2009年7月13日 (月)

LACHRIMAE 介護のエンディング (老眼と自己決定 番外編)

 

          LACHRIMAE

 

 ラテン語で「涙」を意味する、はずである。

 

 

 母を亡くしていることは、何度か書いたと思う。

 

 彼女は、88歳の日々を、肺癌患者として、寝たきり状態で過ごすことになった。

 往診に訪れたかかりつけの医師から、「余命数週間」との診断を伝えられたのが2001年の1月29日のことだった。

 医師が帰った後、母のポートレートを撮影した。「遺影」用に、である。

 前年の10月の検査入院の際に、癌の部位が心臓に接していて「かなり危険」なことを病院の当直医から聞かされ、退院後は毎日、母の姿を撮影するようにはなっていた。話が前後するが、1999年の後半から微熱が続くなどの体調変化に見舞われ、癌の診断を受けたのは、その年の暮れか翌年の正月のことだ。そのことは本人にも伝えてある上での、その後の出来事である。

 

 やがて訪れる死を前提にして、毎日、母(と家族の姿)を撮影する。そんな日々の中で、往診の医師からの「余命数週間」という言葉は、「やがて訪れる死」という言葉の切迫度を高めるものとなったわけだ。

 

 丁度、私の仕事が春休みに入ることもあり、母を入院させるのではなく、自宅での介護という選択をした。4月にはすべてが終わっている、と思ってのことである。桜の咲き誇る下での葬儀となれば上等だなどと考えていたくらいだ。

 そして、新学期からは仕事に復帰する。

 

 そう考えていたのだが、介護の成果なのか、4月に入っても母は存命であった。以後、仕事を休んでの介護の日々が始まる。

 介護保険の発足と重なり、それ以前の家族介護が置かれたであろう状況に比べれば、かなり恵まれたものとはなったはずだ。しかし、相手は回復の可能性の存在しない家族である。嚥下困難により、食事の楽しみさえ失ってのことだ。

 彼女の生の存続は、もちろん息子としての私、そして私の家族の喜びである。しかし、寝たきり状態という当人にとってもつらい状況での生の存続でもある。88歳ということは、十分に老人であることを意味し、その上での肺癌は、回復というエンディングへの希望を断つものなのである。

 エンディングは彼女の死以外になく、それは彼女の苦しみからの解放の時でもある。それは、つらい状況の終了ではあるが、しかし、彼女と家族が共に過ごせる日々が断たれる時をも意味するのだ。

 しかし、しかしその上に、終わりの見えぬ介護というつらい日々からの解放を、私には意味することにもなる。そこでは介護の日々からの解放をもたらすのは、彼女の死なのである。

 

 心理的には、少なくとも私の心理の問題としては、ハッピーエンドへの希望を持ちえない日々だったように思える。

 彼女の死は望まない。しかし、彼女の死がすべての問題を解決する、という考えを否定することも出来ない。

 私自身にとって、うれしい認識ではない。

 付け加えれば、介護のために仕事を休んでいるということは、その間の収入がないことを意味するし、介護には金がかかるのである。介護の継続は、経済状況の絶対的な悪化も意味するのだ。

 

 

 そんな毎日ではあったが、その中で、必ずその日の母の姿を撮影することは続けていた。

 3月に彼女は88歳の誕生日を迎える。当然、その日の姿を撮影した。その1ヵ月後(4月)には、3月の誕生日の写真と彼女を1枚に収めた。その1ヵ月後(5月)には、4月に撮影した3月の誕生日の写真と並ぶ彼女の姿を撮影する。それを一ヵ月ごとに繰り返す。彼女の生の存続の証しである。「余命数週間」が一ヶ月ずつ延びていく様が、一枚の写真に収められるのだ。

 まぁ、そんな楽しみ(?)も交えながら、毎日、肺癌で寝たきりとなった老人の姿を撮り続けた。

 

 介護の日々の心理的にストレスフルな状況については、先に書いた通りだが、撮影用のライトをセットし、カメラを構え、彼女と向き合う時間。それは「介護の時間」とは別の時間の流れを、私と母の間にもたらすものとなった。その間だけ、私たちは写真家とモデルになるのだ。

 カメラを持つ習慣、シャッターを切る習慣も捨てたものではない。介護という関係性は、その時だけは、私たちの間からは消えたのである。

 

 

 

 2002年1月3日に突然訪れる彼女の死までに、数千枚の写真が残されることになる。

 

 

 その中から48枚を選び、2冊のアルバムにまとめた。彼女の友人・親戚も、彼女同様の老人であり、見舞いにも来られなければ葬儀にも立ち会えなかった方々がほとんどだ。彼女の最後の日々を、写真を通して共に過ごしてもらえればという思いでセレクトした48枚であった(枚数はアルバムのフォーマットに規定されている)。

 彼女の親戚・友人達へ届けるためのアルバムのタイトルとして選んだのが「ラクリメ LACHRIMAE」である。

 1604年に出版されたジョン・ダウランドの曲集のタイトルにちなんだものだ。介護の日々、私の中を流れていた音楽。

 

 

 

 

 書き始めたら長くなってしまった。仕事先で私を見知っていた学生から、私をネタに展覧会をしたいという話があり、かつての母の写真を見せたら「それで行きましょう」的展開になってしまったのが、今夜のお話の発端。

 学生にタイトルの由来である「LACHRIMAE」の実際の演奏を紹介しようと思って、「YOUTUBE」を利用して見つけた画像を紹介するだけで終えるつもりが、説明を始めたら長い話となってしまったというのが事の真相である。

 さて、学生にメールで紹介したのは、

J. SAVALL · Hespérion XX · "Lachrimae Antiquae" · Dowland
 → http://www.youtube.com/watch?v=LCfhqh0u20c

STING & EDIN KARAMAZOV (LUTE) - ST LUKES CONCERETTE PART 1
 → http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=ljQDTLUDWC0&feature=related

の2つだったのだが、後になってから、

Jordi Savall, Hespèrion XXI - Lacrimae Pavan, J.Dowland (1563-1626)
 → http://www.youtube.com/watch?v=g2uA4msplTg&feature=related

を発見。サヴァールのライヴ映像だ。

 スティングのヴォーカルによる「Flow my Tears」も好きだけど、

Alfred Deller performs Dowland's 'Flow my Tears'.
 → http://www.youtube.com/watch?v=85C1jX0P28k&feature=related

このデラーも名演だと、久しぶりに聴いてあらためて思った。これ、LPは持っていたはずなんだけど…

 最後に、

Flow My Tears - Jim Moray
 → http://www.youtube.com/watch?v=40bv3m9I7dM&feature=related

やるじゃありませんか…

 

 

 

註 : 私自身の死生観の背景の理解につながると思い、「老眼と自己決定」の「番外編」として、ここに収録することにした。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/12 22:07 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109862

 

 

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2009年7月11日 (土)

老眼と自己決定 (21) 脳死を生きる 14

 脳死臓器移植「医療」を推進するためには、脳死状態の患者からの臓器摘出の合法性を保証しておく必要がある。

 つまり、脳死を人の死と定義することにより、脳死状態の患者は、治療の対象から死体へと変化する。臓器摘出により脳死状態の患者が死ぬのではなく、患者は既に死んでいるというのが、脳死を人の死と定義することにより生み出される解釈である。

 

 そして、別の場所で臓器移植を待ち望む患者に、脳死体となった患者からの臓器が提供され、移植手術が成功すれば、前者の近い将来の確実な死は遠ざけられることになる。

 

 

 一人の患者(ドナー)の死が、一人の別の患者(レシピエント)の生を保証するのである。

 

 

 脳死臓器移植「医療」先進国である米国のリポート(数日前のテレビニュースによる)などを見ると、ドナーの家族にとり(成人ならドナー自身もだろうが)、ドナーの死は臓器移植を通してレシピエントの生と結びつき、レシピエントの体内におけるドナーの生の継続として解釈されるという形式で、脳死臓器移植を受け入れるという構図が出来上がっているらしい(もちろん、「脳死=人の死」という図式が共有されていればこその話であろうが)。

 要するに、脳死臓器移植を通して、あるいは脳死臓器移植という手段があればこそ、ドナーの死は回避されたものとして認識されうるわけである。

 米国のケースでは、レシピエントの現実の延命と同時に、ドナーの想像上の延命として、脳死臓器移植が機能しているということのようである。

 

 死の回避は、確かに人間にとっての究極のと言っていいくらいの根深い願望の一つであろう。

 その意味で、米国における脳死臓器移植医療を支える論理と、そこから生み出される感情は、多くの人類に共有されると思われる不死への願望に適うものとして評価することも出来そうだ。

 

 愛する家族の死を受け入れる上で、家族を脳死臓器移植のドナーとすることに同意することが、その家族にとっては一種の救いとして機能しうるわけだ。家族の死(脳死)の受け入れが、同時に、家族の(他者の臓器としての)生の存続の保証となるのである。

 

 世界からの死の排除という願望を、脳死臓器移植が叶えるのである。

 ここでは、米国での脳死臓器移植医療の普及・進展が、それなりの完結した論理に支えられていることを見ておくべきなのだろう。

 

 レシピエントとしての患者が、どこかの誰かのドナーとしての脳死を期待しながら日常を送ることの倫理性を問うという発想は、このような論理に覆われる世界からは生まれにくいのかも知れない。

 レシピエントの存在こそが、ドナーの死をただただ悲しく不条理なものから、意味あるものへと変換するのだ。

 死を受け入れ可能なものにするのが、死を他人の中で継続する生へと変換する論理であり、その具体的手段こそが脳死臓器移植医療なのである。

 

 

 

 

 私自身は、生きていることはいつか必ず訪れる死を前提とした状態である、という思いの中で日々を生きている。

 小学校2年生の時に、父の死に続いて、双方の祖父母の死を体験したことが、その思いを生み出したのだと考えている。「人は皆、最後には死ぬものなんだなぁ…」という実感が、小学校2年生の私に刻み付けられたのである。

 

 この10数年の間に、姉と母を亡くした。無感動なわけではなかった。悲しみの感情は、常日頃から「人は皆、最後には死ぬものなんだなぁ」と思っている男の上にも宿るものである。

両者に対し、適切な医療の提供は出来たのだろうか?

その都度の選択は、最適なものであったのだろうか?

…といった疑念からは逃れられないし、とにかく、これまで直接的コミュニケーションを交わしていた家族と共に時を過ごすことは出来ないのである。それに気付くことは、既に取り返しのつかない地点にいるのだということを再認識させられることであり、そこで自身の無力感と喪失状態をあらためて味わうことになる。

 

 ただ、そのように考えても、生きていることがいつか必ず訪れる死を前提にした状態である、という認識はそのままに残る。

 やがて死ぬものこそが、現在を生きているものなのだ。

 そのような死生観からは、米国流の脳死臓器移植を支える論理が、魅力的だったり説得力を持ったものとして見えて来るということもない。

 

 

 自らの死を望まないのなら、まずは他人の死を望まない。

 私には、こちらの方が、理屈としても倫理観としても説得力があるものに思える。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/10 22:39 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109689

 

 

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2009年7月 9日 (木)

老眼と自己決定 (20) 脳死を生きる 13

 昨夜で、「老眼と自己決定」シリーズの「脳死を生きる」編も、12回目となってしまっている。

 

 いずれにしても、「脳死臓器移植」をめぐる善悪正邪の判定が目的ではなく、要するに自分の腑に落ちない点をはっきりさせておこう、というのが論の主眼である。

 

 

 他人がどう思うかとは別に、私の視点から、気になること、世の中の議論から抜け落ちているように感じられることを書いておきたいわけだ。

 

 

 

 私自身は、これまでにも書いたように、木村敏氏の提起した問題に大きく影響を受けている。

 脳死臓器移植「医療」は、患者(レシピエント)に他人の死を期待する心情を持たせてしまうことになる、という指摘だ。

 その論理、あるいはそこから生み出される倫理観は、少なくとも私自身には、自分自身が脳死臓器移植「医療」でのレシピエントとなることへの抵抗感を抱かせるものとなった。家族という立場でも(つまり、たとえば自分の娘が脳死臓器移植以外に延命の可能性がないという状況になっても)、脳死臓器移植「医療」を選択することはしたくない。

 そのような意味で、脳死臓器移植「医療」に関しては、(脳死臓器移植医療ではなく)しつこく「 」付きで脳死臓器移植「医療」と表記しているように、医療行為としての位置付けに戸惑いを覚えていることも確かなのである。つまり、「中立的立場」で問題を論じていると主張することは出来ない。

 

 しかし、脳死臓器移植「医療」を「告発」することを目的としているわけでもない。

 私の視点から、論点を整理しておくこと。そこに、書き続ける動機がある。

 

 

 批判的な記述が多くなっていることは確かだろうが、私が問題をそのように見ているというだけの話で、読者の同意を求めているわけでもなければ、読者を説得しようとしているわけでもない。

 脳死臓器移植「医療」の推進を求める方には、私の疑念をクリアした上で、その主張を展開していただければよいと思うだけだ。問題をスルーするのではなく、クリアすることにより、推進の論理も強固なものとなるだろう。

 

 

 

 世の中では、シロクロを明確にした議論、わかりやすい結論が求められる傾向があることは承知しているが、そのような方向性は、これまでの議論からも、これから書くかも知れない議論からも見つけることは出来ないと思う。

 

 話としてはわかりにくく、じれったく感じられるかも知れないが、何らかの結論ではなく問題を「考える」姿勢を共有していただければ、それで私の目的は達せられるものと思っている。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/08 23:37 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109495

 

 

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2009年7月 8日 (水)

老眼と自己決定 (19) 脳死を生きる 12

 脳死臓器移植「医療」とは、臓器の疾患により遠くない死を宣告された患者及び家族と、脳の損傷(それが外部的要因であれ内部的病変であれ)により脳死の可能性を宣告された患者及び家族との間に介在するものである。

 前者の多くは、中・長期の治療過程を経験しているのに対し、後者は救急救命医療の対象である。

 前者は、脳死臓器移植以外に延命の可能性がない状況にある。

 後者では的確かつ迅速な救命医療の実施が患者にも家族にも望まれるであろうし、その治療の成功は患者に脳死を免れさせ、患者の延命・回復につながるものとなりうる。

 

 そのように考えると、脳死臓器移植「医療」を実施することは、レシピエントとしての前者の「延命」とドナーとしての後者の「延命」との二者択一的状況を出現させるものとなりうることに気付くだろう。

 もちろん、救急救命医療の現場の医師の努力は、脳の損傷により運び込まれた患者の救命に注がれるはずである。

 

 しかし…

 

 一方で、脳死を人の死とすることには宗教界や法曹界、交通事故遺族の会など、さまざまな方面から反対がある。国会での慌ただしい動きに、改正に反対する医師らが先月、「移植を受ける人と提供する人の救命は表裏一体。審議は慎重の上にも慎重であるべきだ」と緊急声明を発表した。
 脳神経外科医の山口研一郎氏は「医療の進歩で(現行法制定時より)もっと脳死イコール人の死ではない状況となった。親は子供の体が冷たくなって初めて死を認められるもの」と指摘、早急な結論に危機感を表した。
 (時事通信 2009/06/18 13:42 → http://www.jiji.com/jc/zc?k=200906/2009061800447&rel=j&g=soc

 

…という懸念を無視することも出来ない。

 山口研一郎医師の「医療の進歩で(現行法制定時より)もっと脳死イコール人の死ではない状況となった」という指摘は、現時点での問題の所在を語るものであろう。救急救命医療の現場の脳神経外科医自身が、「早急な結論に危機感を表し」ているのである。

 

 それに対し、脳死臓器移植「医療」推進者は、たとえば、

 

 日本心臓血管外科学会(高本真一理事長)は25日、衆院を通過した臓器移植法改正A案を参院で速やかに可決するよう求める声明を発表した。理事の許俊鋭東大特任教授は「移植を待つ患者さんはこういう場に出て来られない。直接診ている我々が患者さんの切なる願いを訴えたい」と述べた。
 同学会によると、1997年の同法施行後64人が心臓移植を受け、うち62人が健在。世界的にも非常に優れた治療成績を上げながら、機会が少ないため、多くの患者が移植を受けられず亡くなっている。
 (時事通信 2009/06/25 19:46 → http://www.jiji.com/jc/zc?k=200906/2009062500957&rel=j&g=pol

 

と主張している。「世界的にも非常に優れた治療成績」を示すと共に、その「機会が少ないために多くの患者が移植を受けられずに亡くなっている」現状を強調しているわけだ。心臓血管外科学会の医師たちが、その患者の利益を考えることは正しいだろう。しかし、彼らの患者の利益は、脳神経外科医の患者の利益を侵すことにより獲得される性質を持つことへの配慮に対しては言及されていない(報道されていないだけだろうか?)。

 日本心臓血管外科学会の声明は、それでも一方の当事者の意見表明としては理解可能なものではある。

 

 

 しかし、「移植を受ける人と提供する人の救命は表裏一体」という認識は、少なくとも国会審議の場では共有されるべきであろう。

 現行法施行後に明らかになった脳死状態そのものに対する疑義の検討と、救急救命医療の技術的進展への考慮を抜きに、脳死状態への評価を下すことは、あまりに乱暴な話に思える。ドナー側の利益の軽視と言うべき現状である。

 

 

 レシピエント(及び家族)自身の延命に対する利己的心情への配慮を求めるなら、同等なドナー(及び家族)自身の延命に対する利己的心情への配慮も必要であるはずだ。

 

 

 「審議は慎重の上にも慎重であるべき」はずなのである。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/07 22:55 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109402

 

 

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2009年7月 7日 (火)

老眼と自己決定 (18) 脳死を生きる 11

 

  脳死を人の死とし、本人の拒否の意思表示がなければ家族の同意で年齢に関係なく臓器提供を可能とする

  脳死を「人の死」としている点を改め、現行と同じく臓器提供時に限って人の死とし、本人の拒否の意思表示がなければ家族の同意で年齢に関係なく臓器提供を可能とする

 

 前者が、2009年6月18日に衆議院本会議で可決された「臓器移植法改正案(いわゆるA案)」であり、後者は参議院に提出予定の、自民党参院有志議員による衆院改正案に対する修正案である。

 

 いずれにしても、現行法では、本人の明確な臓器提供への意思表示の存在を脳死臓器移植実施の要件と定めているのに対し、本人の意思が不明確であっても家族の同意により、脳死状態に陥った時点で死体として取り扱われ、臓器が摘出されてしまうことになる。

 現行法では、本人の自己決定権の尊重の結果としての脳死臓器提供の容認という形式を踏んでいるのに対し、衆院改正案及び参院修正案の両者共に、自己決定権への配慮は大きく失われている。しかも15歳以下も臓器提供対象とすることで、自己決定能力を問うという現行法の姿勢は完全に失われたと評価することも出来そうである(自己決定能力の不在が、現行法における臓器提供の年齢制限の理由であった)。

 

 

 これまで、まず、一律に脳死を人の死としてしまうことの妥当性への疑念を、「長期脳死者」の事例や「ラザロ徴候」、そして臓器摘出時に脳死体が示す反応例の報告を通して考えて来た。

 脳の状態のみをもって、人が生きている状態の判定基準とすることの妥当性(あるいは危険性)を、ナチスの安楽死政策との対比で考えてもみた。脳死を人の死とする発想は、脳に重度の障害を持つ心身障害者の存在に対し、その生存権への否定につながりかねないものなのである。

 また、脳死臓器移植「医療」がもたらす「死体の資源化」とでも言うべき状態は、より多くの死体の供給への欲求を生じさせることになる。ここでは、救急救命医療の対象であるはずの患者が、同時に潜在的脳死体として評価・期待されるという状況も生まれてしまうだろう。救急救命医療とは正反対のベクトルの上に脳死臓器移植「医療」が成立するという構図として描くことが出来る。

 そして、「自己決定権」という理念の尊重の上に成立している現行法と、「自己決定権」への配慮を喪失させることで脳死者として判定される患者を増加させ、脳死臓器移植「医療」の推進を図ろうとする「臓器移植法改正案」とその「修正案」を対比し、そこに潜む問題を示してみたわけである。

 

…と、これまでの議論を振り返った上で、木村敏氏の提起した、脳死臓器移植の実施が、臓器移植を待ち望む患者に脳死者の出現を待ち望む心理を生み出してしまうという倫理上の問題について、再び考えておきたい。

 

 

 

 

 脳死体からの臓器移植という方法以外に生命の存続の可能性のない患者という状況を、自身に当てはめ想像することは簡単なことではない。とりあえず健康であるということは、この数ヶ月、これから数年間は生きている自分という想定と共に日々を過ごしていることを意味しているはずだ。死の現実的可能性に直面すること、それも近い将来に苦痛を伴う形で実現するという可能性に直面する自分の姿を想定することは簡単なことではないのである。

 健康人に、当事者としての患者の心理状態を想像することは出来ないし、そのような健康人が当事者としての患者の欲求を、自分を高みにおいて批判することはあまりに無責任な話であろう。

 

 そのことを確認した上で、患者(レシピエント)と臓器提供者(ドナー)との関係性を考えてみたい。

 

 脳死状態に陥る他者の出現のみが、自らの生存の可能性を現実化するという状況。それが患者の置かれてしまう状況である。

 自らの生存のために、他者の死(脳死)を望む状況だ。自分が生き続けるために、どこかの誰かの死を願うという状況なのである。

 純粋に、「利己的」な状況と言うことが出来るだろう。自分が願わぬ自身の死と交換に、他者の死(他者も自身の死など望まぬはずであろうに)を願うという状況だ。

 患者が幼児である場合、どこかの幼児の死を願うのは、患者である幼児自身ではなくその家族=両親であろう。自らの愛する子供の生の存続への希望は、どこかの誰かの愛する子供の死への期待の上にのみ成り立つものなのである。そこにあるのは、実に純粋な利己的な心情であろう。

 

 一方で、脳死状態に直面した幼児の家族に要求されるのは、長期脳死状態をもたらすかも知れぬ医療の継続ではなく、脳死を自らの愛する子供の死として受け入れ、どこかの誰かの愛する子供のための臓器提供に同意することとなるわけである。ここでは、自らの愛する子供の延命治療の継続を求めることは否定されるべき利己的な行為として評価され、一方的な利他性のみが要求されることになるだろう。

 

 

 「臓器移植法改正案」及びその「修正案」が生み出すのは、このような構図の中に追い込まれる、現行法より多くの患者であり家族の姿である。レシピエントの側も、ドナーとされる側も、患者も家族も共に、このような倫理的困難の中に追い込まれて行くことになるのである。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/06 23:09 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/109310

 

 

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2009年7月 4日 (土)

老眼と自己決定 (17) 脳死を生きる 10

 2009年6月18日に衆議院本会議で可決された「臓器移植法改正案(いわゆるA案)」は、

  脳死を人の死とし、本人の拒否の意思表示がなければ家族の同意で年齢に関係なく臓器提供を可能とする

というものであった。現行法からの変更点は、

1) 脳死を一律に人の死とする
2) 本人の意思が明らかでない場合、家族の同意のみで臓器提供を可能とする
3) 臓器提供者への年齢制限を撤廃する

の3点となる。それぞれに現行法では、

1) 脳死状態に陥った際の臓器提供への本人の事前の意思表示が明らかである場合にのみ、脳死を本人の死とする
2) 本人の事前の意思表示に加え、家族の同意を得て、臓器提供を可能とする
3) 15歳以下の臓器提供は禁止する

ということになる。

 現行法を支えているのは、自己決定権の尊重という理念であろう。

 1)及び 2)は、脳死状態での臓器提供に関する本人の事前の明確な意思表明の存在を前提とし、その意思の尊重という形式で、脳死を本人の死とし、脳死状態の身体からの臓器提供を可能としているわけである。

 3)は、自己決定の責任能力という観点から、15歳以下を脳死臓器提供者から除外していることになる。

 それに対し、改正案の 1)は、法的な「死」の定義そのものを、心臓死から脳死へと変更しようとするものである。法的であるということは、社会的合意としての死の定義の変更であることを意味する。これは、現行法では、死の時点が自己決定の対象とされていることも意味するわけだ。

 改正案の 2)は、現行法では本人の積極的な事前の意思表示の存在を臓器提供の要件としていたのに対し、本人の事前の意思が不明であっても家族の同意のみで臓器提供を可能にするものである。つまり、改正案では、本人の自己決定権の尊重という理念が著しく後退していることを示している。

 改正案の 3)は、自己決定能力の存在を問わずに臓器提供が可能にされているということを意味するものだ。

 

 

 参議院に議論の場が移された現実の国会では、民主、共産、社民、国民新各党などの(野党)有志議員が「子ども脳死臨調設置法案」を既に提出しているのに加え、

 

 自民党の参院有志議員は2日、衆院を通過した臓器移植法改正案のA案の修正案を来週にも参院に提出することを決めた。

 脳死を「人の死」としている点を改め、現行と同じく臓器提供時に限って人の死とする内容だ。

 修正を検討しているのは、自民党の古川俊治参院議員ら。A案は衆院で可決されたものの、脳死を人の死とすることには依然、慎重意見が根強いと見て、修正により支持を広げる考えだ。子どもへの臓器移植を可能にするため、臓器提供の年齢制限を撤廃する規定は維持する。野党にも賛同者を広げ、早ければ7日にも参院に提出したい考えだ。
 (読売新聞 2009年7月2日 20時25分 → http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090702-OYT1T00828.htm

 

と報道されている。

 参院自民有志修正案は、脳死を一律に人の死とするという、衆院での改正案(A案)を後退させるものとなっている。その点では、本人の自己決定権の尊重という現行法の理念に立ち戻っているように見えるが、2)と 3)では衆院の改正案が維持されており、実質的には、自己決定権の尊重という論理は放棄されているのである。

 野党有志議員による「子ども脳死臨調設置法案」について言えば、その背景には、これまでも繰り返し言及して来た、長期脳死者の存在がある。その意味で、必要な手続きであると言えよう。

 自民党議員による修正案の方は、一律に脳死を人の死としてしまうことについて、社会的合意が獲得されていないという現状認識が生み出したものだろう。その意味では、社会の現状への配慮として評価出来るようにも見えるが、実質的には、「A案」の根幹は維持されているのである。

 要するに、参院自民有志修正案では、1)に関しての「自己決定権の尊重」を復活させているように見えるが、脳死状態における臓器提供の決定権を本人ではなく家族にしているのが実態であり、本人の自己決定権への配慮は存在しないに等しい。

 

 

…と、長々と書いて来たが、そもそも、死の時点とは社会的合意にこそ属するものであり、自己決定の対象ではないのである。

 全細胞死の時点をオレの死としてくれ、あるいは53歳の誕生日に死んだことにしてくれ、なんて意思は尊重されることは決してないのである(尊重すれば、法的に処罰されるだけだ)。生体の辿る連続的過程における死の時点は、社会的に定義されるものなのであり、自己決定することは、原理的に不可能なのである。

 その意味で、現行法と参院自民有志修正案における 1)の規定は、本来的な「法」という体系になじむものではない。

 脳死状態の人間を死体として取り扱うことにより、脳死者からの臓器提供を可能にするという目的が生み出した言葉のマジックと考えることが妥当に思えるのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/03 22:40 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/108988

 

 

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2009年7月 3日 (金)

老眼と自己決定 (16) 脳死を生きる 9

 昨日は、再び、「脳死を人の死とし」てしまうことへの疑念を述べた。

 

 「長期脳死」状態をどのように考えるのか、あるいは「脳死体」が外部刺激に対し示す反応をどのように解釈するのか、といった問題は、現行の臓器移植法成立後に、私たちの視野に入ってきたものであろう。そのような知見が、現在の脳死の定義や脳死判定に対する疑念を呼び起こしてしまうわけだ。

 そこに生まれるのは、脳死者の身体を死体として取り扱ってしまうことへの疑念、ということになる。

 

 

 いずれにせよ、その根底には、脳の機能の廃絶をもって人の死とするという発想が存在する。それは、人という存在、人間という存在の生死の判断を、身体全体の機能の状態からするのではなく、脳の機能状態の判定にのみ依存させることを意味するのである。

 脳という臓器の機能状態が、生死の判断を決定してしまうのである。

 つまり、人が生きていることは、その脳が機能している状態として記述されることになる。

 人生の途上で後天的に起きる脳の機能の喪失。それが脳死なのであり、それを人の死として一般化しようとするのが、衆議院本会議で6月18日に可決された、臓器移植法改正案なのである。

 

 

 

 さて、これまでにも、ナチスの障害者安楽死政策について論じて来た。

 ナチス時代に先立つワイマール期に出版された、法律家カール=ビンディングと医師アルフレート=ホッへの共著になる、『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(1920)では、

 1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
 2)治療不能な知的障害者
 3)瀕死の重傷者
 

の3つのケースが、法律家カール=ビンディングにより、安楽死の対象として想定・検討され、2)のケースが特に精神科の医師アルフレート=ホッへによる考察の対象となり、ホッヘは知的障害者への積極的安楽死政策の提言者となったわけである。

 小俣和一郎の言葉を借りれば、

 ホッヘは、精神医学の立場からどのような患者が安楽死の対象となるのか、について詳述している。その際彼は、「精神的に死んだ状態」の有無を最大の引照基準としている(ホッヘによれば治癒不能の精神障害者の大部分がこれに該当する)。そしてこの精神的死の状態を、さらにつぎの二つのグループに分類している。

 第一群 : 脳の老年性変化、いわゆる脳軟化症(麻痺性痴呆)、脳動脈硬化性病変、若年性の痴呆過程(早発痴呆)
 第二群 : 先天性あるいは生後早期に出現する脳疾患(脳の奇形・発育異常にともなう精神薄弱およびてんかん)

 また、ホッヘはこの著作のなかで、のちにナチスによって抹殺されることになる犠牲者を指し示す二つの新語を作り出した。ひとつはこの「精神的死者」、もうひとつは「お荷物」(Ballastexistenz)である。
 (『精神医学とナチズム』 講談社現代新書 1997)

という議論が、ホッヘにより展開されたわけだ。

 

 安楽死の対象として、ビンディングにより指定されたのは、「治療不能な知的障害者」であり、ホッヘによれば、それは彼らが精神的に死んだ状態にある「精神的死者」だからであった。

 

 やがて、ナチスの政権下で、精神障害者に対する安楽死が、実際の政策として実行されることになる。

 精神的に死んだ状態にあると定義された者は、安楽死させられることにより、実際に死んだ者へと変換されるのである。直接的表現を用いれば、そこでは、精神障害者は、国家の政策により、「殺される」のである。

 「治療不能な知的障害者」という、ビンディングにより示された当初の枠組みは簡単に乗り越えられ、広範な精神障害者が安楽死の対象とされ、殺されたのであった。

 

 

 今回の臓器移植法改正案では、脳の機能の廃絶状態と判定された患者は脳死者なのであり、既に死んでいることになる。患者は既に死んでいるのだから、臓器の摘出により死ぬことはない。たとえ臓器摘出時に脳死者が暴れようが、それは既に死体なのだから、臓器摘出は殺人行為ではない。

 脳の機能が廃絶した「精神的死者」は、既に死者そのものなのであり、安楽死させる必要もないわけである。

 

 ナチスの採用した障害者への安楽死というアイディアの論理と、脳死体からの臓器摘出を可能にするためのアイディアを支える用語を混同することは、もちろん、誤りである。

 しかし、そこに親和性を見出すことが出来るのも事実であろう。

 

 脳の機能の喪失状態を、生から死への転換の指標とすることにおいて、その発想は大きく異なるようには思えない。

 

 その発想の妥当性には、まだ議論の余地があるように見えるし、ナチスにおける安楽死対象の拡大は、今回の「改正案」における脳死認定対象の拡大に対応するところがあるようにも思える。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/02 22:36 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/108897

 

 

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2009年7月 2日 (木)

老眼と自己決定 (15) 脳死を生きる 8

 脳死を人の死とすることにより、脳死状態の人間を死者として取り扱うことが可能となり、死体である脳死者の身体からの臓器の切除・摘出が殺人行為ではない合法的行為であることが保証され、脳死者からの臓器移植が医療行為として社会に受け入れらることを期待する人々の要求は、確かに、満たされるだろう。

 要するに、脳死状態の人間からの臓器の切除・摘出の合法性の確保が、現行の臓器移植法を「改正」し、「脳死を人の死とし」ようとすることの動機なのである。

 それに対し、長期脳死者の存在、「ラザロ徴候群」や、脳死体からの臓器の取り出し時に見られる脳死体の反応等の事例は、脳死状態の人間を死体として取り扱ってしまうことへの疑念を呼び起こすものであった。

 

 私も、池田清彦が書いている、

 執刀している医者たちが一番嫌うのは、脳死者から臓器を摘出するときに、苦しがってバタバタ暴れているようにしか見えない行動が出現する場合だ。脳が死んでいるから、その人は苦しんでいないというが、本当かどうかはわからない。脳死者から臓器を取り出すときに脳死者に麻酔をかけなければ、暴れてうまく手術が行えない事実こそは、脳死と言われているものが本当の死ではない証拠のように私には思える。
 (『脳死臓器移植は正しいか』 角川ソフィア文庫 2006)

という、「臓器摘出時の脳死体の反応」とでも呼ぶべき事例を前にして、この「反応」の主体を「死体」と認定することの正当性を素直に受け入れることの難しさに直面してしまう。私の素朴な感覚で言えば、外部からの行為への無反応状態こそが「死体」であることの条件であり、外部からの働きかけへの反応の存在は、反応の主体が「生体」であることを意味するものとして理解されてしまうのである。

 そのような理解からは、脳死状態の人間からの臓器の切除・摘出は、脳死状態の人間への殺人行為そのものとなるだろう。脳死臓器移植「医療」で焦点となっている臓器は心臓なのであり、心臓の摘出が脳死状態の人間(と言うよりすべての人間)に死をもたらすことには議論の余地はないはずだ。

 

 生物の死とは、連続的な過程として記述されるものなのであり、伝統的に受け入れられて来た「心臓死」の時点から「全細胞死」に至るまでにもタイムラグは存在する。そのような意味で、生物の死の時点とは、自然に属する問題ではなく、社会的合意に属する問題なのである。

 池田清彦の著書の事例は、「脳死者」からの臓器摘出の際に「脳死者」が示す反応を、「死体」からの臓器摘出の際に「死体」が示す反応として記述することが正しいのかどうか、「生体」からの臓器摘出の際に「生体」が示す反応と解釈することが誤りであるのかどうかという問題として、一度は考えておくべき必要があるものと思う。医学的・生理学的な検証の必要性が、まだまだ多く残されている事例に見えるのだ。

 

 自分自身が脳死状態に陥り、臓器摘出の瞬間になって苦しい目に遭っても、その時点では遅すぎるのである。実際に既に死んでいるので、そうはならないのかも知れないが、なってしまう可能性を排除出来ないのが現状なのである。

 社会的合意として「脳死を人の死とし」てしまうことは難しいことではないのだろうが、それが、まだ生きている患者からの臓器摘出による殺人の実行への社会的合意とならないという保証はないように思える。

 国会での議論は、あまりに不十分と言わざるをえないのである。

 

 木村敏の言う通り、脳死体からの臓器移植「医療」の実現は、脳死臓器移植以外に健康の維持回復の望みのない患者に、脳死状態の患者=死者の発生への期待を持つことを(結果として)強いるものとなる。既に病魔に追い詰められた患者を、更に他人の死を期待する心理状態へと追い詰めることになるのである。

 その上で、これまで述べた、「脳死を人の死とし」てしまうことへの疑念を考え合わせれば、既に病魔に追い詰められた患者が追い詰められるのは、他者への殺人と交換に獲得出来る自らの健康と表現するしかない、実に追い詰められた状況なのである。

 

 

 人の死の時点、それは社会的合意により判定されるものだ。

 人の死体の利用の適切性の判断も、社会的合意に依存する。

 それが社会的合意であることの意味は、その判定・判断が人類に(あるいは人類を超えて)普遍的で不変のものではなく、ある時代のある文化に限定された(恣意的な)ものだということなのである。

 だからこそ判定・判断基準の変更は可能なのであり、現在の私たちも、その変更の方向性の議論の渦中にあるわけだ。しかし、そこには必要とされるはずの慎重さが見出せない。

 

 現状の議論からは、それが臓器欲しさからの殺人の容認という構図とはならないことへの努力を見出すことは難しいのではないか?

 

 

 

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

という問いは、まだ続くことになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/07/01 22:48 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/108775

 

 

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2009年6月30日 (火)

老眼と自己決定 (14) 脳死を生きる 7

 前回は、

  脳の機能の廃絶

  精神的に死んだ状態

という表現の意味するところを考えてみたわけだ。

 前者は、それをもって対象(患者)を「脳死」と判定し、脳死をもって人の死とする途を拓くものである。

 後者は、それをもって対象(患者)を「生きるに値しない命」と認定し、安楽死の実行への途を拓くものであった。

 前者は、そもそも脳死体からの臓器移植という「医療行為」の実現という目的の前提としてクローズアップされることになった、ある条件化で人間にもたらされる状態である。

 後者は、障害者に対する福祉経費削減という国家経済政策上の要請を満たすという目的の実現の前提としてクローズアップされた、ある条件を生きる人間の様態である。

 前者は、現代の日本でクローズアップされている問題であり、後者はナチス時代のドイツ(もっとも、議論が始まったのはワイマール期の破滅的な経済状況の中であったが)でクローズアップされた問題であった。

 前者では、つまるところ脳死者の「死体」の資源化が目指され、後者では、資源を消費する「精神的に死んだ状態」の人間の廃棄が目指されていたわけである。

 

 

  人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

という問いを背景に潜ませながら、脳死と脳死体からの臓器移植医療を考え続けている。

 

 前回はナチスドイツにおいて、「精神的に死んだ状態」にあると認定される対象が、政策の具体化と共に拡大していく過程を追ってみた。

 

 現在の日本では、脳死臓器移植の臓器提供者(ドナー)となりうる対象の拡大が図られている(謀られている、と書くべきであろうか?)。

 これまでは、当人が「脳死体」となる以前に、当人により積極的に示された意志の存在が、ドナーとなる(される)ための条件であった。そこには、当人の自己決定権の尊重という理念を見出すことが出来るだろう。現行法を支えているのは、自己決定権の上に存在するドナーという論理である。

 それに対し、現在、議論の対象となっている「臓器移植改正案」では、当人による積極的否定の意思表示が無い限り、家族の同意のみでドナーとする(される)ことになってしまう。当人の自己決定権の尊重という当初の理念は、著しく後退しているのである。

 そこには、ドナー不足により、脳死体からの臓器移植「医療」が普及していないという現行法施行後の日本の現実がある。脳死体からの臓器移植「医療」の推進のためには、脳死体の確保が必要なのである。潜在的脳死体としての日本国民の多くが、自身の自己決定によりドナーとなることを志願しないという現実を前にして、自己決定権の尊重という当初の理念の放棄に至ったのが、脳死体からの臓器移植「医療」推進派の現状、ということになる。

 

 ここでもう一度、ナチスの障害者に対する安楽死政策の歴史を思い起こしてみたい。

 精神障害者へのガス殺の実施は極秘の政策であったのだが、その現状を知った宗教者からの抗議で中止されることになる。その間、1940年1月に開始されたドイツ国内における精神障害者のガス殺は、中止される1941年8月までに7万273名の犠牲者を出すことになった(しかし、それとは別に、薬物注射、計画的な餓死による殺害が実施されており、そちらは続行されるのであるが)。

 ガスによる大量殺害の手法は、ユダヤ人を対象とした絶滅収容所の稼動により、精神障害者の安楽死からユダヤ人の抹殺技術へとシフトし、引き継がれることになる。ユダヤ人に対する、ガス室での大量殺人は、精神障害者安楽死技術の拡大形なのである。

 

 精神障害者の安楽死の目的は、福祉費用削減であり、「精神的に死んだ状態」の人間による資源消費の抑制が目指されていたことは既に説明した。

 それに対し、ユダヤ人を対象にした大量ガス殺人は、死体の資源化という現象をも生み出すものであった。ユダヤ人の死体からの石鹸製造とは、まさに死体の資源化の一例なのである。

 

 

 ここでは、死体を資源として考えること自体を否定しようとは思わない。それは生死観の問題、人間の死体への評価の仕方という文化的問題なのであり、それ自体は別の問題として考えるべきであろう。

 ただ、死体を資源と考えることは、より多くの死体への需要を生み出してしまう可能性をはらむのである。より多くの死体が求められてしまう世界。

 

 「脳死臓器移植法改正案」が、より多くの脳死体を確保するための法改正案であることは、私には否定し難いのである。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2009/06/29 22:30 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/108563

 

 

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2009年6月27日 (土)

老眼と自己決定 (13) 脳死を生きる 6

 脳死状態の人間を死者として取り扱うことにより、つまり、たとえ心臓が動き身体が温かくとも、人工呼吸器を着けベッドの上に横たわる人物を死体と認定することにより、臓器の切除利用が可能となる。

 つまり、脳の機能の廃絶の判定に基き、まだ心臓が動いている身体からの臓器摘出を可能にするのが、「脳死を人の死とし」てしまう、新たな死の定義なのであった。

 

 「脳死」の定義の特異性は、「心臓死」=人の死とする伝統的な生死観の上ではまだ生きている患者を、既に死んでいるものとみなしてしまうところにある。

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

という問いに関連させれば、人の死を決定するのは社会的合意なのであり、現在の日本社会では、「脳死を人の死とし」てしまうことへの合意形成への試みが、まさに進行中なのである。

 

 

 

 脳の機能の廃絶=死という定式化がここにあるわけだ。つまり、人間が生きていることを、脳が機能している状態として定義するわけである。

 ここで再び、私たちは、あのカール=ビンディング(法学者)とアルフレート=ホッへ(精神医学者)の共著になる『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(1920)を思い出すことになる。

 同書が手元にないので(友人のところへ出張中)、ここでは小俣和一郎『精神医学とナチズム』(講談社現代新書 1997)の同書に関する記述を引用しておくと、

 

 このなかでビンディングは、「正当な基準」(死期が目前に迫っていること、および治癒回復の見込みがないこと、の二点)が満たされさえすれば、(当時の)法的規制はおのずと解除され、安楽死は容認される、との主張を展開している。一方、ホッヘは、精神医学の立場からどのような患者が安楽死の対象となるのか、について詳述している。その際彼は、「精神的に死んだ状態」の有無を最大の引照基準としている(ホッヘによれば治癒不能の精神障害者の大部分がこれに該当する)。そしてこの精神的死の状態を、さらにつぎの二つのグループに分類している。

 第一群 : 脳の老年性変化、いわゆる脳軟化症(麻痺性痴呆)、脳動脈硬化性病変、若年性の痴呆過程(早発痴呆)
 第二群 : 先天性あるいは生後早期に出現する脳疾患(脳の奇形・発育異常にともなう精神薄弱およびてんかん)

 また、ホッヘはこの著作のなかで、のちにナチスによって抹殺されることになる犠牲者を指し示す二つの新語を作り出した。ひとつはこの「精神的死者」、もうひとつは「お荷物」(Ballastexistenz)である。

 この書物がナチ政権の安楽死計画にどの程度の影響を及ぼしたのかについては、今日なおいくつかの議論がある。しかしながらナチスによってのちに好んで使用された「価値なき生命(レーベンスウンヴェルト)」という呼び方は、この書のタイトルに由来している。

 

ということになる。

 ここでホッヘは、「精神的に死んだ状態」の患者を安楽死の対象として主張したわけである。

 現代の脳死論議とは別の話であることも確かではあるが、しかし相似形の問題がそこにあることも否定出来ない。

 

 「脳死を人の死とし」てしまうということは、「精神的に死んだ状態」にある患者を安楽死の対象とするまでもなく、既に死んだものとして取り扱うことを意味してもいるのである。

 

 

 小俣和一郎が言及しているナチ政権の安楽死計画について言えば、1939年8月18日の「遺伝性および先天性重症患児の登録に関する帝国委員会」の極秘通達では、

1、白痴及び蒙古症(とくに盲目または聾を合併している場合)
2、小頭症
3、水頭症(重症ないし進行度の高いもの)
4、すべての奇形、とくに四肢の欠損、重度の頭裂蓋および脊椎裂など
5、リットル病を含む種々の麻痺

という登録すべき障害の条件を示していた。

 1939年9月1日のポーランド侵攻に伴い、ナチス・ドイツはポーランド国内の精神病院入院患者の殺害を実行する。

 ドイツ国内に関しては、9月21日の精神病院施設登録に始まる「精神病院帝国作業委員(RAG)」の活動の一環として、安楽死対象者の判定基準が示されることになる。そこでは、

労働能力の有無
診断名(精神分裂病=統合失調症、てんかん、老年性疾患、梅毒性疾患、精神薄弱、神経疾患の終末状態)
5年以上の入院期間、
犯罪歴の有無、
人種

が鑑定医によって判定され、安楽死対象として選別された患者は安楽死施設に移送され、実際にガス殺の対象となったのである。

 

 「精神的に死んだ状態」と判断され、安楽死の対象とされた患者の範囲の急速な拡大をそこに見ることが出来るだろう。

  

 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

という問いかけに立ち戻れば、社会的合意というものの恣意性を、ビンディングとホッヘの著書からナチスの安楽死政策の実行への展開史(その対象の拡大)を追うことで理解しておくことは無駄ではないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 2009/06/26 22:52 → http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/108259

 

 

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