2012年5月27日 (日)

宮澤賢治のミクロな幸福

 

 

  宮澤賢治は幸福であったのか?

 

…という問いを前にして考えることは、少なくとも賢治は「ミクロな幸福」というものを知り尽くしていた人物であろう、ということである。

 

 

 鉱物の美しい結晶を見ているだけで、彼は幸福であった。鉱物の結晶構造に美しさを見出すことに限らず、彼は自然というものの示す「美」に敏感であり、その「美」を前にして彼は幸福であったはずである。鉱物の世界や星の世界、実験室内での化学反応の過程に彼が見出した「美」の感覚は、彼の作品中でも繰り返し示されているところだ。

 花巻農学校教師として、教え子たちに、まさに自然の美の多様な魅力を伝える努力を続けていたことは、生徒の回想からも明らかである。彼は、彼が感じた幸福感を生徒にも共有して欲しかったのであろう。

 彼にとって幸福は遠くに求めるものではなく、現に目の前に、自然の美として存在していたのではないか(註:1)?

 

 

 彼の不幸は、彼が資産家の息子であったという一事に尽きる。

 それも家業である質屋は、進行する農村社会の疲弊を利益の源泉としていたのである(註:2)。

 しかし、その家業のもたらす資産があるからこそ、彼は盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)へと進学し、自然科学的素養を手にし、単に自然の造形の外形的美しさの嘆賞にとどまらない、化学反応の美しさやその原理までをも含めた「自然」という現実についての広い視野を獲得し得たのである。それは彼が自然との交流の中で抱いた生来の幸福感を、より深化させることにも役立ったであろう。

 また、その学歴が、花巻農学校教師としての彼の姿に結実したわけであるし、農民への肥料設計を可能にしたのも学業の成果であった。その背後には、地方資産家としての彼の実家が存在するのである。

 羅須地人協会時代には、レコードコンサートの主催者ともなったが、それを可能にしたレコード蒐集趣味もまた、地方資産家の息子なればこその話である。

 

 妹トシの死の悲しみの深さを綴ったものとして有名な「永訣の朝」にしても、そこにあるのはあくまでも愛する家族との死別の悲しみなのであって、貧困の中の死の悲惨ではないのである。トシの発病は東京の日本女子大に在学中のことであった。そこにあるのは地方資産家の娘としてのトシの境遇である。

 

 賢治はトシの看病を含め、東京での生活経験もある、レコード蒐集趣味のある音楽好きのモダンボーイであったのだ。彼は都会生活の楽しみを知らない貧しい地方人ではないのである。

 音楽のもたらす幸福感を知ればこそ、羅須地人協会での農民向けのレコードコンサートも存在するのだということ。花巻農学校教師として、生徒に自然に内在する美を見出すことがもたらす幸福感を伝えようとしたように、西洋音楽のもたらす幸福感を農民たちと共有しようとしたのである。

 どちらも自分の知った「ミクロな幸福」を、周囲の人間にも伝え、共有することへの願望に支えられた行為であろう(註:3)。

 

 

 彼の初めから持っていた資質(自然への感受性に支えられた科学的かつ文学的感性)を抜きに、彼の生涯を語ることは出来ないが、その資質を育てたのは実家の資産であった。実家の資産あればこそのモダンボーイであり自然科学者であり教育者なのである(註:4)。しかし、その実家の資産が、資産家の息子という出自が、彼の不幸の原点ともなっていたわけである。

 

 

 

【註:1】
 賢治の場合、鉱物の結晶構造に見出すミクロな幸福が、法華経的世界観を介してマクロな幸福感につながっていた可能性もある。

【註:2】
 「よだかの星」の基調にあるのは、農村社会の搾取者としての自身の姿である。
 どんな家に生まれるかを人は選択出来ない。
 それが人生の出発点にある人間の条件なのである。

【註:3】
 自身が感じた「ミクロな幸福」を伝え分かち合おうとする賢治の姿。
 そこには、あの、

   幸福感の中に生きる者の存在が、隣人をも幸福にしていく

  …ということもまた真実なのではないだろうか?

   ミクロの幸福が、ミクロの幸福を呼び覚ます

  …ということはあり得ないことなのだろうか?

…として提示した問いへの賢治自身による答えがある、ようにも見える。

【註:4】
 モダンボーイとしての賢治像が抜けてしまうと、賢治は近寄り難い聖人となってしまうように思われるので、「ミクロな幸福」を知るモダンボーイとしての賢治像を記してみたわけである。

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/08 23:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/188473/

 

 

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2012年5月24日 (木)

北上川の百万疋の鼠

 

 最近はあまり読み返す機会もなかったが、宮澤賢治の愛読者として生きてきたことは確かだと思う。

 

 たまたま、宮澤賢治は幸福であったのか? という話題に出会って思い出したのが『春と修羅 第二集』の「序」であった(註:1)。

 

 

 この一巻は
 わたくしが岩手県花巻の
 農学校につとめて居りました四年のうちの
 終りの二年の手記から集めたものでございます
 この四ヶ年はわたくしにとって
 じつに愉快な明るいものでありました
 先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが
 近代文明の勃興以来
 或ひは多少ペテンもあったではありませうが
 とにかく巨きな効果を示し
 絶えざる努力と結束で
 獲得しましたその結果
 わたくしは毎日わづか二時間乃至四時間のあかるい授業と
 二時間ぐらゐの軽い実習をもって
 わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居りまして
 近距離の汽車にも自由に乗れ
 ゴム靴や荒い縞のシャツなども可成に自由に選択し
 すきな子供らにはごちさうもやれる
 さういふ安固な待遇を得て居りました
 しかしながらそのうちに
 わたくしはだんだんそれになれて
 みんながもってゐる着物の枚数や
 毎食とれる蛋白質の量などを多少夥剰に計算したかの嫌ひがあります
 そこでたゞいまこのぼろぼろに戻って見れば
 いさゝか湯漬けのオペラ役者の気もしまするが
 またなかなかになつかしいので
 まづは友人藤原嘉藤治
 菊地武雄などの勧めるまゝに
 この一巻をもいちどみなさまにお目通りまで捧げます
 たしかに捧げはしまするが
 今度もたぶんこの出版のお方は
 多分のご損をなさるだらうと思ひます
 そこでまことにぶしつけながら
 わたくしの敬愛するパトロン諸氏は
 手紙や雑誌をお送りくだされたり
 何かにいろいろお書きくださることは
 気取ったやうではございますが
 何かと願ひさげいたしたいと存じます
 わたくしはどこまでも孤独を愛し
 熱く湿った感情を嫌ひますので
 もし万一にもわたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は
 同人になれと云ったり
 原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり
 わたくしをくるしませぬやうおねがひしたいと存じます
 けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
 自分の畑も耕せば
 冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
 おれたちは大いにやらう約束しやうなどといふことよりは
 も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
 さう申したとて別に何でもありませぬ
 北上川が一ぺん汎濫しますると
 百万疋の鼠が死ぬのでございますが
 その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を
 生きているうちは毎日いたして居りまするのでございます

 

 

 

 賢治が花巻農学校の教師を辞めたのは1926年のことであった。その年に、実家である宮澤家の別宅の建物を利用して、「羅須地人協会」を設立している。その際に書いたのが「農民芸術概論綱要」である。

 

 

農民芸術概論綱要

 序論

  ……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

   おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
   もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
   われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
   近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
   世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
   自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
   この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
   新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
   正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
   われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

 農民芸術の興隆

  ……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……

   曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
   そこには芸術も宗教もあった
   いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
   宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
   芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
   いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
   われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
   いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
   芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
   ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
   都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

 農民芸術の本質

  ……何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか……

   もとより農民芸術も美を本質とするであらう
   われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する
   「美」の語さへ滅するまでに それは果なく拡がるであらう
   岐路と邪路とをわれらは警めねばならぬ
   農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である
   そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
   そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
   そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
   巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へる
   そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする
   かくてわれらの芸術は新興文化の基礎である

 農民芸術の分野

  ……どんな工合にそれが分類され得るか……

   声に曲調節奏あれば声楽をなし 音が然れば器楽をなす
   語まことの表現あれば散文をなし 節奏あれば詩歌となる
   行動まことの表情あれば演劇をなし 節奏あれば舞踊となる
   光象写機に表現すれば静と動との 芸術写真をつくる
   光象手描を成ずれば絵画を作り 塑材によれば彫刻となる
   複合により劇と歌劇と 有声活動写真をつくる
   準志は多く香味と触を伴へり
   声語準志に基けば 演説 論文 教説をなす
   光象生活準志によりて 建築及衣服をなす
   光象各異の準志によりて 諸多の工芸美術をつくる
   光象生産準志に合し 園芸営林土地設計を産む
   香味光触生活準志に表現あれば 料理と生産とを生ず
   行動準志と結合すれば 労働競技体操となる

 農民芸術の(諸)主義

  ……それらのなかにどんな主張が可能であるか……

   芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
   人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
   芸術としての人生は老年期中に完成する
   その遷移にはその深さと個性が関係する
   リアリズムとロマンティシズムは個性に関して併存する
   形式主義は正態により標題主義は続感度による
   四次感覚は静芸術に流動を容る
   神秘主義は絶えず新たに起るであらう
   表現法のいかなる主張も個性の限り可能である

 農民芸術の製作

  ……いかに着手しいかに進んで行ったらいいか……

   世界に対する大なる希願をまづ起せ
   強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ
   感受の後に模倣理想化冷く鋭き解析と熱あり力ある綜合と
   諸作無意識中に潜入するほど美的の深と創造力はかはる
   機により興会し胚胎すれば製作心象中にあり
   練意了って表現し 定案成れば完成せらる
   無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
   髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ
   なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ
   風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

 農民芸術の産者

  ……われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか……

   職業芸術家は一度亡びねばならぬ
   誰人もみな芸術家たる感受をなせ
   個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
   然もめいめいそのときどきの芸術家である
   創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
   そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
   創作止めば彼はふたたび土に起つ
   ここには多くの解放された天才がある
   個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる

 農民芸術の批評

  ……正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか……

   批評は当然社会意識以上に於てなさねばならぬ
   誤まれる批評は自らの内芸術で他の外芸術を律するに因る
   産者は不断に内的批評を有たねばならぬ
   批評の立場に破壊的創造的及観照的の三がある
   破壊的批評は産者を奮ひ起たしめる
   創造的批評は産者を暗示し指導する
   創造的批評家には産者に均しい資格が要る
   観照的批評は完成された芸術に対して行はれる
   批評に対する産者は同じく社会意識以上を以て応へねばならぬ
   斯ても生ずる争論ならばそは新なる建設に至る

 農民芸術の綜合

  ……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……

   まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
   しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
   ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
   青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て
   『つめくさ灯ともす宵のひろば たがひのラルゴをうたひかはし
   雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ』
   詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
   われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
   巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
   おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

 結論

 ……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……

   われらの前途は輝きながら嶮峻である
   嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
   詩人は苦痛をも享楽する
   永久の未完成これ完成である

   理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる
   畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである

 

 

 

 花巻農学校教師時代の詩をまとめたのが『春と修羅 第二集』であるが、出版の計画が持ち上がったのは後の話(もっとも生前には出版は実現しなかったが)で、先に掲げた「序」はその際に書かれたものであるらしい。つまり、順序としては「農民芸術概論綱要」が先で『春と修羅 第二集』の「序」は後に書かれたものということになる。

 

 

 「序」が書かれた時点では、「羅須地人協会」の活動は停止されていた(農民運動と目されて警察の聴取を受けている)。

 花巻農学校教師の職とはつまりサラリーマン生活であり、そこには農民生活との乖離がある。

 「羅須地人協会」の活動もまた、実家の存在(資産家であった)に依存していた側面がある。

 教師としてのサラリーマン生活は、それでも実家からの経済的自立を意味してもいたであろう。

 ここに掲げた二つの賢治の文章には、なかなかに複雑な成立事情が読み取れそうである。

 

 

 しかし、少なくとも『春と修羅 第二集』の「序」を読む限り、そこに「不幸な」と形容されるべき人物の姿は見出せないように思われる。

 

 教師時代の自身の姿を相対化し、羅須地人協会時代の自身の姿をも相対化した地点で書かれているように感じられるが、そこに自身に対する皮肉な反省的視線を持ちながらも、次のステージへ向けて再出発しようとする賢治の姿が残されているように、私には見える(註:2)。

 

 

 

【註:1】
 たまたまミクロとマクロという話題となり、そこからミクロ経済学とマクロ経済学に話が及んだ末に、

  マクロな世界に対して無力に感じられるミクロな私

…という問題をどのように考えたらよいのか?という問いが生まれ、「農民芸術概論綱要」の一節を思い出したのが話の始まりであった。
 この、「農民芸術概論綱要」にある、

  世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

…という言葉の持つ厳しい美しさを認めつつも、論理としてそれが、

  絶対的なマクロの幸福の確保がなければ、
  個人としてのミクロの幸福はあり得ない

…となってしまうことに問題はないのか? についても考えてみようとすると、そこに生まれるのは、

  幸福感を持てないミクロとしての自分が、
  マクロとしての世界を幸福にすることなど出来るのだろうか?

  幸福感の中に生きる者の存在が、隣人をも幸福にしていく

 …ということもまた真実なのではないだろうか?

  ミクロの幸福が、ミクロの幸福を呼び覚ます

 …ということはあり得ないことなのだろうか?

…という問いである。

 その問いをめぐって議論をする中で、新たに問題の、

  宮澤賢治は幸福であったのか?

…という問いが発せられ、そこで、『春と修羅 第二集』の「序」を思い出したのであった。

【註:2】

  まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
  しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
     (農民芸術概論綱要)

  わたくしはどこまでも孤独を愛し
  熱く湿った感情を嫌ひますので
  もし万一にもわたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は
  同人になれと云ったり
  原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり
  わたくしをくるしませぬやうおねがひしたいと存じます
  けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
  自分の畑も耕せば
  冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
  おれたちは大いにやらう約束しやうなどといふことよりは
  も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
  さう申したとて別に何でもありませぬ
     (春と修羅 第二集 序)

 この両者を読み併せる時、そこには一足飛びにマクロな大言壮語的地点に向かおうとするのではなく、ミクロとしての自分自身を起点とすることへの賢治の決意のようなものが見えて来るように思われる。

 

 

 
 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/07 23:07 → http://www.freeml.com/bl/316274/188384/

 

 

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2012年4月 1日 (日)

『蘭医雑稿』にある「でべでべ」と蘭印の「デベデベ」

 

 

 斎藤智久の『蘭学夜話』(学而書房 昭和26年)には、多貫泥舟斎の著作『蘭医雑稿』(寛政年間)中にある、当時のジャワの「でべでべ」に関する記述が紹介されている。『蘭医雑稿』では「流行り病」という扱いとなっているが、むしろ風土病的なものであったらしい。

 泥舟斎の親しくしていたオランダ商館の医師から、現地語で「デベデベ」と呼ばれた病について聞いたということであるが、オランダ商館の医師自身も伝聞として語っているので、実態はもうひとつ把握し難い。

 

 『蘭学夜話』の刊行は戦後のことであるが、収録された文章の多くは戦前に発表されたものであり、この泥舟斎の『蘭医雑稿』に関する一文も、昭和13年の「蘭学雑誌」に随筆として掲載されたものである。

 

 

 斎藤智久の戦中から戦後の日々が記された『智久日録』(幽玄閣 昭和31年)には、「デベデベ」に関すると思われる、より詳細な記述が見出される。『智久日録』は、斎藤智久が群馬県の奥野村にあった陸軍冬期戦研究所の世話になっていた日々の記録として位置付けられるが、昭和20年になって研究所所員となった多貫中尉との交流の中で「デベデベ」が話題となるのだ。

 この多貫中尉は、多貫泥舟斎の血縁に当たる人物で、蘭印作戦終了と共にジャワの陸軍病院に軍医として勤務していたが、その際に風土病としての「デベデベ」の研究もしていたらしい。

 

 『智久日録』の記述からは、「デベデベ」研究の動機が泥舟斎と関連したものであったのかどうかは判然としないが、『日録』中のエピソードからは、多貫中尉が泥舟斎の『蘭医雑稿』にある「でべでべ」について知っていたことは確からしい。

 

 

 多貫中尉の語るところによれば、風土病としての「デベデベ」は、まず発話における意味不明瞭を兆候とし、やがて高熱を発するが、特に投薬治療を要することなく安静状態にしさえすれば平熱に戻る。しかし、日常生活への復帰は再度の発熱に至り、その繰り返しとなるのだという。多貫中尉による「研究」は病因の解明に至る前に、当人のマラリア罹患により中断され、中尉自身も蘭印から本土へ後送されることになった。療養生活の後に、陸軍冬期戦研究所長清水七郎大佐に招聘され、冬期戦研究所勤務となったようである。当時の悪化する食糧事情の中で、冬期戦研究所勤務は、多貫中尉自身にとっても嬉しいものであっただろう。

 

 斎藤智久にとっても、泥舟斎の伝えた「でべでべ」にあらためて出会う機会を提供するものとなったわけで、戦後の斎藤による『蘭医雑稿』への注釈作業の成果の多くには、陸軍冬期戦研究所での多貫中尉との会話が反映されているものと思われる。

 日本軍による蘭印の占領と、現地での多貫中尉のマラリア罹患は、少なくとも斎藤智久には嬉しい果実をもたらしたわけである。

 

 晩年の斎藤自身も、研究に身が入らなくなると、「デベデベ」と称し昼間から寝ていたという話だ。「医者も薬も必要ない。寝てれば元気になるから」という斎藤の言葉が残されている。

 

 

 

          (恒例のエイプリルフール用のネタ記事でごさいます)

(ネット上の友人が高熱のために入院したが原因不明との診断。周囲の人間から「でべでべ病」ということにされたエピソードによる)

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/04/01 18:02 → http://www.freeml.com/bl/316274/185794/

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2012年3月 7日 (水)

プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)

 

 本日(2012年2月18日)は午前中に家を出て、

 

 東京大空襲・戦災資料センター 開館10周年記念特別展
 東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃
 会期:2012年2月18日(土)~4月8日(日)
 会場:東京大空襲・戦災資料センター2階会議室

 

…を目指して、まずは錦糸町まで。そこから東京駅まで行くバスに乗って「扇町二丁目」停留所で降りて徒歩十分。初日の今日は特に、

 

 オープニング講演会
 日時:2月18日(土)午後1時から4時(開場12時)
 会場:東京大空襲・戦災資料センター2階会議室
 講師:井上祐子(京都外国語大学非常勤講師)
     山辺昌彦(東京大空襲・戦災資料センター主任研究員・学芸員)
     小山亮(明治大学文学部専任助手)
 司会:石橋星志(明治大学大学院博士後期課程)

 

…ということになっていて、ギリギリの時間に到着。いろいろと興味深く話を聴く。

 

 

 

 この「東方社」というのは戦中の海外向けプロパガンダ誌として名高い『FRONT』の出版元で、原弘や多川精一のグラフィックデザインによる誌面のクオリティーの高さには、誰しも頭を下げざるを得ないだろう。

 その「東方社」のカメラマンたちが残したネガフィルムが、昨年になって東京大空襲・戦災資料センターに寄贈されたのだという。今回はその約17000枚(註:1)のうち、空襲下の東京を撮影したものが整理公開され、その紹介のための講演会が企画されたわけである。

 

 

 公開された650枚超(註:2)の写真群は、昭和19(1944)年11月24日に撮影された荏原の空襲後の情景から始まる。

 まさにその11月24日から、B-29による東京への空襲が開始されたわけだが、作戦上は市街地が目標とされていたわけではなく、中島飛行機武蔵野工場が本来の爆撃目標であった。ノルデン照準器を用いた高高度精密爆撃による軍需産業の破壊を目的としていたにもかかわらず、工場上空の天候不良(ノルデン照準器がその高性能を発揮しない)のために工場への投弾を果たせなかった機により、航路上の東京市街が投弾地点とされ、それがたまたま荏原区であったということのようである(つまり荏原は本来の爆撃目標であったわけではない)。

 それが初のB-29による東京空襲の背景であったが、以後、同様な経緯での東京の市街地への高高度爆撃が続き、翌年3月10日には低高度からの侵入による市街地無差別爆撃(いわゆる「東京大空襲」である)へと転換され、米軍戦略爆撃機による都市無差別爆撃の手法が確立されるに至る。

 

 東方社写真部撮影による昭和19年11月24日の空襲の写真は、まさにその最初の空襲による被害の視覚的記録なのである。

 

 

 研究成果報告書(註:3)にある小山亮氏作成の「東方社写真部撮影空襲被害関係写真リスト」によれば、「荏原区の民家」としてまとめられた関口満紀氏撮影の54枚の写真が、東方社写真部による11月24日の空襲の記録ということになる。

 小山氏による「概要」では、その54枚は「両手に空襲被害にあった物を持つ人物」(4点)、「荏原区/民家の空襲被害」(33点)、「荏原区/工場の空襲被害」(6点)、「荏原区/爆弾投下によってできた穴」(7点)、「荏原区/電柱の空襲被害」(1点)、「荏原区/燃えさしに集る軍人ら」(2点)、「荏原区/穴掘り作業・見守る軍人ら」(1点)として分類されている。

 ちなみに、当日の光景には日本写真公社国防写真隊によって撮影されたものがあり、既に東京大空襲戦災資料センターに収蔵されている。研究成果報告書(註:3)にある石橋星志氏作成の「日本写真公社 国防写真隊撮影写真リスト」によれば、深尾晃三、豊島正喜、久米茂、内山林之助各氏の撮影による40枚が、11月24日のものだ。ただし、こちらの撮影地は神田(日本写真公社所在地)であり、荏原の投弾地点を撮影したものではない。

 その意味で、今回発見された東方社写真部撮影による写真群は、荏原の現地で爆撃直後に撮影された貴重なものなのである。

 

 

 11月24日の空襲については、何よりも私の場合、山田風太郎の日記の記述(註:4)を思い浮かべるが、他にも当日の空襲に言及した日記は多い。ただ、山田風太郎が現場に立ち会った工員の体験談を直接聞き、それを記録として残したのに対し、私がこれまでに目を通したものは、より遠い場所で過ごしていた人物によるものであり、空襲が臨場感のない他人事にとどまっている印象を受ける。

 そのような意味で、つまり臨場感を伴った空襲体験の初の記録という意味で、山田風太郎の日記が光を放つわけである。

 しかし、逆に言えば、荏原を遠く離れれば同じ東京でもまったくの他人事として日記に書き記されているのだということであり、その構図を自覚することで、歴史上の証言記録の取り扱い方への繊細さを獲得することが出来るのだと思われる。山田風太郎の日記は確かに荏原の惨状の一端を伝えるが、そしてそのことは大きな価値を持つが、他の日記類の価値を低いものとして考えてはならないのである(註:5)。すべての日記が、11月24日の東京の姿としての事実を伝えているのである。東京内でも場所が異なれば経験は異なるということなのである。

 

 

 さて、そのことを確認した上で日本写真公社撮影の神田の情景を振り返れば、そこに残されているのは空襲の惨状そのものではない。神田に投弾はされていないのである。しかし写されているのは「空襲下の街路 神田神田橋電停付近 敵機上空通過当時の路上退避状況」であり、「負傷者 (高射砲不発弾による) 神田区司町1-10-2 小林外科医院」のような、空襲に伴う東京の神田の表情なのであり、それは実際のその日その時の神田の光景なのだ。

 そして、それに加えて今回発見された東方社写真部撮影写真により、その日の荏原の実際の状況の一端が我々の前に明らかになったわけである。そこには山田風太郎に自らの体験を語った工員たちが目にしていたであろう、空襲による負傷者の姿も死者の姿もない。しかし、東方社写真部の記録に死者が写し出されていないことを、空襲による死者がいなかったことを意味するものとして考えてはならないのである。

 

 

 

 陸軍参謀本部の対外宣伝出版物制作を業務とした東方社が、どのような経緯で空襲下の東京の記録写真を撮影したのかという問題から解明されないと、残された写真の性格(どこで何を撮影するのかに参謀本部の意向が介在していたと考える方が自然である)も明確にし難いところがある。そういったことを含めて、研究すべき課題は多いにしても、まず空襲記録としての価値の大きさは誰しも認めるものだろう。

 

 デザイナーや編集者の仕事となると、まさにプロパガンダ誌面としてのクオリティーの向上が目標となり、ある意味で「戦争協力」そのものになるわけだが、記録者としてのカメラマンの仕事には、別の側面が見出せるように思われる。

 もっとも、「戦争協力批判」というものは「敗戦」の事実がもたらすものであり、絶対化されるべき視点とするつもりはないが、しかし敗戦に至る戦争遂行の一端を彼らが積極的に担ったという事実から眼を逸らすこともしたくない。デザイナーや編集者が彼らの職業的能力の最高のものを、陸軍参謀本部の求めに応じ、つまり戦争に捧げることで果たそうとしたことも事実なのである。そして、その誌面のクオリティーの高さに、現在の我々も瞠目せざるを得ないのである。

 

 『FRONT』の誌面が伝えるのは、いわば「リッチな日本」であり「リッチな大東亜共栄圏」である。

 垢抜けたレイアウトに上質な紙に上質な印刷製本技術。そこに「リッチさ」が宿り、日本が、大東亜共栄圏が海外に売り込まれるのである。

 しかし、まさにそこに宣伝技術の粋が見出されるのであり、事情を知る者の目には戦時日本の実際の出版物との大きな落差が見出されてしまうのである。紙質が悪化し、ページ数が減少し、カラーページがなくなる。それが戦時日本の出版事情の現実だったのであり、その現実との落差に、『FRONT』誌面に反映されたかつての商業宣伝美術関係者の技術の粋が見出されるのである。

 そしてその背後に、つまり東方社の背後には、潤沢な資金と資材の供給(特配)元であった陸軍参謀本部がある。

 それが贅沢なプロパガンダ誌を支えた構造なのである。

 東方社に結集した才能と同様に、我々は、名取洋之助の下に集った日本工房関係者による当時の対外宣伝出版物のクオリティーにも敬意を払うことになるわけだが、彼らの職能の最高度の発揮の場が国策プロパガンダ制作の場以外に残されていなかったのが、「戦時」という状況なのでもあった。本来の彼らの活躍の場であった商業宣伝美術は、戦時下の日本には既に存在し得ないものとなっていたのである。「ぜいたくは敵だ!」というスローガンの下には、商業宣伝技術者に生きる場所はない(そのスローガンを考案したのも彼らなのではあったが)。

 

 そのような意味で、写真家(カメラマン)の位置は、グラフィックデザイナーや編集者のものとは異なった性格を帯びる。もちろん、商業広告写真を考えれば、そこに必要なのは現実をより魅力的なものとして見せる技術である。写真は必ずしもミモフタモナイ現実をそのまま記録するものではない。しかし、ミモフタモナイ現実を前にして、ミモフタモナイ現実をミモフタモナイ現実として記録することもまた、写真家(カメラマン)には可能なのである。

 

 残された17000枚の写真がどのような意図で撮影されたのかという問題はもちろん解明されねばならないが、しかし、そこに空襲下の東京のミモフタモナイ現実も、確かなものとして、既に彼らの手により記録されていたのである。

 

 

 

【註:1】
 この17000枚が、東方社により戦時に撮影された写真の全てということではなく、基本的にネガは戦後に撮影者に返却されており、撮影者に引き取られることなく現在まで残されていたものが、今回の発見資料なのだという。

【註:2】
 今回は空襲関連写真として656枚が公開されたが、そのうち67枚の撮影地は中国の桂林と香港であり、撮影地が東京及びその周辺であるものは589枚である。その内訳は以下の通りで、日付は撮影日である(研究成果報告書による)。
 荏原区の民家(1944年11月24日/54点)
 原宿駅付近・海軍館・東郷神社(1944年11月27日/64点)
 荻窪陸橋・高井戸第四国民学校(1944年12月3日~4日/109点)
 銀座(1945年1月27日/77点)
 千葉県印旛郡酒々井町へのアメリカ軍機墜落(1945年1月28日~29日頃/52点)
 日本医科大学・根津神社(1945年1月30日/23点)
 東京西多摩郡吉野村柚木へのアメリカ軍機墜落(1945年4月2日頃/30点)
 雙葉高等女学校・上智大学(1945年4月14日以降/16点)
 夜間空襲・麹町区九段から神田区須田町にかけて(1945年5月26日~6月8日以降/58点)
 慶應義塾大学・泉岳寺・芝区本芝のバラック・工場(1945年5月~6月頃/86点)
 中国桂林空襲・戦災(1944年11月頃/13点)
 中国香港空襲(1945年1月/54点)

【註:3】
『アメリカ軍無差別爆撃の写真記録-東方社と国防写真隊』 東京大空襲・戦災資料センター 2012

【註:4】

 ついウトウトと眠ってしまった。ふと眼を醒ますと、拡声器が、
「空襲警報発令! 空襲警報発令!」
と叫び出したので愕然となる。横浜駅であった。プラットフォームも車内もいっせいに騒然となり出した。
「なつかしの東京に、とんでもないことが待っていたなあ」
と、だれもが笑う。みな生き生きと嬉しげな顔になる。
 ただちに武装し、車窓の青幕を引いてそのまま発車する。
 川崎駅に入るや、全員退避の命令が下った。自分達も一般乗客も、デッキから構内へばらばらと飛び下りて、駅前の広場へ逃げ走る。プラットフォームではないので、一メートル余りの高さを飛び下りる女の中には、足を挫いて倒れる者もある。
     山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 ちくま文庫 1998  535ページ

 

 これが当時、東京医学専門学校の学生であった山田風太郎の昭和19年11月24日の日記である。
 11月21日から富士山の裾野での軍事演習に参加した医学生達が東京へ到着しようとする時に、空襲警報の発令にあい、川崎駅で下車して駅近くの防空壕で警報解除までの時間を過ごす。そして…

 

 一時間半もたって、ようやく入口から這い出すことを許された。空は灰色の雲に覆われ、もう砲声も爆音も聞えない。
 満員電車に乗ってやっと品川に着き、山ノ手線で新宿に帰る。空襲警報は解除になったが、乗客はむろん何となく殺気立っている。がやがやと話し声は聞えるが、べつに今の空襲について話しているわけではないらしい。無意味なる騒音、沈痛なる動揺――といった態である。
 すると、五反田から乗り込んできた二十二、三歳の工員風の男が二人、突然溜息を吐いて、
「おい、凄かったなあ、おれ、飯が食えねえや!」
と、叫んだ。みなふりむいた。一人の紳士が、おずおずと、
「――何か――見て来たんですか?」
と、たずねた。工員は待っていたように、カン高い声でしゃべり出した。
 二人は荏原を通って来たのだそうで、そこの防空壕に入っていると、突然しゅうっという実にいやな音が聞え、つづいて、ゴーっという凄まじい地響きがした。しばらくたって這い出してみると、二、三百メートル向こうに黒煙が見えた。いってみると三十メートルくらいの大穴が地にひらいて――「五十メートルはあったよ」と一人が訂正する――家は吹き飛ばされ、なぎ倒され、崩れおち、近傍の屋根瓦や戸障子やガラスなどが恐ろしい惨状をえがき出して――人はむろん死んでいた。防空壕の中で十数人全員即死したものもあり、身体の表面に傷は見えないのに真っ白になって死んでいるのもあり、幼児など石垣に叩きつけられてペシャンコになり、――
「病院へもいってみましたが、実に何ともむごたらしいかぎりでさあ。おら、腰がぬけちまった。顔の半分なくなったのが、口をあけてうなってるんですからね。たいてい女です。子供はわあわあ泣いている。――工場に主人の出た留守、一家全滅したのもあるそうです……おれ、今夜飯が食えねえや、……」
 一人がはっと気づいて眼で知らせながら、
「おい、あんまりしゃべらねえ方がいいぜ」
と注意した。
 二人は急に沈黙したが、また昂奮を抑えきれないらしく、蒼いカン走った声で「おら、飯が食えねえや」を繰り返しはじめる。――
 ○五時前に帰校。ただちに解散。
 下宿に帰ると、部屋のガラス窓はみななずされ、まるで暴風の一過したあとのようだ。しかし、こちらは全然何事もなかったということであった。やがて警戒警報解除となる。
 夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい。
          (539~541ページ)

 

 B-29による東京への初空襲を、山田風太郎は、このように体験したのであった。

【註:5】
 山田風太郎の日記を含め、空襲下で記された日記類のほとんどにおいて、「来るべきものが来た」という種類の感想は語られてはいても、都市無差別爆撃の不法性の指摘がされていない印象がある。つまり都市無差別爆撃という手法が、当時の日本人の間で当然視されていたように思われるのだ。
 そのような当時の日本人の感想のあり方の背後に、近代戦争における都市無差別爆撃の先駆者である日本の姿が、透かし見えるようにも感じられる。
 空襲を前提とした町内会レベルの消火訓練で、焼夷弾への対応が当然視されていた事実の影には、中国の都市への焼夷弾攻撃を実行していた日本軍の存在がある。
 ヨーロッパでの独英双方による都市空襲の現実も反映してはいるのだろうが、講演会場での質疑応答時の参加者からの指摘にもあったように、既に昭和13年の『写真週報』において焼夷弾による都市爆撃への対処の必要性が語られていたのも事実であり、日本における都市無差別爆撃の当然視は、ヨーロッパでの戦争に先立つものなのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/02/18 22:04 → http://www.freeml.com/bl/316274/182716/

 

 

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2012年3月 4日 (日)

「放射能」とのお付き合いの仕方という問題

 

 東北大学の流体科学研究所の圓山重直先生は、昨年五月の前半に、

 

 

 原発は巨大で不気味な怪物で我々はこれを納めなければならないが、戦争や自然災害と異なり、相手は物理法則に基づいて反応する。また、原発は我々が作り出した物である。人間が相手の戦争や未知な現象が複雑に絡まる自然災害より制圧は容易なはずである。
 原発収束のためには、相手を知ることが一番重要である。原発で起きている現象は物理現象の結果なので、正確なデータと適度な洞察力があれば、かなりの確度で原発の現象が推定できるはずである。原発事故が収まってから、各種機関や学会で検討される「事故調査」では、全てデータが出そろい、現象も収束した段階で正確な分析が行なわれるはずである。最終的には、原子炉解体時あるいは封印時の事故調査で全てが明らかになるはずである。しかし、原発事故は今現在進行しており、現象が終わってから原因を明らかにしても遅きに失することになる。

 

 

…と書いた上で、福島第一原発の原子炉事故でのメルトダウンの可能性(蓋然性)について詳細に分析していた。

 東電がメルトダウンの可能性を認める発表をしたのはその数日後のことである。

 

 

 東電の発表については様々な批判があるわけだが、東電の責任として東電自身の解析結果としての「原子炉メルトダウン」を発表したということではある。その意味では必ずしも「隠蔽」があったわけではない。

 しかし、時間のかかる内部での解析結果を待つのではなく、原子炉の状況に関する生データを公開し、東電の外部の専門家による解析を求めることもすべきであったのであり、その意味での情報公開不足は否めない。圓山先生の論文(当人は「推理小説」と位置付けているが)でも、その点が指摘されているように、東電の情報公開不足が事故への適切な対処の機会を奪った可能性は否定出来ないのである。

 

 圓山先生は、

  戦争や自然災害と異なり、相手は物理法則に基づいて反応する。
  また、原発は我々が作り出した物である。
  人間が相手の戦争や未知な現象が複雑に絡まる自然災害より制圧は容易なはずである。

…と書いていたわけだが、「物理法則に基づいて反応する」のではない人間社会(ここでは東電本社の存在がクローズアップされる)の問題が、今回の原発事故では確かにマイナス要因として大きく作用していたことは否めない。

 

 

 

 原発事故の結果、我々が曝されることになった放射線をめぐる問題もまた、

  戦争や自然災害と異なり、相手は物理法則に基づいて反応する。
  また、原発は我々が作り出した物である。
  人間が相手の戦争や未知な現象が複雑に絡まる自然災害より制圧は容易なはずである。

…として要約可能な種類の事態であるはずである。

 正確なデータを取得し、適切な対処を怠らなければ、放射線障害がもたらす危険は、かなりの部分が回避可能なものなのである。

 その意味で、行政の対応には不十分なところはあった。行政もまた「物理法則に基づいて反応する」ような単純な性格の存在ではなく、人間社会という厄介なものの構成物なのである。

 

 放射線をめぐり、問題をもうひとつ厄介にしてしまっているのは、その危険さを過度に煽ることで自身の安心を確保している種類の人々をも生み出してしまう人間社会というものの存在である。そこにあるのは人間の心理の厄介さであり、それが除染等の行政施策の実施に際して適切な優先順位や予算配分の確定にマイナスに作用することになるし、いわゆる風評被害の発生源ともなってしまうのである。

 

 

 今日は、そんな状況に危惧の念を抱いている人々と顔を合わせ、忌憚なく話をする機会を得た。

 企画したのはウチのパートナーで、私以外の六人は全員女性であった(私は、後ろに控えてもっぱら聞き役として過ごしていた)。集ったのはウチのパートナーがネットで知り合った人々で、初対面であっても同じ危機感を共有しているからか、話はぐいぐいと進んでいく。

 

 物理現象としての放射線を適度に怖がることが必要なのはもちろんなのだが、過度に不安を煽らずに適切に対処することはいかに可能であるのか?

 

 話題の中心となったのは、そのような問題意識であったが、彼女らのやり取りを後ろで聞いていることは、私の人間社会への信頼感の回復に、少しは役に立ったように思われる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/03/03 23:43 → http://www.freeml.com/bl/316274/183786/

 

 

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2012年2月20日 (月)

なるほどポキン(石子順造的世界)

 

 府中市美術館で「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」というタイトルの展覧会を開催中(2012年2月26日まで)。というわけでお出かけ。

 

 

 肩書きとしては「美術評論家」であったらしい石子順造は、マンガ批評でも知られている。それがタイトルに反映され、展示内容に反映されているわけだ。

 

 60年代から70年代にかけてのいわゆる「現代美術」と共に生き、マンガをマンガとして評価し、同じ視線でキッチュの世界を見透し、世界を、現代というものを理解しようとした。

 展示会場も三つに分けられているが、それぞれに石子の注いだ視線のあり方を意識させられながら作品や展示物を見ることで、かつて目にした作品も別の姿で立ち現れるのを経験する。

 

 「美術」とは何なのか?何がどのようにして「美術作品」と呼ばれることになるのか?

 そこには一種の社会的合意として、半ば意識的半ば意識されることなく定義された、「美術」というものの社会的に期待されたあり方が前提として存在する。そしてその期待・前提を破棄させ、あらたな「美術」としての可能性を提示する運動自体が、「美術」という行為には含まれ、それが作品として形象化されるわけである。

 運動としての「現代美術」とは、まさにその過程の意識化であったのだなぁ…なんてことを実感させられながら「美術」エリアを進む。

 

 「マンガ」のエリアでは、様々な作品の複製を手にとって読むことが出来る仕掛けになっているが、つげ義春の「ねじ式」だけは、その原画の展示を通して再会することになる。照明を落とした会場スペースのガラス越しに、「ねじ式」の原画の全てが展示されており、展示された原画を通して、かなり久しぶりに「ねじ式」を読むことになった。「ねじ式」には、本質的なものとして、読めば読むほど「見てはいけないものを見て(見続けて)しまう」ような場所へ読者を誘い込んでしまうような仕掛け(というのは適切な表現ではないが)がある。照明の暗い中で年代を経た「ねじ式」の原画と対面することで、その感覚はより強められる(展示設計が見事だと思う)。

 マンガ表現というものへの期待・前提を破棄させた作品、あらたなマンガ表現の可能性を提示した作品であることを深く実感させられるのである。

 

 「キッチュ」のエリアは明るい(しかも写真撮影オーケー!)。銭湯のペンキ絵もあれば、観光地の土産物のペナント、食品サンプル、各種の優勝トロフィー、招き猫、怪獣のソフビ…と、様々な展示物が並ぶ。

 ここに並んでいるのは消費者マジョリティーの期待・前提に適うことで(むしろ拡大することで)商品として成立する、必ずしも実用的ではない品々である。しかし、これが楽しい。また「美術」における「作品」とは対極的な存在でもあるようにも感じられるが、それが大量生産品であるからではないことを、銭湯のペンキ絵や相撲取りの化粧回しのような一点モノの存在が明らかにもする。

 

 

 ここでは、作品なり生産物なりを享受する側の期待・前提とその期待・前提自体の破棄への期待の有無という観点を、三つのエリアに通底するものとして展示を見通してみたわけだが、もちろんそれはひとつの見方に過ぎないのであって、石子順造が残し提供してくれた問題はそれだけではない。

 

 

…と、マジモードで書いてきたが、実は「キッチュ」のエリアで、私はかなり後悔の念に襲われていたのである。

 昨年末に、国分寺の「switch point」というギャラリーで「不幸なる芸術」というタイトルの展覧会に遭遇していたのだ。そこで私は成相肇氏の「作品」に出会うことになったのだが、その成相氏こそは今回の石子展のキュレーターなのであった。

 「不幸なる芸術」展では「美術作品」の「作品性」が、経済的側面から追求されていたのである。そこにあったのは、美術作品の値段とは何なのか?という問いであった(と私には思われた)。「作品」と呼ばれるのは、美術市場での商品価値が社会的に認められた事物・物品なのであり、その社会的事実が「値段」として表示されるのである。美術市場での商品価値が認められなければ、そこに社会により見出されるのは(多くの場合)「実用的でない品々」であるに過ぎず、単なる「ゴミ・ガラクタ」として処理されてしまう可能性も高い。成相氏は、その構図を自らの「作品」として提示していたのだ。

 その「不幸なる芸術」展の会場で、今回の石子展の「キッチュ」エリアの展示物のいくつかが「作品」として(予約)販売されていたのである(いわゆる美術作家によリ作成された「作品」ではなく、今回の展示用に購入された量産品なのだが、ギャラリースペースで値段をつけ販売されることにより、成相氏の名を刻印された「作品性」を身にまとうことになる)。もちろん「お買い上げ」を考えた私であったが、それを(財布の中身の参照という)「理性」が押し止めてしまったのだ。

 やっぱり買っとけばよかった、と「キッチュ」エリアに並ぶ様々な「消費者マジョリティーの期待・前提に適うことで(むしろ拡大することで)商品として成立する、必ずしも実用的ではない品々」を前に後悔したのであった。

 

 

 

 ちなみに、「石子順造的世界」展図録は300ページくらいのハードカバーでありながら2000円!! ボリューム的にも内容的にもお買い得感たっぷりなのであった(もちろん、こちらは迷うことなく「お買い上げ」)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/02/12 22:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/182272/

 

 

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2012年2月16日 (木)

戦争のトラウマ 2

 

 「戦争体験を語り継ぐ」ということが果して可能なのかどうか?

 

…という問題が、そもそもはあるのではないか?

 

 

 およそそれがどのような「体験」であれ、「体験」とは本質的に個人的なものなのであり、「戦争体験」もまた、それを体験した当事者としての個人を離れたところで語り得るものなのだろうか? 当事者としての個人を離れたところで語られる「体験」とは、どこまでその名に値するものなのだろうか?

 

 

 そんなことを考えたりしていたのである。

 

 

 ネットを介して、「戦争体験の語り継ぎ」という行為に加担しつつも、その行為自体の可能性と共に「語り継ぐ」という意思(志すこと)の限界にも気付かざるを得ない。

 他人の「体験」を自らのこととして語ること、語ろうとすることの限界である。

 

 

 

 そんな中で、先日、ネット上(メーリングリスト利用)でお付き合い下さっている方々と顔を合わせる機会を持つことが出来た(いわゆる「オフ会」である)。

 20代から80代までの男女取り混ぜて十数名が集り、話をしたわけだ。ネット上のお付き合いでは「文」でしか知らない相手と、顔を合わせ、言葉を交し合ったわけである。

 

 80代のシベリア帰りの元少年航空兵が、実は日本橋浜町生まれ新宿育ちのチャキチャキの江戸っ子シティーボーイであり、戦前のモダンボーイ生活の延長にある軍国少年化であり、その果ての戦場体験・シベリア抑留体験であったことが、あらためて判明する。ネット上のメールのやり取りでは、元少年航空兵の歯切れのいい江戸弁は伝わらないのである。

 ご当人は、

  戦場体験は、兵士の数だけあります。その人の戦場体験はその人でなければ語れません。誰もその元兵士に代ることは出来ません。

あるいは、それに加えて、

  戦場体験というのは、話す人の数だけあります。軍隊は、人を殺すための軍隊です。同時に、軍隊の中の身分が将校か下士官か兵隊かという違いや、古参兵だったのか新兵だったのかで、同じ体験に遭っても全部違ってきます。それぞれの考えも違っています。同時に日本に帰ってきた後、どのような生活体験をしたかによっても思いが違ってきます。その意味で、一人の人の体験が全てではないのです。同じ場面に遭っても、指揮する立場と、指揮される立場とは全然違います。
  やがては消えていく体験なので、より多くの人に語り残していくということが求められているのです。

…などという言い方をした上で(つまりそれがご自身の個人的な「体験」であることを念押しした上で)、様々な機会に様々な聴衆を相手にご自身の「戦場体験」について語っているわけだが、その「体験」を活字で読むのと、生で聴くのは異なる経験であることを実感させられたのである。かつてのモダン東京のシティーボーイが由緒正しい江戸っ子の語り口で語るのを聞くことの持つ意味を考えてしまったりするわけだ。

 活字で読む限り、どこまでも陰々滅々の暗い老人の話となってしまうのだが、そして実際に皇軍組織の救い難さの体験が語られているわけなのだが、それがシャレのわかる江戸っ子の歯切れのいい口調で語られるのを聞けば、(活字知識としての暗い話とは異なる)陰影あるかつての少年兵としての日々が伝わってくるのである。

 

 (そしてまた、この江戸っ子の語り口を語り継ぐことの不可能さをも思わざるを得ないのである)

 

 

 そんなことを思いながら、かつての少年航空兵のお話を伺っていたのだが、「戦場体験」を語る機会が増えたことの喜びを聞くと同時に、その難しさの指摘にもうなずかざるを得ない。

 小学生を相手に、零下20度のシベリアの寒さ(それも十分な毛布も暖房もない中でのいつまで続くのかもわからない日々である)をどのように説明すれば理解を得られるのか? 「飢え」の感覚、つまり単なる空腹感とは隔絶した「飢え」の感覚を現代の小学生に伝えることは出来るのか? そこが理解されなければ、本来伝えるべき話は伝わらないのである。

 

 

 そんな話の流れから、参加者の間でも当時の「飢え」が話題となった。戦後になっての日々、復興後の日々にも、決して「混ぜご飯」を食べようとしなかった家族(父親であったか?)のエピソードは、つまり白米のない戦時下・終戦直後の日々への反動である。あるいは家族にはお土産にバナナを買って帰っても、自らは決して食べようとしなかった復員後の父のエピソード(南方でのバナナだけで飢えをしのいだ日々への反動である)。

 このような話は、戦中派の体験談には珍しいものではない。戦後は決してカボチャをサツマイモをトウモロコシを口にすることなく過ごそうとした人々の話は、むしろ「ありふれた」という印象を与えるものにさえ思える。

 「飢え」のトラウマ、つまり、毎日それだけしか食べられなかったことへの反動から、それを絶対に食べないという決意が生まれたわけである。いや、「決意」という種類のもの(つまり頭で考えたという次元の話)ではなく、「それを身体が受け付けなくなってしまった」という種類の出来事であったようにさえ思われる。これはむしろ身体性に刻み込まれた「トラウマ」と言うべきだろう。

 

 

 

 そんなことを考えながら、この数日間を過ごしていたのであった。

 しかし、あらためて考えると、あの世代の「日の丸・君が代」に対する忌避感もまた、そのような身体性のトラウマとして理解すべきであるようにも思われてくるのである。

 あの世代の人間にとってカボチャを食べないのはリクツの問題ではないし、「日の丸・君が代」に対する忌避感もまたリクツの問題ではないのではないだろうか?

 戦後生まれとしては、正直なところ、あの、

  日の丸・君が代いやだ

…という感覚を体感として共有し合うことは出来ない。戦時下での体験を聞き、当時の記録類を読めば、なぜ彼らが「日の丸・君が代」への忌避感を持つに至ったのかをリクツとして理解することまでは、私たちにも可能である。家族が死に仲間が死に、家が灰となり街が焼き尽くされ、そこで飢えと不安をとことん味う惨憺たる日々を送った。その背後には日の丸があり、命令と服従の体系があり、日の丸には教壇から発せられ町内会長から発せられ古参兵から発せられそして軍司令官から発せられるあらゆる理不尽な命令をも正当化させる力があった。その日の丸の下で、愛着あるあらゆるものが失われたのである。

 そこに日の丸への(君が代への)忌避感が胚胎したであろうことは、リクツとして理解出来るし、リクツとして説明することは出来る。しかし、それはあくまでもリクツであり説明なのであって、戦争を生き抜いた世代の身体感覚に到達するものではない。身体感覚として刻み込まれた体験の質への想像力は(共感への道は)求め得ないものなのであろうか?

 しかし、そこに、

  カボチャが食べられない

…というあの世代の身体感覚を重ねることで、「日の丸・君が代いやだ」への理解への道が拓かれたように感じたのである。カボチャやサツマイモは、しかしそれでも彼らの食糧となり、彼らを飢えから救い、彼らを生き延びさせた、にもかかわらず、二度と口にしたくないものとなってしまっているのである。その彼らの皮膚感覚からすれば、「ニッポン」は彼らをそのような飢えに追い込み、「日の丸・君が代」はその飢えから彼らを救うものではなかった。家族や仲間の死は、そして自分の飢えは、日の丸を背負った命令と服従の体系の終着点に起きた出来事なのである。

 「戦争体験を語り継ぐ」と言葉で言うのは簡単だが、体感・身体感覚を離れたところでの「体験」の「語り継ぎ」の限界は思わざるを得ない。詰まるところ「体験」は代弁することが出来ないのである。しかし、それをあっさりと他人事で終わらせてしまうことには、実際に身近で話を聞いてしまった以上、抵抗感が残るのである。

 「日の丸君が代いやだ」の忌避感が身体感覚に刻まれたものであり、その刻まれ方が、「今でもカボチャが食べられない」の感覚を参照することで、戦後世代にも「理解」が可能になるのではないか? 「カボチャ」を参照することで、「日の丸・君が代」についての忌避感を「反日的」などと切り捨てる(いくらなんでもカボチャが食べられないことを「反日」とは言わないだろう)のではなく、ある時代のある世代の身体に刻み込まれた体験として、つまりこの国の歴史の重要なひとつのエピソードとして私たちが継承することを可能にするのではないか? 「代弁」は出来ないにしても、彼らの体験に、そして個人としての彼あるいは彼女の体験に、より近いところで寄り添うことは出来るはずである。その時、彼らの体験は「他人事」ではなくなっているはずである。

 

 そんなことを思ったわけだ。

 

 

 もちろん、この話も、

  戦場体験は、兵士の数だけあります。その人の戦場体験はその人でなければ語れません。誰もその元兵士に代ることは出来ません。

…というのと同様で、すべてのあの世代がカボチャを食べないわけではないし、すべてのあの世代が「日の丸・君が代」への忌避感情を持ってしまったわけではない。あくまでも個別の問題である。

 しかし、その「個別」のあり方への想像力を持ち続けることこそが、現在を生きる私たちの重要な課題ではないのか? 「戦争体験の語り継ぎ」とは、まず、あの時代を生きた一人の人間と出会うことから始まるのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/02/07 22:14 → http://www.freeml.com/bl/316274/181876/

 

 

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2012年2月14日 (火)

戦争のトラウマ 1

 

 戦争というものは、その非日常性において、渦中に巻き込まれた人間に昂揚感をもたらすと同時に、やがて日常性として体験されることになるその悲惨さは、それを体験した個人の中にも大きな傷痕を残すものである。

 同時に、戦争とは国家というレベルでの出来事であり、国家という枠組み、国家という枠組みを形成する国民というレベルにおいても、大きな傷痕(つまりトラウマ)を刻み込むものである。その前後での意識の変容は、無視するにはあまりにも大きい。

 戦争という体験は、いわば、「国民意識」のレベルでの変化を引き起こすものなのである。

 

 そして、その変容のあり方は、その戦争をどのように体験したのかに、そしてその体験をどのように解釈するのかに規定される。

 

 

 第二次世界大戦の経験は、日本とヨーロッパで、まったく相反すると言ってもよいくらいの認識をそれぞれにもたらした。

 日本では「大東亜戦争」と呼ばれる「あの戦争」の体験は、軍事力そのものへの忌避感として表明され、現行憲法の第九条の規定に集約的に表現された。そこでは国家による軍事力保有自体が忌避されたのである。

 それに対し、ヨーロッパでは、ヒトラーのナチス・ドイツにより引き起こされた戦争の体験により生まれたのは、軍事力そのものへの忌避感ではなく、むしろ適切なタイミングでの軍事力行使の必要性の認識であった(と私は思う)。戦後のヨーロッパに深く刻み込まれたのは、軍事力保有自体への忌避感情ではなく、保有した軍事力を適切に行使する政治判断の重要性である。

 1938年の英仏と独伊の四国によるミュンヘン会談は、「平和裏に」チェコスロバキアの分割によるドイツへの併合を決定し、それが当面の戦争の可能性を回避したものとして広く歓迎された。

 もちろん、その影にあるのは第一次世界大戦の経験であり、その経験によりもたらされたヨーロッパにおける戦争への忌避感情である。大戦の惨禍の大きさは、「戦争」そのものへの忌避感となって結実し、ミュンヘン会談の「成果」は、独伊の国民だけではなく英仏の国民からも熱烈に支持されたのであった。英仏の国民はチェコスロバキア国民の感情に配慮する必要よりは、協定により確保された当面の「平和」を受け容れる方を選んだのである。

 しかし、ミュンヘンの成果は、ヒトラーへの手法へのドイツ国防軍内の懐疑を減少させ、ドイツ国内におけるヒトラーの権力基盤の拡充をもたらした。同時にヒトラーの手法を国際社会が受け容れたこととして理解され、保有する軍事力の脅迫的運用の有効性を、ヒトラーに知らしめる結果となった。

 そして1939年の9月にヒトラーのドイツは、スターリンのソ連の合意の下でポーランドに侵攻し、ポーランドをソ連と分割することで第二次世界大戦が開始されることになる。軍事力が脅迫の手段ではなく、軍事的侵攻の手段として行使され、つまりヨーロッパでの新たな戦争が始まったのであった。

 戦後のヨーロッパは、その過程を回顧し、ミュンヘン会談の評価を、その当時とは異なるものとしたのである。あの時点でヒトラーの軍事的脅迫に対し、英仏が適切に軍事力を背景とした政治外交を行なっていれば、その後の第二次世界大戦は回避出来たのではないのか? それが、大戦後のヨーロッパの人々、大戦後のヨーロッパの政治家に深く刻まれたトラウマ的感覚となったことを、私たちは知っているはずである。イラク戦争に先立って(ブッシュにより)用いられたのは、サダム・フセインをヒトラーのイメージで語るレトリックであった。サダム・フセインに対する軍事力の行使に対する躊躇は、ミュンヘンでのヒトラーへの躊躇と重ねてイメージされ、チェンバレンの後裔としてのブレアの判断に大きく影響を与えていたはずである。

 

 それに対し日本国民の経験は、山東出兵以来の脅迫的な軍事力の運用と、満洲事変以来の実際の軍事的侵攻への軍事力の使用の歴史と、その帰結としての未曾有の敗戦として描かれる、「あの戦争」の姿となった。国家の存立を保証するはずの軍事力が、国家的な破局をもたらしたのである。

 反省的に見れば、そこに存在するのは政治によるコントロールを欠いた軍事力の暴走であり、政治をもコントロールしようとし実際にコントロールした軍人の姿であった。対米英戦争の進行と共に、より多くの人々が家族を失い、生活の惨めさを徹底的に味わうこととなった。その経験が軍事そのものへの忌避感となって結実したことも当然のことと思わざるを得ない(それは、既に第一次世界大戦後のヨーロッパで広く共有された感情でもあった―つまり近代総力戦のもたらす悲惨さという第一次世界大戦でのヨーロッパの経験を、遅れて日本が味わったことを意味する)。

 戦後の日本は、軍事力の保有に積極的ではなく、保有した軍事力を自らコントロールしようとすることにも積極的ではなかった。保有する軍事力をコントロールすべき政治を、国民自らコントロールすることを望もうとはせず、米国のコントロールの下へ置くことを選択したのである。

 少なくとも、その選択の結果、大東亜戦争に至る時期の軍事的暴走の結果もたらされた生活の惨めさからの脱却には成功し、日本国民はその戦後を、それなりに満足しながら生きていたのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/01/30 21:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/181268/

 

 

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2012年1月31日 (火)

『月あかりの下で』(救いとしての学校)

 

 どうやら、学校が救いの場である、という状況があり得るということには、私の想像力は及ぶことがなかったようだ。

 

 たまたま自主上映会のチケットをいただいたもので、ドキュメンタリー映画『月あかりの下で ~ある定時制高校の記録~』(太田直子監督 2010)を観ることが出来た(2012年1月27日、小平市中央公民館にて)。

 

 埼玉県立浦和商業高校定時制課程の2002年次入学の生徒たちの、卒業までの4年間を追ったドキュメンタリー作品である。

 映し出されていたのは生徒と担任教師の交流というよりは闘いであり、それは確かに闘いではあるけれど、真剣勝負は相互理解と信頼に至る道でもあるという過程が、日々のエピソードを通して描かれていた。

 経済的困難者への勉学の機会の提供手段としての役割は現在でも重要なものであるにしても、かつての定時制高校の果たした役割と現在のそれには大きく変容した部分もある。

 

 公立小中学校での問題として、登校困難状態に陥った児童の存在は無視することの出来ないものとなっており、その進学先という、もうひとつの問題もまた無視することは出来ない。

 そのような、小中学校での経験を抱えた子供たちの進学先の一つとして、現在の定時制高校の果している役割は小さなものではない。

 映画は、そんな定時制高校のひとつでのエピソードなわけだ。

 

 かつて不登校児童であった彼らが、定時制高校のクラスという場で一緒になり、それぞれの自己主張と、自己主張の仕方さえつかめぬ状態との格闘の中から、4年の時を経る中で相互理解と自己理解、そして相互の信頼感までを獲得していく。

 

…なんて紹介の仕方は、それはそれで間違ってはいないのだが、いきなり酔っぱらって授業中のクラスに登場する生徒の姿だの、とにかくどこまでも「お行儀」のよくない生徒たちが次々と登場するのである。

 映画の性格から言って、救いのない結末にはならないであろう期待というか予感はあるものの、シナリオの存在しない展開はスリリングでもある。

 2年3年と進級する中で、それぞれに芯の強くなっていく姿を見る一方で、それぞれの抱えて来た(そして現に抱えている)問題の深刻さにも気付くようになる。

 

 

 冒頭のシーンに、ハイヒールを履いた女子生徒が教室の机の上に腰掛けた状態で担任教師に応答する姿があるのだが、上映後の担任教師本人(平野先生)の話に、

  生徒の足下ではなく顔を見る

…という言葉があった。

 やがて彼女も校内で上履きを使用することになったことも語られたが、それはまさに「顔」をきちんと見る日々の中での関係性がもたらした変化であったに違いない。

 

 

 そんな彼女たちにとって、どうやら、学校は「救いの場」であったのである。時と共に、彼ら彼女らにとって、学校が「救いの場」としての意味を持ち始める。県により浦和商業高校定時制課程の廃校が決定されるのだが、その撤回交渉の場での先輩たちの姿は、彼らにとって学校がどれだけ深く「救いの場」として機能し、現在の彼らの存在を支え続けているのかを明らかにしている。しかし、県の決定が覆されることはなく、映像記録としてその最後の姿が残されはしたが、県立浦和商業高校の定時制課程は既に存在しない。

 「学校」という場に、まだ可能なことは残されていたのだ。通学する生徒にとっての「救いの場としての学校」という「可能性」が、である。それにもかかわらず、その可能性の証が「廃」されてしまったのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/01/27 22:00 → http://www.freeml.com/bl/316274/181053/

 

 


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2012年1月14日 (土)

昭和天皇の戦争責任問題と東京裁判

 

 

 さきの大戦につきましての天皇の法的な責任のみについて申し上げます。旧憲法下におきまして、天皇は統治権の総攬者でございまして宣戦の権能をお持ちになっておられましたが、国務大臣がそれにつきましては天皇を輔弼しまして一切の責任を負うことになっておりまして、天皇は神聖不可侵であるという規定が旧憲法第3条にあったわけでございます。この神聖不可侵であるということの意味の一つといたしまして、天皇は先ほどおっしゃいましたように無答責である、責任を負わないんだということにこの解釈は恐らく争いがなかったことであると思います。 したがいまして、天皇は旧憲法下におきまして国内法上一切の法的責任を負うことはないと、このようにされておりました。当時の憲法において一切の法的責任を負うことがないとされております以上は、その旧憲法当時の行為につきまして後になって法的責任があるというわけにはまいりませんので、国内法上は昭和天皇には戦争についての法的責任はないと考えてございます。  
 さらに、国際法上の問題についてご議論がございましたが、これはご指摘のとおり、昭和天皇の戦争責任の問題につきましては極東国際軍事裁判において検討がなされましたが、連合軍が昭和天皇に訴追を行わなかったということはご指摘のとおりでございまして、昭和天皇の国際法上の戦争責任の問題は既に決着した問題であるというふうに考えております。
 (1989年2月14日の参院内閣委における、味村治内閣法制局長官の答弁)

     竹前栄治・監修 高橋紘・著 『日本国憲法・検証 資料と論点 第二巻 象徴天皇と皇室 あるべき天皇像とは』 小学館文庫 2000  259~260ページ

 

 

 これは、自民党政権下での日本政府の公式見解である。

 ここでは、昭和天皇をめぐる「さきの大戦(つまり大東亜戦争)」についての「戦争責任」問題に関し、国内法上も国際法上も昭和天皇に「法的責任はない」ということが、日本政府の公式見解として明言されているのである。

 国内法上は大日本帝國憲法の条文が根拠とされ、国際法上は極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」である)の訴追過程が、その根拠として示されていることになる。天皇の「戦争責任」問題に関し、国際法上の「法的責任はない」と判断する理由が、東京裁判の過程に求められている点に注目しておきたい。

 つまり、天皇の戦争責任問題をめぐる自民党政権下の日本国政府の公式見解は、東京裁判の過程を根拠にすることで、天皇に国際法上の法的責任がないことを主張しているわけである。この主張が成立するためには、東京裁判の国際法上の有効性の認識が前提とならねばならない。

 

 その「前提」を支えているのは、サンフランシスコ講和条約の条項である。

 サンフランシスコ講和条約第11条(戦争犯罪)には、

  日本国は、極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする

…との文言があるのだ。つまり、ここで日本国政府は、「極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行する」当事者として、「極東軍事裁判=東京裁判」の国際法上の有効性を認めていたことになる、と考えざるを得ないのである(註:1)。

 

 

 では、昭和天皇自身の「極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判」に関する認識はどのようなものであったのだろうか?

 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 (岩波現代文庫 2008)によれば、講和条約調印10日後の1951年9月18日に行われたリッジウェイ(連合軍最高司令官)との会見の席で、昭和天皇は、

  有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約

…として、サンフランシスコ講和条約への賞賛の言葉を述べている(224~225ページ)し、そもそもその前任者であるマッカーサーの退任の際の会見(1951年4月15日)ではマッカーサーに対し、

  戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、この機会に謝意を表したいと思います

…と、連合軍最高司令官としてのマッカーサーの意図を反映する経過をたどった戦争裁判=極東軍事裁判=東京裁判への肯定的評価を表明している(119ページ)のである。

 また、英国国王宛の「親書」(1946年1月29日付)にも、

  私はポツダム宣言の条項を忠実に履行し、平和と民主主義に貢献する、よりよい国家の再建のために出来る限りの努力を払いたいと切に望んでおります

…との昭和天皇の言葉があるという(33ページ)。言うまでもなく、ポツダム宣言は、その条項の中で、戦争犯罪人の処罰を戦争終結条件として明示していた。

 つまり、昭和天皇自身は、極東軍事裁判(東京裁判)の判決とその刑の執行に対し、積極的に肯定的な評価を与えていたのだと考えねばならないのである。退任するマッカーサーとの会見の場でわざわざ「戦争裁判」の過程に謝意を表したり、リッジウェイとの会見の席でわざわざ「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」との講和条約評価を語ったり、英国国王宛ての親書中でわざわざ「ポツダム宣言の条項を忠実に履行」することへの「出来る限りの努力」について言及したりする昭和天皇の「積極性」には、十分に配慮する必要があるということだ。

 

 

 自民党政権下での日本国政府が「天皇の戦争責任」について、その法的責任がないことを主張する際の根拠を「東京裁判」の過程に求め、昭和天皇自身もサンフランシスコ講和条約を「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」と評価することで、「東京裁判」の過程を正当なものとして受け容れていたのだと理解しなければならない。

 戦後、「象徴」として天皇の地位が確保された背後には、「東京裁判」を正当なものとして位置付けた昭和天皇自身の判断が隠されているのである。

 

 

 

 「東京裁判」とは、

  戦争の勝者が、事後法により戦争の敗者を一方的に裁いた「裁判」

…という意味で、その正当性は損なわれているし、そこでは、

  敗者による「戦争犯罪」のみが訴追され、
  勝者による「戦争犯罪」が問われることはなかった

…という問題を指摘することも容易である。

 しかし、昭和天皇および日本国政府が、

  極東軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする

…という形で、裁判の全過程を容認し、そのことにより、

  天皇の地位および日本国政府の統治の正統性を維持した

…という事実も、構図として否定することは出来ないのである。

 東京裁判の全過程の受容の上にのみ、戦後の天皇の存在と日本国政府の正統性が成立していたのであり、その構図が、東京裁判批判を皮肉な状況に追いやってしまうのだ。

 つまり、東京裁判否定論は、昭和天皇の大御心に反する論となってしまうのである。

 ネット上では、サンフランシスコ講和条約の日本側の当事者であった吉田茂について、サヨクだの反日だのとのレッテル貼りをすることで、吉田茂の東京裁判受け容れを批判する論に出会うことが出来る。

 そのような吉田茂批判の論理の帰結は、歴代日本政府(それも自民党政権下!のである)を反日サヨクとして規定することにつながるし、そもそも昭和天皇をも反日サヨクとして告発するという事態へと発展せざるを得なくなってしまうのである。

 

      コレゾ不忠不敬ノ言論ナラズヤ

 

 

【註:1】
日本国との平和条約
 法令番号 昭和二十七年四月二十八日条約第五号
 施行年月日 昭和二十七年四月二十八日外務省告示第十号
第十一条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。

 条文の英文解釈に基き、日本国が「受諾」したのは「judgments=諸判決」であって裁判そのものではない、とする論もあるようだが、裁判所の権威を否定しながら「諸判決」を「受諾」することは法理的にあり得ない話である。日本国は「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷」の権威を認め、そこでの過程を受け容れてしまっているからこそ、「諸判決」を「受諾」しているのである。(2012年2月2日追記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/01/13 23:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/180050/

 

 

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