2017年8月12日 (土)

芦原義信のテニスコート

 

 

  ニューギニアで飛行場の建設をしたが、飛行機が一機も飛来しないうちに米軍の攻撃を受け、使い物にならなくなった。引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした。
     (『芦原義信 建築アーカイブ展 ―モダニズムにかけた夢』 武蔵野美術大学 美術館・図書館 2017  154ページ)

 

 

 「芦原義信 建築アーカイブ展 ―モダニズムにかけた夢」の図録、「芦原義信略年譜」の1942年の項にあるエピソードである。もっとも、その出来事が同年の話なのかどうかは判然としないところが残るが、海軍の技術士官として飛行場の建設に関わり、「引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした」顛末は印象深い。

 展示会場(展示会場となっている「美術館」自体が―増改築はされているが―そもそもは1967年に芦原義信により、展示室を含む「図書館棟」として設計されたものだ)にあった「略年譜」にもこの顛末は掲載されており、武蔵野美術大学のキャンパス計画の骨格の作成者であり、キャンパス内の代表的な建物群の設計者でもある芦原の戦時期のエピソードとして、建築作品の背後にある芦原の人物像を(私の中で)決定付けるものとなった。

 

 「略年譜」によれば、1918年生まれの芦原義信は、1940年4月に東京帝国大学工学部建築学科に入学、1942年9月に卒業し「海軍技術士官として入隊、各種建築(橋梁、飛行場等の計画・実施)を担当」となっている。

 東京帝大出身の若き技術士官と軍医の組合せによる「滑走路でテニス」には、両者の出身階層が反映されているようにも思われ、私の関心を引いたのである。

 

 「略年譜」の出生年の項には、

  医者の父、信之の五男。兄に舞台・音楽評論家の芦原英了、母方の叔父に画家の藤田嗣治がいる

このようにも記されており、芦原が(当時の用語で言えば)「有産階級」の出身者であることは明らかであろう。医科系大学出身者の任官する「軍医」もまた、軍隊内では士官待遇を受ける存在であり、東京帝大出身者芦原と同一階層に属する人物と推測され得る。当時の用語法では、「有産階級」(いわゆる「成金」は除いての話だが)には「知識階級」と呼ばれる場面もあり、そこには大学における高等教育を受ける「階層」であることが含意されている。その「技術士官」と「軍医」の組合せによる「テニス」なのである。義務教育だけの階層、すなわち庶民の多くには、「テニス」は無縁のスポーツであったはずである。

 

 芦原の「出身階層」をさらに際立たせるエピソードが、同展図録の「武蔵野美術大学赴任までのこと」と題された夫人の芦原初子氏へのインタビュー記事にある。

 

  主人と初めて出会ったのは軽井沢でした。ちょうど主人が東大に入った頃です。私の兄がずっと成城で、主人は高校だけ成城でしたので知ってはいたんですね。そして成城時代の兄の親しい友達が主人とも親しくて、軽井沢に来たときに主人を連れてうちに遊びにいらしたんです。二人で馬に乗ってね(笑)。それで一目合ったらもう、パッと両方で惚れちゃって。翌日から主人は友達そっちのけで毎日のようにやって来るんですよ。それで一緒にトランプなんかして、それが始まりですね。私がしばらく津田塾の寄宿舎にいたものですから、ラブレターがいっぱい来てましたよ。
     (同展図録 103ページ)

 

両者が軽井沢に別荘を持ち、避暑の地とするような階層に属していたことが、あらためて明らかになるはずだ。まさに「良家の子女」同士の出会いのエピソードである(現在の天皇夫妻の初めての出会いの場が、十数年後の軽井沢のテニスコートであった事実もが思い起こされる)。再確認しておくと、「主人と初めて出会ったのは軽井沢でした。ちょうど主人が東大に入った頃です」というエピソードは、1940(昭和15)年前後ということになり、1937(昭和12)年の盧溝橋事件以来(継続する「支那事変」下で)の「戦時期日本」での話なのである。

 

 

 ここで、この時期(すなわち「戦時日本」である)に、別荘地に無縁な階層の底辺が置かれていた「住まい」に関する状況を見ておこう。

 

  昭和13年当時の厚生省生活課技師の報告によると、「先般各地軍需工場地帯に於ける労務者の居住状況を視る機会を得て、痛感した事は、労務者殊に農村から見習工として集まって来た人々に住居の欠乏していることである。例えば、4畳半に4人、6畳に6人と云ふ過密状況が各所に見られ、或は15坪以上もある広い部屋を急設して、採光通風等考慮せず、唯寝る場所を与へて押入れもない室内に寝具、荷物を散乱させ、20~30名の新人工が合宿している。所謂万年床は随所にあり、殊に夜勤者が昼間強い日光を浴び乍ら寝苦しさうな様を見て、斯かる状態は長期戦のもとに何時迄も黙過出来ぬことと痛感した。徒に生理的欲求を斥けることなく、疲労恢復に適する最小限の住居と、体力を維持増進するに足る栄養の供給とは、殊に銃後の第一線を守る軍需工場労務者には、確固たる方針を以つて之が万全を期すべきである。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  433ページ)

 

別荘地での避暑(そしてテニス)とは無縁の、戦時期日本の軍需産業の「労務者」の姿が明らかになるだろう。すなわち、当時の用語法での「無産階級」の現実である。

 

 

 もちろん、軍需生産の拡大は至上命令であり、労務者の居住環境の改善の必要性も、当時の重要な政策課題として意識されていた。

 

  戦時下における「産業戦士」たる労務者に対する住宅の供給は、戦争目的完遂に直接寄与するもので、最大の課題であった。
  昭和14年度においては厚生省を中心として、企画院、大蔵、商工、農林、内務、陸・海軍等の関係省庁の協議のもとに労務者住宅供給3ヵ年計画(昭和14年8月2日)が樹立された。これは軍需ならびに生産力拡充3ヵ年計画(昭和14年1月17日)による労務動員に対応したもので昭和14年度より16年度に至る3ヵ年計画である。
     大本圭野前掲論文(434ページ)

 

こうして第一期(14年度)住宅計画がスタートするが、既に肝心の建築資材の入手難(実は建築用の木材の供給源もまた米国であった―いわゆる「米材」である―のだが、対米戦争以前のこの段階で既に「外貨不足」に直面しており、木材についても輸入制限が必要となった)に陥っており、計画の実現は最初から困難となっていた。

 その流れの中で、昭和14年2月23日には「従来、住宅諸政策は厚生省社会局生活課の中で取り扱われていたが、以上の必要から独立した住宅課を設置」するに至り、更に昭和16年5月1日には「住宅営団」が設立される。

 

  住宅営団が初年度の『昭和16年度事業計画』の冒頭で掲げた目標は「三万戸ノ建設完遂」であり、「陸海軍関係労務者住宅ノ需要ヲ相当充足スルト共ニ、主トシテ都市ニ於ケル軍需及生産力拡充事業関係労務者ニ対シ、保健的ナル小住宅ノ急速供給ヲ為シ以テ時局ノ緊急ナル要請ニ応ズル」ことを目指した。ただし、目標の「三万戸ノ建設」の「完遂」は、年度内に3万戸〔うち東京支所1万3000戸〕の住宅を「竣工」することではなく、年度内に3万戸の住宅建設に「着手」することを指している。
     小野浩 「戦時総動員体制下の住宅供給」 (『熊本大学産業経営研究 第36号』 2017  抜粋10~11ページ)

 

そして、

 

  1941年6月、東京支所は107戸の分譲住宅の申込受付を開始した。これは東京支所の記念すべき初の分譲住宅であったが、もとは同潤会が建設に着手した「職工向分譲住宅〔板橋第二住宅地〕である。つまり、住宅営団が同潤会の事業を継承したあとに竣工したものである。
     小野浩前掲論文(11ページ)

 

つまり、首都圏では、住宅営団は同潤会の事業の継承者として業務を開始していることになる。

 

 

  同潤会は、大正13年(1924)5月23日に、関東大震災の罹災者のための住宅供給を目的として創設された日本で最初の本格的な公的住宅供給機関である。その後を住宅営団に引き継ぐ昭和16年(1941)までのおよそ18年間、普通住宅、アパートメント、分譲住宅の住宅供給及び住宅調査などの事業を行い、戦前期の住宅供給に大きな役割を果たした。
     内田青蔵・安野彰・窪田美穂子 「同潤会の木造分譲住宅事業に関する基礎的研究―遺構調査を中心に―」 (住総研 『研究年報 No.30』 2003  113ページ)

 

  同潤会の活動は大きく三期に分けることができる。すなわち、第1期(大正13年~昭和4年)は、関東大震災罹災者のために小住宅(仮住宅)を供給し、次に人々を収容・教育することを第1の目的として、また普通住宅、アパートメントハウスの建設を行った。第2期(昭和5年~昭和13年)は、勤人向分譲住宅の建設事業を中心とする一方、アパートメント居住者の調査など、実施した建築の試みの検証を行った。昭和16年の住宅営団への発展的解散までの第3期(昭和14年~昭和16年)は、日中戦争に始まる戦争体制(軍事工場の設立、工場の生産拡張)による労働者の住宅不足に対応した質より量の確保を重視した受託事業を中心に行った。
  この第2期の主な事業であった木造独立分譲住宅事業は、昭和3年~13年までの間に「勤人」を対象として建設・分譲された勤人向分譲住宅と、昭和9年~16年までの間に「職工」を対象として建設・分譲された職工向分譲住宅とに大別される。勤人向木造分譲住宅は、東京17ヶ所、神奈川3ヶ所の計20ヶ所に、合計524戸の住宅が建設された。
     同論文(114ページ)

 

ここで「勤人」として想定されているのは「ホワイトカラー」のサラリーマンで、「職工」は「ブルーカラー」の労働者と考えてよいであろう。

 

 

 さて、テニスコートである。

 

 大月敏雄氏の「まちなみ図譜・文献逍遥 其ノ十五」(『家とまちなみ 65』 2012)では、『建築寫眞類聚 木造小住宅』(洪洋社 昭和3年)により、同潤会の「普通住宅」の実際の町並みや間取りが当時の写真と図面の組合せにより紹介されている。

 特にこの中にある「表1 同潤会木造普通住宅一覧」が、まず私の興味を引いたのであった。

 そこには、『同潤会十年史』を出典として、赤羽、十條、西荻窪、荏原、大井、砂町、松江、尾久、新山下町、瀧頭、大岡、井土ヶ谷の12か所の住宅名が記載され、各住宅の付帯施設の概要も記されている。同潤会初期の「普通住宅街」には、「付帯施設」にテニスコートを含むものが、赤羽、十條、西荻窪、松江、大岡の五か所を占める事実に(少なくとも私は)驚かされた。

 

 第2期の「勤人向住宅」は、明らかにホワイトカラー・サラリーマン階層を意識した一戸建ての住宅であり、住宅街の付帯施設としてテニスコートが組み込まれていても、それほどの意外性は感じられないであろうが、二階建木造長屋形式が基本の「普通住宅」では、まだ災害からの復興住宅としての位置付けがまさり、居住者としてのホワイトカラー・サラリーマン階層が意識されての公的住宅供給政策段階には至っていないように思える。

 実際、ターゲットとした階層の反応について、「ところで、この普通住宅事業の失敗は、見方を変えれば、低所得者の間に交通費を払いながら郊外に居を構えて通勤するという方法が、まだ受け入れられていなかったことを意味するといえる」との評価(内田青蔵 『同潤会に学べ、住まいの思想とそのデザイン』 王国社 2004 ―ただし中川寛子「同潤会による品川区中延二丁目の木造長屋群がいよいよ建替えへ」からの孫引き)が示されているが、そこには普通住宅事業のターゲットが「低所得者」であったことも明記されている。

 

 「普通住宅」の付帯施設としては、「娯楽室」が最も多く(11例)、次いで「児童遊園」(9例)、他には「医院(診療所)」や「食堂」等があるが、私が注目するのは2例の「託児所」の存在である。現在であれば「保育園」だが、当時の「託児所」は、むしろ低所得者・貧困層向けの施設として位置付けられていたのであり、すなわち確かに「普通住宅」の居住者として低所得者・貧困層が想定されていたことを意味する。

 付帯施設としてのテニスコートに反映されているのは、居住者として想定される階層への配慮というよりは、設計者の階層にとってのスタンダードではなかっただろうか? テニスコートが5例あるのに対し託児所が2例にとどまるのは、低所得者・貧困層にとっての託児所の必要性・切実感が、帝大卒の設計者の間では共有されていなかった故の話とも思われる。

 

 

  当時、東京帝国大学教授であった内田祥三は、同潤会が設立されるにおよび、その理事として同潤会に関わるようになった。そしてすぐさま、弟子であった川元良一を三菱地所から引き抜き、同潤会建設部長の椅子に座らせ、幾人かの東大建築学科を出たての若者を同潤会に送り込んだ。
     大月敏雄前掲記事(66ページ)

 

 この内田祥三について「芦原義信略年譜」には、芦原義信の入学当時の東大建築学科教授陣のひとりとして名が記されている。

 

 同潤会初期の「普通住宅」の付帯施設にテニスコートを組み込んだ設計者と、戦時下のニューギニアで放棄することになった飛行場の滑走路でテニスをした芦原義信は、同じ東大建築学科に所属した同一階層出身者であったことが理解されるであろう。

 もちろん、有産階級出身者でなくとも学歴による階層の上昇が可能であった時代の話である。旧制高校から帝大のコースへの参入は元々の出身階層からの離脱・上昇をもたらすが、そこでは上位階層の価値観・生活様式の内面化も果たされ、テニスコートのある生活様式も内面化されるわけである。

 先の託児所の話にからめて言えば、別荘を持つような有産階級の幼子が通うとすればそれは「託児所」ではなく「幼稚園」であった。

 無産者ではないにしても別荘は持たない家に生まれ、それでも旧制高校から大学へ進み、(官吏であれ会社員であれ)ホワイトカラー・サラリーマンとなり得た人々の結婚後の住まいとして想定されていたのが、まさに同潤会の「勤人向住宅」であったと言えよう。子どもが生まれれば幼稚園に通わせるのが、「勤人向住宅」の住人となった人々のモデルとなる生活様式であり、まさに『コドモアサヒ』の誌面に描かれた生活様式である。そこに示された生活水準を到達すべきモデルとすることから始まり、子どもを介した読者として生活様式を内面化し、昇進と収入の増加が『コドモアサヒ』の世界を現実化する。そんな勤人向住宅の居住者たちこそ、理想的な(あるいは典型的な)『コドモアサヒ』の購読者層であったかも知れない(「「コドモアサヒの時代」展を観る」を参照―昭和16年の連載記事の一つが、木村きよしによる「幼稚園メグリ」シリーズであった)。

 

 芦原は1972年に「KPIタウン造成」(企業社宅としての集団住宅群である)に関わっているが、起伏のある広大な敷地に設計・建築された住宅群の付帯施設としてサッカー場、バスケットコートと共にテニスコートを用意している。ここでの芦原は、テニスコートのある生活を既に内面化した1970年代のサラリーマン家族のために、テニスコートのある企業社宅街を設計したことになる(ちなみに、高低差のある敷地に建設された地上4階の家族向け住宅群には、武蔵野美術大学7号館と同様の設計上の仕掛けが施されている点も興味深かった)。

 

 

 

 さて、芦原義信は「ニューギニアで飛行場の建設をしたが、飛行機が一機も飛来しないうちに米軍の攻撃を受け、使い物にならなくなった。引き上げ間際、一度も使わないのは残念だということで軍医と二人でこの滑走路でテニスをした」わけだが、芦原と軍医は自ら建設した飛行場をテニスコートに転用したことになる。設計者の意図を超えた建築設備の転用は珍しいことではないだろうが、ここでの芦原の行為もその事例に加えられ得るであろう。一方で、芦原の先輩格となる同潤会普通住宅の設計者がプランに組み込んだテニスコートも、戦争の苛烈化に伴い食糧増産のために農地に転用された可能性は大きい。滑走路がテニスコートとなり、テニスコートが農園となる。これもまた戦時期の日本の経験であった。

 

 最後に再び「略年譜」に戻ろう。

 1945年9月、27歳の芦原義信は「海軍技術大尉から復員」する。多くの戦死・戦病死者(その大半が餓死である)を出したニューギニアに一度は配属されながらも内地へ転属となり、最終的に「復員」を果たし得たことは実に幸運なことであった―芦原も自身の幸運について深い思いを抱いたであろう。復員した芦原の前にあったのは戦災により「焼け野原」となった東京であった。「戦時期日本」は「敗戦」(当時は「終戦」と呼ばれたが)により「戦後」の時間を迎える。

 大震災により「焼け野原」となった東京の「復興」を記念して「帝都復興記念式典」が開催されたのが1930(昭和5)年、「復興記念館」が建てられたのが1931(昭和6)年のことであり、まさに同潤会が「復興」に重点を置いた罹災者向けの「普通住宅」から、ホワイトカラー・サラリーマンをターゲットとした「勤人向住宅」建設へとシフトした時期に重なる。同潤会の住宅の多くは(当時の)郊外に建設されたために戦災を免れたが、都心は都市無差別爆撃によって(再び)「焼け野原」となっていたのである。すなわち、「戦後」の東京は再び「復興」されるべき都市となっていたのである。

 1946年2月、芦原は「東京都復興計画懸賞設計に佳作入選」を果たす。「略年譜」には、「新宿をテーマに設計した。この入選が建築家に戻る契機となった」とある。この「東京都復興計画」が、「滑走路でテニスをした」海軍技術士官であった芦原義信の建築家としての「戦後」のスタートであった。

 あらためて振り返れば、1972年の「KPIタウン造成」に組み込まれたテニスコートは、「戦後」の時間の経過、「復興期」としての「戦後」が既に過去のものとなったことを象徴的に示すもののようにも見える。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/08/12 19:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/310306/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月 4日 (火)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)

 

 前回記事(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」)の書き出しは「昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて」であったが、「多摩」と「武蔵野」をどのように使い分けるのかについて(どのように使い分けられているのかについて)、あらためてここで記しておきたい。

 

 「多摩」と「武蔵野」を政治的な視点(特に行政区分の視点)、すなわち人間にとっての「歴史」の問題として捉えようとする際にも、「人間にとっての歴史」のいわば基底となる自然史の問題、具体的には地形的特質の問題(自然景観の形成の視点)として考えようとするに際しても、「多摩」と「武蔵野」は用語として異なった様相を示すこと(時には包含関係が反転する)に、まず注意が必要である。

 歴史的には(行政区分上の問題としては)、古代においては「多摩郡」は「武蔵の国」の一部であった。すなわち「多摩」は「武蔵」に包含される地域名称であった。

 近代における行政上の名称としては、北多摩郡と南多摩郡と西多摩郡(合わせて「三多摩」とも呼ばれる)によって構成される「多摩」地域は、東京府下であった時代から東京都下となった時代(昭和18年より)を通して存在する。一方で「武蔵」の語を冠した「武蔵野」は広域名称としてではなく、「北多摩郡」内の「武蔵野町」(現・武蔵野市)を表すものとして用いられるものであったし、「武蔵小金井」駅(交通行政に関わる名称)は同じ「北多摩郡」内の「小金井町」(現・小金井市)にある駅名であった。すなわち、「武蔵」を冠する行政上の地域名称は、より広域の「多摩」に包含されているのである。

 

 一方で、自然史の視点から(地形的特質から)東京府下及び東京都下の「多摩」地域を語る際の用語法について言えば、「多摩」地域の中心に位置するのは「多摩川」の北にひろがる広大な「武蔵野台地」(「多摩川」が青梅を扇頂とする扇状地を形成することで成立―北端となるのは埼玉県の川越―それほどに「広大」な地域)であり、その南に流れる「多摩川」の南岸の丘陵地帯が「多摩丘陵」と呼ばれている。どちらも、行政区分としての東京府、東京都の境界を越えて(武蔵野台地は埼玉県域に続き、多摩丘陵は神奈川県域に続く―行政上の名称としては神奈川県の川崎市には「多摩区」があり、埼玉県には「武蔵浦和」の駅名もある)更に広がる自然景観として位置付けられている。ちなみに気象庁が発表する気象警報・注意報発令に際しては、「東京地方」は23区東部、23区西部、多摩北部、多摩西部、多摩南部に分割され、多摩北部はかつての北多摩郡、多摩西部は西多摩郡、多摩南部はかつての南多摩郡に相当するものとなっているが、単にかつての行政区分を引き継いだからなのか、実際の自然条件の違いによるものなのか、興味をそそられるところではある。

 

 ここであらためて、この自然地形と星野朗氏の論考に示された、「4つの地域」の関係を整理してみよう。再び星野論文から引用すれば、

 

  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 122~124ページ

 

このように概説されていたわけだが、①の武蔵野・三鷹・田無・保谷、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江、③の立川・大和・昭和・拝島、これらはすべて多摩川流域の北側に形成された武蔵野台地上にある行政地域の名称であり、④の府中・日野・町田・稲城の中でも日野・町田・稲城のみが多摩川の南側の丘陵部(多摩丘陵)を含む行政地域である。行政区分上は、①~③と④の中の府中は北多摩郡に属し、日野・町田・稲城は南多摩郡に属する地域となっている。

 

 あらためて、平坦な台地上の北多摩地域と多摩川南岸丘陵部にある南多摩地域に、それぞれの地形を活かす形で(それぞれの自然的景観の上に)、多摩軍産複合地帯が昭和10年代を通して形成されていったことが理解されるだろう。

 

 

 

 ここからは、②の中でも現・小平市を中心とした地域の地形的特質について、武蔵野台地上の自然景観の実際の姿を示す事例として、より詳細な検討を加えてみたい(註:1)。

 

 小平市の名称である「小平」は、その母体となった開発新田である「小川村」の「小」と、周辺地域の地形的平坦さを表す「平」の組合せによるものだとされている。

 小平市内には、東西方向に(西側を上流として)「玉川上水」と呼ばれる江戸期に開削された多摩川を水源とする水路(上水道)が流れている。この人工水路の小平市付近での西端と東端の高低差はおよそ20メートルを超えるが(西端の小平市中島町付近で標高約98メートル、東端の小平市御幸町付近で標高約72メートル―ただし電子国土Webを用いての付近地表面のおおよその数値なので誤差含みの話)、その間の距離は約8キロメートルなので1000メートルあたりの標高差が約3メートルとなる。ちなみに、取り入れ口の羽村から終点の四谷までの距離が43キロメートルで標高差が約100メートルとされているから、先の数値がどこまで正確なのかは確言出来ないが、少なくとも小平地域の地形の平坦さについては把握し得るものと思う(小平市内の南北方向の標高差についても同様で、高低差は微小である)。そもそも市内に(丘や山のような)高地は存在しない―この近辺で土地の人から「山」と呼ばれたのは「高地」ではなく、「武蔵野」を象徴する「雑木林」のことであった―が、古い水源の痕跡は存在し、周囲より土地が少し低いことでかつての流路も想定可能である(平坦な台地の地形の中に、より高い土地―「小高い」という語が相当する土地―はないが、より低く位置する土地がないわけではない)。

 

 そのほぼ平坦な地形上(武蔵野台地の自然景観上)に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が次々に設立・配置されていったわけである。

 

 

 

 最後に「武蔵野」と「多摩」の名称関連の話題を付け加えておくと、武蔵野美術大学は武蔵野市(吉祥寺)が発祥の地であり、多摩美術大学が開校したのは世田谷区上野毛で、どちらも武蔵野台地上の立地であった。

 現在の武蔵野美術大学のキャンパスは、同じ武蔵野台地上の小平市内にあるが、平坦に見える地形の中にも―健常者にはあまり意識されることもないであろうが車椅子の移動では障害として意識されるであろう―高低差があり、そこにかつての水源の存在を想像させられる。

 多摩美術大学は八王子市内にもキャンパスを開設したが、こちらは視覚的にも明らかな高低差の中に建物群が展開され、そこが多摩丘陵地域内の土地であることを(そしてかつての南多摩郡内にいることを)実感させられるはずである。

 

 ちなみに、武蔵野音楽大学は存在するが、多摩音楽大学は存在しない。

 

 

 

【註:1】
 「武蔵野台地」について、基本知識を得ると同時に視覚的にイメージする上で役立つのが「武蔵野台地と野川公園」にある概説と画像である。ぜひ参考にしていただきたい。
 → http://www.geocities.jp/yamanekoforest/noyamaaruki/musasinodaiti.html

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/07/04 19:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/307967/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月29日 (木)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)

 

 昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、前回は星野朗氏の論考により、地域内の工場群の様相―地域内に軍需工場が集中している実態―についての概観を得るところまで進んだ(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)」)。すなわち「軍産複合」の中での「産」の展開状況である。星野氏は、地域を4つのグループにわけ、

 

  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 122~124ページ

 

このように、「4つの地域間には境界線を引くことは困難で、区分は考察への一つの目安である」との留保を付けた上で、各地域の特徴を明らかにしている。

 

 

 今回は、軍産複合地域を成立させる上でもう一つの重要な要素となる、軍事施設(軍の飛行場、工廠、補給廠、研究施設、教育施設、軍病院等)が実際にどのように地域内に配置されていたのかについて、すなわち「軍産複合」の中での「軍」の展開状況について、星野論文の付表等を参考としながら確かめておきたい。

 

 

 まず、①の武蔵野・三鷹・田無・保谷地域について言えば、「中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域」と要約されている通りで、軍の施設としては、田無・保谷(現在の西東京市)に陸軍兵器本廠田無教育隊が設置(1938年)されたのが目につくくらいである。

 

 次に、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江地域についてだが、「軍事施設も多い地域」とある通りで、年代別に整理すると、

 

 1938(昭和13)年

  調布飛行場用地買収開始(調布)

 1940(昭和15)年

  傷痍軍人武蔵療養所(小平)

  陸軍少年通信兵学校(東村山)

 1941(昭和16)年

  陸軍技術研究所(小平・小金井)

  調布飛行場竣工(調布)

 1942(昭和17)年

  陸軍経理学校・練兵場(小平)

  陸軍技術研究所(小平・小金井)

  陸軍兵器補給廠小平分廠(小平)

 

このように、現在の小平市内に特に各種の軍事施設が集中している状況が明らかになる。ちなみに、地域内の軍需産業としては、国分寺の中央工業南部銃製作所、調布の東京重機工業が共に銃砲の生産を担っていた。

 

 続いて、③の立川・大和・昭和・拝島地域だが、まず中心となるのは「立川の陸軍飛行場と航空廠」といった軍事施設であり、それらの立地の上に「陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域」となっている。軍事施設について、こちらも年代別に整理しておくと、

 

 1922(大正11)年

  立川飛行場完成―当初は陸軍と民間の共用飛行場(立川)

 1928(昭和3)年

  陸軍航空本部技術部(所沢より立川に移転)

 1933(昭和8)年

  陸軍航空本部補給部(所沢より立川に移転)

 1935(昭和10)年

  陸軍航空本部技術部は航空技術研究所へ改組

  陸軍航空本部補給部は航空廠へ改組

 1938(昭和13)年

  陸軍航空輸送部立川支部(立川)

  陸軍気象部立川観測所(立川)

 1939(昭和14)年

  陸軍航空技術学校(所沢より立川に移転)

 1940(昭和15)年

  陸軍航空工廠(昭島)

  陸軍多摩飛行場開設(福生)

  陸軍航空審査部(福生)

 1941(昭和16)年

  陸軍資材本廠(立川)

  立川飛行場拡張(砂川)

  陸軍多摩飛行場少年飛行兵学校(福生)

 

小平の軍事施設が多様であるのに比べ、航空関係の軍事施設が圧倒的に多く、その周囲を航空機生産各社の工場が取り巻いていることがわかる。

 

 最後に、④の府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域だが、こちらも軍事施設について年代別に整理しておくと、

 

 1937(昭和12)年

  陸軍燃料廠(府中)

 1938(昭和13)年

  陸軍火工廠(稲城)

  陸軍兵器学校(相模原)

  東京工廠相模兵器製作所(相模原)

 1939(昭和14)年

  陸軍火工廠が造兵廠多摩火薬製造所に

  陸軍第九技術研究所(登戸)

 1940(昭和15)年

  東京工廠相模兵器製作所が相模陸軍造兵廠に

 1943(昭和18)年

  通称「戦車道路」開通(町田)

  多摩火薬製造所拡張

 

地域内で「軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品」となっているのは、これらの軍事施設(「軍」)と軍需工場(「産」)が連動しての話と言えよう。

 ①の武蔵野・三鷹・田無・保谷地域、②の小平・国分寺・小金井・調布・狛江地域及び③の立川・大和・昭和・拝島地域が、武蔵野台地上の平坦な地形を特徴とするのに対し、④の府中・日野・町田・稲城(特に日野・町田・相模原)は多摩丘陵にかかる地域であり、必ずしも平坦な地形ではないが、人家が少ない丘陵地は秘密保持(日野の小西六写真工業)の必要や危険な火薬の製造・貯蔵(陸軍火工廠・造兵廠多摩火薬製造所)にはむしろ適地でもあった。「軍」と「産」の「立地」の問題として整理すれば、武蔵野台地の平坦な地形はもちろんのこと、多摩の丘陵地の地形的特徴も積極的に利用され、それぞれに様々な軍需品生産拠点選定に際しての自然的基盤となっていたことになる。

 

 

 

 このように整理してみることで、昭和10年代の多摩地域が、陸軍の飛行場、陸海軍の航空機製造拠点、戦車・軍用車輛等の陸上兵器製造拠点、両者に関係する通信機製造拠点及び銃器製造拠点、燃料貯蔵・供給施設と火薬製造・貯蔵拠点、そして各種軍事教育機関、研究機関、傷痍軍人病院といった軍事施設群(すなわち「軍」の施設である)及び軍需工場群(すなわち「産」の施設である)によって構成された、まさに軍産複合地帯と呼ばれるにふさわしい地域であったことが再確認されるであろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/06/29 18:47 → http://www.freeml.com/bl/316274/307652/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月28日 (水)

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (1)

 

 B-29による日本本土空襲について語られる際に、まずイメージされるのは昭和20(1945)年3月10日の「東京大空襲」とそれに続く名古屋(3月12日)、大阪(3月13日)、神戸(3月17日)等の都市(人口密集地)への焼夷弾を用いた無差別爆撃ではないかと思う。

 しかし、時系列で見れば、米軍にとっての日本本土の爆撃目標が当初から都市(人口密集地)であったわけではないし、焼夷弾を用いたものでもなかった。

 

 

 B-29による東京への空襲は、昭和19年11月24日から始まる(出撃機数111機)が、その際の爆撃目標(第一目標)は東京郊外・武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所の工場群であった(すなわち、第一に爆撃の標的とされたのは日本の航空機生産能力であった―名古屋でも、航空機用エンジン生産拠点の一つであった三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が初期の空襲の目標となっている)。同工場を目標とした作戦は、11月27日(81機)、12月3日(86機)、12月27日(72機)、翌昭和20年1月9日(72機)、1月27日(76機)、2月19日(150機)、3月4日(192機)、4月2日(122機)、4月7日(107機)、4月12日(114機)と繰り返され(註:1)、最終的に壊滅する。もっとも、工場上空の天候(厚い雲)に阻まれ(註:2)、結果的に第二目標として設定されていた東京の都市部への投弾となっているケースも多い(註:3)(本土空襲=都市爆撃というイメージはここからも生まれるだろう)。

 ターボチャージャー付きエンジンを搭載し、与圧キャビンを備えたB-29の高高度性能に加え、ノルデン照準器による高高度からの精密爆撃能力からすれば、中島飛行機武蔵工場への精密爆撃の実行は現実的であるはずだったが、高高度でのジェット気流と悪天候はノルデン照準器の能力を無効化(高高度を飛行する機体と目標である地上の間にひろがる雲は、高性能であるはずの照準器による地上視認を不可能にする)し、期待したほどの戦果に結びつかなかったのである。作戦の中心は、軍事目標に対する高高度からの通常爆弾による昼間精密爆撃(「軍事目標主義」と呼ばれる)から、大量の焼夷弾を用いた低空からの夜間都市無差別爆撃へと移行し、多数の市民(非戦闘員)が爆撃の犠牲となるに至った(戦闘地域からは後方であるはずの都市住民に対する無差別爆撃は、理論的には「人命節約効果」が期待されるものとして正当化されてもいた―「無差別爆撃の論理 1」、「無差別爆撃の論理 2」参照)。

 

 

 東京の郊外に当る多摩(武蔵野)地域は、特に昭和10年代以降、多くの軍需工場、陸軍飛行場や補給廠といった軍事施設、軍関連の研究所の集中する、いわば軍産複合地域となっており、中島飛行機武蔵工場への爆撃もその状況を反映したものと言えるだろう(註:4)。

 多摩地域に対する空襲についても、その背景となった軍産複合地域化にしても、専門的な研究者にとっては周知の歴史的・地誌的事実なのかも知れないが、私自身も含め、現在の多摩地域の住民には知られることもなく、そもそもあまり意識されることもない話題のように感じられる。

 

 

  この多摩地域の工業化について、各市・町の市史・町史・市誌をみると、各市・町ともほとんど共通して、工業化は昭和時代・昭和10年代など昭和に入っていからの区部の方から進出してくる軍需工場によってであり、それはまた農村を急速に近代化させたと記している。たとえば国分寺市史では、「昭和の初めから多摩地方は突然に工業化をした。それもかつての紡織産業ではなくて機械器具工業を中心とした軍事産業主導の重工業化をした……北多摩一世紀の歴史のなかで、戦前、重工業化による地域社会の変貌という、郊外化とは異なった局面のあったこと」と記している。
  これらによれば、この地域が激変するのは昭和初期に当る1930年代であり、東京地域の工業の中心地域である京浜地域の特に城南の低地帯から、工場規模の拡大のために地価の安い広い土地を求めて、また農村の潜在労働力を求めて移動してきた機械工業を中心とする近代工業によってであった。しかもその機械工業の内容は、1930(昭和5)年から続く15年戦争といわれる軍備拡張の時代を反映した軍需工場であった。この軍需品の製造は機械工業として組立工業であり、そのため主力工場とともに多数の関連する下請工業をともない、従業員をひきつれて多摩地区に移動してきた。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 120ページ)

 

 この星野氏の論文では、続いてこれらの工場の立地条件として、

 

  多摩地域の工業化について、先行研究の一つ、石井雄三郎は、三多摩における近代工業の起因は、中央線による交通指向であり、駅を中心に徒歩15分以内に飛行機製作所などの設立があり、昭和10年代以後は各街道沿いと中央線の支線にそって、京浜からの群立となったとし、これを列状展開と表現している。また奥田義雄は、京浜工業地帯の外延的拡大は、臨海部沿岸線および内陸部主要交通線に沿って放射状に展開され、交通条件に強く制約されている。その他用地取得条件の難易も作用したとある。このほか周辺地域への工業移動は環状に拡大とみたり、内部の業種構成の変化から波動的とみる観点もある。

 

これらの考察を紹介(同ページ)しているが、そこには中心となる武蔵野台地の平坦な地形(広大な工場用地、軍事施設への転用に有利)があり、鉄道輸送網として東西方向を結ぶ中央線と、それに並行する(現在の名称で言えば)京王、小田急、西武の各線があり、南北方向にも複数の路線があることに加え、旧来の街道が存在することで地域外及び地域内相互間の陸上輸送の便もよく、しかも「陸海軍の中枢管理機能の集中する東京霞ヶ関等」とのアクセスもよかった。

 

 

 

 では具体的に、どのような軍需関連工場が存在したのか?

 

 

  こうして成立した多摩地域の軍需工業の最終製品の特徴は次の3点に要約できる。
  第一に、航空機と航空機用発動機で、関連する航空計器や通信機器などとそのための中間完成品、および部品である。陸軍と海軍の需要に応じていた。
  第二に、中型戦車と軍用車輛、小銃・機関銃・機関砲・高射砲などで、火薬の生産を含め陸軍造兵廠の注文・指導・監督のもとに行れていた。主として陸軍の需要に応じた。
  第三に、通信機器のほか、測距儀や軍用時計から風船爆弾、落下傘など多種類の直接の兵器やそのための工具や計測器など多様な形での軍需品である。陸・海軍双方の需要に応じた。
  次に、これらの工場群を、工場所在地、製造品の種目、中心の企業・資本・軍、製造開始の時期などを考慮して、およそ4つのグループにわけてみた。
  ① 武蔵野・三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ② 小平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、①の地域の南と西に隣接する地域。①あるいは他と重なりあうが、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
  ③ 立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ④ 府中・日野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
  これら軍需工場は組立産業として多くの部品生産企業を擁し、4地域のそれぞれの中で完結することなく、とくに進出企業の出身の京浜工業地帯との結びつきは強い。また下請関係は複数企業にわたり変動もある。したがって4つの地域間には境界線を引くことは困難で、区分は考察への一つの目安である。
     星野 前掲論文 122~124ページ

 

 

 

     (「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (2)」に続く)

 

 

 

【註:1】
 用いたのは、齊藤勉 「多摩の空襲」(『多摩のあゆみ』 第119号 2005 8~9ページ 表2)のデータだが、鈴木芳行 『首都防空網と〈空都〉多摩』(吉川弘文館 2012 145~146ページ 表11)では、作戦の日付と出撃機数は以下のようになっており、多少の異同がある。

 11月24日(111機)、11月27日(81機)、12月3日(86機)、12月27日(72機)、1月9日(72機)、1月27日(62機)、2月19日(152機)、3月4日(194機)、4月1日(124機)、4月7日(111機)、4月12日(119機)

【註:2】
  しかし、アメリカ軍の戦果調べによると武蔵製作所が壊滅状態となるのは、二十年の四月七日と十二日の両爆撃によってであって、それ以前の戦果はいずれも「貧弱」「失敗」「不明」などであった。戦果の上がらない理由は、「雲量大」「強風」などのためであり、冬場に関東地方をしばしば襲う荒天が、B29の八〇〇〇㍍以上の高高度から投下する爆弾などの命中率を下げていたことにあった。
     鈴木芳行 (前掲書 144ページ)

【註:3】
 最初の作戦である11月24日の空襲からしてそのようであった。

  公開された650枚超の写真群は、昭和19(1944)年11月24日に撮影された荏原の空襲後の情景から始まる。
  まさにその11月24日から、B-29による東京への空襲が開始されたわけだが、作戦上は市街地が目標とされていたわけではなく、中島飛行機武蔵野工場が本来の爆撃目標であった。ノルデン照準器を用いた高高度精密爆撃による軍需産業の破壊を目的としていたにもかかわらず、工場上空の天候不良(ノルデン照準器がその高性能を発揮しない)のために工場への投弾を果たせなかった機により、航路上の東京市街が投弾地点とされ、それがたまたま荏原区であったということのようである(つまり荏原は本来の爆撃目標であったわけではない)。
  それが初のB-29による東京空襲の背景であったが、以後、同様な経緯での東京の市街地への高高度爆撃が続き、翌年3月10日には低高度からの侵入による市街地無差別爆撃(いわゆる「東京大空襲」である)へと転換され、米軍戦略爆撃機による都市無差別爆撃の手法が確立されるに至る。
  東方社写真部撮影による昭和19年11月24日の空襲の写真は、まさにその最初の空襲による被害の視覚的記録なのである。
     (「
プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)」参照)

【註:4】
 B-29による多摩地区の軍需関連施設への空襲としては、4月4日に立川飛行機(113機)、4月24日に日立航空機立川発動機製作所(131機)、4月30日に立川陸軍航空工廠(106機)、5月19日に立川陸軍航空工廠(309機)、6月10日には中島飛行機武蔵製作所と日立航空機立川発動機製作所(124機)、同日に立川陸軍航空工廠(34機)、7月29日に中島飛行機武蔵製作所(1機によるもので原爆の1万ポンド模擬爆弾を投下)、8月8日に中島飛行機武蔵製作所(69機)がある。他にも、気象偵察機による投弾、艦載機(小型機)による空襲が記録されている。
    齊藤勉 「多摩の空襲」(前掲)及び「多摩上空のB29」(『多摩のあゆみ』 第141号 2015)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/06/28 15:06 → http://www.freeml.com/bl/316274/307574/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月31日 (水)

エビデンスの力~西嶋真司監督の『抗い』(2016)

 

 本年の「メイシネマ祭’17」では、最終日の最終上映作品となった西嶋真司監督の『抗い』(2016)しか観られなかった。4週間近く前の話だ。しかし、その印象はまだ生々しい。

 

 

 

 ファクト(事実)を支えるエビデンス(根拠)の力。徹底的にエビデンスに拘り、ファクトに迫り続ける記録作家―林えいだい―の姿。

 2017年はトランプ大統領就任の年でもある。トランプと取り巻きは、自分たちに都合の悪いあらゆる情報を何の根拠も示さずにフェイク・ニュース(偽ニュース)と切り捨て、自ら発信する虚偽をオルタナティブ・ファクト(代替事実)と呼ぶことで問題を処理し続けている。

 

    ファクト(事実)やエビデンス(根拠)に対する政治的攻撃が強まっているとして多くの人が不安を募らせているなか、科学者やその支持者たちのデモ「科学のための行進(March for Science)」が22日に米首都ワシントン(Washington D.C.)を中心に世界600以上の都市で初めて行われる。
     (AFP 2017/04/22 15:27)

 

 この記事(そこにある切迫した危機感)が、記録作家の林えいだいの姿を追ったドキュメンタリー作品を観る私の中に、何度も反響し続けた。

 

 作品のホームページの記述を援用すれば、林えいだいは、「徹底した聞き取り調査により、朝鮮人強制連行、差別問題、特攻隊の実相など、人々を苦しめた歴史的事実の闇を追求し続けている」記録作家である。正直に私にとっての林えいだい体験を告白すれば、そのテーマの余りな重さに、著作に目を通すことを先延ばしにしてきた作家でもある。

 

 そんな私が、メイシネマ祭の会場で、画面の中の林えいだいと対面することになったのである。

 

 『抗い』の中では、林えいだいの著作のいくつかが、そしてその取材の核心が紹介される。

 たとえば朝鮮人炭坑夫を殴り殺した日本人労務主任を探し出し、実際のその証言を引き出し、まさにその証言をエビデンスとして、ファクトとしての日本近代における朝鮮人炭坑夫の境遇を明らかにするのである。

 その徹底的な取材が、ファクト(事実)としての歴史叙述を支えることになる。「近現代史の真実」と称する代替事実(すなわち虚偽)が氾濫するのが21世紀の最初の十数年の現実である(たとえば「朝鮮人強制連行問題の基本構図」参照)。林えいだいが、その徹底的に緻密な取材を通して明らかにするのは、当事者の証言を通して明らかにされるのは、近代日本の「事実」なのである。

 

 西嶋真司監督による取材が、その林えいだいの姿―徹底してエビデンスを追い求めファクトを追求する記録作家の気迫、その背後で記録作家を突き動かす戦時期日本での父母のエピソード―を映像記録としてとどめ、私たちの前に示してくれるのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/05/31 18:39 → http://www.freeml.com/bl/316274/305681/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月15日 (土)

トランプ、スターリン、プーチン、ブレジネフ、そして聖マティスの肖像

 

 前回は、「ロシア構成主義的ドナルド・トランプ・イメージ」と題して、数あるドナルド・トランプ大統領ネタ画像の中でもソヴィエト・ロシアのプロパガンダ・アート・パロディとして秀逸だと思われるものを紹介した。

 特に、「ロシア構成主義」として知られる、当時の最先端スタイルによる作品(のパロディ)を取り上げたが、それはまさにソヴィエト・ロシアのプロパガンダ・アートが芸術(美術)の前衛であった時代のポスター・デザインである。「革命」は政治の問題であるだけでなく、芸術もまた「革命」を経験していたのだ。

 しかし、そんな時代は長続きすることなく、「社会主義リアリズム」と呼ばれる表現形式が政治的に推奨され、芸術は政治の従属物に成り下がり、芸術上の革命の時代は終焉を迎える。

 

 

 しかし、古典的な表現形式で描かれたスターリンの肖像に代表される「社会主義リアリズム」の絵画もまた、パロディ作家にとっては良い素材となり、例えばスターリンの肖像がトランプの肖像として蘇るのを楽しむことが出来る。

 

 

 

alternative facts - pravda comrade !
  
https://1.bp.blogspot.com/-eDDGOX_e3xY/WLh7kMc0ctI/AAAAAAABLkk/eWeOIWPOLP8D3UEUj-87yJjyalSj7JLGQCLcB/s1600/Trump-Alternative-Facts-Pravda-Comrade.jpg

 

 

 このパロディー作品の下敷きとなっているスターリンの肖像でも、執務机に重ねられた郵便物の下に描かれているのが御用新聞の『プラウダ』であることに気付くであろうが、パロディー作品ではその『プラウダ』の存在が生かされ、笑いの源泉へと転化している。

 

 

   stalin with pravda
   
https://zibbet.s3.amazonaws.com/uploads/photo/file/8734527/gallery_hero_il_fullxfull.409219358_ofmi.jpg

 

 

 「プラウダ」はロシア語で「真実」を意味するが、御用新聞としての『プラウダ』の紙面は「真実」の報道とは遠いものとなっていた。

 その事実が、自身に都合の悪い報道を全て「fake news(嘘ニュース)」と呼び、自身の主張の誤りが明らかとなっても「alternative fact(代替的事実)」と言い張る、ドナルド・トランプ自身とその取り巻きの姿に見事に重なるのである。

 トランプが求めるのは『ニューヨークタイムス』の報道スタイルでもなければ『CNN』の報道でもなく、まさに『プラウダ』の報道スタイルに違いない、と多くの者は考えるであろうところに、このパロディー作品が成立するわけだ。

 

 

 実際、そんなトランプ政権による合衆国の政治は、内政でも外政でも混乱続きである。いまだに特筆すべき成果は見られない。

 

 

 トランプとその取り巻きによる政権運営に混乱の続く中、政権内で内外からの信頼を獲得しているのは、国防長官に就任したジェームス・ノーマン・マティス元海兵隊大将その人であろう。

 

 早速、20世紀の美術をはるかに遡る16世紀の祭壇画を思わせる様式で描かれた、マティス国防長官の肖像画を鑑賞することとしよう。

 

 

saint mattis of quantico
  
http://www.catholic.org/files/images/media/14806999051961_700.jpg

 

 

 右手に手榴弾、左手にナイフを持つ元海兵隊司令官の頭の背後には、金色に輝く中に「M A D D O G」の文字が刻まれている。

 「クアンティコの聖マティス」とされていることが興味を引くかも知れないが、「クアンティコ」は海兵隊基地の存在で知られている土地である。そして、更に画面を見ることで「クアンティコの聖マティス」が「カオス(大混乱)」の「守護聖人」であることにも気付くであろう。マティス国防長官は(少なくとも今のところ)、大混乱の続くトランプ政権内で、平静を保ち続けている数少ない人物の一人(もう一人であろうマクマスター安全保障担当補佐官もまた軍出身者であるが)であると、多くの人に思われているはずだ。まさに大混乱を続ける政権の守護聖人の役割である。

 

 

 

 

 続くのは、画像検索の際に見つけた(2024年のものとされる)プーチンの肖像画である。下敷きとなっているのは、長く政権に居座り続け、ソ連を停滞に導いたブレジネフの肖像である。

 大量の勲章で飾り立てた軍服に身を包んだ傲慢そうな老人。スターリンの肖像以来の重厚なスタイルで描かれた、まさにブレジネフとしてのプーチンだ。

 

 

putin-brezhnev-2024
  
http://www.irishmanabroad.com/wp-content/uploads/2011/10/Putin-Brezhnev.jpg

 

 

 

 最後は、ソヴィエト・ロシアの様式で描かれたトランプ及びプーチンの姿から一転して、米国を代表するプロパガンダ・デザインのパロディとして描かれたプーチンの姿である。

 

 

 

i want ukraine
  
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/6f/16/ec/6f16ec0e0e3417cc9ab0d81ed3170adf.jpg

 

 

 

 プーチンには、アンクルサムの衣装もよく似合うのであった。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/04/15 19:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/302483/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ロシア構成主義的ドナルド・トランプ・イメージ

 

 今回は、いわば「「偉大な指導者」としてのドナルド・トランプ・イメージ」の続きとなる、ネタの源泉としてのドナルド・トランプ大統領をめぐる記事である。

 

 

 

 紹介するのは「soviet propaganda poster trump」とか「russian constructivism trump」といった検索語での画像探索時の発見物だが、ソ連時代のプロパガンダ・ポスターのパロディとして実にに秀逸なものだと感じた。

 

 


Photo Illustration by Cristiana Couceiro.
  
http://media.vanityfair.com/photos/58d974523753ee611fd2475e/master/h_606,c_limit/russian-fake-news-04-17.jpg

 

 

 いわゆる「ロシア構成主義」デザインの典型的構図である。バックには赤地に白が斜め右上に向けて下方から放射状に広がり、中心に大統領トランプとその主席戦略官バノン、その下にロシアのプーチンとその顧問格のスルコフ、そしてホワイトハウスの写真がコラージュされ、加えてメディア記事の文字による画面構成となっている。

 下敷きとなったのが、以下の作品に代表されるロシア構成主義の構図である。

 

 

 Left: Gustav Klutsis – Workers, Everyone must vote in the Election of Soviets! Image via arthistoryarchive.com / Right: Russian Propaganda Poster.Image via posterwire.com
   
http://d2jv9003bew7ag.cloudfront.net/uploads/Left-Gustav-Klutsis-Workers-Everyone-must-vote-in-the-Election-of-Soviets-Image-via-arthistoryarchive.com-Right-Russian-Propaganda-Poster.Image-via-posterwire.com_.jpg

 

 配色、斜めが強調された躍動的な構成、写真によるコラージュ、デザインの一部となった文字。

 左画面にあるグスタフ・クルーツィスの手の平による構成は、パロディ作品ではバノンが掲げる右の手の平の並びとして再現されている。

 パロディ作品に登場するキャラクターの中で、あまり有名ではないであろうプーチン大統領の補佐官ウラジスラフ・ソルコフの画像も参考として添えておこう。

 

 
 Vladislav Surkov - Wikipedia
   
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Vladislav_Surkov_7_May_2013.jpeg/220px-Vladislav_Surkov_7_May_2013.jpeg

 

 

 偉大なドナルド・トランプ大統領と上級顧問のバノンの関係が、画面中央でバスト・ショットで大きく示されるトランプと右下方に小さくはあるが上半身像+掲げる右手が三連化されることで存在感が強調されるバノンの姿として示され、ホワイトハウスの上のプーチンとソルコフの関係に反復されてイメージに刻み込まれる。(少なくともシリア攻撃までは維持された)ロシアとトランプの親密な関係が画面構成の中でも暗示され、それがロシア構成主義デザインのパロディとして示されることで、より強化される。実に秀逸なものだと感心した次第。

 

 

 

 続いて…

 


Trump Poster No. 1: Hate Speech
  
http://68.media.tumblr.com/53bb2c46d456e45aa8d29ac5d6da0c31/tumblr_o5h1h3IVhM1v1fk2co1_1280.jpg

 

 

 このパロディ・デザインから連想させられるのは、ロシア構成主義を代表するアレクサンドル・ロトチェンコのポスターであろう。

 

 
 Alexandr Rodchenko, Poster for a Moscow publisher (1924)
   
http://www.brandandbrand.co.uk/blog/wp-content/uploads/2014/12/constructivist.jpg

 

 ただしこのパロディでは、ロトチェンコの有名な構図を下敷きとしながらも、ソ連時代のスターリニズム的全体主義に重ねて、もう一つの全体主義であるナチス体制の標語と画像を用いることで、トランプの強権的志向への批判が強化されている。

 「HATE!」と叫ぶトランプに重ねられているのはナチスの反ユダヤ主義が煽った民族主義的な「憎悪」であるし、ナチスの有名なスローガンであった「一つの民族、一つの国家、一人の総統(Ein Volk, Ein Reich, Ein Führer)」もほとんどそのまま用いられている(ONE PEOPLE/ONE EMPIRE/ONE LEADER!)。

 

 
 Plakat: "Ein Volk, Ein Reich, Ein Führer.
  
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/564x/0c/24/10/0c241093d8ecf8bb026a449b2b63ff6e.jpg

 

 
 hitlerjugend
  
http://visit-heidelberg.org/wp-content/uploads/imgp/hitlerjugend-frisur-3-8231.jpg

 

 右半分の画面のナチス的スローガンの背景には、ソ連の青年組織のピオニールではなく、ナチスのヒトラー・ユーゲントの画像が引用され、画面左上方の「LONG LIVE FASCISM !」の文字と共に、ドナルド・トランプの言動とファシズム世界の親和性の強調に効果を発揮している(見る側が気付く限りにおいての話だが)。

 

 

 

 

《オマケ》

 トランプ関連画像ではないが、検索中に見つけたソ連プロパガンダ・ポスター・デザインのパロディ作品の中から、お気に入りを2点ほど紹介しておこう。ロシア構成主義を代表するエル・リシツキー作品風のウォッカの広告と、有名なドミトリー・ムーアの志願を募る軍人ポスターをマリオ化したお遊び(残念なことに出典となるリンク先を見失ってしまった)と。

 

  

 we call it vodka
  
https://files1.coloribus.com/preview/x600/files/adsarchive/part_972/9729455/file/stolichnaya-vodka-we-call-it-small-51408.jpg

 

 

  

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/04/15 00:45 → http://www.freeml.com/bl/316274/302435/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 9日 (日)

議会の承認なしのシリア攻撃は大きな過ちだ…ったはずだが?

 

 

  米トランプ政権がシリアのアサド政権への攻撃に踏み切ったことに対し、米議会内には容認論が強い一方、事前承認を経ない軍事行動を問題視する意見がある。政権は国際社会だけでなく、国内でも攻撃の合法性やシリア戦略についての説明を求められそうだ。
  共和党の大統領候補指名を争ったルビオ上院議員が「無実の人々に対するさらなる攻撃を防ぐ」と評価するなど、与野党双方からトランプ大統領の決断を支持する声が目立つ。
  ただ、手順については異論があり、民主党のケーン上院議員は7日、「倫理的には正しい」としたうえで、議会の承認がない軍事行動には「法的正当性がない」と指摘。同党のリュー下院議員も、政権の「一方的な決定」は憲法違反にあたると批判した。
     (毎日新聞 2017/04/08 21:00)

 

 

 ドナルド・トランプ大統領によるシリアへのミサイル攻撃に関する米国議会の反応だが、記事は、

 

  与党内でも、マシー下院議員が、トランプ氏が2013年8月にツイッター上で「議会の承認なしのシリア攻撃は大きな過ちだ」と投稿していたことを指摘。ライアン下院議長も、政権が追加攻撃を行う場合は「事前に協議するのがふさわしい」と議会との共同歩調を促した。
  シリア攻撃を巡っては、オバマ前政権も13年に議会承認を求めたが、共和党と民主党リベラル派が反対し、武力介入は土壇場で見送られた経緯がある。

 

このように続く。「与党」である(はずの)共和党のマシ―下院議員からも、

 

  トランプ氏が2013年8月にツイッター上で「議会の承認なしのシリア攻撃は大きな過ちだ」と投稿していた

 

このように、手続き上の問題に止まらず、トランプ氏自身の過去の主張との違い(主張の一貫性の無さ)までもが指摘されてしまっている事実は非常に興味深い。

 

 この問題については、「アメリカ時間の6日夜に急きょ行なわれたシリアの空軍基地への攻撃について、アメリカの世論はおおむね前向きな受け止めを示しています」としながらも、

 

    一方、米軍の運用に大きな権限をもっている連邦議会では、保守強硬派の一部議員などが「事前に行動を承認しておらず大統領の越権行為だ」と批判の声をあげています。
     (TBS系(JNN) 2017/04/08 13:07)

 

このように連邦議会で「保守強硬派の一部議員」の批判があることを取り上げた報道もあった(それが誰であったのかは記されていないのが残念だが)。

 

 

 シリア軍により米国が攻撃されてもいないにもかかわらずシリアに対するミサイル攻撃をすることの国際法上の正当性の問題も、当然のことながら指摘されているが、米国内での手続き上の正当性も、主張の一貫性の無さと共に(「保守強硬派」を含む)米国議会の側から問われてしまっているわけである。

 

 

 トランプ政権内での意思決定に関しては、

 

  シリア空軍基地へのミサイル攻撃を巡り、トランプ米政権内の内紛が表面化した。
  米メディアによると、トランプ氏の最側近だったバノン大統領上級顧問・首席戦略官がシリア攻撃に反対する一方、トランプ氏の娘婿クシュナー大統領上級顧問が実施を求めたという。攻撃の実現は、バノン氏のホワイトハウス内での影響力低下を示している可能性がありそうだ。

  米誌ニューヨーク・マガジンによると、バノン氏はシリアの化学兵器では米国民が犠牲になっておらず、米国が対抗措置を取るのはトランプ氏が推進する「米国第一」主義に反する、と進言したという。これに対し、クシュナー氏は、子供を含めた痛ましい被害が出ていることを踏まえ、「アサド政権を罰するべきだ」と訴えた。トランプ氏は、クシュナー氏の意見に賛同した。
     (読売新聞 2017/04/08 17:55)

 

このような報道もある。これまで大統領上級顧問・首席戦略官としてトランプ政権を主導してきたバノン氏は、そのイデオロギーに忠実に、

 
  シリアの化学兵器では米国民が犠牲になっておらず、米国が対抗措置を取るのはトランプ氏が推進する「米国第一」主義に反する、と進言した

 

にもかかわらず斥けられただけでなく、

 

  バノン氏は4日、国家安全保障会議(NSC)の閣僚級委員会常任メンバーから外された。さらに今後は「更迭か、役割見直しの可能性がある」(米紙ウォール・ストリート・ジャーナル)という。

 

このように、トランプ政権内での主導的地位を失いつつある。

 今回のシリア攻撃は、トランプ政権が掲げた当初の意味での(孤立主義的と形容され得る)バノン流の「米国第一主義」が後退しつつあることを示すものとも言えるが、国際社会への積極的介入を通しての「米国第一」の復活、つまるところブッシュ流の米国への回帰の兆候とも言えそうである。

 

 

  シリアの化学兵器使用疑惑を巡り、トランプ米大統領はオバマ前政権の「弱腰と不決断」がシリア情勢の悪化を招いたと批判したが、就任前はシリア内戦に「介入すべきではない」と訴えており、メディアから矛盾を指摘されている。
  トランプ氏は2013年9月、ツイッターに「オバマ大統領がシリアを攻撃したがる唯一の理由はメンツを保つため。シリアを攻撃するな」と投稿。オバマ氏は当時、アサド政権の化学兵器使用で「レッドライン(越えてはならない一線)を越えた」としたが、土壇場で軍事介入を見送り、国内外から批判を浴びていた。
  トランプ氏は翌14年にかけてツイッターで何度もシリア内戦への対応に言及し、「米国の問題ではない」などと繰り返した。大統領選出馬表明後のインタビューでも「シリアと『イスラム国』(IS)を戦わせればいい」(CNN)、「米国にはアサドよりも大事な問題がある」(MSNBC)などと発言していた。
  5日のアブドラ・ヨルダン国王との共同記者会見で、報道陣から一貫性のなさを問われたトランプ氏は「私は頭が柔らかい人間。柔軟さが誇りだ」と開き直った。
     (毎日新聞 2017/04/06 11:07)

 

 オバマ大統領のシリア政策(シリアによる化学兵器の使用を問題視したものだ)を「米国の問題ではない」として批判し続けた人物が、シリアによる化学兵器の使用を理由にミサイル攻撃を即座に命令する。今回も、

 

  報道陣から一貫性のなさを問われたトランプ氏は「私は頭が柔らかい人間。柔軟さが誇りだ」と開き直った

 

「一貫性のなさ」は「柔軟さが誇り」との言葉で説明されるのだろうか?

 

  米政府は8日、米軍によるシリア攻撃について説明する書簡をトランプ大統領が議会へ送ったと発表した。
  大統領はこの中で「米国の死活的な国家安全保障・外交政策上の利益のために行動した」と主張。「必要かつ適切なら追加の行動を取る」と述べた。
     (時事通信 2017/04/09 08:51)

 

 しかし、シリア軍の化学兵器使用が事実であったとしても、それが果たして「米国の死活的な国家安全保障上」の問題と言い得るのかどうか?

 そもそものトランプ氏は、

 

  トランプ氏は2013年9月、ツイッターに「オバマ大統領がシリアを攻撃したがる唯一の理由はメンツを保つため。シリアを攻撃するな」と投稿。
  トランプ氏は翌14年にかけてツイッターで何度もシリア内戦への対応に言及し、「米国の問題ではない」などと繰り返した。大統領選出馬表明後のインタビューでも「シリアと『イスラム国』(IS)を戦わせればいい」(CNN)、「米国にはアサドよりも大事な問題がある」(MSNBC)などと発言していた。

 

シリアへのミサイル攻撃は、かつての自身の主張からすれば整合性のない唐突な行動にしか見えない。そこにあるのは「柔軟さ」ではなく、「思い付き」で行動する「ご都合主義」に見える。

 ま、それがトランプ・クオリティーなんだろうが、「支持率が落ちたら戦争」のセオリーには整合的である。

 いずれにせよ、ドナルド・トランプも「支持率が落ちたら戦争」という一般的に信じられている基本に忠実な米国大統領の一人に過ぎなかったことが明らかになった瞬間でもあったが、それが就任後わずか100日にも満たない時点であったことでも、ドナルド・トランプは米国史上に名を残す存在となるであろう(回復するかも知れない支持率がどこまで持つか? 新たな注目点ではある)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/04/08 22:16 → http://www.freeml.com/bl/316274/301884/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 1日 (土)

2017年4月1日:「フェイクニュース」の果てに

 

 

 4月1日ではあるが、以下に記すのはすべてホントの話である。

 

 

 

  ドナルド・トランプ米大統領の大統領顧問ケリーアン・コンウェイは先週末、「カメラに変わる電子レンジ」があるとトランプを擁護する仰天発言をし、またも世を沸かせた。
  ニュージャージー州のメディア「North Jersey.com」に出演したコンウェイは、レコード紙コラムニストのマイク・ケリーと対談した。オバマ前政権による盗聴は実際にあったのかと聞かれたのに対し「お互いを監視する方法はたくさんある、残念ながら」と答えた。
  続けて、「今週読んだ記事には、電話やテレビなどを使った監視の手段がたくさん出てきた。カメラになる電子レンジもある。つまり、これは現代社会における一つの事実にすぎません」と言った。
     (ニューズウィーク日本版 2017/03/14 16:18)

 

同記事によれば、更に、

 

  コンウェイは月曜の朝、CNNの情報番組「New Day」に出演、「カメラに変わる電子レンジ」について説明した。司会のクリス・クオモのインタビューに、コンウェイはこう言った。「私はインスペクター・ガジェット(ガジェット警部)ではない。スパイが電子レンジを使うなんて信じないが、証拠を集めるのは私の仕事ではない。それは捜査官の仕事だ。」

 

記事を書いたルーシー・ウェストコット曰く、

 

  自分のボスが盗聴されたと主張しているのだから、その証拠を出すのはコンウェイの仕事だと思うのだが。

 

私もルーシーに同意する。

 

 今やオルトファクトの女王となったコンウェイの言う「今週読んだ記事には、電話やテレビなどを使った監視の手段がたくさん出てきた」という元ネタは(多分)、

 

  内部告発サイト「ウィキリークス」は7日、米中央情報局(CIA)によるハッキング技術に関する内部資料の公開を始めたと発表した。
  文書によるとCIAは、基本ソフトのウィンドウズやアンドロイド、iOS、OSX、リナックスを使うコンピューターやルーターに侵入するマルウェア(悪意のあるソフト)を武器化している。
  マルウェアは内部作成のものもあるが、韓国・サムスン製テレビのハッキングに使うマルウェアについては、英国の英情報局保安部(MI5)の手助けも得ていたという。

  2014年6月付の文書によると、CIAは、サムスン製スマートテレビ「F8000」シリーズに侵入する技術の開発を「ウィーピング・エンジェル」というコードネームの下で進めた。
  ハッキングされたテレビは、電源がオフになっているように見えるものの、室内の音を録音しており、使用者が再度テレビの電源を入れWi-Fiがつながった際に、インターネットを通じて録音をCIAのコンピューターに送る。
     (BBC News 2017/03/08 12:56)

 

コンウェイ女王様も(大統領本人同様に)他人の話をよく聞いていないタイプなのであろう。CIAの新たな「盗聴」テクニックの技術的側面を理解することなく、「なんかこんな話」程度の理解のまま吹聴したらしい(ま、確かにカメラが仕込まれた電子レンジは古典的スパイ道具のイメージではあるが、コンウェイ女王様のしているのは―文脈からして―古典的スパイ道具の話ではないだろう)。現在ここに記しているのは4月1日付けのブログ記事ではあるが、ネタ元の記事の日付が示すように、ホントの話である。

 

 

 お次の記事もまた、エイプリルフールネタではない。

 

 

  一部の国では、自分の名前や好きな言葉を車のナンバープレートにすることができる。カナダもそのひとつだが、自分の名字をナンバープレートにしていた男性が、名前に問題がありすぎると使用を禁止されてしまった。
  ノバスコシア州に住むローン・グラバー(Grabher)さんは、名字をナンバープレートにして25年前から使っていた。しかし更新を申請したところ、昨年12月にいきなり却下の手紙を州運輸局から受け取った。
  同州運輸局は、カナダ放送協会(CBC)の取材に対して、グラブハーさんのナンバープレートが「女性への暴力」を象徴するものと誤解されかねないからだと説明した。

Bbc_news

  グラバーさんによると、自分の姓はドイツ系で、父親の65歳の誕生日に名前入りのナンバープレートを購入した。父親が亡くなった後、自分でプレートを使い始めたという。
  「GRABHER」は「GRAB HER」、つまり「彼女をつかめ」、女性の体を無理やりつかめという意味にも読める。
     (BBC News 2017/03/28 16:38)

 

記事の日付の通り、エイプリルフールのホンモノのフェイクニュースではなく、実際にグラバー氏の身の上に起きた話なのだ。

 記事には、

 

  グラバーさんは、州当局がいきなりナンバープレートを使用禁止にしたのは、ドナルド・トランプ米大統領のわいせつ発言のせいだと考えている。
  昨年の米大統領選の終盤で、トランプ氏がかつてわいせつな表現を使って女性器を「つかむ」と発言したビデオが浮上。女性の権利団体をはじめ大勢が強く非難し、トランプ氏は謝罪した。

 

このような説明も付されている(起源となるのは以下のように報道されていたエピソードである)。

 

  トランプ氏は女性蔑視発言でたびたび物議を醸し、過去に「女はやらせる。何だってできる。プッシー(女性器を指す俗語)をまさぐってな」と語っていたことも明らかになっている。
     (AFP=時事 2017/01/18 09:36)

 

ドナルド・トランプの実際の発言は「grab them by the pussy」であったらしい(ネット上では「grab her right in the pussy」あるいは「grab her by pussy」との表現でも流通している)。

 この機会なのでネット上の関連画像を紹介しておこう。

 そんなトランプ閣下を怖がって見つからないようにしているのは、こんなプッシー(子猫)ちゃんである。

 

Poor Little Kitty Kat
  
https://onmyfrontporch.files.wordpress.com/2016/10/cat-hiding-from-trump.jpg?w=552&h=414&crop=1

 

 

 

 

 そしてついに米国大統領の周辺から「alternative facts」が量産され続けられる現実は、エイプリールフールの伝統を危機に陥れるまでに至ったのである。

 

  スウェーデンとノルウェーの新聞が3月31日、「偽ニュース」として拡散してしまう恐れを考慮して、伝統になっている紙面でのエープリルフールのジョークを今年は自粛すると発表した。
  スウェーデンの日刊紙スモーランドポステン(Smalandsposten)のマグナス・カールソン(Magnus Karlsson)編集長は同紙のウェブサイトで、ネットで拡散する恐れがある間違った記事を掲載するメディアとして同紙のブランドが知られるようになることは望まないと語り、「本紙は本物のニュースを扱う。4月1日といえども」と述べた。
  「偽ニュース」現象は2016年の米大統領選のさなかに発生し、ドナルド・トランプ(Donald Trump)氏が大統領選当選後初の記者会見でCNNテレビの記者に対し「君たちは偽ニュースだ!」と大声で言い放ったことでさらに勢いづいた。
     (AFP=時事 2017/04/01 10:55)

 

 この「AFP=時事」の記事は、多分、フェイクニュースではない。

 

 

 

 

《オマケ》

 

  共産党の機関紙「しんぶん赤旗」が1日付紙面で、1989年以来、28年ぶりに元号表記を復活させた。天皇制と関係が深い元号を国民に強制すべきではないとの立場だったが、「西暦を平成に換算するのが煩わしい」という読者の声が増え、柔軟路線に転じた。
     (毎日新聞 2017/04/01 10:29)

 
これも、多分、フェイクニュースではない。記事の後半では、

 

  長く党を支えてきた赤旗購読者や党員の減少に悩む共産党は、保守層への支持拡大をうかがっている。元号の使用にはそうした思惑もあるようだ。
  党によると、赤旗の発行部数は日刊紙と日曜版を合わせて約113万部。党関係者は1日、「元号の慣習的な使用には反対しない。読者の要望に応えた」と説明した。

 

このように記されていた。4月1日のタイミングでの方針転換ではあるが、エイプリルフールのネタではなさそうだ。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/04/01 20:40 → http://www.freeml.com/bl/316274/301309/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月30日 (木)

トランプのアメリカ、アメリカのトランプ

 

 

  ドナルド・トランプ米大統領にとって大きな敗北だ。3月24日、オバマケア(医療保険制度改革)の廃止代替案を議会採決直前に撤回せざるをえなくなったのだ。共和党の「フリーダム・コーカス(下院議員連盟)」と呼ばれる保守強硬派の支持が得られず、賛成票が足りなかった。これで、選挙戦中あれほど強く廃止代替を公約していたオバマケアは予見可能な将来、ずっと続くことになった。上下院を共和党が支配する状況下でさえ、最重要法案を採決に持ち込めない──トランプ米大統領と共和党の驚くべく無能さがさらけだされた瞬間だった。
     (ニューズウィーク日本版 2017/03/27 17:30)

 

 米国大統領となったドナルド・トランプは選挙戦時には公約として「オバマケア」の撤廃を掲げており、議会で廃止代替案(トランプケアあるいはライアンケアと呼ばれた)を成立させることにより、公約は実現されるはずであったが、共和党内の反対者(保守強硬派)のために採決に持ち込むことが出来なかった。

 日本では「党議拘束」なるものが存在し、まず考えられない話である。この顛末を通して、米国の政治と日本の政治の決定的違いを、そして政治制度を支える思想的基盤の決定的な違いを目の当たりにさせられた思いがした。

 我が日本の大政翼賛的個人責任回避的風土と、個人主義に支えられた責任意識の下で「保守強硬派」と呼ばれる人々であっても(「保守強硬派」であればこそ、より原理主義的な個人主義者でもあるわけだから)党派ではなく個人としての信条に忠実に行動する米国の風土の違いである。

 

 

 ドナルド・トランプの選挙公約としては、いわゆる「温暖化」論の否定を背景とした環境規制の撤廃もあるわけだが、この点についても米国内には興味深い反応があった。環境規制撤廃の恩恵を受ける側にいるものと思われがちな石油大手のエクソンモービルが、「パリ合意」からの離脱への反対を表明したというのである。

 

  米石油大手エクソンモービルがトランプ米大統領に対し、地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ合意」から離脱しないよう求める書簡を送っていたことが30日までに明らかになった。

  エクソンは書簡の中で、パリ協定は「気候変動のリスクに対処する効果的な枠組み」であり、米国は同協定の条件下でも「競争に有利な立場に」あるとの見解を示し、米国は残留すべきだと訴えた。
  トランプ大統領は28日、発電所からの温室効果ガスの排出削減を定めた「クリーンパワー計画」を撤廃する大統領令に署名。書簡はその数日前の22日に送られた。トランプ政権はエクソンに対してパリ合意への見解を尋ねていた。
  「わが社はパリ協定を、2015年12月の成立時も16年11月の発効時も歓迎した。そして協定への支持をさまざまな機会に繰り返し示してきた」と、エクソンは書簡で述べた。
     (CNN.co.jp 2017/03/30 12:06)

 

 ま、温暖化の原因としての二酸化炭素犯人論の当否は別として、環境規制への適合は新たなビジネスチャンスでもあり、米国のエネルギー産業界が一枚岩のトランプ支持となっていないということを示すものとも考えられ、興味深い展開である(しかもトランプ政権で国務長官となったティラーソンは、そのエクソンモービルのトップであった)。

 

 

 インターネット上の個人情報保護をめぐる規制の撤廃を米議会下院が可決したことに対する批判を、トランプ支持を掲げるはずの保守派メディアであるブライトバート・ニュースが掲載したとの報道も興味深い。

 

  この規定は、オバマ前政権の末期に連邦通信委員会(FCC)が承認したものだ。インターネット接続業者(プロバイダー)に対し、ユーザーの個人情報を収集したり他者に譲渡する場合には本人の許可を得ることを義務づけていた。
  下院は28日、同ルールの撤廃を共和党の賛成多数で可決していた。
  プライバシー保護派や消費者保護団体、それにハイテク業界はそろって今回の議会の決定を攻撃。ニューヨーク・タイムズの社説も、保守派メディアのブライトバート・ニュースのコメンテーターも珍しく足並みをそろえている。
  「これはオバマ時代の規制の中で存続すべき非常に数少ないものの1つだ」と、ブライトバートのコメンテーターは28日夜に書いた。
     (CNN.co.jp 2017/03/30 15:35)

 

 私が大政翼賛的風土の中に生きる日本人の一人であるからであろうか? 米国のゴリゴリの保守派メディアが個人情報の保護の必要を主張する姿に、正直なところ、どこか意表を突かれた気分である。

 

 

 不法移民をめぐる「聖域都市」への補助金撤廃もまたトランプ大統領の重要な政策だと思われるが、トランプ派であるはずの警察官組織から懸念を表明されてしまっている。

 

  全米最大の警察団体である警察友愛会のジム・パスコ事務局長は28日、ホワイトハウスでトランプ米大統領と会合し、不法移民に寛容な「聖域都市」への連邦補助金の交付を停止した場合、公共の安全を危険にさらす可能性があると警告した。会合後に、ロイターに明らかにした。
  同友愛会は、2016年の大統領選におけるトランプ氏の最大の支援団体。パスコ氏によると、ペンス副大統領やセッションズ氏も会合に同席したという。
  パスコ氏は、警察友愛会は聖域都市への政策を支持しないが、補助金停止によって、そうした地域の警察当局が影響を受ける可能性があるとの幹部の懸念を伝達。トランプ氏は、公共の安全に影響が出ないよう友愛会と協力していく姿勢を示したという。
     (ロイター 2017/03/29 14:22)

 

 警察友愛会は「聖域都市」の政策を支持するわけではないが、連邦補助金交付の停止が「公共の安全を危険にさらす可能性」につながることを「警告」したというのだ。行政の執行者としてのリアリズムと言うべきであろうか。

 

 

 軍事についても、プロフェッショナルとしての軍人のリアリズムは、トランプ政権の政策への懸念を表明している。

 

  退役した米軍の大将や中将が21日、トランプ政権が示す国務省の予算の大幅削減を阻止するためにワシントンに集まり、議員らの説得に動いた。
  トランプ政権は2018会計年度(2017年10月~18年9月)の予算案で、軍事費を540億ドル(約6兆円)増やす一方、国務省の予算を110億ドル削減しようとしている。前年度比28.7%に及ぶこの減額では援助や開発基金が主な対象となっている。
  04~07年にイラクで指揮官を務めたジョージ・ケーシー退役陸軍大将は、外交、援助、開発への投資を減らすことは究極的には米国をより安全でない状態に追いやることになるとの見解を示す。
  「これを単にいいことだと考えないことが重要だ」「(外交は)国家の安全保障政策上の重要なツールだ」
  ケーシー氏は07~11年、アフガニスタンでも陸軍参謀総長の任に就いた。「我々はイスラム過激派との長期に渡るイデオロギー上の戦いにあり、こうしたグループを生む不安定さが我々の敵だと考えるようになった」「豊かさをはぐくみ、自国を守る能力を高めることが安定につながる」とケーシー氏は述べる。

  ケーシー氏や他の退役将校は開発や外交が軍隊の仕事を減らしてくれると指摘する。現国防長官のジェームズ・マティス氏も過去に同様の見解を示している。
  ケーシー氏はまた、「軍隊にとっても最も難しいのは、軍事的手段では解決できないことへの対処に迫られることだ」との認識も示す。
  「もし軍人として9・11(米同時多発テロ)以降に何かを学んだのだとしたら、それは我々が現在直面している課題は純粋な軍事的解決策に必ずしも適さないということだ」「軍事も、外交も、開発も必要とする――これが教訓だ。今日成功するにはその全てが必要だ」
      (CNN.co.jp 2017/03/22 18:02)

 

  元米中央情報局(CIA)長官のペトレアス退役陸軍大将ら米軍の元高官ら121人が27日、上下両院の与野党指導部に宛てた書簡で、外交や開発援助向けの予算確保を要望した。
  ロイター通信が報じた。トランプ大統領が表明した国防費増額のあおりで、非軍事部門の予算が大幅に削られれば、むしろ米国の安全を損なうと警鐘を鳴らしている。
  書簡は過激派組織「イスラム国」(IS)やエボラ出血熱を例に挙げ、「われわれは軍での経験から、国家が直面する危機の多くが軍事力だけでは解決できないことを知っている」と指摘。紛争を防止し、現場の兵士を危険にさらす必要性を低くするために「国務省や米国際開発局(USAID)などは極めて重要だ」と主張した。
     (時事通信 2017/02/28 14:59)

 

 トランプ政権が陥りつつあると見做されている外交の軽視は軍人の利益にも反するという主張であるが、日本の「保守」を自称する人々にも深く理解して欲しい話である(もちろん、サヨクの皆さんにも―プロフェッショナルとしての軍人のリアリズムというものを)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2017/03/30 20:54 → http://www.freeml.com/bl/316274/301148/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«「安倍晋三記念小学校」をめぐる首相閣下vs辻元清美先生対決