2017年10月15日 (日)

総統閣下vsオペラ対訳プロジェクト、そしてパーキンソン病

 

 いわゆる「総統閣下シリーズ」の最新作ということになる(2017/10/12 に公開)だろうか? 映画『ヒトラー ~最期の12日間~』(2004)のドイツ語のセリフに原語と異なる字幕をつけて楽しむお遊びだが、英語圏の「YOUTUBE」で様々な英語字幕バージョンが作成され、日本語圏でも「ニコニコ動画」に様々な日本語字幕バージョンがアップされている。

 今回の「総統閣下は「オペラ対訳プロジェクト」にお怒りのようです」は、私も利用させてもらうことのある「オペラ対訳プロジェクト」による日本語字幕で、時事ネタ込みの(「総統閣下シリーズ」モノの中でも)秀逸なパロディー作品として仕上がっているように思う。

 せっかくの秀逸作を忘れてしまわないように、ブログ記事としてアップして何時でもアクセス可能にしておく作戦を採用した次第である。

 

 

 

総統閣下は「オペラ対訳プロジェクト」にお怒りのようです
 
https://www.youtube.com/watch?v=fnW1TpHZeyo

 

 

 「オペラ対訳プロジェクト」は、オペラ作品を中心とした(オペラだけではなく、バッハの『マタイ受難曲』なども含む)過去の名盤の録音に日本語対訳をつけてアップするという、手元に輸入盤しかない際にとても役立つプロジェクトで、私もチャンネル登録してしまっていたりするのだが、その「中の人」が実はこの手のお遊びにも手を抜かないことを知って、ますます同志的気分を味わったりしているのである。

 

 中身そのものを解説したりするのは野暮な話だと思うので、ここで触れることはしない。

 

 

 ただ、せっかくの機会なので、そもそもヒトラーの実像を描くことを目指した映画作品であった『ヒトラー ~最期の12日間~』にちなみ、小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足 神経内科からみた20世紀』(中公新書 1999)から、神経内科的背景を抜き書きしておきたい。

 

 

  筆者は神経内科医である。脳や脊髄、末梢神経、筋肉などのはたらきの異常を診るのが専門だ。精神科ではない。シビレなどの感覚障害、ふるえやマヒなどが主な症状だ。だから、目にする人の立ち居ふるまいや、表情、声の調子などが気になる。そして、二〇世紀は科学技術の世紀であり、映像の世紀でもある。会えるはずのない、海の向こうや歴史の彼方の政治家、それに雲の上の人の歩き方や動作をテレビで見ることができ、ついプロ意識で病気かどうかを診断することがある。いわば神経内科医の本能で、ヒトラーのふるえや毛沢東のすり足もブラウン管を通して視診した。そこで、二〇世紀のリーダーたちの神経疾患を調べてみて、歴史に投げかけた影を考えてみた。
          同書「まえがき」より

 

 これが同書における小長谷氏の問題意識・基本姿勢である。小長谷氏は、同じく「まえがき」の中で、

 

  もちろん、筆者はこの書物の中の独裁者やリーダーたちの主治医でもないし、カルテなどの第一次資料などをみることも出来ないので、文献にたよらざるをえない。病気の解釈については、単なるうわさやしろうと判断の推測は、書きすすめる上でなるべく排除するようにした。症状の目撃談などはべつとして、基本的にはきちんとした学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録により、医学的客観性をたもつように心がけた。

 

このように書いているが、実際に読み進めてみると、原則としてその姿勢に貫かれていることも確認出来る。

 

 

 映画の『ヒトラー ~最期の12日間~』の方は、同名(邦訳タイトルは原題とは異なるようだが)のヨアヒム・フェストの著作とヒトラーの個人秘書であったトラウドゥル・ユンゲによる回想録を基にドラマ化したものだが、時系列的には、どちらも小長谷氏の著作より遅れての出版物であり映像作品である。出版物はドキュメントであり、映画はドキュメント作品に基くドラマである。

 時系列上、どちらも小長谷氏が依拠するわけにはいかなかったが、

  二〇世紀は科学技術の世紀であり、映像の世紀でもある。会えるはずのない、海の向こうや歴史の彼方の政治家、それに雲の上の人の歩き方や動作をテレビで見ることができ、ついプロ意識で病気かどうかを診断することがある。いわば神経内科医の本能で、ヒトラーのふるえや毛沢東のすり足もブラウン管を通して視診した。

 

20世紀ならではのドキュメント映像が、「視診」を可能にし、加えて「学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録」等のドキュメントが、小長谷氏の判断を支えているのである。

 

 

 テレビでドキュメンタリー番組(番組中では第二次大戦末期のドイツのニュース映画が紹介されていた)を見ていた小長谷氏は、「厚く重苦しい外套を着たアドルフ・ヒトラーが硬い表情で肩を丸め、ぎこちない動作で足をはこん」でいる姿を前にする。

 

  が、次の瞬間、筆者の目は画面に釘づけになった。ヒトラーの左手がふるえているのである。神経内科医のプロ意識がわきあがってきた。診察する目で観察した。そのふるえは、見なれたパターンである。パーキンソン病のそれであった。
     同書「震える総統――ヒトラー」より

 

 もちろん、小長谷氏は、映像を通した自身の視診に加え、「学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録」等に目を通すことを怠らない。

 

  調べてみると、ヒトラーの病気についてのいくつかの医学論文と学術的な単行本がドイツから出版されていた。エレン・ギッベルスという女性の神経学者は一五年間にわたって『ドイツ週刊ニュース』という映画に映っているヒトラーの動作を検討し、医学的考察を行っている。
  それによると、ごくわずかながらも動作が鈍くなったのは一九四一年であり、左手の症状も出てきている。四三年からは、自動車から降りたり、腰をおろしたりするような動作シーンがニュース映画からなくなっている。左手はいつもからだの後ろに回したり、ポケットに入れたりして映らなくなった。
  表情の動きは四四年から少なくなり、顔つきは陰気になっている。笑っているときでも、顔の動きが少なく、「凍り付いた」笑いとなっていた。また、このころから左足を引きずって歩くようになっている。
  ギッベルスは、ニュース映画の中のヒトラーの左右の手の動きやぎこちなさ、表情、歩行、姿勢などの症状の程度によって、〇点から四点までの点数をつけて定量的な分析をしている。パーキンソン病の症状は一九四一年の中ごろにはあらわれており、左側から発症し、やがて右側にも症状が出現した。四五年の戦争末期にはホーン=ヤールの重症度分類二度くらいの障害度だったという。

 

 

  ある秘書はヒトラーのふるえについて書いている。
「日報に目を通すときには、ヒトラーはいつも左手で眼鏡を握っていましたが、その手がふるえるたびに眼鏡が机の表面に当って、カタカタと音をたてていました。唇は干からび、パンくずで覆われ、衣服はたべもので汚れていました」

 

 

  ある記録によると、四二年の東部戦線の大本営地下壕では、イスから立ち上がるにも人の手を借り、支えられて歩いていた。声はぼそぼそとして聞きとりにくく、口もとからよだれを垂らしていたとある。これは二度のパーキンソンではない。少なくとも三度の障害度である。

 

 

  ヒトラーに長いあいだ仕えた参謀将校によると、最後のころの様子は次のようなものだ。
「総統はみるからに恐ろしげな様子であり、苦しそうに、ぎこちなく足を引きずって歩きまわっていた。地下壕の自分の居間から会議室へ行くときには、上半身を前方に投げ出すようにして、足を引きずって歩いていた。バランス感覚はなくなり、ごく短い距離(たかだか二〇~三〇メートル)を歩く途中で、立ち止まらなければならないときは、壁の両側に置かれた総統専用のベンチに腰を下したり、話し相手にしがみついたりした。目は充血していたし、提出された書類はみな特製の『総統専用タイプライター』で普通サイズより三倍も大きな字で打ってあったが、それでも拡大鏡を使ってやっと読めるようだった。しょっちゅう、口の両端からよだれが垂れていた」
  目のことは別として、総統とか地下壕という言葉がなければ、そのまま教科書に載せてもよいような、中等度以上に進んだパーキンソン病の典型的な症例報告である。

 

 

  一九四三年二月、スターリングラードの第六軍が赤軍に降伏した直後、ヒトラーはソ連前面の東部戦線、マンシュタイン元帥の司令部を訪れた。そこにいた元帥の伝令将校シュタールベルクの、昼の作戦会議でのヒトラーの印象はさえないものだった。総統の頭は肩から前に垂れ、制服は食べ物かすで汚れ、無表情のままで地図をみていた。くたびれはてていた。そして顎がふるえつづけていた。夕方の会議になると、それが激変していた。
「……そのわたしの目に、ヒトラーが会議室に入ってきたとき、まったく予期せぬものが映った。今日の昼や昨日とはうって変わった別人のヒトラーが部屋に入ってきたのである。姿勢のたるんだ落ちぶれたような男は、突如として、背筋をのばし、ヴァイタリティのあるひきしまった姿になっていた。……ヒトラーが朝遅くまで寝ているのを好み、夜明け方近くになってから就寝するということは、われわれも知っていた。しかし、これほどまでの体調の変化が、生活リズム上の原因のみで生じるとは思われなかった。なんらかの薬物の効果があったにちがいない」

 

 

 小長谷氏によれば、「ヒトラーは主治医から七七種類もの薬を処方されていた」ということであり、特にシュタールベルクの「薬物の効果」については、

 

  ヒトラーの飲んでいた覚醒剤はメタンフェタミンである。これはヒロポン、つまりアンフェタミンと同じく、ドパミンによく似た化学構造をしている。もともとこれらの覚醒剤は脳の中ではつくられていないが、外から入ると、ドパミンが作用する細胞に、似たような効果をあらわす。またコカインは、化学構造式は似ていないが脳のかなのドパミン量を増やしたり、効果を強める作用がある。
  ドパミンは運動をスムースにするだけではなく、精神活動を活発にする神経伝達物質である。だから、覚醒剤やコカインは、脳の中のドパミン作動系というシステムにはたらいて、気分を高めているのだ。ドパミン不足のパーキンソン病は、精神的には抑うつ状態である。きっとヒトラーは、負け戦でなくともブルーな気分であっただろう。今日の治療では、ふるえやトボトボ歩きへの効果ほどではないにしても、Lドパでうつ症状も多少はよくなっていく。
  パーキンソン病の患者にコカインや覚醒剤を投与したらどうなるかという論文を読んだことはないが、薬理作用からみて、鈍い動作やふるえなどの症状が改善されるのはまちがいない。こう考えると、ヒトラーの覚醒剤・コカイン常用はパーキンソン病と関係していたとも推定できる。覚醒剤やコカインなどの処方は、病気や薬理作用などをふまえてのことではなく、ヒトラーが経験的に自分に必要なのを知っていて要求したのかもしれない。
  東部戦線の司令部で目撃された、ヒトラーの症状のドラマティックな変わりようも、その間にモレルたち主治医が到着していたことを考え合わせると、覚醒剤などが使われたと推定できる。
  もう一つ、ヒトラーへの処方でパーキンソン病と関係がありそうなのは、アンチガスという薬だ。これの主成分は、アセチルコリンの作用を抑えるアトロピンである。アセチルコリンは胃腸のはたらきを活発にしたり、汗を分泌させるはたらきがある。ヒトラーはよくおならをしていて、またひどい汗かきでいつも臭かったという。彼の前では、悪臭の話題を持ち出してはいけないことになっていた。アセチルコリンのシステムがはたらき過ぎているので、それを抑えるためにアトロピンを飲んでいた。
  アトロピンは目にも作用して、瞳孔を広げる。戦争末期のヒトラーが、異様に輝く目をしているのは、アンチガスの成分のアトロピンのためだという。

 

このように記されている。

 小長谷氏によれば、パーキンソン病患者は、ドパミンが不足する一方で、アセチルコリン過剰な状態となる。ドパミン不足に対応するのが覚醒剤やコカインであり、アセチルコリンの過剰に対応するのがアトロピンを主成分とするアンチガス投与ということらしい。

 

 

 いずれにせよ、「総統閣下シリーズ」の総統の姿、その下敷きとなった『ヒトラー ~最期の12日間~』の中でのブルーノ・ガンツ演じるヒトラーの姿に、この小長谷氏の描く神経内科的ヒトラー像を重ねると、よりリアルに映像を(どちらの映像をも)味わうことが出来るようになるはずだ。

 

 

 

  日報に目を通すときには、ヒトラーはいつも左手で眼鏡を握っていましたが、その手がふるえるたびに眼鏡が机の表面に当って、カタカタと音をたてていました。唇は干からび、パンくずで覆われ、衣服はたべもので汚れていました。

 

  イスから立ち上がるにも人の手を借り、支えられて歩いていた。声はぼそぼそとして聞きとりにくく、口もとからよだれを垂らしていた

 

  総統はみるからに恐ろしげな様子であり、苦しそうに、ぎこちなく足を引きずって歩きまわっていた。地下壕の自分の居間から会議室へ行くときには、上半身を前方に投げ出すようにして、足を引きずって歩いていた。バランス感覚はなくなり、ごく短い距離(たかだか二〇~三〇メートル)を歩く途中で、立ち止まらなければならないときは、壁の両側に置かれた総統専用のベンチに腰を下したり、話し相手にしがみついたりした。目は充血していたし、提出された書類はみな特製の『総統専用タイプライター』で普通サイズより三倍も大きな字で打ってあったが、それでも拡大鏡を使ってやっと読めるようだった。しょっちゅう、口の両端からよだれが垂れていた

 

  昼の作戦会議でのヒトラーの印象はさえないものだった。総統の頭は肩から前に垂れ、制服は食べ物かすで汚れ、無表情のままで地図をみていた。くたびれはてていた。そして顎がふるえつづけていた。

 

  ヒトラーはよくおならをしていて、またひどい汗かきでいつも臭かったという。彼の前では、悪臭の話題を持ち出してはいけないことになっていた。

 

 

 

 これが、あの独裁者の現実の姿と考えるとどこか滑稽な印象も抱いてしまうが、しかしヒトラーのエピソードの背後に見えるのはパーキンソン病患者の日常である。自分の身体が自分の思い通りにならないというのは、誰にとっても辛い話である。

 

 

 

 

 

 最後にオマケ的に、かつて英語圏で作成された「総統閣下シリーズ」作品を紹介しておこう。

 私が初めて接した作品(2008/12/29 に公開)であると同時に、その秀逸さに感心させられた作品でもある。

 

 

 

Adolf Hitler - Vista Problems!
 
https://www.youtube.com/watch?v=JSF39LmpxCY 

 

 

 

 当時、私も総統同様に「Vista Problems」に悩まされていたことを、久しぶりに思い出した。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2017/10/15 07:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/312781/

 

 

 

 

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2017年9月20日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)

 

 前回記事(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」)では、昭和10年代後半の小平地域の軍事関連施設地帯化(戦時開発)と人口増(『小平市史』では「戦時の人口急増」という小見出しが用いられている)、そして住宅営団による軍事関連施設の関係者(従業員等)への住宅供給について触れた。大規模施設の移転・開設に際しては、施設関係者用の住宅供給という課題解決の必要性も生じ、最終的に「戦時の人口急増」として、地域社会のあり方へも影響を与えることとなる。再び『小平市史』から「住宅営団」について引いておこう。

 

  こうした戦時開発に伴う住宅難は社会問題となっており、これに対応して、一九三九年、前年に発足したばかりの厚生省のなかに住宅課が設けられ、深刻化する住宅問題への対応の検討が始まり、一九四一年、政府の全額出資のもとで住宅営団が設立され、住宅団地を造成して賃貸住宅あるいは分譲住宅を供給することになった。
     (『小平市史』 2013 286ページ)

 

 

 今回は、その中の仲宿住宅に焦点を当てるところから始める。

 

  さて小平村には一九四三年、住宅営団住宅として喜平橋の南側に桜上水住宅が、さらにその西側に桜堤住宅がつくられた。これらは陸軍経理学校や陸軍技術研究所などの軍関係施設に勤務する人たちのための住宅であった。また同じ時期小川駅付近には仲宿住宅が建設をはじめていたが、完成は敗戦後になった。ここは兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅であった。
     (『小平市史』 2013 286~287ページ)

 

 陸軍兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅として計画された営団住宅である(「住宅営団」の計画・建設した戦時集団住宅は、基本的に職住近接の立地を特徴とし、その意味で小平地域の営団住宅も例外ではない)。取り上げるのは、「完成は敗戦後になった」仲宿住宅の「戦後」のエピソードである。

 

 

  太平洋戦争により荒廃した国土、東京の復興に、また戦災者の救済に国民がこぞって立ち上がり、昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました。
  生活用水は、浅井戸32井を施設しましたが、当該地区は地下水が深くほとんど使用に耐えず、やむなく居住者は隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸から個々に「水運び」をせざるを得ませんでした。その後、関係者の好意により仲宿住宅街の中央部まで1本の給水管が延長され、共同水栓が設置されました。しかし、居住者の増加によりこれのみに頼り得ず、仲宿居住者組合で対策を検討した結果、坂北、旧兵器廠小平分廠の給水施設の利用を考え、坂北、本町、旭町地区の代表者賛同の下に、大蔵省東京財務局に使用許可を申請した結果、昭和24年8月に使用許可書が交付されました。
  各地区代表者によって給水事業計画を作成して、「小川給水組合」として発足すべく努力を重ねましたが、施設費用等の負担問題で組合結成がならず、対外的には「小川給水組合」として各地区代表者(発起人)が経営にあたることになりました。
  昭和28年12月、関係部落自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し「小川水利協会」を結成して昭和29年1月より新機構によって運営されることになりました。
  当時、役員は水道事業の重要性にかんがみ、任意団体の運営では住民の福祉向上に資するためには非常に困難な点が多いので、水道施設を町に移管し、町営水道として経営すべきであるとの意見の一致をみたので、その体制整備に進みつつありました。
  昭和33年「小川水利協会」から、給水人口の急増と施設の拡張、地域住民の福祉の増進を考慮して、町営として水道事業経営が望ましいとの陳情をうけて、町理事者並びに町議会で調査検討を行い、昭和34年3月の定例議会で小平町営水道事業として経営することに決定しました。
     (『水道事業概要 昭和58年』 小平市水道業務課・工務課 1983 2ページ)

 

 本題に入る前に、「昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました」との記述の正確さの程度について問題を指摘しておきたい。

 

  もちろんこうした住宅の絶対的な不足の状況のなかで、政府の住宅対策がなかったわけではない。一九四五年九月、罹災都市応急簡易住宅建設要綱が閣議決定された。罹災者の越冬対策として、国庫補助により「最モ簡素ニシテ且大量生産ニ適スル」簡易住宅三〇万戸を建設するとしたが、年内に建設されたのは四万三〇〇〇戸にすぎず「恐るべき不良住宅の集団建設事業」とさえいわれた。この政策の一環として建設が促進されたのが住宅営団の仲宿住宅であった。この営団住宅は、もともと兵器補給廠小平分廠の従業者向け住宅として、一九四三年ごろから建設が進められていたが、何らかの事情で中断し、さきの住宅難対策のもとで四五年一二月から建設が再開された。その結果、六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸からなる団地が完成し、新築部分には四六年四月から入居が開始された。また同じ頃、営団旭が丘住宅も完成している。なお住宅営団は一九四六年末に解散したため、それらの住宅は四八年七月から分譲された。
     (『小平市史』 377~378ページ)

 

こちらでは、「新築部分には四六年四月から入居が開始された」とされており、1946(昭和21)年の時点で「入居が開始され」ているのだとすれば「昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました」ということにはならないだろう。総戸数については、『水道事業概要』の248戸と、『小平市史』の「六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸」(八軒長屋が4棟で32戸、それに一戸建て216戸で総計は248戸)は、戸数として同じであり、どちらも確かに住宅営団による「仲宿住宅」についての記述と判断し得る。

 いずれにせよ、

 

  生活用水は、浅井戸32井を施設しましたが、当該地区は地下水が深くほとんど使用に耐えずやむなく居住者は隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸から個々に「水運び」をせざるを得ませんでした。その後、関係者の好意により仲宿住宅街の中央部まで1本の給水管が延長され、共同水栓が設置されました。しかし、居住者の増加によりこれのみに頼り得ず、仲宿居住者組合で対策を検討した結果、坂北、旧兵器廠小平分廠の給水施設の利用を考え、坂北、本町、旭町地区の代表者賛同の下に、大蔵省東京財務局に使用許可を申請した結果、昭和24年8月に使用許可書が交付されました。

 

この太字化した部分からは、戦後に完成した営団住宅には満足な給水施設がなかったこと、そして問題解決のために、当時には「厚生省職業補導所」となっていた旧・東部国民勤労訓練所の「深井戸」からの水に加え、「旧兵器廠小平分廠の給水施設」に頼ることとなった事実が読み取れる。

 旧・東部国民勤労訓練所及び旧・陸軍兵器廠小平分廠は共に、『小平市史』では地域の「軍需工業化」の関連施設として位置付けられていたものである(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)。その施設内に存在した給水施設は、小平村あるいは小平町(すなわち地域行政)の用意したインフラとしての上水道・給水施設ではない。戦後に仲町住宅の住民が頼りとした軍需工業化関連施設内の給水施設は、「開発事業主」としての厚生省、そして陸軍が自ら自身のために用意したものなのである。

 

 「使用に耐え」なかった営団住宅内の「浅井戸32井」、そして旧・東部国民勤労訓練所内の「深井戸」と、旧・陸軍兵器補給廠小平分廠内の「給水施設」については、今のところ、その詳細について記述した文献を探し当ているところまでは進んでいない。しかし、周辺地域の給水施設について知られているところから、ある程度の推測は可能である。

 

 

 まずここでは、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」で紹介した矢嶋仁吉氏の論考に立ち戻りたい。

 

  本地域は、武蔵野台地の南半部の狭山丘陵と多摩川とのほぼ中間地域で海抜高度は90-70mで西部より東部に至るに従って緩傾斜を示している。地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している。即ち、該台地南半の中間地域たる小平村を中心として、その西部の砂川村、霞村新町及び多摩村五ノ神附近がこれと同じ階級に属し、東部に於ては小金井村梶野新田、関野新田及び小金井新田に至る地域であって、小平村はほぼその中間に位している。
  尚、地下水の水深(この場合の「水深」は地下水面深度と井底面深度の差を示す:引用者)は、大部分2.5-5mであり、特に本地域より東方、田無町附近に至る地域は地下水同水位曲線の緩慢なことは著しい現象である。
  かかる地域であるから、集落立地の根本要因たる飲料水の採取に困難を感じたことは、既報(矢嶋先行論文:引用者)の諸新田の場合と同様である。それ故、井戸掘削の技術の進んだ今日に於ても、同村一帯に井戸の数の少ない事は注目すべき事実である。
  井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではないが、大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する。
  又、井戸掘削の難易はただに帯水層の深度関係するのみならず、その場所の地質の関係する所が大である。例えば武蔵野台地の東部の如く、ローム層の比較的厚い地域では、その井戸の内壁も掘ったままで良いが、該台地の西部、又は秋留台地に於ける如くローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない。
  それ故その費用も極めて莫大である。かかる関係から帯水層の深い所では、特にその困難は著しいのである。それ故台地内部に於ては、何処でも戸別毎に井戸を所有するという訳には行かず、共同井戸を使用する所が多い。
     矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 (『地理学評論 11』 1939 17~19ページ)

 

 矢嶋氏は、このように小平地域における井戸掘削の困難について語っていたのであった。小平地域は「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、しかも「ローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない」という二重の「困難」である。15mとは、ほぼ5階建てのマンションの高さに相当する「深度」である。「手掘り」による「掘削」であることを考えれば、それだけで十分に「深い」と思われるだろう(その深度での掘削では、加えて酸欠の危険も問題となる)。

 しかし、戦後の仲宿住宅住民が頼りとした「隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸」の「深さ」は150m前後であったはずだ。

 地下水には浅層のものと深層のものがあり、その性質を異にするのである。より詳しく言えば、

 

  地下水の種類(地層の状況による分類)
  ○砂や礫砂利などの「比較的地下水が流れやすい地層、言い方を換えると「地下水を通しやすい層」のことを帯水層(たいすいそう)とよびます。
   一般に、地下には、浅い帯水層や深い帯水層など、複数の帯水層があり、帯水層と帯水層の間は、粘土層などの水を通しにくい「難透水層」と呼ばれる地層により分け隔てられています。
  ○降水や河川水、貯水池等の水が地表面から浸透してそのまま地下水となるような、地表面付近の「浅い」帯水層などを不圧帯水層、また、ここを流れる地下水を不圧地下水とよびます。
  ○地表面付近の帯水層と難透水層で分け隔てられている「深い」帯水層などで、帯水層が地下水で満たされており、上部の難透水層との境界面に上向きに水圧がかかっているような圧力状態の帯水層を被圧帯水層、また、そこを流れる地下水を被圧地下水とよびます。
   一般には、被圧地下水は標高の高い山地などにつながっており、山地などで地表から浸透してきた水が地下水となり、被圧帯水層の中を平野部まで流動しています。このため、被圧地下水には、水源域の高い標高に相当する高い水圧がかかっています。
   下流の平野部で被圧帯水層まで井戸を掘削すると、高い水圧のため、地下水位が地表面より高く、水が湧き出たり噴出する場合があり、このような井戸を「自噴井(じふんせい)」とよびます。
  ○「深い」帯水層の場合でも、その帯水層の上部に難透水層がなく帯水層が地表までつながっている場合、あるいは、帯水層が満杯ではなく地下水面がある場合には、被圧されていないため不圧帯水層であり、ここを流れる地下水は不圧地下水となります。
     「地下水の基礎的事項」(『地下水マネジメント導入のススメ 技術資料編』 内閣官房水循環政策本部事務局 2017 57ページ)

 

このような構図となり、「深井戸」から汲み上げられる(湧き出す)のは「被圧帯水層」の地下水なのであり、小平地域の深さ15mの井戸は「降水や河川水、貯水池等の水が地表面から浸透してそのまま地下水となるような、地表面付近の「浅い」帯水層」の地下水を汲み上げて利用するものなのである。

 

  武蔵野台地の地質構造の基本的な形態を概観すると、地表から5m~10m前後の厚さでローム層が覆い、その下位に10m前後の厚さで砂礫層が連らなり、さらにその下に砂、シルト、粘土の互層よりなる海成の東京層上部が広がっている。この東京層上部が難透水層を形成し、その上の砂礫層およびローム層に不圧地下水が存在する。
          水谷淳 「武蔵野台地黒目川流域における不圧地下水の水質に及ぼす都市化の影響について」(『環境問題シンポジウム講演論文集 Vol.10』 土木学会 1982 28ページ)

 

この「砂礫層」まででも、小平地域附近では15mの井戸の掘削が必要となったのである。しかし、そこに問題も生じる。

 

  一方これらの集落の家々では、家庭下水を排出する先がなく、そのため、いわゆる”逆さ井戸”(吸い込み槽)と称するものを設けて、ローム層中へ浸透処理する方法が一般に用いられてきた。
     水谷淳 (同論文 27ページ)

 

インフラとしての下水道が未整備な段階では、不圧地下水は家庭下水による汚染と隣り合わせだったのである。

 

 

 先の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」では、現在では「南街(なんがい)」と呼ばれる東大和市内の、かつての東京瓦斯電気工業(後に日立航空機)が建設した従業員用集団住宅地について触れたが、その工場と住宅街への給水問題がどのように解決されたのかについて見ることにしよう。

 

  一九三八(昭和一三)年一月には、土地買収交渉が始まった。第一回八万坪の敷地買収にかかった。
  しかし、水の件が最後に残った。最重要条件である。貯水池からや玉川上水からの給水は絶対だめと分かった。水がないために人が住まなかった土地である。どこを探しても水気さえも見つからない。困り抜いたはてに、当てなしに試掘することにした。
  第一回目に現在の給水塔のある位置で試掘を始めた。水気を含んだ土が上がってきた。少し水らしいものが出てだんだん増してきた。当った、当ったと立会人はほっと安心。試掘一五〇㍍まで掘ったところで、水が湧き出るようになった。テストには一日二〇〇石(約三十六立方㍍)の湧水が出て、関係者全員大喜び。これでいよいよ本格的建設も可能となった。
     (『東大和市史資料編 1 軍需工場と基地と人びと』 1995 27ページ)

 

「試掘一五〇㍍まで掘ったところで、水が湧き出るようになった」という記述に注目して欲しい。150mという「深さ」であり、「水が湧き出るようになった」という記述に反映されている「自噴」の状況である(不圧地下水を利用する井戸では、たとえ15mの深さからのものでも「自噴」することはなく「汲み上げ」が必要である)。そこに給水塔を用意し、工場と住宅街に水を供給したのである。

 

 次は戦後の小平の畑作灌漑試験計画についての記事である。

 

  一九五二(昭和二七)年、東京都農業試験場は、これからの東京都の農業を支える畑作地域の経営改善と輪作体系の合理化をおこなうために、小平町で畑作灌漑試験計画(五か年)をたてる。都下では初の試みで、東京都、小平町、小平町農業協同組合は畑地灌漑連絡協議会を組織して、試験地を小川六番地区に選定する。小川六番地区は、冬作として麦、夏作として陸稲のほか、すいかなど蔬菜類を生産する町内で代表的な農業地域である。そこで灌漑施設を整備して、陸稲を主体とした蔬菜類の輪作経営の改善が目指された。灌漑栽培の研究のため、直径一二インチ(約三〇cm)、深さ四〇四尺(約一二四㍍)の電動ポンプ付きの深井戸とコンクリート製の貯水槽などの施設が設置された。
     (『小平市史』 397~398ページ)

 

注目して欲しいのは「深さ四〇四尺(約一二四㍍)の電動ポンプ付きの深井戸とコンクリート製の貯水槽」との記述である。124mという深さは、それが被圧地下水であることを意味する。それが「コンクリート製の貯水槽など」と組み合わせられている。当時の写真を見ると、施設には二階建て相当の高さをもつ貯水タンクが含まれていることがわかる。その「高さ」には、南街に飲料水を供給した「給水塔」が持つのと同じ意味がある。

 陸軍技術研究所の給水塔について、以下のように説明されている。

 

  サレジオ学園(小平市)西南角の「サレジオ通り」沿いに、異様な様相でそびえ立つコンクリートの塔。第5技術研究所敷地に建設。受水槽(126トン)を塔の上につくり、その圧力で送水した。現在は、大蔵省財務局が管理している。給水塔はもう1塔あった。新小金井街道沿いの学芸大学東門北側の、現「小金井市役所貫井北町分室」敷地内(190トン余)。
     板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)

 

「塔の上」という高い位置に受水槽を設けることによって、低い位置にある広大な敷地内の多数の水栓への給水を可能にするのである。

 

 上水道インフラ整備の整わない戦後の小平のエピソードを加えておこう。

 

  鷹の台団地は昭和38(1963)年発足。発足当初から三角公園西側の共有地(国分寺市北町1-17-3)には井戸があった。敷地内には大きなヤグラがあり、その上に巨大な貯水タンクが設置されていた。毎日大出力のモーターポンプでそのタンクに水をくみ上げ、そこから団地内の約200世帯に飲料水を供給していた。とてもおいしい水で、よその地域からの来訪者にも「おいしいね」といわれたそうだ。
  それが昭和44年から50年にかけて、この地域一帯の配水が少しずつ都の上水道に切り替わっていった。はじめて水道水を飲んだときに「まずい」と感じたそうだ。(もちろん今では浄水技術の革新により、東京都の水道水もおいしくなっている)
  この井戸は今も共有地内に存在している。
  敷地内にあるコンクリート基台の上に、地下150メートルの水脈に届く錆びた鉄管があり、その上部が90度曲げられている。近年、この井戸を整備して、災害時水源として使えるようにしようとの声が出ている。
     「鷹の台団地今昔物語(その1)―井戸から上下水道へ・私道から市道へ―」(『鷹の台団地40年』 2014 4ページ)

 

着目点は、「敷地内には大きなヤグラがあり、その上に巨大な貯水タンクが設置されていた。毎日大出力のモーターポンプでそのタンクに水をくみ上げ、そこから団地内の約200世帯に飲料水を供給していた」という記述。たとえ「自噴」する被圧地下水であっても、貯水タンクへの汲み上げには「大出力のモーターポンプ」を必要とするのである。

 

 

 

 被圧地下水層にまで達する井戸を掘削し、給水塔を建設する。(村であれ町であれ)戦時期の小平の行政にはその力はなかった(戦後になってもその状況が続いた)が、開発事業主としての軍には、資金面でも技術面でも可能であった、ということなのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
  投稿日時 :2017/09/20 19:42 → http://www.freeml.com/bl/316274/311858/
  投稿日時 :2017/09/20 19:44 → http://www.freeml.com/bl/316274/311860/

 

 

 

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2017年9月17日 (日)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)

 

 前回の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」では、昭和10年代後半を中心に現在の小平市に設置された「軍事関連施設」及び「軍需工業化」に関わる施設群を再確認すると共に、「近代総力戦状況」の中でのそれらの施設群の持つ意味を明らかにすることに努めた。

 

 あらためて示せば、

 

  参謀本部北多摩通信所 昭和8(1933)年完成
  傷痍軍人武蔵療養所 昭和15(1940)年開所
  陸軍経理学校 昭和17(1942)年開校
  陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転
  陸軍兵器補給廠小平分廠 昭和17(1942)年開設
  東部国民勤労訓練所 昭和17(1942)年開設
  陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設
  多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊) 昭和19(1944)年編成

 

このような施設群である。

 多数の人員を擁する施設群の開設に伴い、関係者の居住環境の整備も課題となる。

 

 ここではまず、小平地域の人口の推移を確認してみよう。

 

  小平村
 大正9(1920)年
           6068
 大正14(1925)年
           6054
 昭和5(1930)年
           6558
 昭和10(1935)年
           7041
 昭和15(1940)年
           8674

小平町(昭和19年町制施行)
 昭和20(1945)年
          13568
 昭和25(1950)年
          21659
 昭和30(1955)年
          29175
 昭和35(1960)年
          52923

小平市(昭和37年市制施行)
 昭和40(1965)年
         105353
 昭和45(1970)年
         137373
 昭和50(1975)年
         156181
 昭和55(1980)年
         154610
 昭和60(1985)年
         158673
 平成2(1990)年
         164013
 平成7(1995)年
         172946
 平成12(2000)年
         178623
 平成17(2005)年
         183796
 平成22(2010)年
         187035
 平成27(2015)年
         190005

 

 数値は「人口統計データベース」によるもので、国勢調査のデータに基づくものとされているが、昭和20(1945)年の国勢調査は中止となっているので、昭和20年の人口の数値がどこまで正確なものであるのかはわからない。しかし、『小平市史』には、昭和19(1944)年の人口が掲載されており(351ページ)、そこには「15595」と明記されている(ちなみに同ページには、1946年の人口を「13557」とするデータも紹介されており、先のデータベースの昭和20年の人口を「13568」とする記載とは整合的に感じられる)。いずれにせよ、小平への軍関連施設移転設置前の昭和10年の人口7041からすれば、9年間で倍増していることになる。

 小平市の企画政策部 政策課作成の「小平の歴史・文化 市の誕生」(2011)には、

 

  大正10年ごろから、土地会社による大学を中心とした学園都市を造る計画が進められ、関東大震災後に小平学園60万坪(198ヘクタール)の買収が始められ、住宅地域へ変わっていくきっかけとなりました。その後、女子英学塾(現・津田塾大学)、東京商科大学予科(現・一橋大学小平国際キャンパス)、農林省獣疫調査所小平分室(現・独立行政法人動物衛生研究所)などの公共施設が設けられました。
  昭和15年以降になると傷痍軍人武蔵療養所、東部国民勤労訓練所、陸軍経理学校、陸軍技術研究所、陸軍兵器補給廠小平分廠などの軍用施設が設置され、勤める人の住宅も建てられました。

  終戦も間近い昭和19年2月11日に「小平町」となりました。当時の人口は、15,595人(昭和19年1月1日)でした。昭和20年8月15日、太平洋戦争が終結した後、小平は農村から脱皮し、大きく変わりました。東京区部の住宅難に伴う人口の流入と、都営住宅の建設や一般住宅の増加が著しく、また工場の誘致によって、小平もだんだんと都市化しました。昭和30年の国勢調査では、人口の産業構成の都市的業態が、すでに60%以上になっていました。

 

このようにあるように、大正10年代に開始された学園都市開発、その後の女子英学塾(現・津田塾大学)や東京商科大学予科(現・一橋大学小平国際キャンパス)などの移転・開校にもかかわらず、人口の増加率が低かった事実が人口推移データから明らかとなる。大正9(1920)年から昭和10(1935)年の15年間での人口増加が1000人以下であるのに対し、昭和15(1940)年から昭和19(1944)年の4年間という短い間に7000人弱の人口増をみているのである。

 小平地域への軍事関連施設の移転・開設が人口増に与えた影響の大きさは明らかであろう(実際、『小平市史』では「戦時の人口急増」という小見出しを採用している)。

 

 小平地域の戦時住宅開発を担ったのは住宅営団であった。住宅営団については「芦原義信のテニスコート」でも触れたが、ここでは『小平市史』から引いておく。

 

  こうした戦時開発に伴う住宅難は社会問題となっており、これに対応して、一九三九年、前年に発足したばかりの厚生省のなかに住宅課が設けられ、深刻化する住宅問題への対応の検討が始まり、一九四一年、政府の全額出資のもとで住宅営団が設立され、住宅団地を造成して賃貸住宅あるいは分譲住宅を供給することになった。
  住宅営団の母体となったのは、財団法人同潤会である。これは一九二四(大正一三)年、関東大震災復興事業の義援金の一部を用いて設立された内務省管轄の財団法人で、当初罹災者のための仮住宅を建設したが、その後青山や代官山、清砂通りなど一六か所に、近代的な住宅設備や居住者のための共同施設を充実させた鉄筋コンクリートのアパートや、近郊に「勤人向け」の一戸建て分譲住宅を建設したことで知られる。同潤会は都市新中間層の新しい生活の場のモデル事業を展開したのである。
  一方、住宅営団は「住宅営団ハ労務者ノ他庶民住宅ノ供給ヲ図ルコトヲ目的トス」(住宅営団法〈一九四一年三月公布〉第一条)とあるように、軍需工場に勤務する労働者のための住宅を供給することに重点が置かれていた。なお営団には土地収用法にもとづく土地収用の権限や(第一七条)、各種税が免除されるなどの特権が与えられた。五年間に三〇万戸の住宅建設が目標として掲げられたが、一九四六年一二月に住宅営団が閉鎖されるまでに一六万五千戸が供給されたに過ぎなかった。
  さて小平村には一九四三年、住宅営団住宅として喜平橋の南側に桜上水住宅が、さらにその西側に桜堤住宅がつくられた。これらは陸軍経理学校や陸軍技術研究所などの軍関係施設に勤務する人たちのための住宅であった。また同じ時期小川駅付近には仲宿住宅が建設をはじめていたが、完成は敗戦後になった。ここは兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅であった。
     (『小平市史』 2013 286~287ページ)

 

 昭和10年代後半の小平の軍事地域化に伴う人口増加を住居面で支えたのは住宅営団だったのである。

 

 

 『小平市史』にあるように、住宅営団の業務としては「軍需工場に勤務する労働者のための住宅を供給することに重点が置かれていた」が、小平地域で建設されたのは「軍需工場」の「労働者」ではなく「軍関係施設に勤務する人たちのための住宅」であったところに特色がある。

 ちなみに、小平の南の国分寺には軍需工場として銃砲生産の中央工業南部銃製作所があり、西の東大和には発動機生産の日立航空機株式会社があったが、それぞれに「軍需工場に勤務する労働者のための住宅」を自社で用意している。

 

  この地域で軍の主導で設置された軍需工場に国分寺の中央工業南部銃製作所がある。1917(大正6)年に東京砲兵工廠の技術者70人で中野区に創設されたが、1929(昭和4)年に国分寺に移転し、小銃の生産を行った。板橋の陸軍造兵廠の指導を受けていた。中央線の北側の台地端に工場、中央線南側に工員宿舎・食堂・浴場・青年学校校舎などが並んだ。1936(昭和11)年大倉財閥系となり、規模拡大、拳銃・軽機関銃・航空機搭載用機関砲などを生産した。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学 第105号』 1998 126ページ)

 

  国分寺町内最大の軍需工場は中央工業南部工場でした。工場は現在の早稲田実業学校の場所にあり、中央線の南側、現在の東京経済大学のある場所には工場で働く人達の宿舎や食堂がありました。最大で6,000人以上の人が働いていたとも言われています。戦争末期になると、労働力の不足を補うために町内の国民学校の生徒も動員されています。
     (『武蔵国分寺跡資料館だより 第22号』 2015 2ページ)

 

  立川飛行機の北約2kmの大和村南部の玉川上水にそった赤松の平林地のなかに、1938(昭和13)年、東京瓦斯電気株式会社の立川工場が建設され、従業員1,000人が大森から移動してきた。東京瓦斯電気(略称ガス電)は、1910(明治43)年荏原郡大森町大森海岸に創設の総合機械メーカーである。その航空機部門の発動機製造工場の整備拡張のため立川に新設され、陸軍航空廠と立川飛行機へエンジンを納入するべく、大和村の赤松林が選ばれた。当時大和村には零細な食品や絣織の工場があるのみの純農村地帯であった。ガス電進出地域は武蔵野台地の中央部で地下水面は深く集落はなかった。僅かな桑畑のほか赤松林や雑木林がひろがる土地であった。ガス電はここに工場用地50万坪に社宅・診療所・郵便局・幼稚園・公民館・浴場・映画館・迎賓館・グランド等諸施設のための50万坪計100万坪を計画した。実際は工場は翌1938(昭和13)年に完成するが、後に南街と称せられる住宅団地は未完で終わった。それでも戸数は600戸を越えた。工場の制服を着用した従業員が住宅と工場を毎日往復する生活を送った。大和村字芋窪の地名にある工場であるが立川へ納入する製品をつくり、立川工場の呼称があり、人々は立川をむいていた。工場は陸軍の方針で日立製作所の系列に置かれることになり、社名を日立航空機株式会社と改称した。工場は拡大され、軍管理工場となり最盛期徴用工・動員学徒も含め13,000人に達した。1944(昭和19)年、西武鉄道小川駅から工場へ引込み線を設け蒸気機関車で材料と製品を搬入し、国鉄の川越線と中央線に連絡した。この路線は戦後西武鉄道が上水線として復活した。工場は1945(昭和20)年2月17日と4月24日の空襲で壊滅した。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学 第105号』 1998 130ページ)

 

   ドイツナチスによるジードルングのユートピア運動というのがある。労働者に職を与えて安定した生活をつくり上げる。労働者は一日の労働に疲れて家に帰り、新鮮な空気を吸い、和やかな家庭的慰楽の生活にひたり、新しい明日への活力を回復するという考えに基いた都市構想、これが「ジードルング」で当時ドイツの企業経営に多く採用されていた。
   ジードルングというのは、つまり、都市郊外に一団として建設される企業を中心とした、集合住宅という意味である。ドイツで昭和七年、住宅法が制定され、特にその政策を工業を主体とする企業が採り入れていた。
          (元日立航空機専務 内山 直 手記)
  ジードルング構想に瓦斯電の重役が着目し、航空機部門を拡大するに当って、郊外に広大な土地を取得して、そこに立派な工業都市を創設したい。生産を主体として、そこで働く人びとの福祉も考えた工業都市。ジードルングよりもさらに一歩進んだ内容をもった夢を描いていた。
     (『東大和市史』 2000 337ページ)

 

  ジードルング主唱者の内山直専務の下で作成された地域社会計画は、工場を中心として、
   ・総坪数  十万坪
   ・工場   五万坪
   ・福祉地区 五万坪
     ○社宅・寮 ○物品販売所 ○郵便局 ○診療所 ○映画館 ○幼稚園 ○公民館 ○共同浴場 ○スポーツ施設
   ・給水 給水塔から工場・社宅などへ給水設備による給水完備による近代都市化。
   ・社宅 社員は一戸建て 浴室付
       工員は二戸建て (日立になって四軒長屋に変更)
  住宅施設は昭和十三年十二月から建て始め、第一住宅、第二住宅、第三住宅と工場から遠い順に名称が付けられ、計画的に区画された住宅街が建設されていった。
   ・住宅総数 五五四戸 ・独身寮=親和寮(職員) 純和寮(女子) 明和寮(準職員) 温交寮(製造) 青年学校寮
     (同書 338~339ページ)
 

 

 現在の東京経済大学の地に、かつて存在した「工員宿舎」がどのような建築物であったのか? 独身者向けの寮形式の建物が中心であったのか? 家族持ち向けの住宅も用意されていたのかどうか? いささか気になるところではある(今後の課題の一つとしたい)。

 

 東京瓦斯電気工業の壮大なジードルング構想には誰しも驚かされるであろう。

 星野論文と『東大和市史』では敷地の規模が異なるという問題は残るが、星野論文が参照している『東大和市史資料編 1』(1995)にも「住宅地などを含めた総面積は、一九〇万八四七平方㍍(約五七万五〇〇〇坪)というぼう大な土地で、工場用地は、公称七万二六〇〇平方㍍(約二四万坪)」とあり、『東大和市史』の示す敷地規模には説得力があるように感じる(もっとも私には、このような規模の面積の感覚がないという問題がある)。

 一般的には、「ジードルング」という語で思い浮かべられるのは、ナチスではなくワイマール期の近代主義的集合住宅建築の方であろう。バウハウス関係者をはじめとした、後にナチスにより排除されることになるモダニズム建築家たちにより設計された賃貸の多層階集合住宅群である。

 ナチスのジードルングは、ワイマール期の近代主義的集合住宅建築とは一線を画した、持ち家としての戸建て住宅建設計画であったようである(註:1)。そのような意味でも、瓦斯電の構想した戸建て住宅群は、ワイマール期の近代主義建築とは異なり、ナチスの「ジードルング」に近い(戸建て中心という点で言えば、住宅営団の戦時集団住宅群も同様であった―その背景としては、多層階の集合住宅建設に比べ低層の戸建てであれば技術的にも資材的にもハードルが低いという側面もあるだろうし、そもそも戦時期に払底したのは資材だけではなく建築技能者も招集の対象となっており、小規模な戸建て住宅の建設すらままならない状況に陥っていた(註:2)というのが現実でもあった)。

 

 同潤会も住宅営団も海外の住宅政策の研究をしており、その中ではナチスのジードルング政策についても紹介されている。まさに同潤会も住宅営団も、ナチスと同時代の住宅政策の試みであった。ワイマール期のジードルング構想も試行錯誤の続く段階でナチスの時代を迎え、ナチスのジードルング政策も敗戦により未完のままで終わっている(註:1)。

 

 

 瓦斯電の構想も未完に終わってしまったが、それでも現在の東大和市の「南街」と呼ばれる地区には当時の地割が残されており、かつてのジードルング構想の一端を偲ぶことは可能である(註:3)。

 「ジードルング主唱者の内山直専務の下で作成された地域社会計画」を描いた当時のイラスト(そこには「昭和25年度完成予定」と記されている!)の中の「スポーツ施設」に「テニスコート」が含まれている点に個人的な感慨を覚えたことを、今回記事の最後に記しておきたい(「芦原義信のテニスコート」参照)。

 

 

 

【註:1】

  23年末から29年秋に至る期間は、数々の建築プロジェクトが開始され、新しい住宅建築への動きが目立つようになる。都市の中心は依然として昔日の威容を誇る建物が支配していたが、ようやく都市周辺に新しいジードルンクが発生し始める。建築を思潮面でリードしていたアヴァンギャルドは、理論の段階から実際面でも地歩を占めつつあったのである。しかしドイツでは、建築は33年以降、再び新古典様式に回帰することになる。住宅デザインにおいても、33年以降ヒトラーが力を入れたのは、各人に独立の家屋を持たせる政策であった。集合住宅の建設と平行して個人の持ち家政策が推奨されたのである。牧歌的な庭で世間から離れて、アヒル、鶏、幼子、乳母車に囲まれ休息する、というのが当時の一般国民の理想であったが、これを奨励し、再び戦争の危機が高まりつつある中でも、1万マルクから2万4千マルク、すなわち、比較的若いサラリーマンの1-3年間の収入で割安に建てられる設計プランが建築雑誌上で喧伝されている。
     坂口眞佐子「モダンデザインの背景を探る 1920年代アヴァンギャルド住宅誕生における諸事情その3 ヴァイセンホーフ・ジードルンク」(『大阪樟蔭女子大学論集第 47号』 2010 122ページ)

 

【註:2】
 昭和10年代前半の段階(すなわち対米戦争以前)で既に建築技能者不足が問題化していた。

  住宅建設の建築技能者(大工、左官、現場監督者等)は、兵士にとられたり、また賃金の高い軍需産業及び生産力拡充産業に転職する傾向にあり、またそれが容易であったため技能者が減少した。建築技能者の徒弟制度は崩壊しつつあり、技能者が養成されなかった。そのため絶対数の減少は、必然的に建築技能者の賃金の上昇をまねいた。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  439ページ)

 

【註:3】
 現時点(2017/09/17)での『ウィキペディア』の「住宅営団」の項には、

  住宅営団が戦中・終戦直後の時期に建設した住宅地では、東京都区内では同潤会から引き継ぐ千住緑町、新宿区百人町住宅(後の通称越冬住宅)、東京都現市域では旧北多摩郡武蔵野町(現武蔵野市)の関前字千川堀附住宅(現八幡町住宅地)吉祥寺野田町南・吉祥寺駅北方住宅(現緑町)武蔵境上水北小金井公園東側住宅、旧大和村南街住宅、など、飛行機製造業工場の従業員用の住宅を多く供給した。

このように記されている。「旧大和村南街住宅」が住宅営団の事業として記されているが、「南街」はまさに東京瓦斯電気工業(及び継承した日立航空機)によるジードルング構想に基いて建設された集団住宅地であり、『ウィキペディア』の「住宅営団」の項の現状は誤りを含むものと言えそうである。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/09/17 15:09 → http://www.freeml.com/bl/316274/311741/

 

 

 

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2017年8月30日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、既に4回にわたって記してきた。「多摩(武蔵野)地域」の全体を視野に入れつつ、特に(「武蔵野」の名を冠した)武蔵野美術大学の所在地でもある現・小平市に焦点を合わせることで、軍事施設の立地と地勢的条件の関係を、より具体的なものとして理解することに努めてもきた。

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)」では、星野朗氏の論考を下敷きにして、

  そこには中心となる武蔵野台地の平坦な地形(広大な工場用地、軍事施設への転用に有利)があり、鉄道輸送網として東西方向を結ぶ中央線と、それに並行する(現在の名称で言えば)京王、小田急、西武の各線があり、南北方向にも複数の路線があることに加え、旧来の街道が存在することで地域外及び地域内相互間の陸上輸送の便もよく、しかも「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスもよかった。

このような構図として問題を整理してみたが、小平地域について言えば、当時の小平村・小平町の南方(国分寺・小金井地域)を中央線が走り、地域内を南北方向(ここでは中央線にもアクセスしている)にも東西方向にも現・西武鉄道の各路線が結び、「旧来の街道」としては東西方向には青梅街道と五日市街道、南北方向は府中街道等が連絡することで地域間の相互交通・陸上輸送を可能にし、それらにより「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスも確保していたことになる。

 

 続く「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」では、多摩武蔵野の「軍産複合」状況の中で、他地域との比較において、小平地域の特徴としての各種の軍事施設の集中を確認した(「産」ではなく「軍」の施設の集中的立地地域なのである)。

 

 そして「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」ではあらためて、(多摩武蔵野地域全体という視野に小平地域の特性という視点を加え)地形を中心とした自然的条件と軍産施設の立地の関係を確認しておいた。

 小平地域の問題としては、「そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていった」事実が再確認されたことになる。

 

 前回に当る「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」では、矢嶋仁吉氏の1939(昭和14)年の論文を読むことで、40年代に本格化する小平地域の軍事化の直前の小平の状況を、地理学者の眼を通して理解・把握することを試みた。

 小平地域の「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、「大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」のであって、居住者にとって「飲料水問題」が切実であることを矢嶋氏は繰り返し指摘していた。

 前回記事の最後では、そのような地勢的条件を前に、「小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置」する形で対処したことを示しておいた。

 

 

 

 「一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」小平の土地に自ら給水塔を用意し、地域の軍事化を可能にしたのは、「多大な費用」の支出を可能にする軍事予算の規模と、軍の保有する高度な「技術」的基盤であった。当時の地域行政を担った小平村にも小平町(小平での町制施行は昭和19年である)にも、そのどちらの備えもなかった(小平町が町営の水道事業を開始したのは「戦後」の昭和34年―1959年―になっての話である)。

 地域の基礎インフラとしての給水施設・上水道整備問題については後であらためて取り上げることとして、今回は小平地域の軍事施設の特質について整理しておきたい。

 

 

 

 昭和10年代を通じて、どのような軍事施設が小平地域内に設置されていったのかについて、今回は『小平市史』(2013)の記述により再確認することから始めてみたい(『小平市史』の参照は、星野氏の論考を補うことにもなるはずだ)。

 『小平市史』では、その第四章を「戦時開発と町制施行」とし、「第一節 戦時開発と変わる小平」の中の「1 軍事関連施設の進出」には、

 

  参謀本部北多摩通信所 昭和8(1933)年完成

  傷痍軍人武蔵療養所 昭和15(1940)年開所

  陸軍経理学校 昭和17(1942)年開校

  陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転

    第二技術研究所(観測・測量・指揮連絡用兵器など)と第五技術研究所(通信機材・整備機材・電波兵器)の敷地が小平

    第一(鉄砲・弾薬・馬具)、第三(爆破用火薬・工兵器材など)、第八技術研究所(兵器材料・化学工芸など)の敷地は小金井

《追記:2017/08/31》
    第1研究所/銃器、火砲、馬具、弾薬等に関係する部署
    第2研究所/測量器、照準器、眼鏡などに関係する部署
    第3研究所/渡河、鉄道、架橋、道路、爆破器材および一般工兵器材などに関わる部署
    第5研究所/電波、通信機材関係の部署
    第7研究所/物理的兵器関係の部署
    第8研究所/兵器の基礎研究に関する部署
     (板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)からの抜粋)

  陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設

    第五、第七、第九技術研究所の電波兵器関連研究開発機能を統合

  多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊) 昭和19(1944)年編成

    東京産業大学(現・一橋大学)予科校舎に本部を設置、国立本校校舎も接収

    津田塾の校舎及び女子寮を接収し下士官の宿舎とする(1945年4月―5月には幹部候補生も産業大学予科校舎の兵舎の空襲火災による焼失により移転)

 

この6施設が記され、「2 軍需工業化と小平」では、

 

  陸軍兵器補給廠小平分廠 昭和17(1942)年開設

    板橋区十条にあった東京陸軍兵器補給廠の「分廠」

  東部国民勤労訓練所 昭和17(1942)年開設

    厚生省所管の軍需動員労務者訓練施設

 

この2施設が取り上げられている(『小平市史』では、「軍事関連施設」と「軍需工業化」に関わる施設に区別を設けて記載していることになる)。

 東部国民勤労訓練所は軍に所属する施設ではなく厚生省所管施設だが、総力戦体制の下では、確かに「軍需工業化」の関連施設として位置付けられ得るものではある。

 陸軍兵器補給廠小平分廠についても、「軍事関連施設」そのものであることも確かであるが、『小平市史』では「小平分廠は車両の修理工場を有しており、そこに多数の工員を要する軍需工場という側面をもっていた」点に着目し、「軍需工業化と小平」の文脈に位置付けて記載しているようである。

 

 

 「軍」は戦争の際に公務として武力を行使する組織である。戦争の際にクローズアップされるのは「前線」での相互の軍事力行使、すなわち「戦闘」であろう。「戦闘」を担うのは各地に配備された「師団」に属する将兵である。しかし小平地域に設置された軍事関連施設は「師団」に属するものではない。その意味で、前線とはワンクッション隔てられている施設群と言うことも出来る。

 とは言っても、戦争となり前線での戦闘が始まった際には、小平地域に設置された軍事関連施設の中では、「参謀本部北多摩通信所」が情報収集施設(陸軍の対外情報収集活動に用いられる「傍受用無線受信所」であった)として、戦闘行動に直接の関係を持つものとなり得る(もっとも、情報の軽視は、「先の大戦」を通しての日本陸軍の問題点であり続けた)。

 また、「陸軍兵器補給廠小平分廠」は、「小平分廠は全国の軍需工場でつくられた戦車や装甲車、軍用トラック、サイドカーなどの大型兵器を運び込んで保管し、ここから必要とする舞台に供給する施設である」と『小平市史』の中で位置付けられている通り、前線部隊の戦闘行動と切り離すことは出来ない、戦闘行動に直接の関係を持つ、軍の補給を担う施設である(補給―兵站―の軽視もまた、「先の大戦」を通しての日本陸軍の問題点であり続けたのであるが)。

 

 

 「陸軍経理学校」について『小平市史』は、

 

  陸軍経理学校とは、軍隊組織の財政管理・会計実務、軍施設の建設や維持、軍服や糧食などの調達、軍需工場の監督といった軍隊組織の管理運営全般と物資の補給実務を担当する学校で、創立は一八九〇(明治二三)年であった(麹町富士見町)。東京牛込区若松町の校舎(通称若松台)で長く教育にあたっていたが、満州事変の頃から校舎移転の議論が起こり、一九四〇年頃になって「教育の拡充」の必要性から小平村への移転が決定されたのであった。つまりこの移転は、総力戦の時代になって、軍隊組織の管理を担当する将校が質・量ともにそれまで以上に求められるようになったことを示す。
     (『小平市史』 227ページ)

 

このように解説している。戦争での戦闘行動を考える際に、前線の兵士と戦闘部隊指揮官の能力、司令部での参謀将校の作戦立案能力も確かに戦闘の帰趨を決定するものではあるが、国家による総力戦となった近代戦争において欠かすことの出来ないのが、有能な経理部将校の存在(申し添えておけば、皇軍の重要施設であった「慰安所」の設置もまた経理部将校の職務であった)なのである。戦争の勝利には、マネジメント能力が必須の時代となっていたのである。「教育の拡充」を目的とした小平への陸軍経理学校の移転は、その点について陸軍が無理解ではなかったことを示している(が、しかし、合理的で時には冷徹でもあるマネジメントではなく非合理的精神主義の熱狂と大言壮語が陸軍を支配し続けたのも事実である)。

 

 

 「先の大戦」(公式名称は「大東亜戦争」である)はまさに近代の戦争、「国家総力戦」の時代の戦争であった。前線と銃後の別が完全に消え去るというものでもないが、「銃後」(にいるはず)の国民も動員され、軍需生産を支えることになる。

 前線の兵士の勇猛さだけではなく、銃後の軍需生産能力が戦争の帰趨を左右する。「銃後」もやがては都市無差別爆撃の標的にされてしまう。それが総力戦の時代である。

 

  戦争の拡大・長期化のなかで、軍需工業をはじめとする重要産業に労働力を効率的に供給するため、政府は労働力動員政策を展開した。一九三九年の国民徴用令にもとづいて労働者を徴用するほか、女子や農業者、学校の新規卒業者を重要産業に誘導しようとした。さらに政府は一九四〇年一〇月、非軍需産業の中小商工業者を廃業させ、軍需産業への転職を促すことにした。そのため転職を斡旋する国民職業指導所を設けるとともに、転職者の職業訓練をおこなうために国民勤労訓練所がつくられることが決まった(一九四一年二月)。東部国民勤労訓練所はその最初のもので、その後奈良市、愛知県一ノ宮村、福岡県神湊村の三か所にも同様の訓練所がつくられた。
     (『小平市史』 284ページ)

 

「国民徴用令」は、国家総動員法に基づくもので、同法では、

 

  第四條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝國臣民ヲ徴用シテ總動員業務ニ從事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

  第三十六條 左ノ各號ノ一ニ該當スル者ハ一年以下ノ懲役又ハ千圓以下ノ罰金ニ處ス
   一 第四條ノ規定ニ依ル徴用ニ應ゼズ又ハ同條ノ規定ニ依ル業務ニ從事セザル者

 

このように規定され、「第四條ノ規定ニ依ル徴用ニ應ゼズ又ハ同條ノ規定ニ依ル業務ニ從事セザル者」は処罰の対象となっていた―つまり「徴用」は法による強制であった―のである(「国家総動員体制と都市無差別爆撃の論理」参照)。その徴用対象者の教育訓練施設が「東部国民勤労訓練所」なのであった。

 ちなみに東部国民勤労訓練所を所管する厚生省は、昭和13(1938)年に陸軍の主導により設立されている。

 

  厚生省の設立目的は、「国民の健康を増進し体力の向上を図り以て国民の精神力活動力を充実すると共に、各種の社会施設を拡充して国民生活の安定を図る」ことにあったが、国民の健康増進、体力向上や国民生活安定は戦争の遂行と密接に関係していた。厚生省設立に際しての総理大臣声明は、「事変中及び事変後に於ける銃後諸施設及復員計画に伴う諸施設の拡充徹底は国民保険及国民福祉の双方面に亘りて刻下喫緊の要務なり」と述べている。
     増山道康 「戦争計画による社会保障制度形成―人口政策確立要綱―」 (『岐阜経済大学論集 37巻第2号』 2004 抜刷2ページ)

  厚生省構想は、当初陸軍省より衛生省設置案として提起されたが、この案は枢密院審議までこぎつけるものの結局破棄される。結局1937年12月閣議決定された保健社会省設置要綱に基づき、翌年厚生省が設立された。この設置要綱では、設立目的が戦争計画の一環であることを明言している。
  「国民生活の健康を増進し体位の向上を図り以て国民精神力及活動力の源泉を維持培養し産業経済及非常時国防の根基を確立するは国家百年の大計にして特に国力の飛躍的増進を急務とする現下内外の情勢に鑑み喫緊の要務たり。然るにわが国に於いては……国民的活力を減殺し、産業経済及国防の根基を動揺せしむるに至るべく……この際特に一省を設けて急速且徹底的に国民の健康を増進し体位の向上を図るは刻下焦眉の急務となす」。
     同論文(同2~3ページ)

 

東部国民勤労訓練所が厚生省所管であることの意味も、より明らかとなるであろう。

 

 

 そして「総力戦」状況は、各国の「新兵器」の開発能力を問うものともなっていた。そのための施設が「陸軍技術研究所」であり「陸軍多摩技術研究所」であり、開発された電波兵器の操作訓練の場が「多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊)」であった。

 

  電波兵器とは、通信以外の用途に電波を利用した兵器で、陸軍では一九三八年頃からレーダー兵器(地上用の電波警戒機や航空機用の電波標定機など)の研究が開始され、一九四二年頃にはやっと実用段階に到達したが、すでに「電波戦」を戦っている欧米諸国には大きく遅れをとっていた。アメリカ軍の圧倒的な航空戦力との格差はすでに明らかで、それに対抗するために日本軍は、電波兵器の研究開発・実戦配備を急ピッチで進めていかねばならなかったのだ。同研究所では機上電波警戒機、機上電波標定機、電波妨害機、地形判別機、電波高度計、電波探索機が開発された。
     (『小平市史』 280ページ)

 

 この「電波兵器」はそれ自体の破壊力に意味がある種類の「新兵器」ではなかったが、「総力戦」時代の「新兵器」の多くは、より高速で、より強力なものとなり、その集中的使用がもたらす破壊力の大きさは兵士の肉体だけでなく精神をも粉砕するものとなっていった。

 

 

 すなわち第一次世界大戦時には「シェル・ショック」と呼ばれた戦争ストレス反応の多発である。戦時日本では「戦時神経症」(あるいは「戦争神経症」)と呼ばれたが、まさに「傷痍軍人武蔵療養所」こそは、強力な破壊力の集中的使用に特徴づけられる近代総力戦下の戦場で精神を粉砕された兵士、「戦時神経症」を発症した将兵のための施設であった。

 その開所は昭和15(1940)年である。つまり対米英戦争(いわゆる「太平洋戦争」である)以前の段階、中国大陸での軍事行動(いわゆる「支那事変」である)の段階で既に戦時神経症症状の多発があり、日本陸軍は対処を迫られていたのである。

 早くも昭和13(1938)年の段階(事変の2年目)で、国府台陸軍病院が戦争神経疾患対策のための特殊病院に指定されていたのが実情であった。

 

  1931年の満州事変から足掛け15年にわたる戦争でこれまでにない規模の人々が戦地へと動員される中で、心理的な原因で精神疾患になったと考えられた人々は当時「戦争神経症」「戦時神経症」と呼ばれ、軍部や国家の関心事となった。その中で、1938年、国府台陸軍病院が精神神経疾患となった軍人の専門治療機関となり、1940年に精神障がいを対象にした傷痍軍人武蔵療養所が設立された。
     中村江里 「往還する〈戦時〉と〈現在〉:日本帝國陸軍における「戦争神経症」」 (博士論文要約 2015)

 

  十五年戦争は、精神神経疾患兵士に対する国家的なケアがなされるようになった初めての戦争であった。一九三八年以降、国府台陸軍病院が精神神経疾患専門の治療機関として機能するようになり、一九四〇年に精神疾患を対象とした傷痍軍人療養所である武蔵療養所が設立されたことはその証左であろう。このような福祉領域への国家の介入は、近年明らかにされつつある総力戦と「福祉国家」ないし「社会国家」化という問題とも関連している。
     中村江里 「「白衣の勇士」か「疾患への逃避」か?―総力戦と精神疾患をめぐるポリティクス」 (東京歴史科学研究会第49回大会個別報告要旨 2015)

 

  戦争の影響で精神疾患になり、国の費用負担で療養を続けたまま亡くなった旧日本軍関係者らが、政府統計が残る過去約五十年で約千人に上ることが、共同通信のまとめで分かった。このうち七割近くは入院したまま最期を迎えた。それ以前の統計や民間のデータはなく、戦争で心の傷が生涯残った人は千人をはるかに上回るとみられる。

  日本国籍を持つ旧軍人や旧軍属らが精神疾患を含めて戦争に関連するけがや病気と診断されると、戦傷病者特別援護法に基づき国が療養費用を負担する。この制度の対象者に関して国が毎年公表している統計資料などを基に集計した。
  同法が施行された一九六四年度以降、精神疾患の療養を受けている状態で亡くなった元軍人らは九百九十九人に上る。内訳は入院先で最期を迎えたケースが六百八十二人、通院中が三百十七人。病気や事故、自殺など、死亡原因に関する情報はない。一方、治癒した人は延べ百七十五人にとどまり、後に再発したケースが含まれている可能性もある。
  療養途中の人数を年度ごとに見ると、七四~八五年度は常に千人を超え、最多は七八年度の千百七人だった。今年三月時点では少なくとも九人が療養中とみられる。発症した状況は分からないが、陸軍病院の医療記録を分析している埼玉大の細渕富夫教授によると、戦闘への恐怖、軍隊生活で受けた制裁、加害行為への罪悪感などが精神疾患の要因になっている場合が多いという。
  民間人の精神疾患では、住民が地上戦に巻き込まれた沖縄県で、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)などと診断された人がいるが、実態が把握されているのはごく一部とみられる。

  <元軍人の精神疾患への対応> 日中戦争開始翌年の1938年、陸軍は「戦争神経症患者」の扱いに関する方針を定め、千葉県にあった国府台(こうのだい)陸軍病院を中心に対応することを決定。各地から精神疾患の将兵を同病院に送る態勢が終戦まで続いた。戦後も精神疾患を含む戦傷病者の療養に国費を充てる仕組みがつくられ、現在は戦傷病者特別援護法で規定している。戦争や、関連する公務が原因と診断された旧軍人や旧軍属などに限られ、朝鮮半島や台湾の出身者は対象外。療養は手術や投薬といった治療のほか、自宅や入院先での看護を含む。
     (東京新聞 2016年11月7日 朝刊記事抜粋)

 

この東京新聞記事には、「戦時神経症」による「療養」が過去の話ではなく現在にも続くものである事実に加え、「戦時神経症」の要因として「戦闘への恐怖」だけでなく、「軍隊生活で受けた制裁、加害行為への罪悪感などが精神疾患の要因になっている場合が多い」との細渕教授による談話が掲載されている点も見落とさないでおきたい。

 また、『小平市史』には、

 

  一九四〇年から四五年までの五年間に延べ九五三人が入所し、七一四名が退所したが、うち死亡による退所が三八〇名に及んだ。食料事情の悪化と燃料不足による寒さが、患者の死亡率を押し上げたのだった。
     同書(276~277ページ)

 

とあり、「戦時神経症」となった兵士の療養生活の悲惨な実態も記されている。

 

 

 

 

 銃後の軍事施設という共通点の中から、「先の大戦」が「近代総力戦」であったことの意味が見えてくるはずである。既に前線での戦闘部隊の勇猛さと、その背後の参謀本部の作戦立案能力だけが戦争の帰趨を決する時代ではなくなっていた。

 広域化・長期化する戦争の中で、正確な情報収集、確実かつ継続的な補給の重要性が高まり、より強力な兵器の開発能力が問われ、巨大組織と化した軍のマネジメント能力が問われ、各種軍需品の生産能力が問われるのが、「総力戦」時代の戦争の姿であった。その時代条件に対応する関連軍施設、教育訓練施設、研究施設が集中的に立地されたのが小平地域なのである。そして戦時神経症の多発もまた「総力戦」としての戦争がもたらす現実であり、軍自らの対処を迫られることになった。

 小平に立地された軍事関連施設群の特質を通して、日本の近代、総力戦時代としての近代の姿が見えてくるはずである。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/30 19:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/311076/

 

 

 

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2017年8月25日 (金)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)

 

 前回の記事「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」では、用語として「多摩」と「武蔵野」をどのように使い分けるのか(使い分けられているのか)という問題を導入として、「現・小平市を中心とした地域の地形的特質」についての概略をも示した。

 その上で、「そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていった」事実―小平の軍事地域化の事実―を再確認したわけである。

 

 

 

 今回はあらためて、小平の軍事化が開始される直前の時期に書かれた、「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」と題された矢嶋仁吉論文(『地理学評論 11』 1939)により、小平の地勢的条件についての理解を更に深めておきたい。

 

 

 まず矢嶋氏はその「緒言」において、

 

  武藏野臺地の聚落に就いては、既に諸先學の多くの業績があるが、著者は既に屢々述べた如く、聚落立地と飲料水問題に着眼し、本地域に於ける新田聚落を以て聚落立地とその發展を考究する一つのインディケーターとし、本地域の地域性を闡明せんと試みたのである。地理的諸現象に就いては、1933年以来、屢次に亙つて行へる實測的野外調査を基とし、歴史的考察は、出来得る限り根本史料に據らん事を務め、舊家を歴訪して古記録を渉獵し、又地割その他聚落景觀に就いては、役場の土地臺帳及び地籍圖その他の資料等を照合して論述を進めた。
     (矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 『地理学評論 11』 1939  13ページ)

     (以下、原文の旧字体表記の引用に際しては、「武藏野臺地の聚落」を「武蔵野台地の集落」とするように、原則として新字体表記としておく)

 

このように自身の問題意識と方法を述べた上で、「1 研究地域」として、

 

  研究地域は東京府北多摩郡小平村に属する諸新田である。小平村は、武蔵野台地の西部、狭山丘陵と、該台地の南縁を流れる多摩川とのほぼ中間に位置している。既報(先行する矢嶋論文がある―引用者)の砂川村と、東方の田無町との間に於て、青梅街道に沿って開墾発達した小川、小川新田及び野中新田(与衛門組及び善左衛門組)を中心とし、その北方の大沼田新田と南方の鈴木新田、回田(原文では「囘田」表記)新田等の諸新田を合併した村である。
     (同論文 13~14ページ)

 

このように説明している。

 更に論文執筆時(昭和十年代すなわち1930年代後半)の小平地域の状況にも言及し、

 

  最近、東京市の発達膨張に伴って、本地域附近にも漸次住宅地、工場地等が増加し、東京商科大学予科、津田英学塾等が設立され、その附近の住宅地化と共に同村の一部には、新しく碁盤目状の土地区画が行われ、陸測地形図にも明瞭に示されている。それ故、単に地形図のみによって推断すると、本地域の地割が極めて新しく見え、国立、井荻等のそれと同一視されるおそれがあるが、かかる土地区画は、全く同村の一部分に過ぎず、小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存しているのである。即ち、小平村は、武蔵野台地に於ける新田集落の標式的な列状村の一例であって、特にその地割と集落景観に顕著なる特色を具現している。
  現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたものであって、最近行われた碁盤目状の土地区画とは判然と区別されねばならぬものである。
     (同論文 14~15ページ)

 

現・一橋大学と現・津田塾大学の小平進出と、箱根土地(のちの西武グループ)による住宅地開発について述べた上で、「かかる土地区画は、全く同村の一部分に過ぎず、小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存している」こと、「現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたもの」であることに注意を喚起している。

 

 次の「2 開拓過程」では、明暦期(17世紀)の開拓地(小川村)と享保期(18世紀)の開拓地(小川新田、野中新田、鈴木新田、回田新田、大沼田新田)の開拓の経緯についてそれぞれ概観した上で、「3 飲料水問題」へと続く。

 前回の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」の中で、小平市内を「東西方向に(西側を上流として)」流れる「玉川上水」と呼ばれる「江戸期に開削された多摩川を水源とする水路(上水道)」について言及したが、まさに「玉川上水」の存在こそが、明暦・享保期の新田開発を可能にしたのである。

 矢嶋氏は、自身の研究の根底として、「聚落立地と飲料水問題に着眼し」たことを述べていたが、明暦以前の小平の地が未開拓・未開墾のままであった背景には「飲料水問題」があり、小平地域の「新田開発」を可能にしたのが「玉川上水」(そしてその「分水」)であった。玉川上水の通水が承応3(1654)年で、岸村(現・武蔵村山市)の小川九郎兵衛による新田開発の開始が明暦2(1656)年である(「新田」とは言うもののその実態は畑作であり、玉川上水からの分水の水はまず飲料水として必要とされたのであった)。その点について、「3 飲料水問題」での論を追ってみよう。

 

 

  本地域は、武蔵野台地の南半部の狭山丘陵と多摩川とのほぼ中間地域で海抜高度は90-70mで西部より東部に至るに従って緩傾斜を示している。地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している。即ち、該台地南半の中間地域たる小平村を中心として、その西部の砂川村、霞村新町及び多摩村五ノ神附近がこれと同じ階級に属し、東部に於ては小金井村梶野新田、関野新田及び小金井新田に至る地域であって、小平村はほぼその中間に位している。
  尚、地下水の水深(この場合の「水深」は地下水面深度と井底面深度の差を示す:引用者)は、大部分2.5-5mであり、特に本地域より東方、田無町附近に至る地域は地下水同水位曲線の緩慢なことは著しい現象である。
  かかる地域であるから、集落立地の根本要因たる飲料水の採取に困難を感じたことは、既報(矢嶋先行論文:引用者)の諸新田の場合と同様である。それ故、井戸掘削の技術の進んだ今日に於ても、同村一帯に井戸の数の少ない事は注目すべき事実である。
  井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではないが、大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する。
  又、井戸掘削の難易はただに帯水層の深度関係するのみならず、その場所の地質の関係する所が大である。例えば武蔵野台地の東部の如く、ローム層の比較的厚い地域では、その井戸の内壁も掘ったままで良いが、該台地の西部、又は秋留台地に於ける如くローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない。
  それ故その費用も極めて莫大である。かかる関係から帯水層の深い所では、特にその困難は著しいのである。それ故台地内部に於ては、何処でも戸別毎に井戸を所有するという訳には行かず、共同井戸を使用する所が多い。
     (同論文 17~19ページ)

 

 いささか長い引用となってしまったが、小平地域でも「井戸を掘れば水が出る」ことが間違いではないにしても容易な話ではなく、飲料水としての水を得ることさえが著しく困難であった実態(そしてその背景となる地勢的条件)が伝わってくるのではないだろうか。

 

 18ページの付表には、当時の「小平村の字別戸数と井戸数との関係」(1936年10月調査)と題されたデータも示されている。

 

  小川村 戸数:398 井戸数:45 平均一井使用戸数:8.8

  小川新田 戸数:151 井戸数:22 平均一井使用戸数:6.9

  大沼田新田 戸数:107 井戸数:11 平均一井使用戸数:9.7

  野中新田 戸数:214 井戸数:26 平均一井使用戸数:8.2

  鈴木新田 戸数:161 井戸数:25 平均一井使用戸数:6.4

  回田新田 戸数:37 井戸数:1 平均一井使用戸数:37.8

 

これに対し、

 

  狭山丘陵の麓に沿った地域と、加治丘陵の南麓地域では平均一井使用戸数は、1.0-1.5戸位が大部分を占めている。又、多摩川沿岸の地域に於ては、河岸段丘の上段と下段に於ては著しい差異を示している。下段の集落に於ては殆んど戸別に井戸を有しているに対し、上段の帯水層の深い地域に於ては、2.0-3.0もしくはそれ以上の平均一井使用戸数を示している。
      (同論文 19ページ)

 

ここに示された、他地域の「平均一井使用戸数」との隔絶に、小平地域の「飲料水問題」の切実さは明らかとなるであろう。

 再確認しておけば、これは1936(昭和11)年のデータであり、戦時期日本(1937年に盧溝橋事件による「事変」の開始)の小平地域のインフラ水準の基盤を示す数値とも言い得る。矢嶋論文では、「井戸掘削の技術の進歩した今日に於てさえかくの如き状態であるから、往時の状態は想像に余りあるものであろう」と評している(この「今日」という言葉を通して、1930年代の終わり―昭和十年代半ば―の日本の現実が語られているのである)。

 

 地下水利用の困難としての「井戸」の問題に続き、「次に飲料水問題に就て重要なのは用水路に就てである」として、人工流水路である玉川上水からの「分水」(=用水路)の経緯・概略が語られ、

 

  分水の開削前には、永く荒蕪の原野として放置されながら、分水の開削した享保以後急激にその開拓の進捗した理由もここに存する。又逆に、それ迄長く開拓の行われなかった理由の1つとして、本地域の飲料水採取の不便にあったという事が重要な一因であったと言い得るであろう。
  現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている所が多いのは注意すべき点である。
     (同論文 21ページ)

 

このように話は結ばれる。「井戸掘削の技術の進歩した今日に於てさえかくの如き状態」であるばかりでなく「現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている所が多い」というのが、戦時期日本の小平地域のインフラ水準の実情なのであった(井戸掘削が困難な土地であればこそ、玉川上水の開削と「分水」による「飲料水」の確保に頼っての「新田開発=開拓」の開始であったわけであるし、「現在に於ても本地域の各集落に於てこれらの用水の水を飲料としている」実情は、繰り返される伝染病蔓延にも結び付いていた―「井戸掘削」の困難が「用水」への依存を続けさせたが、「用水の水」は衛生上の問題も引き越し続けたのである)。

 

 

 続くのは「4 聚落景観」である。先に示した、「小平村の他の大部分の地割は、徳川時代の地割形態を存している」のであり、「小平村は、武蔵野台地に於ける新田集落の標式的な列状村の一例」なのであり「現在残る大部分の地割は、その開拓に当り、計画的に短冊形に施行されたもの」だという点に関し、具体的事例に基づく記述が続く。抜き書きしておくと、

 

  本地域の諸新田の地割は極めて規則的で特に小川に於て、間口がほぼ一定して区画されている。

  少なくとも小川、小川新田に於ける地割の規一性は、開拓当初における均田主義を物語るものではあるまいか。

  道路に接して宅地があり、背後に屋敷林があり、更に畑地となりその先端に雑木林の存する事
     (同論文 22ページ)

 

このような「景観」の中に、「東京商科大学予科、津田英学塾等が設立」され、箱根土地による住宅地開発(いわゆる「学園都市」建設)が始められ、1930年代の終わりと共に軍事施設の集中する地域として「発展」していくのである。

 「4 聚落景観」では、特に箱根土地による学園都市開発構想について以下のような指摘がされている。

 

  尚、本地域の南部の一部に、碁盤目状の地割を施した所がある。この地域は同村の一部に過ぎぬもので、前述の如く、商大予科の校舎設定後、土地会社の手によって、区画された地域である。その計画では、商科大学予科の校舎を中心とし、その周囲に住宅地、焦点地域を区画し、国分寺駅より主要道路を設け碁盤型の3間道路を縦横に通じて、田園都市化せんとしたところである。そのため、新田開発当初よりの短冊形の地割は一部崩壊し、従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実である。かかる例は省線国立駅の南方、商科大学の校舎附近に於ても見るところであって、井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様である。本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要であろう。
     (同論文 24ページ)

 

 

 「4 聚落景観」の最後では、あらためて以下の指摘をし、「飲料水問題」の重大性についての注意を再喚起している。

 

  最近、本地域方面に工場等の設立されるものも多いが、これを中心として建設されれるべき居住地域の発展には、上述の飲料水問題は往時の居住を制約せるのみならず、今後に於ても残された一つの課題であって、本地域附近の地域性を如実に具現しているものである。
     (同論文 25ページ)

 

 

 

 

 そのような制約ある地域が、戦時期に軍事地域化することになるわけである。

 実際問題として、戦時期に突入した後に小平地域に設立された軍事施設を景観的に特徴づけるものとして、敷地内の「給水塔」の存在を挙げられる。

 陸軍兵器補給廠や陸軍技術研究所の跡地の景観に関する話題の中で、敷地内の「給水塔」(利用するのは地下水―すなわち給水塔の下には深井戸が隠されている)について語られるのを耳にしたり、目にする機会は少なくない(小平地域に隣接した現・東大和市の日立航空機工場ににあった給水塔についても同様である―「学芸大 給水塔」や「日立航空機 給水塔」等で検索すれば、ネット上にある関連記事・画像がヒットする)。戦後には町営水道の重要な施設となった歴史を持つ給水塔もある(陸軍兵器補給廠の給水塔は小平町の水道供給施設となり、陸軍技術研究所の給水塔は小金井町の水道供給施設となった)。

 念のために申し添えておくが、行政によるインフラとしての給水システムとは別に、独立した軍事施設として自らの給水施設(給水塔)を用意するという話ではまったくなく、公的インフラとしての給水システムの存在しない土地に、陸軍は自らの給水塔を建設することで対処したという話なのである。

 

 

 

 

 「蛇口をひねれば水は出る」のはあまりに当たり前の話と思い込んでいるが、小平地域(東京都の一部であるのだが)で公的なインフラとしての「上水道」が普及するのは20世紀も後半の話なのである。

 「井戸」を掘るのは個人(あるいは集落)であり、「分水」を整備するのも各集落の人々であった。20世紀の前半まで、水道施設は公的に(行政により)整備された(整備されるべき)インフラではなかったのである。

 今回あらためて矢嶋論文を取り上げたわけだが、論文中で繰り返される「飲料水問題」への「注意喚起」に際しても、行政によるインフラ整備の課題として水道事業が語られるのではなく、開発事業主に対する注意喚起として語られている印象がある。

 

 実際、小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置したのであった(もっとも、市内のすべての軍事施設跡地について調べたわけではなく、今後の課題として残されている部分もあることはお断りしておくが―しかし、給水施設は自前で整備するしかなかったのもまた当時の歴史的事実なのである)。

 

 

 

    (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/25 20:35 → http://www.freeml.com/bl/316274/310940/

 

 

 

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2017年8月12日 (土)

芦原義信のテニスコート

 

 

  ニューギニアで飛行場の建設をしたが、飛行機が一機も飛来しないうちに米軍の攻撃を受け、使い物にならなくなった。引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした。
     (『芦原義信 建築アーカイブ展 ―モダニズムにかけた夢』 武蔵野美術大学 美術館・図書館 2017  154ページ)

 

 

 「芦原義信 建築アーカイブ展 ―モダニズムにかけた夢」の図録、「芦原義信略年譜」の1942年の項にあるエピソードである。もっとも、その出来事が同年の話なのかどうかは判然としないところが残るが、海軍の技術士官として飛行場の建設に関わり、「引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした」顛末は印象深い。

 展示会場(展示会場となっている「美術館」自体が―増改築はされているが―そもそもは1967年に芦原義信により、展示室を含む「図書館棟」として設計されたものだ)にあった「略年譜」にもこの顛末は掲載されており、武蔵野美術大学のキャンパス計画の骨格の作成者であり、キャンパス内の代表的な建物群の設計者でもある芦原の戦時期のエピソードとして、建築作品の背後にある芦原の人物像を(私の中で)決定付けるものとなった。

 

 「略年譜」によれば、1918年生まれの芦原義信は、1940年4月に東京帝国大学工学部建築学科に入学、1942年9月に卒業し「海軍技術士官として入隊、各種建築(橋梁、飛行場等の計画・実施)を担当」となっている。

 東京帝大出身の若き技術士官と軍医の組合せによる「滑走路でテニス」には、両者の出身階層が反映されているようにも思われ、私の関心を引いたのである。

 

 「略年譜」の出生年の項には、

  医者の父、信之の五男。兄に舞台・音楽評論家の芦原英了、母方の叔父に画家の藤田嗣治がいる

このようにも記されており、芦原が(当時の用語で言えば)「有産階級」の出身者であることは明らかであろう。医科系大学出身者の任官する「軍医」もまた、軍隊内では士官待遇を受ける存在であり、東京帝大出身者芦原と同一階層に属する人物と推測され得る。当時の用語法では、「有産階級」(いわゆる「成金」は除いての話だが)には「知識階級」と呼ばれる場面もあり、そこには大学における高等教育を受ける「階層」であることが含意されている。その「技術士官」と「軍医」の組合せによる「テニス」なのである。義務教育だけの階層、すなわち庶民の多くには、「テニス」は無縁のスポーツであったはずである。

 

 芦原の「出身階層」をさらに際立たせるエピソードが、同展図録の「武蔵野美術大学赴任までのこと」と題された夫人の芦原初子氏へのインタビュー記事にある。

 

  主人と初めて出会ったのは軽井沢でした。ちょうど主人が東大に入った頃です。私の兄がずっと成城で、主人は高校だけ成城でしたので知ってはいたんですね。そして成城時代の兄の親しい友達が主人とも親しくて、軽井沢に来たときに主人を連れてうちに遊びにいらしたんです。二人で馬に乗ってね(笑)。それで一目合ったらもう、パッと両方で惚れちゃって。翌日から主人は友達そっちのけで毎日のようにやって来るんですよ。それで一緒にトランプなんかして、それが始まりですね。私がしばらく津田塾の寄宿舎にいたものですから、ラブレターがいっぱい来てましたよ。
     (同展図録 103ページ)

 

両者が軽井沢に別荘を持ち、避暑の地とするような階層に属していたことが、あらためて明らかになるはずだ。まさに「良家の子女」同士の出会いのエピソードである(現在の天皇夫妻の初めての出会いの場が、十数年後の軽井沢のテニスコートであった事実もが思い起こされる)。再確認しておくと、「主人と初めて出会ったのは軽井沢でした。ちょうど主人が東大に入った頃です」というエピソードは、1940(昭和15)年前後ということになり、1937(昭和12)年の盧溝橋事件以来(継続する「支那事変」下で)の「戦時期日本」での話なのである。

 

 

 ここで、この時期(すなわち「戦時日本」である)に、別荘地に無縁な階層の底辺が置かれていた「住まい」に関する状況を見ておこう。

 

  昭和13年当時の厚生省生活課技師の報告によると、「先般各地軍需工場地帯に於ける労務者の居住状況を視る機会を得て、痛感した事は、労務者殊に農村から見習工として集まって来た人々に住居の欠乏していることである。例えば、4畳半に4人、6畳に6人と云ふ過密状況が各所に見られ、或は15坪以上もある広い部屋を急設して、採光通風等考慮せず、唯寝る場所を与へて押入れもない室内に寝具、荷物を散乱させ、20~30名の新人工が合宿している。所謂万年床は随所にあり、殊に夜勤者が昼間強い日光を浴び乍ら寝苦しさうな様を見て、斯かる状態は長期戦のもとに何時迄も黙過出来ぬことと痛感した。徒に生理的欲求を斥けることなく、疲労恢復に適する最小限の住居と、体力を維持増進するに足る栄養の供給とは、殊に銃後の第一線を守る軍需工場労務者には、確固たる方針を以つて之が万全を期すべきである。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  433ページ)

 

別荘地での避暑(そしてテニス)とは無縁の、戦時期日本の軍需産業の「労務者」の姿が明らかになるだろう。すなわち、当時の用語法での「無産階級」の現実である。

 

 

 もちろん、軍需生産の拡大は至上命令であり、労務者の居住環境の改善の必要性も、当時の重要な政策課題として意識されていた。

 

  戦時下における「産業戦士」たる労務者に対する住宅の供給は、戦争目的完遂に直接寄与するもので、最大の課題であった。
  昭和14年度においては厚生省を中心として、企画院、大蔵、商工、農林、内務、陸・海軍等の関係省庁の協議のもとに労務者住宅供給3ヵ年計画(昭和14年8月2日)が樹立された。これは軍需ならびに生産力拡充3ヵ年計画(昭和14年1月17日)による労務動員に対応したもので昭和14年度より16年度に至る3ヵ年計画である。
     大本圭野前掲論文(434ページ)

 

こうして第一期(14年度)住宅計画がスタートするが、既に肝心の建築資材の入手難(実は建築用の木材の供給源もまた米国であった―いわゆる「米材」である―のだが、対米戦争以前のこの段階で既に「外貨不足」に直面しており、木材についても輸入制限が必要となった)に陥っており、計画の実現は最初から困難となっていた。

 その流れの中で、昭和14年2月23日には「従来、住宅諸政策は厚生省社会局生活課の中で取り扱われていたが、以上の必要から独立した住宅課を設置」するに至り、更に昭和16年5月1日には「住宅営団」が設立される。

 

  住宅営団が初年度の『昭和16年度事業計画』の冒頭で掲げた目標は「三万戸ノ建設完遂」であり、「陸海軍関係労務者住宅ノ需要ヲ相当充足スルト共ニ、主トシテ都市ニ於ケル軍需及生産力拡充事業関係労務者ニ対シ、保健的ナル小住宅ノ急速供給ヲ為シ以テ時局ノ緊急ナル要請ニ応ズル」ことを目指した。ただし、目標の「三万戸ノ建設」の「完遂」は、年度内に3万戸〔うち東京支所1万3000戸〕の住宅を「竣工」することではなく、年度内に3万戸の住宅建設に「着手」することを指している。
     小野浩 「戦時総動員体制下の住宅供給」 (『熊本大学産業経営研究 第36号』 2017  抜刷10~11ページ)

 

そして、

 

  1941年6月、東京支所は107戸の分譲住宅の申込受付を開始した。これは東京支所の記念すべき初の分譲住宅であったが、もとは同潤会が建設に着手した「職工向分譲住宅〔板橋第二住宅地〕である。つまり、住宅営団が同潤会の事業を継承したあとに竣工したものである。
     小野浩前掲論文(同11ページ)

 

つまり、首都圏では、住宅営団は同潤会の事業の継承者として業務を開始していることになる。

 

 

  同潤会は、大正13年(1924)5月23日に、関東大震災の罹災者のための住宅供給を目的として創設された日本で最初の本格的な公的住宅供給機関である。その後を住宅営団に引き継ぐ昭和16年(1941)までのおよそ18年間、普通住宅、アパートメント、分譲住宅の住宅供給及び住宅調査などの事業を行い、戦前期の住宅供給に大きな役割を果たした。
     内田青蔵・安野彰・窪田美穂子 「同潤会の木造分譲住宅事業に関する基礎的研究―遺構調査を中心に―」 (住総研 『研究年報 No.30』 2003  113ページ)

 

  同潤会の活動は大きく三期に分けることができる。すなわち、第1期(大正13年~昭和4年)は、関東大震災罹災者のために小住宅(仮住宅)を供給し、次に人々を収容・教育することを第1の目的として、また普通住宅、アパートメントハウスの建設を行った。第2期(昭和5年~昭和13年)は、勤人向分譲住宅の建設事業を中心とする一方、アパートメント居住者の調査など、実施した建築の試みの検証を行った。昭和16年の住宅営団への発展的解散までの第3期(昭和14年~昭和16年)は、日中戦争に始まる戦争体制(軍事工場の設立、工場の生産拡張)による労働者の住宅不足に対応した質より量の確保を重視した受託事業を中心に行った。
  この第2期の主な事業であった木造独立分譲住宅事業は、昭和3年~13年までの間に「勤人」を対象として建設・分譲された勤人向分譲住宅と、昭和9年~16年までの間に「職工」を対象として建設・分譲された職工向分譲住宅とに大別される。勤人向木造分譲住宅は、東京17ヶ所、神奈川3ヶ所の計20ヶ所に、合計524戸の住宅が建設された。
     同論文(114ページ)

 

ここで「勤人」として想定されているのは「ホワイトカラー」のサラリーマンで、「職工」は「ブルーカラー」の労働者と考えてよいであろう。

 

 

 さて、テニスコートである。

 

 大月敏雄氏の「まちなみ図譜・文献逍遥 其ノ十五」(『家とまちなみ 65』 2012)では、『建築寫眞類聚 木造小住宅』(洪洋社 昭和3年)により、同潤会の「普通住宅」の実際の町並みや間取りが当時の写真と図面の組合せにより紹介されている。

 特にこの中にある「表1 同潤会木造普通住宅一覧」が、まず私の興味を引いたのであった。

 そこには、『同潤会十年史』を出典として、赤羽、十條、西荻窪、荏原、大井、砂町、松江、尾久、新山下町、瀧頭、大岡、井土ヶ谷の12か所の住宅名が記載され、各住宅の付帯施設の概要も記されている。同潤会初期の「普通住宅街」には、「付帯施設」にテニスコートを含むものが、赤羽、十條、西荻窪、松江、大岡の五か所を占める事実に(少なくとも私は)驚かされた。

 

 第2期の「勤人向住宅」は、明らかにホワイトカラー・サラリーマン階層を意識した一戸建ての住宅であり、住宅街の付帯施設としてテニスコートが組み込まれていても、それほどの意外性は感じられないであろうが、二階建木造長屋形式が基本の「普通住宅」では、まだ災害からの復興住宅としての位置付けがまさり、居住者としてのホワイトカラー・サラリーマン階層が意識されての公的住宅供給政策段階には至っていないように思える。

 実際、ターゲットとした階層の反応について、「ところで、この普通住宅事業の失敗は、見方を変えれば、低所得者の間に交通費を払いながら郊外に居を構えて通勤するという方法が、まだ受け入れられていなかったことを意味するといえる」との評価(内田青蔵 『同潤会に学べ、住まいの思想とそのデザイン』 王国社 2004 ―ただし中川寛子「同潤会による品川区中延二丁目の木造長屋群がいよいよ建替えへ」からの孫引き)が示されているが、そこには普通住宅事業のターゲットが「低所得者」であったことも明記されている。

 

 「普通住宅」の付帯施設としては、「娯楽室」が最も多く(11例)、次いで「児童遊園」(9例)、他には「医院(診療所)」や「食堂」等があるが、私が注目するのは2例の「託児所」の存在である。現在であれば「保育園」だが、当時の「託児所」は、むしろ低所得者・貧困層向けの施設として位置付けられていたのであり、すなわち確かに「普通住宅」の居住者として低所得者・貧困層が想定されていたことを意味する。

 付帯施設としてのテニスコートに反映されているのは、居住者として想定される階層への配慮というよりは、設計者の階層にとってのスタンダードではなかっただろうか? テニスコートが5例あるのに対し託児所が2例にとどまるのは、低所得者・貧困層にとっての託児所の必要性・切実感が、帝大卒の設計者の間では共有されていなかった故の話とも思われる。

 

 

  当時、東京帝国大学教授であった内田祥三は、同潤会が設立されるにおよび、その理事として同潤会に関わるようになった。そしてすぐさま、弟子であった川元良一を三菱地所から引き抜き、同潤会建設部長の椅子に座らせ、幾人かの東大建築学科を出たての若者を同潤会に送り込んだ。
     大月敏雄前掲記事(66ページ)

 

 この内田祥三について「芦原義信略年譜」には、芦原義信の入学当時の東大建築学科教授陣のひとりとして名が記されている。

 

 同潤会初期の「普通住宅」の付帯施設にテニスコートを組み込んだ設計者と、戦時下のニューギニアで放棄することになった飛行場の滑走路でテニスをした芦原義信は、同じ東大建築学科に所属した同一階層出身者であったことが理解されるであろう。

 もちろん、有産階級出身者でなくとも学歴による階層の上昇が可能であった時代の話である。旧制高校から帝大のコースへの参入は元々の出身階層からの離脱・上昇をもたらすが、そこでは上位階層の価値観・生活様式の内面化も果たされ、テニスコートのある生活様式も内面化されるわけである。

 先の託児所の話にからめて言えば、別荘を持つような有産階級の幼子が通うとすればそれは「託児所」ではなく「幼稚園」であった。

 無産者ではないにしても別荘は持たない家に生まれ、それでも旧制高校から大学へ進み、(官吏であれ会社員であれ)ホワイトカラー・サラリーマンとなり得た人々の結婚後の住まいとして想定されていたのが、まさに同潤会の「勤人向住宅」であったと言えよう。子どもが生まれれば幼稚園に通わせるのが、「勤人向住宅」の住人となった人々のモデルとなる生活様式であり、まさに『コドモアサヒ』の誌面に描かれた生活様式である。そこに示された生活水準を到達すべきモデルとすることから始まり、子どもを介した読者として生活様式を内面化し、昇進と収入の増加が『コドモアサヒ』の世界を現実化する。そんな勤人向住宅の居住者たちこそ、理想的な(あるいは典型的な)『コドモアサヒ』の購読者層であったかも知れない(「「コドモアサヒの時代」展を観る」を参照―昭和16年の連載記事の一つが、木村きよしによる「幼稚園メグリ」シリーズであった)。

 

 芦原は1972年に「KPIタウン造成」(企業社宅としての集合住宅群である)に関わっているが、起伏のある広大な敷地に設計・建築された住宅群の付帯施設としてサッカー場、バスケットコートと共にテニスコートを用意している。ここでの芦原は、テニスコートのある生活を既に内面化した1970年代のサラリーマン家族のために、テニスコートのある企業社宅街を設計したことになる(ちなみに、高低差のある敷地に建設された地上4階の家族向け住宅群には、武蔵野美術大学7号館と同様の設計上の仕掛けが施されている点も興味深かった)。

 

 

 

 さて、芦原義信は「ニューギニアで飛行場の建設をしたが、飛行機が一機も飛来しないうちに米軍の攻撃を受け、使い物にならなくなった。引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした」わけだが、芦原と軍医は自ら建設した飛行場をテニスコートに転用したことになる。設計者の意図を超えた建築設備の転用は珍しいことではないだろうが、ここでの芦原の行為もその事例に加えられ得るであろう。一方で、芦原の先輩格となる同潤会普通住宅の設計者がプランに組み込んだテニスコートも、戦争の苛烈化に伴い食糧増産のために農地に転用された可能性は大きい。滑走路がテニスコートとなり、テニスコートが農園となる。これもまた戦時期の日本の経験であった。

 

 最後に再び「略年譜」に戻ろう。

 1945年9月、27歳の芦原義信は「海軍技術大尉から復員」する。多くの戦死・戦病死者(その大半が餓死である)を出したニューギニアに一度は配属されながらも内地へ転属となり、最終的に「復員」を果たし得たことは実に幸運なことであった―芦原も自身の幸運について深い思いを抱いたであろう。復員した芦原の前にあったのは戦災により「焼け野原」となった東京であった。「戦時期日本」は「敗戦」(当時は「終戦」と呼ばれたが)により「戦後」の時間を迎える。

 大震災により「焼け野原」となった東京の「復興」を記念して「帝都復興記念式典」が開催されたのが1930(昭和5)年、「復興記念館」が建てられたのが1931(昭和6)年のことであり、まさに同潤会が「復興」に重点を置いた罹災者向けの「普通住宅」から、ホワイトカラー・サラリーマンをターゲットとした「勤人向住宅」建設へとシフトした時期に重なる。同潤会の住宅の多くは(当時の)郊外に建設されたために戦災を免れたが、都心は都市無差別爆撃によって(再び)「焼け野原」となっていたのである。すなわち、「戦後」の東京は再び「復興」されるべき都市となっていたのである。

 1946年2月、芦原は「東京都復興計画懸賞設計に佳作入選」を果たす。「略年譜」には、「新宿をテーマに設計した。この入選が建築家に戻る契機となった」とある。この「東京都復興計画」が、「滑走路でテニスをした」海軍技術士官であった芦原義信の建築家としての「戦後」のスタートであった。

 あらためて振り返れば、1972年の「KPIタウン造成」に組み込まれたテニスコートは、「戦後」の時間の経過、「復興期」としての「戦後」が既に過去のものとなったことを象徴的に示すもののようにも見える。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/12 19:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/310306/

 

 

 

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2017年7月 4日 (火)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)

 

 前回記事(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」)の書き出しは「昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて」であったが、「多摩」と「武蔵野」をどのように使い分けるのかについて(どのように使い分けられているのかについて)、あらためてここで記しておきたい。

 

 「多摩」と「武蔵野」を政治的な視点(特に行政区分の視点)、すなわち人間にとっての「歴史」の問題として捉えようとする際にも、「人間にとっての歴史」のいわば基底となる自然史の問題、具体的には地形的特質の問題(自然景観の形成の視点)として考えようとするに際しても、「多摩」と「武蔵野」は用語として異なった様相を示すこと(時には包含関係が反転する)に、まず注意が必要である。

 歴史的には(行政区分上の問題としては)、古代においては「多摩郡」は「武蔵の国」の一部であった。すなわち「多摩」は「武蔵」に包含される地域名称であった。

 近代における行政上の名称としては、北多摩郡と南多摩郡と西多摩郡(合わせて「三多摩」とも呼ばれる)によって構成される「多摩」地域は、東京府下であった時代から東京都下となった時代(昭和18年より)を通して存在する。一方で「武蔵」の語を冠した「武蔵野」は広域名称としてではなく、「北多摩郡」内の「武蔵野町」(現・武蔵野市)を表すものとして用いられるものであったし、「武蔵小金井」駅(交通行政に関わる名称)は同じ「北多摩郡」内の「小金井町」(現・小金井市)にある駅名であった。すなわち、「武蔵」を冠する行政上の地域名称は、より広域の「多摩」に包含されているのである。

 

 一方で、自然史の視点から(地形的特質から)東京府下及び東京都下の「多摩」地域を語る際の用語法について言えば、「多摩」地域の中心に位置するのは「多摩川」の北にひろがる広大な「武蔵野台地」(「多摩川」が青梅を扇頂とする扇状地を形成することで成立―北端となるのは埼玉県の川越―それほどに「広大」な地域)であり、その南に流れる「多摩川」の南岸の丘陵地帯が「多摩丘陵」と呼ばれている。どちらも、行政区分としての東京府、東京都の境界を越えて(武蔵野台地は埼玉県域に続き、多摩丘陵は神奈川県域に続く―行政上の名称としては神奈川県の川崎市には「多摩区」があり、埼玉県には「武蔵浦和」の駅名もある)更に広がる自然景観として位置付けられている。ちなみに気象庁が発表する気象警報・注意報発令に際しては、「東京地方」は23区東部、23区西部、多摩北部、多摩西部、多摩南部に分割され、多摩北部はかつての北多摩郡、多摩西部は西多摩郡、多摩南部はかつての南多摩郡に相当するものとなっているが、単にかつての行政区分を引き継いだからなのか、実際の自然条件の違いによるものなのか、興味をそそられるところではある。

 

 ここであらためて、この自然地形と星野朗氏の論考に示された、「4つの地域」の関係を整理してみよう。再び星野論文から引用すれば、

 

  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 122~124ページ

 

このように概説されていたわけだが、①の武蔵野・三鷹・田無・保谷、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江、③の立川・大和・昭和・拝島、これらはすべて多摩川流域の北側に形成された武蔵野台地上にある行政地域の名称であり、④の府中・日野・町田・稲城の中でも日野・町田・稲城のみが多摩川の南側の丘陵部(多摩丘陵)を含む行政地域である。行政区分上は、①~③と④の中の府中は北多摩郡に属し、日野・町田・稲城は南多摩郡に属する地域となっている。

 

 あらためて、平坦な台地上の北多摩地域と多摩川南岸丘陵部にある南多摩地域に、それぞれの地形を活かす形で(それぞれの自然的景観の上に)、多摩軍産複合地帯が昭和10年代を通して形成されていったことが理解されるだろう。

 

 

 

 ここからは、②の中でも現・小平市を中心とした地域の地形的特質について、武蔵野台地上の自然景観の実際の姿を示す事例として、より詳細な検討を加えてみたい(註:1)。

 

 小平市の名称である「小平」は、その母体となった開発新田である「小川村」の「小」と、周辺地域の地形的平坦さを表す「平」の組合せによるものだとされている。

 小平市内には、東西方向に(西側を上流として)「玉川上水」と呼ばれる江戸期に開削された多摩川を水源とする水路(上水道)が流れている。この人工水路の小平市付近での西端と東端の高低差はおよそ20メートルを超えるが(西端の小平市中島町付近で標高約98メートル、東端の小平市御幸町付近で標高約72メートル―ただし電子国土Webを用いての付近地表面のおおよその数値なので誤差含みの話)、その間の距離は約8キロメートルなので1000メートルあたりの標高差が約3メートルとなる。ちなみに、取り入れ口の羽村から終点の四谷までの距離が43キロメートルで標高差が約100メートルとされているから、先の数値がどこまで正確なのかは確言出来ないが、少なくとも小平地域の地形の平坦さについては把握し得るものと思う(小平市内の南北方向の標高差についても同様で、高低差は微小である)。そもそも市内に(丘や山のような)高地は存在しない―この近辺で土地の人から「山」と呼ばれたのは「高地」ではなく、「武蔵野」を象徴する「雑木林」のことであった―が、古い水源の痕跡は存在し、周囲より土地が少し低いことでかつての流路も想定可能である(平坦な台地の地形の中に、より高い土地―「小高い」という語が相当する土地―はないが、より低く位置する土地がないわけではない)。

 

 そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていったわけである。

 

 

 

 最後に「武蔵野」と「多摩」の名称関連の話題を付け加えておくと、武蔵野美術大学は武蔵野市(吉祥寺)が発祥の地であり、多摩美術大学が開校したのは世田谷区上野毛で、どちらも武蔵野台地上の立地であった。

 現在の武蔵野美術大学のキャンパスは、同じ武蔵野台地上の小平市内にあるが、平坦に見える地形の中にも―健常者にはあまり意識されることもないであろうが車椅子の移動では障害として意識されるであろう―高低差があり、そこにかつての水源の存在を想像させられる。

 多摩美術大学は八王子市内にもキャンパスを開設したが、こちらは視覚的にも明らかな高低差の中に建物群が展開され、そこが多摩丘陵地域内の土地であることを(そしてかつての南多摩郡内にいることを)実感させられるはずである。

 

 ちなみに、武蔵野音楽大学は存在するが、多摩音楽大学は存在しない。

 

 

 

【註:1】
 「武蔵野台地」について、基本知識を得ると同時に視覚的にイメージする上で役立つのが「武蔵野台地と野川公園」にある概説と画像である。ぜひ参考にしていただきたい。
 → http://www.geocities.jp/yamanekoforest/noyamaaruki/musasinodaiti.html

 

 

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」に続く)

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/07/04 19:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/307967/

 

 

 

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2017年6月29日 (木)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)

 

 昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、前回は星野朗氏の論考により、地域内の工場群の様相―地域内に軍需工場が集中している実態―についての概観を得るところまで進んだ(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)」)。すなわち「軍産複合」の中での「産」の展開状況である。星野氏は、地域を4つのグループにわけ、

 

  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 122~124ページ

 

このように、「4つの地域間には境界線を引くことは困難で、区分は考察への一つの目安である」との留保を付けた上で、各地域の特徴を明らかにしている。

 

 

 今回は、軍産複合地域を成立させる上でもう一つの重要な要素となる、軍事施設(軍の飛行場、工廠、補給廠、研究施設、教育施設、軍病院等)が実際にどのように地域内に配置されていたのかについて、すなわち「軍産複合」の中での「軍」の展開状況について、星野論文の付表等を参考としながら確かめておきたい。

 

 

 まず、①の武蔵野・三鷹・田無・保谷地域について言えば、「中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域」と要約されている通りで、軍の施設としては、田無・保谷(現在の西東京市)に陸軍兵器本廠田無教育隊が設置(1938年)されたのが目につくくらいである。

 

 次に、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江地域についてだが、「軍事施設も多い地域」とある通りで、年代別に整理すると、

 

 1938(昭和13)年

  調布飛行場用地買収開始(調布)

 1940(昭和15)年

  傷痍軍人武蔵療養所(小平)

  陸軍少年通信兵学校(東村山)

 1941(昭和16)年

  陸軍技術研究所(小平・小金井)

  調布飛行場竣工(調布)

 1942(昭和17)年

  陸軍経理学校・練兵場(小平)

  陸軍技術研究所(小平・小金井)

  陸軍兵器補給廠小平分廠(小平)

 

このように、現在の小平市内に特に各種の軍事施設が集中している状況が明らかになる。ちなみに、地域内の軍需産業としては、国分寺の中央工業南部銃製作所、調布の東京重機工業が共に銃砲の生産を担っていた。

 

 続いて、③の立川・大和・昭和・拝島地域だが、まず中心となるのは「立川の陸軍飛行場と航空廠」といった軍事施設であり、それらの立地の上に「陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域」となっている。軍事施設について、こちらも年代別に整理しておくと、

 

 1922(大正11)年

  立川飛行場完成―当初は陸軍と民間の共用飛行場(立川)

 1928(昭和3)年

  陸軍航空本部技術部(所沢より立川に移転)

 1933(昭和8)年

  陸軍航空本部補給部(所沢より立川に移転)

 1935(昭和10)年

  陸軍航空本部技術部は航空技術研究所へ改組

  陸軍航空本部補給部は航空廠へ改組

 1938(昭和13)年

  陸軍航空輸送部立川支部(立川)

  陸軍気象部立川観測所(立川)

 1939(昭和14)年

  陸軍航空技術学校(所沢より立川に移転)

 1940(昭和15)年

  陸軍航空工廠(昭島)

  陸軍多摩飛行場開設(福生)

  陸軍航空審査部(福生)

 1941(昭和16)年

  陸軍資材本廠(立川)

  立川飛行場拡張(砂川)

  陸軍多摩飛行場少年飛行兵学校(福生)

 

小平の軍事施設が多様であるのに比べ、航空関係の軍事施設が圧倒的に多く、その周囲を航空機生産各社の工場が取り巻いていることがわかる。

 

 最後に、④の府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域だが、こちらも軍事施設について年代別に整理しておくと、

 

 1937(昭和12)年

  陸軍燃料廠(府中)

 1938(昭和13)年

  陸軍火工廠(稲城)

  陸軍兵器学校(相模原)

  東京工廠相模兵器製作所(相模原)

 1939(昭和14)年

  陸軍火工廠が造兵廠多摩火薬製造所に

  陸軍第九技術研究所(登戸)

 1940(昭和15)年

  東京工廠相模兵器製作所が相模陸軍造兵廠に

 1943(昭和18)年

  通称「戦車道路」開通(町田)

  多摩火薬製造所拡張

 

地域内で「軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品」となっているのは、これらの軍事施設(「軍」)と軍需工場(「産」)が連動しての話と言えよう。

 ①の武蔵野・三鷹・田無・保谷地域、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江地域及び③の立川・大和・昭和・拝島地域が、武蔵野台地上の平坦な地形を特徴とするのに対し、④の府中・日野・町田・稲城(特に日野・町田・相模原)は多摩丘陵にかかる地域であり、必ずしも平坦な地形ではないが、人家が少ない丘陵地は秘密保持(日野の小西六写真工業)の必要や危険な火薬の製造・貯蔵(陸軍火工廠・造兵廠多摩火薬製造所)にはむしろ適地でもあった。「軍」と「産」の「立地」の問題として整理すれば、武蔵野台地の平坦な地形はもちろんのこと、多摩の丘陵地の地形的特徴も積極的に利用され、それぞれに様々な軍需品生産拠点選定に際しての自然的基盤となっていたことになる。

 

 

 

 このように整理してみることで、昭和10年代の多摩地域が、陸軍の飛行場、陸海軍の航空機製造拠点、戦車・軍用車輛等の陸上兵器製造拠点、両者に関係する通信機製造拠点及び銃器製造拠点、燃料貯蔵・供給施設と火薬製造・貯蔵拠点、そして各種軍事教育機関、研究機関、傷痍軍人病院といった軍事施設群(すなわち「軍」の施設である)及び軍需工場群(すなわち「産」の施設である)によって構成された、まさに軍産複合地帯と呼ばれるにふさわしい地域であったことが再確認されるであろう。

 

 

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)」に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/06/29 18:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/307652/

 

 

 

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2017年6月28日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)

 

 B-29による日本本土空襲について語られる際に、まずイメージされるのは昭和20(1945)年3月10日の「東京大空襲」とそれに続く名古屋(3月12日)、大阪(3月13日)、神戸(3月17日)等の都市(人口密集地)への焼夷弾を用いた無差別爆撃ではないかと思う。

 しかし、時系列で見れば、米軍にとっての日本本土の爆撃目標が当初から都市(人口密集地)であったわけではないし、焼夷弾を用いたものでもなかった。

 

 

 B-29による東京への空襲は、昭和19年11月24日から始まる(出撃機数111機)が、その際の爆撃目標(第一目標)は東京郊外・武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所の工場群であった(すなわち、第一に爆撃の標的とされたのは日本の航空機生産能力であった―名古屋でも、航空機用エンジン生産拠点の一つであった三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が初期の空襲の目標となっている)。同工場を目標とした作戦は、11月27日(81機)、12月3日(86機)、12月27日(72機)、翌昭和20年1月9日(72機)、1月27日(76機)、2月19日(150機)、3月4日(192機)、4月2日(122機)、4月7日(107機)、4月12日(114機)と繰り返され(註:1)、最終的に壊滅する。もっとも、工場上空の天候(厚い雲)に阻まれ(註:2)、結果的に第二目標として設定されていた東京の都市部への投弾となっているケースも多い(註:3)(本土空襲=都市爆撃というイメージはここからも生まれるだろう)。

 ターボチャージャー付きエンジンを搭載し、与圧キャビンを備えたB-29の高高度性能に加え、ノルデン照準器による高高度からの精密爆撃能力からすれば、中島飛行機武蔵工場への精密爆撃の実行は現実的であるはずだったが、高高度でのジェット気流と悪天候はノルデン照準器の能力を無効化(高高度を飛行する機体と目標である地上の間にひろがる雲は、高性能であるはずの照準器による地上視認を不可能にする)し、期待したほどの戦果に結びつかなかったのである。作戦の中心は、軍事目標に対する高高度からの通常爆弾による昼間精密爆撃(「軍事目標主義」と呼ばれる)から、大量の焼夷弾を用いた低空からの夜間都市無差別爆撃へと移行し、多数の市民(非戦闘員)が爆撃の犠牲となるに至った(戦闘地域からは後方であるはずの都市住民に対する無差別爆撃は、理論的には「人命節約効果」が期待されるものとして正当化されてもいた―「無差別爆撃の論理 1」、「無差別爆撃の論理 2」参照)。

 

 

 東京の郊外に当る多摩(武蔵野)地域は、特に昭和10年代以降、多くの軍需工場、陸軍飛行場や補給廠といった軍事施設、軍関連の研究所の集中する、いわば軍産複合地域となっており、中島飛行機武蔵工場への爆撃もその状況を反映したものと言えるだろう(註:4)。

 多摩地域に対する空襲についても、その背景となった軍産複合地域化にしても、専門的な研究者にとっては周知の歴史的・地誌的事実なのかも知れないが、私自身も含め、現在の多摩地域の住民には知られることもなく、そもそもあまり意識されることもない話題のように感じられる。

 

 

  この多摩地域の工業化について、各市・町の市史・町史・市誌をみると、各市・町ともほとんど共通して、工業化は昭和時代・昭和10年代など昭和に入っていからの区部の方から進出してくる軍需工場によってであり、それはまた農村を急速に近代化させたと記している。たとえば国分寺市史では、「昭和の初めから多摩地方は突然に工業化をした。それもかつての紡織産業ではなくて機械器具工業を中心とした軍事産業主導の重工業化をした……北多摩一世紀の歴史のなかで、戦前、重工業化による地域社会の変貌という、郊外化とは異なった局面のあったこと」と記している。
  これらによれば、この地域が激変するのは昭和初期に当る1930年代であり、東京地域の工業の中心地域である京浜地域の特に城南の低地帯から、工場規模の拡大のために地価の安い広い土地を求めて、また農村の潜在労働力を求めて移動してきた機械工業を中心とする近代工業によってであった。しかもその機械工業の内容は、1930(昭和5)年から続く15年戦争といわれる軍備拡張の時代を反映した軍需工場であった。この軍需品の製造は機械工業として組立工業であり、そのため主力工場とともに多数の関連する下請工業をともない、従業員をひきつれて多摩地区に移動してきた。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 120ページ)

 

 この星野氏の論文では、続いてこれらの工場の立地条件として、

 

  多摩地域の工業化について、先行研究の一つ、石井雄三郎は、三多摩における近代工業の起因は、中央線による交通指向であり、駅を中心に徒歩15分以内に飛行機製作所などの設立があり、昭和10年代以後は各街道沿いと中央線の支線にそって、京浜からの群立となったとし、これを列状展開と表現している。また奥田義雄は、京浜工業地帯の外延的拡大は、臨海部沿岸線および内陸部主要交通線に沿って放射状に展開され、交通条件に強く制約されている。その他用地取得条件の難易も作用したとある。このほか周辺地域への工業移動は環状に拡大とみたり、内部の業種構成の変化から波動的とみる観点もある。

 

これらの考察を紹介(同ページ)しているが、そこには中心となる武蔵野台地の平坦な地形(広大な工場用地、軍事施設への転用に有利)があり、鉄道輸送網として東西方向を結ぶ中央線と、それに並行する(現在の名称で言えば)京王、小田急、西武の各線があり、南北方向にも複数の路線があることに加え、旧来の街道が存在することで地域外及び地域内相互間の陸上輸送の便もよく、しかも「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスもよかった。

 

 

 

 では具体的に、どのような軍需関連工場が存在したのか?

 

 

  こうして成立した多摩地域の軍需工業の最終製品の特徴は次の3点に要約できる。
  第一に、航空機と航空機用発動機で、関連する航空計器や通信機器などとそのための中間完成品、および部品である。陸軍と海軍の需要に応じていた。
  第二に、中型戦車と軍用車輛、小銃・機関銃・機関砲・高射砲などで、火薬の生産を含め陸軍造兵廠の注文・指導・監督のもとに行れていた。主として陸軍の需要に応じた。
  第三に、通信機器のほか、測距儀や軍用時計から風船爆弾、落下傘など多種類の直接の兵器やそのための工具や計測器など多様な形での軍需品である。陸・海軍双方の需要に応じた。
  次に、これらの工場群を、工場所在地、製造品の種目、中心の企業・資本・軍、製造開始の時期などを考慮して、およそ4つのグループにわけてみた。
  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
  これら軍需工場は組立産業として多くの部品生産企業を擁し、4地域のそれぞれの中で完結することなく、とくに進出企業の出身の京浜工業地帯との結びつきは強い。また下請関係は複数企業にわたり変動もある。したがって4つの地域間には境界線を引くことは困難で、区分は考察への一つの目安である。
     星野 前掲論文 122~124ページ

 

 

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」に続く)

 

 

 

【註:1】
 用いたのは、齊藤勉 「多摩の空襲」(『多摩のあゆみ』 第119号 2005 8~9ページ 表2)のデータだが、鈴木芳行 『首都防空網と〈空都〉多摩』(吉川弘文館 2012 145~146ページ 表11)では、作戦の日付と出撃機数は以下のようになっており、多少の異同がある。

 11月24日(111機)、11月27日(81機)、12月3日(86機)、12月27日(72機)、1月9日(72機)、1月27日(62機)、2月19日(152機)、3月4日(194機)、4月1日(124機)、4月7日(111機)、4月12日(119機)

【註:2】
  しかし、アメリカ軍の戦果調べによると武蔵製作所が壊滅状態となるのは、二十年の四月七日と十二日の両爆撃によってであって、それ以前の戦果はいずれも「貧弱」「失敗」「不明」などであった。戦果の上がらない理由は、「雲量大」「強風」などのためであり、冬場に関東地方をしばしば襲う荒天が、B29の八〇〇〇㍍以上の高高度から投下する爆弾などの命中率を下げていたことにあった。
     鈴木芳行 (前掲書 144ページ)

【註:3】
 最初の作戦である11月24日の空襲からしてそのようであった。

  公開された650枚超の写真群は、昭和19(1944)年11月24日に撮影された荏原の空襲後の情景から始まる。
  まさにその11月24日から、B-29による東京への空襲が開始されたわけだが、作戦上は市街地が目標とされていたわけではなく、中島飛行機武蔵野工場が本来の爆撃目標であった。ノルデン照準器を用いた高高度精密爆撃による軍需産業の破壊を目的としていたにもかかわらず、工場上空の天候不良(ノルデン照準器がその高性能を発揮しない)のために工場への投弾を果たせなかった機により、航路上の東京市街が投弾地点とされ、それがたまたま荏原区であったということのようである(つまり荏原は本来の爆撃目標であったわけではない)。
  それが初のB-29による東京空襲の背景であったが、以後、同様な経緯での東京の市街地への高高度爆撃が続き、翌年3月10日には低高度からの侵入による市街地無差別爆撃(いわゆる「東京大空襲」である)へと転換され、米軍戦略爆撃機による都市無差別爆撃の手法が確立されるに至る。
  東方社写真部撮影による昭和19年11月24日の空襲の写真は、まさにその最初の空襲による被害の視覚的記録なのである。
     (「
プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」参照)

【註:4】
 B-29による多摩地区の軍需関連施設への空襲としては、4月4日に立川飛行機(113機)、4月24日に日立航空機立川発動機製作所(131機)、4月30日に立川陸軍航空工廠(106機)、5月19日に立川陸軍航空工廠(309機)、6月10日には中島飛行機武蔵製作所と日立航空機立川発動機製作所(124機)、同日に立川陸軍航空工廠(34機)、7月29日に中島飛行機武蔵製作所(1機によるもので原爆の1万ポンド模擬爆弾を投下)、8月8日に中島飛行機武蔵製作所(69機)がある。他にも、気象偵察機による投弾、艦載機(小型機)による空襲が記録されている。
    齊藤勉 「多摩の空襲」(前掲)及び「多摩上空のB29」(『多摩のあゆみ』 第141号 2015)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/06/28 15:06 → http://www.freeml.com/bl/316274/307574/

 

 

 

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2017年5月31日 (水)

エビデンスの力~西嶋真司監督の『抗い』(2016)

 

 本年の「メイシネマ祭’17」では、最終日の最終上映作品となった西嶋真司監督の『抗い』(2016)しか観られなかった。4週間近く前の話だ。しかし、その印象はまだ生々しい。

 

 

 

 ファクト(事実)を支えるエビデンス(根拠)の力。徹底的にエビデンスに拘り、ファクトに迫り続ける記録作家―林えいだい―の姿。

 2017年はトランプ大統領就任の年でもある。トランプと取り巻きは、自分たちに都合の悪いあらゆる情報を何の根拠も示さずにフェイク・ニュース(偽ニュース)と切り捨て、自ら発信する虚偽をオルタナティブ・ファクト(代替事実)と呼ぶことで問題を処理し続けている。

 

    ファクト(事実)やエビデンス(根拠)に対する政治的攻撃が強まっているとして多くの人が不安を募らせているなか、科学者やその支持者たちのデモ「科学のための行進(March for Science)」が22日に米首都ワシントン(Washington D.C.)を中心に世界600以上の都市で初めて行われる。
     (AFP 2017/04/22 15:27)

 

 この記事(そこにある切迫した危機感)が、記録作家の林えいだいの姿を追ったドキュメンタリー作品を観る私の中に、何度も反響し続けた。

 

 作品のホームページの記述を援用すれば、林えいだいは、「徹底した聞き取り調査により、朝鮮人強制連行、差別問題、特攻隊の実相など、人々を苦しめた歴史的事実の闇を追求し続けている」記録作家である。正直に私にとっての林えいだい体験を告白すれば、そのテーマの余りな重さに、著作に目を通すことを先延ばしにしてきた作家でもある。

 

 そんな私が、メイシネマ祭の会場で、画面の中の林えいだいと対面することになったのである。

 

 『抗い』の中では、林えいだいの著作のいくつかが、そしてその取材の核心が紹介される。

 たとえば朝鮮人炭坑夫を殴り殺した日本人労務主任を探し出し、実際のその証言を引き出し、まさにその証言をエビデンスとして、ファクトとしての日本近代における朝鮮人炭坑夫の境遇を明らかにするのである。

 その徹底的な取材が、ファクト(事実)としての歴史叙述を支えることになる。「近現代史の真実」と称する代替事実(すなわち虚偽)が氾濫するのが21世紀の最初の十数年の現実である(たとえば「朝鮮人強制連行問題の基本構図」参照)。林えいだいが、その徹底的に緻密な取材を通して明らかにするのは、当事者の証言を通して明らかにされるのは、近代日本の「事実」なのである。

 

 西嶋真司監督による取材が、その林えいだいの姿―徹底してエビデンスを追い求めファクトを追求する記録作家の気迫、その背後で記録作家を突き動かす戦時期日本での父母のエピソード―を映像記録としてとどめ、私たちの前に示してくれるのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/05/31 18:39 → http://www.freeml.com/bl/316274/305681/

 

 

 

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