本ト稱セルハ面白キ事例ナリ
二、明治初年ニ締結セラレタル條約ニ於ケル例ヲ見ルニ左表ノ如シ
  (表は略)
即チ前文ニ於テ大日本又ハ大日本國ナル稱呼ヲ使用セルモノ三箇日本又ハ日本國ト云ヘルモノ八箇、帝國日本ナル稱呼ヲ使用セルモノ一箇アリ而テ條文中ニ於テハ原則トシテ日本ナル稱呼ヲ使用シ唯日丁傳信機條約書(第一條ノミ)、日布通商條約及日露千島樺太交換條約カ大日本國ト云ヒ日英郵便為替約定カ帝國日本ト云ヘルノミナリ
三、其ノ後本邦カ諸外國ト締結シタル條約(既ニ効力ヲ失ヘルモノト現ニ効力ヲ有スルモノトヲ問ハス)ヲ通覧スルニ前文ニ於テモ條文ニ於テモ原則トシテ日本國又ハ日本 Japan ナル稱呼ヲ使用シ(註)只逓信省關係ノ條約ニ於テハ多ク日本帝國 Japan ナル文字ヲ使用シタリ
 (註)例外トシテ明治四十三年日米難破船費用償還約定(前文)…(以下18の条約が例示されているが詳細は略)…等ニ於テハ日本帝國ナル稱呼ヲ使用セリ
四、尤モ前記三ニ對シテハ一大例外アリ即チ中華民國トノ間ニ締結セラレシ條約ニシテ此等ノ條約ニ於テハ左表ニ示ス如ク原則トシテ大日本國ナル稱呼ヲ使用セリ
  (表は略)
即チ右ニ依レハ明治時代ニ締結セラレタル諸條約ニ在リテハ日本文ニモ中國文ニテモ大日本國ナル稱呼ヲ使用シ明治二十八年ノ休戰定約、休戰延期條約、媾和條約三者ノ中國文ニテハ大日本帝國ト稱シタルモ大正時代ニ入リテハ中國文ニテハ大日本國ト記載スルニ拘ラス日本文ニテハ單ニ日本國ト稱シタルヲ見ルヘシ
而テ中國ト最近締結セラレタル關税協定ノ中國文ニハ大日本帝國ナル文字ヲ使用シタリ
五、要之條約ニ於テハ本邦ノ國號トシテ明治維新前ニ於テハ大日本帝國ナル文字ヲ使用シタル事例相當アリ且昨春中國トノ間ニ締結セラレタル關税協定ノ中國文ニモ亦大日本帝國ナル文字ヲ使用シタルモ明治維新以後ハ原則トシテ日本國ナル文字ヲ使用シ只中國トノ關係ニ於テノミ大日本國ナル文字ヲ使用シタリト云フヲ得ヘシ
     (外務省記録 条約ニ於ケル本邦ノ国号ニ関スル件 アジア歴史資料センター B04013428100)

 興味深いのは、「大日本」と「帝國」の組み合わせによる「帝國大日本」表記が、既に幕府の手により使用されていたことであろう。明治以前(帝國憲法以前に、でもある)に、領域名としての「日本」に「大」が加えられ、かつ「帝國」として政体が表示されていたことになる。
 また、明治以後の条約文における「大日本國」表記が、対中国のケースでは(他と異なり)一貫して使用されていた事実があるらしい。「中華」に対抗するに、「大」を加えた「日本」を用いたということであろうか? 漢字表記による表意という性質が、このような対応の背後にあるのかも知れない。

 

【註:4】
 あらためて明治期の詔勅上での国号表記の実態を調べてみた結果、帝國憲法発布以前に「大日本帝國」の使用例があり、また発布後にも「日本」、「日本帝國」が使用されている事実が判明した。

日本國 
 日本國天皇。告各國帝王及其臣人。…(以下略)
     天皇の稱を用ふるの國書 (明治元年正月十日 法規分類大全)

大八洲
 我大八洲ノ國體ヲ創立スル…(以下略)
     新刑律改撰に就き集議院に下し給へる御下問 (明治二年九月二日 集議院日誌一)

大日本帝國
 大日本帝國天皇睦仁、敬テ威望隆盛、友誼親密ナル英吉利、伊太利、荷蘭、魯西亜、瑞典、獨逸、墺地利、白耳義、葡萄牙、西班牙、丁抹、布哇皇帝陛下、米利堅合衆国、仏蘭西、瑞斯聯邦大統領ニ白ス。 …(以下略)
     特命全權大使派遣の國書 (明治四年十一月四日 法規分類大全)

日本
 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ帝祚ヲ践ミタル日本皇帝、此書ヲ以テ宣示ス。朕、全露西亜皇帝陛下ト…(以下略)
     千島樺太交換条約批准の詔 (明治八年十一月十日 太政官日誌)

日本
 …、右等貴君ノ日本交際ニ付、…(以下略)
     米國前大統領「グラント」に賜りし御沙汰 (明治十三年七月四日)

日本國
 …汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや
     陸海軍人に下し給へる勅諭 (明治十五年一月四日 法規分類大全)

大日本國
 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ帝祚ヲ践メル、大日本國大皇帝、敬テ朕カ良友ナル大朝鮮國大王ニ白ス。…(以下略)
     井上馨朝鮮派遣の國書 (明治十七年十二月二十一日 法規分類大全)

大日本帝國
 (国号の記載は表題のみで、本文には、国号への言及はない)
     大日本帝國憲法發布の告文 (明治二十二年二月十一日 官報)

大日本帝國
 (国号の記載は表題のみで、本文には、国号への言及はない)
     大日本帝國憲法發布の勅語 (明治二十二年二月十一日 官報)

大日本帝國
 (国号の記載は表題のみで、本文には、国号への言及はない)
     大日本帝國憲法發布の上諭 (明治二十二年二月十一日 官報)

日本帝國
 天佑ヲ享有シタル我カ日本帝國ノ寳祚ハ、萬世一系、歴代繼承シ、以テ朕カ躬ニ至ル。…(以下略)
     皇室典範制定の勅語 (明治二十二年二月十一日 三条實美公年譜二九)

大日本帝國
 天佑ヲ保全シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。 朕茲ニ淸國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     淸國に對する宣戰の詔 (明治二十七年八月一日 官報)

大日本帝國
 …。朕、固ヨリ今囘ノ戰捷ニ因リ、帝國ノ光輝ヲ闡發シタルヲ喜フト共ニ、大日本帝國ノ前程ハ、朕カ即位以来ノ志業ト均ク…(以下略)
     戰勝後國民に下し給へる勅語 (明治二十八年四月二十一日 官報)

日本帝國
 …。然ルニ露西亜・獨逸・両帝國及法朗西共和國ノ政府ハ、日本帝國カ遼東半島ノ壌地ヲ、永久ノ所領トスルヲ以テ、東洋永遠ノ平和ニ利アラスト為ス…(以下略)
     遼東半島還附の詔 (明治二十八年五月十日 官報)

大日本帝國
 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。 朕茲ニ露國ニ対シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)
     露國に對する宣戰の詔 (明治三十七年二月十日 官報)

日本
 …。蓋シ淸韓両國ノ領土ノ保全ハ、我日本ノ獨立自衛ト密接ノ關係ヲ有ス。…(以下略)
     露國との國交断絶に當り海陸軍大臣に下されし勅語 (明治三十七年二月十日 官報)

日本帝國
 天佑ヲ享有シタル我カ日本帝國皇家ノ成典ハ…(以下略)
     皇室典範増補の詔書 (明治四十年二月十一日 官報)

日本帝國
 …。此ノ事態ニ鑑ミ、韓國ヲ擧テ日本帝國ニ併合シ…(以下略)
     韓國併合に付き下し給へる詔書 (明治四十三年八月二十九日 官報)

 以上、森清人『詔語索引』(啓文堂書店 昭和十七年)による。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/12/18 14:59 → http://www.freeml.com/bl/316274/177965/

 

 

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2011年12月 6日 (火)

「表現者たちの関東大震災」

 

 御茶ノ水の文化学院のホールを会場として、「明星研究会」の主催による「表現者たちの関東大震災」と題する、講演会とシンポジウムがあった(12月4日の話)。昨年、同会による「大逆事件」をテーマとした企画があり、たまたま参加したら実に刺激的だったので、今回も出かけたわけである。

 
 

 今回の講演は、黒川創氏による「関東大震災と文化学院、西村伊作、与謝野夫妻」というもの。

 シンポジウムの方は、「関東大震災に表現者たちはどう向き合ったか」と題され、坂井修一氏の司会により、松平盟子氏が与謝野晶子、西川恵氏がポール・クローデル、石川桂子氏が竹久夢二、内藤明氏が窪田空穂、土岐善麿、北原白秋、高田浪吉、島木赤彦に焦点を当てて、それぞれがどのように大震災を体験し、どのような表現を残したのかが報告され、討議が行なわれた。

 
 

 このところ清水多嘉示(フランスに彫刻を学んでいるが、ポール・クローデルとその妹のカミーユとの交流もあったはず)について書いたり、西村伊作による住宅設計の展覧会を観たり、身近なところ(ネット上ではあるが)で辻まこととその父母である辻潤と伊藤野枝が話題になったり、大杉栄と監獄建築の関係だの添田唖蝉坊と後藤新平をめぐる話を聞いたり、関東大震災の経験が東京大空襲時の行動に反映されていた可能性について論じられているのを耳にしたりと、関東大震災あるいは大正という時代に縁のある展開が続いている。

 

 私自身の関心の方向という、たまたまの個人的問題でもあるのだろうが、周囲の人々の関心もまた、大正時代に向かったり大震災の経験をあらためて問題化したり(もちろん東日本大震災の経験がそう仕向けるわけだが)ということになっているようにも感じられる。

 国体明徴論者による天皇親政原理主義に侵され、政治的にも文化的にも硬直化に向かい、軍事的拡張主義の果てに亡国へと向かう昭和の(いわゆる)戦前期の直前に存在した、あの大正という時代への関心と要約出来るだろうか? その時代の言論が何をどのように表現していたのか? 表現しようとしていたのか? その表現がどこまで可能だったのか? そんなことを考えるわけである。

 で、実際、かなり踏み込んだ表現が存在するのが、大正という時代であったようにも思われる。

 

 今回の講演及びシンポジウムの場で(あるいは最近の個人的展開の中で)、再会したり出会ったりしたあの時代の人々の姿を通して、あらためて当時、既に提示されていた問題として、現在の我々自身の問題が見出されもするのである。

 
 

 それが新しい現在の問題であるのか、古い問題に過ぎないのであるのか? と、ここで問うことは野暮な話で、我々自身の現在の問題として現に問題は存在しているのである。

 我々自身の想像力の限界(現在そのものについては我々はあまりに未経験であり、過去の歴史は我々自身の経験ではない)を意識しつつ大正の表現者たちの経験を共有することは可能であり、そのような可能性の中に、我々の大正への視線の現代的意味があるようにも思われる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/12/04 21:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/176861/

 

 






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2011年11月30日 (水)

『アンダー・コントロール』&『あゝ、荒野』

 

 第一目標、イメージ・フォーラム。…というわけで、まずは渋谷駅東口へ。

 渋谷到着が昼時で、まず昼食から(軽くパスタ)。

 そしてイメージ・フォーラムへ。

 

 フォルカー・ザッテル監督のドキュメンタリー『アンダー・コントロール』(2011)を観る。

 ドイツの原子力エネルギー産業の現在を描いたドキュメンタリーで、三年間の撮影期間を経て編集された作品。つまり、基本的にフクシマ以前のドイツの原子力産業が主人公である。

 三年という撮影期間が示すように、じっくり腰を据えて撮られた、プロパガンダ映像ではないドキュメンタリーの魅力が味わえる作品であった。悲憤慷慨して何かを糾弾するのがお好きな人(指図されたり指図することがお好きな人)には向いていない、そんなドキュメンタリーである。私たちの時代が造り出してしまった原子力産業の遺産(実質的には、遠い未来の世代にまで相続される負債である)を、その現実を徹底的に見つめること。ザッテル監督が行なったのはそのような作業であり、画面の前の我々も、ザッテルの視線に導かれながら、その作業を遂行することになるのである。

 映像として提示された、巨大技術の集積による巨大技術とでも言うべき原発の姿は、不安の巨大な集積であると同時に、精緻な部品の巨大な集積として組み上げられた技術的人工美の巨大な極致を示すコンクリート製モニュメントのようにも見える。

 描かれているのはモノ(つまり施設)としての原発と、それを支える誠実に仕事をする技術者達の姿。

 原発技術者達のインタビューでは、明るい未来を夢見て原発設計や建設運営に携わった、かつての自らの日々が語られている。しかし、それが昔語りとして、つまり、終わってしまったこととして語られているように感じられる(画面に向かう者にはそのように聞こえるのだ)。

 私のパートナーは、映画を、

  原子力技術への静かなレクイエムのようだ

…と評したが、まさにそんな映像であった。

 

 しかし、言うまでもない話だが(もっとも、フクシマ以前には、多くの日本人にはほとんど関心の向けられない、言わば「言っても無駄な話」だったわけだが)、フクシマの出来事により多くの日本人にも明らかになった巨大事故の可能性と共に、事故の有無とは関係なく膨大に生み出され続ける放射性廃棄物処理の問題が原子力エネルギー稼動には付きまとうのであり、廃炉となる原子炉を含めた核廃棄物の問題の方に映画の焦点は当てられていた。つまり、フクシマ以後であれば、現実化した巨大事故の問題がクローズアップされることになるのだろうが、フクシマ以前においても既に取り返しのつかない状態にまで放射性廃棄物の存在の問題が立至っていた現実を、冷静な映像によって描き切っているのである。

 

 

 スローガンとアジテーションとは無縁なドキュメンタリー映像は見事だ。それは「どっちつかずの中立的立場」ということを意味するのではなく、批判精神の充溢とその的確な表現を意味するのである。

 

 

 

 4時近くなった街へ戻り、西口へと向かう。途中、ケーキで一服(娘の希望で、懐かしの不二家レストランである)。

 

 東急本店横の(アヤシイ)路地を入ると、その奥の(アヤシイ)階段を上がった所にあるマンション内に、目的地の「ポスターハリスギャラリー」はあった。

 イメージ・フォーラムで体力(と精神力)を使い果たし、既に帰宅モードになっていた娘だったが、会場内に入るや別人として甦った(これぞ写真の力であろうか)。

 開催されているのは、森山大道の写真展なのだ。

 

 企画としては、寺山修司の『あゝ、荒野』と森山大道による写真のコラボ展ということになる。小学校時代にケーブルテレビで放映された森山大道のドキュメンタリーを観て以来、娘は森山ファンなのだ。そして最近は寺山修司のファンにまでなっているのである。そういえば、80年代の女友達の一人が寺山ファンだったことも思い出す。私は、寺山修司に特別な思い入れもなく過ごしていたが、こうして娘を通して寺山に再会するというのも、

  これまで生きていたからこその思いがけずもそうなってしまった

…とでも言うしかない種類の出来事なのだろう。

 個人的には、森山大道によって画像として定着された1970年の青森、三沢の光景が、かつての立川の街並みに重なり(どちらも基地の街であり、そこには敗戦と占領の歴史が埋め込まれている)、記憶の深みを掘り返されたような感じを味わった。

 森山大道についても寺山修司についても、ここでわざわざ駄弁を弄する必要はないだろう。日没後のディープな渋谷(なんと贅沢なシチュエーション!)で、寺山修司×森山大道を味わったということを報告するだけである。

 

 

 

 帰宅後は、出かける前に観ていた荻上直子監督の『トイレット』(2010)の続きを観た(こういう観方は好きじゃぁないが)。これまた味わい深い作品で、こうして生まれ生きてしまっていることも詰まらぬことというわけではないなぁなどと思いながら、日曜の一日を終えるのだった。

 行き帰りの電車内では、折原脩三の『辻まこと・父親 辻潤』(平凡社ライブラリー 2001)を読んでいたのだが、それもまた、そんな日曜の感想を背後で支えていたように思われる。今ここに生きてしまっているという事実が(その事実が生み出すこの現実が)、生きているという事実を(絶対的な問題―そこにあるのは絶対的な無意味性である―としては)詰まらなく思わせもするが、生きていることがそれほど詰まらぬことでもないという思いを(相対的な問題―生きている事実はたとえそれが相対的であれ意味を産出してしまうのである―として)生み出させもするのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/11/27 21:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/176395/

 

 

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2011年11月13日 (日)

自由貿易原理主義と国民経済学

 

 いわゆる「TPP」問題関連の話である。

 

 

 「TPP」の根底にあるのは、いわば「自由貿易原理主義」のように感じられるのだが、この問題を考える際には、かつてのフリードリヒ・リストの「国民経済学」とその背景を思い起こすことも重要であろう。

 リストの「国民経済学」に関する詳細説明については、(手抜き感は否めないが)『ウィキペディア』先生の「歴史学派」の項からの抜書きで対応しておく。まず概観すると、

 

【歴史学派】

歴史学派(れきしがくは / 独:Historische Schule (der Nationalökonomie))とは、19世紀半ばのドイツで成立し、同世紀後半にかけてのドイツで隆盛を誇った経済学の学派もしくは思潮である。「歴史学派経済学」とも呼ばれ、またドイツに限定した場合は「ドイツ歴史学派」とも称される。

〈概要〉
歴史学派の経済学は、フランス革命後のドイツにおいて、啓蒙思想への反動として登場したロマン主義・歴史主義の思潮を背景として成立し、同時期のイギリスで発達した古典派政治経済学を批判して、各国の独自性を規定する歴史を重視し、すべての経済事象を歴史から説明しようとした。
ドイツ歴史学派はフリードリヒ・リストを先駆者(創始者)とし、経済学史上は、その次世代であるロッシャー、ヒルデブラント、クニースらの旧歴史学派(先駆者リストを含む場合もある)と、シュモラー・ヴァーグナー・ブレンターノを中心として成立した新歴史学派に大別される。さらにゾンバルト・ヴェーバーらより若い世代の学者を最新歴史学派と称することもある。
政治史的に見ると、旧歴史学派は、プロイセン王国によるドイツ統一が進展する時期に活動していたため、発展途上のドイツ工業を育成するための保護貿易政策を主張した。これに対し、新歴史学派はドイツ帝国発足後の時期に活動し、工業化の進展から発生した社会問題を背景に、国家による社会政策を主張した点に特色がある。

 

…として位置付けられる、当時の発展途上の工業国としてのドイツで展開された経済学的主張である。

 むき出しの経済原理による(ここでは特に、自由貿易主義に基づく徹底的かつグローバルな―といっても当時は大英帝国が体現していたわけだが)資本主義的収奪からの国民の保護を国家の役割(国家による社会政策)として規定しているという点が、今回の「TPP」関連の議論に際し、かつての「ドイツ歴史学派・国民経済学」の姿を参照することの意味となる。

 で、『ウィキペディア』先生からの抜書きを続けると、

 

〈背景〉
 イギリス古典派経済学の受容と反発
ドイツにおいては従来、政治経済の広範な領域を探究する「官房学」という独自の学問が発達していた。その後フランス革命やナポレオン戦争の影響を受け、プロイセンを始めとする諸領邦国家において啓蒙主義に影響された開明的官僚層による自由主義的改革が進められると、当時の経済(学)先進国であったイギリスから古典派経済学が輸入され、これと従来の官房学が融合して「ドイツ古典派」と称される学派が成立した。
しかし19世紀前半になると、古典派経済学(およびそれに基づく経済政策)が果たしてドイツの国情に合致するのか疑問が投げかけられるようになった。すなわち、古典派経済学の自由貿易主義(および国際分業論)は結局のところ工業先進国のエゴイズムを体現した理論であり、ドイツのような後進国においては自由貿易が国力を減退させる結果を生むことが判明するにつれ、出来あいの経済政策ではなく、自国の実情に即した独自の政策体系を求める声が高まっていったのである。
この結果、経済学においても、各国の独自性を規定する歴史へと関心が向けられ、理論と現実、理論と歴史との関連が問題化されることとなった。すなわち、古典派のように利己心を行為動機とする個人から構成された競争的市場社会を想定して一般的経済法則の解明に向かうのではなく、行為者を社会組織に帰属し共同意識を有する存在と見なし、またその動機も利己心ではなく法・慣習・モラル・宗教などの文化的・倫理的・制度的要因に強く規定されていることを踏まえ、各国別の国民経済を単位に一つの有機体として形成された経済社会の段階的・歴史的進化を理論面・実証面で解明しようとする方向に進んだ。例えば前記のA・ミュラーは、スミス経済学に見られる利己的な人間観や原子論的な社会観を批判し、有機体的な国民経済論を対置している。

 

…という構図として描かれることになる。

 ここで重要なのは、

  すなわち、古典派経済学の自由貿易主義(および国際分業論)は結局のところ工業先進国のエゴイズムを体現した理論であり、ドイツのような後進国においては自由貿易が国力を減退させる結果を生むことが判明するにつれ、出来あいの経済政策ではなく、自国の実情に即した独自の政策体系を求める声が高まっていったのである。

…という視点であろう。現実の現代日本は既に「工業先進国」ではあるわけだが、それであっても「自国の実情に即した独自の政策体系」の必要性が失われるわけではないし、我々自身が倫理的であろうとするならば、我々自身が「後進国」の国民に対する容赦のない資本主義的収奪の主体となる可能性もまた考慮しなければならない。

 

 

 実際には、やがてドイツも「先進工業国」の一員となっていくわけだが、そのドイツ産業の発展に沿うように、「ドイツ歴史学派」も「新歴史学派」と呼ばれる段階に到達する。再び『ウィキペディア』先生にご登場いただくと、

 

〈沿革〉
 新歴史学派
ビスマルクを事実上の指導者としてドイツの国内統一とドイツ帝国の発足がなされ、歴史学派の一応の目標が達成されると、旧歴史学派の次世代であるG・シュモラー、A・ヴァーグナー、L・ブレンターノ、G・F・クナップ、K・ビュヒャーらは、先行世代が歴史研究を通じて拙速に経済の一般法則を導こうとしたことを反省し、演繹的方法で一般法則を定立するには歴史的データの蒐集が不充分であると考えた。「新歴史学派」(Jüngere Historische Schule)と称されるようになった彼らは、旧歴史学派の「実在としての有機体的観念」を斥け文献・統計資料を駆使した詳細かつ実証的な歴史研究を推進した。この結果、莫大な数の社会経済史のモノグラフが蓄積されることとなり、本格的な社会経済史学の成立につながった。また学派の自称として「歴史学派」が定着したのも、この時期である。
新歴史学派は、以上のように経済学の歴史学的側面を重視する一方で倫理的側面の重要性も強調した。すなわち彼らは、ドイツ統一前後の工業化と資本主義の興隆にともない発生した労資対立の激化や社会主義勢力の拡大に直面して「社会問題」への関心を強めた。そして社会問題の解決には所得再分配を目的とする国家が不可欠と考え、資本主義の弊害を社会政策によって解決し社会主義への道を封じる社会改良的政策を主張した。1873年に社会政策学会が設立されて以降、新歴史学派は歴史的方法を通じて特定の政策課題に解答を与える体制の学としての性格を強めていき、ドイツの大学アカデミズムにおいて支配的影響力を行使するとともに、社会問題における自由放任を主張するドイツ・マンチェスター派と激しい論争を展開し、「講壇社会主義(者)」という貶称を与えられた。しかし社会政策学会に結集した新歴史学派の学者たちは、自由放任主義や社会主義を批判し、社会政策による経済への介入を主張する点では共通していたものの、社会政策の主体については見解の相違があり、大まかに分けて国家による上からの社会政策を主張するヴァーグナーらの右派、労働組合による下からの社会政策を主張するブレンターノら左派、両者の折衷的立場に立ち社会政策学会で主流派の位置を占めたシュモラーらの中間派が存在した。

 

…として記される展開を見せる。

 ここでの注目点は、

  そして社会問題の解決には所得再分配を目的とする国家が不可欠と考え

…という一節の存在であろう。

 我々は、理念としては「世界市民」であり得ようとも、現実的にはいずれかの国家の「国民」であることによってのみ、行政的手段による人権の保護を享受し得るのである。

 もちろん、国家が人権抑圧装置として作動する事例はありふれたものであるにしても、人権の保護において国家以上に機能するシステムが存在しないという現状は、深く心に刻み込んでおくに値する。

 ここでは「所得再分配を目的とする国家」として描かれた「国家」が、自由主義的経済原理の貫徹により必然的にもたらされるであろう格差社会化を抑制し、国民の同質性を維持することにより、国家を支える国民の一体感が確保されると考えられているのである。格差社会化は、格差の再生産的固定化による階級社会化につながり、そこでは等質性により規定される「国民」(これが近代国民国家を支えた国民である)が解体されてしまうのである。自由主義経済からの利益分配の対象から外され、社会の底辺層へと転落した人々からは国家社会への帰属感が失われることになる。当然のこととして、経済的利益を独占する国家の統治階層への彼らの不満は増大し、階層間の摩擦も大きくなる。国家社会への帰属感の喪失は順法意識の喪失につながり、社会からは「安心」が失われ、上層階級の利益の維持のための治安コストだけが上昇することになる。

 

 「自由貿易原理主義」の貫徹は、経済的側面における国家の機能を最小化することにつながり、結果として我々が、人間の生への資本主義的侵害の抑制機構(所得再分配装置としての国家)を喪失してしまう可能性につながってしまい得るものなのである。

 「TPP」問題には様々な側面があるが、今後の我々の抱く「国家像」のあり方もまた問われていることを見落としてはならない。原理主義的な自由主義経済の貫徹は、国家間にも国内的にも経済的格差の増大をもたらし、結果として、多くの人間から生存権を奪うものとなりかねないのである。

 

 

 

 私のような「反国家主義(と言っても、あくまでも「国家主義」へのアンチであるのだが)」を信条とする個人主義的人間が、このような形で「国家」の機能の再評価を主張することになろうとは、自分自身にも意外な展開ではあるが、これもまた21世紀的現実なのであろう。

 

 

 
 
…と、『ウィキペディア』の記述に頼るという安易な方法を採ってしまったが、この際だから、以下にもオマケ的に『ウィキペディア』先生から、フリードリヒ・リスト以来の「国民経済学」そして「ドイツ歴史学派」の現代的意義と、日本近代史への影響に触れた部分を引用しておこう。

 

〈影響〉
ドイツ語圏においては、歴史学派それ自体は解体したものの、最新経済学派における理論と歴史を統合する総合的・現実的視点は、シュンペーターに継承され、また第二次世界大戦後の「社会的市場論」(W・オイケン)にも影響を及ぼしている。
歴史学派の経済学・社会科学は、ドイツと同様、国民国家の形成に出遅れつつ近代化・工業化を進める西欧各国・アメリカ合衆国・日本にも影響を及ぼした。イタリアではロッシャーに学んだL・コッサが歴史学派理論を紹介してイタリア歴史学派と称され、合衆国ではR・イリーがドイツ社会政策学会にならってアメリカ経済学会を1885年に設立、またT・ヴェブレンは歴史学派の方法論に学び進化論的な制度学派の創始者となった。また経済的先進国であり、歴史学派と対立した古典派経済学の本拠地であるイギリスにおいてもJ・ロジャーズ、W・アシュリーらイギリス歴史学派によって歴史学派経済学の導入がすすめられ、経済史研究が発展した。
日本においては、グナイスト・ロエスレルら歴史学派の法学者たちが御雇い外国人などの形で直接・間接に明治憲法制定に影響したほか、大島貞益がリストの著作を翻訳(重訳)して保護貿易を主張、「日本のリスト」と称された。さらに1890年代後半には、ドイツに留学して新歴史学派の経済学を学んだ金井延・桑田熊蔵らが「講壇社会党」を自称しドイツ社会政策学会にならって日本でも「社会政策学会」を結成(1897年)、工場法などの社会政策立法の制定に貢献した。

 

 近代における国民と国家、そして経済原理の関係を考える上での重要な視点が、ここにはあるように思われる。

 そしてその先には、「所得再分配を目的とする国家」こそが、国民による軍隊を組織し、対外戦争を遂行する国家であったという、近代史の重要な側面も見出されるはずである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/11/12 22:42 → http://www.freeml.com/bl/316274/175353/

 

 

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2011年10月27日 (木)

清水多嘉示資料展 「千人針記念碑」との出会い

 

 武蔵野美術大学の美術館で開催中の、「清水多嘉示資料展 第2期 昭和の記録―清水多嘉示の道程:敗戦まで」というタイトルの展覧会は、大変に地味なものではあるが個人的には興味深いものであった。「あの戦争」を中心とした近・現代史を生き抜いた彫刻家の姿という意味で、いろいろと考えさせられたのである。

 

 1897(明治30)年に生まれ、1920年代にフランスに渡りブールデルに師事し、帰国後には帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の助教授となる。戦後も同校(武蔵野美術学校、武蔵野美術大学と校名は変化する)で教鞭をとり、1980年には文化功労者に選ばれ、翌1981年に84歳でその生涯を閉じる。そこにあるのは、彫刻家としての見事な経歴、と言えるであろう。

 近・現代史的に見れば、彫刻や絵画というジャンル、総称としての美術というジャンル自体が明治以降のものである。木彫であれブロンズ像であれ、明治以前は寺院の中の信仰の対象ではあっても、「芸術作品」として鑑賞の対象とされるものではなかった。日清戦争と日露戦争の間に生まれた清水が渡仏し、ブールデル門下となる背景には、日本が近代的造形としての彫刻と出会い、吸収していく過程が埋め込まれているわけである。美術(そして彫刻)という近代の新しいジャンルの中で、その先頭にいた人物の一人が清水なのである。

 

 

 展示が地味であると書いたのは、「資料展」とある通り、彫刻作品ではなく「資料」中心の展覧会であることによるが、彫刻作品の展示がないわけではない。

 その目玉(?)となると思われるのが、1940(昭和15)年制作の「千人針記念碑の一部」と題された、等身大より一回り大きな彫像(ブロンズ風に着色された石膏像)である。「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」の出品作であり、それが「千人針記念碑」とくれば、美術家(彫刻家)の「戦争協力」という文脈で語られてしまうことになるであろう作品ではある。しかしここで、そのような話を始めようというわけではない。

 

 資料中心の展覧会であることには既に触れたが、小さな会場の壁一面、そして天井の梁にまで隙間なく貼り込まれているのは、清水の手紙でありメモであり様々な展覧会の案内状であり公文書でありスケッチなのであった。その会場に溢れるばかりの資料群を通して、1920年代の終わりから敗戦までの清水の軌跡を追うことが出来る。

 そこにあるのは近代化過程にある日本である。モダンな東京があり、美術展が日常的に開催される世界がある。現代につながる都会生活がある一方で、日清・日露戦争以来の軍事力を背景とした大陸での利益追求も新たな段階を迎えている。満洲事変の成功(1931年)は、国内的には軍事力行使が権益獲得の有効な手段であるとの幻想に結びついたが、国外的には近代国民国家形成過程にある中国人のナショナリズムを大いに刺激し、排日・抗日運動への求心力を高めることにも役立ったわけである。そして1937(昭和12)年の盧溝橋事件以後、両国民は、支那事変(いわゆる日中戦争である)と呼ばれる直接的軍事衝突の渦中に巻き込まれていく。

 

 資料展会場には、そんな時代を生きた彫刻家の姿が展開する。

 

 1938(昭和13)年には、海軍航空隊の源田実(!)をモデルにブロンズ像「海の荒鷲」を制作(形象としては靖国神社の遊就館前にある特攻隊員の像のイメージを思い浮かべて欲しい)。作品は海軍に納められたが、その引渡し式の写真には山本五十六の姿もある。1939年制作のレリーフ「南昌制覇」は、主翼を破損した九六式艦上戦闘機で奇跡的生還を果たした樫村飛曹のエピソードがモチーフとなっている。どちらも実物ではなく当時の写真だけだが、「南昌制覇」の方は制作の際の多量のスケッチが展示されており、清水の作品への「入れ込みぶり」も伝わってくる。

 そして清水も(兵士としてではないが)従軍することになる。会場には「従軍彫塑家」という肩書きの記された腕章が、従軍の際の各種身分証明書(「画家」という肩書きのものもある)と共に陳列されているのだ。従軍先は海軍で、海軍航空隊基地(漢口と思われる)でのスケッチ群が印象的である。明るい色彩で、九六式陸上攻撃機をはじめとした海軍機の姿が記録されているのだ。事変当初の南京への「渡洋爆撃」以来、海軍は空からの陸上攻撃の主役となっていたのである。

 従軍先が陸軍ではなく海軍であった(戦闘艦に乗船してのスケッチもある)ことは、清水が大陸の戦場の悲惨から距離を置いた場所から事変を経験したことをも意味するように思われる。その後も続く「戦争協力」的作品の背景には、そのような清水の戦場体験のあり方が関わっているように感じられもするのだ。

 

 そして問題の、1940(昭和15)年制作の「千人針記念碑の一部」である。「海の荒鷲」や「南昌制覇」の舞台が戦場でありモデルが軍人であったのに対し、ここでは「銃後」がクローズアップされているというわけだ。泥沼化した事変は、今や遠い戦場の出来事ではなく、都会生活の日常風景の一部にまでなってしまっているのである(彫像のサブタイトルは、「出征兵士ヲ送ル」である)。紀元二千六百年の祝祭的気分の裏側には、近代総力戦状況の重圧が既に深く浸透していたのである。

 造形的に興味を引くのは、女性と足下の幼児の組み合わせで構成された彫像が洋装であり、しかもその顔があまり大和撫子的ではないという点である。前方を見据えて(視線の先には出征兵士―もちろんそれは彼女の「夫」であるはずだ―の姿があるに違いない)立っているのは、ウェーブした髪をなびかせた(どちらかと言えば)バタ臭い容貌に造形された、上半身はノースリーブで下半身はロングスカート(腰周りはリボンで結ばれている)に包まれた女性と、大和絵的と言うよりは西洋画の天使像を思わせる顔立ちの裸の幼児の姿には、あまり「千人針」という語から期待してしまう「日本的」なもののイメージは見出せない。

 そこに見出されるのは「日本的」な(ナショナルな)何かではなく、インターナショナルな同時代の表現であるように感じられる。つまり、この「千人針」像がエンパイアステートビルの装飾であっても、モスクワや東ベルリンやワルシャワの戦勝記念広場の彫像であっても違和感は生じないだろう、ということなのだ。

 もちろん、清水自身は本気で当時の国策を支持していたのであろうし、国策に一体化した心情の下に大規模な「千人針記念碑」の構想を練り(問題の彫像はその「一部」なのである)、彫像の制作に当たっていたのであろう。しかし、インターナショナルな美術の世界の同時代を生きる作家のものとして、作品は造形されてしまうのである。

 この「千人針」像は、確かに「あの戦争」の時代の、「あの戦争」の時代ならではの彫像である。制作に当たった彫刻家の精神的昂揚は否定出来ないだろう。それを「戦争協力」として切り捨てることは容易である。

 しかし、政治家でも軍人でもない彫刻家の作品の問題、という視点もまた必要であるようにも思われる。もちろん、総力戦時代の戦争は、政治家や軍人だけで遂行出来るものではない。まさに国民一人一人の積極的参加こそが「総力戦」を支えるものであり、そのような構図の中で彫刻家の「戦争協力」を考えてみることは必要である。しかし、そこで断罪という一方的な視線を注ぐのではなく、ある時代の中で自分の仕事(としての彫刻)に取り組み奮闘する一人の人間を様々な角度から理解しようとする試みとして、今回の「資料展」に接する態度もまた、「あの戦争」からこれだけの時を隔ててしまった現在、必要とされるし可能になっているもののように思われもするのである。

 

 

 私のこの、ある意味での歯切れの悪さの背景には、戦時下の清水の言動の詳細を私が知らないために評価の下しようがないという問題も、確かに存在する。しかし、それを知らない以上は尚更のこと、「戦争協力者」として安易に清水を断罪する無責任さからは身を離していたいと思うのだ。

 

 清水多嘉示のことを書きながら、リーフェンシュタールやアルノ・ブレーカーのことを考えていたのも事実である。ナチスと彼らの関係の問題ということになるが、リーフェンシュタールもブレーカーも、ナチスに媚びていたわけではない。ナチスに媚びることで彼らの作品が存在したのではなく、ナチスが彼らの作品を求めたのである。

 しかし、一方で、彼らの美意識は、まさにナチスのものでもあった。彼らの健康な肉体への憧憬は、あくまでもナチスの美意識に適合的なものなのである。

 そのような意味での清水の位置付けは、どのようなものとして考えられるだろうか? 国策に適合的な彼の作品には、注文者と作家の関係以上に、彼の積極的関与が見出されるように思われる。一方で、戦時期の代表作的な「千人針記念碑」の造形的イメージには、ナショナリスティックなものよりはインターナショナリズムが見出されてしまうようにも思われるのだ。当時の日本主義者達の目に、清水の作品(その美意識)はどのように映っていたのだろうか?

 近代という大きな文脈の中で、彫刻家(芸術家)となることによって身についてしまったインターナショナリズム(近代的芸術概念には「普遍性」への志向がある)と、後発帝国主義国家の近代化課程の渦中に生きる国民の抱くナショナリズムの双方を、清水は体現していたように、私には思える。同時代人ではない我々が、清水を「戦争協力者」として断罪することは、自らを無謬の高みに置くことによってのみ可能になる。そのような傲慢さを、私は選びたくない。

 

 

 展示は、ブロンズ彫像作家の前から金属が失われた時代を経て、敗戦に至る。清水が漢口でスケッチしたのは、空襲の準備をする日本海軍の陸上攻撃機の雄姿であったが、米軍のB-29に空襲される側となった日々、どのような想いの中で過ごしていたのだろうか?

 敗戦直後の清水は、「特攻寺」の創設を提案した文章を残している。「あの戦争」の「あの作戦」で命を落とした特攻隊員を弔う場としての「特攻寺」なのである。どことなく高揚感の漂う文章に、戦後の清水の出発点を見る思いがした。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/10/27 21:26 → http://www.freeml.com/bl/316274/174233/

 

 

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2011年10月26日 (水)

昭和十一年 宮澤俊義 『憲法講義案』 (植民地としての朝鮮)

 

 ネット上に出回っている、

 

【本当に半島を植民地化したのか?】
韓国の教育による歴史改竄手法の一つに「不適切な用語の適用」がある。
1910年の日韓併合を(当時は朝鮮併合)「植民地化」と表記する。
英語表記をすれば、植民地化=Colonizationであり、併合=Annexationである。
この二つの歴史用語の意味する統治概念や対応する史実は全く異なる。
・「併合」
自国化が目的。
獲得地域に本土と同じ生活環境を整備し、住民を本土国民と同じ権利義務を持つ人として扱う。
その統治の基本方針は同化。
・「植民地化」
経済的収奪が目的
その為の開発だけが行なわれ、植民地住人は労働力として位置づけられる。
その統治の基本方針は本国の収益の最大化。
日本による数々の朝鮮半島併合後に行った近代化事業を見れば、日韓併合の実態は、将に自国化(Annexation)である。
実態と違う「植民地化」表記は日本的な誠実さや穏健性を隠蔽、日本が朝鮮半島を奴隷的に支配したかの様な負のイメージを目的としている。

 

…なんていう、一見するともっともらしい言説の問題点については、既に論じてある(参照 : 「植民地化=Colonization」と「併合=Annexation」 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/colonizationann.html)。

 

 ここにある、「併合=Annexation」あるいは「自国化(Annexation)」と「植民地化=Colonization」は異なる概念なのであり、大日本帝國は朝鮮半島を「併合あるいは自国化(Annexation)」したのであって、「植民地化(Colonization)」したのではないという主張は、いかにももっともらしいが、問題の理解としては完全に誤ったものなのである。

 「併合あるいは自国化(Annexation)」とは、「植民地化(Colonization)」の手法の一つに過ぎず、大阪市民が同時に日本国民でもあるように、「併合あるいは自国化(Annexation)」とは「植民地化(Colonization)」以外の何物でもないのである。

 

 

 

 今回は、前回と異なる史料を用いて、その問題をあらためて検証しておきたい。大日本帝國において、朝鮮や台湾がどのように位置付けられていたのかの実際を読んでみようという試みである。

 

 

 今回、テキストとして使用するのは、

宮澤俊義 『憲法講義案』 
     昭和十一年四月十二日印刷
     昭和十一年四月十七日発行 講義用
        東京市豊島区巣鴨五丁目一一六五
          著作兼発行者 宮澤俊義
        東京市神田区錦町3丁目一一
          印刷者 白井赫太郎

…である。昭和十一年の東京帝國大学法学部の、宮澤俊義による憲法学講義で用いられた出版物(教科書)である(古書店で入手したものだが、「東法一 倉本和男」という巻末にある旧所有者の署名と、文中の書き込みから、実際の講義で用いられたものであることがわかる)。言うまでもないことであるとは思うが、東京帝國大学法学部とは官学の最高峰であり、つまり大日本帝國の官吏養成システムの最上位に位置付けられる教育機関である。

 この昭和十一年という時点(ちなみに倉本氏の書き込みは、「昭和十三年二月十五日終了 於三十一番教室」の文字で終えられている)は、既に前年のいわゆる「天皇機関説事件」により美濃部達吉が東京帝國大学の教壇から追われた後のことであり、帝國大学法学部もまた、国家主義的観点に基づく官吏養成機関としての再出発を遂げさせられていることを念頭においておく必要がある。美濃部と異なり宮澤は帝大の教壇から追われることなく、つまり国体明徴的観点から排撃されることなく帝大教授の地位を維持したのであり、それは宮澤の憲法論が国家的承認を得たものであることを意味すると考えておくべきであろう。

 日本国憲法解釈の主流となった戦後の宮澤俊義からは想像し難いことかも知れないが、敗戦直後の宮澤による憲法草案を見れば、そこにあるのは「大日本帝國憲法」から継続する「天皇大権」の位置付け(つまり主権者としての天皇の姿)なのである。つまり、敗戦直後の宮澤にとって、「日本国憲法」の思想は異質なものだったのだ。

 総じて見れば、宮澤は、官吏養成の最高学府の構成員として(憲法学者として)、国家のその時々の要請に応えることの出来る人物なのである。

 

 宮澤による『憲法講義案』を読み解くに当たっても、そこに見出されるのが、大日本帝國の統治システムを支える官吏層に共有される発想あるいは思想であることに留意しておかねばならない。言い換えれば、大日本帝國の統治者の常識を、そこに読み取らねばならないのである。

 

 

 さて、では本文から、「第一章 序説  第ニ節 日本憲法の法源  ニ 日本憲法の成文法源」の項を読むことにしたい。そこには、

 

 わが憲法の成文法源は次の如くである。
 (一)大日本帝國憲法 これはわが國の形式的意味での憲法である。明治二二年二月一一日に公布せられた。御告文・憲法発布勅語および皇室典範と共にわが憲法の最も重要な法源を形成する。 
 (イ)構造 略
 (ロ)内容 略
 (ハ)制定 略
 (ニ)通用(妥当)範囲
  (a)時間的通用範囲 通用の始期は第一回帝國議会「開会」の時とせられている(上諭四段)。
  (b)空間的通用範囲 憲法の通用する空間的通用範囲如何の問題はわが國ではかの「六三問題」以来「憲法は外地(植民地)で通用するか」といふ問題として実際上・学問上争はれたところである。その論点はおよそ次の如きものである。
  (1)憲法は外地で通用するか(又は施行されてゐる)か。
  (2)もし憲法が外地で通用するとすれば、台湾および朝鮮で法律(大正一〇法三台湾ニ施行スベキ法律ニ関スル法律、明四四法三〇朝鮮ニ施行スベキ法律ニ関スル法律)で総督に対していはゆる「立法の委任」を行なつてゐるのは憲法違反ではないか。
  (3)もしまたこれに反して憲法が外地で通用しないとすれば、右の諸法律は一体どのような意味をもつか。
 これらの論点についてはいまだに定説を見ないが、従来の諸説はこれらについて考察する場合に(a)すべての外地がこの点について同じに取扱はるべきことおよび(b)前記の諸法律が行つてゐるやうな「立法の委任」が憲法上本来許されぬことのニ原則を無批判的にわが実定法上の原則としてゐるやうであるが、これはおそらく正当ではあるまい。さうした原則は決して実定法を離れて「理論上」成立しうるものではなく、実定法によつてのみ基礎づけられうるものである。それならばわが実定法はそれらの原則をみとめてゐるのであらうか。それらをみとめてゐないと私は考へる。憲法の通用する空間に関するわが実定法上の原則は次のやうなものであると思ふ。
   (1)憲法制定当時の領土では憲法は通用する。
   (2)台湾・朝鮮および樺太でも憲法は通用する。但し、ここでは法律(大正一〇法三・明治四四法三〇・明治四〇法二五)によつてゐる程度の「立法の委任」が行はれてゐる。
   (3)関東州および南洋群島でも憲法の規定は大部分通用するが、そのうちで法律事項に関する規定はそこで通用せず、法律事項はそこではすべて大権事項とせられる。
 かやうな広汎な立法の委任をみとめたり、外地の中で関東州と南洋群島だけを他から区別して取扱つたりすることは政治的・立法的には問題となる余地もあらうが、現在のわが実定法がさうなつてゐることは否定せられえぬであらう。
               (15~16頁)

 

…と記されているのである。


 今回の問題である、大日本帝國における植民地認識の実際を考える上での焦点となるのは、

 
  (b)空間的通用範囲 憲法の通用する空間的通用範囲如何の問題はわが國ではかの「六三問題」以来「憲法は外地(植民地)で通用するか」といふ問題として実際上・学問上争はれたところである。その論点はおよそ次の如きものである。
  (1)憲法は外地で通用するか(又は施行されてゐる)か。
  (2)もし憲法が外地で通用するとすれば、台湾および朝鮮で法律(大正一〇法三台湾ニ施行スベキ法律ニ関スル法律、明四四法三〇朝鮮ニ施行スベキ法律ニ関スル法律)で総督に対していはゆる「立法の委任」を行なつてゐるのは憲法違反ではないか。
               (15頁)

…憲法の通用する空間に関するわが実定法上の原則は次のやうなものであると思ふ。
   (1)憲法制定当時の領土では憲法は通用する。
   (2)台湾・朝鮮および樺太でも憲法は通用する。但し、ここでは法律(大正一〇法三・明治四四法三〇・明治四〇法二五)によつてゐる程度の「立法の委任」が行はれてゐる。
               (16頁)

 
…との記述であろう。

 ここでは、

  「憲法は外地(植民地)で通用するか」といふ問題

…に応える形で、

  もし憲法が外地で通用するとすれば、台湾および朝鮮で法律(大正一〇法三台湾ニ施行スベキ法律ニ関スル法律、明四四法三〇朝鮮ニ施行スベキ法律ニ関スル法律)で総督に対していはゆる「立法の委任」を行なつてゐるのは憲法違反ではないか。

…という一文が書かれているのであり、そのことが意味するのは、

  外地(植民地)=台湾および朝鮮

…という認識の存在であり、次の、

  憲法の通用する空間に関するわが実定法上の原則は次のやうなものであると思ふ。
   (1)憲法制定当時の領土では憲法は通用する。
   (2)台湾・朝鮮および樺太でも憲法は通用する。

…との一文からも、

  外地(植民地)=台湾・朝鮮および樺太

…という宮澤の(そして大日本帝國における統治者層の)認識が読み取れるわけだ。

 

 東京帝國大学という官学の最高学府の法学部、つまり大日本帝國を運営する官僚養成機関で使用された憲法学の教科書中に、台湾や朝鮮が帝國の植民地であることが明記されていた、ということなのである。ネット上に流布されている、

  韓国の教育による歴史改竄手法の一つに「不適切な用語の適用」がある。
  1910年の日韓併合を(当時は朝鮮併合)「植民地化」と表記する。
  …
  実態と違う「植民地化」表記は日本的な誠実さや穏健性を隠蔽、日本が朝鮮半島を奴隷的に支配したかの様な負のイメージを目的としている。

…というお話は、確かにもっともらしいが、大日本帝國の高級官吏養成教育システムの中で、朝鮮半島が帝國の植民地として取扱われていた事実を隠蔽しようとする試みこそは、「日本的な誠実さ」に反する「不適切」極まる「歴史改竄手法」と言われるべきものであろう。

 

 

 以上の話は、歴史学的には常識的な問題と思われるのだが、冒頭に引用した通り、ネット上には、「大日本帝國は朝鮮を併合(自国化)したのであって植民地化したのではない」などというヨタ話が拡散されているのである。それが虚偽に過ぎないものであることが、この大日本帝國で用いられていた憲法学教科書を通してもよくわかる、というお話。

 

 当時の世界の中で、日本が植民地保有国であったことは、虚偽を用いてまで隠す必要のある問題とも思われない。明治日本が、欧米列強並みの存在に到達し得た世界史的事実を示すに過ぎないのである。植民地の被支配住民の存在を考えれば、わざわざ自慢すべきエピソードとは言い難いにせよ、それを「なかったこと」にする必要はないはずだ。

 いずれにしても、現代を生きる我々には、大日本帝國による植民地統治について、直接的責任などないのである。

 しかし、歴史的事実に関しての虚偽に基づく主張をすること及びその主張を容認することの方には、我々自身の直接的責任が伴うわけである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/10/26 13:33 → http://www.freeml.com/bl/316274/174130/

 

 

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2011年9月11日 (日)

近現代史の中の蚊(あるいはモスキート)

 

 

 蚊取り線香が近代日本の発明品であることは案外知られていない。KINCHO(大日本除虫菊株式会社)の創業者上山英一郎が、明治19年(1886)、米国人アモアから除虫菊の種を入手、日本で最初の栽培に成功し、その普及に努めた。蚤取粉の製造を行い、明治23年(1890)には棒状の蚊取り線香を、さらに渦巻き型を開発して明治35年(1902)に販売開始。除虫菊粉や蚊取り線香は、海外にも広く売り出され、日本の殖産興業の一翼を担った(『金鳥の百年』1988)。

     神野善治 『災厄防除-まもる姿・ふせぐ形-』(同名の展覧会図録の解説文より) 武蔵野美術大学 美術館・図書館 2011 39ページ

 

 

…という話は、初耳というわけではなかったが、あらためて年代を見ると、帝國憲法発布(1889)、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)という日本近代史の節目に近いところで、蚊取り線香の発展があったことを再認識させられた。それも国内だけの話ではなく、当初から輸出品としてわが日本の外貨獲得に貢献していたというのだ。

 同ページには、図版として昭和10年ごろの海外向けと思われるポスターも掲載されており、そこには、

 

  "COCKSEC" MOSQUITO KILLER
    WORD RENOWND INSECTCIDE

 

…なんて文字が、団扇を手に微笑む和服姿の美人と、その前に並べられた当時の金鳥製品のラインナップ・イラストの上に記されているし、図録の次のページの図版の説明には、

 

  棒状蚊取り線香誕生の頃(明治20年代)から第二次大戦前まで海外輸出もされた。専用の線香立て金具を備え、約40分間燃焼した。

 

…とあるくらいだ。開発当初は「棒状」の文字通りの「線香」タイプであり、現行の「渦巻き型」の登場はその後のことらしいが、それにより燃焼時間が6時間となったという(件のポスターには両タイプの製品が並び、噴霧タイプの液体殺虫薬水まで掲載されている)。

 また、当時の渦巻き型は「手巻き」で形成された円形断面のものだが、現行製品は知っての通りの長方形断面の型抜きによるものであることも、展示品により理解出来る。レトロイメージをくすぐられる「蚊取り線香」の姿もまた、時代と共に変化しているのだ。

 いずれにしても、蚊取り線香が戦前期のわが日本(つまり「大日本帝國」だ!)の貴重な輸出品の一つであったことは確からしい。原料は国内で栽培した除虫菊だから、紛れもない純国産品でもある。

 

 

 さて、ここまでは、かつて読んだ話の再認識という側面があるのだが、その先までは知らなかった。

 つまり、「第二次大戦前まで海外輸出もされた」という、それからの歴史である。戦争状態(第二次大戦の開始)は、蚊取り線香の輸出にも影を落とし、つまり蚊取り線香は広い海外市場を失ったわけである。真珠湾攻撃により日本は輸出先としての米国を失い、米国は日本からの蚊取り線香の輸入に期待することが出来なくなった。

 

 で、問題の「その先」の話なのだが、図録のその先の49ページに答えがある。

 そこには「合成殺虫剤の時代へ」という表題の下に、噴霧器型(スプレータイプ登場以前はこれが主流であった)の「ワイパア」(これは大正製薬製造)と、「DDT」の赤い円筒缶(こちらはなんと、あの「味の素」製品であった―つまり「味の素」は食品メーカーである以前に化学製品メーカーということなのだろう)の写真があり、

 

  19世紀末ドイツで開発された合成化合物に殺虫効果があることを1939年にスイスの科学者が発見。第二次大戦で日本の除虫菊が途絶えたアメリカで大量生産が可能になり、戦場に持ち込まれた。大戦後の日本にもやってきて日本の衛生状態の向上に貢献し、その後は農薬としても大量に用いられたが、新たな公害の原因にもなった。

 

…なんて解説が付されている。

 敗戦後日本の風景として、DDTを噴霧される復員軍人や浮浪児の姿こそは、当時の記録フィルムにも残されている戦後史の代表的なエピソードであるが、あのDDTの起源が、米国による日本からの輸入の途絶えた蚊取り線香の代替製品開発にあったことまでは、これまでに読んだ記憶はない(ただし、最近は忘却力が向上しているので、忘れただけかも知れないのだが)。

 いずれにしても「殺虫効果」の発見が1939年、つまりドイツ(そしてソ連)がポーランドに侵攻し、第二次大戦が始まった年なのだ。大日本帝國の対米英開戦は1941年だが、その直前に「合成化合物」の「殺虫効果」が大戦の中立国となるスイスで発見されていたことが、戦時下の米国でのDDTの製品化につながったわけで、なんともなタイミングであったわけだ。もちろん、それを可能にしたのは、米国の科学技術力であり、米国の工業力であり、つまり米国の国力であった。戦時下に、殺虫剤の開発に資本と人員を投下し、その大量生産を実現する能力である。

 そして、そのDDT(展示品の缶のひとつには確かに「ディーディーティー」と表面にカナが振られていたが、当時の語感―「ディズニー」が「デズニー」であった時代である―からは「デーデーテー」という訓みでの流通をイメージしておくべきか?)が、敗戦後の日本から蚤虱を追放したのだから、これまたなんとも皮肉な話である。

 

 

 

…というのは、実は本日、ムサビ(武蔵野美術大学)の美術館で現在開催中(10月8日まで)の「くらしの造形 19  災厄防除-まもる姿・ふせぐ形-」展を観に行って、個人的にもっとも印象的だった話題なのだが、もちろん他の展示品もそれぞれに興味深い。

 会場内は、「災厄・疫病を防ぐ」、「火災を防ぐ」、「日射・風雨を避ける」、「盗難を避ける」、「鳥獣害を避ける」、「虫害を避ける」と題されたコーナーに分けられており、かつての日本の伝統的な社会が何を恐れ、どのように対処していたのかの実際を民俗資料を通して見渡そうとするもので、当時の様々な用具と共に信仰的側面にも配慮しながらの展示構成となっている。

 「火災を防ぐ」のコーナーの中心にある、桑田三千雄氏のコレクションだという「火消刺子半纏」なんか、実に見事なものだ。火消装束の内側が、錦絵の図柄で染め上げられているのだ。なんとも粋の極み!

 

 

 

 

 

 

 で、ここから先は、展示の話ではまったくないが、「蚊」にまつわる話の続きではある。

 たまたま別のところで、木製の機体で有名な第二次大戦中のイギリスの高速軍用機「モスキート」(つまり英語で「蚊」と名付けられた空軍機)が話題となったのであった。このモスキートは爆撃機として開発されたのだが、機体を木製とすること(註:1)による重量軽減化の結果として得られた高速性能は、敵国ドイツの迎撃用戦闘機を上回るものとなったのである。当時は機体の全金属化の達成度こそが最新鋭機である証であったのに対し、戦時に貴重な金属資源の使用を抑えると同時に、既存の木工家具工場の技術を有効利用し、しかもドイツ戦闘機に追従不能な高速性能を確保するという成果を得たのだ(その高速性能は、本来は爆撃機として開発されたモスキートに、戦闘機型や偵察機型を派生させてもいるのである)。

 で、あらためて『ウィキペディア』なんかを見ていたら、夜間戦闘機型のモスキートのエースであったジョン・カニンガム(「猫目」として知られる)の名が出てくる。このカニンガムのエピソードを『ウィキペディア』の「ジョン・カニンガム」の項から引いて、今夜のオマケとしたい。

 

レーダー搭載の夜間戦闘型デ・ハビランド モスキートに乗り、第二次世界大戦でドイツ空軍との空戦で活躍した。 当時のイギリス情報部の宣伝により猫目のカニンガム(Cat's Eyes Cunningham)と呼ばれていたが、彼自身は酷い猫嫌いであり、このニックネームを嫌がっていた。

当時のイギリスでは、夜間戦闘の戦果がレーダーによるものであることを隠蔽するために、夜間迎撃部隊のパイロットは優れた夜間視力を得るために毎日ニンジンを食べていたと宣伝した。 この話は現在でも一部のニンジンに含まれるアントシアニンやカロテノイドが目に良いことの根拠として語られているが、イギリス情報部による全く根拠の無い捏造話である。 しかし、当時のドイツ軍はこの話を信じていた。

 

…という話(個人的には、猫嫌いの猫目のエースにウケてしまったのだけど)なんだそうだ。イギリス情報部、恐るべし。ドイツは蚊(モスキート)に悩まされ、イギリス情報部に騙されたのであった。

 嘘つきのイギリス軍情報部(軍の情報部に正直さを期待することは妥当ではないにしても)と、上空をわがもの顔に(まさに蚊のように)飛び回るモスキートを前にして、ドイツ軍に蚊取り線香の用意はないし、DDTもなかった(高速性能でモスキートを上回るジェット戦闘機の開発投入の事実はあるが、既に悪化した戦況の前では手遅れであった)のである。

 もっとも、ドイツ人は、合成化合物による殺虫剤の開発・製品化の方には成功し、それがユダヤ人の大量殺害に採用されたのも同時代のエピソードではある。

 

 

 一方で、対ドイツ戦では活躍した英空軍の「モスキート」も、大日本帝國を相手とした東南アジアの戦場では、その高温多湿な気候が合板材の弱点となり、活躍の機会は少なかったとも言われている。東南アジアの戦場で大日本帝國陸海軍が悩まされたのは、マラリヤを媒介するホンモノの「蚊」の方であった。その大日本帝國には「蚊取り線香」という優秀な対蚊兵器(?)が存在したが、あの戦争での日本の最大の弱点は補給であり、前線に十分な「蚊取り線香」を供給する能力もなかったものと思われる。もちろん、合成化合物による殺虫剤の開発・大量生産など、国力の及ぶところではなかった。

 

 

 

【註:1】
 先日、古書市で見つけて思わず買ってしまった(1050円也)『航空朝日』の昭和19年5月号には、立川飛行機技師中川守之氏による「撃墜『モスキート』を観る」と題された記事があり、

 主翼上皮、樺7・5ミリ合板(外側)、5・0ミリ合板(内側)、縦通材はスプルース、主翼桁は笠材スプルース、側板は樺合板、小骨はスプルースで、合板はいづれも樹脂接着合板であつた。ボルト締附部には樺の強化木、比重1・2程度のものをライナーとして使用してゐる。胴体の殻は外皮スプルース三枚合わせ、樹脂接着合板でバルサ心材を挟んでゐる。
 胴体、主翼、尾翼の表面を木綿羽布で被覆し、硝酸系繊維素の塗物をもって平滑仕上げしてゐる。
 木部の結合として樹脂接着剤の使用は見当たらず、総てカゼインを使用してゐたのは意外である。
 翼、胴体内部の防湿塗料は亜鉛華を含んだ繊維素塗料をもつてし、その他の処置は講じてない。
 右の主要材料中スプルース、樺等はアメリカものを使用してゐることは注意を要する。

…と、「使用材料」の項にレポートされている(原文の漢字は旧字体)。

 「モスキート」の木製の機体の実際は、

  スプルースと樺合板で心材がバルサ

…だった、ということらしい。そんな機体が、ドイツ軍にとっての「災厄防除」の課題のひとつだったわけである。 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/09/08 22:31 → http://www.freeml.com/bl/316274/170724/

 

 

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2011年8月14日 (日)

1961年8月13日(ベルリンにおける公衆衛生学的処置としての「壁」)

 

 1961年8月13日、東西ベルリンの間に壁が築かれた。

 それから50年が過ぎたわけだ。

 

 

 『ウィキペディア』を引用すれば、

 

1961年8月13日0時、東ドイツ政府は東西ベルリン間68の道すべてを閉鎖し、有刺鉄線による最初の「壁」の建設を開始した。6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。

東ドイツは当時、この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張し、対ファシスト防壁 (antifassistischer Schutzwall) とも呼んでいた。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。壁は、後に数度作り変えられ、1975年に完成した最終期のものはコンクリートでできていた。壁の総延長は155kmに達した。

 

…と要約される出来事であった。

 

 ベルリンの壁の特異性については、これまでも度々取上げて来た(註:1)が、伝統的なヨーロッパの都市の城壁が外敵の侵入への防護を目的として築かれてきたのに対し、この『ウィキペディア』記事にあるように、1961年に築かれた「ベルリンの壁」は、

  実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった

…という事実に、そのユニークさが見出される。外敵の侵入(流入)に対する防護ではなく、東ドイツ国民の国外脱出(流出)の阻止を目的として築かれた「壁」なのであった。いわば、国家が自らをゲットーとして位置付けた瞬間である。

 

 その背後には、住民にとって共産主義者の支配が、資本主義者の支配より魅力的ではなかったという現実がある。当時の東ドイツの共産主義者達は、魅力ある共産主義社会の建設を目指すよりも、住民を共産主義社会に閉じ込める方が手っ取り早いと判断したのであろう。ちなみに、1961年当時ベルリンの壁の建設を指揮したのは、そのベルリンの壁が崩壊する1989年に最高指導者(国家評議会議長にして、ドイツ社会主義労働者党書記長)の地位にあったホーネッカーであった。『ウィキペディア』の「エーリッヒ・ホーネッカー」の項には、

  ホーネッカーは中央委員会の国防担当委員として1961年にベルリンの壁の建設を担当した。

…と記されている。

 

 

 

 東ドイツ(ドイツ民主共和国)の国民からすれば、ベルリンの壁に代表される東西ドイツ間の「壁」は、国境線内に国民を閉じ込めるためのものであった。彼らは、実際、閉じ込められたと感じ、壁の外への脱出を夢見ることになる。ある者は成功し、ある者はドイツ民主共和国国境警備隊員の銃弾に斃れることとなった。

 

 しかし、視点を移動させ、ベルリン(特に西ベルリン)に注目すると、東ドイツ国境内に西ベルリン市民を閉じ込めたものとして「壁」を位置付けることも出来る。西ベルリンとは、東独国境線内に存在する資本主義の拠点なのであり、「壁」は(西ベルリン市民をも含む)資本主義的世界を共産主義世界から隔離し閉じ込めるためのものとして位置付けることも可能なのである。

 つまり、こちらも一種のゲットーとして考えることも出来る。

 

 ゲットーとは、ここでも『ウィキペディア』を活用すれば、

  本来は、中世ヨーロッパにおいてユダヤ人が法律によって居住を強制された市街地区を指す言葉であった。

…とあるように、かつてのヨーロッパのユダヤ人隔離地区の総称であった。『ウィキペディア』を読み続けると、

 

13世紀後半以降、まずドイツでユダヤ人の強制隔離が実施されるようになった。こうしてできたユダヤ人の強制隔離居住区は、周囲が壁で囲まれ、出入りが制限され、また黄色の印などユダヤ人であることを示すマークを付けさせられるなどの様々な制限が課せられていた。

14世紀のペスト大流行でペストを持ち込んだとされたユダヤ人への迫害が強まり、ヨーロッパ中でユダヤ人の隔離政策が取られるようになっていき、ユダヤ人隔離居住区は教会から離れた場所に設けられることが一般化した。

フランス革命後、18世紀末以降西ヨーロッパ諸国では、フランス革命ならびに当時の自由主義運動を背にしたナポレオンがユダヤ人解放とともに各地のゲットーを解放した。1870年ごろにはローマのゲットーが、ヨーロッパに残る、法文による最後のゲットーとなっていた。しかし、ナポレオン失脚後、再びユダヤ人の生活には制限がかけられるようになり、アメリカへ移住するユダヤ人が大量に生まれることになった。また、他方でロシアや東欧諸国のゲットーは20世紀にいたるまで存続した。

 

…と、ヨーロッパ史の一部として描かれているユダヤ人の「ゲットー」の姿を見出すことが出来る。19世紀から20世紀初頭にはゲットーからのユダヤ人の解放と、それぞれの国民国家への同化の歴史も存在する。しかし一方で、ナチスに収斂する新たな反ユダヤ主義の流れが始まるのもその時代であった。

 進化論と遺伝学を背景にした優生学的人種差別主義の台頭である。そこでは、ユダヤ人は人種的に(あるいは生物学的に)劣等なものとされ、遺伝的隔離の対象とされる。同時にこの優生学的人種差別は、公衆衛生学的視線とも合体し、感染症における病原菌のイメージがユダヤ人に重ねられることになる。

 本来の優生学的(つまり遺伝学的)視点からは、劣等さの「感染源」としてのユダヤ人というイメージは発生し得ないが、近代とは感染症の病因としての病原菌の発見の時代でもあり、近代科学的知識の大衆化は、優生学的視点と感染症の病理学を合体させ、ユダヤ人は二重の意味で隔離されるべき存在として取扱われていくのである。アーリア人種の清潔な世界からのユダヤ人の排除は、遺伝的隔離としてだけではなく、伝染病患者の隔離と病原菌の消毒という公衆衛生学的イメージの下でも進行することになってしまう。

 やがてヨーロッパはナチスドイツの占領下となり、ポーランドにはゲットーが復活し、各国のユダヤ人も強制収容所に移送隔離され、絶滅施設も稼動し始める。優生学と公衆衛生学の合体したところに、害虫駆除用ガスによるユダヤ人殺害と焼却による死体処理システム(ガス室と焼却炉!)が完成するのである。

 

 

 

 さて、問題は東独である。共産主義者からすれば、資本主義は伝染性の強い悪疫であり、資本主義の感染からの防衛は、国家の衛生上の問題としてイメージされることになる。

 その意味で、西ベルリンを囲む壁は、悪疫の感染源から東ドイツ国民を保護する防壁としてイメージされ得るものとなる。ナチスとユダヤ人の関係が、東独の共産主義者と西ベルリン市民の関係として再現されているわけである。

 

 

 ゲットーとして西ベルリンを考えることで、ナチスから東独の共産主義者に継承された、20世紀に大衆化された近代的科学知識の姿の一端を垣間見ることが出来るようにも思われる。

 

 

 

(註:1)
 たとえば、「壁を築くことの意味」(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-5ea5.html)を参照。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/08/13 22:29 → http://www.freeml.com/bl/316274/169469/

 

 

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2011年7月27日 (水)

故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。

 

 

其嶋天降坐而。見立天之御柱。見立八尋殿。於是問其妹伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。爾伊邪那岐命詔。我身者。成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。爲生成國土奈何【訓生云宇牟下效此】伊邪那美命答曰然善。爾伊邪那岐命。詔然者吾與汝行迴逢是天之御柱而。爲美斗能麻具波比【此七字以音】如此云期。乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。約竟以迴時。伊邪那美命先言阿那迩夜志愛(上)袁登古袁【此十字以音下效此】後伊邪那岐命言阿那迩夜志愛(上)袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰。女人先言不良。雖然久美度迩【此四字以音】興而。生子水蛭子。此子者入葦船而流去。

…つまり、『古事記』の本文である。

其の島に天降りなさつて、自ら天の御柱を立て、八尋殿をお建てになつた。そこで男神が伊邪那美命に、「貴方の體はどんなになつてゐますか。」とお問ひになると、「私の體は出来上つて、而も足りない所が一所あります。」とお答へになつた。伊邪那岐命が仰せられるには、「私の體は出来上つて、而も餘つてゐる所が一所ある。そこで此の我が身の餘つてゐる所を、御身の足りない所に足して、國土を生まうと思ふが如何であらう。」と仰せられると、伊邪那美命は「それがよろしからう。」とお答へになつた。そこで伊邪那岐命が「それでは二人で此の天の御柱を廻つて、夫婦の道を始めよう。」と仰せられた。かやうに約束をして、即ち「御身は右の方から廻り給へ、自分は左の方から廻り逢はう。」と仰せられてお廻りになる時、伊邪那岐命が先づ、「ああほんに好き殿下よ。」と仰せられ次に伊邪那岐命が「ああほんに好い少女よ。」と仰せられた。各かやうに言つてしまつた後に、伊邪那岐命は「女が先立つて聲をかけたからよろしくない。」と仰せられた。然し夫婦の契をお籠めになつて、水蛭子をお生みになつた。この御子は葦船に入れて流し捨て給うた。

…というのは、昭和七年八月廿五日印刷 昭和七年八月三十日発行 昭和一八年七月二十日七版(一〇〇〇〇部)の『古事記』の問題の(?)部分の現代語(昭和七年当時の)訳である。

 文学博士 次田潤 校訂 解読による、文部省蔵版の〔日本思想叢書第五編〕(大日本教化図書株式会社発行)に収録されているものだ。

 

 現代の「現代語訳」では、

 ふとイザナキはイザナミにたずねました

 イザナキ
   おいイザナミ
   お前の体はどうなっている?

 イザナミ
   イザナキさま?
   えーとー
   私の体はだいたい良くできていますが
   なんだか足りない穴があるようです

 イザナキ
   穴が!?
   なんと私の体には
   ちょうど余って
   飛び出している部分があるんだけど

 イザナミ
   なんてことでしょう!!

 イザナキ
   どうだろう
   私の余っている部分と
   お前の足りない部分で
   うまいことやったら
   国が造れたりしないだろうか

 イザナミ
   そうね!
   そうかもしれませんわね

     五月女ケイ子 『五月女ケイコの レッツ!!古事記』 (講談社 2008)

…となっている箇所である(少し足りないが)。

 

 昭和七年と言えば、満洲國建国の年である。

 1932年と2008年の「現代語」の隔たりを楽しむことにしよう。

 

 ふとイザナキはイザナミにたずねました

 イザナキ
   おいイザナミ
   お前の体はどうなっている?

   → 貴方の體はどんなになつてゐますか。

 イザナミ
   イザナキさま?
   えーとー
   私の体はだいたい良くできていますが
   なんだか足りない穴があるようです

   → 私の體は出来上つて、而も足りない所が一所あります。

 イザナキ
   穴が!?
   なんと私の体には
   ちょうど余って
   飛び出している部分があるんだけど

   → 私の體は出来上つて、而も餘つてゐる所が一所ある。

 イザナミ
   なんてことでしょう!!

 イザナキ
   どうだろう
   私の余っている部分と
   お前の足りない部分で
   うまいことやったら
   国が造れたりしないだろうか

   → そこで此の我が身の餘つてゐる所を、御身の足りない所に足して、國土を生まうと思ふが如何であらう。

 イザナミ
   そうね!
   そうかもしれませんわね

   → それがよろしからう。

 

 「夫婦の契をお籠めになつて」という言い回しに、昭和七年文部省蔵版〔日本思想叢書第五編〕的な、「性交」をめぐる表現を見出してしまうわけだ。

 

 

 このエピソードは、日本列島の起源と天皇家の起源が、イザナキとイザナミという神の存在を通して、最初に重ね合わせて描かれたという意味でも、『古事記』の最も重要なシーンのひとつだと思われるが、それが男女神による生々しいセックスシーンであるところは興味深い。そのセックスシーンとしての生々しさは、古代日本人の心性を考える上でも、注目に値する(『旧約聖書』の「創世記」に比べてみて欲しい)と思われる。

 本居宣長は、そんな『古事記』を、「日本」を語る際の中心に据えてしまったのであった。

 結果として、ゴリゴリに頭の固そうな文部省お墨付きの本でも、問題のシーンを避けるわけにいかなくなってしまったわけである。そこで、文部省お墨付きの(当時の)「現代語訳」に興味を持ったのだったが、思いのほか誠実に訳しており、好感を抱いてしまった。

 そんなわけで、日本史の始原のセックスシーンの、昭和七年の文部省お墨付きの「現代語訳」を、あらためてここでご紹介した次第である。これを機会に、古代日本人の性意識、大日本帝國臣民の性意識、そして現代日本人の性意識とその背後の心性の変遷(あるいは一貫性)にまで思いを馳せてみてはいかがだろうか?

 

 

 

『古事記』原文のソース

 → http://homepage1.nifty.com/o-mino/page202.html

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2010/06/21 22:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/140959/

 

 

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