2018年4月 1日 (日)

2018年4月1日:再び「フェイクニュース」の果てに

 

 

 

Grab 'em by the Venus, @GingerPower
 https://www.forbes.com/sites/davidalm/2017/01/27/masterpieces-re-imagined-to-humiliate-trump/#40ea6119362d

 

 

 

 ドナルド・トランプ大統領の治世二年目の4月1日である。本来なら「エープリルフール」ということで、ネタを考えなくちゃいけないんだが、私にはトランプを超える想像力がない。

 

 昨年(「2017年4月1日:「フェイクニュース」の果てに」)に引き続いて、今年もホントの話である。

 

 

 

 

  【AFP=時事】全米でセクシュアルハラスメント(性的嫌がらせ)問題の議論が行われる中、自身も性的不品行を繰り返し非難されてきたドナルド・トランプ(Donald Trump)大統領は30日、2018年4月を「全米性犯罪啓発予防月間(National Sexual Assault Awareness and Prevention Month)」にすると布告した。
  
  ホワイトハウス(White House)が発表したトランプ大統領の布告は「悲しいことにわが国の社会において性犯罪はいまだに横行しており、加害者が責任を免れることがあまりにも多すぎる」「こうした許しがたい犯罪は親密な関係のなかで、公共の場で、そして職場で見境なく行われている」としている。
  「しかし被害者が沈黙を守っているケースが多すぎる。加害者からの報復を恐れていたり、司法制度を信じられなかったり、トラウマになるような経験による痛みと向き合うことが難しかったりするのだろう」
  「わが政権は性犯罪を啓発し、被害者が加害者を特定し、責任を取らせることができるよう取り組んでいく」
  少なくとも20人の女性が、大統領になる前のトランプ氏から性的暴行またはセクハラを受けたとしてトランプ氏を非難している。ホワイトハウスはこうした女性たちはうそをついているとの立場を維持している。【翻訳編集】 AFPBB News
     (AFP=時事 2018/03/31 10:43)

 

 大統領が「全米性犯罪啓発予防月間(National Sexual Assault Awareness and Prevention Month)」と布告したのは3月30日だが、「全米性犯罪啓発予防月間」は本日、まさに「エープリルフール」であるはずの日がスタートである。

 「わが政権は性犯罪を啓発し、被害者が加害者を特定し、責任を取らせることができるよう取り組んでいく」って、これがセクハラ大統領トランプのセリフなのだ。大爆笑的ネタとしか思えない。

 

 昨年の関連報道を思い出してみよう。

 

  トランプ氏は女性蔑視発言でたびたび物議を醸し、過去に「女はやらせる。何だってできる。プッシー(女性器を指す俗語)をまさぐってな」と語っていたことも明らかになっている。
     (AFP=時事 2017/01/18 09:36)

 

 このエピソード、ちゃんと録音が残されているのだ。しかし、もちろん、ホワイトハウス的には、それでも「フェイクニュース」に過ぎないということになるのだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2018/04/01 17:43 → https://www.freeml.com/bl/316274/318049/

 

 

 

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2018年3月29日 (木)

廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)

 

 たまたま古書市で手に入れた、昭和9年~10年の新聞の切り抜き帳(スクラップブック)に貼られた記事を読むことで、「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に触れてきた(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」及び「草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)」)。

 

 冷害による大凶作の中で、

 

    稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる
     (東京日日新聞 昭和9(1934)年10月17日)

 

このような食糧事情に追い込まれ、

 

  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
  かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     (朝日新聞 昭和9(1934)年10月22日)

 

「口べらし」のために娘を身売りするまでに追い込まれる。しかも「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」との言葉が出るところまで追い詰められていたのである。

 

 

 

 今回も、スクラップブックに切り貼りされた新聞記事から、再び「娘の身売り」の現実、人身売買に頼るしかなかった「近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実」に迫ってみたい。

 

 

 

 取り上げるのは昭和9(1934)年12月10日の朝日新聞記事である。タイトルは「廓模様新紅毛情史」、枠付きの大見出しとなっている。

 歌舞伎の名題を思わせる大見出しだが、実際、「芝居じみた」という語がふさわしいような気さえしてしまうエピソード(実際、記者自身が「まるで劇の筋書でも読む様な」と書いている)である。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     廓模様新紅毛情史 (9.12.10 朝日)

 

 

 

 (原則として、見出しの表記は原文のまま―変換可能な限り―とし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 廓模様新紅毛情史

 吉原遊郭へ飄然遊んだ一外人が、その遊女の優しいもてなしと、余りにも可哀相な身の上話しに同情、約二千円を投げ出して身請から落籍祝ひまでし更に同女に小遣ひ五百円を渡して母の許に帰し母娘の喜ぶ様を見てほつと安心、浅かつた三日間のなじみの絆を絶つてその夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号に乗船、アメリカへの孤独の旅に上って行った、吉原遊女と旅の一外人――まるで劇の筋書でも読む様な新しい紅毛情史である【写真は十六夜こと細屋みよ子】

 身請に大枚の金
  絆を切り船出
    夢かと許り喜ぶ彼女と親
      提供の主 和蘭の旅人

 浅草区新吉原京町一ノ一七長金楼事中村彌一方へ去る四日夕刻日本人ガイドに案内された一外人が登楼した、『オランダ人、ヤン・シー・フオツク(二八)』と署名し娼妓十六夜(二〇)を相手に約一時間遊興して帰ったが更に六日夜八時再び登楼同夜は宿泊した七日午前一時半頃の事である、突然ガイドを通じて主人に会いたいといふので主人が会ふと『借金はいくら位ある?』といふ『千五百円位だらう』と大ざつぱの返事をすると、『それでは身請して自由にしてやりたい、金は一度帰つて持つて来る』と非常な乗気である、同楼ではよくあるお客さんの気まぐれと別に気にもしなゐでゐると、その朝五時半語呂帰つたその外人がその日(七日)午後三時頃三度び現れ札束を積んで『すぐ身請する』といふ、眼の前の札束を見せられて始めて楼主はびつくり、先づこの喜びを親許に知らせねばなるまいと「十六夜」の母、深川区三好町二ノ一四、細屋ふみ(五三)を円タクで迎へにやると、ふみはびつくりして現れ、娘の手を取つて喜びの泣き笑ひである、母娘の喜びを眺めていたこの外人、それから間もなく廓の芸者数名に、同家の娼妓十三名その他雇人全部を大広間に集め一人五円の総花をまいた上「十六夜」から改めて本名に返つた細屋みよのため杯を挙げてその前途を祝福した上、持って来た珊瑚の指輪を彼女の指にはめ更に自分の首に巻てゐた真紅な襟巻を彼女の肩にかけてやりながら
  自分は今夜十時出帆の船でアメリカへの旅に上って行く、もう再び会ふ機会もあるまいが、あなたは結婚して幸福な生活に入つて下さい、若し家庭に子供でも生まれたら、せめてその子供の写真を送つてもらひたい
 といふ、更に並ゐる朋輩衆に向かひ
  もし私にお金がどつさりあつたらあなた方全部も身請けしてやりたいが、もう私には金がない今夜立つ船では一等に乗る積りだつたが、もう金がないので二等の旅しか出来ないのです、それでは皆さん御機嫌よう、サヨナラ
 この意味が日本人ガイドを通じて語られると大広間の酒席もしんみりとなつて泣き出す始末、その日の夕刻、この喜びの細屋母娘はこの外人に軒先まで送られて自宅に引き取つて行つたが、その後姿を見送つた彼はガイドを連れそのまま夜の街に姿を消した、同夜十時横浜出帆のプレジデント・フーヴア号二等船客の中には『アムステルダム、二八歳、旅行家Y・C・FOCK』と署名した一外人の淋しい姿があつたといはれる

 苦界の姉も
  救ひに
   貰つた小遣で

 たつた三日の間に夢のやうな境遇の激変にあつた細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけらしく、おとなしい女として長金楼でも大事がられてゐた
 九日夜みよはフオツク氏から贈られた小遣五百円余の中から、栃木県の苦界に身を沈めてゐる実姉を救ひたいと、実兄と共に、同夜上野駅発の列車で栃木県下に向ひ、深川三好町の長屋には母のふみさんがどん底から蘇る一家の喜びに目を泣きはらしてゐる

 『籠釣瓶』が動機
  純情に感銘
    本國に打電して金策

 【神戸電話】 この外人の身許はガイドをつとめた神戸市加納町一丁目互明荘アパート止宿通訳バチェラー・オブ・アーツ中村三郎君によつてオランダの青年実業家Y・C・フオツク氏(二八)と判つた同君の話によるとフオツク氏は日本観光中東京の歌舞伎座で左団次、松蔦一座の籠釣瓶を見物、日本の花魁に興味を感じ一夜吉原の長金楼に遊び敵娼をつとめた十六夜の真情にほだされ翌日日光観光に赴いたが、ホテルでも溜息ばかりついて深く物を思ひつめて居た
  あの花魁は別れるときに私が五円をチップに与へたが遠い外国から来た人に要らぬお金を使はすのは勿体ないとどうしても取らなかつた、何といふ純な気持であらう、僅か数時間の対面ではあつたがあの子の起居振舞総て優美でしとやかでどうしても商売女とは思へないあんな正直な女を籠の鳥にしておくのは自分の良心に恥ぢる
 といひこの女に邂逅しただけで世界観光の徒事でなかつたことを喜んでゐた、中村君の骨折りで直に本国に打電金策した結果、フーヴア号が横浜出帆「七日午後十時」の直前に二千円の為替が届き劇的な情景の裡にぽんと彼女のために投出し、彼女のしごき一本を後生大事に貰つて行つた
  フオツク氏は若年ながらオランダで新聞を経営し既に妻子がありもし独身ならば勿論彼の女を連れて帰国するといつてゐたといふ

 

 

 新聞経営の28歳のオランダ人青年実業家が、吉原で出会った遊女(身売り=人身売買の犠牲者―そして貧困の犠牲者である)の「真情にほだされ」て、その場で「身請け」を決意し実行してしまう。まるで芝居の筋書であるが、昭和9年12月の新吉原遊郭での実話・美談として報道されているのである。

 

 まず、広辞苑にある「身請け」の項を確認しておこう。

 

 み-うけ【身請け】 年季を定めて身を売った芸妓・娼妓などの身代金(みのしろきん)を払って、その商売から身をひかせること。うけだすこと。落籍。

 

 初めて日本の遊郭を訪れたオランダ人青年実業家が、初対面の遊女の「真情にほだされ」て、その「身請け」を実行してしまった顛末である。

 オランダ人フォック氏に身請けされた「十六夜」(細谷みよ)は、東北の農家出身者ではない。

 

  細屋みよは千葉県長生郡八積村生れ、職人をしてゐた父大西徳次郎に連れられその後深川区月島に住んでゐたが、震災で父が行方不明になつてから、母ふみが八人の子供を抱へて女土方となつて育ててゐたが、遂にどん底に落ちて
  姉一人は栃木県に売られ彼女も昨年八王子で芸者となり、ついて今春五月、千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの

 

 千葉に生まれ東京で育ったが、「震災で父が行方不明」になったことから家族は零落し、「遂にどん底に落ちて」、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつた」のであった。貧困層の最底辺ともなれば「口べらしと借金の返済」は切実な問題であり、実際、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかったことが、十六夜(細屋みよ)一家のエピソードを通して理解し得るであろう。

 しかし、「千五百円の前借で四年の年期を勤めることになつたもの、その際母の手には僅か百円が渡つただけ」というのが実態であったし、「四年の年期」にしても、

 

  客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。

  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組み
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000)

 

の中での話なのである。

 

 フォック氏との出会いが、十六夜(細屋みよ)にとってどれだけ僥倖であったことか。

 

 

 「戯作者と傾城は虚が真で真が虚なり」との言い回しがあるが、記事の伝える経緯(背景)による限り、フォック氏が「ほだされ」た十六夜の「真情」に偽りを感じる必要はないだろうし、当のフォック氏だって、「飾り窓の女」として有名な売春街を擁するオランダが故国なのである。未経験な若者が遊女の口先に騙された、という話ではないであろう。

 

 

 昭和9(1934)年のエピソードということは、3年後には支那事変、5年後にはヒトラーによるヨーロッパでの戦争(オランダが占領されるのは1940年)である。細屋みよの家族、フォック氏はいかなる運命に翻弄されることになったであろうか?

 美談の先にあるのは、そんな惨禍に満ちた歴史でもある。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/29 20:52 → https://www.freeml.com/bl/316274/317986/

 

 

 

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2018年3月27日 (火)

草木に露命をつなぐ (昭和期日本の貧困 その2)

 

 前回は、近代日本の(それも昭和期の)「人身売買」の実状について、昭和9年と10年の新聞スクラップブックに切り抜きとして残された朝日新聞記事を読んだ(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」)。昭和9年の冷害による大凶作の中での、「口べらしと借金の返済」の手段としての「娘の身売り」である。

 

 

 紹介した新聞記事には、

 

  一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう

 

とあった。望ましいものではないとのニュアンスに伴われながらも、社会に容認されたものとして「人身売買」という解決法が取り扱われているのである。その規模は以下の通り。

 

  東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

「一年間で五万人余」という数字には「東北六県で」との限定が付けられていることも見逃すべきではないであろう(他の地域の貧困層にとっても「口べらしと借金の返済」は切実であり、「娘の身売り」は東北六県だけの問題ではなかった―近代日本の病理というべきか)。しかし、もちろん、冷害がなければ、「東北六県」での「娘の身売り」が「一年間で五万人余」とまではならなかったのでもあるが。

 

 「口べらし」が特に切実な問題となったのは、まさにそこに冷害による大凶作があったからであり、「飢饉」と呼ぶべき状況がもたらされていたからである。

 

  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 今回も、前回に用いた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックから、当時の報道の実際を読んでみたい。「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした」実状である(取り上げる記事は、その岩手県の惨状を伝えるものだ)。

 用いるのは、昭和9(1934)年10月17日の東京日日新聞記事である(時系列的には、前回記事で用いた朝日新聞記事より前のものということになるが、スクラップブック上では後のページに貼られている―スクラップブックの掲載順ということでご理解願いたい)。

 

 

 

スクラップブック(昭和9年~10年) 
     榮養價ゼロでも食べねばならぬ (9.10.17 東京日日新聞)

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 喘ぐ東北
  榮養價ゼロでも
   食べねばならぬ
     草木に露命をつなぐ
          この世の地獄-冷寒地

 東北地方、わけても岩手県下を汽車で通過すると冷害に荒んだ山野にションボリと「をぢさん、残りの弁当を放つて頂戴!」と叫ぶ学童たちの悲痛な声を耳にするだらうここ数十年来みたことのない大飢饉に虐げられた食へない人達のノドをついて出る真の叫びだ、何百万人かにのぼるであらうこれら哀れな罹災者をどうして救ふか、廿万人と算される欠食児童の救済さへ手につかぬ惨状は中央都会人の想像だに及ばないほど深刻化されてゐる、本社が西野入、手島両慰問使を取敢へず派遣したのも苦難のどん底にあへぐ人々への心からなる隣人愛である

 稗飯は最上等
     悲惨な學童のお弁當

 本社盛岡支局では冷害が最も深刻な岩手県下二戸郡奥中山村小学校の児童達がもつて来る弁当を四階級に分けて本社に送り届けてきた
  茶わん一ぱい分ばかりの稗飯と馬蔓芋四個ほど
  精白しない稗の飯とキヤベツ二切れほど
  稗の餅、ガンモドキほどのもの一個
  稗さへ食へず、楢の実十五個ばかりを紙片にくるんだもの
 どれにも砂糖気もなければ醤油の色もついていない、馬蔓餅もキヤベツも少しばかりの塩分をふくんでゐるばかり
 都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐるが、送り届けられた前記四種の弁当について内務省栄養研究所原博士の検定を求めると
  最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだとのこと―
 何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ

 人間らしく
  身體が保てぬ
     せめて鰯か豆を…

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士はこもごも語る――
 昨年の飢饉当時には出張して現地で詳細調査したが、岩手県と青森県下は特に驚くべき惨状で、ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべしで、この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐるのだ、栄養上どうか、カロリーはどれくらゐか、などの質問をうけても数字の上や統計の上で返事はできない、せめて鰯や豆類でも摂ることが出来たら、人間らしい身体を保てやうが、こんなものでは科学的に説明し得ない、一度伝染病でも流行したらそれこそ一大事で、飢饉にたたきのめされた罹災民にはただ涙あるのみだ

 

 

 掲載された学童の弁当の写真のキャプションも収録しておく(写真もよく見て欲しい―「インスタ映え」からは遠い世界である)。

 

 これでもお弁當
   黒いのは團栗、 上方の白い部分は馬鈴薯、ほかは稗

 

 「都会人には想像も及ばぬお粗末な弁当だが、冷害地にとつては稗飯を食へるものがめぐまれた最上流の農家で、学童の大半はあざみの葉、山ごぼうの葉椎の実、やどり木の葉を貪り食つてははかない露命をつないでゐる、大根の葉、そばの粉などが食へたら中流以上の家庭で、甚だしい地方――主として岩手県の郡部から津軽方面――では藁を粉にして水とともにすすりこんだり団栗をかじつたり『生きんがため』『食はんがため』の悲惨な社会実話がくり返されてゐる」のであり、しかし「この弁当をもつて学校へゆけるものはごく少数の農家に限られてゐる」のであった。栄養学的観点からは「最上流といはれる甲の弁当にしても含水炭素のみで蛋白質に乏しくヴイタミンAを欠いてゐるためにこれを常食としたら極端な栄養不良に陥り、老人、子供の場合には視力減退、鳥目となり妊産婦は分娩困難、乳児の保育はできないだらう、丙、丁に至つては議論のほかだと」いうのであり、しかも「何十万かの農民はその丙、丁にさへありつけないのだ」というのである。

 

 

 かつて松原岩五郎が記録したのは、明治20年代の都市最貧困層が残飯に命をつなぐ姿であった(「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」参照)。しかし東北の農村部には「残飯」は存在しない(「残飯」は都市のものなのである)。

 

 内務省栄養研究所の佐伯所長、栄養学の権威原博士が伝えるのは、

 

  ま冬には土を掘つて地中の植物の根をかじつて露命をつないだものさへあつた、今年はそれ以上だといふから惨状推して知るべし

 

このような「惨状」である。記事の見出しには「草木に露命をつなぐ」とあるが、それが比喩などではなく文字通りの現実だったのである。

 

 

 

 スクラップブックに戻ると、前回に紹介した昭和9年10月22日付の朝日新聞記事の左には、掲載紙名は不明だが同年11月14日付の新聞記事が貼られている(「賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)」画像参照)。岩手県知事による救済策を伝えるものだ。

 

 六萬余の窮民に
  衣類足袋を配給
    懸費で購ひ無料で・・・
      石黒岩手知事さらに英斷

 【盛岡発】全国民の絶賛裡に施米を断行した石黒岩手県知事は第二の巨弾として十二日塩、味噌、鰯の施給を声明し十三日朝から関係課長など集合して施給方針について協議の結果、更に栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく五万貫の昆布を県費で購入施給することに決定した、また白魔襲来して寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等を同じく県費で五十四万の凶作民中特に救済を要する六万七千名に対しこれを今月末日までに全部一名の漏れもなく配給することとなつた、しかして今月上旬から一斉に開始された救農土木事業の賃金は十日目毎に支払ふことになつてゐたが、これでは救済の意味をなさぬといふので隔日支払いにすることになり、十三日各町村一斉に通牒を発した、今や石黒知事の善政は凶作民等から随喜の涙で迎へられてゐる

 

 石黒岩手県知事が、「栄養不良のため痩せ衰へて行く凶作民に栄養を与えるべく」、米、塩、味噌、鰯、昆布の「施給」と、「寒空に震へてゐる窮民に対し衣類、足袋類等」の「配給」を「決定」したこと等を伝える記事だが、「英断」、「善政」といった評価が示されている。

 大凶作による困窮者の救済は、行政として当然のことと理解されているのではなく、「英断」や「善政」としてやっと実現され得るものと位置付けられていることも読み取れる。前回にも引用した『昭和 二万日の全記録 第3巻』の記事には、

 

  十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。

 

とあった。すなわち、12月になってやっと国家による救済策が打ち出された、ということだ。

 しかし、「身売り」された「娘」が国家により救済されることはなかったのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/27 22:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317952/

 

 

 

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2018年3月24日 (土)

賣られる最上娘 (昭和期日本の貧困 その1)

 

 近代日本を最底辺で支えた貧困層の現実がどのようなものであったのか?

 

 「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」では、松原岩五郎の『最暗黒の東京』(1893)を通して、明治20年代半ばの東京のスラム街住民の姿、食料としての残飯の販売がビジネスとして成り立ち、商品として流通する残飯を食べて生き延びる明治20年代の都市最貧困層の実情を明らかにした。

 「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々(続・明治期日本の貧困)」では、イザべラ・バードの『日本奥地紀行』(1885)に記録された、明治10年代初頭の北関東から東北にかけての農民の姿を取り上げた。

 ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々が、いまだ近代医学の恩恵から遠い世界で暮らしている姿である。「着たきり雀の風呂へも入らない人々」は、当時の農村部の貧困層の姿であっただけでなく、都市最貧困層も同様であったことも松原岩五郎によって記録されていた。

 

 記事の最後では、

 

  近代日本の(国体の精華たる?)「公娼制度」は(そして昭和期の皇軍の「慰安婦」もまた)「人身売買」に支えられたものであったが、その背景には、このような最底辺の帝國臣民の貧困の現実があったことも覚えておいてよいだろう。

 

このような指摘を加えておいた。

 

 

 今回は、貧困層の困窮が生み出す「身売り」、すなわち人身売買の問題に焦点を合せてみたい。取り上げるのは明治期ではなく、昭和戦前期の日本の現実、近代日本の現実である。

 

 

 昭和9年から10年(1934~1935)にかけて、日本が直面していた問題の一つが「凶作」であった。実状は以下の通りである。

 

 

  昭和九年は、日本各地に自然災害がおこり、農作物が大きな被害を受けた。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続いたが、冷害に見舞われた東北の被害は甚大で、明治三八年(1905)以来の大凶作となり、多くの農山村が飢餓線上をさまよった。十二月六日、衆議院は農林省提出の「凶作地に対する政府所有米穀の臨時交付に関する法律案」を可決し、政府所有米のうち五〇万石が、東北六県の町村に交付されることになった。
 
  小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた。九年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった。岩手県では全農家の七七㌫が緊急の救済を必要とした。
  飢饉の影響は、まず子どもたちの上に現れた。欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。新聞は連日のように救済を訴え、矯風会や救世軍が身売り防止運動を始めたが、口べらしと借金の返済に迫られた農村の厳しい現実の前では、ほとんど効果はなかった。
     (『昭和 二万日の全記録 第3巻』 講談社 1989  306ページ)

 

 

 まず、ここで押さえておかなくてはならないのは「小作料と年間収入を超えた額の借金にあえいでいた農民は、八年のように空前の豊作を記録した年ですら、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられていた」との記述である。豊作の年ですら、生産者であるはずの農民の口に米は入らず、稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食としていたというのである。その背後にあったのが「小作料と年間収入を超えた額の借金」であった(「豊作」であろうが「貧困」が現実であった)。

 そこに「明治三八年(1905)以来の大凶作」が襲う。もたらされたのは「それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかった」ような深刻な「飢餓」であった。

 その「飢餓」からの脱出手段の一つが「娘の身売り」なのである。

 

  欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだ。とくに大きな問題となったのは、娘の身売りだった。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、九年一〇月までの一年間で五万人余にのぼった。

 

 貧困層にとっては、人身売買に頼るしかなかった近代日本の現実がそこにある。

 

 

 

 以下、当時の新聞記事を読んでみたい(2015年の4月に、立川の中武デパートの古書市で手に入れた昭和9年と10年の新聞記事のスクラップブックによる)。取り上げるのは、昭和9(1934)年10月22日の朝日新聞記事である。

 

 

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 1

 


スクラップブック(昭和9年~10年) 
     東北の凶作地を見る (9.10.22 朝日) 2

 

 

 (見出しの表記は原文のままとし、本文は「かなづかい」は原文通りだが、旧字体は新字体にあらため、本文中の大きな活字は太字で表記)

 

 

 東北の凶作地を見る
 賣られる最上娘
  哀切・新庄節
   「年期明けても歸つてくれるな」
    親達の悲痛な言葉
          山形懸新庄にて
          飯島特派員

 他郷の人の手に売られて哀切な『新庄節』に故郷の山河をしのぶ女の数は決して少なくない、山形県最上郡はその娘地獄の本場だがここは県下でも一の凶作地、ならして七割の減収、一かたまりになつてゐる三十五町歩の田が稲熱(ゐもち)病で全滅してしまつたところもある、飯米は至るところ不足で、西小国村の野頭部落では
  一人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう
 といふ申合わせさへやつたといふ、県ではこの凶作で一層娘の身売りが増えるだらうといふので、身売防止の方策を樹て新庄警察署が主になつて、先頃村村で「娘を売るな」と座談会をやつて歩いた
  娘一人の身代金は年期四年で五百円乃至八百円、然し周旋屋の手数料や着物代や何かを差引かれて実際親の手に渡るのは、せいぜい百五十円位だ、可愛い娘を手放しても、百五十円の金を握りたい、一つの悪風習でもあらうが、やはりそれも詮じつめると食へない苦しさからに違ひないだらう
 かうして床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく、淪落の巷を流浪する最上娘の「新庄節」こそ彼女等の望郷の憶ひをこめた哀歌であると共にドン底の農村の悲しむべき生活苦を、まざまざと物語るものでなくて何だらう、然も娘を売つた親達は「凶作で米がないから、年期が明けても村の懐には帰るな」といふのだ農村の窮乏もここに至つて正視するに忍びない
     ▽……△
 娘地獄のこの地方は馬の産地で「子供の出産より馬の出産が大事だ」とまでいはれる位、馬を売るために毎年秋に馬市がたつ、記者は折よく東小国村へ行つて、この馬市を見ることが出来た
  この付近では東小国に八百頭、西小国に五百頭位の馬がゐるさうだが、三日間の馬市に百二十一頭の馬が売りに出た、みんな二歳駒の威勢のいい奴ばかり、馬買ひの博労は遠く青森、秋田岩手の方からもやつて来る、馬市をのぞいて見ると、博労達が人垣の輪を作つて、その輪の中を、農家の若衆が売り馬の口をとつて、ぐるぐる円を書いて歩く「おうい、いひ値が二十円」「一円買つた」「もう三円!」かうやつてせり上げて、相当の値だと思ふと、世話人がポンと手を叩いて売買が決まる、見てゐるうちに、四頭の馬が売れた、一年半も手塩にかけた馬が三十五円、四十六円、四十七円最後の馬はたつた十七円であつた、しかも、この中から産業組合に一割五分の手数料を出さねばならぬ
 馬が安値に売られるたびに見物の百姓達までホツと肩で息をして「話にもならない値だなあ」とガツカリしてしまふ
 馬市の表の道の奥にはづらりと露店が並んでゐる、鍋、釜、古着、雑貨、食料品何でもある、つまり馬を売つてから、ここで一年分の必要品を買ひ込むといふ習慣になつてゐるのだが、今年はそれがひどい寂れ方だといふ、西小国村では凶作のため「馬市には馬一頭につき一人以上付いて行くな」といふ決議をした。人がわいわい多勢ゆけば買物も自然多くなるから、今までのやうにゾロゾロ馬にくつついて行つてはいけないといふのである、田舎廻りのサーカスの小屋がかかつてゐて、客を呼んでゐるが、人々はただ泥絵具の看板をポカンと眺めてゐるだけで、ガマ口を開けようともしない、収穫のない田圃、その田圃の中の小さい宿場、馬のせり市、さびれた露店、サーカスの荒んだ楽隊――凶作地のうら淋しい晩秋の風景は記者の心を徒らに傷ましむるのみだ
      ▽……△
 飯米不足でどこの村々でも濡米の払下げを申請してゐるがとうとう山から栃の実を拾つて米の代用に食ひ始めた、栃の木はパリの街路樹マロニエに似た木で実は栗のやうな格好をしてゐるが苦みと渋味があるので各村役場では「苦みをとつて粉にしてそれから餅にする迄の加工法」をガリ版に刷つて戸毎に配り学校の先生のきも入りで内儀さん、処女会員を集めて講習会なども開かれてゐる
  栃の実のほかにワラビの根、山葡萄の葉や山牛蒡の葉なども食ふ、学校にゆけば鼻をたらした「干松」が居り、村落の掘立小屋にひとしい家々には、米を作って米の食へない「伯夷叔斉」が青い顔をしてゐる、芋、大根、茄子みんな不出来で、きうりや茄子の漬物もない
 小学校の実習で作った大根が幾らか残つてゐるといふので、百姓が銅貨を握つて小学校へ大根を買ひに来る、細いのが三本五銭でこれが大した御馳走だ、村落を歩いて農家の軒先の蓆の上に並べて乾てある栃の実を貰つて五銭白銅を一枚子供に渡したら「やあ、この銭ア光つてるぞ」と大喜びだ帰りがけにまたその家の前を通つたら、さつきの子が出て来て「平シヤボテンもあるんだがなあ」と呼びかけた、記者はぐつと胸のつまる思ひをした、豊田村では一村禁酒、電燈減燭の決議をして、違反者には私刑を加へるといふ罰則を作つた、最上一帯は全く光を失つた村々の集団だ、米を作る農民の「飯米を与へよ」の声こそ悲痛である 

 

 

 「床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、あるひは酌婦に売られて姿を消してゆく」という「人身売買」の現実。

 それだけでは終わらず、「人でも口を減らさうと思つてゐるのに売つた娘の年が明けて帰つて来られてはそれこそえらいことだ、何とかして娘の年期明けを延ばすことにしよう」との「申し合わせ」をするまでに追い込まれているのである。

 

 ただし、当時の「公娼制度」のシステムの下では、「娘の年期明け」への心配は無用であったかも知れない。

 

  このように決死の思いでつけられた日記の中で、最も頻繁に出てくるのは搾取システムの実態である。元元彼女は三百円の借金で首が回らない実家を救おうと、千三百五十円で身を売ったのであるが、十分余裕ができると期待したのも束の間、周旋人に二百五十円も取られ、さらに借金を返してしまうと、家には差引八百円しか入らなかった。それでも六年間の年季の間に千三百五十円を返済するのは比較的容易に見えたが、朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない様子をみて、不審の念をいだいた。
  その謎はすぐに判明した。客から十円の収入があれば、実に七割五分を楼主に取られてしまい、二割五分だけが玉割と称して娼妓の取り分となる。しかも、その中の一割五分が借金返済のための天引きされてしまうので、娼妓は残りの僅か一割だけで生活しなければならないという仕組みなのである。彼女の稼ぎ高は月に三百円程度の箏が多かったので、手元に残るのは三十円程度にすぎなかった。これに対して呉服代から化粧代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、さては湯銭や病気のさいの治療費にいたるまで、諸掛一切が娼妓の負担となっており、これが月に四十円をくだらないので、いきおい楼主から追借をせざるを得ない。
  問題がこれだけでないことを、彼女は正月になってから知った。正月の三が日、七草、および十五、六日は「しまい日」と称し、客に「しまい玉」(または玉ぬき)という特別料金を請求するように仕向ける。揚代金は一時間二円、全夜(オールナイト)十二円を取ったが、「しまい日」には客に全夜の玉を倍の二十四円請求し、そのうえ遣手婆にも普段より多くの祝儀(五円)を出させる。無論、かなりの馴染み客でない限り応じるわけもないが、しまい玉が取れない娼妓に対しては一日二円の罰金が科せられるので、売れっ子以外は戦々兢々とならざるをえない。そのような客のないものは花魁の恥とされるからでもある。
  しまい日は正月ばかりでなく、三月三日、五月五日にも適用される。そのほかに「移り替」といって六月と十月の衣替えにも同様の“行事”がある。とにかく、あらゆる機会をとらえて搾り取る仕組みだが、不器用な彼女にはどうしても玉ぬきができない。最初の月だけで十円の罰金をとられ、主人から「いくら初見世でも、一人位玉ぬきができそうなものだ。もういく日になるんだ」と小言をいわれる。チップで生計を立てている遣手からもいやがらせをされるようになる。
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000  167~170ページ)

 

 

 ここで紹介されている「日記」とは、「大正十三年(一九二四)の師走、群馬県高崎市に育った十九歳の女性が周旋人に案内されて新吉原の門をくぐった。森光子というこの女性は、その後の約一年間、娼妓として辛酸をなめ、ついに死を賭しての脱出に成功、翌十四年に『光明に芽ぐむ日々』という告発の手記」のことである(「賣られる最上娘」の記事の10年前の、人身売買の当事者による告発である―この10年間で、公娼制度の制度的枠組みが変化したという話は聞かない)。「朋輩の多くが長年月つとめながら一向に足を洗うことができない」のが実情であった。しかも紀田順一郎氏の文章は、「新吉原以外の公娼地帯では一層ひどい状況が見られた」と続いているのである。

 「賣られる最上娘」を待ち受けていたのが、どのような悲惨であったのか。切抜きとして残された新聞記事に書かれた以上の過酷な現実であったことは、想像しておいた方がよいだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/03/24 14:01 → https://www.freeml.com/bl/316274/317854/

 

 

 

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2018年2月20日 (火)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)

 

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して(記事カテゴリーとしては「多摩武蔵野軍産複合地帯」)、昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況を追って来た。

 その際にまず参考としたのは、星野朗氏の論考「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998)であり(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)」及び「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」参照)、小平地域の軍事施設設置状況のの詳細については主に『小平市史』(2013)を用いた(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)。

 

 ここであらためて、昭和10年代の(北多摩を中心とした)多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況の全体像を、国分寺市・国分寺市教育委員会『市制施行50周年記念 国分寺市の今昔』(2015)巻末の資料編にある「北多摩地域を中心とする軍事関係工場」と題された施設一覧(地図も付属)を用いて確認しておきたい。

 

 「北多摩地域を中心とする軍事関係工場」には、「北多摩地域と軍事関係工場の位置図」と題された地図上の番号(1~40)に対応する40施設が一覧表形式で示されている(ただし「位置図」上には番号の附されていない―従って一覧表に掲載されていない―施設も複数存在する)。また一覧表にも地図にも「軍事関係工場」とあるが、実際には「工場」(軍需生産施設―「産」の施設)だけではなく陸軍飛行場や経理学校、補給廠等の様々な軍事施設(「軍」の施設)も多く含まれており、その意味でも「北多摩地域を中心とする」当時の「軍産複合地帯化状況」をあらためて概観する上で都合がよい資料である。

 また、一覧表は番号と共に「施設名」、「沿革」(施設の設置年度)、「内容」(何に用いられた施設であったか)、「所在地」(現在の行政区分名)、「現在跡地に所在する主な施設」(施設跡地の現在の利用状況)が掲載されており、「現在跡地に所在する主な施設」を確認することで、ある程度の(現在の)土地勘を持ってさえいれば、かつての施設の立地区域の把握も容易である(各施設の「跡地に所在する主な施設」は星野論文執筆時から大きく変化しており―工場用地としての利用から大規模集合住宅、あるいは大規模商業施設への転換等、土地利用状況は変化している―『国分寺市の今昔』には2015年作成のまだ新しい「資料」であることの強み―最新状況の反映―がある)。

  一覧にある「現在跡地に所在する主な施設」(現在の跡地利用状況)の項からも、それぞれの敷地の本来の広大さ(すなわち当時の多摩武蔵野地域で「軍」と「産」の施設の占めた地位)が明らかになるだろう。

 「軍」の施設である「陸軍経理学校・練兵場」で言えば、その「現在跡地に所在する主な施設」として「陸上自衛隊小平駐屯地・国土交通大学校・関東管区警察学校・小平団地・防衛省官舎・小平第九小学校・グランスクエア一橋学園・むさしが丘学園・あけぼのパン工場」が挙げられている。現在の個々の施設もそれぞれに十分に広い敷地を必要とするもの(自衛隊駐屯地、各種の学校、大規模集合住宅、工場)であることからも、かつての「陸軍経理学校・練兵場」の敷地の広大さは明らかとなるであろう。

 「産」の施設を中島飛行機関連で見れば、「中島航空金属」の「現在跡地に所在する主な施設」は「ひばりが丘運動場・せせらぎ公園・谷戸第二小学校・市立中原小学校・市立南中学校・公団ひばりが丘団地・住友重工田無製造所・ジャパンエナジー中央研修所」であり、「中島飛行機武蔵製作所」の「現在跡地に所在する主な施設」は「武蔵野中央公園・武蔵野市役所・武蔵野東小学校・NTT開発センター」であり、「中島飛行機三鷹研究所」の「現在跡地に所在する主な施設」が「都立野川公園・国際基督教大学・東京神学大学・ルーテル学院大学・アメリカンスクール・富士重工」となっている。それぞれの敷地の広大さは明らかであろう。

 

 以下、『国分寺市の今昔』にある一覧からの引用である(「」を用いた註釈は引用者によるものである)。

 

 

 

1 中島航空金属

  沿革-1938(昭和13)年中島飛行機武蔵製作所の分工場の田無鋳造工場設置→1939(昭和14)中島航空金属
  内容-武蔵製作所作成エンジンのテスト
  所在地-西東京市・武蔵野市
  現在跡地に所在する主な施設-ひばりが丘運動場・せせらぎ公園・谷戸第二小学校・市立中原小学校・市立南中学校・公団ひばりが丘団地・住友重工田無製造所・ジャパンエナジー中央研修所

 

2 中島飛行機武蔵製作所

  沿革-1938(昭和13)年武蔵製作所設置・1941(昭和16)年多摩製作所設置〔西半分〕→1943年合併武蔵製作所
  内容-武蔵製作所:陸軍機エンジン、多摩製作所:海軍機エンジン
  所在地-西東京市・武蔵野市
  現在跡地に所在する主な施設-武蔵野中央公園・武蔵野市役所・武蔵野東小学校・NTT開発センター

 

3 横河電機製作所吉祥寺工場

  沿革-1930(昭和5)年設置
  内容-航空計器・航空機用磁石発電機の製造
  所在地-武蔵野市
  現在跡地に所在する主な施設-横河電機工場
 

4 日本無線電信電話

  沿革-1937(昭和12)年設置
  内容-航空機用無線・レーダーの製造
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-日本無線

 

5 三鷹航空工業

  沿革-1933(昭和8)年設置
  内容-航空機エンジンの製造
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-井の頭公園西園(旧日産厚生園・下連雀1丁目付近)

 

6 正田飛行機製作所

  沿革-1933(昭和8)年渋谷から移転
  内容-航空機エンジンの製造
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-日産自動車三鷹工場(下連雀5丁目付近)

 

7 中島飛行機三鷹研究所

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-航空機の設計
  所在地-三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-都立野川公園・国際基督教大学・東京神学大学・ルーテル学院大学・アメリカンスクール・富士重工

 

8 中央航空研究所

  沿革-1939(昭和14)年設置
  内容-航空機の開発
  所在地-調布市・三鷹市
  現在跡地に所在する主な施設-宇宙航空研究開発機構航空宇宙センター・交通安全環境研究所・電子航法研究所海上技術安全研究所・杏林大学・消防研究所・消防大学校

 

9 調布陸軍飛行場

  沿革-1941(昭和16)年設置
  内容-陸軍機の訓練・防空基地
  所在地-調布市・三鷹市・府中市
  現在跡地に所在する主な施設-調布飛行場・武蔵野の森公園・東京外国語大学・警察大学校・大沢総合グラウンド

 

10 傷痍軍人東京療養所

  沿革-1939(昭和14)年設置
  内容-軍人療養施設
  所在地-清瀬市
  現在跡地に所在する主な施設-日本社会事業大学・国立病院機構東京病院

   *: 結核罹患軍人の療養施設

 

11 傷痍軍人武蔵療養所

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-軍人療養施設
  所在地-小平市
  現在跡地に所在する主な施設-国立精神・神経医療センター・萩山グラウンド

   *: 1931年の満州事変から足掛け15年にわたる戦争でこれまでにない規模の人々が戦地へと動員される中で、心理的な原因で精神疾患になったと考えられた人々は当時「戦争神経症」「戦時神経症」と呼ばれ、軍部や国家の関心事となった。その中で、1938年、国府台陸軍病院が精神神経疾患となった軍人の専門治療機関となり、1940年に精神障がいを対象にした傷痍軍人武蔵療養所が設立された。
     中村江里 「往還する〈戦時〉と〈現在〉:日本帝國陸軍における「戦争神経症」」 (博士論文要約 2015)

 

12 陸軍兵器補給廠小平分廠

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-兵器・燃料の保管・補給
  所在地-小平市
  現在跡地に所在する主な施設-ブリジストン東京工場・小平第六小学校・小平第二中学校・松見病院

   *: 2015年時点の記述であり、2018年現在では工場施設は小平市から撤退し、研究施設のみとなっている(ブリジストン関係者の話による)

 

13 陸軍経理学校・練兵場

  沿革-1890(明治23)年設置**
  内容-将校の経理養成***
  所在地-小金井市****
  現在跡地に所在する主な施設-陸上自衛隊小平駐屯地・国土交通大学校・関東管区警察学校・小平団地・防衛省官舎・小平第九小学校・グランスクエア一橋学園・むさしが丘学園・あけぼのパン工場

   *: 陸軍経理学校とは、軍隊組織の財政管理・会計実務、軍施設の建設や維持、軍服や糧食などの調達、軍需工場の監督といった軍隊組織の管理運営全般と物資の補給実務を担当する学校で、創立は一八九〇(明治二三)年であった(麹町富士見町)。東京牛込区若松町の校舎(通称若松台)で長く教育にあたっていたが、満州事変の頃から校舎移転の議論が起こり、一九四〇年頃になって「教育の拡充」の必要性から小平村への移転が決定されたのであった。つまりこの移転は、総力戦の時代になって、軍隊組織の管理を担当する将校が質・量ともにそれまで以上に求められるようになったことを示す。
     (『小平市史』 227ページ)

   **: 上記『小平市史』にある通りで、1890(明治23)年は麹町富士見町での創立年。小平への移転・開校は昭和17(1942)年

   ***: 「将校の経理養成」というよりは「経理将校の養成」であろう

   ****: 『小平市史』にある通りで、所在地は現・小金井市ではなく、現・小平市内である

 

14 多摩陸軍技術研究所

  沿革-1942(昭和17)年設置
  内容-銃器・火砲の研究施設
  所在地-小金井市**
  現在跡地に所在する主な施設-東京学芸大学・東京学芸大学附属中学校・東京学芸大学附属小学校・サレジオ中学校・サレジオ小学校・市西部浄水所・つつじ

   *: 陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転
       第二技術研究所(観測・測量・指揮連絡用兵器など)と第五技術研究所(通信機材・整備機材・電波兵器)の敷地が小平
       第一(鉄砲・弾薬・馬具)、第三(爆破用火薬・工兵器材など)、第八技術研究所(兵器材料・化学工芸など)の敷地は小金井
        第1研究所/銃器、火砲、馬具、弾薬等に関係する部署
        第2研究所/測量器、照準器、眼鏡などに関係する部署
        第3研究所/渡河、鉄道、架橋、道路、爆破器材および一般工兵器材などに関わる部署
        第5研究所/電波、通信機材関係の部署
        第7研究所/物理的兵器関係の部署
        第8研究所/兵器の基礎研究に関する部署
      陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設
       第五、第七、第九技術研究所の電波兵器関連研究開発機能を統合
     (『小平市史』及び板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)による)

   **: 上記の通りで、施設所在地は現・小金井市内と現・小平市内にまたがるものであった(施設名称をはじめ、沿革、内容の項にも他資料との異同がある)

 

15 中央工業南部工場

  沿革-1936(昭和11)年設置
  内容-銃器・火砲の製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-早稲田実業・東京経済大学

 

16 小林理学研究所

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-陸海軍水測音波兵器の開発製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-リオン

 

17  日立中央研究所

  沿革-1942(昭和17)年設置
  内容-航空機用消化装置・スプリングなどの製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-日立中央研究所

   *: 『国分寺の今昔』の表記が「航空機用“消化”装置」となっている

 

18 東洋酸素

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-高圧酸素・窒素・プロパンガスの製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-ドンキホーテホームセンター恋ヶ窪店・サミットストア恋ヶ窪店・東恋ヶ窪くぬぎ公園

 

19 東京碍子

  沿革-1944(昭和19)年設置
  内容-送電・電柱の付属機器製造
  所在地-国分寺市
  現在跡地に所在する主な施設-(東恋ヶ窪4丁目)

 

20 陸軍燃料廠

  沿革-1938(昭和13)年設置
  内容-陸軍用石油代替燃料の研究開発
  所在地-府中市
  現在跡地に所在する主な施設-府中の森公園・府中の森芸術劇場・府中市美術館・航空自衛隊航空総隊司令部・市立浅間中学校

 

21 東京芝浦電機府中工場

  沿革-1939(昭和14)年設置
  内容-軍用機用電波系機器の生産
  所在地-府中市
  現在跡地に所在する主な施設-東芝府中工場

   *: 小平図書館作成の「小平周辺戦争当時軍事施設・軍需工場マップ」(註:1)には以下のようにある(施設名が異なり、製造品も異なっているように見える)。

     日本製鋼所武蔵製作所
     はじめのころ戦車を、のち高射砲をつくっていた。
     東芝車輌製作所
     (今の日本製鋼所、東芝府中工場があるところ)

 

22 日本製鋼所武蔵製作所

  沿革-1938(昭和13)年設置
  内容-海軍用鋳鍛鋼品の製造
  所在地-府中市
  現在跡地に所在する主な施設-すずかけ公園・日銀府中分館・インテリジェントパーク(日鋼町)

   *: 小平図書館作成の「小平周辺戦争当時軍事施設・軍需工場マップ」(註:1)には以下のようにある(製造品が異なっている)。

     日本製鋼所武蔵製作所
     はじめのころ戦車を、のち高射砲をつくっていた。
     東芝車輌製作所
     (今の日本製鋼所、東芝府中工場があるところ)

 

23 村山陸軍病院

  沿革-1941(昭和16)年設置
  内容-陸軍の病院、地域病院としても機能
  所在地-武蔵村山市
  現在跡地に所在する主な施設-東京経済大学武蔵村山キャンパス(グラウンド・野球場・テニスコート)
 

24 所沢陸軍整備学校立川教育隊

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-陸軍航空技術学校修了者を教育
  所在地-武蔵村山市
  現在跡地に所在する主な施設-村山医療センター・東京小児療育病院・村山特別支援学校・国立感染症研究所・雷塚公園・雷塚小学校・市民総合センター

 

25 東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)

  沿革-1938(昭和13)年熊谷から移転
  内容-陸軍少年飛行兵の基礎教育
  所在地-武蔵村山市
  現在跡地に所在する主な施設-大南公園・菖蒲園・湖南衛生組合・第七小学校・第四中学校

 

26 日立航空機立川工場

  沿革-1938(昭和13)年東京瓦斯電気工業立川工場→1939(昭和14)年日立航空機工場
  内容-陸軍航空機エンジン製作
  所在地-東大和市
  現在跡地に所在する主な施設-東大和南公園・東大和南高校・都立東大和療育センター・北多摩看護専門学校・東大和市民体育館・市民プール

 

27 陸軍獣医資材廠

  沿革-1938(昭和13)年世田谷から移転
  内容-軍馬の管理
  所在地-立川市・国立市
  現在跡地に所在する主な施設-陸上自衛隊東立川駐屯地・立川第二中学校・北多摩高校
 

28 陸軍立川飛行場

  沿革-1922(大正11)年設置、陸軍航空第5大隊を岐阜県各務ヶ原から立川に移転→1924(大正13)年陸軍飛行第5連隊→1929(昭和4)年民間航空機航路導入→1933(昭和8)年陸軍機専用になる
  内容-陸軍機の飛行場
  所在地-立川市・昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-陸上自衛隊立川駐屯地・警視庁多摩総合庁舎・自治大学校・立川警察署・立川防災合同庁舎・立川消防署・立川市役所・多摩モノレール基地・国文学研究資料館・南極北極科学館・国立国語研究所

 

29 立川飛行機立川工場

  沿革-1930(昭和5)年石川島飛行機製作所
  内容-陸軍機の製造
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-新立川航空機

 

30 立川飛行機砂川工場

  沿革-1930(昭和15)年石川島飛行機製作所
  内容-陸軍機の製造
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-立飛企業立川製造所・砂川高校・立川第六中学校・タチヒゴルフ練習所・新立川航空機・横河エンジニアリングサービス
 

31 東京第二陸軍共済病院

  沿革-1944(昭和19)年設置
  内容-陸軍の病院、地域病院としても機能
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-立川病院

 

32 陸軍航空技術学校

  沿革-1935(昭和10)年設置
  内容-少年航空兵・少年飛行兵の教育、総合教育
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-緑町公園・立川市中央図書館・パークアベニュー・高島屋立川店・シネマツー
 

33 立川陸軍病院

  沿革-1922(大正11)年陸軍航空部隊付属医療機関創設→1923(大正12)年立川陸軍病院
  内容-陸軍の病院、地域病院として機能
  所在地-立川市
  現在跡地に所在する主な施設-災害医療センター

 

34 陸軍航空技術研究所

  沿革-1928(昭和3)年所沢より移転
  内容-陸軍機の研究開発
  所在地-立川市・昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-国営昭和記念公園(北側)

 

35 陸軍航空廠立川支廠

  沿革-1935(昭和10)年設置
  内容-燃料・弾薬の補給、整備・修理
  所在地-立川市・昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-国営昭和記念公園(南側)
 

36 陸軍航空工廠

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-飛行機の設計・製造する工場
  所在地-昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-関東財務局所有地(築地町・福島町)

 

37 昭和飛行機東京製作所

  沿革-1937(昭和12)年設置
  内容-零式輸送機(DC-3)・艦上爆撃機を生産
  所在地-昭島市
  現在跡地に所在する主な施設-昭和飛行機工場・東京システム運輸物流センター・昭和の森ゴルフコース・昭和の森スポーツセンター・上水公園・拝島第二小学校・三井造船工場・三井造船研究所・つつじが丘北小学校・瑞雲中学校・つつじが丘公園・つつじが丘南小学校・昭島市民会館・市民会館公園

 

38 陸軍航空整備学校

  沿革-1943(昭和18)年設置
  内容-将校への整備教育
  所在地-福生市
  現在跡地に所在する主な施設-横田基地

 

39 陸軍多摩飛行場

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-陸軍立川飛行場の付属飛行場
  所在地-福生市
  現在跡地に所在する主な施設-横田基地

 

40 陸軍航空審査部

  沿革-1940(昭和15)年設置
  内容-航空機関係機器のテスト
  所在地-福生市
  現在跡地に所在する主な施設-横田基地

 

 

 

 これまで参照した資料に、「北多摩地域を中心とする軍事関係工場」の記述内容を加えることで、昭和10年代における多摩武蔵野地域への軍事・軍需関連施設(「軍」と「産」の施設である)の集中の実態の理解が、より深まったたものと思う。一方で、資料間の記述には異同があることも確かであり、解明すべき課題が残されている。

 ちなみに『国分寺市の今昔』の裏表紙見返しには、昭和22(1947)年撮影の「国分寺町周辺航空写真」(国土地理院提供)と、それに鉄道路線名、道路名、施設名等の注記を加えたものが並べて掲載されており(現在の国分寺市、国立市、小金井市、府中市、小平市南部を含む)、当時の土地利用状況を「目の当り」にすることが出来る。優れた試みだと思う。

 

 

 

【註:1】
 参照→ http://library.kodaira.ed.jp/local/tkk/tkk10/tkk10_09.html
 児童向けの解説ではあるが、小平市周辺(にとどまらず西多摩地域・南多摩地域の一部も含む)軍事施設・軍需工場が地図上に示されているので参考になる(ただし、跡地利用状況はマップ作成当時とは変化しているので注意が必要である―たとえば、陸軍経理学校の跡地利用施設の中に「シルバー精工」が示されているが、現在では売却後の跡地に大規模集合住宅としての「グランスクエア一橋学園」の建物群が立ち並んでいる)。

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(オリジナルは、投稿日時 : 2018/02/20 15:18 → https://www.freeml.com/bl/316274/317153/

 

 

 

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2018年1月30日 (火)

「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々(続・明治期日本の貧困)

 

 「残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)」と題して、松原岩五郎によるルポルタージュ(『最暗黒の東京』)を通して、明治20年代半ばの大日本帝國臣民の最底辺の姿を取り上げてから一月が過ぎてしまった。

 そこに記録されていたのは、残飯に支えられて生きる、東京の貧民街の最貧困層の姿であった。

 

 

 今回はあらためて、まず明治10年代初頭の農村部の「臣民」の姿を、民俗学者の宮本常一による『イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む』(平凡社ライブラリー 2002  引用は92~97ページ)を読むことを通して確かめておくことから始めたい。

 イザべラ・バードの記述に宮本常一が解説を加える形で進められている(ここでは、バード自身による記述は太字にしてある)

 

 

 

  きびしい労働 貧しいくらし

  それから小佐越というところで当時の山中の村の貧しかったことがでてきます。
 
   ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子供たちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、酷い労働と焚火のひどい煙のために顔もゆがんで全く醜くなっていた。その姿は彫像そのもののように見えた。(第十一信)
 
  それほど汚れていたのです。それは風呂へも入らないということでもあったのです。同じようなことが栃木県の横川というところを通るときに出て来ます。
 
   五十里から横川まで、美しい景色の中を進んで行った。そして横川の街路の中で昼食をとった。茶屋では無数の蚤が出てくるので、それを避けたかったからである。(第十二信)
 
  何度もいうように、日本にはすごいほど蚤がいて、実は茶屋だけではなくて、地面の上にもいたらしいのです。日本の国土全体の上に、かつて充満していたようなのです。
 
   すると、私のまわりに村の人たちのほとんど全部が集まってきた。はじめのうち子どもたちは、大きい子も小さい子も、びっくりして逃げだしたが、やがて少しずつ、親の裾につかまりながら《裾といっても、この場合は譬喩的表現だが》〔腰にまとわりつきながらということでしょう〕、おずおずと戻ってきた。しかし私が顔を向けるたびに、またも逃げだすのであった。群衆は言いようもないほど不潔でむさくるしかった。ここに群がる子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るであろう。(第十二信)
 
 
  薬のききめと病人たち

  また同じような場面があります。
 
   宿の亭主の小さな男の子は、とてもひどい咳で苦しんでいた。そこで私はクロロダインを数粒この子に飲ませたら、すべて苦しみが和らいだ。治療の話が翌朝早くから近所に広まり、五時ごろまでには、ほとんど村中の人たちが、私の部屋の外に集まってきた。(第十二信)
 
  日本の医療がどんなものであったかが、これで非常によくわかるのです。村の医者ではどうしようもなかったが、新しい化学薬品に会うと実にきれいになおるのです。
 
   ささやく音、はだしの足を引きずる音がだんだん大きくなり、窓の障子の多くの穴に眼をあてていた(障子に穴を開けてのぞくのは、日本のひとつの習俗ですね〕。私は障子を開けてみて、眼前に現れた痛ましいばかりの光景にどぎまぎしてしまった。人々は押しあいへしあいしていた。父親や母親たちは、いっぱい皮膚病にかかっている子、やけど頭の子、たむしのできている子を裸のまま抱きかかえており、娘たちはほとんど眼の見えなくなった母親の手をひき、男たちはひどい腫れ物を露出させていた。子どもたちは、虫に刺され、眼炎で半ば閉じている眼をしばたいていた。病気の者も、健康な者も、すべてがむさくるしい着物を着ていた。それも、嘆かわしいほど汚くて、しらみがたかっている。病人は薬を求め、健康なものは、病人を連れてくるか、あるいは冷淡に好奇心を満足させるためであった。私は悲しい気持ちになって、私には、彼らの数多くの病気や苦しみを治してあげる力がないこと、たとえあったとしても、薬の蓄えがないこと、私の国では絶えず着物を洗濯すること。絶えず皮膚を水で洗って、清潔な布で摩擦すること。これらは同じような皮膚病を治療したり予防したりするときに医者のすすめる方法である、と彼らに話してやった。(第十二信)
 
 
  着たきり雀の生活

  これは栃木県から福島県へ越えようとする山中での話なのですが、いかに不潔であったか、ということです。また次に、
 
   この人たちはリンネル製品を着ない。彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている。(第十二信)
 
  これはこのとおりだったと思うのです。これは先ほどの裸でいるということと関係があって、着物をできるだけ汚さないようにする。それは洗濯すると痛んで早く破れるからで、着物の補給がつかなくなるのです。それでもだいたい一年に一枚くらいの割合で着破ったと考えられるのです。その着物というのは、この山中だと麻か籐布が多かったと思います。すると家族が五人いるとして、五人分の麻を作るか、あるいは山に行って藤をとってきて、その繊維をあく出しして細かくさいて紡いで糸にし、それを機にかけて織る、ということになると、着物一人分の一反を織るのにだいたい一ヵ月かかると見なければならない。五人分なら五ヵ月で、それを、働いている上にそれだけのことをしなければならないのです。
  着物を買えば簡単ですが、買わない生活をしてとなると非常に自給がむずかしかったわけです。これが生糸になると、まゆを煮さえすれば繊維の長いのが続いているから、うんと能率も上がってくることになります。植物の皮の繊維をとって着物を織ることがどのくらい苦労の多いものであったかがわかるのです。汚ない生活をせざるを得なかったということは、こういうことにあると思うのです。
  『おあむ物語』の中のおあん様がまだ妙齢の娘だった頃に、腰までの着物一枚しか持っていなかったというのです。それでもお父さんは立派な医者で、大名に仕えて高三百石というのですから、当時武士の中でも中流以上の生活をしていた人だと見て良いのですが、それでそのくらいの状態だったのです。それほど衣服というのは得られにくいものだったのです。今(一九七六年)『平将門』をNHKテレビでやっているけれど、あんなきれいな着物を着ていたなんてとんでもないことで、実際に当時の服装で出て来たら、これはたいへんなものだったろうと思うのです。それでは綿がなかったのかというと、あったのですが非常に貴重なものだったのです。

 

 

 

 ここに描かれているのは明治10年代初頭の北関東から東北にかけての農民の姿である(そこには時代的限定と地域的限定と階層的限定がある)。

 

 ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々が、いまだ近代医学の恩恵から遠い世界で暮らしている姿。このような「姿」を、どこまで当時の日本列島全体に一般化することが妥当なのか? その点には慎重でありたいが、しかし、バードが記録した明治11年の農村部に生きる臣民の姿もまた、日本の近代史の「事実」の一端を伝えるものであることは直視しておきたい。

 

 再び松原岩五郎の記録した明治20年代半ばの東京の(すなわち都市部の)最貧困層の姿に戻ろう。

 やはりそこにも、ノミやシラミだらけの環境の中で、「着たきり雀」の「風呂へも入らない」人々の姿がある。

 

 

 

  新賓客なる余は右側の小暗き処に座を取りしが、そこには数多積重ねたる夜具類ありて、垢に塗れたる布団の襟より一種得ならぬ臭気を放ち、坐ろに木賃的の不潔を懐わせたるのみならず、予の隣に坐せる老漢はいわゆる子供たらしの文久的飴売りなるが、その煮しめたる如き着物より紛々と悪臭を漲らし、頸筋または腋の下辺を荐に掻き捜しつつ所在なき徒然に彼の小虫を噛み殺しつつあるありしを見て、予は殆んど坐に堪えがたく、機会を見て何処かへか場所を転ぜんと思い居るうち、また四、五人の客どやどやと入り込み来れり。
     (松原岩五郎 「二 木賃宿」 『最暗黒の東京』 岩波文庫 1998  22ページ)

 

 

  その内にまた幾人か帰り来り、宿の主婦来って床を伸かんというに、おのおの立上りて手伝をなせしが、一畳一人の割なれば随分究屈を感ずるならんと思い居りしに、事実はそれをも許さで、一帳の幮に十人以上の諸込みなれば、何かは以て耐るべき。蒸さるる如き空気の裡に労働的の体臭を醞醸し、時々呼吸も塞がんばかりなるに加えて蚤の進撃あり。蚊帳は裾より壊れたれば蚊軍は自由に入るべく、この境界にあってもなお予は彼の捫虱的飴屋の傍に近かざらん事を祈り居りしが、命なる哉、いつしか既に伝染せし事と見えて膝のあたり不思議にむず癢くなりしを以て、指頭を入れて模索見しに果して彼の因循的小虫なり。彼が垢膩を啖い血を喰い飽きて麦粒の如くに肥りたるものなれば、余りの事に予が手を以て潰すことも得ならざりし。ああ偽なる哉、偽なる哉、予は曩日かかる暗黒界に入るべき準備として数日間の飢を試験し、幾夜の野宿を修業し、かつ殊更に堕落せる行為をなして以て彼ら貧者に臆面なく接着すべしと心密かに期し居たりしに、これが実際の世界を見るに及んで忽ち戦慄し、彼の微虫一疋の始末だになすことを得ざりしは、我れながら実に不甲斐なき事なりき。ああ想像は忝なく癩乞丐の介抱をもなし得べし。しかれども実際は困難なり、虱を捫る翁の傍にも居がたし。
     (松原岩五郎 「二 木賃宿」 前掲書  23~24ページ)

 

 

  たとえ、よもすがら池をめぐりて名月のあざやかさを見るとも常に我が庵なく我が臥床なくして奚ぞ美景の懐に入るべき。西行も三日露宿すれば坐に木銭宿を慕うべく、芭蕉も三晩続けて月に明さば必ずや蚊軍、蚤虱の宿も厭わざるに至るべし。ああ木賃なる哉、木賃なる哉、木賃は実に彼ら、日雇取、土方、立坊的労働者を始めとして貧窟の各独身者輩が三日の西行、三夜の芭蕉を経験して、しかして後慕い来る最後の安眠所にして、蚤、シラミ元より厭う処にあらず、苦熱悪臭また以て意となすに足らず、彼の一畳一人の諸込部屋も五、六人の破れ幮に十人逐込の動物的待遇も彼らのためには実に貴重なる瑶の台にして、茲に体を伸べ茲に身を胖くして身体の疲労を恢復し、以て明日の健康を養い、以て百年の寿命を量るにあれば、破れ布団も錦繍の衾にして、截り落しの枕もこれ、邯鄲の製作なりと知るべし。
     (松原岩五郎 「三 天然の臥床と木賃宿」 前掲書  27ページ)

 

 

  日済に続いて危急なるは損料屋なり。貸し衣装、貸布団、貸車。貸布団は一枚八厘より二銭まであり、尤も絹布上下三枚襲ねて一夜三十銭より五、六十銭に登る損料物もあれども、これらはもっぱら贅沢社会の需用にして寒を凌ぐために供給する貧街の談にあらざれば、茲にこれを多く語るを要せず。貸衣装また同じく一枚三銭より五、六銭位までのもの、多くは下等芸人一日の晴衣に向ッて用立ツ。中には股引法被、また布子〔木綿の綿入れ〕を貸す内あり。これ車夫的労働者の必要に向ッて供えたるもの、大抵は貸車業者においてこれを兼業す。なかんずく貧街において繁昌するは貸布団にして、冬の十二月より翌年三月まで厳冬四ヶ月間の戦争、いわゆる飢寒窟の勁敵に向ッて供給するものなれば、その時節に至れば貧街の営業中何ものかよくこの商法の劇しきに及ぶものあらん。細民の生計として夏より秋に移る際ただの一枚の着物すらも着替ゆる事能わざるほどなるもの、まして夜具布団の穿鑿、到底出来る事にあらず。凌げるだけは日光の縕袍に依頼して凌ぐも、十二月の月に入っては日光最早頼むべからず。是に至ッて一枚の布団用意せんと欲するも俄かに作る事能わざるを以て余儀なく損料に依頼せざるを得ず。
     (松原岩五郎 「十二 融通」 前掲書  71~72ページ)

 

 

  殊にその物品たるや、煎餅の如き薄縁のものにあらざれば雑巾の如くに側を綴ぎ集めたるもの、これを借用して一夜一銭ずつの損料を払うものは、いずれも皆よくよくの貧家にして、見るさい憐れなる母子三人裸体を抱き合いて身を縮め、慄いかつ戦きて辛うじて危寒を禦ぐ。この場合においても料銭の延滞するに至れば直ちに寝所へ踏込んで剥ぎ取らざるを得ず。実に涙あっては出来ぬ商法、無慈非道と見らるるも余儀なし。
     (松原岩五郎 「十二 融通」 前掲書  72~73ページ)

 

 

 

 

 これもまた近代日本の現実であった。

 木賃宿の宿泊者も長屋の住人も、「細民の生計として夏より秋に移る際ただの一枚の着物すらも着替ゆる事能わざるほどなる」が故の「着たきり雀」の日常において、「煮しめたる如き着物より紛々と悪臭を漲ら」すのであり、「煎餅の如き薄縁のものにあらざれば雑巾の如くに側を綴ぎ集めたる」と表現される「垢に塗れたる布団」は、その「襟より一種得ならぬ臭気を放」っていたのである。バードは「彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている」と観察しているが、「煮しめたる如き」とはまさに「洗濯」されることのない「着物」の視覚的表現である。松原岩五郎のルポルタージュの背後にあるのは、すなわち岩五郎が体験したのは、現実としての「臭気」であり「悪臭」だったのである(文字を通して、当時の嗅覚的経験まで読み取っておくべき―あるいは嗅ぎ取っておくべき―記録である)。

 

 もちろん、このイザベラ・バードや松原岩五郎によるルポルタージュを読んで、一気に「日本がどうだこうだ」という話にするのは避けるべきである(註:1)。他の地方の状況や、階層による生活の違いの可能性も考え併せ、あくまでも明治10年代初頭の北関東から東北での農村部の生活の詳細の観察として、あるいは明治20年代半ばの都市部の最貧困層の暮らしの詳細の観察として位置付けることが必要である。

 しかし、同時に、以下の構図の存在も忘れずにおきたい。

 近代日本の(国体の精華たる?)「公娼制度」は(そして昭和期の皇軍の「慰安婦」もまた)「人身売買」に支えられたものであったが、その背景には、このような最底辺の帝國臣民の貧困の現実があったことも覚えておいてよいだろう。

 

 

 

【註:1】
 イザべラ・バードによるノミをめぐる記述について、宮本常一は、

  何度もいうように、日本にはすごいほど蚤がいて、実は茶屋だけではなくて、地面の上にもいたらしいのです。日本の国土全体の上に、かつて充満していたようなのです。

このように説明している。
 確かに松原岩五郎も木賃宿でのノミやシラミの猛威を記録している。しかし、松原にとって木賃宿でのノミ・シラミ体験は、それまでの想像力を超えた新鮮なものとして描かれてもいる。つまり、それまでの松原岩五郎は、同じ都市に住みながら、それほどにはノミやシラミに悩ませられることなく過ごしていたようにも見える。
 農村部と都市部には差異があり、都市部の中にも居住地区(階層の反映でもある)による差異があったということであろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2018/01/30 20:50 → https://www.freeml.com/bl/316274/316621/

 

 

 

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2017年12月28日 (木)

残飯に命をつなぐ(明治期日本の貧困)

 

 

  ああ残飯屋、残飯とはいかなるものか、これ大厨房の残物なるのみ。諸君試みに貧民を形容するに元といかなる文字がよく適当なりと見る。飢寒、襤褸、廃屋、喪貌、しかしどれも予はこれが残飯または残菜なる二字のもっとも痛快に最も適切なるを覚わずんばあらず。しかして今、予はこの貧民を形容するに適切なる残飯もしくは残菜を実にしたる残飯屋を目前に控えたり、予は往かざらんと欲するも得べからず、予は飛んで往きぬ。
  まず見る貧窟残飯屋の光景、西より入れば窟の入口にして少しく引込みたる家なりしが、やや広き表の空地には五、六枚の筵を舗きて残飯の饐れたるを麹の如く日に乾したるものありしが、これ一時に売切れざりし飯の残りを糒となして他日売るものにやあらん。彼らのためには即ちこれが彼の凶荒備蓄的の物ならんかと想像せしめたり。家は傾斜して殆んど転覆せんとすするばかりなるを突かい棒もて、これを支え、軒は古く朽て屋根一面に蘚苔を生し、庇檐は腐れて疎らに抜けたるところより出入する人々の襟に土塊の落ちんかを殆ぶむほどの家なりしが、家内は田舎的の住居にして坐舗よりも庭広く殆ど全家の三分の二を占めたる処に数多の土取笊、半切桶、醤油樽、大なる壺、粗き瓶そのほか残飯残菜を容るるに適当なる器具の悉く不潔を帯びて不整列に並ばり居るを見たりき。しかるに何ぞ図らん、この不潔なる廃屋こそ実に予が貧民的生活のあらゆる境界を実見して飢寒窟の消息を感得したる無類の(材料蒐集に都合よき)大博物館なりしならんとは。
     (松原岩五郎 『最暗黒の東京』 岩波文庫 1988 39~40ページ)

 

 

 

 松原岩五郎の『最暗黒の東京』が出版されたのは明治26(1893)年であった。既に大日本帝國憲法は発布されていたが(1889年)、本格的対外戦争である日清戦争(1894)には先立つ時期の、東京のスラム街の実情のルポルタージュということになる。日本の工業社会化以前の段階であり、工場労働者が貧困層として登場するに先立つ時代の話である(底辺の男たちが担ったのは人力車夫であった)。

 密集する廃屋的な長屋と木賃宿が彼らの住居であった。長屋の住民の食生活を支えていたのが残飯。これが松原岩五郎が見出し、記録にとどめた当時の都市最貧困層の現実だったのである。

 

 

  弥兵衛氏の周旋を以てその日より予は残飯屋の下男となり、毎日、朝は八時、午は十二時半、夕は同じく午後の八時頃より大八車にて鉄砲笊と唱えたる径一尺あまりの大笊、担い桶、または半切、醤油樽等を積みて相棒二人と共に士官学校の裏門より入り、三度の食事の剰り物を仕入れて帰る事なるが、何をいうにも元来箸よりほかに重き物を持たる事のなき身が、俄かにかかる荒働きの仲間に入りたる事なれば、その労苦は実に容易の事にあらず、力は無理をしても出すべきなれど、労働の呼吸に不案内なるより毎々小児の如き失策を重ねて主人の不機嫌を買う事一方ならざりし。されど、これもまた貧大学の前期課程なれば茲の我慢が肝要なりとジッと辛棒する内、日ならずして、その呼吸も覚わり、後には最寄の怪人種より番頭々々と尊称されるに至りき。さるほどにこの残飯は貧人の間にあッてすこぶる関係深く、彼らはこれを兵隊飯と唱えて旧くより鎮台営所の残り飯を意味するものなるが、当家にて売捌くは即ちその士官学校より出づる物にて一ト笊(飯量およそ十五貫目)五十銭にて引取り、これを一貫目およそ五、六銭位に鬻ぐ。尤もこれに属する残菜はその役得として無代価にて払下ぐるものなるが、何がさて、学校の生徒始め教官諸人数、千有余人を賄う大庖厨の残物なれば、或る時は彼の鉄砲笊に三本より五、六本位出る事ありて、汁菜これに準じ沢庵漬の截片より食麺包の屑、ないし魚の骸、焦飯等皆それぞれの器にまとめて荷造りすれば殆んどこれ一小隊の輜重ほどありて、朝夕三度の運搬は実に我々人夫の労とする所にてありき。しかして、この残物を買う者如何と見渡せば、皆その界隈の貧窟の人々にして、これを珍重する事、実に熊掌鳳髄もただならずというべく、我らが荷車を輾きて往来を通れば、彼らは実に乗輿を拝するが如く、老若男女の貧人ら皆々手ごとに笊、面桶〔一人盛りの食器〕、重箱、飯櫃、小桶、あるいは丼、岡持などいえる手頃の器什を用意しつつ路の両側に待設けて、今退たり、今日は沢山にあるべし、早く往かばやなどと銘々に咡きつつ荷車の後を尾て来るかと思えば、店前には黒山の如く待構えて、車の影を見ると等しくサザメキ立ちて宛然福島中佐の歓迎とも言うべく颯と道を拓きて通すや否や、我れ先にと笊、岡持を差し出し、二銭下さい、三銭おくれ、これ一貫目、茲へも五百目と肩越に面通を出し脇下より銭を投ぐる様は何に譬えん、大根河岸、魚河岸の朝市に似て、その混雑なお一層奇態の光景を呈せり。そのお菜の如き漬物の如き、煮シメ、沢庵等は皆手攫みにて売り、汁は濁醪の如く桶より汲みて与え、飯は秤量に掛くるなれど、もし面倒なる時はおのおの目分量と手加減を以てす。饌の剰り、菜の残り元来払下の節においては普通一般的施与的の物品なれど、一旦茲へ引取ッて売鬻げば、またこれ一廉の商品なり。あるいは虎の皮、土竈、アライ、株切などと残物の上に種々な異名を附けて賞翫するはなかなかに可笑し。株切とは漬物の異名にして菜漬、沢庵のごときまたは胡瓜茄子の如き、蒂もしくは株の付たる頭尾の切片をいい、アライとは釜底の洗い流しにして飯のあざれたるを意味するものにして、土竈とは麺包の切片なり。これその中身を抉りたる食麺包の宛然竈の如き形なせるより、かくは異名したるものとぞ。さて虎の皮とは如何、これ怪人種等の調諧にして実に焦飯を異名したるものなり。巨大なる釜にて炊く飯は是非とも多少焦塩梅に焚かざれば上出来とならざるより、釜の底に祀られし飯が一面に附着して宛然虎豹の皮か何ぞの如く斑に焦たる故にかくは名付けたるものならん。さて譬え虎の皮にせよ土竈にせよ、既に残飯とあれば、これ貧窟の尊き商品にして怪人種等の争うて購求する所なり。世に桂を焚き珠を炊ぐとて富豪者の奢侈を意味する事なるが、実際これをなすものは富豪者にあらずしてかえって貧民、しかも極貧饑寒の境にあるものこそ真に珠を炊ぎ桂を焚くものなり。試みに見よ、彼の貧民輩が常例として買う一銭二銭ずつの炭、薪、漬物のいかに高値なるよ、しかしてまた彼らの五合七合ずつなる米、割麦のいかに少量なるよ。十人二十人を賄う大庖厨の経済には平常、米、薪の特用買という事あれば、実際珠桂の如き材料も会計上薪炭の値段となるなり。これに反して貧民の庖所においては毎日の材料一銭的の小買を以て便ずるにあれば、尋常の薪炭も計算上においては実に珠玉の値となるを免かれず。銭稀なる貧窟の人、いかでこの珠玉を炊いで生活し得べけんや。残飯残菜は実にこの一銭的庖厨の惨状を救う慈悲の神とも言うべく、彼ら五人の家族にて飯二貫目、残菜二銭、漬物一銭、総計十四、五銭位にて一日の食料十分なるなり。もし強て一銭的材料を以てこれを充さんとせば、彼らは日に三十銭を費やさざるを得ず。是を以て残飯屋の繁昌は、常に最下層の生活談における、図画的光景の一に数えらるるにありき。
     (同書 41~45ページ)

 

 

 以上は、「七 残飯屋」の全文であるが、士官学校の残飯が貧民の食事を支えていた事実が示されている。残飯が貧民の(それも大日本帝國臣民の)生活を支える商品として流通していた事実、しかも商品として流通するに足る残飯の量に驚かされるが(明治20年代半ばの士官学校の食生活は倹約的ではなかった!?)、明治期の都市貧困層の最底辺と軍隊の残飯の結びつきは記憶しておくに値するだろう。

 

 

 

  貧民の群がいかに残飯を喜びしよ、しかして、これを運搬する予がいかに彼らに歓迎されしよ。予は常に彼らのこの歓迎に酬ゆべく、あらゆる手段を旋らして庖厨を捜し、なるべく多くを運びて彼らに分配せん事を務めたりき。しかれどもまた哀しかりき、或る朝そこに(士官学校の庖厨)運搬すべき残物の何もがあらざりし時に。しかれどもまた嬉しかりき、或夕そこに飯および菜を以て剰されたる新しき残物が、三輌の荷車に余るべく積まれし時に。しかして予は常もこれらの潤沢を表する時にこれを「豊年」と呼び、常もこれらの払底を表する時に予が「饑饉」と呼びて、食物について渇望したる彼らに向ッて前触をするにありき。
  或る朝、――それは三日間一磅の飯をも運ぶ事能わざりし事程左様に哀れなる飢饉の打続きし或朝――庖厨を捜して運ぶべく何物があらざりし時に予が大いなる失望を以て立ちし、いかに貧民の嘆きを見せしむるよ。しかれども予は空しく帰らざりし。予は些かの食物を争うべく賄方に向ッて嘆願を始めし。「今日に限ッては貧民を飢せしめざる部屋頭閣下、冀くば彼の麺包の屑にても」。しかる時に彼が言いし、「もし汝がさほどに乞うならば、そこに豕の食うべき餡殻に畠を肥やすべく適当なる馬鈴薯の屑が後刻に来るべく塵芥屋を待ちつつある」と。それは薯類を以て製せられたる餡のやや腐敗して酸味を帯びたるものと、洗いたる釜底の飯とおよび搾りたる味噌汁の滓にてありき。たとえこれが人に向ッて食すべき物にあらぬとはいえ、数日間の飢に向ッては、これが多少の饗応となるべく注意を以てそこにありし総てを運び去りし。
  かくして、予が帰りし時に飢たる人々は非常なる歓娯を以て迎えし。「飢饉」と予が一言前触れをせし時に彼らの顔色が皆失望に包まれし。「オオいかに、夥しき食物がそこにあるよ」と荷車を見て一人が叫びし時に店の主が探奇の眼を注ぎし。「飯ならば早く分配せよ、我々はただ菜のみにてもよし}と催促が始まりし時に、荷は解かれし、しかしてそこに陳べられし。人々は彼らが三日間の飢饉からそこにいかなる豊年の美食が湧きしかを疑うべく伺きし。腐れたる餡を名称べく予がそれを「キントン」と呼びし時に、店の主人がいかに効果なる珍菜であるかを聞糺せし、そうしてそれが一椀五厘にて売られし。味噌の糟がなお多く需用者をもちし。饐たる飯が売るべく足らざりし。
     (同書 46~48ページ)

 

 

 本来であれば豚のエサとなり、畠の肥やしとなるべき種類の残飯が、最底辺の貧民層には喜びをもって迎えられる現実があった。

 

 

 

 紀田順一郎氏は『東京の下層社会』の中で、以下のように問題を整理している。

 

 

  明治半ばごろの東京の地図を見ると、中央の広大な面積が皇居と諸官庁によって占められ、その周辺に市街地がへばりつくように、急速な膨張をとげつつあることがわかる。たまに広いスペースがあるかと思えば、陸軍省や海軍省の用地ときまっている。
  その地図の上で当時の三大スラム街といわれた地区を確認してみると、いずれも市域の周辺部で、まず北東に浅草万年町、ついで西方に四谷鮫ヶ橋、南方には芝新網町といったところが目につく。この場合、浅草は市中随一の繁華街である浅草寺界隈や上野駅に隣接していたので、車夫などの生活に便利だったことは想像し得るが、それでは四谷や芝はどのようなメリットがあったのだろうか。
  理由は簡単、鮫ヶ橋が陸軍士官学校の付近にあり、芝新網町が海軍兵学校に近接していたということだ。そこに”残飯”があったからだ。軍隊の残飯、すなわち鎮台飯は良質の上、好不況に無関係な安定的供給源だったので、軍隊から味噌汁の冷めない距離を保つことは、福祉なき時代の極貧階級にとって生存のための必要条件だったのである。帝国陸海軍の廃棄物によって、社会の底辺が支えられていたというのは皮肉というほかはないが、当時は軍隊側も残飯の処理に窮していたので、払下げに協力的だったという。
  ところが、日清戦争以後、産業構造の大きな変化によって細民の数が激増すると、とても軍隊だけでは追いつかなくなってきた。彼らは工場や大学など、残飯の新たな供給源を求めて奔走しなければならなくなる。残飯源の拡大と多様化が、即明治社会の発展にほかならないというのも、やはり皮肉というほかないであろう。
     (紀田順一郎 『東京の下層社会』 ちくま学芸文庫 2000 67~68ページ)
 

 

 

 

 フィリピンのスモーキー・マウンテンと呼ばれるスラム街の映像などを前にしても、どこか遠くの他人の話として理解してしまうのではなく、100年ちょっと前の日本の都市風景と重ね得る想像力を用意しておきたいと思う。

 スモーキー・マウンテンの貧困を通して100年前の大日本帝國臣民の最底辺が置かれていた状況を思い、明治期の大日本帝國臣民の貧困の実情を通してスモーキー・マウンテンの悲惨を他人事としてではなく理解する。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/12/28 16:13 → https://www.freeml.com/bl/316274/315474/

 

 

 

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2017年11月26日 (日)

B-29 (米国の技術開発力)

 

 いわゆる「先の大戦」(大東亜戦争、第二次世界大戦、太平洋戦争、あるいはアジア太平洋戦争等、様々に呼ばれるが)を語るに際して、「日本は米国の物量に負けた」という言い方があるが、その点については既に「クライスラーの戦車」、「B-29 (物量としての米国の生産力)」、そして「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」と題した記事を通して、米国の隔絶した生産力の実際を紹介してきた。

 米国の自動車産業や航空機メーカーの広報用フィルムを通して見えたのは「詳細な設計の進行と同時に、戦車生産のために新たな工場を建設してしまう米国の自動車メーカーの底力」であり、「人種、経歴、性別、年齢、障害の有無を問わずに団結して生産に集中する米国の総力戦状況、そして近代的な生産ラインの詳細に加え、工場の福利厚生の充実ぶり」を誇る航空機メーカーの姿であり、「最終的には一時間に一機のペースでの製造には成功し、最盛期には月産650機を記録するところまで到達」させてしまうフォードシステムの大量生産方式による四発重爆撃機生産の実情であり、「様々な工程が既に女性労働者によって置換されていること」及び「(その前提となる)充実した職業訓練・教育」の様相であった。

 

 

 これらのフィルムが示すのは、「日本は米国の物量に負けた」との言明の正当性であろう。彼我の間にある生産能力の絶対的な隔絶は否定し得ない。

 先の言明に加え「日本は米国の物量と技術に負けた」との認識もまた、当時の実情を理解しさえすれば正当なものとして導かれるはずであるが、「日本は米国の物量には負けたが技術力では勝っていた」との言説を目にする機会も多い。しかし、これは「負け惜しみ」以外の何物でもなく、言説としての妥当性がないことは歴史の現実(いわゆる「近現代史の真実」ではなく「現実」が)が示している。

 

 これまでは「物量」に焦点を合わせ、対米戦争時における否定し難い日米間の国力の差を明らかにしてきたが、今回は日米間の隔絶した「技術力の差」を直視しておくこととしたい。

 

 今回もまた、あの「先の大戦(大東亜戦争)」における米国の圧倒的な軍事力の象徴とも位置付けられる四発重爆撃機、あの憎っくきB-29の姿を通して、問題が生産力の差=物量だけにあるのではなく、技術力の差=技術開発力の差にもあることを明らかにしてみたい。巨大な生産力が最先端技術を物量として供給し、圧倒的な戦力の差を生み出すことで、大日本帝國を敗戦に追い込んだのである。

 

 

 

 飯山幸伸氏は、その著書『B-29恐るべし』(光人社NF文庫 2011)中の一章を「B-29に用いられた諸革新的技術」と題し、B-29に盛り込まれた技術の革新的側面を明らかにするために割いている。

 高高度を高速で飛行可能にした技術として飯山氏は、まず新たな翼面設計(モデル177翼型)と大馬力エンジン(ライトR-3350デュプレックス・サイクロン)に加えて装備された排気タービン過給機(GE製のB-11過給機)の存在を挙げている。

 続けて「与圧キャビン」と「ノルデン爆撃照準器」、そして「遠隔操作銃塔」について書いている。与圧キャビンは搭乗員への負担のない高高度飛行を可能にし(B-17やB-24もタービン式過給機を装備することでスペック的には高高度性能を獲得していたが、与圧キャビンは未開発で、高高度での搭乗員への負担は大き過ぎた)、ノルデン照準器(こちらはB-17にもB-24にも装備されていた)が高高度からの精密爆撃を可能にし(可能にするはずであった)、迎撃用火力の「遠隔操作」化は与圧キャビンには必須の技術であると同時に防御力向上に資するシステムであった。

 

 ここからは特に「遠隔操作銃塔」(The Remote Control Turret System (RCT) あるいは Central Station Fire Control System)に焦点を当て、その「革新的技術」ぶりを明らかにしていきたい。

 

 

 

 まず紹介するのはシアトルのボーイング社にある(現在の)展示の映像だが、操作の実際がわかるはずだ。

 

 

B-29 gun turret sighting system at Boeing Seattle Part 1
 
https://www.youtube.com/watch?v=nskFayhBcy0

 

Gun turret sighting system for B-29 at Boeing, Seattle
(B-29 gun turret sighting system Boeing Seattle part II)
 
https://www.youtube.com/watch?v=5h4yBxydz0E

 

 

 照準器の操作に動力銃塔が連動し、銃弾が発射されるメカニズムの実際である。

 

 

 次は当時の軍のB-29搭乗員用トレーニングフィルムからの短い抜粋(註:1)だが、ここでは機銃手の搭乗位置と遠隔操作される銃塔の関係を押えておきたい(一人の銃手による複数の銃塔の同時操作―いわば一人の銃手による集中砲火―が可能になっているのだ)。

 

 

The B-29 Superfortress Gun Turrets
 
https://www.youtube.com/watch?v=gy9uCtgcL3A

 

 

 次に続くのは装置を開発したGE(ジェネラルエレクトリック―日本語での公式表記は「ゼネラル・エレクトリック」であるらしい)作成の広報用フィルムで、アニメーションを多用した解説が興味深い(しかもカラーである)。

 

 

Central Station Fire Control System - ca. 1944
 
https://www.youtube.com/watch?v=yABTembGYhg

 

 

 (組み込まれているのは真空管であるが)当時の最先端の電子装置システム(Central Station Fire Control System)により、銃塔がリモートコントロール(遠隔操作)されるメカニズムがカラーアニメを用いて説明されている。GEという民間企業が自身の技術力のアピールのためにカラーアニメを製作してしまうのである(それだけで彼我の国力の差は明らかである)。

 

 

 しかし、B-29に装備された「遠隔操作銃塔」に盛り込まれた革新的技術の核心は、このリモコンシステムにあるわけではない。実はこのシステムにはコンピューターが組み込まれ、単に搭載機銃を動力により間接操作する(もちろんそれだけでも重い機銃と銃塔を風圧に抗して手動で操作する労力からの機銃手の解放を意味する)のみならず、弾道の補正が自動化されることで命中精度の向上もが実現されているのである(註:2)。

 

 

 高速で飛行する爆撃機に装備された機銃により、高速で飛行し攻撃してくる敵戦闘機を迎撃することがどれだけ困難であることか想像し得ているだろうか?

 ここではB-17の側面機銃手のトリガー・ジョーを主人公(声優はメル・ブランク)としたアニメ仕立ての米軍のトレーニングフィルムを通して問題の所在を確認しておこう。

 

 

B-17 Waist Gunner Mel Blanc: "Position Firing" 1944 USAAF Training Film; WWII Aerial Gunnery Cartoon
 
https://www.youtube.com/watch?v=DqoUdd9Ge4E

 

 

 アニメ中でジョーが求められるのは、頭の中で銃弾の到達位置をシミュレーションし、機銃を適切に操作する能力である。機銃手は一瞬にして爆撃機の速度、高度を把握し、敵戦闘機の速度を把握し、距離を把握し、進行方向を把握し、照準外の(照準内に捉えた敵戦闘機からは離れた)適切な位置に機銃を向け発射しなければならない(しかも高高度を高速で飛行するB-17での話であり、側面機銃の操作は酸素の薄いマイナス20~30度の機内で大きな風圧に抗して行わなくてはならず、それだけでも機銃手の負担は大きいのに→註:3)。

 当時の記録フィルムの中の機銃手の映像から、あるいは『頭上の敵機』や『メンフィス・ベル』のような映画を観る際にも、このような機銃手に求められているスキルを意識することはなかっただろう。

 B-29に搭載された遠隔操作銃塔に組み込まれたコンピューターシステムは、敵戦闘機に照準を合わせさえすれば照準外に位置する適切な掃射方向を割り出し、機銃手の負担を軽減する。ただし、敵戦闘機との距離は自身で確認し入力(ボーイング社でのデモンストレーション動画でも説明されているように)する必要は残されているが、機銃手は敵戦闘機に照準を合わせるだけで弾道の補正はGE製の「Central Station Fire Control System」に任せれば済む(しかも離れた位置にある複数の銃塔の弾道補正計算と射撃を、一人の銃手が担当するひとつの照準システムの操作で可能にしているのだ)。

 

 

 あらためて、文林堂の「世界の傑作機シリーズ」の『ボーイングB-29』(1995)にある牧英雄氏の論考「ボーイングB-29スーパーフォートレス 開発と各型」から「武装」の項の記述を引用しておこう。

 

    照準器は銃本体と分離した与圧室内にあり、見越し角計算などすべてコンピューターが管制するので、銃手は照準器に目標を捉え距離の変化を追う操作をするだけで、自動的に射線を算出する。むろん、尾翼などが射角に入れば、自動的に射撃は中止される。また操作はいずれも正副2系統用意されスイッチで切り替わるほか、一方の射手が離れた場合自動的に複数を管制するようになる。床下にある装甲付きブラックボックスに不都合が生じた場合は、マニュアル操作も可能である。
  これらの火器のすべてを管制するのが後部与圧室の回転椅子に位置するCFC手で、このほか通常の担当は前上方=爆撃手/CFC手、前下方=爆撃手/側方銃手、後上方=CFC手/側方銃手、後下方=側方銃手、尾部=尾部銃手/側方銃手 となる。
     (16~17ページ)

 

 この牧氏の論考には、B-29に搭載された「Central Station Fire Control System」について、もう一つの興味深い記述がある。試作型のXB-29に搭載されていたのはGE製ではなかったのである。

 

    このため(徹底的な空気抵抗の軽減のため―引用者)突起した銃塔は敬遠されたが、防御上の必要から装備せざるを得ず、ベンディックス、スペリー、ウェスチングハウス、ジェネラル・エレクトリック(GE)の各社が競った結果、ペリスコープ式照準器のスペリー製が採用された。
     (13ページ)

 

 XB-29に搭載されていたスペリー製のペリスコープ式照準器は結果的にジェネラル・エレクトリックのシステムに変更されることになったわけだが、その選定に際して大きな役割を演じたのがポール・ティベッツ(Paul Warfield Tibbets, Jr)とそのチームであった。あのエノラ・ゲイの機長であったティベッツである(註:4)。

 

 ティベッツは1942年2月にはB-17の部隊長(340爆撃飛行隊)としてヨーロッパで部隊を率い、25回の出撃回数を達成。1943年3月に米国本土でのB-29(初飛行は1942年9月だったが試作2号機の墜落など様々なトラブルに直面していた)の戦闘能力評価任務に就く。実戦配備へ向けてのその任務の中には武装の評価も含まれており、スペリー製のペリスコープ式照準器システム(こちらにも自動弾道補正コンピューターが組み込まれていた)とGE製システムの比較評価も行われた。その際に、射撃テスト等を行ったのは、やはり後に共にティベッツの率いる第509混成部隊(原爆投下の実施部隊)に所属することとなったジョージ・キャロン(George Robert Caron 原爆投下の際のエノラ・ゲイの尾部銃手も務めている。キャロンは投下直後の原爆の「キノコ雲」の撮影者でもある)とケネス・イードネス(Kenneth L. Eidnes)であった。両者は軍の動力銃塔操作学校(Power Operated Gun Turret School)の同期で、1943年9月に卒業し、1943年10月にB-29の武器試験担当者として配属されている(註:5)。

 彼らのスペリー製システムに対する評価は低く、GE製が採用されることになる(The GE system proved to be very good)。問題となったのはスペリーが採用したペリスコープ方式(GEは反射型光像式を採用)で、視野が限定され操作も煩雑となる潜望鏡(ペリスコープ)方式が、重爆撃機の防御武装として実際的ではないと判断されたのである(註:6)。

 

 

 ちなみに、スペリー製システムはB-29のバックアップ機として開発されたコンソリーデッド社のXB-32爆撃機にも搭載されていた。XB-32に搭載されたスペリー製システムに関する論考に掲載された解説図を引いておく。照準器の形式を除けば、GE製のシステムと同様の原理に基づいたものであり、米軍が必要と考えた(そして実際に装備した)「遠隔操作銃塔」を理解する上での参考になるはずだ。

 

 

The geometry of air-to-air gunfire control problem
 
https://m.eet.com/media/1175647/fig8.jpg
 https://www.edn.com/Home/PrintView?contentItemId=4402983

 

 ジョーの直面させられた問題がいかなるものであったかへの理解を深めらる(アニメ上のジョーの標的は静止状態想定であるのに対し、、現実の敵戦闘機は高速で運動する)と共に、「先の大戦」の時代に米国が実際に開発し配備した「遠隔操作銃塔」のシステム(Central Station Fire Control System)の技術的卓越性も再確認し得るであろう。

 

 この装置を組み込んだ四発重爆撃機B-29の生産機数は3970機に及ぶ(生産機数が3970なのは、その時点で戦争が終結してしまったからである―生産能力の限界を意味するわけではない)。我が大日本帝國の爆撃機の生産機数で最大を記録しているのは海軍の一式陸上攻撃機だが、双発に過ぎない爆撃機の生産機数は2416機にとどまる(生産期間も一式陸攻の方が長いにもかかわらず)。もちろん、与圧キャビンもなければ、「Central Station Fire Control System」もない(しかも一式陸攻の爆弾搭載量はB-29の十分の一でしかない―B-29の一機は十機の一式陸攻に相当する)。物量、技術、そのどちらを見ても彼我の国力の絶対的隔絶は明らかであろう。

 それでも「日本は米国の物量には負けたが技術力では勝っていた」などと主張し得ると考えるのであろうか?

 

 

 

【註:1】
 全編は、B-29 Flight Procedure and Combat Crew Functioning 1944 US Army Air Forces
 → https://www.youtube.com/watch?v=RsOUXqSh2xs

【註:2】
 Central Station Fire Control AND THE B-29 REMOTE CONTROL TURRET SYSTEM
 (→ http://www.twinbeech.com/CFCsystem.htm
 The Cannons on the B-29 Bomber Were a Mid-Century Engineering Masterpiece
 (→ http://www.popularmechanics.com/military/weapons/a18343/the-cannons-on-the-b-29-bomber-were-a-mid-century-engineering-masterpiece/
 Engineering the B-29's Armament
 (→ http://legendsintheirowntime.com/LiTOT/Content/1945/B29_IA_4503_armament.html

【註:3】
 アニメのジョーも軽装で身軽だが、高高度では機銃を操作する前に死んでしまう(与圧キャビンの装備されていないB-17の場合、搭乗員は外気にさらされた状態同様―特に側面機銃手は―なのである)。

  機体を敵戦闘機の攻撃から守るため、銃手が機関銃を撃ちまくるシーンは劇映画『メンフィス・ベル』などでお馴染みだろうが、映画だと一般に軽装なのが気になる。この撮影用ポーズをとった写真にしても、実戦では考えられない軽装だ。まず、高度6,000~7,000mというところを飛ぶのだから、酸素マスクは必ずしなければならない。それに真夏でもそういう高度では零下20~30℃なのだから、暖房があるにしても側面窓を空けて射撃するには手袋も必需品。高射砲に直撃されたらどうしようもないが、負傷の多くは爆発による破片が原因だから、それらを防ぐフラックヘルメットやフラックベストもつけたいところだ。
     側面機銃手の写真へのキャプション(『ボーイングB-17フライングフォートレス』 文林堂 2007 105ページ)
 

 ジョーの搭乗しているのはB-17のG型であるが、後には側面機銃用にも照準の補正計算機能を持つK-13サイトが採用され(同書47ページ、115ページ)、「後部側面銃座の位置を左右でずらして銃手が動きやすいようにするとともに、それまで戦闘時には開け放して(ママ)部分に、中央に機関銃のソケットを設けたガラス窓をはめ込み、銃手を寒気から守る改造も途中から採用された(同書117ページ)」と仕様が変更されている。ジョーの負担も軽減されたことになる。

 与圧キャビンの装備された機密性の高いB-29の場合、酸素マスクは必要ないし、寒さに凍えることもない。牧英雄氏の論考の「与圧室」の項には以下のようにある。

  3分割で尾部は直径6in(152㎜)のパイプで後部与圧室と結合。通常8,000ft(2,400m)で与圧開始。空気圧は8,000~30,000ft(9,145m)まで8,000ftの30,000ft以上は30,000ft時の圧力差を維持する。コンプレッサーで圧縮された空気は、内側エンジンのターボ過給機を通ることにより冷暖房を調整でき、機関士の操作で送管装置を通じ与圧各室に送られる。このため乗員は高度30,000ftでも特別装備なしに行動可能。
     (15ページ)

 (「遠隔操作銃塔」は、気密性の維持の必要を満たすためのシステムでもあった)

【註:4】
 Tibbets, Paul Warfield, Jr.
 (→ http://www.nationalaviation.org/our-enshrinees/tibbets-paul-warfield-jr/

【註:5】
 KENNETH L. EIDNES AND THE 509TH COMPOSITE
 (→  http://b-29.org/509th/509th-history/509th-history.html
 George R. Caron
 (→ https://www.findagrave.com/memorial/467015

【註:6】
 Design hindsight from the tail-gunner position of a WWII bomber, Part one
 (→ https://www.edn.com/Home/PrintView?contentItemId=4402983

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/11/25 21:54 → https://www.freeml.com/bl/316274/314468/

 

 

 

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2017年10月15日 (日)

総統閣下vsオペラ対訳プロジェクト、そしてパーキンソン病

 

 いわゆる「総統閣下シリーズ」の最新作ということになる(2017/10/12 に公開)だろうか? 映画『ヒトラー ~最期の12日間~』(2004)のドイツ語のセリフに原語と異なる字幕をつけて楽しむお遊びだが、英語圏の「YOUTUBE」で様々な英語字幕バージョンが作成され、日本語圏でも「ニコニコ動画」に様々な日本語字幕バージョンがアップされている。

 今回の「総統閣下は「オペラ対訳プロジェクト」にお怒りのようです」は、私も利用させてもらうことのある「オペラ対訳プロジェクト」による日本語字幕で、時事ネタ込みの(「総統閣下シリーズ」モノの中でも)秀逸なパロディー作品として仕上がっているように思う。

 せっかくの秀逸作を忘れてしまわないように、ブログ記事としてアップして何時でもアクセス可能にしておく作戦を採用した次第である。

 

 

 

総統閣下は「オペラ対訳プロジェクト」にお怒りのようです
 
https://www.youtube.com/watch?v=fnW1TpHZeyo

 

 

 「オペラ対訳プロジェクト」は、オペラ作品を中心とした(オペラだけではなく、バッハの『マタイ受難曲』なども含む)過去の名盤の録音に日本語対訳をつけてアップするという、手元に輸入盤しかない際にとても役立つプロジェクトで、私もチャンネル登録してしまっていたりするのだが、その「中の人」が実はこの手のお遊びにも手を抜かないことを知って、ますます同志的気分を味わったりしているのである。

 

 中身そのものを解説したりするのは野暮な話だと思うので、ここで触れることはしない。

 

 

 ただ、せっかくの機会なので、そもそもヒトラーの実像を描くことを目指した映画作品であった『ヒトラー ~最期の12日間~』にちなみ、小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足 神経内科からみた20世紀』(中公新書 1999)から、神経内科的背景を抜き書きしておきたい。

 

 

  筆者は神経内科医である。脳や脊髄、末梢神経、筋肉などのはたらきの異常を診るのが専門だ。精神科ではない。シビレなどの感覚障害、ふるえやマヒなどが主な症状だ。だから、目にする人の立ち居ふるまいや、表情、声の調子などが気になる。そして、二〇世紀は科学技術の世紀であり、映像の世紀でもある。会えるはずのない、海の向こうや歴史の彼方の政治家、それに雲の上の人の歩き方や動作をテレビで見ることができ、ついプロ意識で病気かどうかを診断することがある。いわば神経内科医の本能で、ヒトラーのふるえや毛沢東のすり足もブラウン管を通して視診した。そこで、二〇世紀のリーダーたちの神経疾患を調べてみて、歴史に投げかけた影を考えてみた。
          同書「まえがき」より

 

 これが同書における小長谷氏の問題意識・基本姿勢である。小長谷氏は、同じく「まえがき」の中で、

 

  もちろん、筆者はこの書物の中の独裁者やリーダーたちの主治医でもないし、カルテなどの第一次資料などをみることも出来ないので、文献にたよらざるをえない。病気の解釈については、単なるうわさやしろうと判断の推測は、書きすすめる上でなるべく排除するようにした。症状の目撃談などはべつとして、基本的にはきちんとした学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録により、医学的客観性をたもつように心がけた。

 

このように書いているが、実際に読み進めてみると、原則としてその姿勢に貫かれていることも確認出来る。

 

 

 映画の『ヒトラー ~最期の12日間~』の方は、同名(邦訳タイトルは原題とは異なるようだが)のヨアヒム・フェストの著作とヒトラーの個人秘書であったトラウドゥル・ユンゲによる回想録を基にドラマ化したものだが、時系列的には、どちらも小長谷氏の著作より遅れての出版物であり映像作品である。出版物はドキュメントであり、映画はドキュメント作品に基くドラマである。

 時系列上、どちらも小長谷氏が依拠するわけにはいかなかったが、

  二〇世紀は科学技術の世紀であり、映像の世紀でもある。会えるはずのない、海の向こうや歴史の彼方の政治家、それに雲の上の人の歩き方や動作をテレビで見ることができ、ついプロ意識で病気かどうかを診断することがある。いわば神経内科医の本能で、ヒトラーのふるえや毛沢東のすり足もブラウン管を通して視診した。

 

20世紀ならではのドキュメント映像が、「視診」を可能にし、加えて「学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録」等のドキュメントが、小長谷氏の判断を支えているのである。

 

 

 テレビでドキュメンタリー番組(番組中では第二次大戦末期のドイツのニュース映画が紹介されていた)を見ていた小長谷氏は、「厚く重苦しい外套を着たアドルフ・ヒトラーが硬い表情で肩を丸め、ぎこちない動作で足をはこん」でいる姿を前にする。

 

  が、次の瞬間、筆者の目は画面に釘づけになった。ヒトラーの左手がふるえているのである。神経内科医のプロ意識がわきあがってきた。診察する目で観察した。そのふるえは、見なれたパターンである。パーキンソン病のそれであった。
     同書「震える総統――ヒトラー」より

 

 もちろん、小長谷氏は、映像を通した自身の視診に加え、「学術雑誌に載った医学論文、あるいは主治医ないしはその場にいた医師の回想録」等に目を通すことを怠らない。

 

  調べてみると、ヒトラーの病気についてのいくつかの医学論文と学術的な単行本がドイツから出版されていた。エレン・ギッベルスという女性の神経学者は一五年間にわたって『ドイツ週刊ニュース』という映画に映っているヒトラーの動作を検討し、医学的考察を行っている。
  それによると、ごくわずかながらも動作が鈍くなったのは一九四一年であり、左手の症状も出てきている。四三年からは、自動車から降りたり、腰をおろしたりするような動作シーンがニュース映画からなくなっている。左手はいつもからだの後ろに回したり、ポケットに入れたりして映らなくなった。
  表情の動きは四四年から少なくなり、顔つきは陰気になっている。笑っているときでも、顔の動きが少なく、「凍り付いた」笑いとなっていた。また、このころから左足を引きずって歩くようになっている。
  ギッベルスは、ニュース映画の中のヒトラーの左右の手の動きやぎこちなさ、表情、歩行、姿勢などの症状の程度によって、〇点から四点までの点数をつけて定量的な分析をしている。パーキンソン病の症状は一九四一年の中ごろにはあらわれており、左側から発症し、やがて右側にも症状が出現した。四五年の戦争末期にはホーン=ヤールの重症度分類二度くらいの障害度だったという。

 

 

  ある秘書はヒトラーのふるえについて書いている。
「日報に目を通すときには、ヒトラーはいつも左手で眼鏡を握っていましたが、その手がふるえるたびに眼鏡が机の表面に当って、カタカタと音をたてていました。唇は干からび、パンくずで覆われ、衣服はたべもので汚れていました」

 

 

  ある記録によると、四二年の東部戦線の大本営地下壕では、イスから立ち上がるにも人の手を借り、支えられて歩いていた。声はぼそぼそとして聞きとりにくく、口もとからよだれを垂らしていたとある。これは二度のパーキンソンではない。少なくとも三度の障害度である。

 

 

  ヒトラーに長いあいだ仕えた参謀将校によると、最後のころの様子は次のようなものだ。
「総統はみるからに恐ろしげな様子であり、苦しそうに、ぎこちなく足を引きずって歩きまわっていた。地下壕の自分の居間から会議室へ行くときには、上半身を前方に投げ出すようにして、足を引きずって歩いていた。バランス感覚はなくなり、ごく短い距離(たかだか二〇~三〇メートル)を歩く途中で、立ち止まらなければならないときは、壁の両側に置かれた総統専用のベンチに腰を下したり、話し相手にしがみついたりした。目は充血していたし、提出された書類はみな特製の『総統専用タイプライター』で普通サイズより三倍も大きな字で打ってあったが、それでも拡大鏡を使ってやっと読めるようだった。しょっちゅう、口の両端からよだれが垂れていた」
  目のことは別として、総統とか地下壕という言葉がなければ、そのまま教科書に載せてもよいような、中等度以上に進んだパーキンソン病の典型的な症例報告である。

 

 

  一九四三年二月、スターリングラードの第六軍が赤軍に降伏した直後、ヒトラーはソ連前面の東部戦線、マンシュタイン元帥の司令部を訪れた。そこにいた元帥の伝令将校シュタールベルクの、昼の作戦会議でのヒトラーの印象はさえないものだった。総統の頭は肩から前に垂れ、制服は食べ物かすで汚れ、無表情のままで地図をみていた。くたびれはてていた。そして顎がふるえつづけていた。夕方の会議になると、それが激変していた。
「……そのわたしの目に、ヒトラーが会議室に入ってきたとき、まったく予期せぬものが映った。今日の昼や昨日とはうって変わった別人のヒトラーが部屋に入ってきたのである。姿勢のたるんだ落ちぶれたような男は、突如として、背筋をのばし、ヴァイタリティのあるひきしまった姿になっていた。……ヒトラーが朝遅くまで寝ているのを好み、夜明け方近くになってから就寝するということは、われわれも知っていた。しかし、これほどまでの体調の変化が、生活リズム上の原因のみで生じるとは思われなかった。なんらかの薬物の効果があったにちがいない」

 

 

 小長谷氏によれば、「ヒトラーは主治医から七七種類もの薬を処方されていた」ということであり、特にシュタールベルクの「薬物の効果」については、

 

  ヒトラーの飲んでいた覚醒剤はメタンフェタミンである。これはヒロポン、つまりアンフェタミンと同じく、ドパミンによく似た化学構造をしている。もともとこれらの覚醒剤は脳の中ではつくられていないが、外から入ると、ドパミンが作用する細胞に、似たような効果をあらわす。またコカインは、化学構造式は似ていないが脳のかなのドパミン量を増やしたり、効果を強める作用がある。
  ドパミンは運動をスムースにするだけではなく、精神活動を活発にする神経伝達物質である。だから、覚醒剤やコカインは、脳の中のドパミン作動系というシステムにはたらいて、気分を高めているのだ。ドパミン不足のパーキンソン病は、精神的には抑うつ状態である。きっとヒトラーは、負け戦でなくともブルーな気分であっただろう。今日の治療では、ふるえやトボトボ歩きへの効果ほどではないにしても、Lドパでうつ症状も多少はよくなっていく。
  パーキンソン病の患者にコカインや覚醒剤を投与したらどうなるかという論文を読んだことはないが、薬理作用からみて、鈍い動作やふるえなどの症状が改善されるのはまちがいない。こう考えると、ヒトラーの覚醒剤・コカイン常用はパーキンソン病と関係していたとも推定できる。覚醒剤やコカインなどの処方は、病気や薬理作用などをふまえてのことではなく、ヒトラーが経験的に自分に必要なのを知っていて要求したのかもしれない。
  東部戦線の司令部で目撃された、ヒトラーの症状のドラマティックな変わりようも、その間にモレルたち主治医が到着していたことを考え合わせると、覚醒剤などが使われたと推定できる。
  もう一つ、ヒトラーへの処方でパーキンソン病と関係がありそうなのは、アンチガスという薬だ。これの主成分は、アセチルコリンの作用を抑えるアトロピンである。アセチルコリンは胃腸のはたらきを活発にしたり、汗を分泌させるはたらきがある。ヒトラーはよくおならをしていて、またひどい汗かきでいつも臭かったという。彼の前では、悪臭の話題を持ち出してはいけないことになっていた。アセチルコリンのシステムがはたらき過ぎているので、それを抑えるためにアトロピンを飲んでいた。
  アトロピンは目にも作用して、瞳孔を広げる。戦争末期のヒトラーが、異様に輝く目をしているのは、アンチガスの成分のアトロピンのためだという。

 

このように記されている。

 小長谷氏によれば、パーキンソン病患者は、ドパミンが不足する一方で、アセチルコリン過剰な状態となる。ドパミン不足に対応するのが覚醒剤やコカインであり、アセチルコリンの過剰に対応するのがアトロピンを主成分とするアンチガス投与ということらしい。

 

 

 いずれにせよ、「総統閣下シリーズ」の総統の姿、その下敷きとなった『ヒトラー ~最期の12日間~』の中でのブルーノ・ガンツ演じるヒトラーの姿に、この小長谷氏の描く神経内科的ヒトラー像を重ねると、よりリアルに映像を(どちらの映像をも)味わうことが出来るようになるはずだ。

 

 

 

  日報に目を通すときには、ヒトラーはいつも左手で眼鏡を握っていましたが、その手がふるえるたびに眼鏡が机の表面に当って、カタカタと音をたてていました。唇は干からび、パンくずで覆われ、衣服はたべもので汚れていました。

 

  イスから立ち上がるにも人の手を借り、支えられて歩いていた。声はぼそぼそとして聞きとりにくく、口もとからよだれを垂らしていた

 

  総統はみるからに恐ろしげな様子であり、苦しそうに、ぎこちなく足を引きずって歩きまわっていた。地下壕の自分の居間から会議室へ行くときには、上半身を前方に投げ出すようにして、足を引きずって歩いていた。バランス感覚はなくなり、ごく短い距離(たかだか二〇~三〇メートル)を歩く途中で、立ち止まらなければならないときは、壁の両側に置かれた総統専用のベンチに腰を下したり、話し相手にしがみついたりした。目は充血していたし、提出された書類はみな特製の『総統専用タイプライター』で普通サイズより三倍も大きな字で打ってあったが、それでも拡大鏡を使ってやっと読めるようだった。しょっちゅう、口の両端からよだれが垂れていた

 

  昼の作戦会議でのヒトラーの印象はさえないものだった。総統の頭は肩から前に垂れ、制服は食べ物かすで汚れ、無表情のままで地図をみていた。くたびれはてていた。そして顎がふるえつづけていた。

 

  ヒトラーはよくおならをしていて、またひどい汗かきでいつも臭かったという。彼の前では、悪臭の話題を持ち出してはいけないことになっていた。

 

 

 

 これが、あの独裁者の現実の姿と考えるとどこか滑稽な印象も抱いてしまうが、しかしヒトラーのエピソードの背後に見えるのはパーキンソン病患者の日常である。自分の身体が自分の思い通りにならないというのは、誰にとっても辛い話である。

 

 

 

 

 

 最後にオマケ的に、かつて英語圏で作成された「総統閣下シリーズ」作品を紹介しておこう。

 私が初めて接した作品(2008/12/29 に公開)であると同時に、その秀逸さに感心させられた作品でもある。

 

 

 

Adolf Hitler - Vista Problems!
 
https://www.youtube.com/watch?v=JSF39LmpxCY 

 

 

 

 当時、私も総統同様に「Vista Problems」に悩まされていたことを、久しぶりに思い出した。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 :  2017/10/15 07:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/312781/

 

 

 

 

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2017年9月20日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)

 

 前回記事(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」)では、昭和10年代後半の小平地域の軍事関連施設地帯化(戦時開発)と人口増(『小平市史』では「戦時の人口急増」という小見出しが用いられている)、そして住宅営団による軍事関連施設の関係者(従業員等)への住宅供給について触れた。大規模施設の移転・開設に際しては、施設関係者用の住宅供給という課題解決の必要性も生じ、最終的に「戦時の人口急増」として、地域社会のあり方へも影響を与えることとなる。再び『小平市史』から「住宅営団」について引いておこう。

 

  こうした戦時開発に伴う住宅難は社会問題となっており、これに対応して、一九三九年、前年に発足したばかりの厚生省のなかに住宅課が設けられ、深刻化する住宅問題への対応の検討が始まり、一九四一年、政府の全額出資のもとで住宅営団が設立され、住宅団地を造成して賃貸住宅あるいは分譲住宅を供給することになった。
     (『小平市史』 2013 286ページ)

 

 

 今回は、その中の仲宿住宅に焦点を当てるところから始める。

 

  さて小平村には一九四三年、住宅営団住宅として喜平橋の南側に桜上水住宅が、さらにその西側に桜堤住宅がつくられた。これらは陸軍経理学校や陸軍技術研究所などの軍関係施設に勤務する人たちのための住宅であった。また同じ時期小川駅付近には仲宿住宅が建設をはじめていたが、完成は敗戦後になった。ここは兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅であった。
     (『小平市史』 2013 286~287ページ)

 

 陸軍兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅として計画された営団住宅である(「住宅営団」の計画・建設した戦時集団住宅は、基本的に職住近接の立地を特徴とし、その意味で小平地域の営団住宅も例外ではない)。取り上げるのは、「完成は敗戦後になった」仲宿住宅の「戦後」のエピソードである。

 

 

  太平洋戦争により荒廃した国土、東京の復興に、また戦災者の救済に国民がこぞって立ち上がり、昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました。
  生活用水は、浅井戸32井を施設しましたが、当該地区は地下水が深くほとんど使用に耐えず、やむなく居住者は隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸から個々に「水運び」をせざるを得ませんでした。その後、関係者の好意により仲宿住宅街の中央部まで1本の給水管が延長され、共同水栓が設置されました。しかし、居住者の増加によりこれのみに頼り得ず、仲宿居住者組合で対策を検討した結果、坂北、旧兵器廠小平分廠の給水施設の利用を考え、坂北、本町、旭町地区の代表者賛同の下に、大蔵省東京財務局に使用許可を申請した結果、昭和24年8月に使用許可書が交付されました。
  各地区代表者によって給水事業計画を作成して、「小川給水組合」として発足すべく努力を重ねましたが、施設費用等の負担問題で組合結成がならず、対外的には「小川給水組合」として各地区代表者(発起人)が経営にあたることになりました。
  昭和28年12月、関係部落自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し「小川水利協会」を結成して昭和29年1月より新機構によって運営されることになりました。
  当時、役員は水道事業の重要性にかんがみ、任意団体の運営では住民の福祉向上に資するためには非常に困難な点が多いので、水道施設を町に移管し、町営水道として経営すべきであるとの意見の一致をみたので、その体制整備に進みつつありました。
  昭和33年「小川水利協会」から、給水人口の急増と施設の拡張、地域住民の福祉の増進を考慮して、町営として水道事業経営が望ましいとの陳情をうけて、町理事者並びに町議会で調査検討を行い、昭和34年3月の定例議会で小平町営水道事業として経営することに決定しました。
     (『水道事業概要 昭和58年』 小平市水道業務課・工務課 1983 2ページ)

 

 本題に入る前に、「昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました」との記述の正確さの程度について問題を指摘しておきたい。

 

  もちろんこうした住宅の絶対的な不足の状況のなかで、政府の住宅対策がなかったわけではない。一九四五年九月、罹災都市応急簡易住宅建設要綱が閣議決定された。罹災者の越冬対策として、国庫補助により「最モ簡素ニシテ且大量生産ニ適スル」簡易住宅三〇万戸を建設するとしたが、年内に建設されたのは四万三〇〇〇戸にすぎず「恐るべき不良住宅の集団建設事業」とさえいわれた。この政策の一環として建設が促進されたのが住宅営団の仲宿住宅であった。この営団住宅は、もともと兵器補給廠小平分廠の従業者向け住宅として、一九四三年ごろから建設が進められていたが、何らかの事情で中断し、さきの住宅難対策のもとで四五年一二月から建設が再開された。その結果、六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸からなる団地が完成し、新築部分には四六年四月から入居が開始された。また同じ頃、営団旭が丘住宅も完成している。なお住宅営団は一九四六年末に解散したため、それらの住宅は四八年七月から分譲された。
     (『小平市史』 377~378ページ)

 

こちらでは、「新築部分には四六年四月から入居が開始された」とされており、1946(昭和21)年の時点で「入居が開始され」ているのだとすれば「昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました」ということにはならないだろう。総戸数については、『水道事業概要』の248戸と、『小平市史』の「六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸」(八軒長屋が4棟で32戸、それに一戸建て216戸で総計は248戸)は、戸数として同じであり、どちらも確かに住宅営団による「仲宿住宅」についての記述と判断し得る。

 いずれにせよ、

 

  生活用水は、浅井戸32井を施設しましたが、当該地区は地下水が深くほとんど使用に耐えずやむなく居住者は隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸から個々に「水運び」をせざるを得ませんでした。その後、関係者の好意により仲宿住宅街の中央部まで1本の給水管が延長され、共同水栓が設置されました。しかし、居住者の増加によりこれのみに頼り得ず、仲宿居住者組合で対策を検討した結果、坂北、旧兵器廠小平分廠の給水施設の利用を考え、坂北、本町、旭町地区の代表者賛同の下に、大蔵省東京財務局に使用許可を申請した結果、昭和24年8月に使用許可書が交付されました。

 

この太字化した部分からは、戦後に完成した営団住宅には満足な給水施設がなかったこと、そして問題解決のために、当時には「厚生省職業補導所」となっていた旧・東部国民勤労訓練所の「深井戸」からの水に加え、「旧兵器廠小平分廠の給水施設」に頼ることとなった事実が読み取れる。

 旧・東部国民勤労訓練所及び旧・陸軍兵器廠小平分廠は共に、『小平市史』では地域の「軍需工業化」の関連施設として位置付けられていたものである(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)。その施設内に存在した給水施設は、小平村あるいは小平町(すなわち地域行政)の用意したインフラとしての上水道・給水施設ではない。戦後に仲町住宅の住民が頼りとした軍需工業化関連施設内の給水施設は、「開発事業主」としての厚生省、そして陸軍が自ら自身のために用意したものなのである。

 

 「使用に耐え」なかった営団住宅内の「浅井戸32井」、そして旧・東部国民勤労訓練所内の「深井戸」と、旧・陸軍兵器補給廠小平分廠内の「給水施設」については、今のところ、その詳細について記述した文献を探し当ているところまでは進んでいない。しかし、周辺地域の給水施設について知られているところから、ある程度の推測は可能である。

 

 

 まずここでは、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」で紹介した矢嶋仁吉氏の論考に立ち戻りたい。

 

  本地域は、武蔵野台地の南半部の狭山丘陵と多摩川とのほぼ中間地域で海抜高度は90-70mで西部より東部に至るに従って緩傾斜を示している。地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している。即ち、該台地南半の中間地域たる小平村を中心として、その西部の砂川村、霞村新町及び多摩村五ノ神附近がこれと同じ階級に属し、東部に於ては小金井村梶野新田、関野新田及び小金井新田に至る地域であって、小平村はほぼその中間に位している。
  尚、地下水の水深(この場合の「水深」は地下水面深度と井底面深度の差を示す:引用者)は、大部分2.5-5mであり、特に本地域より東方、田無町附近に至る地域は地下水同水位曲線の緩慢なことは著しい現象である。
  かかる地域であるから、集落立地の根本要因たる飲料水の採取に困難を感じたことは、既報(矢嶋先行論文:引用者)の諸新田の場合と同様である。それ故、井戸掘削の技術の進んだ今日に於ても、同村一帯に井戸の数の少ない事は注目すべき事実である。
  井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではないが、大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する。
  又、井戸掘削の難易はただに帯水層の深度関係するのみならず、その場所の地質の関係する所が大である。例えば武蔵野台地の東部の如く、ローム層の比較的厚い地域では、その井戸の内壁も掘ったままで良いが、該台地の西部、又は秋留台地に於ける如くローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない。
  それ故その費用も極めて莫大である。かかる関係から帯水層の深い所では、特にその困難は著しいのである。それ故台地内部に於ては、何処でも戸別毎に井戸を所有するという訳には行かず、共同井戸を使用する所が多い。
     矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 (『地理学評論 11』 1939 17~19ページ)

 

 矢嶋氏は、このように小平地域における井戸掘削の困難について語っていたのであった。小平地域は「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10-15mの深さの地域に属している」のであり、しかも「ローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない」という二重の「困難」である。15mとは、ほぼ5階建てのマンションの高さに相当する「深度」である。「手掘り」による「掘削」であることを考えれば、それだけで十分に「深い」と思われるだろう(その深度での掘削では、加えて酸欠の危険も問題となる)。

 しかし、戦後の仲宿住宅住民が頼りとした「隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸」の「深さ」は150m前後であったはずだ。

 地下水には浅層のものと深層のものがあり、その性質を異にするのである。より詳しく言えば、

 

  地下水の種類(地層の状況による分類)
  ○砂や礫砂利などの「比較的地下水が流れやすい地層、言い方を換えると「地下水を通しやすい層」のことを帯水層(たいすいそう)とよびます。
   一般に、地下には、浅い帯水層や深い帯水層など、複数の帯水層があり、帯水層と帯水層の間は、粘土層などの水を通しにくい「難透水層」と呼ばれる地層により分け隔てられています。
  ○降水や河川水、貯水池等の水が地表面から浸透してそのまま地下水となるような、地表面付近の「浅い」帯水層などを不圧帯水層、また、ここを流れる地下水を不圧地下水とよびます。
  ○地表面付近の帯水層と難透水層で分け隔てられている「深い」帯水層などで、帯水層が地下水で満たされており、上部の難透水層との境界面に上向きに水圧がかかっているような圧力状態の帯水層を被圧帯水層、また、そこを流れる地下水を被圧地下水とよびます。
   一般には、被圧地下水は標高の高い山地などにつながっており、山地などで地表から浸透してきた水が地下水となり、被圧帯水層の中を平野部まで流動しています。このため、被圧地下水には、水源域の高い標高に相当する高い水圧がかかっています。
   下流の平野部で被圧帯水層まで井戸を掘削すると、高い水圧のため、地下水位が地表面より高く、水が湧き出たり噴出する場合があり、このような井戸を「自噴井(じふんせい)」とよびます。
  ○「深い」帯水層の場合でも、その帯水層の上部に難透水層がなく帯水層が地表までつながっている場合、あるいは、帯水層が満杯ではなく地下水面がある場合には、被圧されていないため不圧帯水層であり、ここを流れる地下水は不圧地下水となります。
     「地下水の基礎的事項」(『地下水マネジメント導入のススメ 技術資料編』 内閣官房水循環政策本部事務局 2017 57ページ)

 

このような構図となり、「深井戸」から汲み上げられる(湧き出す)のは「被圧帯水層」の地下水なのであり、小平地域の深さ15mの井戸は「降水や河川水、貯水池等の水が地表面から浸透してそのまま地下水となるような、地表面付近の「浅い」帯水層」の地下水を汲み上げて利用するものなのである。

 

  武蔵野台地の地質構造の基本的な形態を概観すると、地表から5m~10m前後の厚さでローム層が覆い、その下位に10m前後の厚さで砂礫層が連らなり、さらにその下に砂、シルト、粘土の互層よりなる海成の東京層上部が広がっている。この東京層上部が難透水層を形成し、その上の砂礫層およびローム層に不圧地下水が存在する。
          水谷淳 「武蔵野台地黒目川流域における不圧地下水の水質に及ぼす都市化の影響について」(『環境問題シンポジウム講演論文集 Vol.10』 土木学会 1982 28ページ)

 

この「砂礫層」まででも、小平地域附近では15mの井戸の掘削が必要となったのである。しかし、そこに問題も生じる。

 

  一方これらの集落の家々では、家庭下水を排出する先がなく、そのため、いわゆる”逆さ井戸”(吸い込み槽)と称するものを設けて、ローム層中へ浸透処理する方法が一般に用いられてきた。
     水谷淳 (同論文 27ページ)

 

インフラとしての下水道が未整備な段階では、不圧地下水は家庭下水による汚染と隣り合わせだったのである。

 

 

 先の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」では、現在では「南街(なんがい)」と呼ばれる東大和市内の、かつての東京瓦斯電気工業(後に日立航空機)が建設した従業員用集団住宅地について触れたが、その工場と住宅街への給水問題がどのように解決されたのかについて見ることにしよう。

 

  一九三八(昭和一三)年一月には、土地買収交渉が始まった。第一回八万坪の敷地買収にかかった。
  しかし、水の件が最後に残った。最重要条件である。貯水池からや玉川上水からの給水は絶対だめと分かった。水がないために人が住まなかった土地である。どこを探しても水気さえも見つからない。困り抜いたはてに、当てなしに試掘することにした。
  第一回目に現在の給水塔のある位置で試掘を始めた。水気を含んだ土が上がってきた。少し水らしいものが出てだんだん増してきた。当った、当ったと立会人はほっと安心。試掘一五〇㍍まで掘ったところで、水が湧き出るようになった。テストには一日二〇〇石(約三十六立方㍍)の湧水が出て、関係者全員大喜び。これでいよいよ本格的建設も可能となった。
     (『東大和市史資料編 1 軍需工場と基地と人びと』 1995 27ページ)

 

「試掘一五〇㍍まで掘ったところで、水が湧き出るようになった」という記述に注目して欲しい。150mという「深さ」であり、「水が湧き出るようになった」という記述に反映されている「自噴」の状況である(不圧地下水を利用する井戸では、たとえ15mの深さからのものでも「自噴」することはなく「汲み上げ」が必要である)。そこに給水塔を用意し、工場と住宅街に水を供給したのである。

 

 次は戦後の小平の畑作灌漑試験計画についての記事である。

 

  一九五二(昭和二七)年、東京都農業試験場は、これからの東京都の農業を支える畑作地域の経営改善と輪作体系の合理化をおこなうために、小平町で畑作灌漑試験計画(五か年)をたてる。都下では初の試みで、東京都、小平町、小平町農業協同組合は畑地灌漑連絡協議会を組織して、試験地を小川六番地区に選定する。小川六番地区は、冬作として麦、夏作として陸稲のほか、すいかなど蔬菜類を生産する町内で代表的な農業地域である。そこで灌漑施設を整備して、陸稲を主体とした蔬菜類の輪作経営の改善が目指された。灌漑栽培の研究のため、直径一二インチ(約三〇cm)、深さ四〇四尺(約一二四㍍)の電動ポンプ付きの深井戸とコンクリート製の貯水槽などの施設が設置された。
     (『小平市史』 397~398ページ)

 

注目して欲しいのは「深さ四〇四尺(約一二四㍍)の電動ポンプ付きの深井戸とコンクリート製の貯水槽」との記述である。124mという深さは、それが被圧地下水であることを意味する。それが「コンクリート製の貯水槽など」と組み合わせられている。当時の写真を見ると、施設には二階建て相当の高さをもつ貯水タンクが含まれていることがわかる。その「高さ」には、南街に飲料水を供給した「給水塔」が持つのと同じ意味がある。

 陸軍技術研究所の給水塔について、以下のように説明されている。

 

  サレジオ学園(小平市)西南角の「サレジオ通り」沿いに、異様な様相でそびえ立つコンクリートの塔。第5技術研究所敷地に建設。受水槽(126トン)を塔の上につくり、その圧力で送水した。現在は、大蔵省財務局が管理している。給水塔はもう1塔あった。新小金井街道沿いの学芸大学東門北側の、現「小金井市役所貫井北町分室」敷地内(190トン余)。
     板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)

 

「塔の上」という高い位置に受水槽を設けることによって、低い位置にある広大な敷地内の多数の水栓への給水を可能にするのである。

 

 上水道インフラ整備の整わない戦後の小平のエピソードを加えておこう。

 

  鷹の台団地は昭和38(1963)年発足。発足当初から三角公園西側の共有地(国分寺市北町1-17-3)には井戸があった。敷地内には大きなヤグラがあり、その上に巨大な貯水タンクが設置されていた。毎日大出力のモーターポンプでそのタンクに水をくみ上げ、そこから団地内の約200世帯に飲料水を供給していた。とてもおいしい水で、よその地域からの来訪者にも「おいしいね」といわれたそうだ。
  それが昭和44年から50年にかけて、この地域一帯の配水が少しずつ都の上水道に切り替わっていった。はじめて水道水を飲んだときに「まずい」と感じたそうだ。(もちろん今では浄水技術の革新により、東京都の水道水もおいしくなっている)
  この井戸は今も共有地内に存在している。
  敷地内にあるコンクリート基台の上に、地下150メートルの水脈に届く錆びた鉄管があり、その上部が90度曲げられている。近年、この井戸を整備して、災害時水源として使えるようにしようとの声が出ている。
     「鷹の台団地今昔物語(その1)―井戸から上下水道へ・私道から市道へ―」(『鷹の台団地40年』 2014 4ページ)

 

着目点は、「敷地内には大きなヤグラがあり、その上に巨大な貯水タンクが設置されていた。毎日大出力のモーターポンプでそのタンクに水をくみ上げ、そこから団地内の約200世帯に飲料水を供給していた」という記述。たとえ「自噴」する被圧地下水であっても、貯水タンクへの汲み上げには「大出力のモーターポンプ」を必要とするのである。

 

 

 

 被圧地下水層にまで達する井戸を掘削し、給水塔を建設する。(村であれ町であれ)戦時期の小平の行政にはその力はなかった(戦後になってもその状況が続いた)が、開発事業主としての軍には、資金面でも技術面でも可能であった、ということなのである。

 

 

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (8)」に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
  投稿日時 :2017/09/20 19:42 → http://www.freeml.com/bl/316274/311858/
  投稿日時 :2017/09/20 19:44 → http://www.freeml.com/bl/316274/311860/

 

 

 

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